東松浦郡史
「唐津松浦潟」のネット化に成功した後、各方面から反響があった。
平成18年7月25日、唐津松浦潟の著者、松代松太郎の孫という方から突然のメールを頂いた。そしてこの「東松浦郡史」の存在を知った。7月27日ご本人からお電話を頂き、昭和30年頃、常安弘通氏が再版の為に桜馬場の松代家を訪れたことを覚えていらっしゃった。「唐津松浦潟」のネット化に対しては感謝されていて、更にこの「東松浦郡史」のそれも快諾頂いた。
早速古書を手に入れ、再びこのネット化に着手する運びと相成った。

著作権云々で問題があればご遠慮なくご指摘頂きたい。 

           平成18年7月31日  管理人 吉冨 寛
平成18年10月11日完成

「末盧国」昭和48年12月20日より
東松浦郡史  復刻版新装
 松代松太郎翁

 郷土史研究の先駆者として唐津・松浦地区にその人ありしと回想される松代松太郎は東松浦郡名護屋村字古里で、父松代嘉太郎、母同マツの二男として明治七年二月に生れた。生家は油類の製造販売を家業とし、食用油の原料菜種子を壱州、対州方面から仕入れて自家製造したほか近隣部落に対して油の小売までもした。屋号を松代屋といっていた。名護屋尋常小学を卒えると呼子の高等小学校に進み、更に唐津中学校の前身・大成校に一時入学して勉強した。両親嘉太郎夫妻は無学であったにもかかわらず、六人の子女を渡船で呼子まで通学せしめたというから時代意識の高い人だったにちがいない。
その頃、佐賀に県立尋常師範学校が開校され、県下各地より選抜されて入学したものの中に、唐津からは丸山金治、中村要蔵。鏡村から小松謙吉。鹿島町から福岡イクがいた。いずれも明治二十九年に卒業したが、松代松太郎の卒業成績は優秀で二番だったと、よく子供たちに自慢話をしていたという。卒業と同時に佐志村の黒崎尋常高等小学校の訓導兼校長に就任したが、前記福岡イクも同校の訓導に就任、ここで両人は結婚している。明治三十二、三年頃のことである。松代松太郎は向学心を駆って上京を志し、妻イクを黒崎校に残し東京歴史伝習所に学んだ。歴史と地理を専攻のうえ文部省の中等教員検定試験に合格して帰郷した。唐津中学校に歴史地理の教諭として就任したのは明治三十九年、大正九年まで十五年間の長期間同校の教壇に立っているが「東松浦郡史」の第一回の出版は大正四年であるから、中学校の先生時代の労作といえる。當時、学問的に郷土史の調査に手をつける何人もいなかった。松代松太郎は学校勤務の余暇を専らこれに當て、資料蒐集のため郡内あちこちの部落を遍歴しては旧家を訪ね、また神社、仏閣の由緒を丹念に調査して廻った。たまたま當時代に生田徳太郎が中学校長であり、生田校長は松代松太郎の郷土史勉強を高く評価して激励し続けた。蒐集した郷土資料の整理を完了して出版の運びとなるまでには、唐津大手口の書店木下愛文堂店主木下吉六、魚屋町住の事業家岸川善太郎たちを筆頭に眤懇の先輩知人多数がいて後援の音頭をとり、東松浦郡教育會が編纂発行人となった。東松浦郡史が世に出ると他の郷土史研究家たちから辛らつな批判を浴せられはしたが、松代松太郎は性来の寡黙を堅持して意に介せず「無より有を生み出した」ほこりを独り痛感していた。

 松代松太郎は唐津中学校を退任して大正十年県立長崎中学校に転任して二年間、今度は県立佐賀高等女学校に転任して昭和八年まで在勤した。ここで定年退職を迎えているが、長崎、佐賀の各高等女学校勤務は本人の意志に基づくものであったかどうかは知る由もない。その後、戦時中の教員不足のために、昭和十七年から若干期間を唐津中学校に、また唐津高等女学校でも教鞭をとり、同二十年十月三十日退職という辞令が残っている。松代松太郎は唐津中学校に勤務するようになって住居を佐志から唐津町桜馬場に移して晩年に至るまで定住した。文字通り晴耕雨読に終始したようであるが、その間にも「唐津古寺遍歴」と題する著述を公刊するほどの勉強家であった。八十歳の高齢に達すると漢詩作りに没頭し、日記を漢詩綴りで書き、辞書と首つ曳きの日常を送った。往年の頑固親爺も、晩年は幾分やわらいだようだったが、世俗の煩鎖からは殊更に逃避した。老衰のため昭和三十三年十一月二十六日、八十六歳の天寿を完うした。
 妻、松代イクは鹿島の旧家福岡家の出であるが、夫松太郎とともに佐志黒崎尋常小学校に勤務のあと、明治四十年四月創立された唐津町立唐津女学校の助教諭に抜擢され、四十一年同校が町立唐津高等女学校に昇格とともに教諭に任ぜられ、更に県立唐津高等女学校に引つづいて教鞭を執った。大正十二年九月十五日退任後は家庭にあって茶道に精進し、後進の指導に當った。茶道宗偏流の准師範代として同流の興隆に寄与した。昭和三十六年四月十九日、八十八歳で永眠。

 東松浦郡史の複刻版は東京の名著出版社から本年九月末刊行されたが、これは大正四年東松浦郡教育會から公刊したものでなく、大正十四年に育英財団久敬社が刊行した改訂増補版の復刻。松代松太郎の著述は郡史のほかまだある。
 ▽唐津松浦潟=昭和二年唐津木下愛文堂刊
 ▽賢君寺沢志摩守=昭和十一年福岡金文堂刊
 ▽郷土唐津=昭和十二年唐津市教育會刊
 ▽唐津古寺遍歴=昭和二十九年久敬社唐津本部刊
 ▽未定稿に「これが一生」と「名護屋陣中の豊公」など


これより東松浦郡史
巻頭の書・写真

國幣中社田島神社
玉島神社(社前の流れは玉島川)
濱崎諏訪神社
瑞鳳山近松寺の山門は名護屋城大手門を移したるもの
豊太閤名護屋城址
唐津城址と松浦川口にして共に志摩守が
築造又は開鑿開鑿せしところ
唐津公園より眺めし鏡山にして神功皇后寶鏡を
捧げしと云はれし山にて佐用姫の事蹟を存す
虹ノ松原はもと志摩守が防風林として植付けし所と傳ふ






凡  例
一、本書は大正四年、余が本郡教育曾の依頼により執筆したるものを本とし、茲に修訂増補したるものである。
一、編纂の體に至りては、往々史料を羅列して短評を試むるに止めたるは、見る人をして其の間に随意の判断を乞ふに便ならしめんがためである。
一、年代は逆算年代を用ふるを便とするが如くなるも、そは出版當時のみの便に過ぎざれば、主として普通紀元を用ふ。今年は皇紀二千五百八十二年である。
一、引用書目は、書紀、古事記、肥前風土記、吾妻鏡、朝野群載、扶桑略記、尊卑分脈.和名抄、 海東諸国記、古事類淵、太宰管内誌、伏敵編、大日本史、野史、藩翰譜、太閤記、外藩通書、 松浦記集成、松浦風土記、松浦古事記、積慶録、小笠原家文書、其の他雑書及び諸家の文書等 にして其の要点を抄摘記述せるものである。
 維新後の史料は記録少ければ、先輩有識の人士につきて聴き得たるものを録す。殊に唐津炭田 沿革資料につきては原孝徳氏の労多大なり。
一、本書出版は掛下重次郎氏の清囑に據るものにて、刊行一切の事全く氏の管掌するところである。東京及び唐津に之が為に委員を置かれ、殊に東都の委員諸氏は度々刊行事務所久敬社内に會合し、萬般の労を取られたり。記して深甚の謝意を表す。
   大正十一年八月       著 者 識



修訂増補 東松浦郡史

                            松代松太郎著

第一章 
肥前国名の起原

 第四十三代元明天皇は奈良朝始めの天皇であるが、和銅六年五月天皇詔らせられて、幾内七道諸国郡郷の名は好字を選ばしめ、其の郡郷に産する所の銀銅の礦物より草木禽獣魚蟲に至るまで、具に種別を詳記し、且つ土地の肥瘠、山川原野の名称遺跡、また古老の相傳舊聞異事等、細大漏すことなく史籍に載せて具秦せしめられた、これ即ち風土記であって、逐次に諸国より奉獻したものである。其の現存するものは常陸・播磨・出雲・豊後・肥前の五ヶ国の風土記のみで、実に重寶なる史乗である。
 肥前風土記に載収するものを見るに、肥前ノ国はもと肥後ノ国と合して一国であった。往昔第十代崇神天皇の御宇に肥後国益城(マシキ)郡朝雄名(アサクナ)峯に.土蜘蛛打猴(ウチサル)、頸猴(ウナサル)二人のものがあつて徒衆一百八十余人を師ゐて、良民を脅かし皇命に捍ひて地方を乱せしゆゑ、朝廷勅して、肥ノ君等が祖健緒組(タケヲクミ)を遣りてこれを討伐せしめられしが、賊徒誅滅してのち、国内を巡りて民情を観察し、八代郡白髪山に到りたるに、日既に暮れはてたれば山中に露営を張った。然るに其の夜虚空に閃々たる火光見えしが、縹々として自然に降りてこの山に落ちしが恰も燎火(カゞリビ)のやうであつた。健緒組驚き怪みてことの次第を朝廷に具して、臣辱くも聖命を奉じて、遠く西戎を討って梟賊を誅戮せしは、一に稜威(ミイヅ)によるものなることを奏し、また燎火降下の異事をも詳しく聞え上げければ、天皇勅して宣はく、奏聞するところのことは未だ曾て聞かざるところである、火の降れる国なればこれより火ノ国と謂ふべしとて、如ち健緒組が勳功を賞して火ノ君健緒純の名を賜ひ、頓てこの国に遣はして治めしめられた。
 また第十二代景行天臭熊襲を誅して、筑紫ノ国を巡視して葦_北火_流ノ浦(日奈久か)より放出して火ノ国に幸す。海を渡るに日没して夜冥く方途明かならず、忽ち火光ありて遙に行く手を視る、天皇舟人に勅して直ちに火処を指さしむ、果して崖に着くことを得た。天皇宣はく、何と謂へる邑ぞ.国人奏してこの処は火ノ國八代郡火ノ邑なりと、但し火のよって起る故を知らず、天皇群臣に向ひて、その燎は人の火にあらず、火ノ国と號くる所以は今其の由を知ることを待たりと、喜びける。
 第四十四代元正天皇の養老四年五月の撰なる日本書紀には、景行天皇十八年五月壬辰朔、葦北より船を発し火ノ国に到る、是に於て日没し夜冥くして岸に着くところを知らず、遙に火光を視る天皇宣はく何れの邑なるぞ、国人対へて曰く、これ八代縣(アガタ)豊ノ村なりと、また其の火処を尋ねて何人の火在るぞと、然るに遂に其の主を得ず、こゝにおいて其の人火に非ざるを知る、故に其の国を名づけて火ノ国と謂ふと云へり。
 風土記、書紀共に同時代の作である、其の謂ふところも亦略類似す。抑々九州は皇国発祥の地なるも、神武天皇東征後は国家創造の際で、容易に皇威遐陬に及ぶの暇がない。それで九州の地では、南に熊襲、北には今の筑前沿岸地方に、後漢書、魏志に見る如く委奴(イド)国以下幾多の豪族割拠の状を呈した、されど火ノ国なる国號の如きものを見ざりしが、景行天皇西征の挙あるに及び西陬の地漸く王化に霑ひて秩序ある境土となり、天皇巡狩の跡多くの事蹟を残してゐる、火ノ国の名の如きも、確かにこの頃よりの称なること疑ふまでもなきことである。
 火ノ国は後に前後二国に分立した、然るに火の字に更ふるに肥の字を以てせるは、本居宣長も曰へる如く、元明天皇和銅四年の詔に、諸国郡郷の名は好字を用ひしめしかば(前出)、この時よりなるべしと。さもあるべきことである。



第二章

 
松浦郡の名称
                                            
 風土記に、昔、気長足姫尊(オキナガタラシヒメミコト)新羅を征伐せんと欲し、この郡に到りて、玉島ノ里小河の側に御食(ミケ)し給ふや、皇后針を勾げで鈎を為りて、飯粒を取りで餌となし、裳(モスソ)ノ糸を抽きとりて*(ツリイト)となし、河中の石上に登りて鈎を投じ祈りて宣はく、朕西方に財(タカラ)の国を求めんと欲す、若し事成り凱歌を奏することを得ば、河魚鈎を呑めと、しばらくにして竿を挙げ給ひしに細鱗魚(アユ)を獲させられた。時に皇后宣ひて希見物(メヅラシキモノ)梅豆羅志なりと。因て時人其処を號けて梅豆羅(メヅラ)ノ国と云ひ、今訛りて松浦ノ郡と日ふ。
                                                  是を以て其の国の婦人、四月上旬に至るごとに、鈎を河に投じて年魚(アユ)を捕ふ云々と。書記にも全く同様に記されてゐる。
 延喜民部式に、肥前国は基肄、養父、三根、神崎、佐嘉、小城、松浦、杵島、藤津、彼杵、高来を管すと、之に依りて見れば、肥前ノ国は、平安朝の初期頃約一〇〇〇年前には、松浦の外に十郡を管治せることが分る。
 古事記、国造本紀及び漢土の書にて図書編等には、末羅とし、魏志には末盧、武備志には馬子喇とも書してゐる。こゝに年代の上より事の齟齬するは、国造本紀に末羅国造、志賀高穴穂ノ朝ノ御世、穂積ノ臣ノ同祖大水口(オオミナクチ)ノ足尼ノ孫矢田稲吉定賜国造と、志賀高穴穂朝は第十三代成務天皇の御代である。然るに気長足姫即ち神功皇后は、第十内代仲哀天皇の皇后である。されば皇后の事蹟は成務天皇の末羅ノ国造を置きし後であれば、マツラなる名称が果して皇后の事蹟によりて起因せしものなるか、はたまた成務天皇の国造設置の時であるか、或は其の以前よりの名称であったか、余は末だ之が判断に窮するものであるが、されど恐らく前二説の音なるか、或は其の時代を去ること遠からざりし頃からの名称ならん、両書共に後世の作なればこの錯誤を生じたのであらう。

第三章 

国造政治時代
国造本紀によれば、火ノ国造=瑞籬(ミヅガイ)ノ朝崇神大分(キタ)ノ国造ノ同祖、志貴多奈彦(シイタナヒコ)ノ命ノ兒、遅男江(チヲエ)ノ命ヲ定メ賜フ国造ニ。また末羅ノ国造=志賀高穴穂ノ朝御世成務穂積ノ臣ノ同祖大水口ノ足尼ノ孫矢田ノ稲吉ヲ定賜フ国造ニ。葛津立(フヂツタチ)ノ国造藤津=志賀高穴穂ノ朝ノ御世、紀ノ直(アタヒ)ノ同祖大名草彦命ノ兒、若彦ノ命ヲ定メ賜国造とす。
 これ我が肥前(肥後をも含む)と、松浦地方に於ける地方官補任の嚆矢である。抑々国造は神武天皇即位二年、珍彦(ウヅヒコ)を倭(ヤマト)ノ国造に、劔根をば葛城(カツラギ)ノ国造と定められた、実に我国最初の官職である(中臣、齋部の如きは職名であって官名でない) 此の後次第に其の補任があって、しかして其の職を子々孫々世襲することが、恰も後世の大小名の制に似てゐる。
 第三十六代孝徳天皇郡県の制を布き給ひ、かやうの族制政治を廃し新に国司郡司を補任せらるゝや、其の郡司には従来の国造及び其の子孫中資性よく事務に堪ふるものを挙げて、大領小領に任じた。(大領小領共に郡の長官であっての大小によりて其差がある)こゝに国造は制度上全く廃絶に帰するに至つたけれども、国造なるものは依然として存し、これ等は其の国の神事を掌り、朝廷よりは国造田なる扶持の給與を受けて居たが、平安朝に入りて次第に衰へ、たゞ後世に及びたるは、出雲ノ国造千家、北島、紀伊国造紀氏、阿蘇ノ国造阿蘇氏、尾張ノ国造千秋氏のみなりと云ふのである。

 次に国造増置の略表を掲げて参照に供しやう。

国造設置の時代 国数
第一代  神武天皇
第十代  崇神天皇 一一
第十二代 景行天皇
第十三代 成務天皇 六三
第十四代 仲哀天皇
第十五代 応神天皇 二一
第十六代 仁徳天皇
第十八代 反正天皇
第十九代 允恭天皇
第二十一代 雄略天皇
第二十六代 継体天皇
未 詳 一〇
合   計 一三六



 常時我が松浦地方に関する史談の散見するものを抄出すべし、されど主としで、今の東松浦郡及び其の附近に起りたることをのみ記すであらう、以下総て之に做ふものである。

  一 海松橿媛(ミルカシヒメ)

 昔、郡の西北に土蜘蛛なる賊があって、名を海松橿媛と云って凶暴の振舞が多かった。偶々景行天皇が熊襲征伐の途次火ノ国地方を巡狩せさせられた時、陪従の臣大田屋子を遣はして誅滅せしめられたが、其の時霞四方に立ち罩めて物のあやめもわかざる程であった、是より其地を名づけて霞ノ里と曰ひ、後泄訛りて賀周(カス)ノ里と云へりと、風土記に見えて居る。今の唐津村見借(ミルカシ)の地がそれである。書紀には、景行天皇十二年紀元七四二筑紫の賊が叛いたので、親征して之む討伐し給ひ、十八年都に凱旋し給ふにあたり。三月筑紫ノ国を巡狩して、始めて夷守(ヒナモリ)(日向国諸県郡内)に到らせ、四月熊ノ縣(肥後国球磨郡)に到りて弟熊を誅し、同月海路より葦北に出で、五月葦北より火ノ国八代縣豊ノ村に着き給ひ、六月高来郡(肥前国高来郡)より、玉杵名邑(肥後国玉名郡)に渡らせ土蜘蛛津頬(ツツラ)を誅し、それより阿蘇(肥後国内)に到り、七月筑紫の後国(ミチノシリ)(筑後)御木(みけ)に幸し高田行宮(三池郡)に入らせ給ひ、次ぎて八女ノ縣(筑後上妻下妻二郡)より、八月的(イクハ)ノ邑(筑後国生葉郡)を経て、十九年都に還幸し給ふとの、記事がある。


 この書紀の記事は正史に現はれたる史談である、されど天皇西征の頃は文字の記録すべきものなく、後世の記述にかゝるものなれば、正史たりとて史実の脱漏誤記なき能はず、それで風土記の録するところが却って地方の事情を明にする点も鮮くないから、天皇巡狩の跡も正史の傳ふる外に多少の事蹟も存するのである。また親しく其の地に足跡を残し給ふ外に、特に陪従の臣属を遣りて士賊を討ち、庶民を安堵せしめられしこともあるであらう。されば天皇御巡国に際し、一隊の軍兵を派して、松浦半島の一角に蟠居して民衆を害ふ梟賊に討伐を加へられしこと風土記に載するところ全く否定すべからざることである。


  二 神功皇后

                           
 書紀第九巻神功皇后の條を略記すれば、皇后は第九代開化天皇の曾孫気長宿禰(オキナガスクネ)王の女にて、母を葛城ノ高額(タカヌカ)媛とまうし、仲哀天皇の二年立ちて皇后とならせられた。幼にして聡明叡智容貌壮麗であれば、父王これを異み給ふたほどである。皇后天皇に従ひ筑紫に居らせられたが、八年九月群臣に詔して熊襲征伐の軍議を開かせられた、時に皇后神託を得て、熊襲の服せざるは新羅の後援あるが故なれば、先づこれを討たば熊襲は自ラ服従するであらうと、天皇之を聴き給はずして熊襲を撃ちて、勝たずして九年二月橿日宮に崩じ給ふた。皇后は天皇の神教に徒はずして早く崩じたまひしを傷み、更に斎宮を小山田邑(橿日の近地山田郷)に造って、三月、武内宿禰、中臣烏賊津(イカツ)をして神を祭らしめ、新に神託を請ひて、然る後古備臣ノ祖鴨別をして、熊襲を撃たしめられたが、久からずして征定せられた。
  
 荷持(ノトリ)田村に羽白熊鷲なるものがある、人となり強健勇武にして皇命に従はず、毎に人民を盗略して危害を加ふることが度々である。そこで皇后羽白熊鷲を撃たんとて、橿日宮より竃山(宝満山)の麓である松ノ峡(チ)ノ宮に遷らせられた、時に瓢風忽然として起りて御笠飛揚して地に墜ちしが故に、時人其の処を號けて御笠(御笠郡今筑紫郡内)と曰ふに至った。次で層増岐(ソソギ)野(雷山麓)に至りて、土賊羽白熊鷲を撃ちて滅ぼし、左右に宣ひて熊鷲を得て我が心安しと、因って其の処を號けて安(ヤス)(夜須郡)と名づく。転じて山門(ヤマト)ノ縣(筑後)に至りて土蜘蛛田油津(タブラツ)媛を誅戮せられた。
 夏四月壬寅朔甲辰、北ノ方火ノ前ノ国松浦縣に到りて、玉島河に*(イトヘンニ昏)を垂れ給ひて征韓の挙を卜し給ひ(今は垂綸の石は、河中に埋没す)、皇后其の神教の験あることを識しめされてより、橿日ノ浦に詣りて、髪を解き海に臨みて、吾神祇の教を受け、皇祖の霊に頼り、滄海を渡りて躬ヲ西を征せんと欲す、これを以て今頭を海水に濮(ソソ)ぐ、若し験あらば髪自ヲ分れて両つとなれと、即ち髪を海に洗ぎ給へば髪自ラ両分す、皇后便ち分髪を上げ結ひて髻(ミヅラ)となし、男装して士気を鼓舞し給ひ、特に海神底筒男(ソコツツヲ)、中筒男、表(ウハ)筒男の三神を船に祭り、秋九月諸国をして船舶を集め兵を練り、吾瓮(アベ)(糟屋郡相ノ島か)の海人、磯鹿(同郡志賀島)の海人をして海路を偵察せしめられた。適々皇后懐胎の御身なりしかば、石を取りて腰に挿み神に祈りて事竟り還りて、この土に産まんと、其の石今恰土ノ縣の道の邊(糸島郡深江附近の海岸)に存してゐる。そこで荒魂(アラタマ)を祝ぎ於きて軍の先鋒となし、和魂(ニギタマ)を請ふて王船の鎮めとなさせらる。冬十月和珥(ワニ)ノ津(対馬上県郡)より発し給ふたが、順風孕帆艫楫を労せずして新羅に着せらる、王は其の軍旅の威容に恐れ戦慄してなすところを知らず、面縛叩頭して出で降り、天長地久我が飼部(ミムマカヒ)となり、船柁を乾さずして毎年貢献を怠ることをなさじと、又重ねで誓を立て、東に出づる日更に西より出づるも、阿利那礼河の水逆流するとも、河石昇りて星辰となるとも、春秋の貢献は怠らざるべしと、困って皇后は杖つける所の矛を新羅王宮の門側に樹てゝ、以て後葉の證左となさせられた。
 新羅王波沙寝錦(ハザムキン)(王名につき異説あり)は、微叱巳知波珍干岐(ミシコチハトリカムキ)を以て質となし、金銀綾羅*(イトヘンニ兼)絹を奉り・八十船に載せて官軍に従はしめた。これを以て新羅王其の後八十船の調貢を奉るを例となす。因って内宮家(ウチツミヤケ)を定め、大矢田宿禰に留めてこの国を監せしめられた。皇后筑紫に凱旋して、十二月誉田(ホムダ)天皇(応神天皇)を御出生し給ふ、時人其の産処を號けて宇瀰(筑前粕屋郡宇美)と云ふ。皇后群臣を率ゐて穴門(長門)の豊浦宮に移り、先帝の喪を収めて海路より京畿に向はせ給ひ、*(鹿の下に弓耳)阪(カゴサカ)、忍熊(オシクマ)二王(皇后の異腹子)の乱を平げ、應神天皇の攝政たること六十九年、壽一百歳、四月十七日崩じ給ひ、十月狭城(サキ)ノ盾列(タテナミ)ノ陵に葬り奉った。
 皇后は、羽白熊鷺を層増岐野に撃ち給ひしが、今筑前糸島郡肥前小城郡に跨る雷山は、別称層増岐山といひて、往昔士賊の據り籠つたところで今に山上山尾の層増岐野に皇后の遺趾が多い。それより師を反して山門ノ県に田油津媛を誅し、再び火ノ前国松浦縣に到り給ふた。雷山即ち層増岐山の西麓は、今東松浦郡七山村である。玉島村はなほ其の西隣に接続すれば、皇后の松浦縣に入り給ひしは、地理明なるこの山間の険路を犯して、玉島川の畔に出で給ひしものなることを察することが出来る。また皇后巡狩の址には、或は御笠、或は安、或は梅豆羅、或は恰土県の遺跡(糸島海辺に存する皇后の腹帯石)などの史跡何れも正史に記載してゐる。然るに肥前風士記には、逢鹿(アフカ)驛(今の湊村字相賀)は昔、気長足姫尊新羅を征伐せんと欲して出でます折から、此の道筋にて鹿あり、これに遇ひ給ふ因りて逢鹿驛と名づく。また登望(トモ)驛(今の呼子村字大友、小友)は、昔、気長足姫尊此処に到り、留まりて男装をなし給ひ、御臂の鞆(トモ)をこゝに落し給ひしより鞆驛と名づくと。
 東松浦郡湊村八阪神社縁起の中に、湊浦は往昔鰐(ワニ)ノ浦といひ、神功皇后三韓征伐の時軍船を数多碇繋せられしより、湊の称をなすと傳ふ。
 同村字神集(カシハ)島住吉神社縁起に、本社はもと弓張山に鎮座のところ、元禄七年同島宮崎に遷座せり、本殿は神功皇后三韓征伐の時数日間御滞留あらせられ、諸神を神集めし給ひ、干珠満珠の二宝を納められし神社なり、この故を以て神集島といふと。
 同村大字屋形石字土器(カハラケ)崎の土器神社記に、気長足姫尊三韓征伐の時戦勝を祈り、土器に酒を注ぎ海神を祭り給ひし所とて、後世小殿を建立して、気長足姫を祀り土器神社と称すと.
 同郡鏡村鏡神社一ノ宮縁記中の一節に、九月九日の祭日は、肥前国松浦にて御鏡を納め給ひ、天神地祗に祈誓をなし給ふの日なり。今其の鏡大明神の霊地なり。此時天神地祗奇瑞を顕はし給ひ、異国降伏のしるしを得させ給ふにより、末世の今までも、九月九日の祭礼怠ることなし云々と。

 書紀古事記には、風土記以下地方相傳の傳説は、更に一つの記事さへ見なければ、これらの傳説は全く牽強附會の説となすべきか。書紀には十月和珥ノ津を発し給ふとするのみにて、これに註するもの和珥ノ津を對馬の和珥津とし、たゞ御発行前に吾瓮の海人磯鹿の海人をして海洋を探らしめられたのみである。これによりて察すれば、橿日ノ浦より直ちに對馬に御渡航ありし如くなるも、恰土郡に於ける腹帯石、松浦の玉島川の事蹟は既に同書の認容するところであって、共に唐津海岸の地である。曩に皇后松浦の地を訪ひ給ひしは、渡韓地の地形を察知せんがためであらう、さもなくて徒に玉島河に*糸昏を垂れて吉凶を判んぜんがための目的ではあるまい。且つ橿日浦にて、皇后髪を海に浸して両分し給へりと云へる紀の記事も不自然の感がある、寧ろ玉島河の清冽掬すべき淡き河中にて試み給ひたるこそ自然であらう。されば四月、皇后一旦松浦より橿日に還御ありて、軍旅を帥ゐて再び松浦沿岸を傳ひて、恰土郡に腹帯石のことあり、次で玉島河にて分髪吉凶卜定の儀あり、九月鏡町にての戦勝祈祷の挙あり、逢鹿、湊、神集島、土器崎、鞆と唐津湾岸を西北に辿りて對馬海峡の最狭地点たる鞆より、十月韓地に向はせられ壹岐對馬を経て、新羅に入り給ひしと考ふるは無理ならぬ推定と思ふ。また當時小形の艦船にて、冬季北風荒ぶ玄海を横ぎりて橿日浦より直航せんには、忽ち怒涛船腹を噛むの恐れがある、然るに松浦湾岸より加部島、加唐島、壹岐、封馬の大小の諸島を辿りて直北の韓土に向はゞ、恐るべぎ構浪を受くるの難を免るることができる。かやうに史談的記録より考察しても、実際の航路の安全より見るも、皇后の発船地は唐津湾岸よりせるものなりと断定するを至當とせん。

    玉島河につき詠める古歌
           
 萬葉集五巻に、、山上(ヤマノヘ)ノ憶良(オクラ)といへる人松浦の玉島河に遊びて、鮎つるあまをとめ子を見るに、花容をらびなく柳眉こびをなせば、誰が家の子ぞと云へど、答へざりしかば歌よみて遣はしたるに。
        
 あさりする蜑(アマ)の子どもと人いへど
       みるにしらへぬうま人の子を  憶 良

返し 玉島の此川上に家はあれど
       君をやさんみあらはさず有き    海人おとめ
                                   
 まつら川かはのせひかり鮎つると
       たらせるいもがもの裾(スソ)ぬれぬ 憶 良

返し 松浦河七瀬のよどによどむとも
       我はよどまず君をしまたん  海人をとめ


 憶良は筑前守たりし時松浦に遊びたるものにて、今より大約一千二百年許り前の人にて、神功皇后征韓の頃よりおうよそ五百年許り後也の人で、其の時代の歌聖柿本ノ人麻呂、山邊ノ赤人、大伴ノ家持(ヤカモチ)等と共に名を恣まゝにしたる歌人である。



三 島君(セマキシ) 百済の武寧王
 第二十一代雄略天皇の二年秋七月、百済の池津媛、天皇の寵召あらんとする時にあたり、石河ノ楯との間に淫行があつたので、天皇怒り給ひて、大伴ノ室屋大連に詔して、来目部(クメペ)に命じて男女の四肢を木に張り縛して、仮床の上に置きで燔殺せらる。超えて五年夏四月、百済の加須利君(盖鹵王)は池津媛の惨死の情を傳へきゝて惟へらく、女人を貢ぎて釆女(ウネメ)となすは禮でない、既に我が国名を失ふに至った、今後は決して女人を納るゝことあってはならぬとて、王弟軍君(コニキン)を諭して、汝よろしく日本に往きて、天皇につかへまつれと。軍君は君命を奉じて日本に行かん、願はくば上君の寵嬪を賜へと、加須利君これを納れて、孕婦を軍君に與へて孕婦既に産月である、若し渡航の途に分娩したらんには、何処に至るとも一船に載せて速に故国に送還せよとて確く約束して袂を分った。六月朔日、孕婦果して航途筑紫各羅(カカラ)島にて男兒を産む、仍で島君と名づけ、船を艤して島君を百済に送る・これ後の武寧王である。百済の人はこの島を呼んで主島(ニリムンマ)といった。秋七月軍君は無事京師に入り、天皇に奉仕し忠節を励み、家門栄え子女五人を設けた。
                        
 百済新撰に云へるに、辛丑ノ年、盖鹵王は弟*王昆硯支君(コニキシ)を遣りて大倭に向で天皇に奉侍せしめ、以て先王の好を修めしめたと。
 當時、百済、高句麗、新羅の三国を称して三韓と称へた、これ朝鮮はもと漢江を界として南北の二部に別れ、其の北部を朝鮮と云ひ、南部は三国鼎立して、馬韓は西にあり(今の忠清、全羅二道の地)辰韓は東にあり(今の慶尚道の東北部)辨韓は其の西南にあり(今の慶尚道の西南)これを三韓といったのである。後に国土の廃合ありたるも三韓の名称は我国人間に忘れられなかった。神功皇后の征韓以来、我国に貢献奉侍怠ることなく、中にも百済は他の二国が不信反復常なきと異なり、一意誠実を表して違ふことなきを期し、曩きには應神の朝阿直岐・王仁の如き儒者を貢し、百般の文物工芸を傳へ、後には欽明の御代仏教を傳来したるが如き、或は齋明天皇の頃には質子を送りて二心なきを誓ふなど、彼我の交通修好は敦厚であった。かやうに百済は時に或は釆女を貢つり、または学問芸術に勝れたる人物を送つたので、軍君の来朝も亦其の一である。
 各羅は今は加唐と書し名護屋村の内に属する一小島で、水産豊かに住民衣食に安んじ、壹岐を南に距ること四里、名護屋城址を北方に三里の海中に位置して、往昔三韓交通の航路に當れる一島にして、松浦古来略傳記に、加唐島の津守無足二人、足軽二人と見ゆ。萩野由之氏の大日本通史に、各羅島を筑前志摩郡韓良となすも、韓良は博多湾口の一地にして島をなさず、されば余は加唐島を以て各羅島と推定するを至當と思ふ。




  四 大伴狭手彦と佐用姫

 松浦といへば佐用姫を思ひ、佐用姫といへば松浦を聯想する程、彼は山紫水明の郷に麗はしき詩的物語りを遺せるが、今は諸書に散見する記事を抄出略叙して、彼の女と其の對手たる狭手彦の面影を窺ふであらう。

風土記に、鏡渡(カヾミノワタリ)は郡の北方にあり、昔、檜隈廬入野宮(ヒノクマイホリヌノミヤ)にしろしめす武少(タケヲ)廣国押楯(ヒロクニオシタテ)天皇の御宇に大伴狭手彦ノ連を遣りて、任那(ミマナ)ノ国を鎮め兼て百済ノ国を救はしむ。命を奉じてまかり下りて比の村に至る。即ち篠原(シヌハラ)村に嫂(ツマト)ひして弟日姫子(オトビヒメコ)と婚を成せり、容貌きらきらしく特に衆人に絶(スグ)れたり、分別の日に鏡を取りて婦に與ふ、婦悲に堪へず涕泣して栗川(今の松浦川)を渡るに、與ふるところの鏡の緒絶えて川に沈めり、困りて鏡ノ渡と名づく。
                
 また褶振峰(ヒレフルミネ)は郡の東にあり、大伴狭手彦連(サテヒコムラジ)船を発して任那に渡るとき、弟日姫子こゝに登りて褶を以て振り招きたれば、褶振峰と名づく。然るに弟日姫狭手彦連と相分れて、五日の後人ありて夜毎に来り寝に入り、暁に至れば早起して帰る、容姿狭手彦連に酷似す、婦怪みにたえず竊かに績麻(ウミヲ)を以て、其の人の襴(スソ)にかけ、麻のまにまに其の往くところを尋ねて、この峰の頂の沼の邊に到りたるに、寝ねたる蛇(オロチ)あり、身は人にして沼底に沈めり、頭は蛇にて沼堤に臥せり、忽ち人と化(ナ)りて即ち歌ひて曰く、
   
志努波羅能(シヌハラノ:篠原) 意登比賣能古表(オトヒメノコヲ:弟姫子) 佐比登由母(サヒトユモ:眞一夜) 為弥弖牟志太夜(ヰネテムシタヤ:率寝時節) 伊幣爾久太佐牟(イヘニクダサム:家将下)

 時に弟目姫子の従(トモ)の女走りて、事の次第を親族に告ぐ、即ち衆人を発(ヤ)りてこれを看るに、蛇と弟日姫子ともに亡せてあらず、ここに其の沼底を見るにただ人の屍あり、各々弟日姫の骨と謂ふ。即ち此の峰の南に墓を造りて納め置く、其の墓今にあり。書紀には、第二十八代宣化天皇の二年十月壬辰朔、天皇は新羅が任那に寇するを以て、大伴金村ノ大連に詔して、其の子磐(イハ)と狭手彦とをやりて、以て任那を助く、この時磐は筑紫に畏まりて其の国政を執り、以て三韓に備へ、狭手彦は往きて任那を鎮めかつ百済を救ふ。また第二十九代欽明天皇記に、二十三年八月天皇大将軍大伴連狭手彦を遣り、兵数を領せしめて高句麗を伐つ、狭手彦乃ち百済の計を用ひて高勾麗を破る、其の王、墻を踰えて逃る、狭手彦勝に乗じて宮殿に入り、盡く珍宝貨賂七織帳(ナヽヘノオリモノ)、*屋(トバリ)を得て還り来る(*屋は高麗城の西の高楼上にあり織帷は高麗王の内寝に張れり)

十訓抄には、我国の松浦佐夜姫といふは、大伴狭手九が妻なり、男、帝の御使に唐土へ渡るに、捨時なりし故、松浦より唐土に帰りしが、二僧は川上ノ里に観世音一体を彫刻し、また傳登嶽にて追善をなし、卒都婆を建て帰りぬ、其の後一宇を建立して、天台宗傳登山惠探寺と號す、後世この寺廃絶したるを再建して龍雲寺と云へり、これ佐用姫の菩提寺なりと云ふ。
 第四十五代聖武天皇神龜四年、貞女佐用姫の霊石と化せるを、萬代の亀鑑ともなるべしとて、神祇に祀らしめ、田島神社の末社となし奉りぬ。
按ずるに、佐用姫の記傳は奇異の傳説を以て彩粉せられたる、一種の話題であらう。されど狭手彦が勅命を奉じて韓半島に渡航せしことは正史に既に明なることで、其の渡韓の途を唐津湾頭に取りしことは、地理が実際を証明して居る、また松浦の地にて佐用姫と婚媾せしことも事実であらう、或は姫を都人とするは信ずるに足らない。姫が別離に臨みて山上に登挙して新夫を追慕せしことは、人情の然るべきことにて事実であらう、今日にても、山村僻邑にては、親信有縁の人の別離には、之を郊外に送りて地の利に據りて惜別の情を盡すのである。其の他神変不可思議の説話は、唯其の女性の濃厚なる情愛を審美的詩的に形容粉装せるものに過ぎないのである。
 さて篠原村の所在に就きては、柳園随筆などには、鏡村字梶原地方と推断するが如くなるも、これ或は姫の従女が山上より馳せ降りて、事の急なるを人々に報じ、直ちに衆人を催がして登攀せし様より考ふるときは、山密をる梶原を篠原と考ふるも誤りをさが如くなるも、招底に残存する白骨を見て姫の革骸なりといひねる鮎より寮すれば、山麓より登攣して直ちに発見したるものとするは、余りに不合理である、この間多少の日子を費したるや明である。然るに姫は曩に鏡ノ渡即ち粟川(松浦川)を渡って居る。されば姫は梶原以外の地より夫を追ひ鏡山に登り、船影を没したれば田島神社縁記に云へるが如く、更に追跡して北方四里の加部島傳登嶽に到りて、愛惜の情に堪へずして悶死したのではなからうか。今郡の東南隅巌木村(キウラアギムラ)字笹原(ササバル)には長者屋敷(佐用姫の生家長者の屋敷跡)の古跡がある、篠原(シヌハラ)は笹原(サゝハル)と訓みを同うすれば、いつの世よりか篠原を笹原と称するに至りしものであらう。且つ地理上より寮するも、狭手彦は今の筑前より肥前に入り天山南麓を辿り、肥前の国府(佐賀市の北郊)を経て、篠原村に入り松浦河畔を北に唐津湾頭に出でしものであらう。されば余は篠原は梶原にあらずして、飽くまで笹原と信ずるものである。
 加部島の望夫石の故事は、漢土に存する傳説を附會したものであらう。袖下抄、田島神社縁記の外には、古書に散見せないやうである、且つ風土記の如く色彩多き書にも之を見ざるは、恐らく後世の作話に過ぎないものであらう。

    佐用姫を詠める古歌
 遠津人まつらさよ姫つま恋に
     ひれふりしよりあへる山の名   「萬葉集」 山上憶良
                 
 山の名といひつげとかも狭(サ)夜姫が
     此山のへにひれをふりけん    「萬葉集」 後人の追加


 海ばらや沖ゆく舟とかへれとか
         ひれふらしけんまつらさよ姫     同
 
 まつらがたさよ姫のこがひれふりし
         山の名のみや聞つゝをらん      同
 
 鰭ふりし昔の人の面影も
         うつる鏡の山の端の月        定家
 
 蝉の羽の衣に風を松浦潟
          比禮振山の夕涼しも         細川幽齊


 第四章

 国司政治時代


 族制政治は孝徳天皇の朝に至りて廃絶して、新に国司制度なる局面は開展せられた。抑々国司なる官職の史上に見えたるは、第十六代仁徳天皇即位六十二年夏五月、遠江国司の上表に大井河流水の状を奏して居る、これ国司の称の史乗に見ゆる始めである。第二十一代雄略天皇七年八月、吉備ノ上ツ道ノ臣田狭を任那の国司に拜し。第二十二代清寧天皇の朝に、播磨の国司山部ノ連ノ先租伊與ノ来目部ノ小楯を遣はし云々のことがある。第三十二代崇峻天皇の朝には、河内の国司が補鳥部萬(トトリベヨロヅ)が死状を奏し、聖徳太子の憲法十七條中第十二には、国司、国造に官姓を歛することなきを戒め。第三十五代孝極天皇二年冬十月、国司に政治を慎むべき旨の勅があった。第三十六代孝徳天皇大化元年八月、新に東国等の国司を拜し、二年正月畿内の国司郡司を置きしより、次第に諸国に及ぼし。終に第四十二代文武天皇の大宝元年(紀元一三六一)に至りて其の制度が大に整備した。要するに国司の拝任は孝徳天皇の朝に、勅命を以て一般的に設置せられたものである。左に国司制度の略表を記してみょう。


大 国         上 国         中 国         下 国
守一 従五位上   守一 従五位下   守一 正六位下   守一 従六位上
介一  正六位下  介一 従六位上
大椽一 正七位下
少椽  従七位上  椽一 従七位上   椽一 正八位上
大目一 従八位上
小目一 従八位下  目一 従八位下   目一 大初位下   目一 少初位下
史生三         史生三        史生三         史生三


大 国 十 三
上総、常陸、上野、大和、河内、伊勢、武蔵、下総、近江、陸奥、越前、播磨、肥後

上 国 三十五
山城、攝津、尾張、三河、遠江、駿河、甲斐、相模、信濃、美濃、下野、出羽、加賀、越中、越後、丹波、但馬、因幡、伯耆、出雲、美作、備前、備中、備後、安芸、周防、紀伊、阿波、讃岐、伊予、筑前、筑後、肥前、豊前、豊後

中 国 十一
安房、若狭、能登、佐渡、丹後、石見、長門、土佐、日向、大隅、薩摩

下 国 九
和泉、伊賀、志摩、伊豆、飛騨、隠岐、淡路、壹岐、對馬



郡にも上郡、中郡、下郡、小郡の差別があって、是により郡司の員数に多少の別がある。
大領ー少領(長官)、主政(判官)、主張(主典)、これを総べて郡司と称し皆それぞれ職田を給して居た。
そこで我が肥前ノ国司が史乗に見えたるは、續日本紀三十三巻吉備眞備の傳に、天平勝宝二年(紀元一四一〇)筑前ノ守に左遷し、俄かに肥前守となすと云ふにあるやうである。其の後天平勝宝六年四月庚午、外(ゲ)従五位下黄文連水分(キプミムラジミマクリ)肥前ノ守となって居る。天平宝字元年(紀元一四一七)五月乙卯肥前介一人を加へ、同三年五月壬午従五位下県犬養宿禰吉男肥前ノ守となった。其の彼次ぎ次ぎに其任命があったが、本朝年代紀に肥前守道成は、後一條院長元九年(紀元一六九六)卒去した、其の後は肥前国司として書に散見するところ稀であるが、暦仁二年(紀元一八九九)肥前守家連云々と、鎌倉時代の東鑑に見えて居るけれども、勿論平安朝中頃以後は、国司に何等の權威はない。則ち平安朝中頃京師にては藤原道長の子頼通攝関であったが、実に當時は政弊の極度に達して居た時で、藤原氏は世官世職の悪風を開き、驕奢安逸に耽り、ただ家門の繁栄をのみ計りて政治を顧みず、地方長官たる国司は全く疎外し去られ、兵刑は弛びて不逞の徒**し、財政は紊乱して売官行はれ、成功(各地の富民は財を納れて其の功により官を申請す)とか、重任の功(国司の任期満つるに臨み奏して再任を請ひ其の代償として費用を献じ造営等に備ふ)などの弊習起り、甚しきは當時近畿の百姓の半は官人であったこと、或は東国のものにて夫婦栄欝を買はんとて上洛して、川原院に宿りで夜鬼に咬殺されたとさへ傳へられて居る。されば中央と地方との聯絡は絶えて、京師より発する巡察使(視政官)勘解由使(カゲユシ)(国司更代の時の検察官)も行はれず、また毎年地方の国々より、中央政府に往来する四度の使である、朝集使(国司が次官以下の官吏の功績を録して中央に報告するもの)貢朝使(調の目録を持参して入京するもの)税帳使(調庸の予定案を持参するもの)計帳使(前年度の国衛の決算報告を持参するもの)の制も廃れたから、地方諸国では国司は貪婪暴戻にして百姓の膏血を搾り、国司は倒るゝところに土を掴むとさへ云へる俚諺さへあった。されば院宮諸王領以下の所領の掠奪侵犯行はれ、其の上荘園(租税免除地)日々に増加して朝廷は財政難に陥っても如何とも為すの力なく、国司の任免貶黜のことも意の如くならず、地方は全く混乱状態となった。我が肥前国司の任免も或はこの頃より、紊乱するに至つたにちがひないと察せらるるのである。


   一 藤原廣嗣

 藤原廣嗣は、鎌足の孫宇合(ウマカヒ)の長子である、容貌魁偉、才幹ありて学芸に長じ、博く典籍を渉猟し、また佛教にも通じ、武芸に達し兵法にも造詣がある、其の他天文陰陽の書、管絃歌舞の技能共に精微を究むる故に、松浦廟縁起に五異、「一、髻中に一寸余の角あり、二、宇佐八幡と碁を囲む、三、善馬を持つ、四、善馬に劣らぬ馬丁を有す、五、京都九州間を朝夕に往還す。」七能「一、身体端厳なれども屈伸自在、二、学問内外に通ず、三、武芸に練達す、四、歌舞に長ず、五、音楽に精通す、、天文陰陽の学に通達す、七、妻室の美貌稀なること」の特徴があると賞揚して居る、勿論五異七能は廣嗣を神化するために讃美せるものではあるが、異材であったに違ひがない。天平中従五位下に叙し大養徳(ヤマト)守を経て同十年(紀元一三九八)大宰少弐となった。當時朝廷には吉備眞備僧玄ム唐より還り仕へて寵遇何れも渥つく、眞備は右衛士督を経て大学ノ助中宮ノ亮である。玄ムは僧正となりて宮中道場に出入して寵遇日に盛んで、時に沙門としての行に乖離することも多く、屡々説法といって宮*(モンガマエに韋)に出入した。廣嗣之む悪みて玄ムを排斥せんとしたけれども、天皇これを聴許し賜はなかった。廣嗣太宰府赴任の後其の妻は京師に残って居たが、玄ムその容色の美なるを知り之を姦さんとした、妻之を太宰府に告げしに、廣嗣大に憤怒した。廣嗣また眞備とも不和で、曾で廣嗣を見て人に語っていへるに、この人、必ず世の患をなすであらうと、それで二人の間の感情は大に離反して深き溝が出来た。


 天平十二年廣嗣上表して政事の得失を指げ、天地の災異を陳べて、玄ム、眞備を朝廷より除かんことを請ひし表文がある、されど此は後世の偽作なるが如くなるも.其の詞を記して参考としやう。

 臣聞天子有争臣七人、不失天下、諸侯有争臣五人、不失其国、是故三王御国、恐有過而不聞。五帝冶世、懼患言之不達、或懸旌進善、或置木召謗。伏惟陛下、乃神乃聖、克文克武、重華放、何得間然、可謂黄河一清、幸逢聖運也、但聖人千慮、或有一失、頃小人道、君子道消、上下情隔、民不安堵、加以昊天告譴嗟若丁寧、未聞極言、君子之道、豈若期哉。臣家開闢以来、及至今旦、鼎食累世、冠蓋相連、恩賞超於呂鶴、栄寵類於伊周、覆載之恩死而不朽、豈如荊軻感旦之恩、燕報讎、張良思五世之寵、為韓滅秦而巳、雖触龍鱗不敢不陳。臣聞、皇之不極、謂之不*(是韋)、時則昊天示変丁寧、君上若改過修徳、転禍為福、知而不改、天則罰之、然則天平五年至十一年、並六箇歳、太白経天、案劉向五紀諭曰、太白少陰、弱不得専行、故以己未為界、未得経天而行、経天則晝見、其占為兵、為大臣、為民主強国弱主、弱国強臣、勝主此之攻占可畏也、去天平十一年十一月二十七日、太白晝見、在心度、日正午時、見未申上有芒角、最可畏之、穂在申日、心為天王海内主故置積卒而衛己、五星極此度而有変者、主者悪之、雖魏晋末代、君臣同牀時未有太白少陰在心上而晝見也、天平十一年正月二十九日災可畏、太史所知故不復陳、二月二十九日夜半、地震粛墻之内、又詳太史所奏、故不煩重、十二年二月陰獣登樹、奪陽鳥之巣以五行傳按之、恐有誠入牢君位乏象上平、臣愚一奥。識記曰胡法域国亡、頃者備法漸窺、最可レ畏也、何則結集正教之日、十地菩薩、四果聖人、咸集一処告誓言、従此結果以後、一言一字、不得増減、然則増者失音、減者迷律、傳内律教、禁断箸正五位色、而今僧正玄恒著紫*(イトヘン ひも)袈裟、一項違正法、令諸僧尼漸染邪道。豈如此乎、又諸如来三乗教中、未曾聞流及僧侶制僧尼有罪、即若使耳、而今玄ム私制邪律、流放僧尼、内挟舐糠之心、外曜指廉之威、佛ム法之賊、莫甚於此、又出家人者、離出国家、如牢獄、棄捨妻女、如著枷*(金巣)、不得蓄養奴婢牛馬、


*(酉古)酷酒屠肉、耕作商費、而今玄ム蓄養奴婢、興作舎宅聚積財宝、醸酒屠肉、作農商侶、一同白衣、法滅之弥扇、外道之跡頓起、一何悲哉、又出家人者、一切衆生大導師、故堅制威儀、以導三有、又僧正者佛法綱紀、法之興廃、縁此一僧、然此僧無頭陀安居種種威儀、而香花飾身、愛著女色、宛如白衣、無戒有情、又十地菩薩非肉眼之所能見、坐禅静慮之処、非婬欲所縁之境、然許説現身値遇十地菩薩、矯言証坐禅道、昔聞大天汗穢正教、今見玄ム欲絶法綱、遂至令全身丈六佛眼流涙、矯下賤女子偽称弥勤、豈非法滅之相哉、臣愚二矣。金光明巌勝王経説曰、由諸天護持、亦得名天子、三十三天主分力助人王、若王作非法、親近悪人、三十三天衆咸生忿怒心、天主不護念、余天咸棄捨、国所重大臣、朽横而身死、悪鬼来入国、疾疫遍流行、若有*(言 )狂人、當失国位、由斯損王政、如象入花園、頃歳賢臣良将、零落殆盡、百姓死散、里社為櫨、疾疫流行、殆無虚蔵、嗟乎興発之機、係此一時、可不恐哉、臣愚三矣。我朝之為国也、光宅日本、臨長安而竝明、包括萬邦、対唐王以爭雄、但唐王恒云、天無両日、地無二王、無唐則日本、無日本則唐、豈有東帝西帝者乎、遂挟姦心、窺我上国者、歳既多也、*(クサカンムルニ最)爾新羅、虎狼爾心含會稽之恥、蓄勾踐之怨祈躊群望構禍国家。者、日亦久矣、北狄蝦夷、西戎隼俗、狼性易乱、野心難馴、往古已来、中国有聖則後服、朝堂有変則先叛。其為俗也、子報交敵、孫酬租怨。但以畏陛下之威武、服聖朝之文数、匿爪牙於毛中、*(  )羽翼於鱗下、縦令朝堂有肝食之急、邊城有蜂火之警、豈有忍父祖之宿怨忘子孫之甘心哉、頃者賢臣已歿、良将多亡、四隣具聞、八表共識、當今之務、練習五兵振威四海、先*(言争)後実、災変或視能崇賢選士、撫慰萬邦割郤庸祖簡易庶務復八柱之已傾張四維之将絶、然則遠粛近安、民豊国富、太平之基、華戎共欣、康哉之歌、朝野同音、豈可偃武棄備、将士解体、修徐偃之仁義、従蹈楚之許謀乎、兵法曰、天下雖安、忘戦必危、勿恃彼之不来、恃我有備而待也、然解郤兵士、出売牧馬、抑止射田、若斯事條、未見其可、臣愚四矣。玄ム掌中有通天之理、直達中指、傳聞唐相師曰、當作天子、玄ム竊負此言覬覦宝位、*(火火ワ火)螢惑 陛下、欺詐后宮讒間蕃屏之族令朝廷無維城之固、放逐棟梁之家、令左右絶忠良之臣屡出酷政令天下積怨於陛下、挙動大役、令萬民疲弊於興作、偃武棄備、令国家忘戦、愛養死士不畜萬金之資、所有行事一同文種滅呉九術、従五位上守右衛士督兼中宮亮近江守下道朝臣眞吉備、邊鄙孺子、斗*(竹カンムリニ肖)小人、遊学海外、尤習長短、有智有勇、有辨有權、口論山甫之遺風、意慕趙高之権謀、所謂有為姦雄之客、利口覆国之人也、亦作玄ム左翼而蔽陛下明徳、臣熟視二盗、契為此目、雖陛下撫育恩超同位、而進退周旋、猶如餓虎、先知二盗必有大求、若不早除、恐貽噬臍之憂、大公曰、涓水不塞、将成江河、両葉弗去、将用斧柯、夫視日月之光、不為明目、聴雷霆の動、不為聡耳、所謂上智者、居高堂之上知日月之次序見瓶水之中、知天下之寒暑、臣請賜尚方剣芟夷二盗省除苛政、以扶傾運、誅無忌而謝呉王、楚子故事、戮晁錯而賜七国。漢帝上策、臣愚五矣。臣聞鴟*(号鳥)山鳥、猶惜毀巣、況乎我国家宗廟社稷、與日月競其照臨、與天壌齊其始終然為玄ム姦賊、吉備凶竪所謀、豈不哀哉、忠臣義士、以何面目、戴天蹈地乎、廷屈師傳、朱雲高士、折檻匪罪、漢成明徳、幸照盆下納臣愚息所謂蒭蕘之言、聖人猶擇、天下幸甚、表入不省。と。
 兎角に、廣嗣は何かの形式によりて朝廷に献言したには相違がない、それでも時の聖武天皇御聴許がなかった。九年廣嗣終に反旗を飜すに至った、軍営を筑前遠河郡に造り、*(火逢)烽(ノロシ)を置き、兵員を徴募せしが、西海の諸国これに應じ集る、依て廣嗣は三道より官軍を拒がんとして、自ら大隅薩摩筑前豊後の兵合せて五千余人を率ゐて、鞍手道より進軍し、弟綱手は筑後、肥前の軍勢五千余騎を以て、豊後路より進み、多胡古麻呂は田川道より進撃を謀り、廣嗣の兵勢一時は侮るべからざる形勢があった。
 朝廷にては大に驚き、直ちに従四位上大野東人を大将軍となし、、紀ノ飯麻呂を副将軍とし、軍監軍曹各四人に、東海、東山、山陰、山陽、南海五道の軍一萬七千人を発して、廣嗣を討伐せしめられ更に援兵として従五位上佐伯常人、従五位下阿部虫麻呂等に、隼人二十四人竝に軍士四千人を率ゐて発せしめられた。又筑紫管内諸国の官民に勅せられて、逆人廣嗣もと凶悪詐謀に長ずれば、其の父式部卿常にこれを除かんとせしも、朕これを許さず掩護して今に至った、然るに頃日京にありて親族を*陥するなどの非行ありたれば、遠く筑紫に遷して改心を期せしに、計らざりき彼擅に狂逆を企て人民を擾乱するとは、其の不孝不忠の行は実に天地に違背し、神明の責罰忽ち至りて滅びんこと朝夕に迫って居ることは、前に既に勅符を以て筑紫に報ぜしところなるも、逆徒これを途に要て遍く知らしめずと云ふことであるから、更に勅符数十條を発して諸国に散布せしめしゆゑ、之を見るものは直ちに其の顛末を知れ、もし廣嗣と同心共謀のものも、改心悔悟して廣嗣を斬殺し蒼生を安んずるものには、白丁には五位以上に叙し、宮人には等に従ひて其の位を進め、若し身殺さるゝものには其の子孫を賞するであらう、忠心義士報国の念あるものは速かに事を決行せよ、また大続発のことをも普く知らしめよとて、騎士に命じて官符を各所に散ぜしめられた、又国別に彿像を造り経巻を写さしめて、乱徒鎮撫の祈請を行はしめられた。かくて東人等進みて豊前に入り廣嗣の将にて豊前ノ国京都(ミヤコ)郡の守備をなせる小長各(ヲハツセ)ノ常人等を斬り、登美、板櫃(イタビツ)、京都三所の軍兵一千七百六十七人を捕虜にしたが、京都郡大領である*(木若)田勢威呂は五百騎を以て、中津郡擬少領なる膳東人は八十人、下毛郡擬少領なる勇山伎美麻呂、築城郡擬少領佐伯豊石は七十人を以て各々迎へ降参した。
                 
 十月廣嗣兵一萬を率ゐて豊前国企救(キク)郡板櫃河に到り、自ら隼人軍を具して前鋒として進み、木を編み筏を作りて将に河を渡らんとしたが、佐伯常人、安倍虫麻呂は弩を発して防戦せしに、廣嗣退きて河西に陣した、常人等軍兵六千余騎を率ゐて河東に對陣し、隼人等をして呼ばしめて、逆人廣嗣に随ひて官軍を拒ぐものは、罪科妻子親族にも及ぶものであると、廣嗣の兵矢を放つものがない、常人また廣嗣を呼ぶこと十度なるも猶之に應へなかったが、少時にして廣嗣馬を陣頭に進めて云へるに、勅使来ると聞くそは何人なるか、常人答へて、勅使衛門督佐伯太夫、式部少輔安倍太夫であると、廣嗣始めて勅使たることを知れりと、馬より下りて再拝して云へるは、廣嗣敢て朝命を拒むものでない、唯朝廷の乱臣二人を誅せんと請ふのみ、若し苟も朝廷に抗することあらんには、吾天神地祇の誅罰を免れぬであらう、常人詰りて、果して然らば勅符を賜はりて太宰ノ典(スケ)以上を召されしに、何とて至らずして兵を動かして背叛したるは何の故なるかと、廣嗣語窮して答へず馬に乗りて退いた。
 廣嗣配下の隼人三人は河を泳ぎて東岸に至り官軍に投じ、それより隼人廿人及び兵十余騎相継ぎて降参した、そこで衆潰走して兵勢頓に頽れしが、廣嗣愈々事のならざるを知り馬に乗り西走し、肥前値賀島より船を発し、東風に帆を上げ数日にして一弧島を見る、舟人指してこれ耽羅島(朝鮮全羅道の済州島)なりと、然るに西風忽ち起りで船進まず、廣嗣驛鈴を捧げて、我はこれ国を思ふの忠臣である神霊猶吾を棄つるか、乞ふ神冥吾を加護せよと、鈴を海中に投じたるも、風波彌々甚しく船漂蕩し、還って再び値賀島に着き、上陸して東行せしが長野村に至りて、進士安倍黒麻呂のために捕へられ、東人等戦掟を奏聞した。
 十一月詔を下して之を斬る、詔書未だ到らざるに、東人は廣嗣湘手の兄弟を松浦に誅したが、これ今の玉島村大村神社の邊なるかのやうである。明年正月余黨竝に生虜の罪科を決して、杖、徒、流、死などに処せられしもの三百余人、始めて乱治平に帰するに至った。然るに廣嗣の霊屡々禍をなす、十七年勅して玄ムを筑紫に貶して、観世音寺(太宰府にあり)を造営せしめ、十八年六月工成りて玄ム慶道師となり輿に乗り殿堂に入るや、忽ち彼を空中に捉提するものありて影を失ふたが、後日に至り玄ムの首、藤原氏の菩提寺である奈良興福寺の唐院に落ちたといふ。これ恐らくは廣嗣の残黨が玄ムの不意に乗じて迅雷の勢を以て之を刺殺し、廣嗣の遺恨を報じたることを、かやうに言ひなしたるものであらう。また眞備は次ぎの第四十六代孝謙天皇即位二年に筑前ノ守に左遷せられ、次で肥前守に轉ぜられたが、彼れは廣嗣の霊を慰むるため松浦に至り、鏡村に鏡官二ノ宮を建立し(一ノ宮は神功皇后を奉祀す)玉島村の墓邊に知識無怨寺を剏立した、これ即ち今の大村神社である。

 長野村、続日本紀十三巻に、捕獲賊廣嗣於松浦郡値賀島長野村云々。元禄圖繪に松浦郡に長野村あり。値賀島の内か不明(太宰管内志)長野なる地は、今の西松浦郡大川村の一字なるが、廣嗣平戸の邊に上陸して東行の際、或はこの地にて捕へられ、約四里計りの北方海岸の玉島にて東上の途中寧ろ殺すに如かずとして斬殺せられしものとすれば、地理上然るべきやう肯定せらる。


 色都島(シツシマ)、また続紀に、廣嗣之船従智駕島発風波甚、遂著等保知焉色都島(トホチカシツシマ)云々、元禄図絵に五島のうちに獅子村あり、是シツをシシと唱へ訛りたるにあらざるにや(太宰管内志) 

 橘浦、松浦廟本緑記に、遂吹著小値賀島次還来松浦橘浦云々、田平と長板との間に立花と云ふ処あり是在るべし、海を隔て平戸に對へり(太宰管内志)

 馬部(マノハマリ)、鏡神社より西方約五里の海岸に、値賀川内あり今値賀村の内に属するが、恰も其の中間に佐志村字枝去木の内に馬部といへる土地がある、口碑に。廣嗣遁走の際馬を深田に乗り入れ遂に捕へられしところと。地理より察すれば、これまた理なき傳説にもあらざるやうである。序に附記しおく。


 値賀島の名は、古事記、風土記に見えしを始めとす、後、三代実録二十八巻に、貞観十八年合肥前国松浦郡庇羅、値嘉両郷、更建二郡、號上近下近、置値嘉島云々。また日本後紀に、弘仁四年新羅人一百十人駕五艘船、著小近島與土民相戦、即打殺九人捕獲一百一人云々。小近島は平戸の西南方に在って、今も猶小値賀島と称へ、長崎縣北松浦郡内に属す。されば値嘉島と称するは、今の五島、平戸地方の総称である。

 太宰府、往時外蕃諸国の来航は、必ず筑紫に至るを以て、大化より数世以前に此に鎮所があって一には来航の便を計り、一には邊地防守の備へとした。文武天皇の大宝の頃より太宰府と称し九国二島(壱岐対馬)を管轄せしめたが、廣嗣の乱ありてより天平十四年之を廃して、九州一円に国司の制を布いた、今其の府の官制を記せば、

 主神(九国一般の神祭を掌る、相當正七位下の卑官なるも、敬神の古義によりて、順次は帥の上に列す)

 帥(長官)(親王の官に擬せしが、中古以来権帥を以て大臣等左遷の官とし、事務を行はしめた)。

 大貳、少貳(次官)、大監、少監(判官)、大典、少典(主典)、史生等以下の諸官がある。



  二 川部酒麻呂
 常時の松浦郡は、今の東・西松浦郡と長崎縣下の南・北両松浦郡との故地であって室町幕府(足利時代)の頃上、下松浦の両郡となつた(後また一郡となり明治十三年東西南北の四郡に分る)酒麻呂は松浦郡の何れの人なるか明かならざれど、続日本紀に録するものによれば、奈良朝最後の君である第四十九代光仁天皇宝亀六年四月(紀元一四三五)酒麻呂外従五位下に叙せられた(在官者ではないものに授くる位階には外の字を冠す、但し五位以下であって郡司以下の資格者に賜う、又国司が現任にあらざるものに唯其の名称のみを授くるものを員外の国司といふ)。彼は松浦郡の佳人なるが、先きに第四十六代孝謙天皇勝寶四年、遣唐使藤原清河、副使大伴古麿、留学生吉備真備等入唐の時、其の第四船の舵手となりて渡唐し、帰国の途、ある日海上順風に帆を孕みて快走して居たが、如何なる機會にや船尾火を失し、火炎濛々として忽ち艫部を掩ひて容易に鎮火すべきやうもなき様であれば、人々遑遽してなすべき策もなかつたが、酒麻呂少しも擾がず、火焔身邊に及びて手を焼き糜爛すと雖も、舵を把りて船の顛覆せんとするを支へしが、火漸く鎮消して、船体の安きを得せしめ、乗員の危難を免かれしむることが出来た、人々其の沈勇を賞讃して厚き感謝を彼に呈した。帰朝の後、功績を賞表せられ、且つ松浦郡の員外主帳に補任せられた。一船員たりし彼も亦偉なりと云ふべきものである。



 三 呉越船柏(カシハ)島(神集島)に来る

 第六十一代朱雀天皇天慶八年(紀元一六〇五)太宰府より呉越船、肥前松浦郡柏島に来航の旨を奏聞した。
太政官の外記日記に其の状を録せるものに、七月二十六日太宰府より書を飛して、大唐呉越船松浦郡柏島に到る、船一隻にして穀三千石乗員一百人を載するの大船にして、今月四日彼の船、帆を張り南海より俄かに走せ来りたれば、我が士卒これを警戒し船十三艘を以て追ひしに、彼の船肥最埼(ヒノミサキ)港鳴浦に入港す、翌五日吏をして船を臨検せしに、彼は例により入港を許可せんことを請ひ、外人応対の司官に通達せんことを以てした、言ふところ一の疑惑なければ、彼の提示する書を添へて復命す云々と。
 按ずるに、第六十二代村上天皇天暦元年(天慶八年より二年後)左大臣藤原実頼が呉越王に報ずるの一通、同七年右大臣藤原師輔が呉越王に贈答するの書一通、各々本朝文粋に出でゝ居るが、其の書私交の体裁であって図書の例でない。翻て當時の支那の状況を察すれば、丁度五代の頃後晋の出帝(我天慶八年は彼の開運二年)であって、乱麻の如く政権争奪戦の激甚なる頃であれば、彼の船の来る勿説公船にあらずして、私船が交易のために来るものと見ゆ、されば藤原実頼等の私書の次第をも察せられるのである。
 外記日記の肥最埼港鳴浦と云へるは、神集島の對岸は湊にして、古傳の和珥ノ浦であって一小港をなして居る、されば恐らく港鳴浦は港なる浦にして、今の湊浦にてはあらざるにや。
 また萬葉集に、天平八年(紀元一三九六)六月、使を新羅国に遣はす、柏島に泊すともす。以てこの地が外国交通往来の一要地たりしことを益々明証するのである。


 四 源 知

 第六十八代後一條天皇寛仁三年(紀元一六七九)刀伊の賊が入寇せしことは、朝野群載、靖方溯源などに見えて居て、此の年三月二十七日異賊船五十余艘對馬に寇し島民を劫略せしが、島守遠晴遁れて太宰府に走った。賊は直ちに壹岐を襲ふたが、島守藤原理忠防戦して死し、島民また奪略惨害の災に逢ひしが、獨、講師常学脱して大宰府に到り其の状況を報告した、時に四月七日なり。同日賊徒転じて筑前ノ国恰士郡を襲ひ、志摩早良両都を経て到るところ人物を害ひ居宅を焼き払った。賊船は、長さ八九尋乃至十二尋、一船の輯三四十を備へ、乗員二三十人より五六十人に及ぶ。其の陸上に刹倒する時は、先づ二三十人刀を振り翳して、奔騰し次に弓矢を帯び楯を負ひたるもの七八十人余、かやうにして相次ぎ到るもの一二十隊、山に登り野を駆け、牛馬を斬り犬猫を屠り、叟媼兒童を殺戮し、男女の壮齢なるもの四五百人は*(テヘンに禽)虜として船に載せ、また所々の米穀を奮ひしものに至りては其の数を知らざる程である。時に藤原隆家太宰權帥たり、其の身は弓矢の家り出ならざれども、巧に戦略運らし部署を定め防戦能く力めたが、文屋忠光・多治久明等善く戦ひて賊徒を殺獲すること数十人。同八日賊は能右島を取り博多湾に刹倒した、降家急に九州の兵を徴し、前少監大蔵朝臣種材・藤原朝臣明範・散位平朝臣為賢・平朝臣為忠・前少監藤原助高・{仗大蔵光弘・藤原友近等をして警固所を守備せしめ、一方事の次第を京師に奏上した。同九日朝賊船襲来して警固所を焼かんとす、我軍力戦奮闘して之を卻退す、この間矢に中るもの十余人、賊遂に再び能古島に據りしが、舵を転じて筥崎宮を焼かんとせしに、府兵射てこれを潰走せしめた。其の後二日間風浪烈しく揚りて戈を交ふることを得ず、賊転じて十一日未明志摩郡船越津を攻撃し、十二日酉ノ刻(午後六時)上陸したるを検非違使弘延これを撃つ、賊の矢に中り仆るるもの三十余人、少貳平朝臣致行、前少監種材、大監藤原朝臣致孝、散位為賢、同為忠等士卒を増援し、船三十除艘を以て追撃したるに、賊外海に遁れ出づ。
 同十三日賊徒肥前国松浦郡に至り、村落を攻略す、前肥前介源知は郡内の兵士を率ゐて防戦大に力めしが、賊兵傷を蒙り仆るゝもの数十名、僅かに逃れて船に入りしもの一人、賊は我軍の威武に恐れて勝つべからざるを知りて遁れ帰る。
 致行等は博多ノ津に居て、戦艦を増して一時に発せんとするに、種材奮っていへるに、若し船を造るを待ちて発せば賊は空しく逃れ去るべし、我れ功臣の後を以て如何でか坐視するに忍びんや、齢既に七旬を過ぎたれども単身賊に當らんと、兵を勒して纜を解く、衆皆これに従ふ。この時賊は既に遠く外海に逃げ去って居た。十七日太宰府外警を驛奏す、十八日府に勅符を賜ひ、要害を堅め賊に備へしめ、神佛に祈祷し境域を守るべきことを令した。又北陸、山陰、山陽、南海、四道の警備を巌にせしめられ。二十一日伊勢大廟以下十社に奉幣祈修を行はしめらる。二十五日府報京師に達し外寇鎮定を奏した。二十七日復勅を下して海防を巌にせしめらる。此の役、我が兵の戦死せしもの総て三百八十二人、捕虜となれるもの一千二百八十人、この内生還せしもの僅かに三百人、牛馬の掠奪せられしもの百九十九頭であった。
 常時我が国は、其の賊が何の国のものなるやを知らなかつた、然るに捕虜の中に高覧人多し、仍て之につき探問せるに、初め高麗が刀伊の入寇を受けて彼に降りしもの、駆役せられて来侵せしものなりと、されど容易に信ぜられざりしが、後對馬の判官代長岑諸近捕へられて賊と共に彼の地に至り許されて帰還し、始めて賊の刀伊なることを知る。刀伊は女眞にして、今の黒龍江以南の露領沿海州より満洲に擴がり住せし民族であった。また俘虜の高麗に助けられしもの多く、九月高麗の使鄭子良なるもの、我が民の刀伊に*(テヘンニ禽)にせられしもの、男六十人女二百余人を護送し来つた。朝廷鄭子良に金三百両を賜ひ。厚く労らひて帰国せしむ。




   第五章
 豪族政治時代
 
    (自紀元一六五〇年頃至紀元二二二五年)

 第六十六代一條天皇の頃より、第百六代後陽成天皇に至る約六百年間のことであって、中央政府は恰も平安朝後半頃より、鎌倉室町時代を経て、織豊二氏が天下統一の業を成すの頃である。この期の始は地方豪族は国司の勢力圏外に超然として威權を振ひ、鎌倉以後は国司制度は全く有名無実に帰し、其の間後醍醐天皇の建武中興に、其の制を復したるも、幾何もなく世乱れて行はれず、南北朝の頃には重く其の制度廃絶して、実際に其の人なくして、吉野花盛、藤井花房、山邊高松をどの作名の官あるに過ぎなかった。されば鎌倉の始め源頼朝は、諸国に守護、荘園に地頭を置きて、地方政治の実権を掌握した。尤も守護地頭の起原は平安朝末に萠し、守護は治承四年(紀元一八四〇)に安達義定を遠江に、武田信義を駿河ノ守護に任じたるが如き。地頭は保延三年(紀元一七九七)間五年の勸進奉賀帳に、田原郷地頭代僧道印、高宮郷地餌代宗時などあれば、これより前既に地頭のありしこと明である。後平家勢を得るに及びて、荘園に地頭を置いた。これ等の守護地頭が国司に更りて、地方政務の実権者となるに至った。
 今こゝに至れる所以の次第を述べやう。前章にも云へる如く、中央政府・地方官、中央と地方との聯絡機関など、既に堕落腐敗廃絶によりて、国司政治は紊乱衰頽に向った。則ち藤原氏専横の頃より、朝廷の威令行はれず、天喜三年(紀元一七一五)には左少将の雑色で、禁闕に入り白匁を閃かして御座所に迫ったものもあった。或は刑法弛緩して、當時興福寺の僧静範は、成務天皇の御陵と廃きて寶物を竊みて凶悪を遂げたのに對し、僅かに流罪に虚し、三年の後には赦に遭ひたる如き、司法の濫戻甚しきものと云はねばならぬ。かくて朝官は遊佚に流れ、詩歌管絃の遊びはいふまでもなく、彼等貴族の遊戯には、歌合・謎合・扇合・絵合・貝合・香合・花合・菊合・前栽合・果ては男女相會して、艶書合・懸想文合なと淫猥遊惰言語の外である。或は暴飲の弊風行はれて、関白藤原道隆は、大将藤原朝光藤原済時を酒友として乱飲酔倒其の度を失ふにあらざれば止まず、左街門督藤原誠信は大酔して動きも得ず嘔吐して、名高さ亘勢弘高が楽府の屏風を汚すなどし、されば其の下司諸院の人々自然に其の風習に浸染して、群飲の風盛にして人々の新任するものあれば、焼尾荒鎮と称して其の人を責めて飲を求め、乱酔度なきが如き其の弊風枚挙に遑がない。或は売官の弊、荘園なる免租田の増加、或は地方官の好悪腐敗など、内外政治の弛緩廃頽其の極に達した。
 かやうに中央政府の頽廃したのは、頓て諸国住人豪族の起原を開くやうになった。則ち朝廷の官職は藤原氏一族其の顕要の地を占め、他族姓の要職に就くを妨ぐれば、源平諸氏は地方官として国々に赴き、任満るも都に還らず、其の勢望の地方に高きを利して貨殖を謀り家門の繁栄を企て、次第に荘園など多く領有するに至り、小作人たる奴僕も多く、庶子分家自ら一団をなして、常に弓馬の調錬を行ひて部落を鎮護し、事あれば隊をなし陣を組み、其の庶子分家を家ノ子といひ、小作人たる奴僕を郎黨といひて、武門武士の基を作った。源満仲の如きは郎黨四五百人を有し、源宛・平良文等も五六百人の属下を有したといふ。かやうにして地方豪族は次第に勢力を拡張して、先には天慶乱(紀元一六〇〇叛す)を起して、平将門は関東に藤原純友は四国に擾乱を捲き起し、後には(紀元一六八八)平忠常は下総に謀叛したる如き、皆地方豪族の跋扈跳梁たるに過ぎないのである。或は南都北嶺の僧徒の強訴姦暴戻甚しきも、朝廷は如何ともすること能はず、如斯内外素乱弛緩の世態であれば、いかでか天下の治平統一を保維することが出来やうか。
 鎌倉幕府以来武人政府が出現したが、地方武人は益々得意の時代とはなり、この際有名無実の国司の存するものがあっても、何の価値もない。殊に我松浦地方のやうな僻遠の地にありては、武人の勢力は強盛にして、暦仁二年肥前守家連などの名東鑑に見ることなきにあらざれど、朝官たる国守は何等の権威もなく、松浦黨なる豪族の割據跳梁に委ねる外なかったのである。
 松浦黨なるものは、遠く平安朝の中頃に起って居るやうである。正暦元年(紀元一六五〇)渡邊綱源頼光に属して、松浦郡に下り筒井ノ館に住したる頃からのやうであるけれども、亦綱が孫久が久安三年(紀元一八〇七)下向したるに始まったやうにも考へらるゝが、兎も角源氏の一族其の子孫繁延して郡内各地に占拠し、今の東西南北の四松浦郡内に亘りて旗本郎黨を有して勢威を振った。元来黨といへるは小豪族の集団である。彼等松浦黨は地の理を利して、度々高麗半島沿岸に、通商また侵寇を企てたので事は東鑑や海東諸国記(朝鮮の由叔舟の作)などに散見して居る。
 余は、かゝる時代の松浦地方の政治状態を総称して、豪族政治時代の名称を附したのである、或適當の所見を欠くの誹りもあるであらうけれども、史実の実際はこの名称を附することを拒むことは出来ぬのである。

  一 松浦黨と韓半島

 今は東鑑及び海東諸国記などに散見するものを、そのまゝ直訳的に摘録して、一般の状況を窺はんと思ふ。

  高麗侵略
 後堀河天皇嘉禄二年(紀元一八八六)十月十七日、鎮西の凶徒等(松浦黨と號す)数十隻の兵船を構へ、彼の国の別島に至り合戦をなし、民家を滅し資財を掠取するや、彼の国を挙りて震駭した(明月記)。


 鏡社の社人高麗を侵掠す
 同天皇の寛喜四年(紀元一八九二)即ち貞永元年と改元せし年にして、恰も北條泰時が鎌倉執権時代の頃で、其の年閏九月十七日鏡社の社人、高覧に渡り夜討を企て、数多の珍寶を盗掠して帰朝せしに、守護人其の仔細を尋問し、彼の犯科人等を拘禁せんとした、然るに預所にては、守護が沙汰を行ふべき理なきを以て拒んだが、遂に當路の命により、預所にて抑留すべきものでない、直ちに守護所に召し渡し、乗船竝に掠奪物の処理を行ふやうに、隠岐左衛門入道に仰せらる云々(東鑑)。

 以下海東諸国記の文を抄出す。


 松浦は海賊の居所

 肥前州に上下の松浦郡あり、海賊の據るところにして、前朝の未(高麗の末)に我が邊に寇する松浦黨は、壹岐對島の人と共に相率ゐて到るもの多し、また五島あり、日本人の中国(支那)に行くものゝ風を待つの地である云々。
 源盛、丁丑年使を遣はし来朝す、其の書に肥前州上松浦丹彼大守源盛と称す、依りて其の書を受け、約するに歳に一船を遣すべきを以てした。
 小貳殿管下に源徳あり、丙子ノ年使を遣はし来った、其の書に肥前州上松浦神田能登守源徳と称す、神田の地は谷をなす、城南(鬼子岳城なるべし)を去ること三里余である、約するに歳に一船を遣はすべきを以てした。
 源吉、乙丑ノ歳始めて使を遣して来朝す、書に肥前州下松浦山城大守源吉とす、即ち図書を受け、毎歳船一隻の通商を約す。


 波多島(鬼塚村字畑島)

 源的、乙亥年使を遣はし来朝す、書に肥前ノ州上松浦郡波多島源約と称せり、相約して毎歳一二船を通ずべきを以てす、小貳殿管下で波多島に居る、人丁十余に過ぎず云々。源泰、戊子ノ年来朝す、其の書にいへるは、肥前ノ州上松浦波多下野守源泰と、宗貞国の請により接待す、其の居波多にあり麾下の兵を有すと。


  呼子(呼子村字呼子)

 肥前州源義、乙酉ノ年使を遣はして来朝す、書に呼子壹岐守源義と称す、歳に一二船を遣はすべきを約す、小貳殿管下で呼子に居る、麾下の兵を有し、呼子殿と称す。同書壹岐の條に小千郷は呼子の代官源貫之を主どる、歳に一船を航する旨を約束す、其の書に上松浦呼子壹岐ノ州代官牧山帯刀歯実と称す。庚寅ノ年源実の子正、使を遣はして本朝す、書中に去歳六月父官軍の先鋒となり敵陣に死せり、臣家業を継ぐ、乃ち父の例によりて館待す云々。


  鴨 打(カマチ)
 源永は、丙子年使聘して来朝す、其の書に肥前ノ州上松浦鴫打源永と称す、乃ち図書を受け、約するに歳船一二隻を遣はすべきことを以てす、小貳殿管下で鴨打に居る、麾下の兵あり鴫打殿と称す云々。

  寶泉寺(名護屋村字名護屋)
 源祐位は、丁丑ノ年使を遣はし来朝す、其の書に肥前ノ州上松浦那護野寶泉寺源祐位と称す、約するに歳々一船を遣はすべきを以てす、僧侶寶泉寺に居るとあり。寶泉寺は今同村の龍泉寺か、されど何等の証跡あるにあらず。 

  佐志(佐志村字佐志)
 源次郎は、己丑ノ年使を遣はして来朝す、其の書に肥前ノ州上松浦佐志源次郎と称す、乃ち図書を受け、毎歳船一隻を通ずべきことを約す。小貳殿管下にして、武芸に長じ麾下の兵を有し、佐志殿と称す。また図書に志佐・佐志・呼子・鴨打・塩津留を分治す云々。加愁ノ郷は佐志の代官之を主どる。

  志佐(長崎県下)
 源義は、乙亥ノ年来朝す、其の齎せる書に、肥前ノ州下松浦壹岐太守志佐源義と称す、約して年に船一二隻を航すべきことを以てす、小貳殿管下で武芸に長じ麾下の兵あり、志佐殿と称す。

  那古野(ナゴヤ)(名護屋村字名護屋)
 藤原頼永は、丙戊ノ年壽藺書契を遣はして来朝す、書に肥前ノ州上松浦郡那久野藤原頼永と称す、壽藺書契礼物を受け、国王に傳ふること上に見ゆ、山城ノ州細川勝氏那久野に居ると。那久野は那古那また邪古屋などゝも書き、後名護屋また名古屋の文字を使用するに至った。

  三栗野(ミクリヤ)(長崎県下)
 源満は、丁丑年遣来朝す、書にいへるは、肥前ノ州下松浦三栗野太守源満と、約するに歳に一船を通ぜんと、小貳殿管下に属し麾下の兵あり、三栗野に居る云々。

  鹽津留(打上村字鹽鶴)
 壹岐島の條に、古仇音夫(コクプノ)郷なる源経は、志佐・佐志・呼子・鴫打・鹽津留を領治す、己丑年其の図書を受く、即ち約して歳船一二隻を以てす、書中に上松浦都鹽津留助次郎源経と称せり。

  松林院(打上村字鹽鶴)
 源重実は、丁丑ノ年相約して、毎義一船を遣はすべきことを以てす、其書中に、上松浦鹽津留松林院源重賢と称す。

  大島(長崎県下)
 源貞は、丁亥ノ年使を遣はし、観音の現像を賀した、其の書に肥前ノ州下松浦大島太守源朝臣貞と称す、大島に居り麾下の兵あり。

  多久(小城郡内多久村か)
 源宗傳は、戊子ノ年使を遣はして来朝す。書に肥前ノ州上松浦多久豊前守源宗傳と称す、宗貞国の請を以て接待す、多久に居り麾下の兵を有す。

  平戸島(長崎県下)
 源義は、丙子ノ年始めて使を遣はし来朝す、其の書に肥前ノ州平戸寓鎮肥前大守源義と称す、乃ち図書を受け、歳に一船を遣はすべきことを約す、少弼弘弟麾下の兵あり、平戸に居る。源豊久は辛卯ノ年使を遣はし来朝す、其の書に平戸寓鎮肥前大守源豊久と称す、先父義松己丑の春逝去す、又義松が受くるところの図書を送りて新に図書を受けんと請ふ、依て之を送り終りたりと。

  五 島(長崎県下)
 肥前ノ州源貞は、丁亥ノ年使を遣はし来りて観音現像を賀した、其の書に五島大守源貞と称す、五島源勝が管下に居る微者なりと。
       

  悼(イタベ)ノ大島(長崎県下)
 肥前ノ州源貞茂は、己丑ノ年使を遣はして来朝す、其の書に五島悼大島ノ大守源朝臣貞茂と称す、宗貞国の請によりて之を接待す、五島源勝が管下に居る微者なりと。

  玉ノ浦(長崎県下)
 肥前ノ州源茂は、丁亥ノ年使を遣はして来り、雨花舎利を賀す、書に五島玉ノ浦守源朝臣茂と称す、五島源勝が管下に居る微者なり。

  日鳥(長崎県下)
 肥前ノ州藤原盛は、己丑ノ年使を遣はし来朝す、其の書に五島日島大守藤原朝臣と称す、宗貞国の請により之を接待す、五島源勝が管下に居る微者なり。

  宇久島(長崎県下)
 肥前ノ州源勝は、乙亥ノ年使を遣はし来朝す、其の書に五島宇久ノ守源勝と称す、乃ち図書を受け、歳に一二船を遣はすべきを約す、丁丑年に我が漂流民を送還したれば特に一船を加へしむ、宇久島に居り、五島を総治し麾下の兵あり。


 かやうに我が松浦黨所属の豪族は、大小強弱の別なく盛に韓半島に往来した。高麗の季世には海賊として、所謂倭寇の一部として彼の地を侵掠撹乱したることは、一々記傳の存するものはなけれど、恭愍王のとき(紀元二〇一二より二〇三四頃)には、全羅道沿岸数十里の地、一時人煙を絶つに至りしといへば、倭寇猖獗の状をも察せられ、松浦黨の輩も其の間に活躍せしことは想像するに難からざることである。彼の書海東諸図記によれば、李氏の朝鮮時代に入りては(紀元二〇五二より)、大小の松浦諸豪は、或は對島守宗氏の仲介により、或は直接彼の土に渡航し、彼の許諾を待て、年々の通商船を一二艘の限定によりて渡航せしめ、各々貿易の利を収めたること、上下両松浦郡に亘りて盛に行はれしこと、前記概説によりて知ることが出来る。さうして海東諸国記が千遍一律の筆法によりて、他に曲折紆余に乏しき記体は、大方無事平穏の交通であったことを、徴証するものと見ねばならぬ。



  二、本期間の史談

  (イ) 源為朝の傳説

      
  ○御都築(ミツキ)ノ関 (北波多村字志気)
 鎮西八郎為朝志気村に居城し、九州二島を鎮す、此処に御都築関といへる古跡がある。もと天智天皇筑紫に幸し給ふ時の関所となり、其の後八郎為朝の居城の時も、此処に関を設けしところとで、下馬ノ大原・厩ノ元・矢竹ノ林といふ所あり、皆為朝の舊跡なりと(松浦記集成)
 殆んど取るに足らぬ妄説である、或は為朝部下郎黨の遺跡か、但しは松浦黨の一方の主領たる幕下の古跡か、或は披多氏直属地たる要害に施設せられたる遺跡であらう。為朝の居城址とか云ふ如きは全くの傳説であって、世に名高き人の事績とか遺跡とかいふことは、往々牽強附會の説到るところに盛に行はるゝものである。

  ○為朝の碑(湊村字湊)
 湊村祇園社の境内に為朝の稗がある。抑々この鎮西八郎為朝は、保安元年鳥羽天皇の御字、西国鎮守として下国ありし時、家ノ子(臣下)鎌田次郎(一に平治)といふものを此処の押へとして置かれしに、為朝巡行して彼杵(長崎県下)に暫く居住を定め、常に狩猟を楽みとなしたるが、或時黒髪山(杵島郡)の池沼に大蛇棲みて、さまざまの危害をなしければ、此の山に登りて終夜待ち居たるに、頃は天治元年甲辰八月十八日霧雨降り下りて咫尺を分たざるに、池水躍跳して水底より閃々たる光りを射ちたれば、為朝弓に矢をつがひ八幡大菩薩一矢に退治させ給へと、よつぴやうと放つ其の矢あやまたず、手ごたへしたるが、暫時にして霧雨霽れ渡り、池中を凝視すれば大蛇は眉間を射られて仆れて居た。此の鎮西八郎と銘打ちたる矢の根、伊萬里の民家に秘蔵の寶物として今に傳はる。其の後、後白河天皇の御宇保元丙子ノ年、崇徳院御謀叛の時、為義の勸めにより八郎御味方に走せ参じ、軍破れて為義、息致等誅せられ、八郎は伊豆大島に流され、二條天皇の永萬元乙酉ノ年三月鬼ケ島を押領す、この鬼ケ島は八丈島ともいひ、また別島ともいひて子孫其の処に残れり。黒髪山の悪蛇退治の故を以て為朝の碑を立つ、湊浦は鎌田老衰して庵室を結び、この石碑を建て為朝の菩提を弔ひし所である。為朝は伊豆の大島にて、高倉天皇の勅命によりて嘉應二年四月自害し果てられたりと(松浦記集成)
 また佐志村宇唐房にも、為朝の塔と傳ふるものがある。
 今は保元物語の文を抄出して参照に供しやう。

 新院は齊院の御所より、北殿へ遷らせ給ふ、左府は車にて参り給ふ。白河殿より北、河原より東、春日の末に在りければ、北殿とぞ申しける、南の大炊御門表に、東西に門二つあり、東の門をば、平馬助忠正承って父子五人並に多田蔵人太夫頼憲、都合二百余騎にて固めたり。西の門をば六條判官為義承って、父子六人して固めたり、その勢百騎ばかりには過ぎざりけり。これこそ猛勢なるべきが、嫡子義朝に附いて、多分は内裏へ参りけり。爰に鎮西八郎為朝は、「われは親にも連れまじ、兄にも具すまじ、功各不覚も紛れぬ様に、只一人、いかにも強からむ方へさし向け給へ、たとひ千騎もあれ萬騎もあれ、一方は射払はむずるなり」とぞ申しける、依って西河原表の門をぞ固めける。北の春日表の門をば、左街門大夫家弘承って、子供具して固めたり、その勢百五十騎とぞ聞えし。抑も為朝一人にして、殊更大事の門を固めたること、武勇天下に許されし故なり。件の男、器量人に越え、心飽くまで剛にして、大力の強弓、矢つぎ早の手利(テキヽ)なり、弓手の肘、馬手に四寸延びて、矢束を引くこと世に越えたり、幼少より不敵にして、兄にも所を置かず、傍若無人なりしかば身に添へて、都に置きなば悪しかりなむとて、父不孝して、十三の歳より鎮西の方へ追ひ下すに、豊後の国に居住し、尾張權守家遠をめのととし、肥後の国阿曾平四郎忠景が子、三郎忠国が壻になって、君よりも給はらぬ、九国の総追捕使と號して、筑紫を随へむとしければ、菊地、原田を始めとして、所々に城を構へて立て籠れば、その儀ならば、いで落して見せむとて、未だ勢も附かざるに、忠国ばかりを案内者として、十三の歳の三月の末より、十五の歳の十月まで、大事の軍をすること二十余度、城を落すこと数十箇所なり、城を攻むる謀、敵を伐つ術、人に勝れて三年が内に、九国を皆攻め落してみづから総追捕使に押し成って、悪行多かりけるにや、香椎宮の神人等、都に上り訴へ申す間、いにし久壽元年十一月二十六日(紀元一八一四)、徳大寺中納言公能卿を上郷として、外記に仰せて、宣旨を下さる。
 源為朝、久住宰府、忽諸朝憲、咸背綸言、梟悪頻聞狼藉最甚、早可令禁進其身、依宣旨執達如件。
 然れども、為朝猶参洛せざりければ、同じき二年四月三日、父為義を解官せられて、前検非違使になされけり。為朝これを聞きて、親の科に當り給ふらむこそ浅ましけれ、その儀ならば、われこそいかなる罪科にも行はれんずれとて、急ぎ上りければ、国人共も上洛すべき由申しけれども、大勢にて罷り上らむこと、上聞穏便ならずとて、形の如くにつき従ふ兵ばかり召し具しけり。傳子の箭前払(ヤサキバラヒ)の須藤九郎家李、その兄隙間数の悪七別當、手取の與次、同じき與三郎、三町礫の紀平次太夫、大矢の新三郎、越矢の源太、松浦二郎、佐中次、吉田兵衛、打手の紀八、高間三郎、同じき四郎を始めとして、二十八騎をぞ具したりける。依って去年より在京したりしを、父、不孝を赦して今度の御大事に召し具しけるなり。


 為朝九州に下り僅に三年にして、諸城を攻掠し、自ら総追捕使として九州に猛威を恣まゝにし、香椎の神人の訴訟となり、己の罪科によりて父為義の解官となるや、郎黨二十八騎を引き具して上洛した。其の中には松浦黨たる松浦二郎も加はつて居る。されば為朝の威令は勿論松浦地方にも行はれたること明であって、従って其の遺跡が所々に存在するも自然の理ではあるが、湊村なる為朝の碑は不審の点が多い、そは為朝が久壽二年(紀元一八一五)上洛せし時は齢十八歳であって嘉應三年(紀元一八三〇)伊豆大島に最後を遂げし時は年齢三十三と云って居る、然るに保安元年(紀元一七八〇)九州に下向したものとすれば、為朝はまだ出生前十七年に當るわけで、これ疑問の一つである。また鎌田次郎は為朝の兄義朝の郎黨として保元の乱に武功があり、為朝の家の子たる鎌田と同名異人であるが、これまた不審の一つである。記してこれが辨をなす。
 以下為朝が保元の乱に干與せしことより後の略傳を記さう。抑も俣元の乱(紀元一八一六)は、表面の原因は崇徳上皇と後白河天皇との争であって、上皇方には藤原頼長・源為義・同為朝・平忠正等味方し、天皇方には頼長の兄藤原忠通・源義朝・平清盛等馳せ参じた。さて左大臣頼長は為朝を召して謀を諮ふ、為朝對へて戦ひは夜戦に若くものはない、臣願くば今夜高松殿を襲はんと、頼長用ひず。然るに義朝、清盛等夜襲をなす、為朝怒りて臣既に先きに之を予言す、今果してこの事ありと、上皇遽に為朝を進めて蔵人と為し之を奨励せんとせしに、為朝云へるに、敵兵来り迫るよろしく方略を決すべき時である、何ぞ除目叙官の如き悠々たるべき時ならんや、吾は鎮西八郎にて足るとて、遂に進みて大に戦ひ数人を殪す。義朝大呼しいへらく、我は宣旨の使である、且つ汝が兄である、汝我に向って矢を放たば天譴遁れ難からん、よろしく降を請ふべしと。為朝いへるに、兄に向ひて矢を放つと父に抗して戦ふと天譴何れが重きぞ、義朝語に窮した。かくて両軍交々戦ふ、為朝は一矢も過つことなく弦に応じて敵を仆す。為朝首藤家季にいへるに、敵兵甚だ衆し若し吾軍矢竭き短兵相接せんには、一以て百に當るも亦敵しがたい、我れ一箭を発し軍将を威嚇せんと、家季對へて、甚だよろし誤って傷くること勿れと、為朝乃ち矢を放てば、鏃義朝の*(務金カブト)を斫りて寶荘厳院の門楔に達した、義朝馬を進めていへるに、汝もと射を善くす今何ぞ精ならざると、為朝對へて家兄を憚りて敢てせざるのみ、請ふ中つるところを命ぜよとて、矢を注ぎ将に発せんとして事頗る急なりければ、深巣清国進みて義朝の馬前を遮る、為朝之を射て斃し、両軍入乱れて格闘する間に.義朝風に乗じて火を縦つ、恰も為朝の考ふるところを行ふたのである、上皇方の軍遂に敗滅した。為義滑僧となり出で降らんと、為朝これを不可とし、新院(崇徳上皇)は主上の兄である、左府(頼長)は又関白(忠通)の弟である、縦令家兄父を救はんと欲するも、朝廷は到底之を赦すことを為さんや、寧ろ関東に赴きて三浦・畠山・小山田等の族を説き、其の兵馬を藉りて関東を管領するに如かずや、官軍よし肉迫急なりとも、為朝力戦拒守せん若し事失敗に終りたりとて未だ後れたるにあらずと力説しけれども、為義従はず遂に義朝のために弑せられた。

 為朝逸走して近江の輪田に匿くれ、筑紫に奔り復讎を謀らんと企てしも、終に源重貞のために*(テヘンニ禽)へられて京師に遂られた。帝この雄将を北陣にて観る。廷議斬に処せんとせしも、其の非常の壮士なるを以て、死一等を減じて臂筋を断ちて伊豆の大島に流罪に処した。これより臂力稍々減ずといっても、射力は舊に倍加した。自ら謂ふ、我が祖は清和天皇より出でて八幡太郎の胤裔である、苟も祖先の偉業を失墜してはならぬ、この地こそ、朝廷より我に賜ふところであると云って、自ら大島、三宅、八女、三宅、澳の五島を領し、島民を愛撫し、舊臣稍々来り属し勢日に熾んとなり、こゝに十年を過ごした。偶々海上に白鷺の飛べる方向を見て島あるを知り、海に航すること一昼夜にして一島に達した、傳へて鬼ケ島といふ、為朝土人を服して島の名を改めて葦島といった。大島に帰りて後勢威益々加はつたが、嘉應二年伊豆ノ介工藤茂光京師に至りて其の状を奏上した、朝廷依って茂光をして兵五百を率ゐて為朝を討たしめた。戦艦大島に近きしに、為朝従士に謂へるは、我れ若しれんと欲せば敵縦令数萬なりとても恐るゝことはない、されど顧ふに吾嘗て筑紫にありて武威を輝し、西海の将士皆服せざるものはない、また保元の乱には東国の将士亦、目前に我射芸を見ざるものはない、また今は流竄に遭ふといっても、島守たるの恩典に浴して居る、縦令今官軍を郤退するとも、違勅の罪は免るゝことは出来ぬ、徒に多く人民を殺して何の益があらう、吾が志は終に決定す、汝等は悉く離散して各々生を全うせよとて、乃ち弓を取りで濱邊に出でて大箭を放ちて一艦に中でゝ艦腹を貫く、艦船為に沈没す。官軍大に懼れて躊躇した。為朝家に帰りて桂に靠り腹を刳きて最後を遂げた、時に年三十三、加藤景廉其の首を斬り、京都に送りて梟に附した。為朝の到るところの諸島今に祠を建て之を祭って居る。子義実は上西門院判官代となり、次子実信は上西門院蔵人となり、三子為頼は大島に生れ島ノ冠者と称したが、為朝自刃するとき先づ之を刺殺した、四子為家は大島二郎と称し、年五歳であったが、母に抱れて以て遁るゝことを得たといふ(大日本史)




   (□)関ノ清治 (玉島村の人)

 弘安八年(紀元一九四五)後宇多天皇の御字、松浦郡梅豆羅(メヅラ)ケ里に関ノ清治といふ長があった、恰士郡(今の糸島郡)二重嶽領の濱窺治郎といふものと水魚の交りをなし、折々相會して歓楽を分つて居たが、或時清治云ひけるには、我れ給田の外に何時の頃よりのことゝは明かをらざれど、百貫の隠田がある。依って度々興をやり快を取る、決して他言すること勿れと、治郎これを聴くより直ちに他人に漏洩す。然るにこの由また清治が知るところとなった、はやりをの若者のことなれば、憎き治郎が振舞かなとて即時に彼が私宅に押し寄せ、治郎に刃傷を加ふ、村中のものども騒ぎ立ちて清治を捕縛せんとしたるに、瞬く間に七人を斬り伏す。村中のもの集ひ来りて漸くにして取り押へて領主に訴へ、二重嶽よりは梅豆羅の領主に引き渡したれば、これを牢獄に投ず。然るに強力の清治は破獄逐天し、全く跡を闇まし行衛更に分明せず。依って官廳にては清治の妻子を捕へ、其の妻に合図の太鼓を打せて其の子に苛責を加へ清治が行衛を問ひ糺せるに、妻は我が子の苦悶の態を見るに堪へかね、又子を助けんとて夫の行衛を語らんには、忽ち夫の命は危うければ。余りの事に心狂乱して、歌を謡ひ太鼓の拍子をとりで、我は太宰府にゆかりあれば、夫は此処に忍びつらん、あはれ召し還し親子三人一処に置き給へとて、物狂ひして終に悶死す。其の子も亦この悲惨の状にやる方なき憤悶のうちに、自ら舌を噛んで亡せ果てね。清治この事を聴き知り、急ぎ自首し罪科を懺悔しで死を請へるに、領主よりの沙汰に、汝の罪科遁るべくもあらねど、妻子の節義ある優しき行ひは汝の死を償ふに足る、また他領に對して罪科処断につきての非難もあるまじければ、これより直ちに二人のために塚を立て、出家の身となり跡懇に追善供養をなすべしとありければ、彼は感涙に咽びしかども、心の煩悩止みがたく終に自害し果てぬ。三人のものどもを葬りし所に、一株の松生ひ出でて、其の葉三ツづつ鎖りて芽出でければ、此処を三ツ葉の松塚といひ、また関ノ清治とも云ふ(松浦記集成)




(ハ) 阿蘇大宮司惟直

 東松浦郡と小城郡の境に天山と云へる県内第一の高山ありて、頂上に惟直の墓がある。建武三年(紀元一九九六)足利尊氏、官軍の将新田義貞と戦ひ敗れて九州に走り、筑前国多々良濱にて、九州の官軍である肥後国菊地氏及び阿蘇大宮司惟直と兵を交へしが、菊池阿蘇等の軍利なく、惟直は松浦郡天川山のうち小杵(ヲツキ)山で自害し、遺言して故郷阿蘇山を見るところに葬むれと、因で此処に埋葬す。石塔は基礎共に高さ四尺一寸の五輪の塔であって、塔の何れの部分にも何等の文字も記標もなく。唯一基の塔は寂然として往時を喞つものゝやうに見えて居る。
 天山は、天川山麓より絶頂まで二十六町あり、天川山庄司の宅より二十八町あり、この邊五ケ村を五ケ山といふ、天川山は一村の名である。
 小杵山は天川山の内にあり、東西八十間南北百三十間の雑水山で、麓より絶頂まで七丁、荊棘(バイラ)山ともいふ、惟直自殺の場所は、天川山の人家より二十六町を距る。
 通石(トウイシ)山は、天川山のうちにあり、麓より絶頂まで六町の草野で、天川山庄司の宅より一里を隔つ、絶頂より少しく下りて大石がある。高さ数丈周囲五丈八尺、こり石に通りぬけたる穴あり、内に通石権現の祠を祀る。山の半腹に五人塚といふ古墳がある。惟直の臣を葬るところと傳へて居る、其の自害の場所は小杵山にて、五人塚より同山までは五町余のところである。塚の絶頂に大なる平地がある、合戦の場所といふ、嘉永年間に鑓、鏃などを同地より掘り出せりといふことである(松浦記集成)

 野史には、建武三年二月、阿蘇惟国の長子惟道・二男惟成、足利尊氏と多々良濱に戦ふて戦没した、三男惟澄二兄の尸を懐きて矢部城に帰った。初め元弘三年(紀元一九九三)惟澄・惟直と金剛山の官軍に参加せんと欲し、備後の鞆に至るに、令旨を賜ふに會し国に帰り、鞍岡の戦に創を被った、筑前の有智山、肥後の唐河の戦に力戦して遂に南郷城を抜く。延元三年惟澄僅かに五十余人を率ゐて、砥用、小池、甲佐、堅志田を陥れ、豊田の荘に入り、遂に土寇を郤退した、少貳頼尚は饗庭小太郎入道等を従へて来り襲ひ、山碕原で戦った、四月、一色少輔入道と大塚に戦ひ、一色右馬ノ助入道等を獲殺した、六月、矢部山を攻め越前守頼顕の兵を逐ひ、数百人を斃した。次で南郷城に入りて、坂梨太郎入道宗嘉及び其の子雅長等を獲殺す。七月、津守城を陥れ傷を被ること三、三條少将を援け、一色水垂入道と守富の荘に戦ひて利なく、惟澄これに代りで戦ひ、士卒多く傷を蒙る。菊池武重と倶に合志城を攻む。三年十月、少貳頼尚兵数千を率ゐ甲佐城を攻む、惟澄三十余騎を率ゐて城外に戦ふた。又南郷城を陥れ生虜数口を得た。仁木義長と数処に接戦し、城を小国郷玖珠・日田に構へしに、国人来り攻むるに遭ひ、拒戦して首を獲ること数百級に達した。興国元年冬、小島の戦に白石治部法橋之に斃る。尋で市下八郎入道道恵、惟時の一族数十人と反して南郷城に據る。惟澄赴きこれを攻む、豊後、肥後の国人の後援があった、惟澄転戦して創を被る、弟雁賢も亦負傷した、士卒多く死傷す、終に其の城を抜く、道恵等六十余人を獲た。三年六月、肥後の隈牟田及び守富荘の地頭職を以て、惟国に與へ、雁直等の戦死の功を賞した。
 秀廣夢想の記。阿蘇の荘大明神一圓、御寄進の綸旨以下の正文のこと、建武三年三月、惟直の先大宮司との多々良濱の御合戦に打ち負け、肥前国小城郡天山といふところにて腹斬り給ふとき、かの御もんには、錦の袋に入りながら、深き谷にありけるを、同郡ふるうちといふところの百姓、之を見つけて所の地頭の女圧に奉りたるよし、承ると雖も、実証なきうへ、吾がため當用にあらざればまかり過ぐるところに、同三年七月十三日寅の刻に、夢想に曰く、彼の綸旨は末代の神の御寶なり、阿蘇に寄與し申すべしと云々、然りと雖も、たゞ申うと存ずるところに、同五年六月二日夜夢想さきの如し、依って事既に領土に及ぶ間、同五日阿蘇へ飛脚をもて、申し入れおはんぬ。こゝに同十七日夜半ばかり、重ねて夢の告げありて曰く、僧二人比丘尼二人、をとこ二人来りて、かの御文書を請ふべきよし申すところに、又十二三ばかりなる童子笹の葉を持ち来りて、仰せらるゝやうに、何れの人にも叶ふべからず、此をさゝへよ、汝をこの二三年、肥前国小城郡に置きたるは、彼の文書にそへたるなり、汝知らずや、合戦の時うち死にして、既に三ケ日までありしを、我こそ助けたらしが、大明神の御ためには、玉黄金といふとも、此に過ぎたる寶はあるべからず、かくいふ我れこそ大明神よとて、笹の葉をうちふり、地の上をしだいしだいに上らせ給ふて天に上り給ふと見て夢は覚めにき。
 右條に詐り申さば、日本六十余州の大小神祇ことに、阿蘇十二宮大明神の御罰を、阿蘇秀廣が八萬四千の毛のあなごとに、まかり蒙ふるべく候、仍て起誓文の状如件。

    建武五年六月十八日           藤原 秀廣 判

 右によりて考ふれば、惟直がこと、野史に至って簡略に記傳して、今の巌木村字天川のことなどは見ることなきも、天山頂上の墓碑、小杵山邊にて武器の発見、また地理上敗残の将士が天川など云へる山険僻邑の地に一時遁亡して策を講ぜんとするなどあり勝ちのことであって、かつ秀廣夢想記は漠然たるものなれど、亦捨つべからざる趣きありて、惟直が舊跡たるは疑ふの余地なきものであらう。




  三 元寇と松浦地方

 今を去ること六百五六十年前に、元国が巨萬の軍を送りて入寇せしことは誰も知って居ることであれば、先づ其の概要を記して事の次第を叙し、然る後に松浦地方に関して起りしことを述ぶるであらう。
      
 元の世祖忽必烈(フビライ)は、高麗が其の属国の姿となるや、次で我国をも服属しやうと欲し、第九十代亀山天皇の文永五年高麗王を介して、左の如き国書を我に贈りて通交を求めた。

 上天眷命、大蒙古国皇帝、奉書 日本国王朕惟自舌小国之君、境土相接、尚務講信修睦、況我祖宗、受天明命、奄有区夏、遐方異域、畏威懐徳者、不可悉数、朕即位之初、以高麗无辜之民、久瘁鋒鏑、即令罷兵、還其彊域、反其旄倪、高麗君臣感戴来朝、義雖君臣、而歓若父子、計 王之君臣、亦已知之、高麗朕之東藩也、日本密通高麗、開国以来、亦時通中国、至於朕躬、而無一乗之使、以通和好、尚恐、王国知之未審、故特遣使持書、布告朕志、翼自今以往、通問結好、以相親睦、且聖人以四海為家、不相通好、豈一家之理哉、至用兵、夫孰所好、王其図之、不宣。
       至元三年八月日

 かやうな無礼極まるものであるから、時の執権北條時宗怒りて使者を追つかへし、其の後使者度来りしも悉く之を郤け、九州の防備を厳にし開戦に決した。
 それより亀山天皇の御子にて後宇多天皇の文永十一年、大兵を発して對馬壹岐を侵掠し、進んで肥前・筑前に寇した、少貳経資、大友頼泰、菊地隆泰等は九州の武夫を糾合して、防戦苦闘したが、たまたま暴風起りて敵艦多く破れて、夜にまぎれて逃げ失せた、これを文永の役といふ。
 この後元はまた使者を遣はし我に服従を逼ったけれども、時宗は却って愈々心を決し其の使を斬り防備怠りなく、更に進みて高麗を伐たんと企てしが、彼は我が逆撃に先だちて、弘安四年(紀元一九四一)五月元の一軍は朝鮮を経て高麗の兵を併せて、壹岐を掠め、博多に迫った。我が将河野通有等奮戦して敵艦に跳り入りて其の将を*(テヘンニ禽)にし、七月敵の別軍十余萬の勢も至りて前軍と合して容易ならざる兵力となったが、またも暴風雨大に起りて賊船多く覆没破壊し死者算なく、少貳景資等勢に乗じ残兵を追撃し、賊を肥前鷹島に殲滅した、之を弘安の役といふのである、さてこれより松浦地方に関することにうつるであらう、但し諸書に見えたる記事を抄出して、別々に記さん。

高祖遺文録に。文永十一年蒙古国より筑紫に攻め寄せ来りて、對馬のかためをなしてゐた對馬尉等逃げければ、賊は土民の男をば或は殺し或は生取にし、女をば或は取集めて手をとうして船に結び付け、或は生取にし、一人も助かるものがない。壹岐に寄せても亦同様であった。奉行入道豊前々司は逃げ落ちた。松浦黨は数百人打たれ、或は生取にせられたが、賊の寄りたる浦々の百姓共皆壹岐對馬のやうなうきめに蓬ふた。

日蓮註畫讃に。十月十四日壹岐島に押し寄せ、守護代平内左衛門景隆等城廓を構へ禦戦すると雖も蒙古乱入して景隆自殺す。二島の百姓等男は或は殺され或は補へられ、死は一所に集められて手を徹して船ばたに結び付けられ、虜はれざるものは一人も害せられざるなく、肥前松浦黨数百人も、或は伐たれ或は虜となり、この国の百姓男女等も壹岐對馬の如く災害を蒙った。

古寇記に。肥前松浦黨数百人或は戦死し或は俘となり、里民害に遇ふこと二島(壹岐對馬)のやうであった、また「鎮西要略」には、諸将の寇を禦ぐことを挙げて云へるに、壹岐・松浦・今津・博多などに到りて防戦した。この松浦と称するは如ち肥前松浦郡であって、則ち賊の肥前沿海を寇するを知るべし斯の時に方りて、松浦の族黨已に繁衍し分れて数十家となる、松浦・波多・石志・神田・佐志・相知・有田。大河野・峰・山代・八竝・値賀。紐指・鷹島・鶴田・鴨打・木島・黒川・清水・吉永・手方・志佐・吉野・宇久・早岐・御厨・小佐佐・伊萬里・津吉・諸氏を世にこれを松浦黨と称し、西方の巨族となった皆西肥壹岐の間に居て、蒙古来寇の時各々其の衝に當って防戦せざるはなし、たゞ恨むらくば其の姓名功績の傳はらざるを。

伏敵編に。弘安四年元軍十有余萬大挙して来侵したる時、松浦黨の山代栄(又三郎)志佐継(次郎)は壹岐に戦ひ、相知比・石志兼・宇久競は肥筑の間に転戦し功を立て、或は戦死し或は傷つきたりと鎮西要略に。弘安四年辛巳、蒙古の大軍襲来す、夏六月、元蒙古の阿刺罕(アラカン)・苑文虎上将となり、忻都(キント)・洪茶丘(コウサキウ)次将として数千艘の舟師を遣はし、以て我国を伐つ、其の兵幾百萬なるを知らず、壹岐・對馬・松浦・平戸・筑前の北海に襲来し、舳艫相含みて千里の空を蔽ひ、鉾戟天に輝き渡る様は鎮西にては未だ異狄の斯くの如き軍粧を見ず。小貳・大友・島津・菊地・以下鎮西の侯伯三十二人及び中国・四国の軍兵、太宰府に参集するもの二十五萬騎で、宗像・香椎・立花。多々良濱・青柳・筥崎・博多・名島・鳥飼・赤坂・生松原・百路原・今津・今張・姪濱・松浦・平戸に至る、東西数十里の間に陣を張りて、蟻の列を作るがやうである。七月二日松浦黨・彼杵千葉・高木。龍造寺等数萬騎を以て、壹岐島瀬戸浦に戦ふ、賊は舸上の高楼に登りて火箭鐵砲を放ちて大に防戦す、我が軍これがために死創を被るもの若干なりと。
 元寇の役につきては、我が東松浦郡内に住したる松浦黨の輩が、勇戦奮闘したることは前記諸書抄出によりて概略を知るに足れど、蒙古寇記に云へるやうに「たゞ恨むらくば其の姓名功績の傳はらざるを」、と、実に其の言へる如くにして記録なきを遺憾とするものである。しかして當時唐津地方沿岸の警固の物々しさと、修羅の巷となりしことは、宗像より平戸に至る海岸に数十里の間長蛇の陣を張りたるを以て推想するに足る。

 四 東寺と松浦の荘

元弘元年(紀元一九九一)京都東寺は其の領地肥前松浦の荘が、所定の納米をなさず専横放恣のことありたれば鎌倉、幕府に訴願を起して其の処決を仰がんものをとて、左の如き訴状をなした。
 東寺文書に。最勝光院所司等謹んで言上す、急ぎて御奏聞を経させられ、綸旨を武家に成し下され、六波羅御施行を鎮西に申し成し、厳密に御沙汰を経させられんことを欲す。當時領肥前松浦荘の地頭等、正中元年以来本家寺用米を抑留す、其の咎軽からざる事。
 右當荘は往古寺領なり、寺用百貳十石其の沙汰致すの地なり、而して異国要害のため地頭等一圓管領す云々と。然りと雖も本家役寺用米に於ては、更に懈怠なきのところ、近来恣に寺用を捍げ寺務遷替の間、厳密の沙汰に及ばざるにより、彌々闕怠す。其の咎遁れ難きものなり。爰に正中元年、最勝光院を以て東寺に附せられ、六箇鄭重の御願を始め行はれ、官符を関東に成し進められ、殊に公家武家の安全を祈り奉るべきの由其の御沙汰あり、関東御施行の上は、早く綸旨を武家に下され、年々懈怠なく向後寺用を妨ぐることなきやう、厳密の御沙汰経させられ、急速に裁断に預りたく、粗言を上ること如件。
      元徳三年四月日 (元徳三年は元弘元年と改元す)
右の文書によれば唯松浦として松浦の何地なるや不明なれど、當地方の武家政府の配下たる地頭等が我まゝ勝手を振る舞ひて、本家本所を無視したる、當時の地方の状態が目前に視らるゝ如き心地がせらるゝのである。

  五 松浦氏

 肥前守源鎮信入道泰岳(式部卿法印たりしゆゑ平戸法師ともいふ)は、前肥前守隆信入道道可が男にて、累代の先祖肥前国松浦郡に住し、松浦黨の随一として太宰少貳の被官である、入道道可八代の祖肥前守興栄のとき、平戸の城を構へて移り、當国に勢威を振ふ。

 其の家系に。河原左大臣源融公の末葉。奈古屋二郎源授、その子源太夫判官久始めて松浦の郡に住す、その子直下松浦源四郎太夫と名のり、御厨の庄七百五十町の地、久より譲り與へらる。其の子峰五郎枝、これより四代の間峰と名のる、枝が玄孫答松浦源五郎と名のる、これより世々松補と名のる、其の子肥前守定、その子肥前守勝、その子を肥前守興栄といふ。
 然るに世に傳ふる所は大に異なり、凡そ肥前国の侍に、上と下との松浦ありて其の種姓各異なり先づ上松浦と云ふは、嵯峨天皇の御子源融公の玄孫渡邊源五鋼が曾孫、松浦源太夫判官久が末葉である。久、肥前団松浦の守護と成って宇野の御厨の執行を兼ね、子孫打続きて唐津・伊萬里・有田・山代・久原等の地を領し、皆一字を以て名とした、鎮西の国人にて一字を名のるの輩は悉く此の後である。又下松浦といふことを、平戸松浦とも云ひて、是は陸奥六郎の押領使安倍頼時の男、宗任法師の後胤である。宗任源頼義朝臣に降りて、死罪一等を宥るされて肥前国に流さる其の子孫打続いて平戸に住して下の松浦と称す、これ肥前守鎮信の先祖である云々と、諸書に見ゆ。
 されども古記を考ふるに、上松浦の人々多くは一字を名のる源氏もあれど、又二字を名のる源氏もある。下松浦にも一字を名のる源氏があって、上下松浦ともに、近頃は安倍氏を見ざれば、宗任の後なる下松浦の流如何なりしにや、後にはそれも亦源氏を名りしものにや。松浦系図を見るに、授より勝まで十一代の中皆一字を以て名とす、興栄より後は皆二字を以て名とするは如何なる故にや。
 系図に融の大臣より授に至るまでの世嗣不明なりといふ。新編纂図には、融の大臣の男大納言昇、昇の二男武蔵守仕、其の子箕田源氏苑、其の子渡邊源五綱。綱が子源二別當久、これ鎮西松浦の祖なりと云ふ。東鑑には、寛元三年十二月廿五日、松浦の執行源授を召籠あらる、是れは上野入道日阿が所領の守護にて、鶴田五郎源馴と肥前国松浦庄西郷の内、佐里村・壹岐の泊牛牧等争論の事に付て、授、非據の余り無実を構へ申すに依りてなり云々と。これ系図に謂ゆる、名古屋二郎授のことならん、然らば系図に授が孫久より松浦に住すと云ふも不審、授既に松浦の執行たり、総て遠き世の事詳かにし難き事共多ければ、只その疑をかくるのみ。
 其の後少貳家滅びて、松浦家は大内氏に随ひ、道可入道の時に至り、天正の中頃、又龍造寺隆信に随ふ。同じき十年對馬国の兵船壹岐国に押し寄せて、国人日高主膳正を随へんとす、主膳正同甲斐守、宗が軍勢を打ち破って松浦氏に加勢を乞ふ、入道軍勢を率ゐて押し渡り、己が兵を分って要害を守らせ、終に壹岐を併合するに至った(道可娘を日高主膳正が男孫九郎にめあはせしとなり。)同十五年豊臣関白筑紫の地を平げ給ひし時、道可が息男鎮信入道降参せしかば本領を安堵し、十七年二月廿七日式部卿法印に任じた(鎮信が入道せし事いかなる故にや審ならず。関白に参りし時に入道したるにあらすや)朝鮮の軍始まりて一方の先陣を承り、彼処此処に戦ふこと凡七年慶長三年太閤薨じ給ひて本朝に引き返す。同四年閏三月六日隆信入道道可卒す、七十一歳。翌五年関ケ原の役起るや、小西攝津守行長の諜状に應じて平戸法印、兵船に取り乗って長門国下関に至り鎮西の人々此処に會合して軍評定をなす、大村氏の異見に随ひ、人々爰より本国に漕ぎ戻す、天下悉く徳川氏に属して後、法印も恙なく本領を安堵せらる(六萬三千石) 按ずるに平戸法印大阪に馳せ上り、伏見城を攻めし由、家忠日記追加を始め、関ケ原の事を記せし諸記に見ゆ、唯関ケ原記に記す所、本文の如し、本領安堵せし上は諸記皆誤れるにや、若し松浦が勢伏見城を攻めしならんには、大阪に在り合ふ兵、奉行等にかり催されて打ち立ちたりしにあらずや。
 年六十六歳にて慶長十九年に至りて卒す、子息肥前守久信慶長七年年三十二歳にて父に先き立ち卒しければ、其の子壹岐守隆信祖父に継で肥前守に任ず、隆信の嫡子肥前守鎮信父に継で(六萬千五百石此の両代皆父祖の名を名乗る如何なる謂れにや)、舎弟に所領を分つ(猪左衛門信貞千五百石左内某五百石と云ふ)
 以上は総て藩翰譜の文を取りて要を記せるものである
 九州軍記には、永禄十一年五月龍造寺隆信は、平戸ノ守護松浦民部大輔を旗下に属せんとて、彼の地に押し向ふ、民部大輔この事を聞きて、大友家に加勢を乞ひければ、大友より同国波多尾張守、筑前国小田部大鶴等平戸に指向ふべしと催促ありけり、隆信この事聞きて加勢の来らぬ先に、松浦を攻め落さんとして永禄十一年四月廿九日に、松浦が領内に働く、松浦堪へ兼ねて伊萬里と云ふ所に打ち出で、散々に攻め戦ふ、同国唐津城主波多尾張守は、兼て松浦方にて有りけるが、俄に野心を起して龍造寺に與力しければ、松浦忽ちに打ち負けて、漸くに小舟に取り乗って平戸城に引き籠る、隆信続て寄すべかりしを、迫門(セト)を渡るべき舟なくして延引す、後に松浦も龍造寺が勢におされ、伊萬里千町を隆信に差し出して旗下となる。
 肥前守鎮信の後、棟(タカシ)・篤信・有信・誠(サネ)信・熙・曜(テラス)・詮・原をる當主に及び、家門繁栄して伯爵の礼遇を受けて居る。松浦黨の後に現在繁栄せるは同家のみで、草野・披多氏は何れも三百年前に滅亡したのである。


 六 草野氏

 筑後地鑑により草野の系図を尋ぬるに、其の先きは奥州厨川の城主安倍宗任、肥前松浦郡に配流せられ、小値賀島に居る、其の末葉に及び、頼朝公筑後に於て山本・御井・御原の内三千町を賜ふ、乃ち草野ノ庄吉本村に城く、よりて草野氏を称す云々。
 鎮西要略によれば、関白道隆−太宰帥文家−太宰帥文時−中将文貞−太宰大貳季貞−貞永に及ぶ。貞永は筑前守高木・草野・北野・於保・益田・成道寺等の祖となる。貞永の子を太郎大夫宗貞と云ひ、宗貞に宗家・貞家・永経の三子あり、永経の子に永平なるものあり、筑後守兼松浦の鏡社宮司職となる、適々其の家筑後の鹿塚(?)にあり。松浦に居住する井上・赤氏(?)・上妻は草野の支流である。其の一族の旗章には日の足を以てす云々。
 前二記何れを正しきとも云ひ難けれども、筑後国より松浦に移りたるは事実であって、文治二年十二月十日(紀元一八四六)肥前ノ国鏡社の宮司職のこと、草野次郎大夫永平を以て定輔すと東鑑に見えて居る、また筑後地鑑に、永平其の兄と同時に松浦郷を賜はりて領地せしめらる、其の苗裔は今の松浦黨これなりと。
鏡神社々記に。鏡大明神社殿、内裏より御造営あり、後奈良院の御宇改めて勅額を下し給ふ。社領松浦郡草野庄を附せらる、高二萬五千石也、九月九日の祭日に毎年市立つ、諸侯より一州二疋の馬を献ぜらる。社の境内八丁四方なり、方一里の間下馬下乗なり、所々の境界を標示する所を八丁塚と云ふ。宮殿・七堂・大伽藍・惣廻廊・釈迦堂・毘沙門堂・不動愛染両明王・其外末社の数多し。鐘楼門・山門・二王門・一・二・三の華表・御供殿・普請方諸役三百廿人、大宮司草野陸奥守源鎮光復姓して後藤原となる、草野宗瓔迄二十代の元祖なり、往古は社僧領一萬石、大宮司領一萬石、下社官十八人大宮司より扶持す、其後草野威勢強くして一圓に所領となり、社僧法印、政所坊・宮路坊・御燈坊・御供坊・転法院を始めとして、草野家よりの賄となる。草野氏は鏡宮並に無怨寺宮の大宮司なり、戦国の役に戦敗して、今は僅に社僧二坊社司二人となりぬ。
 松浦古事記の中にも、鏡神社のこと記せるが、其の一節に、御供米三百石、従波多氏御寄進也神主草野宗瓔、大村鬼ケ城主二萬五千石云々と。
 草野氏は鏡大宮司として二萬五千石を食み、今の玉島村往時の大村なる鬼ケ城に城塞を横へて勢威を振ひ、松浦黨と伍して覇を競ふたのである。
 建久五年七月廿日(紀元一八五四)、将軍源頼朝は武運長久を祈請するために、御鎧・劒・弓箭等を肥前鏡社に奉納せり、偶々大宮司草野大夫永平訴訟の事に依って、代官を鎌倉に差遣せしに、其の日大蔵丞頼平を奉行となし、奉納品を受授せしむ。後寛喜四年(貞永と改元す、紀元一八九二)鏡社の社人高麗の沿海を漂掠したることは、前既に述べたるところであって、何れも東鑑に録して居る。
 足利尊氏後醍醐天皇に叛き奉り、敗れて一旦九州に落ちのぴ、再び軍容を整へで西国の兵を率ゐて東上した。この時草野氏も其の麾下に属して攻め上つたが、建武三年三月二十七日(延元と改元す、紀元一九九六)、天皇之を避けて叡山に幸し給ひしかば、六月五日尊氏の弟直義は山門を攻め、少貳頼尚及び鎮西の大軍は横川・篠峰に向ひ、日々戦を挑み、三十日頼尚及び筑紫勢は死を堵して摶戦したが、肥前国鏡大宮司草野右近将監季永は、名和伯耆守長年を討ち取りて抜群の功績あるよし、鎮西要略に見えて居る。鎌倉幕府創立以来武家政治の世となりて、こゝに一時後醍醐天皇の建武中興の治世を見たりと雖も、再び破綻の悲運に會したる時であって、大義名分など考ふるの暇なかりしか、将たまた意ありて朝敵尊氏の勢力の下に参集せしにや、當時この地方は京都方の政令に服して居た。
 天正元年十二月(紀元二二三三)、龍造寺隆信佐賀城を出馬して松浦地方征伐の途に上り、神代刑部大輔長良其の臣神代對島守三瀬大蔵・逢瀬・杜以下数百騎の勢を引き具した。松浦の鬼子岳城主波多三河守鎮先づ降服し、其の臣八並武蔵守・福井山城守を案内者となしければ、彼等を先頭とし獅子ケ城(厳木村にあり)、を攻めしに、城主鶴田越前守世に勝れたる武士にて、数日間良く防戦す、鍋島信生先陣に立ちて、鎗を奮ひ士卒を励まして戦ひしが、鶴田支ふること能はずして兜を脱ぎて出で降った。頓て彼は草野征伐の先陣を命ぜられ、獅子ケ城には龍造寺河内守・馬渡主殿介を加番として留まらしむ。
 かくて唐津に年越えをなし、軍旅中のことなれば除夜の儀式といふ事もなく、只陣中の将卒に酒を給はりしけるが、偶々折しも漁夫共鰤を献ぜしに、今日のお肴は是に如くものあるべからずとて即ち之を調理して将士に給はり醉をすゝめられき。この古例によりて龍造寺・鍋島家の上下のもの今に至るまで、除夜には鰤を庖丁するに至った。 
 翌天正二年正月朔日、龍公の下知にて鏡大宮司の居城鬼ケ城を攻伐した、城主草野鎮永は侮り難き武将なればとて、鶴田兵部少輔・八並武蔵守・神代對馬守・三瀬・大蔵・千葉・原田を一陣とし、其の総帥には信生公を當らしむ、城中防戦甚だ力めしかば、久納平兵衛傷き斃る。日暮るに及びて漸く軍を収む、同三日龍造寺兵庫頭・同左馬太夫・勝尾勝一軒等、雨と注ぐ矢玉の中を猛虎の狂へる如く、獅子の吼るが如き勢にて奮闘して、一ノ城戸を攻め破り火を放ちたるに、鎮永終に支ふること能はずして筑前地に落ち延びた、原田上総之助は鎮永が子なりければ、急ぎ城に迎へて、龍造寺氏に和平を請ひ、倉町信俊が次男三平を鎮永の養子と定む、こゝに於て唐津地方平定すと(肥陽軍記)。
 當時鎮永は草野庄三萬石を食むと云へるが、豊臣秀吉九州征伐の挙あらんとするや、天正十四年二月、肥前の国士龍造寺以下豊公に内通の使を東上せしめたが、其の使者郷国に帰るの際、諸士に分ち與へたる書辞は何れも同様であって唯宛名を異にするのみであつたが、草野に與へられたるものは。

 為一札差上、水崎和泉、殊太刀一腰馬一疋到来、悦思召使、抑島津御退治之事、毛利右馬頭、雖被仰付候、始羽柴備前少将、羽柴中納言、其外追々、被差遣人数侯、為九州見物、殿下三月一日被御動座候、然者十月廿日之間之儀候條、無卒爾之儀、堅固之備尤候、彼逆徒等悉可被刎首候間、各依忠節色、被成御褒美候、尚黒田勘解由可申候也。
       二月十八日      中務少輔殿
           秀吉(當判)

 されど草野氏は豊公に對する誠意を缺きたるため、其の忌諱に觸れて家門滅亡するに至った。鎮
永の墳墓は玉島村字南側・功岳寺にあり。


 功岳寺に於ける草野永久の碑銘の一節に、芳野執行法印宗信曰く、當今諸国変らず宮方に属し、筑紫に於ては菊池・松浦・鬼八郎・草野・山鹿・土肥・赤星云々。元弘三年八月二十九日入道圓種軍功に依り綸旨を賜ふ云々。草野太郎永平・同種守・同貞永・同四郎入道圓種・同四郎武永・同永治・同長門守永久・同中務太輔鎮永・同鎮信・同鎮恒云々と。然るに鎮西要略には延元々年、草野右近将監季永が名和長年と討ち取りて抜群の功績あるよしを述べて居る。何れを信ずべきか迷ふところなるも、功岳寺の碑銘は同寺住持の手になるものなれば、或は人間の弱点として、味方に對する見解は有利に扱ふものであれば、叛賊尊氏に属して忠臣長年を撃ちしと云ふは、心苦しきところありて彼の碑銘を生むに至りしにあらざるか、識者の教へを待つものである。但し碑文中の入道圓種は季永なるべし、年代と合致すればなり。

 七 波多氏

 波多氏は鬼子岳(キシダケ)城に占據したる松浦黨の領袖である。抑々鬼子岳は今の北披多村にあり東方の山尾は相知村に跨って居る、山の東方は松浦川の本流流れ、西は波多川注ぎきて、山は丁度其の中間に位して居る、(慶長年間寺澤志摩守の松浦川改修前までは、松浦川と波多川は全く別流にて海に注ぐ)この両河の谿谷こそ東松浦交通の要地であって、佐賀方面よりは松浦川伊萬里方面よりは波多川の沿岸に出でざれば、唐津湾頭に出づること能はざるもので、即ち鬼子岳の位置は東松浦郡の死命を制すべき要害である。當時に於ける城塞を構ふ地としては無上の形勝地である。然るに波多氏に関する記録の存するもの乏しく、偶々之を見るといっても、一々信を措くに足るもの鮮少なると、且つ断片的なるは恰も草野氏に於けるそれと同一である。今は唯諸書に散見するものを列記して、少しく愚見を所々に加ふることゝせん。


      其一 鬼子岳城主のこと

 當城主は、嵯峨天皇第十二の皇子正二位左大臣融公の末葉、奥州の住人阿倍常陸之介源頼時、永承六年(紀元一七一一)後冷泉院の朝、大将軍を望みけれども其の事叶はずして、常陸介謀叛す。源頼義勅命を蒙りて討伐せしが天喜五年九月(紀元一七一七)頼時終に敗亡した。頼時の子貞任宗任といへる兄弟、源頼義の嫡男八幡太郎義家父子と戦ふこと九年、終に義家賊を平げ、囚虜宗任を九州に流せしが、寛治五年(紀元一七五一)赦免の恩命により、直ちに肥前国下松浦の地を領す、子孫繁栄して松浦郡竝に壹岐に其の族所領を有するに至った。波多氏十七代の主は三河守親といひ、幕の紋二ツ引き両に三星である。この紋章には故事がある、左大臣従一位に昇進の時、勅して月の輪の印を賜はる、其の後裔地方に下りて、月の輪をかたどりて二引き両を用ひ、三公の響きを以て三星を附したのである。波多氏の第一祖融公は、弘仁十四年(紀元一四八三)御誕生、淳和天皇の天長元年右大臣に任じ、清和天皇貞観十四年八月左大臣に昇進、宇多天皇の寛平元年輦(クルマ)を勅免せられ、同七年八月(紀元一五五五)薨去す。十七代三河守の時には、平戸・大村・日高・五島・志佐・有浦・呼子・値賀・佐志・鶴田を始めとして、末葉三十六人繁延するに至った。
 波多氏の十六代に嫡男なく、嫡女有馬殿を聟とし、其の継嗣波多の家督を相続した、これ即ち三河守親である。内室は龍造寺山城守隆信の息女である。二男有馬家を相続し修理太夫と號す、其の子は左衛門ノ佐なり、有馬は肥後国菊池の末葉である。松浦黨の旗頭波多三代主の次男呼子兵庫頭清信より、六代兵部少輔清友源平の乱に討死す。同十五代松浦讃岐守清、嫡男呼子美作守清次、嫡男呼子平右衛門、其の子七兵衛、二男十右街門清久、其の子を孫右衛門といった。
 天正の頃龍造寺と有馬と合戦の時、波多勢有馬方へ與力し、有馬小勢にて戦場を引き上げ、龍造寺の軍勢追馳け、波多勢防戦のところ、薩摩勢有馬の後詰して島津の軍大将川上左京、龍造寺の本陣に切り込み、隆信を討取る、これより隆信の一類等は、波多が龍造寺の女婿なるに翻って敵と成りしことを大に怨むに至つた。
  以上は松浦記集成の記事

 西肥前唐津城主波多参河守鎮(後親といふ)妻女を矢へるよし、龍造寺隆信聞召及ばれ、御姫を遣はさるべきよし仰せられた。参河守大に悦び、其の臣八並武蔵守を遣はし迎へ申さんとするに、御姫俄かに病に罹りて九死一生の態である、八並いひけるは、某御迎に参り宜敷帰るべきにあらず、若し御姫病死し給はんには、殉死すべしと。然るに當家の臣橋野将監其の心情に感じ、同じく御逝去あらば共に自害せんと誓ひしに、殊の外御快癒にて、波多家に御輿入れありしは上下の悦ぶところなり。其の後波多実子なくして、隆信の子政家の生むところの孫太郎を養ひて、波多家をぞ継がせける。
 以上肥陽軍記の所載

 阿倍宗任を嵯峨源氏の後とするは非なり。阿倍氏は其の先きを第八代孝元天皇の皇子大彦命に発して居る、第十代崇神天皇の朝に四道将軍の派遣があって、大彦命を北陸に、其の御子武渟河別(タケヌカハワケ)を東海に、道主命(第九代開化天皇の御子彦坐王の子)を丹波に、吉備津彦(第七代孝霊天皇の御子)を西道にやりて、以て詔して、教を奉ぜざるものを伐てと、かくて各々其の任に就きしが、大彦命の後裔は東北地方に繁延して、近江には佐々貴君あり、駿河に河倍臣あり、其の族分れて陸奥臣・安積(アサカ)臣・柴田臣・信夫臣・會津臣・*(ケモノヘンニ爰・さる)島臣・磐城臣等となり、第三十七代齊明天皇の朝に、越(コシ)ノ国守として蝦夷・粛慎(ミシハセ)を征服したる、阿倍引田此羅夫も亦この後である。其の後阿倍氏は世々陸奥に居り、頼時の祖父忠頼は俘囚長(俘囚とは内地人の蝦夷に居る者)となり、父忠良は陸奥の大椽となり、頼時父祖の業に籍り、勢強大にして奥六郡を領し、第七十代後冷泉の朝に乱をなし、事破れて其の子宗任源義家に輔へられ、筑紫松浦潟の残月を眺むるに至つたのである。
 然るに上松浦は嵯峨源氏の流れを汲めるもの繁延し、下松浦値賀島を本として宗任の子孫勢を得しと云へるに、松浦集成記には、十七代参河守の時には、平戸・大村・五島地方にも其の一族栄えて云々とす。これによりて考ふれば、最初こそ源氏と阿倍氏の勢力範囲こそあれ後には或は混淆錯綜するに至りしものならん。

    其二 鬼子嶽城主のこと(別記)

 鬼子嶽城主は、元明天皇の和銅元年三月入部、葛原親王の孫である、村上天皇の御代三十五萬石永仁四年伏見院の御代大小の諸士三百四人、足軽七百人所々村々にあり、永仁三年四月大友宗林切取一萬八千石、弟上総佐・崇光院の御宇永治三年十一月源膃切取、葛原王子十八代の孫波多伊勢守入部、後醍醐天皇の嘉暦二年、嫡男丹波守・次男小田原大雄山最勝寺了菴大和云々(松浦古来略伝記)
 按ずるに松浦古来賂傳記は、訛傳甚だ多くして最も信を措くに足らざるものである、されど録して参考に供するのみ。抑も葛原親王は桓武天皇の皇子にして天皇は元明天皇より約七十余年後の主上である。然るに城主を葛原親王の御孫と仮定すれば、淳和天皇か仁明天皇頃の人である、元明天皇と云へるは仁明天皇の謂か、されど和銅なる年號は元明天皇の年號なり、事理更に明でない、また、崇光院は北朝の主上であって、其の頃は貞和・観応の年號は存するも、永治なる年號はない、永治は元年のみにて改元となり、二年とか三年とかの年代はなく、崇徳天皇の年號に當る、崇光院時代より二百年前である。村上天皇の御代三十五萬石云々、當時は食禄石高などの称呼はない、石高などの称は漸く織豊時代よりの称なり、以て松浦古来略傳記の価値を推知するに足る。


    其三 鬼子嶽城のこと

 波多家の先祖源仕、六孫王経基の旗下に属し、朝敵征伐の為に向ひしは、權ノ亮平純素九州に攻め入りし時である。仕倩々考ふるに、追ふべき図を追はざれば、必定続て寄すべき故にこそあらんと、豊前国若松浦に幕をうたせ、南の山に斥候を出して野営をなし居たるに、案の如く其の夜の暁ごろ、遠見のもの純素に告げけるは、敵兵近づきたるものゝ如し、月影の中に夥しき軍兵の動揺を見ると、純素思へらく敵軍よも此処に陣営すとは思料せざるべし、不意に立つて勝敗を決せんとて、頓て陣容を調へ山に據りて鳴をしづめて敵を迎へた。右少将好古朝臣は道に敵ありとも知らず、馬をはやめける所に、純素が勢前後より包囲して鬨を上げたるに、官軍これに恐れて如何はせんと途を失ひぬ、純素この状を見て、二萬五千余騎を五手に分けて余さじと攻め立てたり。官軍の先陣右衛門佐慶幸・大蔵ノ允春実両勢合せて五千余騎側目もふらず戦ふた、其の隙に好古朝臣陣々を手分けして士卒を下知しければ、味方勢を恢復して入り乱れて戦ふ。斯かる所に柳ヶ浦には源ノ仕、昨日敵の引き退きし時、其の勢に交りて松夜刃・友夜刃といふ忍びの者を二人まで敵の陣へ遣はして、事の様を窺はしめけるに、其の夜亥刻過ぎて友夜刃立ち帰りて、純素が勢若松浦に陣したるよし注進しけるに、羽林次将相図の刻限を違へて、宵よりひそかに出陣し給ふと、必定路次にて軍あるべし、如何あらんと不審に思ふところに、又丑ノ刻計りに松夜刃走り帰りて、軍の次第を物語る、箕田急き大将六孫王の御前に参りて、しかじかの様子をまうして、則ち多田満仲を大将軍として馳せ向ふ忽ち仕に追ひ立てられ、純素終に黒崎へ引き退き、其の後追々一統或は打ち死にし、或は自害し大将純友播州にて捕はれ、都に引かれけるが、途中にて病に死す。既に九州平定の後、大小の神祇に奉納し修理等ありたり。其の後多田満仲肥前国主たらんことを望み給ひけれども、再び九州に下り給はん隙なく、後に源頼光肥前守に任じ、九州に下り給ひぬ、源仕は武蔵守に任じ武州箕田に住す、其の子箕田源氏ノ宛、父母早世して渡邊佐衛門佐固の養子となる、これ渡邊綱なり、其の子名古屋治郎二男松浦源太夫判官久なり。
 鬼子嶽は、往古鬼住みしといふ所である。其の古を尋ぬるに、長元四年四月(紀元一六九一)平忠常下総国にて謀叛を企て、源頼信に亡されし時、稲江多羅紀といふもの、信州福原に住居せし野武士であったが、忠常に味方せしに、不運にして忠常亡び、多羅記身を隠すに所なく、此処に来りて耕作を業とし、夜は立木を相手に剣術を試み、野繋ぎの馬を盗みては是に乗り居たりしが、其の子に鬼子嶽弧角といふものあり、飽まで強力にして、所々を押領し、或は押入強盗をなし、神変不審議の凶賊である。この孤角に随ひし族凡そ三千人、其の中に夫々の役名を附し、大名と肩を竝ぶるの様であって、其の横暴劫掠甚しく国守の手にも及ばざれは、都に訴へ早く軍勢を下さるべしとて、度々注進ありければ、月卿雲客評議まちまちにて、早く討手を下さずば、近国をなやまし大事に及ぶべし誅伐せずんばあるべからずと、先づ其の軍将の人選をなしけるに、往昔伊吹山より大江山の賊徒退治の例にならひ、當時の英雄渡邊源太夫判官久こそ、曾祖源吾綱にも劣らぬ器量ありとて、評定忽ち一決して、孤角退治の宣旨を蒙り、時日を移さず肥前松浦郡にぞ向ひける。
 判官源久は三千余騎を引き具して、先づ豊前筑前の間にも此処彼処に、悪黨多かりけるを誅戮して松浦郡千々賀村(鬼塚村内)に着しければ、鬼子嶽の梟酋孤角は斥候を放ちて其の勢の多寡を窺はしむ。寄手の勢は心静かに兵糧を蓄へ軍容を整へ、鬼子嶽の麓に押し寄せ山上を窺ふに、敵も兼て覚悟をなしたることにて、乱杭・逆茂木を透き間もなく配設し、山腹に掻楯(カイダテ)を置きて其の背に射手と思しきもの百騎ばかり鎧の袖をつらね、弓のはづを竝べ鼻油引て待ちかけたり、山塞に籠れる賊徒千余騎と聞えしが、皆徒ち立ちの勢にて騎馬は一騎も見えざりき。楯を叩きで閧の声を上るとひとしく山谷も崩るゝばかりに城中よりも鬨を合せたり、矢がかり近く成りたれば、矢尻を揃へてさんざんに射る、寄手の先陣二百余騎すこしもひるまず、楯を竝べわめき叫んで攻め登り、逆茂木を忽ち抜き払ひ、掻楯に押し寄せたり、山上にも弓を打ち捨て、雙方打物取って斬り結ぶ、賊徒は元来強勢の暴ばれもの、寄手は弓馬の掛け引きの達者、追ひつまくりつ火花を散らして戦ふたり、然れども未だ勝負も見えざれば、其の日の陣は相引きとなる。翌日早天に押し寄せて城塞を見れば、一つの人影だに見えず城中は寂莫として鎮まりたり、寄手は思へらく、敵は必定叶はずと思ひ夜中に何処ともなく遁げ落ちつらん、何くまでも追撃せんと掻楯の崩れたる処まで押し寄せたるに、大木茂みて是ぞと思ふ道もなし、石壁を構へ岩を切り抜き、大手には石の扉をしめて、押し寄すべきやうもなかりしに、かゝるところに相図の太鼓を打って、塀櫓より大木大石を投げ懸け投げかけ、寄すべき様もなかりしに、源太夫久は懸かれものどもとて士卒を励まし、一方に血路を開きで遮二無二に強襲を試み、城中よりは潮の湧くが如くに押し出し、大将孤角大あらめの鎧を着し、長刀掻い込み顕れ出で、源太夫久を見かけ、縦横無盡に打ちかゝれば、久少しも後れず太刀振り翳して斬り結ぶ。大将の戦に何かは猶豫すべき、我も我もと揉み立て、終に本城に攻め入りしに、賊徒進退度を失して遁げ惑ひ、勿論嶮岨の鬼子岳なれば逃げ延ぶべき道もなく、数十丈の谷底に落ち重り、己が太刀にて貫かるるもあり、或は岩角に骨を砕き微塵に成って死ぬるものもある。狐角は次第に手許狂ひて終に久が打ち下す太刀を受け外づして左の肩先を切られければ、叶はずとや思ひけん、風を食って逃げ出せしを、久撓まずまっしぐらに追ひ詰めて、松浦川の邊にて終に孤角を討ち取った。今其の所を鬼塚と云ふ。首は都に送り、骸はそこに埋む。それより捕虜を引き連れ城塞に登れば、小童女の泣き声譁びすし、其の身上を糺すに、一人の女涙ながらに云ひけるは、我等は一人も賊徒の妻子にあらず、彼等のために此処に奪はれ来り、夫婦妻子の中をも引きはなされ、情なく朝暮酒宴の相手になり、憂さ年月を送り、あはれ神佛の御加護にてこの事都へ聲えよかしと祈らぬ日とてはなく、今日まではかなき命を長らへて、斯かる時節に逢ひ奉ることの有り難さよと、十五六人の女ども手を合せて伏し拝みけるにぞ、竝み居る武夫も鎧の袖を絞らぬものなかりけり。かくて捕虜の内重立つ三人と狐角の首級を先き立て、都に凱歌を奏しける。帝叡慮を安んじ給はせ、久は御感状に依って松浦郡を領し、久安三年(紀元一八〇七)松浦郡へ下りぬ。比の源太夫判官の神霊を、彼杵(今長崎県内)今宮大明神に祀る、仰ぐべし尊むべし。(松浦記集成)
 この傳記は甚だ華やかにして、恰も実況を見聞せし人の筆になるが如き心地す、見る人心すべきものならん。さて承半天慶の乱は、東に平将門の反あり、西に藤原純友の乱ありて、天慶三年(紀元一六〇〇)純友敗れて伊予を脱して九州に走り、太宰府を陥れて財寶を奪ひ、勢威遠近に震ふ。四年五月右近衛少将小野古追捕使に、太宰少貳源経基次官として陸路攻め向ひ、藤原慶幸・大蔵春実等は海上より赴き、博多津に奮戦して賊船八百余艘を略取し、死傷数百人を出して賊徒離散し、純友は扁舟に乗りて伊予国に帰り、警同使橘遠保に射殺せられしは同年六月で、七月遠保は純友及び其の子重太丸の首を京師に送り、其他黨類たる紀文度・山城椽藤原三辰等斬られ、尋て賊魁桑原生行は源経基の手に捕はれ、三善文公は播磨に捕へられ、藤原文元は但馬に斬られた。また。綱の祖任は武蔵守に任じ。其の父宛は箕田に住し箕田源氏と称すと、扶桑略記・尊卑分脈などに見ゆ。しかして平純素などの賊将の名を見ず、或は藤原純友のことなるか、されど純友は橘遠保に射殺せられて、播州にて捕へられしやうにもあらず。また宛と綱は尊卑分脈によれば、父子にして同人でない。其の他不審の点多し、記して疑を存す。


  其四 陣ノ山の戦 (久里村字壱岐佐)

 延元元年(紀元一九九六)足利尊氏九州に敗走せしとき、筑前国宗像大宮司氏俊眞先に附随し、尊氏を城門に請じ、九州の諸士に檄を飛ばしけるに、鬼子嶽城主松浦源三郎繁惟へらく、天地覆載の間大君の地にあらずと云ふことなし、人として天恩を知らずんば畜類とことなることなしとて、意大に決し、一戦して利を得ずんば城を枕に討ち死にすべしと、味方すべき気色をも見せざりければ、一統の中より下松浦勢追々馳せ集り尊氏に降服す。また人ありて尊氏に告げけるに、松浦繁は菊地に力を合せ内通のよし、小身といへども松浦黨の長である、これを降服せしめずんば、必ず後の悔あらんと、尊氏これを容れて原田山城守をして味方に附随せんことを説かしむれども、更に肯ずべき景色見えざれば尊氏大に怒りて、誰かある彼を踏み潰して諸士への見せしめにせんものと、尊氏の甥満輔進み出で願くば我を向はしめよと、尊氏悦んでこれを諾す。直ちに軍勢を進めて大川端なる伊岐佐村に陣を張る、鬼子嶽はもとより思ひ儲けしことなれば、手配を定めて出で向ひ、最初矢合せとして、後両軍飛び交ひ入り乱れて奮戦し、日既に暮れ落ちたれば、双方陣を引きたり。翌朝未明より押寄せんと、夜の明くるを待ちければ、松浦黨の内より和議を提唱し、味方に参ぜんとてまうし出でたれば、尊氏大に悦び迎へたり。これより波多氏は北朝方となる。其の一日の戦に双方の戦死七十五人、其の陣跡を陣ノ山といふ、また其の山麓の田原を軍場といふ、今に其の地名として存して居る(松浦記集成)


  其五 獅子ケ城(厳木村字岩屋)

 當城はもと治承より文治の間(大約七百年前)、松浦丹後少将源披公初めて此処に築き居城となす、其の後裔平戸に移りて後は古城となった。少将の墳墓は城北浪瀬(厳木村内)にあり。又元亀天正の間(約三百五十年前)郡の日張城(川西にあり)の主鶴田因幡守は、鬼子岳城波多家の別家たりしが、佐賀城主龍造寺の強勢を恐れ、波多氏の東口の警固大事なりと、鶴田の家弟越前守前、強勇なるが故に、是を以て獅子ケ城を再興して、越前守に勢を附して守備せしむ。其の子上総介賢の時に至り、即ち天正の始めつ頃龍造寺と交戦して敗れて降服せり。(松浦記集成) 肥陽軍記には、龍造寺に降りしは鶴田越前守とす、松浦記集成には其の子上総介なりとす、何れか眞なるや明ならざれど、或は父子同時に降りて其の一方の名を記せしものにや。

    城 廓
 本丸(三百坪、山ノ口より大手迄九町、御番所より本丸迄十八町)
 二ノ丸(百八十坪、大手より本丸迄二町、往還の通より御番所迄三町)
 三ノ丸(九百坪、山ノ口より本丸迄十一町)




  其六 波多家没落の次第

 太閤秀吉、肥前名護屋城下向の折、博多津にて九州の諸侯伯何れも出で迎へをなせしに、波多三河守遅参につき、太閤其の次第を下問ありしに、鍋島加賀守體よく波多三河儀は自分旗下の者なれば、かく自分御目見えまうす上は、仔細あるにあらずとて申し上げけるに、其の節は其の儘に捨て置かれしが、頓て三河守到着して早速御機嫌を伺へるに、何の御意もなく手持ち無沙汰に退出した。
 其の後名護屋城に於て、浅野弾正少弼・石田治部少輔などをたよりて、首尾を繕ひけれども、終に単独接見のこともなく、朝鮮役帰国の上可然御沙汰あるべき旨仰せ渡されたり。これ全く太閤が名護屋隣国の大小名改易の上、名護屋城を寺澤志摩守へ給はり、朝鮮警固の任に當らしめ、没収地を悉く宛て行はるべきの思召である。この寺澤志摩守事幼名を仲治郎といひし時より、御側近く召仕はれ、其の器量執權をも勤めかねまじき者と思召しての事である。斯くて三河守鎮(後に親と改む)は、旗本一統に朝鮮進発の手配を命じて、先陣小西攝津守・加藤主計守に続て船を出さんとて、また旗本有浦大和守・値賀伊勢守を當地案内のため名護屋城に残留せしめ、其の身は二千騎にで朝鮮へ出発す。松浦刑部法印・大村新八郎・五島若狭守下松浦黨三族の家は別旗に備へたり。松浦黨渡海、一番に三河守朝鮮国順天山まで攻め入り、此処彼処にて敵を多く討ち取り、味方も過半討ち死にして、朝鮮に於ての勲功は十分にして、帰陣の後は御感状にも預るべきと、一統勇み進みて働きける。
 さて名護屋城には秀吉公在陣の徒然に、さまざまの御慰み別て茶の湯を好ませられ、古物珍器等思び思ひに献上す。又曾呂利新左衛門といふもの、頓智にして浮世噺狂歌など上手なれば、夜話の御伽に召置かれ、或時茶器に用ゆべき異物を求めて参るべきよし仰を蒙りて、所々見廻り才覚し、筑後国久留米に出でければ、軽口物まねの上手山三郎といふ者、難波より来りて、女房諸共種々の戯れを興じけるを見て、名護屋に帰り、秀吉公に言上しければ、御城に召さるべきよしにて、彼のもの名護屋御陣営へ来り、一日右戯興を御催しありけるに、在陣の大小名貴賊小者に至るまで、見物を免させ給ひ、廣野も狭しと方百間に惣桟鋪を懸けぬ、奴僕の族は皆芝原に竝み居て見物す。この時太閤は波多参河守が妻女、路次近うして煩労も薄ければ、呼び寄せ見せばやと宣ひて、直ちに使を立て給ふ、されども夫鎮出陣の留主にて候へば、御免蒙りたき由申上げけるに、太閤思召すやう、婦人の身として出陣の留主故と断り申條、如何で女の城を守る事あらんやと、押して御使を下されければ、今は是非をく名護屋の御陣に罷り出でぬ。この参河守の妻女は龍造寺隆信の女にて、容色類なく美女の聞えありければ、太閤かゝる遊興に事寄せ、御覧ありたきの余りと聞えし。既に一日山三郎が興じける芸によって、御機嫌斜ならず、其の夜は御酒宴を催ふされ、御廣間の大庭にて山三郎に興を催させ給ひ、山三郎夫婦のものの名護屋の町に、當分滞留すべきやう御沙汰ありける、其の後も折々御慰みに召し出されしなり。
 かくて参河守妻女は御暇を請ひけれども、御尋ねの趣きこれありとて、差し控へ居るべき様仰せ出されければ、旗本家臣の女房ども腰元はしたに至るまで、その夜も名護屋の御陣に滞りける。はや翌朝になりけれども、御尋ねの沙汰なければ、其のよしを伺ひ又御暇を願ひければ、太閤仰せ出されけるは、三河守こと陰謀の聞えこれあるに依て、其の事を責め問はんがためなり、一身の謀を以て諸士を戦はしめ、其の虚に乗じて九国を呑まんと工む由、其の聞えあるに依て申し開くまで、城中に留め置くことなり、分明に申しひらきせし上、居城に差し戻し遣はすべきと、思ひ寄らざる難題を蒙り、波多の妻女は申し上ぐる詞もなく留まるところ、夫鎮の身の上にかゝる大事、御前をすべり既に覚悟を究めしかど、かゝる難渋の御問ひ申し開く事能はずして、自害せしときこえては、死しての上夫君鎮に如何様の疑ひやかゝらんと、懐剣を納め心を取り直し、御側生駒主殿介を以て又々帰宅を願ひ出でけるに、御座ノ間の御次に召し出され、御尋ねの筋もあるべき様子も見えけるが、鎮の妻以前の懐剣其まゝに懐中し居けるが、御次の敷居に落しければ、太閤見咎め給ひ、参河が妻今懐中より落したる品不審なり、これへ持ち参れとのたまひしかば、是非なく御前へ出しける、秀吉公御覧じて、女の懐剣をたしなむは其の席其の所に寄るべし、太閤が前をも憚らず懐剣を持ちし事甚だ不審なり、尋問の事は重ねて沙汰に及ぶべし、先づ居城に立ち帰り三河守着岸まで慎み居る様御憤り大方ならず、これ波多家災ひのもととぞなりぬ。
 かくて文禄三年朝鮮出勢の人数追々帰帆し、萬歳を唱ふる中に、哀むべし波多三河守鎮は順天山まで攻め入り、其の働き抜群にして敵多く討ち取り、味方も過半討ち死にし、手柄十分なりしかども、兎角に太閤憎ませられ、黒田甲斐守を召し出され、仰せ付けられけるは、波多三河守事隠謀の聞えあると雖も、其の事糺すに及ばず、彼が罪科挙げて算へがたし、殊更鍋島加賀守旗下として、大名の備へを出し諸侯に肩を竝ぶる條、屹度軍法にも行ふべきのところ、是れ又其の沙汰に及ばず、名護屋へ船を繋ぐことを禁じ、領地一圓を没収し、参州公家康に預くべきよし上意ありければ、黒田承て海上に出で迎ひ、即ち上意の趣を申し渡し、徳川家御預けになりしなり。其の後常州筑後山の麓に配流仰せ付けられ、無念なから供の侍には横田右衛門佐其の外に下部二人、主従四人にて常陸へぞ趣きける。
 偖て鬼子獄には獅子城主鶴田越前守、日在城主鶴田因幡守、黒川城主黒川左源太夫を始め、一族旗下の家臣には、佐里村江里ノ館江里長門守、法行城主久我玄蕃允、稗田ノ館に中村安芸守、重橋本城に川添監物等を始めとして、各々登城して評議区々たり、旗下の中隈崎素人進み出て曰く、抑々當家は皇孫の裔にて、永続の末地下(ヂゲ)に下り、箕田武蔵守仕六孫王経基の副将にして、権亮平純素九州に乱入せし時討手に向ひ、多田満仲と謀を専にして黒崎に追ひ戻し、是を武功の始めとして、保元・平治・壽永の源平交戦より足利将軍家に至るまで家名を貶さず、今又朝鮮国の働き諸勢の群を抜きたり。然るに太閤秀吉匹夫より経上り、官禄心のまゝにして、大日本を鎮定し、朝鮮まで随へ、其の勢に乗じ罪なき舊家の諸侯を没収し、我意を肆にして人を罪すること甚だよろしからず、某思ふ、今名護屋の陣に切り入り八方に乱入し、潔く討死せんこと武家の當然なり、各々同心たらんには城地を明け渡さぬ中、夜討ちの用意すべきなりと、血眼になつて申しける。はやり男の若者ども、主君の恨みを散ずべきの寸志なきものあらず、旗下の家臣各々浪々の身となって、何の面目に長らへんや、潔く討ち死にして主君の家名を残し、後代に名を傳へんと、心を同くして評議一決し、既に退出せんとせしところに、田代日向守暫くとさし留め、各々欝憤はさる事ながら、今名護屋の陣に押し寄せ一統討ち死にせば、敵も多勢討ち取るべし、さりながら常州にまします、三河守殿させる罪もあらざれば、赦免も遠かるまじ、今名護屋に押し寄せ乱入せば、波多家再び興る事能はずして、配所の主君にはそのたゝり忽ちに及ぶべし。然る時は忠義却て不忠となり、末々のものに至るまで妻子を育む手段もなく、猶又謀斗の便りも盡くれば、先づ御台所並に孫三郎君を佐賀表へ送り奉り、一と先づ城を明け渡し、知るべ知るべに引き退き忍びやかに會合して、謀をめぐらし配所の主君を守り奉り、一勢に旗を挙げて、其の時こそ討ち死にして名を後代に残すべしと論じけるに、過半の意向之に決しけれども、中にも井手飛騨守向三郎・畑津内記を始めとして、旗本、家ノ子二つに別れ、井手飛騨守の言葉其の理さることながら、迚も今趣意を徹さず、かくして都に攻め上らん事思ひもよらず、さすれば評議一決すとも、奇謀を用ひずしては何のせんかあらんや、某が存ずる所は、御母子君を佐賀表へ遂り奉り、名護屋の陣に忍び入り、一時に放火して焼き払ひ火焔の中にて討ち死にすべし、さすれば上一人を恨むにあらず、讒者の奴ばらまでもともに共に怨を報ふべしと。衆議百出して決せざれば、黒川左源太夫・鶴田因幡守言ひけるは、面々存じ寄りを争ふては、評定に日を費すのみにて、迚も今一統に討ち死にすとも、鎮君の為めにもならず、又時節を待って旗を挙げんと、そこ此処に忍び居るとも、其の主たる人なくしては成就しがたし、一族旗本の中より誰ぞ忍びて常州へ赴き、鎮君を守護し来り、下松浦黨を頼んで何方へぞ忍び隠し、一族旗本家臣の面々暫く士民に落ちしと見せ、孫三郎君を守り立て、一歩の元より百里の本領に立ち戻り、波多家を再興せんはいかに、誰ぞ彼の地に赴かんとする人やあると、席中見渡しけるに、遙か末座より飯田彦四郎進み出で、某願くば彼の地に赴かんと云ひければ、江里長門守、飯田一人にては叶ふまじ、某も共に行かんと両人迎への役に定まり、諸士一統これを認承す。
 是に依て三河守の妻室・子息孫三郎と佐賀表へ送り、道中の警固として八並武蔵守、馬渡五郎八両人附き添へ、佐賀城下へぞ入りにける。この事名護屋の御陣に聞え太閤怒らせられ、三河守事既に罪科相究まり流罪たりといへども、其の跡未だ沙汰せざるに、猥りに城を離散すること、三河守近親のものども始め、言語道断の曲者どもなり、近々城地裁許まで作法能く相守り、若し我意を働くものこれあるに於ては、召し捕へて罪科に行ふべきよし、木下宮内少輔承り、鶴田越前・同因幡・黒川左源太夫に上意の趣き申し渡しければ、旗本の面々迚も此の城永続すべくもあらず、火を掛け離散すべきよし牒し合せしに、太閤の厳命に依って、旗本家臣等勝手次第何方へと立ち退き、渡世致すべきよし仰せ渡され、城は寺澤志摩守へ御預けに依て、早速請け取り、城代として今井縫殿ノ介・竝河小十郎両人に、物頭一騎、馬廻十騎、足軽百人をさし添へて、城中に入れ置けり。
 夫れより旗本家臣のものども、常州へ通じて主君三河守を守護し、旗を挙ぐべきと日在城の祈祷所建福寺を會合所と定め、折々集會し評議の上手筈を究め、三河守迎へとして江里長門守・飯田彦四郎薬売りとなり、立目可朴といふ醫師の家に傳へたる、丸散の薬を調合し、道々売り行きけるに、播州姫路にて雨頻りに降りければ、町家の軒に彳みて暫く見合せ居たりしに、一僕を伴ひたる侍其の前を通りけるに、下僕が蹴掛けたるにや、手頃の石一つ水滴りにはね入り泥を打ち散らし、侍の袴にかゝりければ、この侍立ち戻り江里長門守を睨み、己れ何地のものなるや、侍の袴に泥を蹴かけ一言の免租と旦一日はず、知らず顔にて立ち休ふ鰹不屈在り、討ち捨てくれんずと袴の裾あはせを取り仕掛けければ、長門は下につくばひ毛頭私存ぜざる儀にて候も、私あやまち仕候様御目に留り候はば、何分にも御免蒙り度きよし断りを云ひけれども、この侍一向聴き入れず、己が泥足にて蹴かけ此方より咎められ、今更御免あれよなどゝ人を侮りたる申條、了簡相ならずと究め附けゝれば、飯田彦四郎進み出で、此は御侍の御言葉とも覚えず、私同行のもの自分が身に麁粗なけれども、所詮面倒と存じ余人の科を引き請け、斯く断り申すことをも御聴き入れなく、御手討ちなさるとの思召是非に及ばず、同道の不肖に候まゝ私御相手に罷り成るべしと、脇差の柄に手を懸くれば、長門は彦四郎を押し留め。先づ暫く待たれよ、御覧の通りの乱心者に候故、何分御免下さるべしと只管断りを云ひければ、彦四郎赤面していかなれば某を乱心者にはせしぞ。是非相手にならん覚悟あるべしと言ひ寄るを、長門漸くなだめ御供衆も御聞きの通り、私一人の身にせまりたり、宜敷旦那へ御執り成し下さるべしと、さまざま詫びければ、この侍も彦四郎に辟易して、重ねて侍にかやうの無礼致すまじ、此の節は差し許すと云ひ捨て先に通りければ、彦四部歯噛みをなし憎き今の青侍ぶち据ゑて呉れんずものを、余りに長門殿の謙遜故側よりはがゆく存じて、某憤りたりといひければ、長門聴て左も思はるゝは尤もなり、さりながら彼等如き者何ぞ相手に取るに足らん、若し双方云ひ募り引かれぬ時宜に及ぶ時は、身命も果すべきが、元某どもが旅行といへば、鎮公の御迎として一族旗下多き中より、両人望み出でし事なれば、途中にて過ちある時は、一統の手筈も違い、配所の主君を救ひまゐらす事も叶はず、この役目を空しくなしなば、何の面目に生きて国元へ帰るべき、切腹して犬死にせば猶さら屍の上の恥辱なりと、無念を堪へて詫びたる心体如何あらんと思はるぞ、膽も臓腑も一時に絞るばかりに思ひしなり、只今の侍も貴殿の勇気にひしがれて早く逃げしは、三人ながらの仕合と打ち笑みければ、彦四郎も之を悟りて、堪忍は智の用と今こそ思ひ出でられたり、某も唯一旦の勇気にて是非の辨へ更になし、短才浅慮耻ぢ入りぬと話しけるうち、雨も止みければ配所へと心せかれて、急ぎ行く程に常州に着きにければ、君の在所を尋ぬるに、些末なる茅屋に主従四人哀れなるわび住居、見るもいぶせき有様にて、三河守は書籍を閲し、右衛門ノ佐は御側に付き居たり。両人の入来を右衛門ノ佐より三河守に取り次ぎければ、其の悦び大方ならず、厚く両人を労らひ、只管故郷のこと懐かしく、孫三郎を初めとして一族郎黨に至るまで、如何に過ぐすやらんとて朝暮忘るゝ間もなく、殊更船中より直ちに此の地に来りしことなれば、何事も心に任せざりきと細々と尋ね問はれける。長門彦四郎申しけるは我々両人参りし事、御一族を始めとして、御家中末々に至るまで、君を供奉して立ち帰り何方へか忍ばせ奉り、時節を見合せ旗を挙げ、波多家を再興せんものをとの念願に依て、両人御迎へのため参り候なり、然れどもこのまゝ配所を落ち給ひなば、太閤の疑ひもあるぺければ、尋ね探すは必定なり、如何してこの難を遁れ出づべきやと、評定一決せざりしに、長門いひけるは、一先づ都に飛脚を立て、三河事病歿せし由を訴へ、筑波山の麓に石碑を立て置き、君を供奉して九州に下るべしと、其の用意を営み、慶長二年四月(紀元二二五七)に、其の趣きを伏見の御城に訴へしに、太閤同年八月十六日に薨じ給ひしかば、常陸国には何の御調べの沙汰もなく、御聞き届けのまゝなりけるが、かくて帰国の用意をなし、主従六人同年霜月上旬常州を出で立たれしも、烈しき嵐に菅笠を傾け、凌ぎかたなき其の有様、附き随ふ者どもまで心を痛め、或は薬をすゝめ、或は酒店に立ち寄りて温酒の手當てなどして、其の日其の日の寒苦を避け、或は長途に足を傷め、艱難苦労の程はかりがたく、松浦黨の長者に列する一人も、時運とは言ひながら哀れなる有様いふも中々愚なる事どもなり。漸く臘月下旬古郷の松浦へ着きけれど、居城は寺澤氏の預りとなり、一族旗下も散り散りに住居も未だ定まらねば、忍び隠るゝ所もなし、されども一族の其中に、鶴田太郎左衛門尉といふ者あり、波多家累代の臣といへども、格別の仔細あって、松浦残黨の押への役なれば、太郎左衛門も遠慮して某が館に永く忍び給ふては却て御為に成り難し、某が寸忠も心置かれて自由ならず、これ全く私の歓楽の私慾にあらず、波多家再興の便りにもと、面白からぬ厳命を蒙り、此処に住せしなり、大浦播磨守が隠宅こそ屈竟の閑所なり、これへ忍びましませと、其の旨大浦播磨守が方に使をはせしに、播磨大に悦び人の出入を差し留めて、その隠宅に忍び参らせしに、又此も寺澤領主より吟味強く、松浦残黨の者ども一々其の身分の渡世、委敷書き付け差し出すべしと、若し隠し置き叛謀を企つるに於ては、其の者は勿論一類縁者に至るまで、残らず罪科に行ふべきよし五奉行よりの沙汰ある條、其の心得にて一々改め、他国へ離散致すとも残らず申し出づべしと、三人組の吟味役諸方へ巡視しけるにより、隠れ忍ばんやうなく、それより下松浦の御厨に遁れ、御厨四郎治郎の宅に忍び居ける。
 偖て佐賀にては内室始め孫三郎、常州より鎮公落ち延び給ひし事風の便りにも知らせられざる事なれば、遠きあづまに如何おはすらんと、日々案じ暮しけるが、何時となく孫三郎病に臥し、夢となく現となく居城に帰りて父君に逢ひ奉らんとばかりいひ、外に何事もいふことなく終に玉の緒絶えければ、母儀の歎きやるかたなく、自ら故に夫君三河守殿も太閤の非道に落され、遠国に流され、栄花の夢も一時に亡び、寒暑の凌ぎも如何ばかり不自由におはすらんと、歎きに歎きいやまして、嫡子孫三郎も死しければ、何を頼みに永らへんと、積る事ども書き残し、三十二歳の暁を待たず自害して果てられたり。内室操節正しく愛隣の情深く、殊更容色類ひなき美貌にてありしが、一族旗下は言ふに及ばず、聞く人哀を催し袖を絞らぬはなかりけり、謚して、常室妙安大姉と、則ち佐賀城下に葬り、一宇を建て妙安寺と號し、其の土地を妙安寺小路といへり。
 三河守鎮君は常州より逃れ帰り所々に忍び居けるが、一族等も逸散し、内室及び孫三郎もはかなく戚りぬれば、何を頼みともあらざれども、一族旗下の義心を思び、臣下の忠節を捨て難く、日を送り居けるが、三河守こと常州より松浦に忍び来るとの説、鶴田太郎左衛門尉に吟味を遂げ申し出づべきよし、寺澤より申し付け候へば、御大事に候と御厨ノ館へ杵島權太郎より告げ来れば、三河守も斯くまで武運盡きぬれば、ながらへて何かせん自殺し果てぬべし、人に知らしむることなく我が遺骸を隠し葬るべしと、覚悟を極めて語り出でられしに、この御詞を開くよりも、是はいひ甲斐なき御諚かな、御一族を始めとし旗下末々に至るまで、一度旗を飜し何れの城にか籠城して、運を自然に任せ潔く討ち死にし、波多家の武勇の名を後世に残すべしと、よりよりに會合して誓ひ置き候へば、先づ黒髪山か又は松浦杵島の間要害を見立て、一族旗下の諸士一同に楯籠り、敵對の色を顕はし怨を散ずべし、来る〇〇十日は伊萬里の大法寺に會合せんと、廻文を出し置き候と物語れば、三河守居直つて甲斐なき我を守り立て、我が名を揚げんとて一統の者死を極めしこと、忠義の心底頼もしく、斯くまで一決せし事を如何で粗略に思ふべき、されば討手を引き受けて、敵味方の目を驚かし、屍は戦場にさらすとも、怨霊凝って目ざす大敵讒者の奴原、根葉を枯し呉れんと、自ら檄文を認められたれば、一族郎黨末々まで大法寺に集合しける。三河守も忍びて彼の地に赴きけるに、途中俄かに病を発し一歩も動き難き悩に、如何はせんと従士もあきれ果てゝ居ける所に、三河守ふと心附きてこの伊萬里には、我が居城にありし時側近く召使ひし女あり、其心ざま貞烈にして丈夫にも劣らぬ気象あり、元此処の山伏の子たるものなりしが、後其の地の金剛坊に入嫁せり、稚き頃よりの恩誼は忘るゝことあるまじ、この坊に立ち寄りて服薬し、暫く病を養ふべしと、同坊に立ち越えしに、この女房既に夫に先だたれて、四歳になる男子一人ありけるを養育し、唯二人住みけるが、もと三河守の恩誼を蒙りければ没落をふかく悲しみ哀れはかなき家計を立て、波多家再興せんものをと、謀れる人はなきにやと女ながらも口惜しく、如何して我大恩を露ばかりも報じ奉らばやと思へる折なれば、さまざまに病苦を労りて能く介抱しけれども、次第に気分勝れさせず、會同滲會もならざれば、又御厨へぞ帰らせける。この女の由緒を尋ぬるに、波多三河守或時黒髪山に詣ふでし時、伊萬里附近の路傍に少し森の木立ちありけるに、其の陰に嬰兒の泣き音聞えければ、三河守深く怪しみ人をして見せしむるに、嬰兒を小袖に包み、錦の守り袋とまた錦の袋に入りたる守り刀を添へて、薮社の軒下に置かれたり、其の邊には一つの人影だにもあらざれば、三河守之を拾ひ上げられ金剛坊に預け、月々に扶持米を遣し置かれ、八歳に成りし時、鬼子嶽城中に召し出され、金剛坊の山伏を父親として成長しけるに、心たけく艶にやさしく操正しく、十三歳の頃より若局を勤めて、才智芸能人に勝れ、奥方の鐘愛一方ならず、何方へか嫁せしめんと思召されけれども、相應しきものもなく過ぐさせられしに、三河守不意に配流となりて常陸に赴かせければ、居城は寺澤氏の預りとなり、一族家臣浪々の身となり、奥方・嫡子も佐賀表へ引き越され、今は若局も力なくして金剛坊に還りければ、歎きの中の幸ひ、同坊に子なき故養子を求めて是に娶せ一子を儲け、其の後養子の坊も病に罹りて身まかりぬれば、その兒に坊跡を嗣がせ母子幕しけるに、後に至りて其の女の素生分明して、実は西肥前の領主西郷左衛門太夫が妾腹の出にて、懐胎四ケ月に當れるとき、西郷左衛門太夫は龍造寺隆信に、はかなくも討ち亡され、西郷一圓は龍造寺の所領となり、彳む所もあらざれば、其の妾妻も流転して、いかに運盡きぬるとも出生の女を下民の家に育てんも口惜しとて、三河守の通行を計り、道筋に捨て置きたり、この時三河守思ひけるに、その兒の身邊の装ひ常人ならざる体、よも比の邊の士民にてはあるまじ、必定西郷が由縁にもあらんかと、心付きながら知らぬ顔にて、山伏に預けられしなり。斯くて三河守御厨に引き返し、一族旗下も打ち寄って種々介抱を盡せしかど、其の甲斐もなく逝かせ給ひければ、世を憚らせらるゝ御身なれば、葬儀もいと哀れの中の憐れなる様にて、下松浦の志佐に埋葬して、はかなき跡を残されたり。されども舊領の諸寺諸山の浮屠家忍びやかに法養を修し、諡を大翁了徹大居士と號して、猶因縁深き寺々は思ひ思ひに、位牌を安置し永く忌年を弔ひける。別て清涼山浄泰寺(唐津町にあり)は永禄元年春、将軍足利義輝公の代に當つて波多家の公役に惰って上京の砌、今の本尊阿弥陀佛を横川(伊賀)の邊より申し受け、松浦郡神田村山口へ一宇を建て清涼山と號し、仏餉料田地の寄附ありし精舎となりたれば一入の法養をなす(この寺は寺澤氏の時唐津町に移せり)(松浦記集成)  
 野史には、波多三河守信時は唐津城主たり、征明の役起るに及び、信時軍に従ひ韓土に渡れり、然るに陣中怯懦情の振舞ひありたれば、文禄二年五月(紀元二二五三)太閤、福島直高をして信時を譴めしめて曰く、嘗て汝をして鍋島直茂の部下に属せしめしに、獨り熊川(釜山と馬山浦との間)に駐りて、直茂と與に倶に兵を出さゞるは、怯*(リッシンベンニ匡)の甚しきものなり、邪古野は汝の封域なりと雖も、孤こゝに行営を築けり、然るに汝進んで戦ふの意なきは、以て時機を狙ふの意なるべし、眞に悪みても余りあるものである、其の獰悪の甚しき之を轢するも亦之を裂くといへども、猶威を霽すに足らず。嘗て弧西征の日、発して以て庶人となさんとせしに、直茂為に懇請すること切なりし故に、特に其の邑を全うせしめ、且つ其の封域の遐遠なるを憐みて、故らに帝都の経営及び東征の軍勢を悉く赦免したるに、却て恩恵を忘れ軍令に違背す、其の罪當に死にあたるべし、さりながら特に憐憫を加へ、死一等を降して、其の封邑を奪ひて放逐に処すと。慶長二年再征の役興るや、信時前恥を雪がんと欲し、死を決して小西行長の一隊中に隷す、韓将李舜臣と碧渡亭下に戦ふや、舜臣銃を十二艘に載せ、潮流に乗じて来り襲ふ、我兵不意を食ひて虜となるものあり、且つ逆流に會して進退便ならず、舜臣機を見て急に火銃を縦つ、我軍遂に潰乱して、信時戦死し船中七十五人のもの悉く殲滅せり。
 松浦記集成の三河守鎮(親)は、野史の信時と同一人なるべし。集成記には三河常州に配流せられし後に、舊臣等密に松浦に迎へ、終に御厨に天年を全うせるやう録して居る。野史には朝鮮再征役に従ひて戦死すと云って居る。また文禄三年三河守が配流の時は、太閤は既に伏見城にありけるに、波多の舊臣等が名護屋に討ち入りて、主君の怨恨を報ぜんとするは、稍首肯し難さ点である、また太閤は慶長三戊戌の年薨ぜるに、三河守が常州に死せしと詐称して都に注進せし年を、同酉の年となすは年代に相違がある。されど野史の記事をも確かなりとは断言し難かるべし。よし三河守が再征役に戦死すと仮定せば、松浦記集成所収の文にも、何等これを秘するの必要はない、否寧ろ武士の面目本領なれば、最後の武者振りを特等大書すべきこそ至當である、何を好んで憐憫極まる臨終をどを記するの要があらう。かやうに考へ来れば、松浦記集成所収の文も、波多家の舊臣有縁の輩の手に成りたるものにて、全く虚構の記傳ともいひ難き節がある、恐らく野史にいへる、再征役に三河守戦死云々は誤傳なるべし、されど大要に於て、三河守が太閤の意に触れて逆境に置かれしは争ふべからざる事実であらう。然るに其他に、三河守がことを録する史料徴證に供するもの乏しきは遺憾である。


 其七 三河守鎮が家臣

 波多氏は源久より鎮に至るまで、十七代を重ぬと云ふ。其の間の記録の存するものなくして、如何なる変遷ありしか明でない、北波多村瑞巌寺遺趾は、唯田圃の間に往時の規模の名残を存して居るが、宏壮の結構なりしことを追想するに至る、同寺は波多氏の菩提寺であった、今波多氏の墓碑五基は、其の附近の林間に苔蘇芽茨の間に、寂莫荒廃の間に存するを見る。鎮が領地は或は三十五萬石といひ、或は十萬また六萬石とも云ふ、怒らく現在の東松浦郡の状況より察すれば、精々十萬石内外に出でなかつたであらう。今鎮が家臣の名を列記して、其の管治の区域を察すべし。

  △近  親

  多久五郎源治茂       佐志将監源亮         玄蕃允
  保利播磨守藤原一休    中山安芸橘利度        木下伊予守
  岡本山城守橘是信      奈良崎周防守源光秀    神吉信右衛門尉源保利
  松尾阿波守橘眞清      米倉新七郎源和秀     岩城時左衛門源吉光

  △北面の臣

  毛利五郡九郎光稠   千 石    
  毛利四郎光本      千 石
  毛利壱岐守周源    千 石   
  秀島九郎天品(藤原姓平野を以て氏とす) 千 石
  木下大膳佐年(橘姓)   千  石
  右の五将は、平野郷に偶居し各々客分を以て對遇せらる。

 日高甲斐守藤原方秀                    有 浦        千 石
 日高左源治藤原方佐                    有 浦        三百石
 鶴田越前守                        獅子ケ城(巌木村岩屋)   五百石
 鶴田因幡守                        日在城(西松浦郡大川野) 五百石
 黒川左源太夫                       姥ケ城(西松浦郡黒川)  五百石
 清水伊豆守品       源 品(とも云へり)    清水城(鬼塚村石志)   七百石
 峯丹後守一但       平 一但           峰  (河西下郷)   三百石
 田代日向守林一      平 林一         亀非館(切木村田代)   三百石
 江里長門守天相      藤原天相       佐里館(相知村佐里)   三百五十石
 久家玄蕃秩度       橘 秩度         法行城(西松浦郡板木)  八百石
 久家祐十郎秩源      橘 秩源            同            百 石
 河副監物孟一       平 孟一          本 城(西松浦郡重橋)  五百石
 横田右衛門元秀      橘 元秀          波多城(北波多材稗田)  五百石
 青山釆女正渡吉      橘 渡吉          青山城(鬼塚村山本)   五百石
 杵島權太郎眞久      橘 眞久          杵島城(杵島郡山崎)   五百石
 杵島仁平太眞利      橘 眞利            同            百 石
 井手飛弾守度源      橘 度源        新久田城(西松浦郡井手野)五百石
 土岐伊賀守m佐      橘 m佐          佐里館          二百石

 米澤四郎兵衛和春     源 和春        濱田城(佐志村佐志)   五百石
 佐々木近江守*(木周)大 橘 *(木周)太   稗 田(北波多村稗田)  二百石
 下保佐内守久       菅原守久           吉志峰          二百石
 名古屋和泉守仲秀     菅原仲秀          名古屋          二百石
 名古屋林四郎仲春     菅原仲春            同           二百石
 寺澤x平圍昌                          同           三百石
 八並武蔵守吉度      秦吉度            伊岐佐村        三百石
 値賀伊勢守森昌      菅原森昌           値賀村         二百石
 長渡又八郎信品      菅原信品         徳居(スエ)村(北波多村)百 石
 畑津平内清和       藤原清和        御嶽城(西松浦郡畑津)  三百石
 畑津左京清貞       藤原清貞            同           無 石
 鶴田太郎左衛門度平    橘 度平     筒井村(西松浦郡波多津村内)五百石
 赤木左近年秀       源 年芳         赤木村(打上村赤木)   百 石
 呼子九郎太甲光      源 甲光           呼子村          百 石
 鹽鶴八郎森春       源 森春         鹽鶴村(打上村鹽鶴)   百五十石
 向三郎武         藤原政保          馬場村(相知村相知)   二百石
 押川四郎九郎春満     平 春満        押川村(相知村押川)   百五十石
 峯五郎八通方       平 通方          川西下付         百五十石
 東多門昌春        藤原昌春           有喜村          二百石
 双水喜内相利       源 相利         双水村(久里村双水)   ニ百石
 寺田新九郡一清      橘 一清           城中住居         三百石
 寺田茂三太一保      橘 一保            同           百 石
 鴨打新郎周度       平 周度        下平野村(北波多村下平野)二百石
 鴨打忠四郎周利      平 周利            同           百 石
 大浦志摩守天扶      平 天扶        大浦村(切木村大浦)   百 石
 濃崎仲本久        平 本久          板木村(西松浦郡)    百 石
 梶山林八郎佐清      平 佐清           梶山村          百 石
 大杉千太左衛門休度    在原休度       大杉村(北波多村大杉)  百 石
 馬渡源太久森       藤原久森           梶山村          百 石
 徳居四五郎治秀      橘 治秀            同           三百石
 牟田部七郎衛門只之    源 只之       牟田部村(北波多打牟田部)三百石
 牟田部源四郎只春     源 只春         同           百五十石
 南源三部保道       菅原保道       大川野村(西松浦郡大川野)四百石
 川原勘四郎道秀      平 道秀           川原村          三百石
 赤木治部太夫彦芳     藤原彦芳       梅崎村(入海村梅崎)   二百石
 梅崎伊予守相久      平 相久           値賀村          四百石
 値賀三郎太吉渡      源 吉渡            同           百 石
 飯田彦次郎久光      藤原久光        神田村(唐津村神田)   百 石
 西浦源一郎時秀      菅原時秀            同           二百石
 庄野崎治郎周一      平 周一           庄野崎          二百石
 庄野崎四郎                            同        無 石
 中里九内覚久       橘 覚久            中里村        百 石
 堤彦兵衛知吉                       赤木村(打上村赤木) 百 石
 濃木五郎七標昌                       同         無 石
 中浦平太郎資知      菅原資知        中浦村(切木村中浦) 百五十石
 後賀馬太夫品三      不  明  原屋敷村、畑河内村(西松浦郡黒川村)四百石
 淵田祐四郎秀里      橘 秀里          立川村(西松浦郡立川)三百石
 原善四郎源佐       秦 源佐        大川野村(西松浦郡大川野)三百石
 大曲大和秀茂       不  明            大曲村       三百石
 畑島二百八之長      不  明          畑島村(鬼塚村畑島) 無 石
 星賀九郎市源度      平 源度         屋賀村(入野村星賀) 二百石
 田代大炊之介如保     藤原如保   田代村ノ内筒井館(長崎県北松浦郡)五百石
 畑島主膳之政       不  明            畑島村        四百石


   △旗 奉 行
 保利三左衛門菅原度保          城中在住         三千石


   △百人旗本(現米五十石宛)
 姓名は省施す

    △牧番津守
 馬渡島 牧番  無足三人   足軽四人
     津守  無足三人   足軽二人
 向(ムク)島  津守  無足二人  足軽ニ人
 加唐島  津守 無足二人   足軽二人
 小川島  津守 無足二人   足軽二人
 神集(カシハ)島 待二人  無足二人
 加部島      待二人  無足二人
 名護屋   津守   無足四人   足軽四人
 外津(ホカハヅ) 津守  無足二人 足軽二人
 入 野   津守   無足二人   足軽二人
 納所(ノウサ) 津守  無足二人  足軽二人
 今 福(長崎縣)津守  無足五人  足軽十人
 三 厨(長崎縣)津守  無足五人  足軽廿人




    其八 波多家掟書(松浦古事記に出づ)

一、此度触出状之趣、近頃は武士の風俗別て悪敷相成、利、法、剱之三字不用、我儘にて權威を振ひ偏く信を忘候條、侍の不成本意候、急便可相慎事。
一、変作之節百姓町家之者共、其家々相應に合力有之、且又不自愛之輩は、其家株に相離候間其組合より可被致吟昧候事。
一、近頃寺僧之面々、別て出家に不似不如法にて、以之外不届成事にて候、出家は其寺之寺役第一にて、慈悲善言可用候、此上不如法無之様、急度相嗜可被申候。
一、大小宮合、一百二十四ヶ所。
一、大小寺院、甲乙諸司、無官有官、村々院々迄、急度相慎可被申候。

  天文四乙未四月

 これにより波多氏の施政一斑を窺ひ知ることが出来るのである。


  其九 鬼子嶽城の構造(吉志峯城・岸獄城)

 城門口三ヶ所
 大手より本城まで  廿三町四間三尺
 搦手水門より本城まで 卅二町五間三尺
 大谷城より本城まで  廿五町九間
 本丸 東西五十一間 南北九十三間  矢倉数八ヶ所
 二ノ丸 東西百五十間 南北六十三間  此間に一の堀切あり 長五十二間 深十五間
 三ノ九 東西百八十五間 南北六十五間 此間に二の堀切あり 長七十三間 深二十四間五尺

 一、腰曲輪茶園ノ平(タヒラ)といふところあり、侍屋敷跡分明なり、南北八丁の所なり
 一、本城より東北に當り、少し踏み下り、水の手出水あり。
 一、城山より南に當て米ノ山あり。麓の川をスミ川といふ、里に下りて東川といふ。
 一、本城に御手水場ニッあり、所々石垣慥なり。
 一、一ノ堀切より二ノ堀切迄、長三十三間といふ。
 一、本丸の東方に三左衛門殿丸といふ所あり。
 一、大手佐里の方、搦手岸山の方なり。
 一、波多家旗本諸士在番屋鋪、佐里村にあり、舊跡頗る多い。
 一、大手門口に、馬乗馬場がある。
 當時郡の主都は今の相知村字佐里である、即ち佐里は波多氏の城下にして、旗下の人士の邸宅軒を竝べて居た、今の唐津町などは影も形もなき白砂青松の海邊に過ぎなかつた。相知村大字相知を維新の頃迄は馬場といって居た、そは波多家々臣の馬術操練所であったから其の名ある故である。
世態の転換また究まりなきものである。





   第六章 豊公の朝鮮征伐

    一、豊公の略歴

 稀世英傑豊臣秀吉の素生に就きては、諸説存すと雖も、普通の説としては、織田信長の足軽にて尾州愛知郡中村の住人である、木下弥右街門の子であって、母は同郡小曾根村の農家の女といふことである。天文五年(紀元二一九六)丙申正月朔日午前七時に生れた。父は天文十二年に没し、其ののち母は織田家の同朋筑阿弥に再嫁し、一男一女を生むだ、これ後の大和大納言秀長にして、女は徳川家康の室となつた、天文廿年彼十六歳の時国を去って、遠州久能の城主松下嘉兵衛に仕へたが、廿二年尾州清洲に赴き、織田信長に事へ、草履取の卑職より小人頭に進み、智略才幹群衆に超絶して居たから、信長の信用日に厚く、永禄九年信長美濃の斎藤氏を討つに當り、功労抜群であったから、柴田・丹波・佐久間等の宿将と共に肩を竝ぶるに至り、近江の浅井越前の朝倉を討ち戦功によりて天正元年江州長濱廿二萬石の城主となり、十年中国に毛利氏を征し、次で本能寺の事変あるや、直ちに主君の仇敵明智光秀を山崎に討ち破りて、亡君の英霊を慰め、信長の遺業を受けて、乱余の天下蕩手の業に従事した。翌十一年には柴田勝家を賤ケ岳に敗り、これを追ふて北国を威服し。十二年大阪城を築きて天下の要害を制し、同年小牧山に徳川家康と兵を構へしも之と和睦をなし。十三年四国の諸豪傑を征服し、同年関白に任ぜられた。十五年西の方九州に島津義久を攻め降し、翌年衆楽第に行幸を仰ぎて盛儀を盡し、上下の人目を一身に集め、十八年小田原に北條を征し、序で東北地方に威令を布きて、伊達政宗以下の諸侯を慴伏せしめた。そこで始めて西は九州より東は蝦夷に至るまで、天下六十余州一統に帰して、應仁乱以来百有余年の争乱は鎮定するに至った。

    二、外征の動因

 濶達豪壮の気宇を以て充溢せる英雄が、どうして国内の蕩年が出来たからと云ってそれで安逸を貪ることを為さうか、欝勃たる覇気を大陸に恣まゝにせんとするは、當然の理数である。戦国千戈の際に生長し、常に軍士を叱陀駆突し腥羶の気充塞せる天地に慣れたる彼には、片時も逸柴悠然として安居することは其の志に反するわけである。
 抑も豊公外征の企圖は、天正十五年島津征伐の頃からのことである、豊公薩摩太平寺在陣中に、連歌師深水宗方が「草も木も靡き従ふ五月雨の雨の恵は高麗百済まで」と詠じたのは、公の素懐を述べたものである。當時宗義調は對馬より来りて博多に於て公に謁したるに、公は義調に命じて朝鮮国王の入朝を促すべきやうにと、義調果して其の旨を彼の国に傳へしかは不明であるが、確かに左様の命令はあったのである。十七年宗義智、僧玄蘇を遣りて来聘を促した、十八年秋朝鮮国の使者、黄允吉・金誠一・許箴之来朝して、聚楽第に於て公に謁し国書を献じた。続善隣国寶記を見るに。

  朝鮮国王李昭、奉書
  日本国王 殿下、

  春候和煦、動静佳勝、遠傳、大王一統六十余州、雖欲逮講信修睦、以敦隣好、恐道路湮海、有淹滞之憂歟、是以多年思而止矣、今令與貴价、遣黄允吉・金誠一・許箴之三使以致賀辞自今以後、隣好出于他上幸甚、仍仇不腆土宜、録在別幅、庶幾笑留、余順序珍嗇、不宣
   萬暦十八年三月 日       朝鮮国王  李  昭

  別 幅
  良馬二匹    大鷹子拾五聯    鞍子(貳面諸縁具)
  黒麻布参拾匹  白綿紬五拾匹    白苧布五拾匹
  青斜皮拾張   人参壹百斤     狗皮貳拾五張
  狗皮心兒虎皮邊*(ケモノヘン典)皮  裡阿多介壹座   豹皮貳拾五張
  彩花席拾張   紅綿紬拾張    精蜜拾壹壷
  白米貳百碩   梅松子陸碩

   整


太闘これに答ふるの書は、

 日本国関白秀吉、奉書
 朝鮮国王 閣下、

 雁書薫讀、巻舒再三、抑本朝雖為六十余州、此年諸国分離、乱国綱廢、世乱而不聴朝政、故予 不勝感激。三四年之間、伐叛臣討賊徒、及異域遠島、悉帰掌握、竊按、事跡鄙陋小臣也、雖 然予當于托胎之時、慈母夢日輪入懐中、相士曰、日光之所及、無不照臨、壮年必八表聞仁風、四海蒙威名者、其何疑乎、依有此奇異、作敵心者、自然摧滅、戦則無不勝、攻則無不取、既天下大治、撫育百姓、憐愍弧獨、故民富財足、土貢萬倍千古矣、本朝開闢以来、朝廷盛事、洛陽壮観、莫如此日也、夫人生于世也、雖歴長生、古来不満百年焉、欝々久居此乎、不屑国家之隔山海之遠、一起直入大明国、易吾朝之風俗於四百余州、施帝都政化於億萬斯年者、在方寸中、貴国先駆而入朝、依有遠慮無近憂者乎、遠邦小島、在海中者、後進者不可作許容也、予入大明之日、将士卒臨軍営、則弥可修隣盟也、只顕佳名於三国而巳、方物如目録領納、珍重保嗇

   天正十八年仲冬 日       日本関白 秀吉


 三位京を辞去せんとするや、豊公これに諭すに、明国久しく我国に朝貢を怠れば、此を討たんとす、朝鮮王よろしく先駆をなすべしと。宗氏は柳川調信・僧玄蘇を同行せしめた、使節帰りてこの事を以て豊公の虚喝となし、何ぞ渺たる一小国にて膨大なる明国を征することが出来やうとて、国王に復奏す。調信・玄蘇は金誠一に迫りて回答を求めんとせしも要領を得ず、こゝに於て先づ頑迷無礼なる朝鮮を討たんとて、大軍を出すに至った。

   三 外征の軍議

 五大老たる徳川家康・毛利輝元・浮田秀家・上杉景勝・前田利家、三中老なる生駒一正・中村一氏・堀尾吉晴・五奉行の浅野長政・前田玄以・増田長盛・石田三成・長束政家等打ち連れて、天正十八年三月九日大阪城に豊公に伺候せしに、俄に山里丸にて御茶を給はり、かくて仰せ出されけるは、既に国内も治平一統を見るに至つたから、今より朝鮮に押し渡りて彼の土を征伐し、それより明国に攻め入り数国を併有し、我が政令を彼の地に布き、功労の臣を彼の土に封ぜんと思ふ、利害得失果して如何にと。然るに満座其の企図の大をるにより、各々相譲りて答ふるものなかりしが、家康進み出でて申しけるは是れ実に快挙なりと、其の旨を賛したるに、豊公大に悦び意遂に決す。同十五日には異国征伐の首途の祝宴を張り、宴終りて観世・寶生・金剛・金春の四座の太夫に命じて、能楽の典などありて歓楽湧くが如き有様であった。

   四 外征軍の配備

 名護屋在留の総軍勢 十萬二千四百十五人、

      其の内訳をなせば、

△在陣諸将
一萬五千人   武臓大納言      一萬人      大和中納言
八千人       加賀宰相       三千人      穴津中将
千五百人    結城少将       千五百人     前尾張守(常眞)
五千人      越後宰相        三千人      會津少将
二千人     常陸侍従        千五百人、    伊達侍従
五百人     出羽侍従         二千人      金山侍従
八百人      松任侍従       八百人      八幡山京極侍従
百五十人    安房侍従        千人       羽柴河内侍従
千五百人    龍野侍従      六千人      北庄侍従舎弟美作守
二千人     村上周防守     千三百人      溝口伯耆守
五百人       宇都宮弥三郎    五百人     木下宮内少輔
千人      水野下野守      千人    青木紀伊守
二百二十人   秋田太郎       百五十人  津軽右京助
二百人     南部大膳太夫     百人    本多伊勢守
二百五十人   那須八郎       七百人   眞田源吾父子
三百人     栃木河内守      五百人   石川玄蕃允
三百人     日禰野織部正     二百人   北條美濃守
千人      千石越前守      二百五十人 木下右衛門督
千人      伊藤長門守

   計 七萬四千七百廿人



△前衛の士
六百五十人   富田左近将監     八百人    金森飛弾守
百七十人    峰屋大膳太夫     三百人    戸田武蔵守
三百五十人   奥山佐渡守      四百人    池田備中守
四百人     小出信濃守      五百人    津田長門守
二百人     上田左太郎      八百人    山崎左馬允
四百七十人   稲葉兵庫頭      二百人    市橋下総守
二百人     赤松上総守      三百人    羽柴下総守

   計 五千七百四十人



△弓鐵砲の諸士
二百人     大島雲八       二百五十人  野村肥後守
二百五十人   木下與右衛門尉    百七十五人  舟越五郎右衛門尉
二百五十人   伊藤弥吉       百三十人   宮本藤左衛門尉
百五十人    橋本伊賀守      百人     鈴木孫三郎
二百五十人   生熊源介

   計 千七百五十五人



△馬廻の諸士
四千三百人   御傍衆(六組)     三千五百人  小姓衆(六組)
五百人     室町殿         八百人    御伽衆
千五百人    木下半介組       七百五十人  御使番衆
千二百人    御結衆         八百五十人  鷹師衆
千五百人    中間以下

   計 壹萬四千九百人



△後備の士
三百人     羽柴三吉侍従      五百人    長束大蔵大輔
百三十人    古田織部正       二百五十人  山崎右京進
二百人     蒔田權佐        百七十人   中江式部大輔
百三十人    生駒修理亮       百人     同主殿頭
百人      溝口大炊助       二百人    河尻肥前守
五十人    池田弥右衛門尉     百二十人   大鹽與一郎
百五十人   木下右京助       百人     矢部豊後守
二百人    有馬萬介(後に玄蕃頭) 百六十人   寺澤志摩守
四百人    寺西筑後守 同次郎介  五百人    福原右馬助
二百人    竹中丹後守       二百七十人  長谷川右兵衛尉
百人     松岡右京進       七十人    川勝右兵衛尉
二百五十人  氏家志摩守       百五十人   氏家内膳正
二百人    寺西勝兵衛尉      百人     服部土佐守
二百人    間島彦太郎
     計 五千三百人

朝鮮国渡海の総軍勢 二拾萬五千五百七十人、

     其の内譯をなせば

△先発の諸勢
七千人    小西攝津守       五千人    對馬侍従
三千人    松浦刑部卿法印     二千人    有馬修理太夫
千人     大村新八郎       七百人    五島若狭守
    計 壹萬八千七百人

八千人    加藤主計頭       一萬二千人  鍋島加賀守
八百人    相良宮内少輔
    計 二萬八百人

六千人    黒田甲斐守       六千人    羽柴豊侍従
    計一萬二千人

一萬人    羽柴薩摩侍従      二千人    毛利壹岐守
千人     高橋九郎 秋月三郎   千人   伊藤民部大輔 島津又七郎
    計一萬四千人

五千人    福島左衛門太夫     四千人    戸田民部小輔
七千二百人  蜂須賀阿波守      三千人    羽柴土佐侍従
五千五百人  生駒雅楽頭
    計 二萬四千七百人

三萬人    羽柴安芸宰相      一萬人    羽柴小早川侍従
千五百人   羽柴久留米侍従     二千五百人  羽柴柳川侍従
八百人    高橋主膳正       九百人    筑紫上野介
    計 四萬五千七百人


 ▲後続の軍勢
一萬人    備前宰相         三千人   増田右衛門尉
二千人    石田治部少輔       千二百人  大谷刑部少輔
二千人    前野但馬守        千人    加藤遠江守
    計 一萬九千二百人

三千人     浅野左京太夫     千人     宮部兵部少輔
千五百人    南條左衛門督     八百五十人  木下備中守
四百人     垣屋新五郎      八百人    齊村左兵衛督
八百人     明石左近       五百人    別所豊後守
三千人     中村右衛門太夫    千四百人   郡山侍従
八百人     服部釆女正      四百人    一柳右近将監
三百人     竹中源介       四百五十人  谷出羽守
三百五十人   石川肥後守
   計 一萬五千五百五十人


八千人     岐阜少将       三千五百人  羽柴丹後少将 後細川越中守
五千人  羽柴東郷侍従元長谷川藤五郎 三千五百人  木村常陸介
千人      小野木縫殿助     七百人    牧野兵部大輔
五百人     岡本下野守      二百人    加須屋内膳正
二百人     片桐東市正      二百人    片桐主膳正
三百人     高田豊後守      二百人    藤懸三河守
百二十人    太田小源五      二百人    古田兵部少輔
三百人     新庄新三部      二百五十人  早川主馬正
三百人     毛利兵部       千人     亀井武蔵守
   計 二萬五千四百七十人


△海軍の兵勢
千五百人    九鬼大隅守      二千人    藤堂佐渡守
千五百人    脇阪中務少輔     千人     加藤左馬助
七百人     来島兄弟       二百五十人  菅平有衛門尉
千人      桑山小藤太 同小傳次 八百五十人  堀内安房守
六百五十人   杉若傳三郎
   計 九千四百五十人


 動員出征の総軍勢計三十萬七千九百八十五人。


  五 諸兵船の用意

 この遠征に、大軍の輪送兵糧兵仗供給等の違算なからしめんには、数多の艦船の用意がなくてはならぬ、それで左の如き周到なる命令は下された。

一、東は常陸より南海を経て、海に添ひたる国々、北は秋田酒田より中国に至って、其の国々の高十萬石に付て、大船二艘宛用意可有之事。

一、水手(カコ)の事、浦々家百軒に付て、十人宛出させ、其の手其の手の大船に用ひ可申候、若し有余の水手は至大阪可相越之事。

一、蔵納めは高十萬石に付て、大船三艘中船五艘宛、作り可申之事。

一、船之の入用大形勘合候て、半分之通り算用奉行方より請取可申候、相残る分は船出来次第請取可申之事。

一、船頭は見計ひ次第、給米等相定め可申之事。

一、水手一人に扶持方二人、此の外妻子の扶持つかはし可申之事。

一、陣中小者中間以下、女扶持其の者の宿々へ遣はし可申候、是は今度高麗名護屋へ立て申候者、不残如此可遣之事。

 右條々無相違令用意、天正二十年之春、攝津・播州・泉州之浦々に令着岸、一左右可有之者也。

      天正十九年正月廿日            秀 吉



  六 出征軍役の定め

 外征軍兵貝の徴収割當は、地理の便否遠近によりて、員数の多寡を定め、左の如き実行命令は下された。

 一、四国九州は、高一萬石に付て六百人の事、

 一、中国紀州邊は、同じく五百人の事、

 一、五畿内は、同じく四百人の事、

 一、江州・尾・濃・勢四ヶ国は同じく三百五十人の事、

 一、遠・三・駿・豆邊は、同じく三百人、是より東は何れも、同じく二百人たるべき事、

 一、若州より能州に至て其間、同じく三百人の事、

 一、越後、出羽邊は、同じく二百人の事、

  右之分、来年極月に至て、大阪へ可被参着候、出勢之日限重て可被仰出候、守其旨宿陣不指合様に、成其用意可申者也。

     天正十九年三月十五日     秀 吉



  七 外征軍に関する諸規定

 今は外征に就きて、諸般の準備略々成りたれば、軍律風規の振作取り締りにかゝはる、厳粛犯すべからざる軍令の発布を要とし、こゝに周密なる布達の発令を見る。

 一、人数おしの事、六里を一日の行程とす、乍去在所の遠近、六里の内外、奉行計ひ次第たる
  べし、即ち宿奉行定めの條、前後諍論なく、萬順路に可有之事。

 一、旅宿屋賃は出し申すまじく候、薪秣の代は、宿主と相對し出し可申候事。

 一、津々浦々番等に有之者、屋賃の儀出し申べく侯、鐵砲の者などの儀、其の主人出し可申候事。

 一、とまりとまりにて、扶持方馬の飼令下行の事。

 一、強買(オシカ)ひ、狼藉、追立夫其の外萬ツ非儀有るまじき事。

 一、泊々宿々に於て、理不盡の儀仕出すものあらば、當座にとがめかゝり、口論に及ぶまじく候、其の主人仮名実名、能々記し付け、其の上を以て可相理之事。

 一、何方に於ても、いたづら者、一揆の徒黨がましき様子あらば、密に告知すべし、一廉御褒美可被行の事。

 一、一里一里に、はやみち二人づゝ置き候て、名護屋と大阪との用所、早速相叶ふやうに可有之事。

 右條々堅く可相守此旨、若違背の儀あらば、奉行人迄告げ知せ可申者也。
 されば文禄元年三月朔日(紀元二二五二)より、先陣の将小西攝津守・加藤主計頭を先頭として、連日絶えまもなく夥しき軍勢は大阪を発し、漸く先発隊の西下も終りたれば、同十六日豊臣太閤も都を打ち立たせ、行装の荘厳華麗比類なく、其の偉観を見るところの老若男女の歓聾は各所に洋溢した。同廿七日後発隊も続々として出で立ち、四月五六日頃には肥前名護屋に到着し、総軍三十有余萬の大軍、松浦半島一角の山野を掩ひて、意気衝天既に明韓の地を圧するの慨がある。




   八 名護屋城造営

 名護屋の地たる、東に名護屋湾、西に外津(ホカハツ)湾の湾入迂曲によりて、狭搾せられたる約一里の地頸部より、西北は壹岐水道に突出して居る丘陵性の一小半島にて、延長約二里幅員大約一里内外の地であって、脚下は狭長にして水深く、海波眠りて碧潭を湛えたる如き同名の湾がある、湾口に加部島横はりて自然の大防波堤をなしてゐる。景致頗る雄偉壮大にして稀有の眺を有し、近きは辨天・鷹島の小嶼より、加唐・松島・馬渡(マダラ)・向(ムク)島、其の他今は長崎縣下に属する壹岐・二上・大島の諸島など煙波の間に散点碁布し、確に遠征将卒の無聊を忘れしむるに足る絶好の地区である。此の地は朝鮮海峡の最狭搾部に位置し、其の間に壹岐・對馬の二大島を点綴して、渡韓航路としては無上の風浪避難の好泊地である。且つ直北に鶏林半島を隔つる故に、この海にて困難なる北風を真軸に受くることを得て、航路また最も安全である。遮莫豊公が曩に小早川氏をして博多に築かしめて、對韓策源地の根拠を造らしめたるに関はらず、我が名護屋の形勝にして、航路の安全なると最短距離なる地点なるを知りて、幕営をこゝに定めたるも故なきにあらずや。
 もとこの地は波多氏の家臣名古屋越前守藤原経述の領地たりし、垣副山の要害を利して、天正十九年より翌文禄元年春までに、九州の諸侯に課して築かしめたる鐵壁であって其の規模の雄大なること一時の仮営とは思はれざる程である。城廓の四邊に小丘陵の波濤状に起伏してゐる岡上は、悉く天下侯伯の幕営地である。其の間を縫へる幾多の低地渓間は、皆これ遠近より集へる賈人の、物資を販く店舗を列ねし所であって、今猶畦畔田園の間、一々舊時の町名を存して居る。
 豊公は天正十九年職を養子秀次に譲りて太閤と称し、翌年大遠征軍を指揮統率せんがためにこの地に到った、されば松浦半島の一角は、東亜の大威力発動の地として、其の名遠く明韓に震ひしのみならず、イスバニヤ領フイリツピン太守は使僧を名護屋城に送りしなど、所謂當時の南蛮人即ち西欧人間にも其の名は知られてゐたのである。
 今其の城の結構につきて述ぶるであらう。

一、本丸(東西五十六間南北六十一間)西北角に天守臺あり、城高十五間ありて之に建設されたる家屋門廊は、これ又諸侯伯以下夫々分担造営せしものである、
    造営物           造螢者
    数寄屋           長谷川宗仁法眼
    書院座敷は河れも花鳥山水、 狩野右京亮畫きて、善美を盡す。
    本丸より山里へ裏小門    寺西筑後守
    本丸と二ノ丸間、北間ノ門、午間ノ   河原長右衛門
    同大手門          御牧勘兵衛
    同脇櫓           芦浦観音寺
    同取附二階矢倉       同 人
    同四間梁五門矢倉      羽柴美作守
    本丸西ノ角櫓、四間梁十間  大和中納言
    同取附矢倉、二間梁三間   同 人

一、山里九(東西八十間南北五十間)
    数寄屋           石田木工頭
    本丸より山里へ裏ノ露地   寺西筑後守
    書院、五間梁六間      太田和泉守
      座敷不残 狩野右京亮畫
  御臺所、七間梁十六間      河原長右衛門
  添ノ間、十間梁十一間      石河 兵蔵
  御座ノ門(西王母ノ絵)右京亮これ畫く 寺澤志摩守
   築山遺り水等の体、千年も経たるやうに苔むしたり、

  同次の間(耕作の絵)右京亮畫く、
  三の間(花鳥の絵)同人筆
  上臺所、六間梁四間
  表御座の間(慈童の絵)長谷川平蔵畫く
  同次の間(山水の絵)同人筆
  同臺所、九間梁十七間      石川兵蔵
   右取附け料理ノ間
   山里局、六間梁十三間     石田木工頭
    右間毎に花鳥の絵右京亮畫く
   同局、五間梁十五間      建部壽得
   同湯殿            仙石權兵衛
   同御蔵、六間梁十間    戸田清左衛門
   同御蔵、五間梁廿間    小西攝津守
   同取附櫓           御牧勘兵衛
   同国ノ木番所         同 人
   同国ノ木作門         同 人
   同二階間           仙石木工頭(又石田木工頭とす)
   同菜園            同人(又同人及び観音寺とす)

一、二之丸(東西四十五間南北五十九間)東北東角
   二階櫓、四間梁五間      溝口伯耆守
   同天守ノ下、冠木門      太田和泉守
   同三階櫓、九間梁十二間    伊藤長門守
   南ノ門、三間梁七間櫓     館侍従
   同升形、七間梁四方四間石垣  同 人
   大手三階鐘楼堂、五間梁四間  羽柴五郎左衛門
   同東ノ櫓、四間梁十間     長東大蔵太夫
   同北ノ櫓、四間梁八間     大和中納言
   同西ノ方二階櫓、四間梁十八間 淺野弾正少弼
   南取附矢倉、三間梁八間    同 人
   大手櫓、三間梁十三間     鍋島伊平太

一、三之丸(東西三十四間南北六十二間)
   同西ノ方櫓、三間梁三間    羽柴河内守
   同冠木門、三間梁五間櫓    羽柴右近
   同西ノ門、三間梁五間     羽柴加賀宰相利家
   同西北ノ角櫓、四間梁五間   同 人
   同取附、二間梁四間      同 人
   同大手東門、四間梁七間櫓   羽柴右近

一、避撃ノ曲輪(東西二十六間南北二十四間)

一、南ノ方弾正曲輪(九十間に四十間−三十間)

一、水ノ手曲輪、十五間四方

一、山里曲輪ノ間、数ヶ所に出でたり、(此下腰曲輪小曲輪合十一曲輪あり)

一、城の周囲、十五町

一、城門、五ヶ所


 維新の頃名所舊跡を自然に放置して廃頽に委するもの往々なりしが、この古城址も亦其の轍を免れず、所々の石垣殊に北方の要部は破壊せられて廃残の跡物哀れに、松籟の音のみ寂しく往時を喞つ有様であつたが、近時其の村にて保存に多少労するところあるは喜ぶべきことである。



  九、出征軍勢の配置

 陸軍の兵勢は、小西攝津守・加藤主計頭を魁として、後続隊は二十萬余騎を算す。水軍の勢は、九鬼大隅守・島津陸奥守・加藤左馬助・藤堂佐渡守・脇坂中務大輔・来島(クルシマ)兄弟にて、其の数一萬余人に達せんとして居る。水軍の奉行には福島右馬助・熊谷内蔵丞・毛利民部大輔・筧和泉守等で六千余人を率ゐ。総大将として海陸両軍の統宰者は備前中納言浮田秀家、総奉行の役は増田右衛門尉・石田治部少輔・大谷刑部少輔である。留守都の政務は古田兵部少輔に一任してある。
 予て水軍は名護屋にて軍議を遂げ諸事相定むべき事となりゐたれば、文禄元年四月十日、悉く名護屋に到着して、九鬼嘉隆は最も経験に富める水軍の将であれば、諸将其の船に集合して軍議を凝らし、評定一決の後、各々起請文をなして其の志を示した。

    敬白起請文前書の事

 一、船中軍評諚の義、各々多分に付て其宜しきを、そだて可申之事、

 一、誰々の船によらず、難義に及びなば可助成之事、

 一、珍らしき敵の行あらば、互に可申談之事、

 一、忠節の深浅、依怙贔屓なく、有りのまゝに可申上之事、

 一、他人の労を盗み、我が手柄などに仕間敷事、

 一、物見の疾舟、一大将より二艘宛出し可申事、

 一、名護屋御本陣へ注進仕候共、奉行衆の加判にて可申上之事、

 右條々相違有るまじく候、若し違背の義於有之者、八幡大菩薩・愛宕山大權現の御罰を罷り蒙るべき者也、仍起請文如件

    卯月十日     各連判にて宛所は奉行衆


 この時福島右馬助云ひけるは、かやうに評議相調ふは互に目出度き事である、さらば酒を物し船祝ひせんとて、折二合と樽三荷を出しければ、九鬼嘉隆大に之を賛して、湯漬などいとなみ、各深く興に入り、佐渡守は千秋楽は民を撫て萬歳楽には命を延ぶと、舞ひ出でて座を立ち出でしなど其の歓楽の状には海神も感応影向しつらんと思はる。


   一○ 名護屋よりの出征艦船

 先陣の大将小西攝津守二萬の勢を具し、つゞきて加藤清正二萬余騎、黒田長政一萬余騎、其の他十数萬の軍勢は四月十二日名護屋を発し、石火矢を放ち鯨波を揚げ、数千艘の帆柱は林の如く、やざ声挙げて帆を張り上げ、互にのゝしる声々天地を動かす計りの有様である。浦を立ち出でたる幾多の大艦小船は、家々の紋章を染め出せる幔幕を打ち廻らし、思ひ思ひの旗指物を飾り立てたれば其の海を掩へる壮観は言語の盡すところでない。順風に帆を孕まし翌朝壹岐の勝本(カザモト)に着いたが、風向忽ち変じて投錨旬日余に達したが、廿五日暁明の頃風稍々静まりしも、名残の海波は穏でない、行長思へらく海波静穏に帰せんには何れの船も出帆せんとて、夜半密に船を出し翌日對島豊崎に安着した、残余、軍船は行長が兵船見えざるに驚き、急ぎ船を出さんと打ち噪げる間に、日漸く高く、五六里も帆走せしと思はるゝとき、逆風俄かに起りて勝本に引き返すに至つた。行長も豊崎に着せし甲斐もなく逆風に喞ち居たるに、空の気色聊か変りたれば船出の用意をなして待ち居つゝ、廿八日朝海波末だ高かりしも船を出し、釜山浦に到着して直ちに上陸し此処を略有せんとせしに、敵兵二萬余騎矢ぶすまを作って射かけて防戦したれば、我軍は鐵砲を以て應戦し、終に敵を城中に逐ひ込め、午前十時頃完全に此処を占領し、敵兵八千五百余人を討ち取り、捕虜二百余人を獲た。依って生虜に就きて敵状を糺し、其の西北に東莱城あるを知り、人馬の休養を與へたる後、即日東莱に進発し鬨を作って攻め寄せければ、釜山浦の戦に我軍の強猛を知りて、防ぎ戦はんともせず悉く遁亡したれば、小西主殿・木戸作右衛門尉をど之を追撃して、敵首九百余級を獲得し、其の夜はそこに陣を布き人馬を休息せしめた。(総て朝鮮役の月日は太閤記による、野史其の他には多少之を異にす)

   一一 陸軍の行動

 清正は行長に後るゝこと数日にして釜山に着き、諸軍も亦相次ぎて到達した。朝鮮国は我軍の侵入するや否や疑念を抱き居りしも、萬一に備へざるべからざれば、宰相柳成龍は金応南をして明廷に報じ、まね国境防衛として全*(目卒・スヰ)を慶尚道に、李洸を全羅道に、尹先覚を忠清道に各々監司たらしめ、殊に慶尚道は侵寇の要路に當れば、沿道に城塞の備を巌にし、李舜臣をして水師を管して邊海を警戒せしめはしたものゝ、泰平日久しく寛軍旅に慣れず、防備も十分ならざるは自然の道理である。
 かくて侵入軍は三道より進みて、第一軍の小西行長は釜山を陥れ東莱を抜き、中道を取って進み密陽を略し、忠州に進むだ。こゝは天嶮の要害であったから、軍を分つて二軍となし、一軍は山壁を傳ひ、一軍は達川に沿ひて突撃せしに、韓兵潰走して川に溺れて死するもの算なく、其の将申石も川中に溺没し、李*(食益イツ)は僅かに逃走することを得た。此に於で忠州又小西の手に帰し、そこで第二軍の至るを待った。第二軍は加藤清正・鍋島直茂等之に将として、道を右方に取りて梁山・彦陽を経て新羅の舊都慶州城に入りしに、敵は既に我軍の襲来するを察して足影だにない、依って新寧・義興等を攻め、咸昌にて第一軍と會し、烏嶺を超えて忠州に入り、京城攻略の方策を議し、両軍合して首府漢城に向つた。
 これより先漢城にては右相李陽元を主将とし、李*(セン)邊・彦e(シウ)を左・右大将とし、以下京畿・平安・黄海諸道警備の諸官を任じて防衛を計ったけれども、忠州の天嶮陥落した報が至るや、上下震駭甚しく、国王は柳成龍と北方義州に逃れ。我が軍は破竹の勢を以て進発して、行長は東大門より清正は南大門より侵入して首府を奪ふた、時に五月十一日にして行長が釜山に上陸せしより僅かに二十余日を費し、百五里の行程を踏破したるは実に嘆賞の外なく、かやうに敏活に疾風迅雷耳を掩ふの暇もなき有様であったのは、今日でも軍事當路にある人の賞讃措かざるところである。黒田長政・島津義弘等の率ゐたる第三軍は、釜山より左して全羅・忠清の両道を経て行々敵を破り、其の月漢城に到った。本隊の浮田秀家の兵も相次で漢城に入り、こゝに愈々語軍相會した。
 漢城陥落の捷報名護屋の軍営に達するや、豊公は明の援軍の至らん事を懼れて、援軍六萬余騎を朝鮮に送る、如ち増田長盛・石田三成・大谷吉継・前野長康等の兵合せて一萬七千余騎、浅野幸長・南條元晴・中川秀政の兵合せて一萬五千騎、岐阜少将織田信秀・丹波少将羽柴秀勝・長谷秀一・木村常陸介定光・粕屋内膳正武則・片桐直盛等の兵二萬五千にして、之を三軍に分つた。一方漢城では各道討伐の諸勢を派遣し、小西・宗等は平安道に、加藤・鍋島等は咸鏡道に、毛利吉成は江原道に、毛利輝元は慶尚道に、黒田・大友等は黄海道に向ひ、浮田秀家は漢城にありて之を統帥した。清正・行長の北進部隊の臨津に至るや、韓将金命元を奇計を以て潰裂し、開城より行長は平壌に向ひ、清正は咸鏡道に入った。平壌にては又金命元が防戦したけれども、気魂充たざる敵軍はこの要害をも支持することが出来ず、巨多の糧食を残して直ちに敗走した。行長は漢城の秀家及び三奉行に書を寄せ、明国に長驅殺到せんことを請ひしも、全羅・江原地方未だ平定せず、然るに今深く敵地に侵入するは策の得たるものでない、宜しく水軍の至るを待ちて並進すべしと命した。然るに明廷では朝鮮の警報頻りに至るを以て遼東の鎮兵五千を発し、祖承訓・朱儒算を将として赴き救はしめ、七月十六日天明平壌に襲来した。城兵之を覚りて銃を放ちて應戦し、敵将朱儒算を仆せしに、祖承訓恐れて全軍潰走し、我兵之を追撃して千余騎を獲た。翌八月韓兵攻め寄せしも亦直ちに之を撃破した。清正は咸鏡道に入り海汀倉に至り、韓将韓克誠と戦ふ、其の兵騎射に巧にして、我が兵銃戦を以て之に應じ、夜に入り密かに敵を包囲し暁明に及びて砲撃せしに、敵兵驚き敗走し、追撃して克誠を鏡城にて檎虜となす、清正猶北進して會寧府に至り、先に此の地に逃れ居たる臨海君・順和君の二王子を捕へ、鏡城に留置して兵をして之を守らしめ、自ら兀良哈(オランカイ・満州間島の邊)に入りて兵威を輝かした。南方にありては小早川隆景等は、慶尚道より全羅道に入り、全州に權慓の軍を破り、毛利輝元・島津義弘等も各々不逞の徒を討ちて功を遂げ。漢城の本営にては韓将卒洸・權慓等五萬騎の奇襲を撃退した。


  一二、海軍の形勢

 四月二十七日我艦隊釜山港に入り、慶尚道沿岸を西航せしに、敵の右道水軍節度使元均と會戦し、唐島にて敵船百余艘を捕獲す、均等は南海島に逃る。慶尚道の敵軍潰えたれば、九鬼嘉隆・加藤嘉明・脇坂安治等は上陸して漢城に向ひ、藤堂高虎・来島通之・毛利勝信等南海を阨守した。元均使をやりて全羅道の左道水軍節度使李舜臣に援けを求めた、我が水師は三艦隊となりて唐島を本営とし、巨済島及び其の東方海面を警戒した。舜臣来援して五月四日巨済島の我艦二十六艘を焼き・転じて我が第三艦隊を撃破し、六月四日には舜臣等また唐島の我艦隊を襲ひ、来島通之戦死するに至った。この報京城に達するや、九鬼・加藤・脇坂等急ぎ南海に赴き、七月五日毛利勝信の営にて謀議を凝し、舜臣が巨済島の西、見乃梁に泊するを探知して之を襲ひしに、我艦却て彼の砲撃に遭ひて七十余艘を失ひ、戦死者亦之に伴ふ、依りて脇坂は金海に、九鬼・加藤は安滑浦に退いた。之より舜臣は閑山島に據りて近海を警戒した。かやうに我軍の敗戦を招きしは、諸将の不和なると船艦の構造彼の堅牢なるに若かざるが故であるけれども、又一方には最初我軍が元均を被りて心驕り、九鬼・加藤等が漢城に至りて悠々たるは、其の敗因の一であって、勝って兜の緒を締むるの用意なかりしためとも云はねばならぬ。


   一三、名護屋本営

 我が数十萬の豼貅が勝ちを異域に制するの時、名護屋城に於では、家康・利家等謀議に参画して遺算なきを期した。 しかして豊公は雄心勃々抑へ難く、親ら朝鮮に渡りて軍旅を統帥して明韓の地を蹂躙せんと欲し、加之石田三成等の如きも之に賛した、然るに家康・利家等は極力其の不可を説き、また後陽成天皇も宸翰を賜ひて、其の出陣を留むべきやう諭し給ふた。
 偶々公の生母大政所病に臥す、其の報名護屋陣営に達した、孝養の心厚さ公は大に之を憂へて、至情切なる祈願を神佛に籠めて恢復を祈り、在外軍の進退、留守営の警戒など落ちもなく措置して、帰洛に決し、其の間名護屋陣の配置を左の如く定めた。

       名護屋留守陣と城中警固
名護屋留守陣
   大和中納言   森右近太夫
   勢州穴津少将   藤堂佐渡守
   伊賀侍従     浅野弾正少弼
   江州八幡侍従    同息左京太夫
   播州龍野侍従  同舎弟木下宮内少弼
   栃木河内守   小川土佐守
   水野和泉守    伊藤長門守
   伊藤弥古      生熊源介
   橋本伊賀守     千石權兵衛尉
   河原長右衛門尉 石川出雲守
   羽柴河内守   吉田又左衛門尉
   日根野織部正   伏屋小兵衛尉
   伏屋飛弾守   西川八左衛門尉
   佐久間河内守    水野久右衛門尉
   瀧川豊前守   佐藤駿河守
   鈴木孫三郎   大塚與一郎
   鍋島伊平太    落合藤右衛門尉
   鈴木孫一郎   蜂屋市左衛門尉
   美濃部四郎三郎   安井次右衛門尉
   吉田水主正   石河兵蔵
   南部弥五八

 関 東 衆
   江戸大納言家康 會津侍従氏卿  結城少将
   佐竹侍従  伊達侍従政宗   北條美濃守
   北條助五郎   眞田安房守 出羽侍従
   眞田源三部   宇都宮弥三郎  成田下総守 
   邦 次 宗  安房里見侍従  南部大膳
   秋田太郎    北 半 介   佐野太夫
   六 卿 衆 小介川治部少輔   小野寺孫十郎
   瀧澤又五郎   内越宮内少輔  三ノ屋伊勢守
   高屋大次郎   由円衆四人

 北 国 衆
  羽柴加賀宰相利家  羽柴松任侍従長重
  上杉越後宰相景勝  羽柴久太郎  羽柴美濃守
  青木紀伊守     溝口伯耆守   村上周防守

 城中警固
  裏之御門番衆
 一番 有馬中務卿法印 大野木甚之丞
 二番 石田木工頭  太田和泉守
 三番 長束大蔵次輔  江州観音寺
 四番 寺澤志摩守  御牧勘兵衛尉

  西之丸御前備衆
  富田左近将監 七百人   金森飛弾守 八百人
  蜂屋大膳太夫 二百人   戸田武蔵守 三百五十人
  奥山佐渡守  三百五十人 池田備中守 四百人
  小出信濃守 四百人   津田長門守 五百人
  上田主水正  二百人   山崎左馬允 八百人
  稲葉兵庫守 五百人   間島彦太郎 二百人
  市橋下総守  二百人   赤松上総介 二百人
  羽柴下総守 三百人

  東二之丸御後備衆
 羽柴三吉侍従  三百人  長束大蔵大輔 五百人
 古田織部正 百五十人  山崎右京進 二百五十人
 蒔田權亮   二百人   生駒修理亮 百七十人
 中江式部大輔 百七十人  生駒主殿亮 百人
 溝江大炊助  百人 河尻肥後守 二百人
 池田弥右衛門 五十人   大鹽與一郎 百廿人
 木下左京亮  百五十人  矢部豊後守  百人
 有島玄蕃允  二百人   寺澤志摩守  百七十人
 寺西筑後守  同 次郎介 四百人  福島右馬助 五百人
 竹中丹後守 二百人    長谷川右衛門尉 二百七十人
 松岡右京進  百人     河勝右兵衛尉 七十人
 氏家志摩守  二百五十人 氏家内膳正  百五十人
 服部土佐守  百人   寺西勝兵衛尉 二百人

右一日一夜無懈怠可令勤仕者也

御本丸大手門御門番衆
 一番 服部土佐守  
 二番 鹽谷駿河守 建部壽徳

本丸裏表御門番衆
 一番 中江式部大輔
 二番 山崎右京進  
 三番 石田木工頭  
 四番 長谷川右兵衛尉
 五番 石河備中守   
 六番 寺澤志摩守  
 七番 長束大蔵大輔 
 八番 服部土佐守
 九番 蒔田權佐    
 十番 福原右馬助

右一日一夜宛堅可相勤者也



 三之丸御門番衆、御馬廻衆

一番 石川組
石川紀伊守  土橋右近将監  佐藤半介  金森掃部助
田丸勝八郎  今枝勝七郎  片岡喜藤次  中村七助    
雲林院忠介 瀧川助太郎  森村三平   坂井理右衛門尉
水野源左衛門尉  水谷次右衛門尉  坂井彦九郎  
丹波源太夫   落合新三   眞田源次
山中五郎作  土肥久作   上田勝三郎  宮本清三郎  
平井金十郎  立野孫十郎

二番 中島組
中島左兵衛尉  青山勝八郎  齊藤新五  村上太郎兵衛尉 
坂井平八  長谷川宗次郎 小澤喜八郎   桑原勝介   
吉田彦四郎  菅野弥三左衛門尉 池山新八郎  宇野傳十郎
水原彦三郎   矢野十左衛門尉  鹽野屋宗四郎 長坂三十郎  
郡十右衛門尉 高田源十郎 薄田傳右衛門尉  河原勝兵衛尉

三番 長束次郎兵衛組
長束治郎兵衛尉  木下小次郎   津田新八  赤座三右衛門尉 
坂井平三郎  珂副式部丞  一柳大六   安見甚七  
岡村数馬助  山名市十郎   日比野小十郎 矢野源六郎
岸 久七   廣瀬加兵衛尉  大谷次郎右衛門尉  山羽虎蔵   
長谷藤十郎  山口三十郎  薄田源太郎  田中藤七郎   
拓殖吹郎吉   五十表小平次  安西左傳次  山田半三郎
堺猪左衛門尉  田中三十郎

四番 桑原組
柔原次右衛門尉   若杉藤次郎  木曾八郎太郎 多羅尾久八郎  
村井吉兵衛尉 津田掃部助  平野九郎右衛門尉  河田九郎左衛門尉 
平野新八郎  越智又十郎   前田太郎助  生熊丹左衛門尉
梶原兵七郎   中川長助  岡本清蔵   伊知地與四郎 
大蔵五郎左衛門尉 岡本平吉  森權六郎

五番 中井組 
中井平右衛門尉  多賀長兵衛尉  松原五郎兵衛尉 溝口傳三郎 
小出孫十郎  荒川助八郎 吉田三左衛門尉  吉田九一郎   
石川長助  小原喜七郎  小崎兵衛門尉  石尾與兵衛尉
山名勝七     松浦金平   茨木兵蔵  薄田清左衛門尉 
赤座藤八郎   安宅源八郎  矢野九郎次郎   佐久間葵助   
加藤小助  吉田又七郎

六番 堀田組
堀田図書助   上條民部大輔  野々村次兵衛尉 村瀬宗七郎  
余語久三郎  伊木半七  加藤清左衛門尉  大山勝兵衛尉  
大津久兵衛  山本加兵衛尉 桑山市蔵  山田平兵衛尉
井上彦三    林猪兵衛尉   生熊與三郎  寺島久右衛門尉 
矢野久三郎  団甚左衛門尉  村瀬喜八郎  吉田市蔵  粟屋弥四郎

本丸廣間之番衆 馬廻組
一番 伊藤組
伊藤丹後守  津田小兵衛尉 桑原将八郎 福原太郎右衛門尉 
木全又左衛門尉 長鹽弥左衛門尉  吹田毛右衛門尉  村田将監   
岡村弥右衛門尉 那須助左衛門尉 藤堂勝右衛門尉 上原次郎右衛門尉
三上大蔵丞   酒井助允   小栗助兵衛封 三牧太郎右衛門尉 
岡田勝五郎  尾関喜介  津田新右衛門尉  清水弥左衛門尉 
竹内虎介  高橋弥三郎  吉田次兵衛尉 吉田彦六郎
松井新助   柴田弥五左衛門尉 三村九郎左衛門尉 
山口藤左衛門尉  村上兵部丞

二番 河井組
河井九兵衛尉   三好孫九郎   森宗兵衛尉   三好新右衛門尉  
生駒若狭守  三好為三  石河忠左衛門尉  佐々喜藤次   
生駒孫介   柘植平右衛門尉  飯沼五右衛門尉  跡部佐左衛門尉
宮島甚五右衛門尉  河井次右衛門尉 寺西半左衛門尉 加須屋與十郎  
伊藤長蔵  能勢右衛門尉  林喜平太   林助十郎    林長太郎    
生島佐十郎   三宅善兵衛尉  溝口新介

三番 眞野組
眞野蔵人  赤松次郎太郎  津田小平次  赤松伊豆守  小崎新四郎  
堀田三左衛門尉  太田平蔵  堀田部介   平 彦作   桜木新六   
塚井新右衛門尉 堀田權八郎  佐々權左衛門尉  木村藤介  河北算三郎  
清水喜右衛門尉  平塚因幡守   乾彦九郎  今井兵部丞  貝塚五兵衛尉  
栃木六兵衛尉  眞野佐太郎  平野甚介

四番 佐藤組
佐藤隠岐守  伊丹兵庫守  長谷川甚兵衛尉 小笠原左京太夫 
竹腰三郎左衛門尉 大屋三右衛門尉  福富平兵衛尉  赤座弥六郎  
上野中務少輔  飯沼金蔵  安部仙三郎  河村図書助
飯沼仁右衛門尉 寺町宗左衛門尉 大屋助三郎  青木善右衛門尉 
河村彦三  佐藤助三郎  余田源三郎  橋本九郎右衛門尉 古田宗四郎  
寺町新介  吉田宗五郎  安見新五郎  飯尾兵左衛門尉  寺町孫四郎  
佐藤孫六郎   舟津九郎右衛門尉 赤部長介

五番 尼子組
尼子三郎左衛門尉 春日九兵衛尉  東條紀伊守  中村掃部助  
高橋三右衛門尉 進藤進次郎  永原孫左衛門尉  山岡修理亮  
上田勘右衛門尉 三好助兵衛尉  井上新介  梅原傳左衛門尉
河毛九郎左衛門尉 田那部小傳次 野間久左衛門尉 青木左京進
渡邊九郎左衛門尉 河毛源三郎  岳村與八郎  松田源兵衛尉 
水原又進  河副源二郎  伊藤半左衛門尉 田那部與左衛門尉
河毛勝次郎  野間長次郎  齊藤吉兵衛尉  荒木助右衛門尉  
賀藤弥平太

六番 速水組
速水甲斐守  佐々木孫十郎 白樫主馬助 白樫三郎左衛門尉 
山中又左衛門尉 渡邊半右衛門尉  本郷小左衛門尉 小坂助六  
千秋三郎  夫間甚次郎  北村宗左衛門尉 薮田伊賀守
森藤右衛門尉  森村左衛門尉 篠原又一郎 萱野左太夫 
佐々木十左衛門尉 佐々喜三郎  山内善助  山本太郎右衛門尉  
宮崎半四郎  青山助六  竹内源介  南見孫介
安居傳右衛門尉  北村五助  鈴木與三右衛門尉

    右一日一夜宛無懈怠可令勤仕者也
     七月廿二日       御 朱 印


 大政所の異例日々に宜しからず、毎日の通報軍営に達したれば、今はとて文禄元年七月二十二日名護屋を発す、船頭明石與次兵衛船方を掌ったが。時に毛利輝元は朝鮮に出陣中であって、其の長子秀元は年少にして本国に止まり居光れば、名護屋陣中に公の機嫌を奉伺中であったから、公に従ひて国に帰った。然るに関門海峡を過ぐる時俎瀬(マナイタゼ)の難所にかゝりし頃、自然一大事もあらざるにやとて秀元は己が座船を急がしめたるに、果たせる哉公の乗船彼の瀬に坐礁して危機一髪の観ありしが、幸にして秀元の船に救はるゝことを得た、依って公は秀元の功を賞して宰相に任ぜられた。さて明石に對しては糺明ありたるに、彼辯明しけるには、此所は難所と聞きつれど中国の地公に叛せんと傳ふれば、此の航路を取りて豊前地沿岸を辿りたるものなりと。公謂へらく、中国殿の船に移乗してこそ危難を免れたのである、偖々言語道断のことなりとて、内裏ノ濱にて明石が首を刎らる。
 同月晦日京師に着せしに、既に大政所は廿五日薨去して居た、公之を聴き大に慟哭して臨終に逢はざりしを遺憾として、痛恨の極少時昏倒するに至った、公が如何に母親に對する孝道の念深厚であったかを察するに足る。かくてあるべきにあらざれば、前田玄以に喪儀を主掌せしめて、頗る盛儀を尽して大徳寺に葬らしむ。

    一四、名護屋陣中の遊興

 豊公は其の歳九月再び名護屋に下向して軍務を督し、軍事多端の際にも興を遣り徒然を慰めて、将士と共に陣営の間に歓楽を分った。文禄元年も暮れて二年の春を迎へしに、折ふし山城国八幡山の暮松新九郎は年頭の祝儀を申さんとて、名護屋軍営に奉伺したるに、公の満足一方ならず、暮松に就きて能の稽古を始められ、最初は山里丸にて伽衆ばかりを召し出して稽古ありしが、次第に其の技進みしかば、今は表向きにて物し給ふとも苦しかるまじきよし暮松言上せしに、今一入の練熟をなさばやと謂ひつゝ、弓八幡は天下を治め民を安んずる能であればとて、殊の外練習を重ねらる。
五十日許りの内に十五六番の稽古ありしが、日数を経るに従ひ其の技益々妙に入る観る人感ぜざるはなかりしが、暮松には金銀御服など夥しく賜はった。諸侯大夫の面々も一方ならぬ稽古に熱心であれば、暮松が門前は常に賑である。さて太閤は新に金春大夫八郎・観世大夫左近を召し下し、能の演技を為さしめんとて使者を立てられければ、二月下旬両人名護屋に到着した、太閤の満足一方ならず、金春家の名物こおもて・はんにゃ・小尉・三光之尉、観世家の名物ふかひおもて・しは尉・あこみの女・こへしみなと・を模造したき旨、内々所望ありしかば、辞み難きことなれば、即ち面を差し上げければ、其の頃山城宇治郡醍醐の角ノ坊とて、面などを模造して類なき名人ありしゆゑ、召し下し模造するやう木下半介に下命あつたが、早速角ノ坊来りて十日計りのうちに五筒出来上りたるが、実物と模造物との区別も分かざる程巧に出来上った、太閤の御感斜めならず、種々の引出物の下賜ありて、残余の面共も出来上りたれば、おもての天下一號を授けんとて、家康・利家などにも諮りて、異議をかりしゆゑ、其の夜召し出して、銀子五十枚並に天下一號の御朱印状を給はった。かく能に嗜好を有せられしかば、名物のおもて諸所より聚ること夥しきことであった。

     同毎四月九日名護屋本丸にで能の次第

翁   金春八郎  千歳振  大蔵六  さんばさう  大蔵亀蔵
  もみ出し 大蔵平蔵  とうとり 幸五郎次郎

一番 高 砂
 太夫 金春八郎 わき 金春源左衛門尉 つれ 長命甚次郎
 太談 大蔵平蔵 小鼓 幸五郎次郎   笛  長命吉右衛門尉
 太鼓 金春又次郎 あひ 大蔵弥右衛門尉 狂言 長命甚六 大蔵亀蔵
二番 田 村
 太夫 金春八郎  わき 金春源左衛門尉  太鼓 樋口石見守
 小鼓 観世又次郎  笛 長命新右街門尉  あひ 大蔵亀蔵
 狂言はなとり大名 弥右衛門 相撲今参り 甚六

三番 松 風
 太夫 金春八郎  わき 金春源左衛門尉  つれ 武俣和泉
 太鼓 樋口石見守  小鼓 幸五郎次郎  笛  八幡助左衛門
 あひ 長命 甚六  狂言釣きつね  祝弥三郎  あと甚 六

四番 邯鄲
 太夫 金春八郎 わき 武俣和泉  太鼓 大蔵平蔵
 小鼓 幸五郎次郎  笛 長命吉右衛門  狂言 弥右衛門

五番 道成寺
 太夫 金春八郎  わき 武俣和泉  太鼓 大蔵平蔵
 小鼓 辛五郎次郎  笛  長命吉右衛門   狂言 弥右衛門

観覧中の諸侯等には酒肴のもてなしあり、太夫並に座の者共には御服を、八郎には唐織菊の御紋付きたる小袖二重を下賜せられた。

六番 弓八幡
 太夫拝領の小袖を着して座に着きて、御祝言を仕つる。

七番 三 輪
 太夫 金春八郎  わき 春藤六右衛門  太鼓 大蔵平蔵
 小鼓 観世又次郎  笛  長命新右衛門  太鼓 金春又二郎

八番 金 札
 太夫 金春八郎  わき 金春源左衛門  太鼓 大蔵平蔵
 小鼓 幸五郎次郎  笛 長命吉右衛門  太鼓 深谷金蔵

長閑なる残春の頃、和気靄然たる一日は、松浦潟青海波も治まりて、目出度き歓楽に陶然として酔へる様であった。

 また同二年六月廿八日、太閤を始めとして諸侯等異様なる仮装をなして、濶やかなる瓜畑に粗雑なる仮屋を営み、種々の遊興をなして長陣の欝を散ぜんとて、太閤は、柿帷を着け、藁の腰簑を纒ひ、黒頭巾を頂き、菅笠を肩にして、味よしの瓜召され候へと触れ歩きたれば、聊も瓜売り人に違ふ所もなく、観る人をして笑嘆せしめしこと一方ならざりき。

一、江戸大納言家康は、あじか売りに眞似て、大様に、あじか買はし買はしと呼び歩きたるは、又よく似合ひたり。

一、丹波中納言秀勝は、漬物瓜を荷ふて、かりもりの瓜、瓜めせ瓜めせと不束にのゝしり歩きければ、実にも若きは何事も無功に有るよと思はれて年は取るべきものにて、又取るまじきものと云ひ合へる人も多かった。

一、常眞公は遍参僧に仮装し、文庫を浅ましげなる同宿に持せ、修行の体に物しけるも。蛇に衣を着せたる様にて、横着に見えたり。

一、加賀大納言利家は、高野ひじりのおひを肩に懸け、やどやどと声を長く引きて、如何にも宿借り佗びたる声さも有りげに覚えて、聊哀を催ふした。

一、會津忠三郎氏卿は、荷ひ茶売りになりて、太閤へ極上の茶を立て参らせて、代金を強く請ひしは一興であった。

一、三松老は、赤き半帷を上に打ち羽織り、つるめせつるめせ、又御用の物もなどゝ云ひつゝ、空めき笑めるも又可笑し。

一、織田有楽老は、客僧の姿に出で立ち、修行者の老僧に、瓜御結縁あらぬかと請ひたるに、太閤手づから施し給ふに、いや是は熟せぬとて成熟の者を望めるなどは、いと可笑しきことであった。

一、有馬中務卿法印は、有馬の池坊に成りて湯文を説き廻り、有馬の湯の徳を事々しく云ひ立てしは、所柄とて能き作意であると思はれ、此人は物毎に機智に富めるならんとて、人々思ひ合ひしやうであった。

一、前田民部卿玄以法印は、比丘尼に出で立ちしが、脊高く肥え太りたる比丘尼の、醜体なる顔ざしに可笑しき声で、唯念佛を常に申せば必ず成佛すべしと説法した。

一、放籠屋の亭主には、蒔田權左、其の妻には藤壷とて太閤の中居なるもの、白生絹を着し黒緞子の前掛け、襷は紅糸にて打ちたるものを用ひたるも、よく似合った。

一、茶屋の亭主には三上與三郎、其の妻にはとこなつとて是も太閤の側女であったが、出で立ちは荒ましき濶袖の浴衣に、繻子軽袗(カルサン)、南蛮頭巾を蒙りて御茶上り候へ、温き饅頭もおあはしまし候など中々に愛嬌を盡くし、又藤壷は御飯まいり候へ、甘酒も生蕎麦も候と云ひつゝ、太閤の御手を引き招し申せば、殊の外御機嫌にて、布袋の笑める様に目も口もなき計りであった。

其の他に、禰宜・虚無僧・鉢叩き・猿使ひなど様々の仮装遊興盡くる間もなく賑ひて、僻遠の地幕営の間軍務鞅掌の暇に、慰籍を他に求むべきもの少ければ、上下挙りてかゝる遊興によりて歓楽を分ち欝懐を散じた。



 一五、和議及び其の間の戦争

 曩に明の援軍租承訓等が敗戦するや、當時明廷は神宗の治世であって、北には満洲の地に愛親覚羅氏起らんとし、西には寧夏の乱擾がしく、内には東林の黨争止まず、所謂内憂外患竝び臻るの秋であれば、我が国との和議の説を為すもの亦多く、兵部尚書石星其の説を賛し、説客をして和を講ぜしめ、其の間に奸策を弄せんとした。時に無頼の遊客沈惟敬をるもの、其の妾の下僕に就きて多少我が国の事情に通じて居た。依って惟敬は石星に見えて曰へるに、日本が大陸に軍旅を出すは秀吉が封貢を欲するに外ならないのであると、石星依て惟敬を抜擢して遊撃将軍となし、平壊に至りて我が軍に説かしめた。文禄元年九月順安に至り行長に會見を求めしに。行長は宗義智・柳川調智・僧玄蘇と共に乾伏山下に於て、彼と會見して和約の事を議せしに、惟敬一旦帰国して裁許を得んとて五十日間の休戦を約し、平壊の西北約十里なる谷山院を境界として、両軍この境を超ゆる事なきを定めた。行長は之を漢城の浮田秀家及び石田・増田・大谷の三奉行に報じ、惟敬の報を待ちしに、稍々期に後れて十一月彼再び来りたれば、行長は彼を伴ひ名護屋の本営に赴がうとした。
 然るに明廷の和議は詐謀であった、乃ち李如松を防海禦倭総兵官となす、既に寧夏の乱も鎮定したれば、任に東方に赴いた。我軍が惟敬の約を信じて備へざるに乗じ、如松五萬騎を率ゐて平壌に迫った。初め行長は明兵の至るを見て封貢使の来るとなして備をなさず、然るに如松突然起って城を襲ふ、時に文禄二年正月六日である。義智等牡丹臺に利あらず退て城を守りしに、敵軍三面より合撃したれば、行長の兵は一萬数千騎に過ぎざりければ支ふること能はず、大友義統に應援を請ひしも至らず、行長止むなく退却して漢城の本隊に合した。然るに開城に居た小早川隆景・黒田長政・立花宗茂等は、敵の追撃軍を碧蹄館の南方礪石嶺に激撃し、同月廿七日夜宗茂の兵敵の硝兵と衝突し、翌廿八日隆景全軍を三隊に分ち、親ら敵の前面に備へ、長政其の後方に予備隊として控へ、宗茂及び毛利元康・同秀包の軍を嶺上に配置し、如松の軍進んで隆景の兵と奮戦酣なるの頃、嶺上の兵俄に敵の中腹を突きて彼の不意を撃つ、敵軍混乱旗色清乱す我軍之を見て隆景と予備隊と共に電光石火の勢を以て敵を突破し、追撃殺倒息をも休めず敵に迫つたが、敵の死傷一萬余人を算するに至り如松僅かに平壊に逃れ、再び和を講ずるに至った。

  ○名護屋條約
 碧蹄館の敗戦より明廷も眞に和議を欲し、我軍にても平壊の失敗を幾何か意とし、加之異域にありて櫛風淋雨の苦惨を嘗め病患相踵で至り、且つ一時休戦をなしたるため郷国を思ふものも漸く多くして、諸将の和を望むもの次第に多きを加ふ。恰も此の際明は徐一貫・謝用梓を挙げて使節となし、惟敬と共に行長の営に至りて和議を提唱した。依って明使の請ひにより漢城の兵を南韓の地に移した、末だ和議の成否も決せざるに、軽々しくも占有金点を引き攘ふが如きは、如何に我軍に和議を欲するものありと雖も、局に當れるものゝ大失態であって、我が外交の失敗甚しきものと云はねばならぬ。五月十五日行長明使と共に名護屋に至り左の七箇條を議定した。

    大明日本和平條件

一、和平誓約無相違者、天地縦雖盡不可有改変也、然則迎大明皇帝之賢女、可備日本之后妃事。

一、両国年来依間隙、勘合近年断絶矣、此時改之、官船商船可有往来事。

一、大明 日本通好、不可有変更旨、両国朝權之大官、互可顕誓詞事。

一、於朝鮮者、遣前駆追伐之矣、至今弥為鎮国家安百姓、雖可遣良将、此條目件々、於領納者、不顧朝鮮之逆意、對大明、割分八道、以四道竝国城可還朝鮮国王、 且又前年従朝鮮差之使、投木瓜之好也、余薀付與四人口実。

一、四道者既返投之、然則朝鮮王子、竝大臣一両員、為質可有渡海事。

一、去年、朝鮮王子二人、前駆者生*(テヘンニ禽)之、其人非凡間、不混和平、為四人度、與沈遊撃、可帰舊国事。

一、朝鮮国王之權臣、累世不可有違却之旨、誓詞可書之、如此旨趣、四人向大明勅使縷々可陳述之者也。


    文禄二年癸巳六月廿八日
                    御朱印
                            石 田 治 部 少 輔
                            増 田 右 衛 門 尉
                            大 谷 刑 部 少 輔
                            小 西 攝 津 守



猶また之に添ふるに次の諭告文を以てした。

   對大明勅使可告報之條目

一、夫日本者神国也 神而天帝、天帝而神也、今無差、依之国俗帯神代風度、崇王法体天則、地有言有令。雖然風侈俗易、軽朝命、英雄争權群国分崩矣。予懐胎之初、慈母夢日輪入胎中、覚後驚愕、而召相士筮之。曰天無二日、徳輝弥綸四海之嘉瑞也。故及壮年夙夜憂世憂国、再欲復聖明於神代遺威名於萬代、思之不止。纔歴十有一年、族滅凶徒姦黨、而攻城無不抜、国邑無不有、乖心者自消亡矣。已而国富家娯、民得其処心之所欲無不遂。非予力、天之所援也。

一、日本賊船、年来入大明国横行于処々雖成寇、予會依有日光照臨天下之先兆、欲匡正八極。既而遠島邊陬、海路平穏、通貫無障礙、制禁之。大明亦非所希乎、何故不伸謝詞、盖吾朝小国也、軽之侮之乎。以故将兵欲征大明、然朝鮮見機差遣三使、結隣盟乞燐、丁前軍渡海之時、不可塞粮道遮兵路之旨、約之而帰矣。

一、大明日本會同事、従朝鮮至大明啓達之。三年内可及報、約年之間者可偃千戈旨諾之。年期已難相過、無是非之告報、朝鮮之妄言也。其罪可逃乎。咎自己出、怨之所攻也。此故去歳春三月、到朝鮮遣前駆、欲匡違約之旨、於是設備築城高壘防之矣。前駆以寡撃衆、多々刎其首、疲散之群卒伏林*(キヘンニ越)、恃蟷臂挙蟹戈雖窺隙、交鋒則潰敬、追北教千人討之、国城亦一炬成焦士矣。

一、大明国救朝鮮急難而失利、是亦朝鮮反間故也。於此時大明勅使両人、来于日本名護屋、両説大明之綸言、答之以七件。見于別幅、為四人可演説之。可有返章之間者、相追諸軍、渡海可遅廷者也。

     文禄二年癸已六月廿八日
                    御朱印
                           石 田 治 部 少 輔
                           増 田 右 衛 門 尉
                           大 谷 刑 部 少 輔
                           小 西 攝 津 守
 然るに七箇條の條件は明に達する前に、既に改竄せられ終つたのである、今、朝鮮の趙慶男撰の乱中雑録の一節を見るに。

 上聖普照文明、無徴不悉、下国幽隠之曲、有求則鳴。茲瀝卑衷、仰于天聴、欽惟皇帝陛下、天佑一総、日清四万。皇極建而舞于羽千両階、聖武照而柔遠人于萬国。天恩浩蕩、遍及遐邇之蒼生。日本 微眇、成作天朝之赤子。度托朝鮮而転達。竟為秘密而不通。控訴無門。不待已而構怨、飲悵 有日。非無謂而用兵。且朝鮮詐偽存心、乃爾虚*(サンズイニ賣)宸聴。若日本忠貞自許、敢為迎刄王師。遊 撃惟敬忠輸明、而平壌預譲。豊臣行長輸誠向和、而界限不逾。誰謂朝鮮反間、構起戦争。雖致 我卒死傷、終無懐報。第 王京惟敬舊約復申、日本諸将初心不易、還城廓、献芻蕘、益見輸城 之梱送儲臣帰土地、用盡恭順之心。今差一将小西飛騨守。陳布赤心。冀得天朝龍章銀錫。以為日 本鎮国寵栄。伏望廓日月照微三光、洪天地覆載之量。比照舊例、特賜藩名號、臣秀吉感知遇之洪休、若高深之大造。増重鼎品。共作蕩籬之臣豈愛髪膚。永献海邦之貢、祈皇基丕著於千年、祝聖壽 延綿於萬歳。(乱中雑録)

 是によりて見る時は、太閤が提出したる條件の一箇條をも認むることが出来ぬ、全く途中で改竄せられたることが明である。其の大意は太閤日本国王に封ぜらるゝを深く希望し、封冊の後は其の知遇の渥きに感じて明の蕃屏として朝貢を怠らざらんと云ふのである。全く太閤の意志でない。この大胆なる改竄は小西行長三奉行と惟敬との間に行はれしこと疑ないやうである、即ち行長等はこの講和條件を非常に秘密に附したりしが、比のこと清正より漏洩するに至った。そは朝鮮の僧侶に惟政(松雲大師)なるものあり、彼は清正・行長等の陣中に出入して我が将に知見がある、惟政は竊に和議の成り行きを探査するに、清正は條約の不調を望むが如く、行長は其の成立の早からんことを期せるを知るや、双方の間に往来して其の機微を洞察せんとして、清正の許に至り強て和議の條件を聴かんとせしに、清正語りて曰へるに、明の皇女を日本皇妃に配すること、又朝鮮八道中四道を日本に分割することなどを挙げしに、惟政次で行長の許に行きて詰りて曰へるに、卿は曩に太閤は単に封貢を希望して居ると云へるに、其の実は明の皇女を日本の皇妃に配すること以下諸件を含めるにあらずやと、然るに行長は極力之を非認した、惟政また惟敬を訪へるに行長と同じく強く清正の言を打ち消した。されど誰云ふとなく和議の條件は或は五箇條である、或は七箇條であると傳ふるやうになったから、惟政再び清正を訪ひたるに矢張り前言を繰り返した。(大森氏所説)

 ○名護屋滞留中の明使接待
 一、使節の宿所及び接待のこと。
   ○大明正使参将謝用梓    江戸大納言家康
   ○副使遊撃徐一貫      加賀大納言利家
    右宜被馳走旨也。
 よりて五月十五日より同廿一日まで、両卿之が接待の任を果し、其の後は左の如く定められた。

一番(自五月廿二日至六月朔日)    浅野弾正少弼
二番(自六月二日至同十一日)     建部壽徳
三番(自同十二日至同廿一日)     小西加清
四番(自同廿二日至七月朔日)     太田和泉守
五番(自七月二日至同十一日)     江川観音寺

 右如此令沙汰賄方之儀何れも手前の代官所之内を以、相計ひ可申者也。

一、使萬車用所等承、相調就可申者添奉行事。
 ○増田右衛門尉内    高田小左衛門 服部源蔵
 ○石田治部少輔内    井口清右衛門 大島甚右衛門
 ○大谷刑部少輔内    引壇傳右衛門 小岩内膳
 ○小西攝津守内     小西與七郎  結城弥平次

 右両人苑昼夜相詰め、萬事斡旋せしかば明使一方ならず便宜を得て感謝した。

一、明使へ五月廿三日御對面の式序             ′
 〇三 献    折など種々
 ○御盃臺
 ○御配膳衆
 御前 羽柴河内侍従 八幡侍従
 御酌 中江式部大輔
 御加へ 山崎右京進

同じ間列席の衆
  江戸大納言   加賀大納言   岐阜中納言   丹波中納言
  大和中納言   越後宰相
次之間参列の衆
  羽柴三吉侍従 龍野侍従  有馬中務卿法印  戸田武蔵守
  羽柴下総守  古田織部正  河尻肥前守  寺澤志摩守
  氏家志摩守  富田左近将監  奥山佐渡守  上田主水正

御酌かよひ衆
 尼子三郎左衛門尉  三上與三郎  新庄駿河守  長谷川右兵衛尉

 明使下賜之目録
一、御太刀 (長光、目貫笄後藤)
一、御太刀 (助光、目貫笄後藤)
一、銀子 三百枚宛
ー、小袖 二十重宛  
一、帷子 三十枚   
一、銀子(百枚筆談の玄蘇、西堂)
一、銀子(五百枚雇人供の下々)  
一、帷子 百  筒服 百 同下々へ

  ○對面彼の接待
 かやうにして謁見式終りて、金の数寄屋で茶を給ひ、晩餐の後は長谷川刑部卿法眼これを勤む。太閤は此の時床の側に座を構へ、茶道久阿弥、通ひは尼子三郎左衛門・三上與三郎奉仕し、諸侯大夫其の外の大官は、縁通りに居竝んだ。室内の装飾は、書院の道具も総て金装で、床の間には虚堂の墨蹟・玉*(石間)の夜雨・晩鐘・馬藺の朝山・青嵐を配したれば、彼の使臣等何れも嘆賞せざるはなかつた。

一、太閤明使の為に脚下の湾内に於て舟遊の事。
 名護屋の地は崛曲自然に興ありて、海水遠く彎入し海波静かに水深く、景勝稀なる地区であれば、彼の使臣之を賞観して嘉陵三百里の山水には及ばざるも、*(サンズイヘンニ肅)湘十里の風景には優れたりとて、即ち詩を賦して、重畳青山湖山長、無邊緑樹顕新粧、遠来日本傳明詔、遙出大唐報聖光、水碧沙平迎日影、雨微煙暗送斜陽、囘頭千態皆湘景、不覚斯身在異郷。
 沓旋*(車召)車来日東、聖君恩重配天公、遍朝萬国播恩化、悉撫四夷助垂忠、名護風光驚旅眼、肥州絶境慰衰躬、洞庭何及此晴景、空使詩人吟策窮。一奉皇恩撫八絋、忽蒙聖諭九夷清、晴光湧景霊蹤聚、山勢抱江煙浪軽、虔境奇踪難闘靡、楊州風物寧堪争、扶桑聞説有仙島、斯処定知蓬又瀛。

 太閤も明使が一聯に気色斜ならず、船を漕ぎ出さしめ、数百艘の大船に家々の紋章ある幔幕、或は旗或は指物を以て、飾り立て*(ヒ矢欠)乃歌など事々しく歌ひ騒ぎしかば、上下ともに離苦得楽の眺めに世塵を忘れ果てた。太閤其の日の行装は如何にも華麗を極め、虎尾の投鞘の鑓二百本、十文字長刀何れも金装燦然たるものを、茜の羽織を着したる中間三百余人に之を持たせ、供奉の輩も綺羅を瑩き善美を盡くす、又老武者の異様の出で立ちを為すものなどありて、千差萬態である。太閤は船中にて、明使其の他の倍伴の諸侯大夫にも饗膳を給し、酒宴頗る盛大である。序で御能の催ふしありて、観世・金春などを召して、音曲海上に響き渡り、龍神も感應有りげに覚え、明使も深く興に入り、寔に天人も影向するかのやうに見渡された。
 二人の明使並に玄蘇、西堂と船中にて相約し、翌六月十日の朝山里にて御茶を給はらしが幽邃閑雅の園庭はげに山里の名に負かなかつた。

一、山里にて御茶を給ひしこと、

    四畳半の御数屋装飾
一、玉*(石間)の帰帆の畫   
一、細口の花入    
一、新田肩衝(ニツタカタツキ)

    棚の装飾
一、茄子の茶入内側朱塗りの盆上に   
一、臺天目  
一、釜  
一、えんをけの水さし
一、水こぼしがうし   
一、象牙の茶杓

太閤自身にて通ひものし給へば、何れも感謝せざるはなかった。
 其の他五畳激のくさりの間、勝手の装飾など夫れ夫れ行はれて、勝手の間にては諸侯大夫に御茶を給はつた。

一、六月廿八日明使帰国に當りての下賜品目
一、生絹(スズシ)の摺薄帷子 二重宛     
一、辻か花染帷     十重苑
一、浅黄の表紋上品の帷子 廿 苑     
一、船中慰のため挽茶壷    三
一、眞壷(極上五斤入) 一箇
一、きりさきの旗   二本
一、白 米       五百俵     
一、諮白樽        百
一、雁、鴨       二 百     
一、鶏         二 百
      以 上
 又同時に、和議の用務を帯びて、朝鮮・名護屋間を往復十度許りにも及び、功労少からざりし岡田将藍、内藤飛騨守に、御帷子十苑、銀子百枚宛の賜給があった。

  〇和議不成立
 我が遣明使小西如安は惟敬等と共に明に赴く、この時名護屋城中に捕虜となって居た朝鮮二王子以下を帰還せしめた。如安は一旦遼東に留り、惟敬等先づ国都に入り予め計謀せるやうに、太閤封冊の事を朝廷に奏した、廷議其の要求の過小なるを以て疑議百出したるも、石星其の説を可とし、太閤を日本国王に封ずるに決し、如安を招いた。如安遼東にあること一年にして、文禄三年十二月明の国都に入る、其の謂ふところ亦同一であつた。明主疑念一掃して、三條を約した、曰く悉く日本兵を朝鮮より撤去すること、曰く封を許し貢を許さず、曰く誓って朝鮮を侵犯せざることである、よって李宗城・楊方亨の二人を刪封使となし、惟敬と共に我国に至らしむることゝなり。四年九月明使京城に入りて我軍の撤退を促す、翌慶長元年正月正使李宗城は我が兵の全く去らざるを恐れ、惟敬の奸策に陥りて釜山より遁れ還った、因て明は楊方亨を正使となし惟敬を副使に任じた。六月十六日釜山を発す、朝鮮は世子*(王韋)(ヰ)を遣はさんとなしたれども奸臣に妨げられて果さず、黄慎・朴弘長二人を使臣として明使と共に来朝した。公既に伏見城にあり、彼の使節直ちに泉州堺浦に向ひ、八月廿九日伏見に着いた。公は朝鮮王子の来らざるを怒りて其の使臣に面謁を許さなかつた。九月二月明使を引見して金印冕冠を受け、三日二使に謁し明の国書を僧承兌(ダ)をして読ましめられた。

 奉天承運、皇帝制日、聖仁廣運、凡天覆地載、莫不尊親帝命裨将。曁海隅日出、罔不率俾。昔我皇祖、誕夢多方、亀紐龍章、遠錫扶桑之域、貞a大篆、栄施鎮国之山。嗣以海波之楊、偶致風占之隔、當*(玄玄)盛際、宜続*(ヨ粉廾)華章。咎爾豊臣秀古、崛起海邦、知尊中国、西馳一介之使、欣慕来同。北方叩萬里之門、懇求内附、情既堅於恭順、恩可*(革斤)於柔懐*(玄玄)特封爾為日本国王、錫之詰命、於戯、龍賁芝幽、襲冠裳海表。風行卉服、固藩衛於天朝。爾其念臣職之當修、終循要柬、感皇恩之己渥、無替*(ヒ矢欠)誠。祗服綸言、永遵聖教欽哉。

   萬暦二十三年正月甘一日

   (此の原本は巻軸であって石川子欝家に保存し、大幅錦にて大字一行四字を書す、其の摸写せるものは唐津中学校にも蔵して居る。)

 何たる不遜侮蔑の言を恣まゝにせる書辞なるぞ、果然太閤赫怒して使者を逐ひ、再征の令を下し、十月方享、惟敬等堺より名護屋に到りて順風を待つ、されど未だ豊公の再挙のことを信ぜなかった、数日にして寺澤志摩守到りて太閤の書を示した。一に曰く前年朝鮮の使至るも明の事情を陰せしこと、二に曰く惟敬の請ひに従ひ朝鮮二王子を返すも王子来り謝せざること、三に曰く日本及び明の和議は朝鮮の反覆によりて遅滞せしことの三事を詰問せるものであった、使者大に恐れて本国に帰る。

 一六、再征の挙

太閤は西下のことなからしも、諸軍名護屋に集まりて再び*(奚隹)林半島に向った、これ慶長再征の役であって、二年正月十日先鋒加藤清正等朝鮮に入る。されど明韓の兵は前敗に鑑みて、既に楊鎬、麻貴等を将とし大挙して南緯に殺倒した。我軍亦兵站運輸等の事由によりて深く敵地に居ることが出来ず、主として泗川・南海・竹島・梁山・釜山・蔚山・順天などの慶尚・全羅両道の要地に転戦するに過ぎなかった。この役中海軍は韓将元均を閑山島に破りて幾何か前敗の雪辱戦をなしたが、陸軍は清正の蔚山籠城、泗川に島津義弘の奮闘の如き、最も目覚しき武者振りをなした位である。さる程に三年八月十八日太閤壽六十二を以て薨じた。十月八日遺命征韓陣中に達して師を還さしむ。是に於て公の雄図遂に挫折し、残すところのものは唯、其の雄名を彼の地に布き、西海の一角松濤寂然たる古城址の残骸を留むるに過ぎない。但し国民の對外雄飛の意気及び一種の奮闘的精神を作興したるは鮮少でない、如ち徳川初期に於ける国民が、明より馬来地に活躍せしに徴するも明である。
 



    第七章 藩政時代

 一、寺澤氏(文禄四年2255  正保四年2307)

    第一代 廣 高

一、公の出身

 志摩守寺澤廣高は松浦黨割據の後を承けたので、殊に機隙の乗ずべきものあらば、波多氏の残黨事を構へんとするの時であれば、政治の統一民心の帰向を計るの苦心は容易ならざるものがあった。加ふるに割據時代の風習として自然の地形を利用して、胸壁を高くし険阻を憑みたれば、生産厚生の道交通利用のことなどは、第二の問題として顧みられざる時代である。公が唐津を領するや、民其の堵に安んぜず人未だ和するの時にあらずして、多端の秋と云はなければならぬ、公はかゝる世態に処するの大任を負ふて當藩鎮に臨んだのである。果してこの重任は公の如き名君によりて見事達成せられたのである。
 抑々其の出身に至りては、武内宿弥の後胤紀ノ淑望の末裔である。初め淑望美濃国に住し、其の後裔別れて尾張国にも住居した、両国の寺澤を姓とするものは悉く其の後胤なりと云ふことである。公が父君は尾張国の住人にして廣正といひ藤左衛門と称せしが、織田氏に仕へて越中守と更む。天正十年本能寺の変に主君信長明智が毒刄に斃るゝや、豊臣家に仕へて其の釆地を大和国に受けた、多門院日記に、寺澤越中守は日本国の七奉行にて、六萬石の知行取り、太閤一段御目を掛け召仕はれ候ふ八人の内なり、と、これに依って考ふれば其の非凡の人材たりしことを知ることが出来る。豊公征韓の役に肥前名護屋に本営を築くや、廣正は西下して嗣君廣高を訪ひて陣営を巡見し太閤の雄図を偲びしが、偶々病に歿して文禄四年正月十四日茶毘に附す。其の墳墓今猶唐津町浄泰寺境内に残って居る。
 公は幼名を忠二郎と呼びしが、一名を正成と云つた。父に継ぎて豊公に仕へ、西駆して九州に島津氏を討ち東伐して小田原に北條氏を囲む、常に豊公に随従して武功を建つること度々なりしが、天正十七年従五位下に叙せられ志摩守と称した。太閤が征韓の役を起すに當りては、名護屋陣営に至りで、最初は総軍艦御船奉行の要職にあり、其の幕営を本城の東方にて打椿といへる名護屋湾頭の一要地に構へ、快腕を振ひて軍船の統轄進退に些の渋滞を来すことなく、且つは軍気の振粛に間然するところなからしめた。頓て部下の貔貅を統督して鶏林の野に敵を駆逐し、虎伏す荒野に戈戟を枕に寒月に嘯き、櫛風沐雨の苦を嘗め功を樹つること切りにして、この間兵馬の間に奔患出入すること実に前後七年であった。
 某氏が新聞紙上にて「噫々舞鶴城址」なる記事に、志摩守が朝鮮出陣を否定して居るが、余りに勇断のほどに驚き入る。
 今少しく其の辨を為さん。公が朝鮮出陣は恐らく慶長再征の役中のことゝ覚ゆ、そは文禄の役には名護屋城にて忠勤を励みしこと太閤記などにも録し、また長崎奉行として文禄元二三年頃は、基督教及び通商上に對する政策につきて折衝したることは日本西教史にも記して居れば、渡韓奮戦の暇は或はなかりしものではあるまいか、されど再征役に出陣したることは、中外経緯傳・朝鮮陣古文・朝鮮日々記・清正記などを見ても分明する(以上諸書中より一々抜萃摘録するは煩雑に亘れば之を略す)また慶長二年太閤が教禁の令を長崎奉行の次官に処理せしめしことは、志摩守が名護屋或は長崎に居らざりしことを証明するものにして、何れは渡韓中なりしとも思ふことが出来る。
 されば野史の記述と太閤記などのみを見て、志摩守が朝鮮出陣を否定するは早計と云ふべきではなからうか。
 是より先き波多参河守朝鮮出陣中、鍋島直茂に属して獨り熊川に駐まりて怯*(リッシンベンニ匡)の振舞ありたりとて、太閤の激怒に逢ひて、封邑を奪はれて筑波山の謫居に配せらるゝや、公は其の後を襲ぎて唐津を賜はるに至つた。
 薩南の島津氏に伊集院右衛門大夫入道幸侃と云へる家臣ありて忠勤の誉高かりし士なるが、如何なる故ありしにや、慶長四年三月島津義弘の子忠恒は伏見の客館に於て之を誅しければ、幸侃が郎黨憤然として兵を以て忠恒に迫らんとした、徳川家康は使を忠恒に遣はして助援せんとしたので、大事に至らずして止みしが、忠恒本国に帰るに及びて、幸侃が子源二郎忠棟父の横死をきゝて、日向国庄内ノ城に立ち籠り城壁を固めて島津氏と戦ふた。同七月家康は山口直友を使として、鏃二千暑衣百領を忠恒に給ひ軍状を犒ひ、九月また志州公廣高をして島津氏に應援せしめ、更に又直友を下向せしめて、主従の間に調停の労を取らしめて和睦を行はしめた、忠棟遂に降りて事和平に帰したので、徳川氏が公に對する好感鮮少でなかった。
 慶長五年(三百余年前)関ケ原の役には、公は予で石田三成の為すところを喜ばざると、徳川氏との情誼止み難き関係ありし故によりて、遂に東軍に應じて関ケ原に會戦するや、東軍は兵を分ちて上杉、佐竹の東北勢に當るの軍兵もあり、南宮山及び大垣の西軍に備ふるの貔貅もあつたが、公は関ケ原の會戦に参加し、総大将徳川家康及び福島正則・黒田長政・細川忠輿・井伊直政・本多忠勝・松平忠吉・京極高知・加藤嘉明.田中吉政・筒井定次・藤堂高虎・生駒一正・金森長近・古田重勝・織田有楽・有馬則頼・分部光嘉等と七萬五千余騎を以て大阪方に當り。殊に公は京極・藤堂等と軍陣を列ね轡を並べて奮闘し、勲功抜群であった。當時の陣容を知らんには参謀本部版日本戦史に其の関ケ原陣図を載するものに明かである。かくて家康大阪城に入るや、十月十五日諸将の論功行賞を行ひ、食禄加増の恩典に浴せしもの百十五名であつて、上は加賀の前田利長の百十九萬五千石より、下は尾州小河の水野分長の一萬石に及んだが、十萬石以上の諸侯は三十人にして、公は天草四萬石の加封によりて拾貳萬参千余石を領し、天下諸侯中第廿六位の領域を有する侯伯となるに至った。
 この役に島津義弘は大阪方に属して戦敗れて薩摩に遁れ帰りしかば、家康は島津の挙を怒り討伐の令を下した。然るに義弘の長兄龍伯(義久)は福島正則によりて、義久何等異心を抱くものにあらず舎弟義弘が所行は奇怪の事である、されば義弘帰国すると雖も面會を許さずして櫻島に幽閉したれば、御下知により如何とも厳科に処せんとて、徳川氏に情を陳し、又一方には我が志州公に依りて哀を請ひたるが、其の書状を見るに、

 依遠邦其以来無音打過候、本慮の外に候、然らば今度御弓箭之成立、惟新(義弘入道して惟新と云った)罷下巨 細致承知候、惟新事最前御談合之御企曾不被仰聞由候、殊内府様(家康)御厚恩之儀雖無忘却候、内府様如御存知、奉對秀頼様、永々可抽忠節為証跡度々霊社上?(誓書の意か)上置候、其筋於無相違は可同心仕旨、御奉行衆承知に付、君臣之道難默止任其意候由申條、勿論我々事御懇之儀聊不存念候、弥心底不可有別儀候、比等之段被聞召分候様、御取合憑存候。委曲は彼使可申達候恐惶謹言。
    十月二十二日               忠恒在判
                            龍伯在判
     寺澤志摩守殿
             人々御中

 かくの如く薩南に雄を称せし島津氏も、辞を低うして特使を志州公に派遣したれば、公も亦其の情を憐み厚く徳川氏に周旋するところありしが、果して其の憤りを解き征伐の令を撤せしめ、終に南薩六十萬五千石の封土を全うすることを得せしめたのである。薩摩の大を以て猶公に依って謝を請ひしが如く、公が徳川氏に重んぜられ、又諸侯に敬せられし一端を見ることが出来る。
 慶長十九年大阪冬ノ陣にも徳川方に参加し、寄手の南方軍に属して、八町目口より、井伊直孝・松倉重政・榊原康勝・桑山一直・古田重治・脇坂安元・松平忠直等と共に、兵員合せて一萬七千一百人を以て奮戦したるなど、徳川氏に盡すところ甚大なるものがあった。
 寛永三年八月十九日従四位下に昇叙せられた、かくて鎮西の雄藩として列侯の間に伍して一歩も譲ることなきに至った。

二、唐津城築営

 鬼子岳城は郡の南方北波多村にあり、懸崖削立して容易に登攀すべからざる天然の嶮崖たる絶頂に築かれたれば、守るに易く攻むるに至難の金城鐵壁で、波多氏累代の居城である。然るにかゝる山城険塞に據るは、築城術幼稚なる時代には必要のことなりしも、天正頃より築城術に一大発達をたると、又時勢の進運はかゝる不便の地に割據するを許さゞるに至った。加之鬼子岳城は波多氏滅亡の時、其の家臣が火を放ち烏有に帰せし後なれば、公は先づ田中村(北波多村内)に仮城を構へて之に居り、一方唐津城を造営したのである。
 抑々唐津の地は唐津湾頭を圧して要害の地たるのみならず、また西海の海港を制扼し、進んでは鵬翼を海外に伸張し、退ては国防上の一要地となすに十分なるものであった。當時既に外舶の本邦沿海に出没するもの漸く多く、苟も心を弛ぶべき時にあらず、公夙に之を洞察して、其の領域に於て、一は以て生産の中心地となり、一は以て交通八達の地として、又以て海港制圧の便益の上より、百年の據城を構ふるの地唐津に若くものなきを見て、慶長七年より同十三年に至る七星霜を経て終に唐津城の結構を遂ぐるに至った。遮莫第二代兵庫頭が、正保元年六月(二七〇余年前)隣藩黒田氏と協力して唐津湾内に於て黒船焼討の快挙を見る、この事の是非は自ら別問題として、若しそれ曩に志州公が海岸を隔つる三里の田中村に本城を営みたらんには、この際機宜の措置を失したるは必然の事なるは、この挙の成り行きに照して燎然たるものがある。また寺澤氏断滅後一年を隔てゝ唐津を宰領した、大久保忠職(タダモト)公の治績を弘文院学士林恕が録せるものに、「補西海九州鎮護職、備外国不虞之変」云々と。また弘文院学士林叟は、第二代大久保忠朝のことを記すに、「鎮西海一方之藩、監外国不虞之変」と云へるは故あることである。実に公が據城をこゝに卜せしは、内政の便宜のみに非ずして、對外政策の意衷を寓せしこと云ふまでもない。公の領有天草郡富岡城の築営も亦海淵を利用せること、全く唐津本城と其の規を一にす、公が心を致すところ、其の意気壮にして旦つ周到なるを窺ふに十分である。
 もと當城の地は満島山と称し満島に接続せし一小丘隆地であって今の二ノ門一帯は丘脚の砂濱なりしが。其の東麓を開鑿して松浦川の河道を変じ、之をこゝに疏通せしめて現状の如くならしめ以て城廓を築設したのである、それで二ノ門以東は近年まで鏡神社の産土地として、川の東岸地帯たりし舊史を存して居た。


    城廓の結構   
 本 丸 高十九間  (東西三十七間 南北六十五間)
 天主臺 石垣高六間 (東西十一間四尺 南北九間五尺)
 二ノ丸       (東西三十九間 南北百四十五間)
 三ノ丸    (東西二百六十五間 南北二百五十間)
 下の曲輪   (東西六十間 南北八十間)
 矢 倉     九 ヶ 所
 城門口     五 ヶ 所(大手、西ノ門、北ノ門、埋門、水ノ門)
 慶長二年豊太閤より名護屋城を賜はりたれば、當然築城の際には、其の建設用材中、二ノ丸門扉・冠木矢倉・大手門・本丸・天主臺の石材、其の他石壁の角石等は、名護屋城の用材を移せるものにて、大正四年夏唐津城址中学校敷地より、名護屋城用の丸瓦拾枚余の発見をなす。もと満島山には七社を祀りしが、當時左の地に奉移鎮祀せらるゝに至った。
 天神社  大石丸隈に移しそれより天神山と號す
 松浦不動尊  唐津東寺町聖持院持佛堂に移御せり
 八幡社    満島に移御す
 津守観世音  同 前
 熊野權現   大石山に移御す
 英彦山権現  同 前
 草野不動尊  聖持院に移御す

 右七社には累代、年穀米壹石宛寄進せらる。
 城の左右の海汀に青松遠く駢列して弧線を画けるは鶴九皐に翔くるの観あれば、舞鶴城の名がある。松浦河口海汀に濱して、松籟海風に琴し、千鳥群れ居し白砂の渚、公によりて魏然たる城廓聳え、井然たる市区の発達を見るに至つた。
 唐津と云へる地名は、何時の頃よりの名称なるや明かならざるも、外国渡航の要津たる意義あることは疑ひなきところであって、往昔神功皇后の征韓の船出もこの地方なるが如く、第廿一代雄略天皇の朝百済王弟軍君(コニキシ)は来朝の途、唐津港の西方加唐島にて其の妃に男子を生ましめ。第廿八代宣化天皇の御代には大伴狭手彦この地より船を発して渡韓せしなど、上古にありては三韓交通の要地に當って居たのである。さて外国をカラと称することの起原は、第十代崇神天皇の御宇に韓半島の大伽羅新羅の両国三己紋(サンコモン)の地を争ひて、大伽羅国の使者蘇那曷叱智(ソナカシチ)来朝して、其の地を献じ鎮将を請ふ、朝儀よりて鹽乗津彦を遣はして鎮将となす、後世外国を伽羅即ち唐(カラ)と称するは遠く此に起因して、後世廣く海外諸国を唐と唱ふるやうになった。平安の朝の中頃の作なる和名抄などにも、松浦郡には庇羅・大沼(ヲゝヌ)・値賀(知加)・生佐(伊岐佐)・久利の地名は存するけれども、唐津の地名を見ず。漸く徳川時代頃の著述によりて唐津と云へる地名を散見するやうだ。風帆藻には、唐津は初め地切といふ、水島(満島)とは同所の川向ひの市町と云ふ、同所にて天正十四年三月六日、松浦刑部太輔と畑三河守と合戦の事あり云々と。之に依て考ふるに、今の唐津町は近代まで地切と称せられたるやうだ。九州軍記などには唐津岸嶽城主など云へる唐津は、廣義の唐津なるが如く、狭義の唐津即ち今の唐津なる称呼としての唐津は、志摩守が唐津城を築きて城下の発達するに及びて、称へられし名称であらう。廣義に云へる唐津の地名も到底平安朝時代以後の称呼たるは疑なきところであらう。
 この地名考につきて某篤学の士が、新開紙上にて「噫々舞鶴城址」なる記事中に左の如き意見を発表せられた。
 唐津の地名の事、東松浦都史にも「今の唐津は、或は志摩守が今の唐津城を築きて城下の発達するに及びで称へられし名称にあらざるか」と云って居るのは私も賛成する。されど九州軍記などに唐津岸嶽城主など云ふ事あるに対し、「廣義の唐津なるが如く云々」と同書に説いて、其の末に「廣義に云へる唐津の地名は、平安朝以後たること疑ひなきが如く云々」と云つたのは私は首肯し難い。彼の九州軍記や野史などの、既に江戸幕府以後に成ったものに唐津岸嶽城主などあるは、寺澤氏の唐津城成りて後のものであるから、唐津城ありて後の名称を前にめぐらして称へたらしい事、私は前にも云つた通りと思ふ。
 いかに廣義と云っても岸嶽までも唐津名の内とせんはあまりに廣汎にすぎる様に私は思ふものである。
 さて唐津と云ふ称の最も古いのは、唐津焼に就いて歴史が一番古いものの様である。それで唐津焼の祖は、後柏原天皇の頃の五良太輔、呉祥瑞であるから、唐津築城に先だつ事八九十年前に唐津焼の名が世に高くなつて居るのである。此の唐津なる名は磁器の異称として疾くに関西に廣がってゐた事、窯業史に依って知るべきである。そして其の唐津なる地点は何処であったかと云ふと、松浦潟と云ふ海が、どの邊を云ふかと云へば漠然たるが如く、唐津と云ふ名も、今の唐津一帯の海岸を云つたのであらうと思ふ。寺澤氏は右の事情によれる唐津の名が既に世に知られた上で城廓を築いたものだから、撮って以て城邑の名に冠らしたものであらうと私は思ふのである。
 茲に某氏の懇切なる御示教に對して少しく之が辯明をなしたいと思ふ。

 唐津焼沿革文書(中里敬宗氏の所録)
 抑々唐津焼陶器の原因たるや、神功皇后三韓御征伐御勝利にて、質入新羅高麗百済三韓王の代として三子を携、本州東松浦郡草野郷(玉島村内)に御凱陣の上、同郡上場(ウハバ 今の佐志村以西)と唱ふ地内佐志郷内に置給ひ、武内大臣は三子を新羅太良冠者・高麗小次郎冠者・百済藤平(フヂヒラ)冠者と呼玉ふて、新羅太良冠者を置き玉ふ所を太良(ダイラ)村、高麗小次郎冠者を置玉ふ所を小次郎冠者村、百済藤平冠者を置玉ひし所を、藤平(フチヒラ)村と今以て唱来り(三子の名は世々同称すと古史に在り)高麗小次郎冠者居住の地へ陶器竃を建立し陶器を製造し、神功皇后へ献納す、(小次郎冠者村地中より今以て掘り出す陶器を佐志山焼と唱ふ)之れ皇国の陶器製造最初の地とす。故に伊萬里焼迄を唐津焼きと云傳ふ。然るに往古東松浦郡秦郷後に波多郷鬼子嶽城主に秦三河守なる者在り、八代にして断絶し、其の跡嵯峨源氏にて波多氏を称し、数十代連綿と相続す、亦鏡宮の社務職草野郷鬼ケ城主草野氏数十代相続して、波多草野の両家は舊家なりしを、共に文禄三年豊公に被没収、右秦氏前代に、高麗小次郎冠者裔孫を鬼子岳城邊に被転移、又波多氏中前代に小椎の地に被移何れも陶器焼竃を建立ありて陶器製造、此年間製造の陶器を古唐津と唱ふ(鬼子岳小椎の地中より陶器今以て掘出すことあり)
 豊臣秀吉朝鮮御征伐の砌、前領波多草野の両氏を被没収、其地を以て寺澤志摩守を封ぜられ波多氏別館、波多郷田中村島村城に住居に相成、慶長年中今の唐津城築立に相成転移の後、城の西方字坊主町へ陶器焼竃建立に相成、前件小椎より私先祖中里又七を坊主町へ被移候。文禄の役豊公名護屋御滞陣中御好に付、陶器献上し、其例を以て徳川幕府に同様、右陶器献上したる事とは成りき。
 寺澤氏正保四年被没収幕府領になりても、右陶器は幕府へ献上仕居候中、慶安二年大久保加賀守封地に成、二月城受取に成り、亦延寶六年松平和泉守封地に成り、七月十日入部。此時に當迄、又七二代中里太郎右衛門三代甚右衛門相勤。元禄四年土井周防守封地に成、六月三日入部。此時代坊主町陶竃を方今の唐人町へ被移、右三代甚右衛門及四代太郎右衛門相勤。寶暦十三年水野和泉守封地に成、五月十五日城受取臍み。五代中里喜平次及六代太郎右衛門相勤。文政三年小笠原主殿頭封地に相成、六月廿三日城受取、九月十六日入部。七代中里荘平及八代の私迄代々の領主扶助米を被與、献上陶器製造仕、往古高麗小次郎冠者傳ふる所也。傳法を不失陶器古製の正統相続罷在候、且又陶器は献上の外売却する事は代々堅く禁じ来候。

 明治十七年十月
                    東松浦郡唐津村士族
                      高麗小次郎冠者遠裔 中里敬宗

 某氏の御説では、余が鬼子嶽を廣義の唐津に加へたることゝ、唐津なる地名が平安朝以後たること疑なきが如しと云へることを批難して、鬼子嶽を九州軍記等に唐津と云へるは、唐津城下成りて後其名称を前にめぐらして称へたのであって、如何に廣義と云つたとて鬼子嶽までも唐津名の内にせんとはあまりに廣汎すぎると云ひ、其の断案として、唐津と云ふ称の最も古いのは唐津焼に就いて歴史が一番古いものの様である、それで唐津焼の祖は後柏原天皇の頃の五郎太輔祥瑞であるから、唐津築城前八九十年前に唐津焼の名が高くなって、唐津の名は磁器の異称として関西に廣がつてゐる事、窯業史に依って知るべきであると云って、猶唐津と云ふ名も、今の唐津一帯の海岸を云ったのであらうと思ふと結諭して居られる。
 余は中里氏の唐津焼沿革文書に就きては、所々愚見を有するものであるけれども、大体に於て異議なきのである。先づ某氏は唐津焼に就きての歴史が、唐津地名の一番古いものであって唐津焼の祖は五郎太夫祥瑞と断案して居るかの様であるが、如何なる古書古文書に據られしか知らねども、恐らく窯業史に依られしものにあらざるか、窯業史なるものは左程に金科玉條たる史籍であらうか、左程に考証せられて執筆したる典籍であらうか、又同氏が唐津焼と云へるは、何処にて焼きたる陶器を指摘して云へる焼物であらうか。
 中里氏の唐津焼沿革には、神功皇后の時を起原として居る、其の正否は今俄に速断する史料を他に有せざれど、沿革中に云へる小次郎・藤平・大良などの地は、現在切木村内にありて海岸を距ること一里半内外の山村である、しかも今日にても其の竃跡より陶器の破片などを得ることは、余も実際知れる処である。其の後小次郎冠者の子孫が鬼子嶽小椎の地に移住して窯業に従事し、現に其の地より陶器を掘り出すと云ふ事であって、其の正確の年代を審にせざれども、唐津町小字坊主町の竃開きは、志州公築城後であれば、鬼子嶽小椎にて陶器を焼きしは其の以前の事である、少くとも某氏の謂へる五郎太夫が窯業を営みし時代は、鬼子嶽小椎でなければならぬ、然るに某氏は唐津地名として唐津焼は最も古きものとして居れば、唐津なる地名は同地方にも承認せねばならぬ。実際中里氏文書によりても、小次郎にて焼きしを佐志山焼と云ひ小椎鬼子嶽にて焼きたるを古唐津と云って居る。同氏は漠然として、唐津焼をなせし地名さへ挙げずして、鬼子嶽地方を廣義なる唐津とするを否定して居るは遺憾の事である。いったい唐津と云へば、往昔外国渡航の要津たりし港であった事は誰にも分る話である。某氏は唐津と云ふ名も、今の唐津一帯の海岸を云ったのであらうと云って居るが、沿岸とは凡そ何程迄の内陸を意味して居らうか、左様の漠然たることは誰でも知って居ることであって説明を待つ迄もなき事である。廣い意味で附近一帯を唐津と云ったとて何の非理なる事があらうか、直ちに本文より解して唐津鬼子岳城主など云へる唐津は、廣義の唐津なるが如くと云つたとて何の間違ひがあらうか。現に福岡とか佐賀とか云って、其の近郷近在を指して通用してゐる言葉でないか、実際鬼子嶽には古唐津焼を焼いたではないか。唐津焼の起原は既に五郎太夫以前なること諸書にあり余が考証した訳けではないが後段唐津焼のところにも、一寸他人の説を拝借して書いて居る。窯業史外にも一覧の要がある(古今陶甕攷工芸志料等)。中里氏の文書を信據すれば、神功皇后時代よりと云はねはならぬ、古今陶甕攷などには孝徳齊明天皇頃としてゐる。何れにせよ唐津焼きを為せし土地は、寺澤氏以前にありては、海岸を距ること一里半乃至三里位も隔つたところである。然らば焼物はあつても唐津焼と云ふ名称は、唐津坊主町に開窯せしよりの名称であって夫れを前にめぐらして称へたと云ふか、折角の唐津地名考の御断案が論據を失ふことゝなる。
 猶また余が平安朝以後たるは疑なきところであらうと云つたのに、同氏は首肯し難しと云って居るが、余が断案は、平安朝時代の和名抄に唐津の地名が見えぬから、其の以前には唐津の地名はあるまい。それで其の後でなければならぬと思ふからである、何故余はかく漠然と云ひしかと云へば、鎌倉時代か、足利時代か、織豊時代か、何れの時に起りし地名かを浅学にして未だ探究することが出来なかつたからの事である。例令ば五郎太夫時代を以て始めて唐津地名の起源とすればとて、そは足利時代の末の事なれば、平安朝以後といったからとて、何の間違って居る訳ではあるまい。余は某氏の駁論を感謝すると雖も、余の説が間違だとはまだ思ふ事は出来ぬ。但し余は未だに唐津地名の起原の正確なる年代を知らず。



   三、所領と家臣


  ○所 領

 寺澤氏初は八萬三千石を領有せしが、慶長五年の事あるや徳川氏に黨して、関ケ原に奮戦して勲功顕著の故を以て、天草四萬石の加増ありたれば、都合十二萬三千石を知行することゝなった。筑前国怡土郡(糸島郡内)に貳萬石を所領せし次第は、往年博多町は幕府の直轄地なりしが、慶長十九年筑前国主黒田侯は、基の所領恰士郡貳萬石を以て博多町と交換のことを幕府に請ひて許さる。志州公はこの事を知り、己が所領の薩摩国出水郡は土地遠隔にして、知行甚だ不便なるの故を以て、新に幕領に帰せし恰土郡と其の交換のことを、公儀に願ひ出でて許可ありたれば、こゝに當時の唐津藩鎮は、今の東松浦郡と西松浦郡の一部(波多津村、黒川村、南波多村、大川村)に熊本縣下天草郡、福岡県下怡土郡(糸島郡の一部)に亘れる地域を領することになった。
 元和二年の検地石高は、拾五萬七百七拾六石七斗五升九合を算す、これ各地に墾田開拓をなせし結果である。其の内訳を挙ぐれば、


  一、八萬貳千四百拾六石四斗壹升六合      松浦郡
  一、貳萬八千参百六拾石参斗四升参合      怡土郡
  一、四 萬 石                天草郡
   合 計    拾五萬七百七拾六石七斗五升九合

     此の配分
  四萬貳千貳百貳拾参石八斗参合      御蔵納

    掛官 陰山庄右衛門     地田新介     岡島治郎兵衛
        吉村弥介     高畠長右衛門     竝河三郎兵衛
        山中勘四郎     堀田金左衛門     田伏彌五左衛門
        以 上  九 名

四 萬 石 (天草分)                   御 蔵 納
残 額 六萬八千五百五十貳石八斗七升六合          家臣の食禄

   ○家臣と食禄 天草分を除く
一、三千石   (赤木村、久保村、長野村にて)  關主水
一、二千三百八石五斗七升  (半田村、満吉村にて)岡島治郎左衛門
一、二千石   (宇木村、新木場村、瓜ケ坂村、竹村にて) 中村藤左衛門
一、千九百石一斗 (川上東村、笠椎村、平尾村、見借村にて) 熊澤三郎左衛門
一、千五百九拾九石九斗八升 (波戸村、切木村、鹽鶴村、轟村にて)尾藤惣左衛門
一、千五百石(稗田村、岸山村、徳居(スヱ)村、佐里村にて)今井新右衛門
一、千二百石三升 (長石村、神有村、行合野村にて)澤木伊助
一、八百六十石(長部田村、田代村、浦村、馬部(マノハマリ)村にて)石川三左衛門
一、八百石六斗三升 (鹿家村、大浦村、田代村、大園村にて)佐々小左衛門
一、八百石(佐志村、納所村、福井村にて)谷崎助兵衛
一、同   (一貴山村、牟田部村、轟村にて) 竝河三郎兵衛
一、同   (木場村、鹿家村、吉井村、重橋村にて) 今井十兵衛
一、同   (重橋村、平原村、鹿家村、吉井村にて) 片岡九郎左衛門
一、同   (長野村、瀬戸村、松国村にて)  三宅藤右衛門
一、七百九十九石九斗七升
  (鳩川村、長倉村、梶山村、久里村、大良村、値賀村、鶴村にて) 川瀬小右衛門
一、七百八十八石八斗二升 (千々賀村、養母田村にて) 中江新八
一、七百三石     (平原村、今村、打上村にて)  山田将監
一、六百三十九石  (久里村、諸浦村にて)    林又兵衛
一、五百六十石   (横田村、大黒川村、打上村にて)  石川理兵衛
一、同   (福井村、星賀村にて)  細野半右衛門
一、同 (平原村、横田村、野田村にて) 福永六良右衛門
一、同 (吉井村、平原村、石志村、上平野村、成淵村にて)古川八右衛門
一、五百石 (松浦郡田中村にて)  山路甚五右衛門
一、四百八十石  (吉井村にて)  仙石十太夫
一、同   (福井村、平原村にて) 川越傳左衛門
一、四百五十石  (長石村にて)  島田庄右衛門
一、四百二十石  (伊岐佐村、井手野村、水留村にて) 有浦伊兵衛
一、四百十八石四斗八升 (濱久保村、仁田尾村、上倉村、納所村にて) 和田杢之丞
一、四百石   (山道村、石室村にて) 井形伊左衛門
一、同     (千々賀村にて)    友田佐兵衛
一、同     (双水村にて)     太田八郎右衛門
一、同     (福井村にて)     吉田庄之助
一、同     (一貴山村にて)    井手七右衛門
一、同     (怡土郡田中村にて)  佃 與三兵衛
一、四百石   (松国村にて) 荒瀬八兵衛
一、同   (平原村、佐志村にて)中島平右衛門
一、同   (濱久保村、佐志村にて) 並河兵右衛門
一、同   (平原村、筒井村、中里村、小次郎村にて)林又右衛門
一、同   (横田村・菖蒲村、濱ノ浦村にて) 陰山庄右衛門
一、同   (鳩川村、石室村にて)  天野外記
一、同   (山田村、横野村にて)  熊澤五郎右衛門
一、同   (横田村、石原村にて)  関善左衛門
一、同   (今村、八尋嶺村、長田村、轟村にて)尾藤久左衛門
一、同   (福井村・竹有村、濱ノ浦村にて) 澤木茂左衛門
一、同   (入野村、絃巻村にて) 渡邊又右衛門
一、同   (松国村、筒井村、菅牟田村にて) 池田市左衛門
一、同   (長野村、井野尾村にて) 中川左近
一、同   (横田村、大黒川村にて) 石川右門三郎
一、同    (畑河内材、眞手野村、志気村にて)古江權右衛門
一、同    (大野材、原村にて)  佃 八郎兵衛
一、同    (横田村、伊岐佐村にて) 建部 兵左衛門
一、同    (怡土郡田中村、座河内村(ソソロカハチ)にて) 中島與左衛門
一、三百九十六石七斗三升(原村、田代村にて) 武藤喜兵衛
一、三百六十石     (馬場村、主屋村にて)松島次右衛門
一、三百五十一石六斗一升(呼子村、丸田村にて) 小川平蔵
一、三百五十石    (馬場村、湯屋村にて)  柴田市郎右衛門
一、三百六十石    (福井村、星賀村にて)  石川吉左衛門
一、三百石     (屋形石村にて)     中川八郎左衛門
一、同       (伊岐佐村にて)     今井十兵衛
一、同       (伊岐佐村にて)     磯野九兵衛
一、同       (横田村にて)    戸田長太夫
一、同       (同)        池田勘右衛門
一、同       (長野村にて)    田中平兵衛
一、同       (平原村、佐志村にて)福永長介
一、同    (石志村、浦村、八床村にて)美野部五郎右衛門
一、同     (菖蒲村にて)   陰山彌左衛門
一、同    (水留村、久保村、普恩寺村にて) 入江太郎右衛門
一、同    (轟村、内野村にて)  戸田加左衛門
一、同    (一貴山村、納所村にて)  国枝清左衛門
一、同    (瀬戸村、湯野尾村にて)  佐藤市右衛門
一、同    (田代村、畑河内村にて)  西川彌次右衛門
一、同    (平原村、板木村にて)   古郷孫兵衛
一、同    (吉井村、波多津村にて)  佐藤孫六
一、同    (平原村、千々賀村、煤屋村にて) 川岸茂右衛門

一、三百石  (大曲村、畑島村にて)  青岡九郎右衛門
一、同    (平原村、柏崎村にて)  明石善兵衛
一、同 (山田村、山道村、鶴村、福田村にて) 岡部權兵衛
一、二百九十九石九斗  (山田村、大久保村(岩野)にて)古川傳右衛門
一、二百九十九石八斗  (瀬戸村、畑河内村、藤平村にて)山路角兵衛
一、二百九十九石三斗三升(伊岐佐村、横枕村、久保村、中里村、屋形石村にて)大竹嘉兵衛
一、二百七十石二斗一升(長部田村、荒瀬村、梅崎村にて)松村伊右衛門
一、二百五十石  (切木村にて)  突 若狭
一、同      (石志村にて)  横井九左衛門
一、同      (同)      巽 勘介
一、同      (中山村にて)  壽 庵
一、同      (山田村にて)  澤木七太夫
一、同      (平原村にて)  市橋九郎兵衛
一、同      (田頭村、佐志村にて)大屋九右衛門
一、同      (高瀬村、大野材にて)山口藤蔵
一、二百石    (尾形石村にて) 岡原彦兵衛
一、同      (横竹村にて)  杉山清三郎
一、同      (鹽鶴村にて)  中川才右衛門
一、同      (丸田村にて)  岡 安右衛門
一、同      (値賀河内村にて) 吉田仁兵衛
一、二百石    (諸浦村にて)  大津孫十郎
一、同      (長倉村にて)  田崎彦左衛門
一、同      (絃巻村にて)  田代彌五左衛門
一、同      (納所村にて)  川合八右衛門
一、同      (入野町にて)  瀬井三右衛門
一、同      (木場村にて)  池田新介
一、同      (同)      檜次郎四郎
一、同      (中山村にて)  荒川平左衛門
一、同      (水留村にて)  蒲野藤五郎
一、同      (井手野村にて) 渡邊庄五郎
一、同      (大川原村にて) 山田四郎右衛門
一、同      (立川村にて)  川合七郎右衛門
一、同      (徳居村にて)  土井重之丞
一、同      (同)      横野源右街門
一、同      (大野村にて)  安井仁左衛門
一、同      (同)      松田五左衛門
一、同      (伊岐佐村にて) 松本仁蔵
一、同      (同)      中路市兵衛
一、同      (柏崎村にて)  中野傳右衛門
一、同      (同)      上月八介
一、三百石  (大曲村、畑島村にて)  青岡九郎右衛門
一、同    (平原村、柏崎村にて)  明石善兵衛
一、同 (山田村、山道村、鶴村、福田村にて) 岡部權兵衛
一、二百九十九石九斗  (山田村、大久保村(岩野)にて)古川傳右衛門
一、二百九十九石八斗  (瀬戸村、畑河内村、藤平村にて)山路角兵衛
一、二百九十九石三斗三升(伊岐佐村、横枕村、久保村、中里村、屋形石村にて)大竹嘉兵衛
一、二百七十石二斗一升(長部田村、荒瀬村、梅崎村にて)松村伊右衛門
一、二百五十石  (切木村にて)  突 若狭
一、同      (石志村にて)  横井九左衛門
一、同      (同)      巽 勘介
一、同      (中山村にて)  壽 庵
一、同      (山田村にて)  澤木七太夫
一、同      (平原村にて)  市橋九郎兵衛
一、同      (田頭村、佐志村にて)大屋九右衛門
一、同      (高瀬村、大野材にて)山口藤蔵
一、二百石    (尾形石村にて) 岡原彦兵衛
一、同      (横竹村にて)  杉山清三郎
一、同      (鹽鶴村にて)  中川才右衛門
一、同      (丸田村にて)  岡 安右衛門
一、同      (値賀河内村にて) 吉田仁兵衛
一、二百石    (諸浦村にて)  大津孫十郎
一、同      (長倉村にて)  田崎彦左衛門
一、同      (絃巻村にて)  田代彌五左衛門
一、同      (納所村にて)  川合八右衛門
一、同      (入野町にて)  瀬井三右衛門
一、同      (木場村にて)  池田新介
一、同      (同)      檜次郎四郎
一、同      (中山村にて)  荒川平左衛門
一、同      (水留村にて)  蒲野藤五郎
一、同      (井手野村にて) 渡邊庄五郎
一、同      (大川原村にて) 山田四郎右衛門
一、同      (立川村にて)  川合七郎右衛門
一、同      (徳居村にて)  土井重之丞
一、同      (同)      横野源右街門
一、同      (大野村にて)  安井仁左衛門
一、同      (同)      松田五左衛門
一、同      (伊岐佐村にて) 松本仁蔵
一、同      (同)      中路市兵衛
一、同      (柏崎村にて)  中野傳右衛門
一、同      (同)      上月八介
一、二百石   (野田村にて)  須磨七左衛門
一、同     (平原村にて)  佐々才兵衛
一、同     (吉井村にて)  関 茂兵衛
一、同     (同)      吉川勘兵衛
一、同     (同)      高畠半兵衛
一、同     (福井村にて)  石川次太夫
一、同     (松原村にて)  古橋源太夫
一、同     (同)      坂崎助左衛門
一、同     (濱久保村、見借村にて) 松本平八
一、同     (畑河内村、見借村、名場越村にて)堀池與平次
一、同     (大久保村、枝去木村、中里村、小加倉村にて)堀田金左衛門
一、同     (加倉村にて)  戸田角左衛門
一、同     (石志村、濱竹村にて) 九里庄兵衛
一、同     (石田村、諸浦村にて) 廣瀬七兵衛
一、同     (千々賀村、中尾村にて)吉田半右衛門
一、同     (大川原村、後河内村にて)木村權左衛門
一、同     (田野村、絃巻村にて) 岡村市十郎
一、同     (柏崎村、仁田尾村、入野村にて)安田作兵衛
一、同     (大曲村、赤木村、原屋敷村にて)奥村五郎兵衛
一、同     (田代村、煤屋村にて) 林久右衛門
一、同    (福井村、波多津村にて) 井口太兵衛
一、同    (柏崎村、古里村にて)  高原久右衛門
一、同    (久里村、原屋敷村にて) 津田與惣左衛門
一、同    (徳居村、田中村、山彦村にて)吉村彌介
一、同    (中山村、千束村にて)  佐藤作左衛門
一、同    (吉井村にて)      佐藤庄内
一、同    (普恩寺村、座河内村にて) 岡部善右衛門
一、同    (有浦下村、煤屋村にて)  松倉猪之介
一、同    (田頭村にて)      熊澤久助
一、同    (横野村にて)      山下吉十郎
一、百九十九石九斗六升(長部田村、田頭村、楠村にて)田治見勘太郎
一、百九十壹石四斗四升(大杉村にて) 鳥養掃庭
一、百六十七石四斗八升(花房村にて) 岡崎治郎兵衛
一、百五十三石二斗七升(石志村、曲川村にて)松本安太夫
一、百五十石   (本山村、丁切村にて) 佐牧助右衛門
一、同      (中里村にて)     中山勘四郎
一、同      (平原村にて)     佐藤孫太郎
一、同      (徳居村にて)     山路彦四郎
一、同      (屋形石村にて)    中村吉蔵
一、同      (平昌津村、梨子河内村、田代村にて)山原作右衛門、
一、同 (平原村、立川村、曲川村にて) 吉田市介
一、同     (唐川村、内野村にて) 佐野彦十郎
一、同    (長部田村、丁切村にて) 高畠長右衛門
一、百貳十九石九斗三升  (見借村にて) 松井孫三郎
一、百貳十石  (重河内村、中浦村にて) 酒井傳兵衛
一、百十三石八斗九升 (丸田村にて)   岸田彦左衛門
一、百三十七右七斗六升 (寺浦村にて)  井上角右衛門
一、百壱石壱斗八升   (山田村、小加倉村にて) 祖父江權之丞
一、百五石     (牟形村にて)  西川長左衛門
一、百石     (有浦下村にて)  安田仁兵衛
一、同      (同)       細井源之丞
一、同      (田代村にて)   岡平吉
一、同      (納所村にて)   山田次郎太夫
一、同      (重河内村にて)  中野掃部
一、同      (大杉村にて)   鳥養助之丞
一、同      (石志村にて)   吉川九介
一、同      (伊岐佐村にて)  松本牛右衛門
一、同      (横田村にて)   武藤七右衛門
一、同      (平原村にて)   佐藤助八
一、同      (同)       大工喜左衛門
一、同      (同)       梶原九右衛門
一、同      (同)       塗師屋九郎右衛門
一、同      (同)       戸田太郎兵衛
一、同      (見借村にて)   深海善太夫
一、同      (同)       陰山孫左衛門
一、同      (佐志村にて)   鳥養助兵衛
一、同      (中里村にて)   竹内新左衛門
一、同      (平原村、石志村にて)村尾仁介
一、同      (下平野村、長倉村にて)大工佐兵衛
一、同      (田中村、竹有村にて) 長瀬孫右衛門
一、五十石    (馬渡島にて)    北村善左衛門
一、同      (石志村にて)    鳥養柏庵
一、四十石四斗  (普恩寺村にて)   向島某
一、百石     (加部島にて)   加部島神領
一、同      (新木場村にて)  近松寺
一、五十石    (有木村にて)   東雲寺
一、同      (枝去木村にて)  浄泰寺
一、三十石    (同)       龍源寺
一、二十石    (同)       醫王寺

    以 上

 右の食禄各村を現今の政治管区に照して、参考に供すれば、

東松浦郡
  巌木村  鶴。本山。
  相知村  久保。佐里。長部田。牟田部。梶山。馬場。湯屋。横枕。中山。田頭。千束。丁切。楠。
  久里村  久里。伊岐佐。双水。大野。柏崎。松原。原。
  北波多村 稗田。岸山。徳居。行合野。上平野。成淵。田中。竹有。志気。山彦。大杉。下平野。
  鬼塚村  千々賀、養母田。石志。山田。畑島。
  鏡 村  半田。宇木(有木)
  濱崎村  横田。野田。
  玉島村  平原。
  唐津村  菅牟田。唐ノ川。重河内。見借。
  切木村  瓜ケ坂。田代。大良。仁田尾。小次郎。八尋巓。中尾。長田。坐河内。湯野尾。藤平。後河内。曲川。中浦。
  有浦村  轟。長倉。諸浦。小知倉。有浦下。牟形。
  値賀村  平尾。大園。値賀川内。今村。濱ノ浦。普恩寺。石田。
  入野村  新木場。大浦。納所。星賀。上倉。入野。絃巻。
  名護屋村 波戸。馬渡。
  呼子村  呼子。加部島。
  打上村  赤水。鹽鶴。打上。石室。菖蒲。八床。丸田。大久保(岩野)。横竹。加倉。平昌津。
  湊 村  中里。横野。屋形石。
  佐志村  浦。馬部。佐志。鳩川。山道。石原、名場越。枝去木。

西松浦郡
  大川村  長野。立川。
  南波多村 笠椎。重橋。水留。眞手野。大曲。高瀬。井手野。原屋敷。大川原。古里。
  黒川村  大黒川。畑川内。花房。
  披多津村 木場。筒井。井野尾。主屋。内野。板木。煤屋。

糸島郡 (福岡県)
  福吉村  福井。鹿家。吉井。
  一貴山村 竹。長石。一貴山。松国。濱久保。田中。満吉。
  長糸村  瀬戸。

  深江村  堂ノ元。
  加布里村 川上東。神有。

    四、治 績

    其一、封内の産業状況と公の努力

 封域もと丘陵起伏して平地乏しければ、陸田によりて菽麦を作り生活の本源となす、渓間の地水田なきにあらざれど、僅かに之を補足するに過ぎざる状態である。松浦川流域土地平坦にして最も廣しと雖も、自然の放流に委棄せられて利用せらるゝことなし。されば封内山水紫明の風光に富むと雖も、生産菲薄にして蒼生肥えたるにあらず。是に於て衆民を思ふの念深厚なる公は、精力を挙げて河海を征して墾田開拓の業に従事し、苟くも谿壑海潟等の利用すべきものある時は、即ち之が治拓を計りて遺利の収拾に努め、蒼生の福利安堵に力を傾注したのである。しかも公は水利に精通し、其の細緻の設計は常に些末の遺算だに来すことがなかった。加ふるに精力恪勤なること絶倫にして、到底尋常人の企画すべからざるものがある。人夫を使役し工事を督励するに當りては、配石土工の細に至るまで一々自ら監督せざれば止まず。黒川村また怡土郡の如き六里乃至七里の行程を有する開拓工事地に、毎朝暁闇を突いて険隘の山路に駒を駆り、日出と共に人夫を督励した、或はまた好民租税の軽減を謀りて、詐譎を以て地味の劣悪を云ふ時は、自ら土壌を嘗めて肥瘠を分つなど、其の精力智見の卓絶なること実に驚歎すべきものがある。


    其二、松浦川改修

 現時の松浦川は、源を杵島郡黒髪山に発し、北流して松浦郡に入り、相知村にて東川の支流を容れ、西北に走りて更に伊岐佐川を合せ、鬼塚村河原橋にて波多川と會し、河幅水量共に頓に増大し、北走して半田川を呑み、河口に近づきて町田川を併せ、唐津城址の東岸を洗ふて海に入る、本流の長さ十里余りである。
 志州公治藩以前の松浦川は、下流の形貌現時とは全く異りて、久里村城淵より東方の山麓に沼ひて北流し、虹林に近づきて半田川の支流と會し、今の唐津町二ノ門前を走り、埋ノ門小路下を経て海に入れり。さればにや現時の唐津村大島の漁民の祖先は、この河口小丘上翠緑滴たるばかりなる松蔭に居宅を構へしものが、城普請の頃より、同島に移されたるものなりとの口碑を存して居る。波多川はもと、鬼塚村養母田の丘脚を洗ひ、左折して和多田を経て、鍋倉山下より唐人町を過ぎ、唐津町の南郊を西走し、町田川と長松附近に會流し、衣干山麓二子より海に入る。されば水勢大ならざる二川は、二條の流域をなして幅員廣濶ならざる平地を北流し、河道の如きも自然のまゝに放置されたれば、河口より一里半余の地までは、不生産地たる河原多く、殊に雨季に洪水の難が甚だ多かつた、従って水運の利、下流平原の利用等も放置せられてゐた。
 公が藩治に臨むや、最初に築城のことと相待って、二川の河道改修の大工事に着手したのである。即ち松浦・波多の二川を河原橋に合致せしめて、こゝに三角洲を作りて水勢の緩和調節を画かったから、水量豊かに油然として北に流れ、半田川を短縮して大渡にて本流に容れ、町田川の下流を断ちて材木町西詰めにて本流に會せしめた。是に於て一條の大松浦川を疏通し、河口の邊りにては河幅三百間を有せしめて、河海接触地に於ての河水の大調節を計り、又一方には自由に當時の船艦を碇繋せしむる御船入れはこゝに設けられた。今の唐津町字船宮は其の遺跡にして船手の人々の居住せしところである。この大工事のために、新に久里村は大約五拾町歩余の田園を獲得し、鏡村に四十余町歩を得、又鬼塚・唐津の両村にも数拾町歩の水田を生めりと雖も、今は明確なる地積を知るは難い。従来本流には堤防の設けがなかつたから、度々洪水氾濫の難ありしが、こゝに其の患害を一掃し、又河道整理の結果は、水量裕にして舟運の便起り、沿岸其の利益に浴すること多大にして、農産物また肥料運搬等の便益を受け、遠く明治維新後に至りて一層の余澤を及ぼし、同三十四五年の頃唐津鐵道経営前の郡の南方諸炭田の石炭は、全然この水運に依りて唐津港に搬出せられしが、今猶相知村土場よりは、軽舟によりて運送せらるゝ石炭量額も少くない。本川水運の全延長線は約五里に達せん。今や河口は年々土砂沈滞して水尋浅しと雖も、和洋の帆船数十隻を繋ぐを得て、実に三百年来地方人民の恵澤を蒙ること甚だ大なるものがある。


     其三、防風林の施設

 唐津の地北方玄海に面して風害少からず、歳々禾稼を傷ふこと多く、殊に鏡、砂子、横田、濱崎(以上は東松浦郡内)鹿家(糸島郡内)の諸邑被害者も甚しいので、公之を憂ひ沿海の諸邑に命じ、海に傍うで松を植ゑしむ、横幅数町、総延長参里に近し。既にして功成りければ、公は領民の或は之を伐採損傷せんことを患ひて、禁令を設けんとす。されども亦禁を軽くせば則ち之を侮り、禁を重くせば則ち民之を以て苛刑に泣かん。令を封内に発して曰く、沿海植うる所の新松数千萬株、其の中に七松あり、吾甚だ之を愛す、凡そ芻蕘雉兎の者、若くは往還の徒にして其の一を傷くる者あらば、人を殺戮したるものと同一罪に処すべしと、是に於て人々皆其の禁令を畏れた。
 然れども、公は人をして其の所謂七松なるものゝ孰れなるかを知らしめず、人亦終に其の七松なるものを知るものがない。則ち植る所数千萬株、民終に其の一を損ふ者がなかつた。
 依りて星霜を重ぬるに従ひ、松樹愈々繁茂し欝々として林をなし、諸邑の民今に至るまで之に頼ること至甚であって、又一方風光の明媚なる虹林を以て世に知らるゝに至つた。其の実施より愛する所あるにあらず、若し或は犯すものあるとも、こは我愛する所のものにあらず、若し果して吾愛する所のものを伐採し又根抜かば、如何でか身首を保つことが出来やうかと言はんとしたのである。人皆其の智にして仁なるに深く悦服せりといふ。


    其四、田園開墾

東松浦郡

 鬼 塚 村
  同村字和多田小字先大石に至る間の松浦川沿岸に、堤塘九百余間を築造して、田畑を開き約拾町歩の水田畑地を得たが、元和二年九月工事成る。

  鏡 村
  慶長年間、松浦川の河原不毛の砂磯地を開墾して、水田四拾参町歩余を得、又河岸の堤防七百八拾八間なり、開拓地を新開と称した。

 有 浦 村
  有浦新田総面積貳拾八町余にして石垣堤防の総延長九百貳拾八間である。
 其の他、久里・唐津両村の開拓地積は不明であるけれども、通算すれば数十町歩を下らざることは、現状の目算によりても明かである。

 西松浦郡
  黒川村
 埋築新田地は、大字小黒川・大黒川・鹽屋の三地に跨り、総面積貳拾五町歩であって、其の内参町歩は鹽田なりしが、今はこゝも水田と化して居る。堤防、六拾参間なるが其の長さに至っては云ふに足らざれど、海底深く且つ奥行き遠く、湾口狭迫すれば、潮汐干満の流れ急にして、工事困難であったと云ふ。


福岡県怡土郡(今は糸島郡に属す)
 同郡内には三十六ケ村(今は六ケ村計りとなる)貳萬八千石余の所領があったが、慶長の末年より元和三年まで数年の歳月を要して水田鹽田を埋築開拓せしこと、五拾五町参畝歩に達してゐる。
   内 訳
 鹽 田 参町七反歩   (福吉村大字大人)
 水 田 八町七反歩   (深江村大字片山)
 鹽 田 拾町五反七畝歩  (加布里村大字加布里)
 水 田 四町八反歩    (加布里村神在川今の長野川改修につきて生める土地)
 水 田 貳拾参町五反六畝歩 (加布里村大字岩本)
 鹽 田 参町七反歩    (加布里村大字岩本)
 右の外神有川(今の長野川)河道を変じて志摩郡荻ノ浦に注がしめて、灌漑の便を計ると共に約五町歩の田面を得た。今は鹽田の多くは水田と化しつゝある。



   其五、天草領のこと

 慶長八年天草を領有するに至つたが、同年郡中の検地を行ひ、田畑本高参萬七千石、桑・茶・鹽・網の賦課を五千石とし、合計四萬貳千石と定められた、されど普通には四萬石と称した。もと五人守護の治政以来、郡の公課は参萬石を超えざりければ、今この増石を見て民之を喜ばざりしも、ために民心を鼓舞して漁業の発達蠶業の進歩を馴致するに至ったのは、一小島王国の桃原の夢に眠りしものに一鞭を與へた感じがある。
 富岡の地に袋ノ城を築く、海に臨み三會川に瀕して松原を展ずるは、唐津本城に髣髴として居る。本戸・栖本・一町田の三ヶ所に郡代を置き一切の郡治を司らしめた。袋ノ城には代番を置きて郡政を統轄せしめ、寺澤熊之助・戸田又左衛門・高畑忠兵衛・川村四郎左衛門・関主水・中村藤左衛門・三宅藤兵衛相継ぎて代番たりしが、三宅藤兵衛代番の頃、即ち寛永十四・五年天草四郎時貞の耶蘇教徒の乱起りて、藤兵街戦死す、時に寺澤第二代堅高公の頃であったが、領内にこの大乱を惹起せしは統督不行届なりとて、天草領を没収せられしことは、次で述ぶるであうら。



   其六、郷 足 軽

 公は藩境其の他の要地に、常住して変警に備ふる士分を置いた。初め波多氏鶴田家等の諸浪人を以て大川野村(西松浦郡大川村内)に四十人、廣瀬村(厳木村内)に十人、鏡村に四十人、和多田村(鬼塚村内)に四十人を置きしが、地方警備上効果あるを見て、其の後また鏡村に二十人、小麦原村(西松浦郡南波多村内)波多津村に十四人中原村(久里村内)に七人、次でまた怡土郡内堂ノ元に十一人、小松崎(一貴山村内)に十人置いた。其の後當藩主は大久保・松平・土井・水野・小笠原の五氏を更ふると雖も、これ等郷士は其の地方に土着して地方警戒の任に服したれば、今猶其の村里に郷士の末裔が住居を構へて居る。



   其七、庄屋待遇に関すること

一、慶長十三年までは、正月二日年頭の伺候を為すの規定なりしが、其の翌年よりは同三日に参賀の禮を行ふ様改めらる。

一、江戸参勤発着の節は、八間町にて総見の儀行はるべき定めであったが、同年は満島渡口より御乗船の際に、郡内大小庄屋を満島に召して引見し、各村支配内の収穫高の壹厘を以て、其の扶持米となすべき旨仰せ渡さる。其の後発着共に大小庄屋の引見は、満島にて行はるべき慣例となった。

一、従来庄屋任用の節は、波多家の浪人または其の地の名望家を採用した、當時各庄屋は勝手向不如意の旨上達せしに、庄屋一統に高百石までの自作農を許容せられしも、庄屋共は之を不便とせしかば、組合の村里より毎年百人の合力を受くることゝ定められしが、後に大久保加賀守の時代より五十人に減ぜられた。

一、従来庄屋の職分を罷免せらるゝとも、邸宅田地は永く其の所有権を與へられたれば、惣庄屋は其の居宅の修理は自費によりしが、座敷・臺所・垣墻・湯殿・雪隱等は、其の村組合より修理すべき規定であったから、其の職務を解除せられし時は、座敷臺所等は組合に引き渡すことゝなつた。

一、元和元年検地の節に、領内一同の惣庄屋を以て組合の庄屋と定められた。従来は随時武家より直ちに地方にて任意の輩を採用したのである。


  其の他庄屋に関する規定

一、衣類は絹紬まで心次第着用の事

一、佩用の具
   短矛
   脇差心次第

一、羽織袴を用ふる事

一、乗馬勝手次第

一、御使者差遣の節には、左の通り定めらる。
   惣庄屋方へは 御歩行衆(オカチシュウ)
   脇庄屋(小庄屋)方へは 御足軽
   百姓共へは 御中間

一、御廣間へ召し出されし節は、惣庄屋は御廣間に着座、脇庄屋は板敷・椽側へ入り込み、焼物師・鯨突・鑓ノ柄師は末座に着席すべき定めである。

一、脇庄屋勤務の儀は、惣庄屋より差圖致すべき事、惣庄屋の勤務怠慢邪行の事ある時は、組合の庄屋より勸告督励を行ひて、悪事不正の行為これなき様各自心得ゆべき事。


  其八 百姓一般に示達

 公は元和年間検地を行ひたる後、度々領内を巡狩して領民の状態を視察し、苟も牧民の利害産業の改善に関する乙とは、一々庄屋百姓一般に訓諭示達して、常に啓発指導の任を怠ることがなかつた。今其の諭達事項を摘録せん。

一、田地灌漑用の水口末世に至るまで変更あるべからざる事。

一、井磧其の外用水溝道は永遠に変更あるべからざる事。

 以上は百姓が干魃に際して、水諭喧嘩等なき様の用意にして至れりと云ふべし。

一、株田起しの節は、境畝の刈株一株立て置き、別に苦情等これなき様致すべき事。
   (此れ境界侵害の苦が苦がしき不祥事を未前に予防するのである。)

一、畝筋は定めの通りに従ひ違反あるべからざる事。
   (三百年前より周到なる公は、正條植ゑの理法によらざれば稔穀豊かならざるを戒しめられたのである。)

一、當年作主の変更をなす時は、田麦作は相違なく先主の所得たるべき事。畑麦作は當主の所得に帰すべき事、されど先主よりの所得に帰せし時は、其の半額を上納仕るべきこと。

一、作主変更の節、耕鋤其の他に施設せる物件は、其の田地に附帯すべき事。
  田畑の前作者と後作者間の授受に就きても、好悪の徒は不當無理の要求をなすことあれば、之が争論を絶つには、如斯明確なる規定あれば安堵して作地変更も出来るものである。

一、百姓共各々所有田畑は入念に作業を為すべき事。
 若し粗雑無精のことある時は、屹度申渡すべき旨これあるべき事。各自精励耕作に従事せば、自ら快心を覚えて家を守り国家に對し第一の忠孝と存ずべきものである。
  (深耕をなさゞれば地味枯る、地味肥えざれば作物繁らず、依って公は厳しく、深耕を奨励し以て治国平天下を説く、三百年後の今日猶恥づべきものあらざるか。)

一、惣庄屋御用により出頭の節は、手仕へ夫一人づゝ其の支配村より召し連るゝ事、且又百姓共は異議なく相勤め申すべきこと。猶領分中若し如何様の儀にても乗馬の節は、傳馬の規定に據るべき事。

 など、公の細心なる政治は、かくの如くして瘠せたる地味は肥饒に、狭迫せる土地は拡大せられ
て、物産豊かに民富みて太平を謳歌するに至つたのである。


    五、公の性行及び墳墓

 其一、性 行

 公は身を持するに謹厳酷薄であって、其の性行の非凡にして超絶するところは世道人心の啓発誘掖を致し以て吾人の亀鑑となすべきもの少からざるものがある。
 即ち事なければ毎朝六時には起床して八時まで家務を聴くを常とし、其の間朝餐前には必ず馬を馬場に駆りて馬術を練り、且つ清澄せる朝の大気を恣まゝに吸ひて心身を鍛え、餐後には刀槍を振ひ武芸を励みて怠る日とてはない。毎歳極寒の交三十日間は、武道の稽古に精力を傾け、射芸に練達の士をして青年武士の指導鍛錬に労せしめ、自身は捲藁にて射を試む、或は夏季に至れば銃の操法を学ばしめた。夜間武技を演ずる際には、諸士と與に粥*(米参)カユを食ひて労を慰め歓楽を共にした。
 常に人に語りて曰く、夜間談笑して時を空費するは害ありて益なく、却って心身の疲労倦怠を来して其害翌日に及ぶ、これ全く休養熟眠を缺けばなりとて、左右侍臣のものにも早々にして暇を與へ寝に就かしむ。無益の座談に夜を更すの徒は三省すべきことである。
 度々郡邑を巡視して領民の状態を察知し、親しく窮民を慰撫愛恤すること恰も親子の情を以てすれば、民其の徳に感泣せざるものはない。又有司に命じて備荒儲蓄の用意をなさしめ、予め水旱飢疾の難に備へたるは云ふまでもなく、租税の軽減徭役の節理など、蒼生撫恤の恩澤臻らざるところはない。
 上の好むところ下之に傚ふの例に漏れざれば、自ら範を示さんとて毎食一菜を供へて、家士と共に同食し決して美味豊膏を需むることがない。元来藩域水田乏しくして陸田多ければ、麦作が主要農産である。されば公は夏時には諸士僕隷をして悉く麦飯をなさしめ、自身も亦喜んで麦食をなして敢て粗食を厭ふことがない。或は奢侈繊弱の弊風の起らんことを恐れては、常に自ら綿服を纒ひて云ひけらく、道を下民に傳へ教化を人に施さんと欲せば、自身率先して躬行実践の範を示さざるべからず、これ千萬言の口舌に勝ること幾倍ぞと。
 或時公は家臣等が世情を談ずるをきゝ居たるに、大和の人某は関ケ原の役に陣歿したが、此の人無欲恬淡にして算数を辨ぜずして利益の外に超然たるところがあった、期の如きは眞に得難き武夫なりとて、一同感嘆の声を漏してゐた。公之を遮りて曰く、左様の人は所謂家産を破り身を亡ぼすの輩である、仮令よく治平十年を保つことを得るとも、一家を理し財政を整ふるところの道を知らざる徒なれば、遠からずして飢寒の災厄に逼られて武具家財を棄て、身を滅さゞる可からざる苛窘に遭着すること必然である、眞の武士たらんものは、大義の念に厚く武道に錬達するは云ふまでもなく、修身臍家治国平天下の才能なかるべからずとて、浅薄皮層の観に捕はれたる人々の迷想を説破して、武人たりとて財政の知能なかるべからざるを誨へた。
 武士が戦陣に臨んで群衆に抜きんで、干戟の間に出入して虎摶龍驤の武者振りを演じたとて、それで以て殊更に奇とするには足らない、これ武士の常道を行ふたといふに過ぎないのである、須らく功名を樹て世を裨益せんとするの志あるものは、常住坐臥晏居の時と雖も克己自制の心固くして自己の慾念を棄つるの勇気あるものでなければならぬ、若し嗜好に深き習僻ある時は、必ず他に疎隔を生じ身を過ち他を損ずるの恐れがある、吾嘗て茶事を嗜むこと甚だ厚かりしも、其の弊あるを知りて今は重く之を廃絶せりと。
 公は又常に何事にも用意周到である、其の逸話として、関ケ原の役に東軍の総大将家康未だ到らざる前に、部将各々地の利に據守して居た、或夜陰に諸方の陣営が俄かに擾然として騒ぎ立つたが、公は獨り前後も不覚に鼾声雷の如く寝込んで居た。それは予て侍六人と歩(カチ)の者六人をして、交番に警戒見張りをなさしめゐければ、同夜夫等のものより何の急報にも接しなかったので、かくは落着きはらって居たのである。
 事或は奇警にして人耳を聳動するの挙あるなく、其のなすところ平凡なるが如きも、其の識見一頭地を抜き、言行一致して窮行実践以て範を垂るゝが如きは、言ふに易くして行ふに至難である。公は天下の侯伯として贅を盡くし華を翫ぶの身分にありながら、其の安逸華奢の誘惑的慾念を拾てゝよく其の至難の業を遂行したのである、かゝることは凡人の到底持続し実践し得べきことでない、賢人英哲にして始めて成し遂げらるゝものである。公を頌して賢君明主と称するも敢て過賞の言ではあるまい。

  其二、公の終焉

 寛永十年四月十一日七拾壹歳を以て卒去す、公嘗て永眠の地を鏡宮境内に需む、則ち其の意に遵ひて霊域を営む。即ち塋区百五十坪計りの長方形を為す。
 塔身高一丈二尺四寸、面幅五尺、側幅四尺七寸、葱頭を有する石笠方九尺高六尺あり、臺礎は二重にして上者は高二尺五寸、方九尺九寸、下者は高二尺、方一丈九尺六寸である。銘に曰く、前志州太守休甫宗可居士、其の左面に寛永第十癸酉年、右面に孟夏四月十一日とす、歴代藩主の碑石車の最大なるものである。
 公は其の藩域に於て民力により未だ土工の成らざりし海潟河原の苟も開拓埋築に資すべき地区を総て之を利用するに至った。其の面積の明確なるもの壹百六拾壹町貳反六畝貳拾六歩で、久里村唐津村にて河道変更のため得たる田園は大約百町歩に及ぶやうである、されば総面積貳百五六拾町歩余の土地は、公によりて有用生産地として拾得せられたのである。或は徒に大海に注流し、或は往々洪水の惨害を與へたる河川は、舟運灌漑の利便を與ふる河道と化せしむるに至った。彼の佐賀藩祖鍋島直茂の家臣成富兵庫頭茂安が、加瀬川を分ちで多布施川を佐賀城下に導水せしがために、同藩民は兵庫頭の徳を表頌せしこと厚く、ために其の名声は廣く世人に傳へらるゝに至った。然るに我が志州公の功績に對しては、藩民挙りて之が頌徳を為すをきかず、今は殆んど世人に忘れられたる観あるは、公のため萬斛の涙を禁ぜざるところである。
 由来公の世嗣第二代寺澤兵庫頭堅高は、正保四年江戸浅草海禅寺にて自盡せしより、家運断絶の悲運に逢ひ、其の後唐津藩は譜代藩鎮の制と変じたから、転聾の藩主亦其の以前を顧るの暇乏しくまた後継の存するものもなければ祖先の遺業を大にするの由もなく、唯僅かに鏡組郷士の末裔等が毎年祭祀を怠らずして公の英霊を慰むると、黒川村民が其の遺徳を憧憬して年々祭禮を行ひて追懐の誠を致すに過ぎないのみである。




  第二代 堅 高


  一、政 治

 廣高の長子忠清(又忠信とも云)慶長十六年従五位下に叙し、式部少輔と称せしが、不幸にして父に先ちて卒す。よりて次男堅高は、寛永四年十二月(紀元二二八七)志摩守隠居の後を受けて家を襲いだ。これより曩き堅高慶長年中徒五位下に叙し兵庫頭と称した。寛永十三年家老熊澤をして左の布達を行はしめて、政治の緊縮を計った。

 覚

一、村や組合御定に付て惣庄屋相定候、萬事惣庄屋申渡候儀少しも相背く間敷候、不依何事申付候御用之儀如何様なる事に條共、先づ相調可申候、若し急に贔屓仕候者は、其の以後理非の穿鑿仕様可申開候事。

一、惣庄屋役儀之事今迄の外に、其の村の高百石令用捨候、一ケ月に三度宛組合の村々へ廻り、其の村の庄屋へ萬事油断不仕候様に可申渡候、若し小百姓壹人にても無断つぶし候はゞ、惣庄屋並に庄屋も曲事に可申付事。

一、株田起し候儀時分延引候はゞ、惣庄屋より其の村々庄屋へ催促仕、耕作・根付、置仕付、草水致油断御年貢未進仕候はゞ、曲事可申付候、並に脇庄屋何事によらず申談候儀は、惣庄屋に可相尋候、附、公儀御用の儀は不及申事。

一、御免定の儀下札出候ば、其の日小百姓共にも不残可申聞候、物成下平均其の年の立毛に應じ善悪甲乙無之様に、其の村の庄屋百姓中寄合均し可申候、若別に申分有之候はゞ、組中の惣庄屋へ申聞可相済事。

一、立毛善悪の相應にならし申す上は、百姓不依大小若し未進仕候はゞ、為に其の村中皆済可仕候、此儀兼てより組中にて、惣庄屋村々庄屋百姓に堅く可申聞候、不得止に於ては曲事可申付事。

一、御年貢納所仕候儀、組中の百姓若見合だまり申候はゞ、其の村の庄屋へ申聞、其の上にて惣庄屋へ可申聞候、見隠候はゞ可為曲事事。

一、御普請所大分の所は、他組より越夫可申付候、組中の村として罷成る儀に候はゞ、常に繕可申候若し捨置及大破候はゞ可為曲事事。

一、酒肴菓子に至迄村々にて売申間敷、並に諸商人煙草売りれんしやくけ壹人も村中に入申間敷候、若入候はゞ組合中より見付次第、惣庄屋へ相届可及其沙汰事。

一、神事祭り他村より客人一切呼申間敷侯、最も費へ成る儀令停止候事。

一、百姓縁邊の儀、其の村々庄屋に相尋ね契約可仕候、祝言の砌別に祝儀可仕と存候はゞ、*(魚昜スルメ)一對魚類の肴少し野菜此外遣ひ候はゞ、其の村々庄屋可為越度事。

  右の條々少も相背に於ては曲事可申付候、此外至其時分申付候御法度の儀、諸事可守其の旨
者也、仍如件。
   寛永十三年丙子年八月二日
                    熊澤三郎右衛門
                       各庄屋宛



  二、天草島原の乱

 不幸にも寛永十四年其の所領天草に於て天主教徒の乱が起った。抑も其の起原は慶長以来幕府天主教禁止の法令を布きしも、其の余黨猶西陲の地に潜みて教法を修するものありしが。法禁益々厳なるに及び欝勃たる彼等の信仰心は、其の抑圧に反噛を砥ぎ一大騒乱を惹起し、十月に至りて遂に其の徒集りて島原城主松倉氏の領内原城に立て籠つた。始め肥前島原に矢野松右衛門・千束善右衛門・大江源右衛門・山善右衛門・森宗意といふ五人のものありしが、彼等はもと小西行長の家士にて朝鮮の役にも戦功あり、小西は元来天主教徒なりし故、これ等の輩も其の教を信奉し、小西没落の後は肥後天草郡矢野村・千束村に来住せしが、常に宗門再興の希望の念を絶たざりしが、嘗て天草上津浦に住ひし一宣教師が国外に放逐せられし際に、末鑑といふ書一巻を留めしが、其の書中に予言せるは、今後廿五年を経ば天より一人の神童降りて教旨を再興すべし、其の人習はざるに書を能くし言はざるに眞意を悟らざることなく、其の時天空紅に枯木花を綻ぶべしと。恰もかゝる天瑞あるの際、天草大矢野の庄屋益田甚兵衛が子四郎(後に時貞)といへる拾六歳の少年があった、予言するところの人物に違はずと、即ち宗門再興の時節到来せりとて、之を戴き愚民を煽動したから、忽ち聚来徒黨するものが多かった。時に島原有馬村に耶蘇の画像を掲けて崇拝するものがあった、代官村田某聞て驚き画像を奪ふて焼棄した。又同村内に三吉佐内と云ふものがあって、宗門の長者であることが聞えたから、之を搦取り島原城に送りて誅戮した。それで宗門の輩大に激怒し、代官を殺し狼籍至らざるところなく、其の黨愈々猖獗にして、遂に天草の一揆と合同して四郎時貞を大将とし、三面懸崖を以て擁せらるゝ天嶮たる有馬氏の舊居原城に立て籠り、天下の大兵と雌雄を争ふに至った。
 さて松倉長門守重次江戸勤番にて不在なる故、之が鎮圧も容易でないから、佐賀侯鍋島、肥後侯細川氏に應援を求めしも、両家とも東勤中のことであれば、鍋島の留守役諌早豊前三千余騎を率ゐて其の領内苅田ノ庄に出陣し、細川越中守の留守役清水伯耆等四千余人を以て肥後国川尻に陣を張ると雖も、當時の大法にて隣国に如何なる変事があるとも、幕府の命なくして国境より兵を出すことが出来ねば、空しく形勢を傍観する外なかった。又鎮西の目附豊後国府中の住牧野傳蔵・林丹波へも注進せしに、追って下知に及ぶまでは大法の如く守るべしとありければ、其の間に乱徒は益々跋扈を逞ふするに至つた。
 天草島や富岡城には、堅高其の家人三宅藤兵衛(城代三千石)中島與左衛門・古橋庄助等を置き、柄本村へは石橋太郎左衛門を居らしめた。此の程有馬村に切支丹宗徒の一揆起り、天草の土民等の之に黨するよし聞えたれば、三宅藤兵衛大に驚き、如何なる大事に及ばんも計り難しとて大矢野上津浦へ討手を差し向け、事大ならざる前に鎮定せんものをとて、総勢三百余人に銃五十挺を持せて至らしめんとせしに、地侍等の言に一揆等追々多勢となり、大矢野・千束そうそう島、柳之瀬戸に至るまで悉く其の黨に加りしと云へば、我等僅の人数を遣されて自然敗軍に及ばゞ、併せて本城をも奪はるべきか、且つ當地の地形をも確めずして、人数を分つことは心元なきことならずやと云ひければ、三宅も之に賛し、先づ近郷を警めんとて百姓の妻子を人質に取り置き、十一月の初に唐津表へ注進しけるに、領主兵庫頭在府中であれば、老臣等集議の結果抽籤により富岡に援兵を遣はすことゝなり、即ち岡島七郎右衛門・澤木七郎兵衛・原田伊織・並河九兵衛・林又右衛門に足軽大将八人を副へ・十一月五日唐津を発船し、四十八里の海路を経て七日富岡に着船した。然るに一揆等は上津浦に屯集するよし聞えければ、翌八日富岡より五里を隔てし「イデ」と本戸へ出兵するやうに決せられた。此の本戸・島子の邊は本より宗門の輩の巣窟であれば、其の郷民等予め唐津の兵應援すべきことを知り、此の要地を渡すべからずとて、密に其の黨と牒合し、寺澤勢へは一揆に加はらざる体を示し、時宜を計りて各自家に火を放ちて裡切りすべしと約束して居た。寺澤勢はかゝる計略あることは夢想だもなく、皆其の人家に陣を取り、土人を集め其の向背を糺問せしに、皆云へるに、上津浦のものども使を遣はし一味せざれば押寄せて殺戮せんと申越したけれども、此の邊のものは藩公の恩誼を蒙ること浅からざる故、今更いかで反旗を飜さんやとて使の者を追ひ返せり、其の後彼等襲来せざるは御出勢を恐れしにやあらん、願くば島子へも一将を遣はされなば彼地のものも力を得て、上津浦の輩いよいよ恐縮すべしと、さあらぬ体に申立てければ、寺澤勢はさもあるべしとて、三宅藤兵衛配下の士並河九兵衛・林又右衛門・同小十郎・中島與左衛門・古橋庄助・国枝清右衛門・大野助右衛門等二百余人に銃六十挺を授け、明る九日島子へ打ち立せた、又柄本村へ加勢として足軽大将一人、亀ノ川へも同じく二人を出した、これ皆其の村々より應援を請ふたからである。かく処々へ出勢を請ひしことは、本戸の兵力を減ずるが為めであったことは後に思ひ合せられた。
 さて本戸の郷民より上津浦の一揆へ、機乗ずべきなり約の如く押寄せらるべしと通ぜしゆへ、十三日を以て一揆等島子に寄せんとしけるに、島原より四郎時貞兵五千人を率ゐて助勢せんとて上津浦に着した。これは寺澤勢の天草出陣を知りて、長崎を襲はんとする方略を転じて、先づ間近の寺澤勢を殲滅せんとて上津浦に押し渡ったのである。因て十四日未明に島子を襲はんとて、島原勢は濱手に、天草勢は山手に配置し、島子の郷民はみな上津浦の渚に陣を張りて暁を待つ。さて時刻に及んだから一揆等一度に鬨をつくって押寄せけるに、島子の寺澤勢は土民等と侮りで油断しければ、匆卒のことに周章狼狽して騒ぎ合へるに、一萬余人の一揆等縦横に突撃したれば、寺澤勢算を乱して収集するところなく、島子の民は我家に火を放ち、島原よりの應授軍は四郎時貞が下知によりて、本戸の道を扼して應援を絶った。時に一揆等兼ての謀にて婦女童子一人毎に、白布白紙の旗三本を持せ、一本は背にさし二本は左右の手に持せて擬兵を配したから、山野悉く敵兵の雲集するやうである。寺澤勢は全軍敗れて山河の別なく踏破して柄本村方面に走った。中に並河九兵衛・林又右衛門・同小十郎・大野助右衛門等は踏み止まりて花々しく最後を遂げた。四郎時貞は之に乗じて本戸に攻め寄せたるに、足軽大将の並河・渡邊・関・柴田・島田等銃卒を指揮して、瀬戸口に防戦したれども、後詰めの兵島子の敗を聞きて進まず、兎角する間に敵は後軍を山背より廻らしめ、本戸の郷民は其の家々に放火し前後より狭撃せしゆへ、寺澤勢大敗して佐々小左衛門・川崎伊左衛門・細井源之丞・今井九兵衛・同十兵衛・佃八郎兵衛等戦死し、敗残の兵は僅に富岡城に免るゝことを得た。
 さて富岡城は城廓の内甚だ狭隘なれども、要害堅固の名城なり、殊に矢狭間毎に砲門を備ふれば防戦の設備も亦缺くることないわけだ。十一月十四日の夜に本戸より引き返せし、足軽大将並河・渡邊・関・柴田・島田並に在城中の三宅古橋等俄に籠城の策を決し、本戸の残兵其の他を収容して敵の襲来を待ちかけた。一揆は五日の後即ち城内の防備整ひたる頃である、同月十九日に、四郎時貞一萬二千余の兵を以て此の城を攻囲し、強襲によりて城を陥れんとせしに、城兵は大小の銃砲を乱発して拒戦し、暫時にして賊徒二百余人を仆す、賊之に恐れて囲を解いた。廿二日に至り四郎等は楯、竹束を数多用意し来り攻めしに、本丸の伊勢殿丸は並河太左衛門・島田十郎左衛門守備せしが、賊徒此処に攻め寄するを見て銃丸を雨の如く射放ち竹束を打ち倒し、数多の敵を射止めたれば、賊徒進むことを得ず、裏手に廻りて水の手を断ちける故、城兵一時は水に渇したけれども、益々勇を鼓し度々城外に突撃奮闘したれば、賊徒屈して大矢野村に退却した。然れども城中兵鮮くして追撃の余力なければ、空しく追討使の来るを待つ外ない。
 一揆等島原の城下に火を放ち、有馬村原城に拠有し、天草の乱徒と應呼し形勢容易ならざれば、豊後府中駐在の目附より幕府に達せし警報十一月九日江戸に至るや、直ちに板倉内膳正重昌、目附石谷十蔵を彼の地に遣され、松倉長門守及び日根野織部正も速に所領に帰り、若し一撥にして松倉が一手にて平定せざる時は、同国のこと故鍋島信濃守・寺澤兵庫頭よりも加勢をなすべし。又細川越中守(肥後)立花飛騨守(柳川)・有馬玄蕃頭(久留米)等は在府中なれども府中目附より警を傳へられなば、其の手兵を出して速に應援すべき旨を命ぜられた。さて板倉重昌即日発足するや、柳生但馬守宗矩其の適任ならざるを悟りて将軍家光に謁して、之を諫止せんとしたれども、事後れて甲斐なかった。十八日大阪に着し二十二日発船して晦日豊前小食に至り、十二月朔日肥後高瀬に達し、豊後府内の目附牧野傳蔵以下と和會し、又近国諸大名の家司等も出で迎へ下知を待ちければ、内膳正重昌は兼て肥前肥後の兵を以て討伐すべき旨の命を蒙り居れば、鍋島・有馬・細川の各家へ出勢を促し、三日肥前神代(クマシロ)に至り、五日島原に着し松倉が城島原に入り、六日朝より松倉を先導として原城に向ひ、八日有馬堀ノ内に着陣した。一方には牧原傳蔵・林丹波等は細川肥後守・寺澤兵庫頭と共に天草の形勢を探知せしも、一揆悉く原城に移りて隻影だにも見えず。
 一揆等の根據原城には籠城手配怠りなく、四郎時貞を総大将並に本丸の大将となし、蘆原忠左衛門・渡邊傳右衛門・赤星主膳・馬場休意・會津宗印以下十三人時貞の羽翼と在りて、二千余人にて本丸を守り、二ノ丸には有馬掃部頭等五千余人守備をなし、三ノ丸には堂崎對馬・大塚四郎兵衛等凡そ三千五百余人を配す、其の他各所の出口要地に配備せし軍ども総勢二萬三千余人と称し、此の外婦女童幼凡そ一萬余人を擁した。九日愈々幕軍最初の原城攻撃を始む、十日には松倉・有馬・鍋島勢攻め立つると雖も味方却て死傷多くして退却した。それより連日立花勢をも加へて押し寄せ奮闘するも更に利あらず。賊徒の形勢容易ならざれば、十二月二日幕府は松平伊豆守信綱・戸田氏鐵に島原出陣を命じた、三日伊豆守等江戸を発す、其の兵千五百余人である。このこと江戸老臣より島原の軍営に通ぜしが、同月廿九日其の報到達した。翌十五年正月二日伊豆守一行が有馬の地に到るよし聞えしかば、板倉内膳正は其の陣所へ諸将を招き、今度伊豆左門の両人此の地に到るよし、若し両人大軍を催ふして強襲を行ひ比の城を陥れんには、内膳は勿論各自面目なかるべし、今は猶予すべきにあらず、以前の策戦を改めて短兵急に肉迫せん。幸明日は元旦に當れば敵も油断やすべけれ、其の虚に乗じて一気に攻略せんにはと、諸将悉くさもあるべしとて一議にも及ばざれば、其の夜中に軍令を定め闇に紛れて敵城に忍び寄り、竹束を付て暁を待ち、有馬兵部大輔を先陣とし三ノ丸の堀際まで押し詰め、鬨声を揚げて攻めかゝりしに、城中には案外の備へありて、投松明(ナゲタイマツ)を投じ其の火光に依て弓銃を放ち、大石巨木を転墜し、或は苫に火を付て投下し、又は大竹を尖らして投げ突にするなど、あらゆる手段を以て寄手を防ぎ悩しければ、寄手之に怯みて旗色振はざれば、内膳正此の体を見て眞先に馳せ向ひ金の釆を打ちふりて、松倉・有馬の勢を励ますとも躊躇して進まざれば、内膳正もだし難く今は是までとて、手勢ばかりを引き具して堀を渡り、出丸と三ノ丸の間なる数十丈の塀を登り、越さんとせしに、城兵も大将と見ければ争ふて討ってかゝり、家臣等も此を先途と闘ひ已に城中に入らんとしけるに、偶々敵の投下せし大石内膳の兜の眞甲を砕きしも、屈せず登挙しけるに、銃丸再び乳下に命中して其の儘倒れんとせしを、家人赤羽源兵衛・北川又左衛門・小林九兵衛其の身も已に重傷を負ひながら、主人の屍を肩にし塀を下りて本陣に返し、石谷十蔵も亦傷廿八日に延期し廿七日早朝に戸田氏鐵が陣所へ諸将の集合を命令した。然るに廿七日諸将戸田の陣所へ集り明日の軍議を為せる半、午前十時過ぐる頃井楼の番人はげしき声を挙げて鍋島が手より城乗り取りを始むと叫べば、伊豆守自ら井楼に走り上りで之を確め。かくては鍋島が手より不意の突撃ありたれば猶予すべきにあらず、此の勢にて攻めかくべしと下知しければ、諸将各陣所に馳せ帰った。鍋島信濃守は拙者手のもの粗忽なることを仕出し、さてもさても笑止なりと云ひながら、直に出丸に詰めかけ士卒に向ひてとてもの粗忽に乗り崩せと下知した。鍋島が陣は敵の城壁に最も近い、此の日の朝城内寂然として物音なきを怪み、出丸の塀へ竊に上りて差し窺ひけるに、城内には一人の隻影だにない、後に水野の手に補はれし賊の言によれば、同夜寄手に夜襲を為さんとて妻子の方へ往きて休息するものあり、海草を採って食料に供せんとて海手へ忍び下るもありて、城中の持口頗る油断なりしと。かくて諸勢息をもつかず攻め立てたる中にも鍋島・水野・黒田・有馬・細川・等武功著しかりしが、鍋島は軍令に背き一番乗りしたるは近頃粗忽なる曲事とて、信濃守及び其の手の検使たる榊原飛騨は、後に公儀より各三十日許閉門を命ぜられた。二十八日さしもの頑強の一揆も落城した。此の両日の戦に諸軍の死傷するもの、細川勢に二千余人、黒田勢に二千三百余人、鍋島勢に八百四十余人、有馬勢に六百余人、立花の手に五百余人、松倉の配下に百廿余人、小笠原手下に百七十余人、松平丹波守の手に百六十余人、水野の勢に五百余人、寺澤の配下に三百四十余人、戸田勢に四十余人、松平伊豆守の手に百十人にて、総計七千六百八十余人にして、其の中討死したるもの千百五十余人を数ふ、又諸軍の討取りし一揆の首級男女老幼共に一萬五千余人又は二萬とも云った、されど其の数一々確なりとは云ひ難い。一揆の首級は城前の田中へ獄門にかけ、総陣の柵木の上下を尖らし首を突き立て並べられしものも夥しかった。後に伊豆守の命にて西坂に埋めしめ、號して有馬塚と云つた、但し四郎時貞及び大矢野三左衛門・有江監物の首級は長崎に送りて、大波戸へ梟首に附した。
 兇徒既に誅滅に帰したから、三月朔日には城内の小屋建物を焼き払ひ、寺澤・有馬両家に命じて石壁を毀壊せしめ、追討の諸軍各凱旋して比の月中旬には残りなく引き払った。松平伊豆守・戸田左門は同月九日天草を立ちて長崎に赴き互市場を検察し、肥前名護屋・唐津を巡見し、福岡博多を経て小倉に至りし時、幕使太田備中守の下向に會し、諸将を此に會し台命の趣きを傳へて功過を沙汰し、其の軍法に背けるものは江戸に至り旨を請ふべしとて、六月鍋島・榊原着府の時前述の如く籠居を命ぜらる。島原城主松倉長門守重次は所領六萬石を没収せられて、美作国森内記に預けられ、且つ重次が政治宜しからざりし科により、同七月内記が宅にて斬に処せらる。又唐津城主寺澤兵庫頭は天草四萬石を削られ、其の余の八萬有余石を知行せしめられしが、兵庫頭之を遺憾とし、後正保四年十一月(紀元二三〇七)江戸浅草海禅寺にで自殺せしゆゑ家運遂に断絶の悲運に遭ひしは口惜き事どもである。其他諸将の動功に對しては感状を賜ひしに過ぎなかった。
 兵庫守堅高の墓碑は、唐津町近松寺境内に存して居る、花崗岩の自然石にて、塔身高八尺六寸、面幅三尺三寸、厚一尺四寸、基礎は高七寸・幅三尺六寸に三尺の一枚石であって実に総体の構造粗悪極まるものである、碑面に孫峰院白室宗不居士と刻し表面に正保四年十一月十八日とす。



  三、黒船焼討

 正保元年六月八日早天に、唐津湾頭高島と福岡藩領志摩郡姫島との間に、長五十間計りなる黒船一艘来航したる旨、所々の遠見番所より追々の報告ありければ、城主兵庫頭大に驚き天守臺に馳登り、望遠鏡を以て見察しけるに、小山の如き異国船一艘乗員凡そ四五百名と覚しく、旗幟武具を立て列ね、数十門の大砲を備へ威風海を壓するの観がある。又次で襲来せん船やあらんとて挙藩の騒擾一方でない。兵庫頭二ノ丸へ至り早速對戦の軍令を発し、船奉行池田新介・川崎伊左衛門へ浦々氷主の用意を致すべき旨相達し、猶又軍船の用意等の下知中に、大船頭・小船頭竝に船目付衆も打ち集ひ、先陣、の大将には岡田七郎右衛門、與力には並河九兵衛、配下の士には古河傳右衛門・稲田幸衛門・林又十郎等を附し、何れも大筒・弓・槍・長刀を備へて乗り出し。足軽大将には並河太左衛門、其の組士には関善左衛門・小笠原齊・古橋庄介・中島與左衛門・大竹嘉兵衛・呼子平右衛門・上月八助にして、何れも大筒・小筒を備へて船を出し後陣の堅めを為す。高鳥の警固には與力並河団右衛門部下を督して大小の筒弓などの武具を備ふ。大島には浅井小十郎竝に部下の士河崎東馬・岡原彦兵衛等にて警戒怠りなく、神集島には岡島治郎兵衛及び部下の士善崎八左衛門・笹山小東太これに備へ。濱崎浦には小林甚十郎及び配下渡邊半左街門・小野兵九郎あり。鷺ノ首・鹿家には齊藤杢左衛門等警戒をなし。深江濱には松下半之丞・澤田玄蕃及び組士之に備へ。馬渡島には酒井藤左衛門及び組士中村源八部・古川直馬等あり。加唐島には加藤清右衛門及び配下に磯貝重太夫あり。波戸ノ崎には三宅藤十郎・本郷三十郎等あり。仮尾崎には馬廻三騎足軽十五人、入野浦には馬廻三騎足軽十五人を置き。其の他黒川浦・湊浦にも之が警備に力を盡した。
 さて兵庫守には、三宅某・澤木七郎兵衛・目付国枝清左衛門・御側組足軽四組・御旗本四組都合五百八十人を率ゐて満島濱邊に出陣し。本丸御留守居には岡島治郎左衛門百十人にて警固に當り。二ノ門には並河作右衛門百六十余人にて固め。水ノ門には陰山源八郎百人。北ノ門には細井金十郎。大手門には熊澤三郎兵衛百五十余人。西ノ門には関右源二百人。名古屋口、札ノ辻には町奉行二組。埋門には柳本徳太郎五十人。西ノ濱には小笠原登之介百人。佐志濱には加藤主殿四十人。腰の曲輪には渡邊東馬百人にて各々其の守備区を厳戒した。兵庫頭の乗船は美々敷飾り立て、船奉行池田・川崎を始め大小船頭小宮官右衛門・吉田儀右衛門・船目附磯貝藤右衛門以下水主六十人にて、鳥島と洲口の中間に船かゝりをなし、配備の将卒総て五千五百人を数ふ。

 一方には飛脚を以て福岡藩に警を傳へたれば、黒田甲斐守は直に先づ黒田外記・都主馬・山内源八郎・川田齊等をして、都合五百八十人を以て九日暮方秋月を発して芥屋崎に向ひ。黒田市正は吉田六郎太夫・明石権太郎・牧甚之介等を始めとして都合六十人、九日夕方直方を発しで今津浦へ出陣し。福岡の先陣には郡正太夫・松澤源之丞・由良道可等都合七百五十人、後陣は杉山文之丞・浦野半平・原吉之丞等七百五十人の備をなし。姫島には黒田源左衛門・片田重左衛門等五百八十人。姪ノ濱には小林小十郎・金子内膳等四百五十人。箱崎には黒田監督物・山本紋右衛門等三百人。黒崎には井上三郎太夫等百人。相の島には明石友右衛門等三百廿人。地ノ島には戸田孫九郎等二百人。志賀ノ島には井上美濃守等百五十人。其の他鐘ケ崎に二百人。野北には百八十五人。蘆屋浦に百人。多々羅浦に百人。残島に百八十人何れの陣営も大筒・小筒・槍・長刀の兵具を取って、戒厳に怠りがない。福岡城留守居には黒田美作を以て當て、本丸には黒田外記、二ノ丸には三枝勘兵衛、三ノ丸には小川傳八各々守備をなし。寄手には焼草船をも設け、先陣の指揮を待つた。唐津方の先陣後陣の軍船数百艘は、九日暮陰より黒船を遠巻きして備へ。翌十日正十二時頃より黒田家の先陣二十五艘の軍船、姫島より南方へ四里計りの間に碇を下した。これ両国領域地方の出来事であれば、両藩よりの警固を見るに至ったのである。十一日には筑前方の後陣の勢数百艘の兵船を浮べて黒船の北方を扼した。さて又平戸城主松浦壹岐は千二百人にて国境を固め、防長の毛利氏は伊崎に陣を張り、豊前小笠原勢は黒崎へ軍船を浮べ、九州北海岸は勿論中国の一角まで物々しき警戒をなした。
 寺澤、黒田両家の軍船追々集り十重二十重と取り巻き、立て列ねし旗船印は天に翻り、弓・鐵砲・鎗・長刀の光は海波に映じて輝き、柴船草船数百艘は黒船の南北を擁して火攻の計をなし、総勢より時々叫ぶ鬨声は海若も慄をなさすばかりである。黒船より此の様を見て大に驚き唐津勢の方を麾き何やらん呼び叫ぶと雖も、一切聞き分け難く只管其の叫声を聞くばかりである。又団扇を以て麾きけれども、我国にては見知りをき石火矢二三十門の筒口を揃へたりければ、近づく船とては一艘たりともない。黒船(汽船ならず)も今は詮なく遁れ出でんとするも、流石に廣き海湾も船を組みて警固しければ隙間もなくして、それもなり難かりければ銅羅チャンメラ(喇叭)を打ち鳴せしが、年紀二十歳ばかりの若武者は金色の帽子に赤字の飾りある衣服を纒ひて、朱色の日傘に金銀の短冊めきたるもの数十を其の縁邊に吊し、美しく飾り立てたるものをさし翳し、随員五六十人を引き連れ船矢倉に登りて、兵庫頭が三ツ幕の紋打ちたる旗、石無地紋付きたる吹流を立てたる衆船に向ひ、何とやらん言葉をかけ頭を下げ拜しける所を、無惨にも唐津方先陣の将岡田七郎右衛門の乗船より、並河九兵衛組士佐々木兵介三十匁筒にて彼の異装の若武者を射たれば、船矢倉より眞逆様に血煙を立て落下した。彼方に控へたりし者ども驚き騒ぎければ、又も筑前勢より二三十匁筒にて撃ちかけければ、誤たず三人を射落せしが、残余の輩急ぎ船内に馳せ入りしが、両家の軍勢より大筒小筒を息をもつかで連射せしに、黒船にては銅羅チャンメラを切りに打ち叩き吹き鳴すや否や、二十四門の石火矢より地軸も砕けんばかりの轟を以て寄手を砲撃し、白煙朦々として呎尺を辨ぜず、然るに敵船は小山の如き大船なれば、砲弾は我船の帆檣旗吹流には中ると雖も、兵員船体には何等の損害とてもない。比の時寺澤黒田の両軍より柴草船数百艘に火を点し、異固船の風上より流しかけけるに、炎々たる焔は天を焦して黒船を包み、乗り組み外人は龍吐水、鯨吹波などの消火器にて之を防ぐと雖も其の甲斐なし、之に乗じて我軍よりは益々砲撃殷々として加りたりしが、彼の大船は四五百人の船員と共に渦を巻きて、高島沖の海底深く葬り去られた。時に十一日正午頃であつた。
 次で両家よりは海士を海中に入れて沈没せし外船使用の石火矢を引き上げければ、寺澤家に八門黒田家に六門を得た、猶残余の砲門を黒田家にて毛髪製の綱にて引き上げんとしたるも綱断れて用を為さず、寺繹氏亦其の砲を得んとせしも効なければ、海神死霊の怨恨にてかくやとて、或は近松寺にて死霊の法養を為し、或は佐志八幡神主に命じて祈祷などなさしめ、其の目的を遂行せんと企てしもその甲斐なかった。次で又外人亡者の供養のため、高島沖にて三日三夜近松寺住僧をして施餓鬼會を行った。當時唐津城にては十門の火砲ありて、余の二門は征韓役に加藤清正分捕せしものを傳へしといひて、形態前者よりも小なりしと。今は僅にその一門唐津公園城頭に残ってゐる。
 比の焼討の事に就きては幕府よりは何等の恩賞もなかつた。さて何国の船なるか不明なれども、島原乱後は和蘭以外の西洋船舶は渡航厳禁の時代にして、且つ其の船の動静が悠然として我が警備諸般の囲繞するも晏如として擾がざるを見れば、或は和蘭船なるべきか。又或は當時東洋にて和蘭と殖民貿易を競へる英国船の寄泊にてもあらんか、如何にや。
 さて又黒船焼討の記述は、慶安二年正月十日(紀元二三〇九)大久保加賀守家臣佐藤源八が、寺澤氏の家臣竝河太左衛門の邸宅を得て其の座敷押入内に存せしものを手寫し、原本は藩公に献ぜしといへるものゝ復寫を、更に復寫して存するものに就き(唐津町船越清太郎氏所有)略記せんものである。

   二、幕府の直轄時代

 正保四年十一月兵庫頭自殺して家門断絶しけるが、何人も所期せざることとて俄に適當の後主を得ざれは、翌慶安元年の一年間は領主封建のことなく幕府の直轄となる。當時幕府よりは、上使として津田平左衛門・齊藤左源太下向して當城に入り、目付として兼松彌五左衛門着任した。城廓の始末には、塹濠本丸や請取役として備中松山城主水谷伊予守、三ノ丸収受には豊後竹田城主内膳正其の任を命ぜられ、寺澤家の遺臣との間に無事引き渡しを終へたるが、転封などゝ違ひ家門破滅の場合なれば、悲痛惨劇の程思ふも掬涙の情に堪へざる次第である。因に伊予守は知行五萬三千石にして兵庫頭の姉聟である。



 三、大久保氏
      (慶安二年(二三〇九) 延寶六年(二三三八))

  第一代 忠職(タダモト)

一  出身経歴

 一時天領に帰したる唐津藩は、慶安二年大久保加賀守忠職播州明石城より、同じく風光明媚なる唐津に転対し来つた。抑も寺澤氏は外様大名であって太閤の恩顧によりて唐津を領したのである。然るに堅高子なくして卒しければ、茲に當藩が徳川譜第恩眷の大久保氏を戴くことになつたから、爾後譜第の臣を以て封建せらるゝの端を開くに至つた。初め徳川氏は諸侯制馭の政策上、其の家門に継嗣子なき時は、養子嗣を以て襲封することを許さなかったからである。
 忠職の先は粟田口関白藤原道兼より出づ、道兼の曾孫なる宗圓下野国に赴き、宇都宮の座主となる。其の子宗綱初めて士林に列した。宗綱の子朝綱右大将源頼朝に仕へて勲功あり、其の後雄を下野に称し、累世連綿家名を揚ぐ。其の後裔に泰藤といへるものあり、新田義貞に従ひ建武の役に戦功少からず、遂に北越に転戦し、義貞の歿するや参河に蟄れ宇津野氏と称して、岡崎附近の和田に住す。玄孫常善始め松平信光に奉仕せしより世々、親忠・長親・信忠・清康・廣忠に歴仕し、参河在住以来累世徳川氏の譜第の家臣となる(松平は家康の時より徳川と称す)。常善の曾孫忠俊始めて大久保氏と號した。忠俊の弟に忠員あり弘治・永禄の間に戦功多かりしが、其の後忠世・忠隣・忠常等の名称を経て忠職に及ぶ。
 忠職は忠常の長子なり。母は奥平信昌の女にて家康の外孫である。慶長十六年家康秀忠の二君に謁す、時に年齢僅かに八歳なりしが、父の封邑を嗣ぎ二萬石を領した。寛永三年十二月従五位下に叙し加賀守と號す、九年正月美濃国加納城を賜はつて、食禄倍加して五萬石を領するに至った。十一年三代将軍家光上洛するに當り、之を領内州ノ股に奉迎して駄餉を献じて忠勤を表し、序で公に扈従して京師に伺候す。十六年加納城より転じて播州明石城に移り、封七萬石を賜はり切りに栄進して慶安二年唐津城に移り、又禄秩を加へ総て八萬三千石を領するに至つた(松浦郡に七萬石怡土郡に一萬三千石)。
 唐津領は名護屋を包有し、曾て太閤の征韓策源の要地であって、今幕府の精選に當りて此の地を守るに至つた。爾来封内の民治に意を用ひ邊防を忽にせず、或は江戸参勤を怠ることなければ、公儀の恩眷益々悃篤を加へ、寛文七年十二月江戸にありしが、四代将軍家綱は幕下の老臣にして勤厚なるものを選び 叙位を奏請せしに、忠職亦階を進めて従四位下に昇叙せらる。翌年西蹄するに臨みて、其の累世の忠勤を賞して西海九州の鎮護職に補任し、外国不虞の変患に備へ、鎮西の国防上の大任を托せられたるが、これ世に称する所の探題職であって、公のこの大任を受くるは如何に将軍の息眷握きを知ると共に、公の材幹凡庸ならざるを窺ふことが出来る。九年公起居快からずして常に復せず、然れども江戸参府の期に及びたれば、病を力めて海陸道程の長きをも辞せずして発足し、江戸に至れば病勢彌々篤く薬餌の効験乏しかりしが、稍々快さを得たれば強て登営し臺顔を拜し其の志を遂ぐることを得たるも、終に癒ゆること能はずして、十年四月十九日城西麻布の第に易簀す、壽六十七、第の南方なる立行寺に葬り、遺骨を京師の本禅寺に蔵めた。これ変世の舊縁存するによるからである。塔を立て本源院日禅大居士と號した。
 忠職資性敦厚篤実にして浮華虚飾を悪みて身を持すること薄く、坐作進退の際にも常に上を奉戴敬虔するの念須臾も怠らず、例令遠国に在りと雖も東に向って脚を伸べず、其の意を用ふることかやうに細心であった。又家士庶民を愛撫すること子を見るが如くす、故に士民其の恩に感じて柔順職を奉じ闔藩泰平の治に浴した。其の病篤き時子女家臣に遺言して曰く、我祖常善よく信光君に仕へて以来九世に及べるが、家族廣しと雖も一人の異志あるものなし、中にも我が一派最も家門を高うするは殊恩を蒙る大なりと云ふべし、我常に君恩に報ぜんことを忘るゝことなし、汝等亦我が意を継ぎて忠義を励まば、我れ笑って泉下に赴かん、死生命あり何をか憂へんやと、公はまた曰へるに、何ぞ婦人の手に死せんやと、乃ち内子侍女を座に就かしめず。又曰く、我れ逝くの後葬送には平生の儀の如くにして、僧侶をして混ぜしむる勿れと、言畢つて遂に歿した。


  二 明暦の大火と江戸藩邸

 公の在世中即ち明暦三年(紀元二三一七)江戸大火起りて殆んど全市烏有に帰したが、江戸の藩邸も亦類焼の炎に罹りしが、其の藩邸築造用材切り出しに就きて面白き記録がある。「江戸御屋鋪も御類焼御普請御入用に付き、伊岐佐瀧上の作礼(サライ)山にて山中一番の鬼櫟(クヌギ)といふ大木を伐り、御門の冠木に相成る、長五間にて三尺四面の角、山所瀧下岩の間千人にて引き通す、其の節酒二斗樽二十挺、人足の者共へ勝手次第に給り候様にと被下候、御家老杉浦平太夫殿差図にて、伊岐佐村名頭喜左衛門と申者、釆を振り木遣りをなし舟場まで運び出し申候云々」、かやうにして建築用材なども、遙に藩地より輸送せられたのである。


  三 諸 掟

一、山林伐採のこと、百姓の住居に隣接せる山林は、加賀守時代より入用次第其の伐採自由たるべき許可があった。後に土井侯時代よりは奉行所へ願出でゝ、採伐許可書を得ざるべからざることゝなった。

一、各郷村よりの年貢中、縄・茅・薪・苧麻等の上納額は正確の規定なかりしが、當時代より石高に就きで歩率を定められ。又御馬飼料、人足扶持、日雇銀等の定めもあつた。

一、百姓所有の山林立木の調査臺帳を備へ附け、御用次第差し上ぐべきこと。

一、人夫米として各村収穫の一分五厘上納の事、こは藩士の所用のため度々百姓を使役し、百姓の不便甚しきを以て、御雇料米として差し出すべき旨百姓より願ひ出でたれば、爾後は収穫一分五厘の率にて上納すべき旨達せらる。丁度往古の庸の制度のやうである、この法規は他国にも存してゐた。

一、名頭の事、志州公は領内巡検の際に百姓一般に訓示せんとする時は、村中残らず召集して旨を達せし故、村民一般に之を不便とせしが、此時に至り爾後村々百姓中より相當の名望ある者を選みて、名頭なる役儀を設け百姓一般の代表となした、これより村々に名頭なるものが創まった。

城主入部に際し左の如き嘉例の端を開く。

一、大小庄屋引見の事、同時に各村各組より鳥目壹貫文づゝ献上のこと。

一、「焼物師は御茶碗献上のこと。

一、鑓柄師は御鑓の柄を献上すべきこと。



 四 公の墳墓と碑銘

  ○墳 墓
 公の墓所は鬼塚村字和多田の田畝の間に、周囲四五町程もあらん位の一小丘がある、頂上に老松矗々たる下に百数十坪の塋庭がある、其の中央に東面して、本源院殿前加州大守日禅大居士の碑石が鎮座す。これなん公の墳墓である、遺骨は京師に埋葬すれば、この地には遺品などを葬むらしものと思はる。石材は怡土郡片山より採取せしものにて、碑身高一丈一尺六寸、前幅四尺側幅三尺四寸五分、石笠は碑身と一体にして、厚一尺計りにて左右に半圓形を画きて両翼を垂る臺礎は三階に分れ、上者は高一尺九寸、前幅七尺五寸側幅五尺七寸、前面には霊亀他の三両には波紋を刻す。次者は高一尺一寸、前幅一丈六寸五分側幅八尺七寸にして二石を畳む。下者は数多の石を以て築き高一尺五寸、前幅一丈七尺側幅一丈五尺を有す。其の大は寺澤志摩守の碑に次ぐも、石質及び製作の美なるは歴代の碑石中の最佳なるものである。

   ○碑 名
 肥前国唐津城主中大夫大久保君碑銘
                        弘文院学士  恕 撰

 大夫姓藤原、氏大久保、諱忠職。其先出自粟田口関白右大臣道兼公、公曾孫宗圓赴下野国、為字 都宮座主。其子宗鋼始列士林、宗綱子朝綱仕右大将源頼朝、有勲労為一州之豪、累世聯綿而揚 家声。其後葉泰藤従左中将源義貞建武之役戦功不少、遂従難于北越不貳其志、義貞有事、義 助狼狽之後、泰藤蟄参河州、称宇津野氏住州之岡崎邊和田。玄孫常善幼名辰若、始拜謁松平信 光君、自是世々、歴仕親忠君・長親君・信忠君・清康君・廣忠君、常善曾孫忠俊始號犬久保氏。天文六 年廣忠君僅二歳寓居勢州、忠俊與其弟忠員及同志者四人、運籌奉迎之入岡崎城其翼戴之功為大矣、其後久奉仕東照大神宮*(尸婁)嘗難虞、攻守之勤不可枚挙其忠志之厚為国士無雙、其事顛末人々口銘、年老致仕改名常源、其族類瀰蔓皆以常源為宗依頼之。忠員亦在弘治永禄間戦功許多。其子忠世號七郎右衛門自天文至天正大小百戦、或任一隊師先登破強敵、或守要害之城以鎮一方、凡平参州併遠州拘駿河長篠之役鏖武田壮鋭、攻略甲信二州、至長久手之戦、皆無不有抜群之功、及神君領関東八州、賜相州小田原城、食禄三萬石、累世勤労之験於是顯矣。、忠世多男、其長曰忠隣、永禄五年冬、神君討一向宗邪徒駐御駕于和田、大久保群族奉迎接之、時忠隣十歳在其列、神君一顧日比兒有非常之相、可養之以令近侍、刀携之帰于岡崎城、十一年遠州二股之役、忠隣入城、獲首級、時年十六、十二年従而攻今川氏眞于遠州懸川城、叔父忠佐以矛刺敵顧忠隣曰、孺子取首、忠隣曰我何仮人之力哉、自馳別獲首級、同年天方之戦亦獲敵首、元亀元年江州姉川之役、忠隣自麾下與其同僚十二人突出進加于前鋒。各獲首級遂破朝倉軍、三年遠州三方原之役我軍不利、忠隣徒跣不離御馬傍、及獲敵馬乗之奉衛護之、天正三年諏訪原之行、途中遇敵交矛斬之、十二年長久手之役、神君率麾下親候敵軍、令曰不可妄進、然忠隣突衝入陣接戦、被疵堕馬而僅幸免焉、忠隣匪啻勇敢。兼備智量故、神君挙之、奉行参遠駿甲信五州内外諸事、於是忠世出鎮万面、忠隣入総枢機、父子威望赫然、十六年従而入洛、叙従五位下號治部大輔、後改相模守、及神君治関左、忠隣別賜封邑、忠世歿後忠隣嗣領小田原城、食禄総六萬三千石、文禄二年神君使忠隣為臺徳公之老傳、當秀吉秀次相鬩之時、神君在東、臺徳公在洛、秀次欲、招公於聚楽城以為其助、忠隣見其機、而請公早到伏見侍秀吉、其身留在洛。既而秀次使者至、忠隣應曰、我公既赴伏見、未幾秀次敗矣、慶長三年秋秀吉病篤、神君及公倶在洛、少焉秀吉薨、忠隣不請神君命、密使公乗巳輿馬速東行、無人知焉、時謳歌多端岌岌乎、然以公既東帰之故国家根本堅固、神君甚感忠隣善謀也、其余輔翼労猶多、五年公征奥州班師討信州、忠隣監軍事、既而神君克于関原夷凶賊天下一統、定臺徳公為嗣君、忠隣輔佐之験於是顕矣、十年神君譲天下于臺徳公、公入洛任征夷大将軍、参内拜賀、鹵簿威儀厳粛、忠隣駿馬為殿後、自是神君以駿城為菟裘、公在江戸城統御闔国、忠隣為元老、廷臣侯伯以下至郡主邑長、無不受其指麾。忠隣多男、長子忠常少於臺徳公一歳、夙夜勤侍、及成童元服於御前賜御諱字、先是天正十八年小田原之役、公初出軍忠常奉従之、慶長五年奥州信州之行、忠隣侍麾下、忠常代之率其隊先駆、此冬従而入洛、叙従五位下號加賀守、十年臺徳公有将軍宣下、拜賀之時忠常勤御焉之事、此非近臣則不能為之、故擇其人也、忠常度量豁達、且有殊遇之恩、有威勲之庇、故諸侯亦結交際、麾下之士皆具憺焉、別賜食邑二萬石、十六年忠常不幸不禄、時年三十二、聞訃者無親疏無不哀惜焉。十九年忠隣有故蒙譴責蟄居江州、然不含憤不懐怨、不屈於人、閑散無為、

   寛永五年卒干謫所年七十六。

 大夫者忠常長子、母奥半信昌女、乃是大神宮外孫也、慶長十六年奉拜大神宮・臺徳公、時僅八歳、嗣父封邑領二萬石、及忠隣左遷雖不許登営、在城下而封邑如故、寛永二年蒙恩赦、謁臺徳公奉拜大猷公、三年十二月叙従五位下號加賀守、九年正月賜濃州加納城、倍増其禄食五萬石、十一年大猷公入洛、大夫奉迎于州立州股献駄餉、而扈従候京師、十六年改加納城賜播州明石城、又増封領七萬石、慶安二年改明石移肥前之州唐津城、又加禄秩総八萬三千石、唐津是名護屋近邑也、豊臣博陸曾曾諸将于名護屋、出大軍於朝鮮、其後移造域廓唐津也、今應精選守斯要地、可謂不辱其祖先負荷家風也、爾来或居封戒邊防、或至江府勤宿衛、往還各隔歳不違期、恩眷悃篤、寛文七年十二月在東、今大君幕下擇其耆老勤厚進階叙従四位下、明年臨西帰賞其累世忠勲、補西海九州鎮護職、備外国不虞之変、俗所称探題職是也、蓋治不忘乱安不忘危之謂乎、九年起居不快、然當参府期、輿病不辞海陸之遠、発途於府彌篤薬餌不験、藹末少間強登営拜臺顔遂其志、然不能復本而十年四月十九日、易簀至城西麻布第、享年六十七、葬於第南立行寺、蔵遺骨於京師本禅寺、因奕世之舊縁也、建塔號本源院日禅大居士、大夫資禀敦厚行実不好華飾、其動静進退之際、不暫忘奉上之敬雖在避方不向東伸脚、懐家士如体、愛庶民如子、故其一家能齊而従其令、其毎所治皆戴恩恵、其病篤時遺言令嗣令孫及家老等曰、先祖常善仕信光君以来至我九世、家族雖廣無一人肯懐異志者、就中我一派専高其門、非莫大之殊恩哉、我雖不肖守忠報恩之志無忘于心、今齢近七秋則生涯無遺恨、汝輩謹聴我言存忠義、使我開笑于泉下、所念是巳、死生有命何憂何懼。仄聞大夫不死婦人之手、乃使内子及侍女避退、又曰我属紘之後其葬送如平生之儀、勿令僧侶混之言畢而遂歿男子之手、可謂得正而斃臨大変不易其介者也。令嗣朝散大夫忠朝久近待幕下、少而任一隊士頭、声價既著、至此襲封唐津城、終喪拜礼累月賜官暇赴西鎮、辛亥之春、寄書於弘文院学士林叟曰、我家世譜事業卿所素知也、先考忠職守唐津城二十二年、委身於遠境、外則務職分、内則保忠赤、欲建一碑於茲以垂其名於不朽、卿作其詞銘則為幸。叟先父面視忠隣之執事、知忠常之大度、忠職不遣其舊而通信不絶、延及叟身、且朝散亦自幼識叟有由、則今何沮其懇請哉、然大勲之事容易難記、諾而不果、居諸推移促之不措、至于再至三、於是謹考譜牒録其殊功、略其繁挙其要如右、若夫詳語其戦攻之夥、則南山之竹、*(炎+リットウ)渓之藤不能盡之、今唯専記忠職事、於祖先叙其萬一而已、凡為人臣総国政居六鎮、自非備智勇兼寛猛、則不能當焉、所謂出将入相之美談而今古希有者也、今於此一家見之不亦偉也、鳴呼祖先手干戈衽金革、其労豈易言哉、子孫得大禄介景福、其栄有余也、開国之烈如彼、恩賜之饒如此、先大夫遺言良有以也、朝散守而不忽、則庶幾彌浴太平之化、永見家運之久也、係之以銘、銘曰、

 悠々曩祖 握弓東方、就務北越、避難参陽、和田之邑、果葉之卿、歴仕英主、世抽忠良、甲兵守壘、干戈啓行、如虎之猛、如龍之驤、執志惟一、積労無彊、揆乱反正、成功得祥、絳灌可比、賁育難當、任准房杜、恩r金張、維此大夫、遙鎮西洋、九州之要、萬夫之防、節鉞在手、鐵石為腸、奉職不懈、追遠無忘、孝子継述、以久以易、

  寛文十二年壬子四月十九日     孝子唐津城主従五位下出羽守大久保忠朝立

    ○碑陰文
 夫立身揚名以傳家風高門戸、孝之大者也、肥州唐津城主大久保忠朝、以寛文十二年壬子、建先考忠職碑、以述其行実、附祖先勲績於其詞中、以顕其先烈、垂於不朽可謂孝之終也。延寶五年丁已之秋、宿衛江府、七月二十五日應召登営、徽音懇篤以列執政、且豪命改称加賀守以為父祖之號也、実是選挙之大任也、同年閏臘二十六日超階叙従四品、先是幹父之蠱、鎮西海一方之藩、監外国不虞之変、今又握闔国之權衡、為億兆之倚頼、則武林之声誉家門之栄耀、世々済其美、縄曾祖之武永余洪慶、介胎厥之福、鳴呼忠孝一也、君既克孝之終、則其忠赤之心不可不全也、然則身脩家齊而保其子孫黎民、而預聞国政有所遮幾乎。今茲戊午正月二十三日、以唐津遠隔江城改封下総佐倉城、彌々知恩眷脊之渥、於是請余記其趣於碑陰、述永不忘基迹之志也。
   延寶六年戊午四月十九日
                         弘文院学士林叟誌
 ○碑陰文
 日中則昃月満測虧、推之於天地而後萬物之理眼焉、五行変化四時推移、*(臣頁)之陰陽而後萬物之数覩焉、物数之間有理有数、始而始若環之無端也。
 執政相州小田原城主、従四位下侍従兼加賀守大久保忠朝、生於世勲之家、官禄兼備余慶傳家、寛文壬子之夏為祖先、立碑於肥前唐津、請我考作之辞、其後福履益加、延寶戊午之夏又請我考、迫書休徴於碑陰、庚申之春加賜食禄壹萬石、及秋任侍従、貞享丙寅之春改佐倉城移小田原城又増壹萬石、併舊領十萬三千石也。長子隠岐守忠増亦勤敷奏之事、別賜壹萬石、且管寺社之職務、丁卯之冬為麾下副執事也、顧夫自非祖先遣功勲之謀、則一門之美何以至於如此乎、拾遺奉先之孝不已不怠、追慕之情無息無絶、又請余記栄挙於碑陰、乃按其家系、則高祖七郎右衛門忠世、戦功無数勇名無倫、天正十八年庚寅辱遇恩選為小田原城主、曾孫相模守忠隣継父之封声誉盖世。慶長十九年甲寅有故触霆怒、避小田原城蟄居江州、一栄一悴皆生于寅歳、然家運未衰拾遺之父興復前烈、至拾遺彌高門楯、丙寅之歳又賜小田原城、時運之理自然之数可謂天人妙應者也、嘗聞徳踰於禄則不溢不顧、拾遺能謹其言能顧其行、事其上而竭忠致義、思其祖而立身揚名、則申福於一家、傳美於後昆、永久無彊也、豈不期之哉、豈不祝之哉。

  貞享五年戊辰四月十九日
                  弘丈院学士整宇林*(章*心トウ)誌



 公の墓域を管する壽因坊は其の北麓にありて僅かに名残を留むるばかりであるが、維新の頃までは左の如き扶持を有してゐた。今は東都大久保家より洒掃料として、毎歳些末なる金員を同坊に寄贈すると云ふことである。

  松浦郡山田村新田高貳拾石之所
  右者。為本源院殿石碑香華及洒掃、寄附耳壽因坊畢莫怠慢也。
   延寶元年丑十一月十九日
                             出羽守(花押)



  第二代 忠 朝

一、出 身
 加賀守藤原忠朝は右京亮教澄の第二子である。寛永十八年若君(後の四代家綱将軍)生誕ありしかば扈従に列せられ、慶安四年出羽守に任叙し、萬治三年冬扈従頭に転じ、寛文六年十二月始て采地三千石を賜はりしが、之より先既に*(广面示)米二千俵を給せられた。故加賀守忠職子なかりしかば、同十年春(紀元二三三〇)忠職の懇請によりて其の嗣子となり(三代将軍家光の晩年諸侯は予め血族を養ひて嗣子となすことを許した)。其の夏大久保家に入りて唐津八萬三千石を領し、延寶五年七月二十五日宿老の職に進み加賀守と改称した。同年閏十二月二十六日従四位下に叙せられしが、明くれば六年正月二十三日下総佐倉城に封を移され、松平和泉守乗久にかはりしが、藩鎮にあるや心を民治に用ひ、八年食禄壹萬石を加へられ、其の秋八月十八日侍従に任じ、貞享三年相州小田原に移り十萬三千石を食む。爾来大久保氏世々是に居る。元禄七年二月晦日五代将軍綱吉、忠朝が江戸の邸に成らせらる。蓋し一門の栄誉とするところである。この年二萬石加増の恩命に浴した。九年九月優待の仰を蒙りて月番を免せられ、十年十月十六日家を讓りて長子隠岐守忠増封を襲ぐ。忠朝病後の故を以て職を免じ木工頭と称し、髪を削りて木工入道と號した。正徳二年九月二十五日八十一歳の高齢を以て逝去す。大久保氏の任に唐津にあるは前後通じて二十九年間である。



  二 大久保氏の家臣大略
三千石   服部清兵衛    二千石  杉浦平太夫
千石    大久保彌右衛門  九百石  須田太郎兵衛
九百石   辻三郎兵衛    八百石  加藤孫太夫
八百石   山本十右衛門   八百石  近藤庄右衛門
七百五十石 孕石勘兵衛    六百五十石 大久保左兵衛
六百五十石 岩瀬長左衛門   六百五十石 大久保庄兵衛
五百石   吉野傳右衛門   四百七十石 富塚久太夫
四百七十石 渡邊武太夫    四百石  田中助太夫
四百石   片切宇右衛門   四百石  喜多太兵衛
四百石  山中杢太夫  旗奉行  石原善右衛門 相馬七左衛門
 其の他惣家中百石以上の知行者、合せて百八十余人を算す。


  四 近松門左衛門

   一 門左衛門と唐津

 我国文壇の大明星であって戯曲家の大斗たる、巣林子近松門左衛門は我唐津近松寺に多少の因由を有するものゝやうである。或は之を否定する学者も存するけれども、それとても明確なる証拠とすべきものを有するものでなく、僅かに一二史料に依りて推測するものと思はる。さりとて彼の近松なる一大文士が全然この地に信拠すべき歴史を有するものと断定し難しと雖も、多数の記録は彼が近松寺に因縁を有するものゝやうに云ってゐる。
 傳ふるところの一説に、同寺第四代遠室禅師が寺領の御朱印を徳川三代将軍に請願せんとて上府し、其の帰途、下ノ関の一旅舎に寄寓せる十歳ばかりなる幼き彼を見て、伴ひ帰りて寺房に置きたりと、』されど禅師が上府せしは同寺の記録に徴すれば慶安二年八月のことである。然るに巣林子が没したるは享保九年(紀元二三八四)にして壽七十二歳と云へば、其誕生は承應二年(紀元二三一三)に當りて、慶安は四年にして改元して承應と称すれば、禅師入府の後四年である。然るに彼がこの地に来りしは齢十歳頃なりといふ、禅師が在府期間は不明なれども、其の志望を遂げたる後十数年間帰山せざることはなかるべし。されば此の時彼を伴ひ帰山せしとも思はれざれば、其の後何等かの機會を以てこの山門に入りたるものであらう。後彼は二十数歳にして上洛せしと傳ふれば、恰も彼は大久保氏治藩の頃この地にありたるものである。今諸書に傳はれる彼に関する諸説を列挙しよう。



 「南水漫遊拾遺」
 浄瑠璃の作文歌舞伎狂言作者名人と世に聞えたる、近松門左衛門姓は杉森名は信盛平安堂巣林子と號す、越前の人(一説に三州ともいふ)、壮年にして肥前唐津近松禅寺に遊学し義門と改め、僧侶を数多門人となせしが、所詮一寺の主と成りては衆生化度の利益少しと大悟を開き雲水に出でしが内縁の舎弟に岡本一抱子といふ大儒の醫師京都にありけり、是に寄宿して還俗なし、堂上方へ勤仕の間有職を記憶し、其頃京師都萬太夫の歌舞伎芝居または浄瑠璃芝居宇治加賀椽、井上播磨椽・岡本文彌・山本角太夫などの、浄瑠璃狂言を著作せしが、貞享三年大阪竹本義太夫座より頼まれ、出世景清といふ新作を出されしが、竹本の戯文の書初にて、夫より生涯数百番の出作ありて英名海内に発し、看板または版本に作者の名を記す元祖とす。近松氏は元来衆生を化度せん為の信念より出作する戯文ゆへ、平常の草紙ものとは変り。俗談平話を鍛錬して愚痴闇昧の俗中の人情を貫き、神儒佛の奥義も残る所なく、著述する俗文は古今名人遖一流の文者ともいひつへし。俚俗いふ近松の浄瑠璃本を百冊読めば学ばずして三教の道を悟り、上一人より下萬民に至るまで人情に通じ、乾坤の間森羅萬象あらゆる事辨へざるといふ事なし、実に人中の龍なるべし、年耳順を過て享保九辰年十一月二十二日歿す、墳墓は八丁目寺町(大阪)法妙寺にありま々久々知廣済寺の過去帳にも法名あり。
   阿耨院穆矣日一具足居士     
 此の戒名は近松氏在世より設置たるとぞ、辞世二首詠草中にみゆ。
これ辞世去ほどに扨もそののちにのこるさくらか花し匂はば。
残るとはおもふもあろか埋火のけぬま仇なる朽木書して。
浪華金屋橋熊野屋某の家に、近松の墨跡二幅あり、一は美人の画賛一は辞世の詠草也。
楽天が意中の美人は夢のむつごと、僧正遍昭の詠中の恋は絵にかける女、とりかたにはたれかこれか作麼去物いはずわらはぬ代にりん気なく衣裳表具にものごのみせず。
                平安堂近松七十一歳狂讃


「仮名世説」
 代々甲冑の家に生れながら、武林を離れ、三槐九卿につかへ、咫尺し奉りて寸爵なく、市井に漂ひて商売しらず、隠に似て隠にあらず、賢に似て賢ならず、ものしりに似て何も知らず、世のまがひもの、からの大和のをしへあるみちみち、伎能・雑芸・滑稽の類まで、知らぬ事なげに口にまかせ、気にはしらせ、一生囀りくらし、今はの際にいふべき思ふべき、眞の一大事は一字半言もなき倒惑ごころに、心の耻ををほひて七十あまりの光陰、思へばをぽつかたき我経畢ぬ、もし辞世はとゝふ人あらば。
 それ辞世去ほとに扨もそのゝちに残る櫻か花し匂はば
 享保九年中冬上旬
  入寂名 阿耨院穆矣日一具足居士
   不俟終焉期予自記春秋七十二歳
 のこれとは思ふもをろかうづみ火のけぬまあだなる朽木がきして。
 先のとし、浪花にありて銅吹屋熊野屋にて、みし事ありしが、これと同文なりしや、近頃浪花の梅園主人のために、近松の碑文を書きし事ありしが、近松は長門萩の生れにて、兄は名誉の醫師なり。門左衛門近松寺と云ふに遊学して、其の寺の僧罪ありて、寺門の側にて刑せられしをみて、自らいましめの為に近松門左衛と称せしとぞ。ある時兄の醫師、近松がよしなき浄璃瑠本を作る事をいましめし時、そこには和語の薬名の書などをつくりて、一字一画の誤りあらば、人の生命にかゝる大事のことなり、我らが作る所は、狂言綺語にして、人の害にならずと云ひしかば、兄も其の理に服し、さあらば中直りのため、伴れて大和めぐりせんとて、つれだちて廻り、世に傳ふる寺子供の手本の龍田といふものを書きしと、盧橘菴の物語なり。近松の碑文には其の事はもらししなり。
 近松の法名、穆矣且具足居士とするものあり、其の法名あやまれり。攝津大阪谷町法妙寺中に平安堂の墓あり、おのれ墓碑の石摺にしたるを蔵す、それにも且を日一の二字につくれり。思ふに近松は法華宗なればさもあるべし、旦操年代記に十一月二十二日とするもあやまれり。
墓碑の裏かげて終に残る所に如此あり。

          辰年十一月廿一日


「京攝戯作者考」
 長州萩の産にして、同藩の臣杉森某の男なり、名は信盛俗称平馬といふ、平安堂・巣林子・不移山人等の数號あり、卯花園漫録には越前の人とす、恐らくは誤りならんか、少して肥前唐津近松寺に遊学し、後京師に登り、或堂上に仕へ奉りて、爵六位を賜ふ。(錦小路頼庸朝臣の五五記に、一條禅閤に仕ふるよし、又江戸柳島法性寺境内に建たる近松翁が事跡を記したる碑石にも、一條禅閤兼良公に仕ふるよしを記しあれども、兼良公は文明中薨去ありて近松より二百余年の昔なり、もしくは此公に仕へし人の子孫にやあらんいぶかし、尚柳島の碑文を先に出す、併せ考ふべし)、元禄の頃仕官を辞して退て浪人し、近松門左衛門と名乗り、歌舞伎芝居都萬太夫が座の狂言の作をなし、又宇治加賀椽・井上播磨椽等か為に浄瑠璃を作る、其の後元禄三年庚午正月、京都より浪花へ下り、竹本筑後椽が為に浄瑠璃を数多著述し、其の名を世上に轟かせり、元より和漢の書籍を学び、博学にしてしかもよく時世の人情を察し、下情を穿ちて数百番の浄瑠璃を作れり、中にも国姓爺合戦(此狂言大當りにて三年打つづけり名誉と云ふべし)、雪女五枚羽子板・曾我會稽山等最其の妙を得しとぞ。享保九年辰十一月二十一日(種員曰・西澤一風子が外題年鑑には、平安堂の物故同年同月二十二日とあり)、七十二歳にて身まかりぬ、大阪八丁目寺町法妙寺に葬る、辞世の文左に誌す(戒號は世に有し時設置したる也といふ)。

江戸本庄柳島妙見菩薩境内所在石碑如左

 日本浄瑠璃歌舞伎稽戯作中祖


  近松門左衛門藤原信盛文碑
曾祖近松門左衛門信盛、長州藩之藩臣杉森某男也、後登京師、奉仕一條禅閣兼良公、賜筍立位、因老病致仕、而遊攝之浪華、享保九年甲辰十一月二十一日、七十有二歳而寂、則葬於攝津久々智山廣済寺、法號阿耨院穆矣日一具足居士、當百回之遠諱、収所遺草稿、而於北辰尊前納千石下、以樹文碑、且臨終辞世之狂歌一首、勒于石面者也
  文政十一戊子年十一月
                  曾 孫
       洛東山 近松春翠軒繊月
                戯名心庵蝶々子誌
                自足堂信尚書
 碑陰文

    辞 世
 それ辞世さる程に偖も其後にのこる櫻のはなにしにほはは
                 八十八翁儉
                   大阪 近松千葉軒
                   京都 同門蝶
                   江戸 同門三

「戯財録」
  近松門左衛門平安堂と號す。肥前唐津近松禅寺小僧古澗、碩学に依で住僧と成、義門と改む、僧侶を数多門人となせしが、所詮一寺の住持となりては、衆生化度の利益少しと大悟して雲水に出でしが、肉縁の弟岡本一抱子と云大儒の醫師京都にあれば、是に寄宿して堂上方へも還俗して勤仕の間、有職も大体記憶し、其の頃京師浄瑠璃芝居宇治加賀椽・井上播磨椽・岡本文彌・山本角太夫などの浄瑠璃狂言を述作せしが、貞享三年大阪竹本義太夫座に頼まれ、出世景清といふ新物を書しより、竹本の書始めにて、生涯数百番の新物を書作して、日本に名を発る、是より、看板または坂本に作者の名を記す元祖となりぬ。元来近松は衆生化度せん為の奥念より書作するゆゑ、是迄の草子物とは異なり、俗談平話を鍛錬して、愚痴蒙昧の者どもに人情を貫き、神儒佛の奥義も残る所なくあらはし、俗文は古今の名人、遖古今一派の文者といふもさらなり、近松の浄瑠璃本を百冊読む時は、習はずして三教の道に悟を開き、上一人より下萬民に至るまで、人情をつらぬき、乾坤の間にあらゆる事、森羅萬象辨へざる事なし、実に人中の龍ともいふべきものか、時に享保九年十一月廿二日卒す。(久々智妙見廣済寺に過去帳あり) 
  法名 阿耨陀穆矣日一具足居士
  辞世 それ辞世去ほどにさてもその後に残る櫻の花し匂はば

「藤井文学士の近代文学叢書近松門左衛門なる冊子中に」  翁姓は杉森、名は信盛、通称平馬、平安堂・巣林子・不移山人と號す、長州萩の人其の父祖を詳にせず、兄は相国寺の宗長老、弟は岡本一抱子といへる儒醫にて京師に住す、妹は錦江といひ俳諧に長じ大阪に住す。
 南水漫遊には椙森とす、後に杉に改めしならん。生国に関しては異説多し、「増補和漢書画一覧」に雲州近松村とす、これ畢竟村名に仮托せしものにて根據ある説に非ず。「竹豊故事」には単に京師の産とのみしるせり。「卯花園漫録」「嬉遊笑覧」等に越前の産とし、「橘菴漫筆」に北越の産とせるは、共に弟一抱子の養家が藤井侯の醫なりしより起れる臆測とおぼし。「戯財録」の一説に三州の人といへるは、浄瑠璃姫の故郷をや思ひ寄せけん。「浮瑠璃譜」には出生は近江国高観音近松寺御坊にて出家を嫌ひ、京師に暮し居られしとあり。塚越芳太郎氏の「近松門左衛門」に一説として周防山口の人とするも、実査の結果非なり。
 萩の舊臣に椙杜氏を称するものあり、其の傳ふる所に據れば、翁は妾腹の出にして、大津郡探川村の下屋数に生れ、父を椙杜主殿助三善廣品といふ。兄弟の事は「攝津名所図絵」の記する所に據れるが、兄宗長老妹錦江につきては、全く事蹟の徴すべきものなし。弟一抱子は出でゝ舅家を嗣ぐ、父受慶福井侯に仕へ法眼に叙す、一抱移りて京師に居り、味岡三泊に従ひ素難を講ず。
 少くして肥前唐津近松禅寺に入りて僧と在りしが、久しからずして寺を辞し、京師に上りて弟一抱子の家に寓し、還俗して一條家に仕へ、ほゞ有職故実に通ず。いくばくもなく仕官を退て近松門左衛門と名乗り、歌舞伎狂言及び浄瑠璃の作をなす。近松寺の碑銘には法名を祖門とせり、其の文に日く。

 仰海祖門上座者長門深川人也、従當山第四世遠室禅師而受業得度学識共卓絶、後遊京師、変姓名称近松門左衛門以著作浄瑠璃為業、享保九甲辰年十一月二十二日卒於浪華以遺言帰葬於當寺墓地。
  享保十乙已年六月二日
          當山六世現住鏡堂識之

 巣林子は二十歳前後既に京師にありたりとおぼしければ、一寺の住職となり、また大悟還俗説の如き如何にや。

 「嬉遊笑覧」は門左衛門が近松を名乗ること、三井の近松院にはあらざるか、其の故は「本朝文鑑追辞」の註に、昔説経者といひて、蝉丸の流む汲て三井の近松院に本寺とす、今の佐々羅といふものならむとあり。「仮名世説」の一説に、彼を三井寺門前近松寺破戒僧の一人なりといへるは、併せ考ふるに、彼が佛門生活は唐津の近松寺にあらずして京師に近き近江の近松寺なるべきか、江州出生説あるも旁々因縁なきにしもあらず。享保九年十一月廿一日大阪に歿す。行年七十二、墓は谷町寺町法妙寺と川邊郡久々智村廣済寺との両処にあり、法號は生前自命せしものなりといふ。両寺とも墓石は同質同形にて、さゝやかなる自然石に「阿耨院穆矣日一具足居士」「一珠院妙中日事信女」と夫妻の戒名を二行に刻み・裏面に享保九年九月 一日とす。法妙寺にも過去帳あるも、法號歿年等一切符合せずと。廣済寺は近松の檀那寺にして日昌和尚とも親善なり、同寺の寶物に、大納言実藤卿等の法華経二十八品和歌の巻物二巻あり、其の奥書に。

   和尚法華廿八品和歌一巻
 二位大納言実藤卿墨痕

 右
 奉納久々智山廣済寺
           近松門左衛門
と記せり。
 なほ寶物のうちに「釈尊涅槃之図」ありて、「近松門左衛門男杉森多門梅信筆、享保十二年丁未二月十五日」と落款せりと。
 其の他廣済寺には、「百講中列名」に、御縁十部の施主として近松の名を記せり。又同寺の過去帳に「享保元年申年九月九日智法院貞松日喜、本願人近松門左衛門母」とせるものなどあり。
 要するに巣林子の傳説は暗冥なり、群疑の府なり。今日知る能はざるのみならず今後も亦長く知るを得ざらん、父母を知らず、生地を知らず、出家の説も疑ふべく、埋骨の地も決し難しと。

「大正九年五月十六日大阪朝日新聞記事中に、大阪法妙寺に於ける新発見と題する、木谷蓬吟の文があつた、之を録して見れば」


   日本に三箇所の墓

 近松門左衛門の墓と称するものが日本に三箇所ある、肥前唐津の近松寺と、攝津久々智の廣済寺と大阪谷町寺町の法妙寺とである。中にも唐津近松寺のは、まことに根據のないもの信ずるに至らぬと云ふ定説になってゐるから、残るは久々智廣済寺と大阪の法妙寺とである。ところが此両寺にある翁の墓なるものは、青の自然石で殆んど同じ形同じ大きさで、碑面にも同じ字体で「阿耨院穆矣日一具足居士」「一珠院妙中日事信女」の二つの法名が二列に刻まれてある。この相似た墓石が奇妙にも両寺に存在してゐることが、従来近松研究者の疑問の的となり、それに就いて種々の観察や評論が試みられてゐね。併し私は寧ろそんな事よりも、近松夫妻連名の法名が碑面に刻まれてあることに疑ひを抱いてゐた。処が今回法妙寺に於ける発見の新事実に由って、図らずも此等の疑問が氷解された。此相似た両寺の墓に就ては、廣済寺の方が元の墓石で、法妙寺のは其模型だと云ふ説が普通になつてゐる。それは近松姓を名乗る近松崇拝の戯作者や、他の芸人等には廣済寺参詣が遠路で不便なので、近い大阪の町に其模型を建てたのだと云ひ、或は三代目中村歌右街門(梅玉)が、年老いて参詣に都合が悪いため同形のものを法妙寺に建立したのだとも傳へられてゐるが、歌右衛門の晩年と云へば文正天促の頃(天保九年歿)であるから、是れより二十余年も先き、寛政年間太田南畝の「仮名世説」には既に「大阪谷町法妙寺に、近松の墓あるも云々」と記されてゐるから、以上の説も當にはならない。又弘化四年二月、翁の曾孫と称する近松門三郎(春の家繊月)が翁の百五十回忌を営み、廣済寺と法妙寺にて佛事を行ひ両寺の墓を修復したとも云ふ事実があり、其時此両寺に現存の墓が建てられたのだと云ふ説もあるが、私の考へでは此時は文字通りの修繕に止まって、少くも法妙寺現存の墓石(裏面上部の欠けた)は、既に寛政當時に存在したものであらうと思はれる。


  廣済寺と近松との関係

 久々智廣済寺と近松との深い関係は今更言ふまでもないが、単簡に其切っても切れぬ繋がりを云つて見ると。同寺の住職日昌上人(正徳享保頃の人)は、翁が其隠居所を書室として居たと云はれる大阪寺島(今の松島)の船問屋、尼ケ崎屋吉右衛門の男に當る関係から、日昌上人と翁とは親交があったこと又、廣済寺の本堂を一個人で建立した大信者山本治重の子は、近松浄瑠璃本の出版元正本屋山本九右衛門であったから、自然當寺を挿んで翁と正本屋との関係が推知されること。同等開山講中列名にも近松門左衛門、正本屋九右衛門の名が見え、外に近松から母追福の為めにと寄附した。二位大納言実藤卿の筆慈鎮和尚法華経二十八品、和歌二巻も現存してゐることなど。日常翁が廣済寺に来住したのは事実であって竹本筑後椽(政太夫)や播磨小椽(政太夫)等と相携へて参詣した事もあらうと想はれる。船問屋の富豪の息子から佛門に入りたといふ日昌上人の中心にして、文豪巣林子や浄曲道の偉才義太夫、政太夫や出版界の才人正本屋九右衛門などが新興芸術に就て縦横論議を闘はした當年の廣済寺は、さながら名優の舞臺を観るやうである。
 谷町の法妙寺の方は単に翁の墓石があると計りで、寺には何の資料記銘も存してゐなかつたため全く世間から閑却されてゐた。そこでこの方は、水谷不倒氏の説(近松傑作全集序論)のやうに「碑面に鐫れる文字は凡て廣済寺に存する所の過去帳によりて刻めるものなるべし」といはれ、全く廣済寺の模擬に過ぎないとまで論ぜられ、廣済寺は「杉森氏の菩提所として比較的信を置くに足るべきものあり」とあって、世間も斯く信じてゐた。


 妙法寺に於ける新発見

 私は前にも云ふた通り、両寺の墓共に翁と其妻女とを連記したことが普通事でないと思うてゐた。そして又仮りに法妙寺のを廣済寺の模形と見、且つ近松信仰者参詣の便宜上建てられたとしても、それを何故法妙寺に限定したか(他にモツと参詣に便利な寺、天王寺一心寺などもある)、といふことも疑問の一つになってゐた。然るに今度法妙寺に於ける一発見から、同寺と翁との関係に動かす可からざる証拠が上ったと同時に、その墓石に夫妻連記の理由や、特に法妙寺に限つての墓碑建立の理由が明白になった。私は曩に廣済寺で翁の妻女「一珠院妙中日事信女」の系図に就て調べたが要領を得なかった。
 去年の暮、大阪谷町寺町法妙寺に近松翁に関する古記録、竝に末孫近松鶴太郎氏なる壇家の現存することを報ぜられたが、其古記録なるものを拝見すると、それは古い過去帳であった。元来この寺の先代住職時代には、翁の墓に関する調査も一向に冷淡で捨てあったのを、現時の住職高見智静師が熱心に、古葛籠の底を覆へして古記録整理に着手せられ、浄曲研究家藤井呂光氏が協力対査の結果、近松翁の妻女−松屋太右衛門の母−の系統が連続登記されてゐる事を見出した。即ち此寺は、翁の妻女の出身である松屋一統の菩提寺であることが確実に発見されたのである。左に過去帳から松屋一家(翁の外戚)の記載を抜記して見る。

 玉清院浄心日愛信士(寶永五年三月六日)門左衛門内方父▲妙吟(正徳二年六月四日)松屋太兵妻▲良仙(享保十一年四月十二日)松屋太兵▲顕本妙退(享保十八年七月二十四日)松屋多右衛門妻▲了善日埋信士(享保十六年三月十六日)松屋仁兵衛父▲妙耀童女(享保十八年八月五日)松屋太右衛門娘▲〇一珠院妙中日事信女(享保十九年二月十九日)松屋太右衛門母▲道秀(元文五年十二月十一日)松屋治良兵衛▲妙憐(寛保三年二月二十日)松尾治良兵衛母▲妙室信女(延享二年十一月二十三日)松屋治良兵衛妻▲夢幻(延享三年一月二十一日)松屋太右衛門子▲通閑(寛延三年九月十二日)松屋太兵衛▲智秀(寶暦六年八月二十一日)▲信解院妙敬日典信女(寶暦八年五月六日)杉森由泉妻▲妙幸信女(寶暦十年六月十七日)松屋喜兵衛妻▲○信敬院由泉日亮信士(寶暦十一年八月二十八日)杉森由泉事京屋庄七、

 右のうち「信教院由泉日亮信士」杉森由泉とあるは、正しく翁の本姓(杉森信盛)の杉森氏を冐したるもので、想ふに翁が最も親近の一人ではあるまいか。そして最近に発見された同寺無縁墓中の一碑には松屋太右衛門妻、杉森由泉、同妻女松屋太右衛門娘及び松屋太右衛門らしい人の法名が、竝んで刻まれてあるを見ても、杉森由泉と松屋との繋縁を知ることが出来る。又杉森由泉の過去帳記載に「杉森由泉事京屋庄七」とあるは考証の結果、多分杉森由泉事京屋庄七の父」の誤記らしい、そして此京屋庄七こそは現存の近松翁墓石の臺石に刻まれた「施主正七」であるまいか(正七と庄七、太右衛門と多右衛は恐らく同人であらう)。若し仮りに然りと推定すると、法妙寺に於ける翁の基は、翁の本姓杉森を名乗れる杉森由泉の子(又は一族)京屋正七の建立であると云ひ得る。尚は詳しく言添へると正七は京屋を名乗るも松屋一家の出である事は、前記発見の無縁墓碑面、法名併記の関係に見ても明かである。
 これを要するに、法妙寺は由来近松翁の妻女一家の菩提寺であることは、最早疑ひもない事実で、この墓の建立者は妻女側の系統松屋一家である京屋正七かとも想像されるのである。兎に角翁の歿後、妻女側の松屋一家の何人かに由って建てられたことは推定に難くない。斯う説き進んで来ると、翁の碑面の妻女の法名を併記した所以(後に妻女側の一家から建てた一証)も、特に法妙寺に建立した理由(妻女側の菩提寺である一証)も、容易に了解することが出来る。廣済寺は翁が最も因縁深い寺、法妙寺は妻女側の最も因縁深い寺といふことになる。それでは翁が安住の埋骨地は孰れかといふと、これは容易に断定する事は六つかしい、併し現存の墓は、以上述べる所から観ると、廣済寺側に反証の挙らない以上、法妙寺のを先とし廣済寺のを後とするのが妥當ではあるまいか、妻女の法名を併記した点から観ても、法妙寺の臺石に施主正七と刻まれた点から観ても。



  二 諸説の批判

 余之を接ずるに、巣林子が少時唐津近松寺に関係なきが如くするは、「仮名世説」の一説に、三井寺門前の近松寺の破戒僧の一人なりと云へるもののみである。「嬉遊笑覧」には三井の近松院が声曲に関せし点より疑問を存してゐる。其の他の記録には或は出処一にして全く同一文字を羅列するものなきに非ざれども、子が唐津近松寺に関係あることを否定するものはない、多数説必ずしも是なりと首肯すべからざれども、有力なる否定の據証を有せざる限りは、多数の説に従ふは無理ならざる道理である。然れども當地近松寺の墓所は子の遺骸を*(ヤマイダレに?うずめる)むるものなるか疑なき能はず、久々知廣済寺は子の帰依寺にして縁故浅からず、有力なる過去帳及其他に信拠すべき史料の存するは、文学叢書中に云へるが如くである。また朝日新聞記事によれば大阪法妙寺なるかの如き観あれど、同寺は唯子の妻女一族の縁故探しと云ふにあり、さりとて同寺に埋葬したりとも判断し難い。要は唐津近松寺に埋葬すると云ふは最も疑はしき事である。當唐津近松寺の子の墓碑の隠し銘中に、遺言を以て當寺に帰葬するといへるは疑問の一であって子や少時唐津に多少の因縁を有すとも、元これ唐津は子の故郷に非ず、また子が活動の生涯五十年間は京阪の地にあり、安ぞ其の帰依寺を捨てゝ遠く西陲の地に帰葬するを望まんや、且つ其の歿年月日のうち廣済寺のものは享保九年十一月二十一日とし、唐津近松寺の碑銘は同廿二日となす、確に翌十年に帰葬せしものならんにはかゝる忌日に疎漏を来すこともなかるべし、猶また其の帰葬するが如くんば、予て子が活動中に於ける動静につき何等かの音信其の他に関する消息手蹟存せざるべからず。されば當唐津近松寺は大文豪巣林子が少時の因縁を有する点より碑を立て其の分霊を祭祀せしものであらう。現に當藩主寺澤堅高・大久保忠職・水野忠光諸公の如き、當地に分霊崇祀して其の徳を後昆に遺して居る。巣林子の如きも其の類例の一なるべし。よし唐津近松寺の墓碑下に彼の大文豪の肌骨を*(ヤマイダレ*えい・うずめる)めずと雖も、其の偉霊は永久に鎮座するものであれば、其の碑の意義も萬世の後に失することはない。
 詮ずるに巣林子の生地は長州萩にして、少時唐津近松寺に居り、壮年にして京阪の地に遊び、彼戯曲を大成して雷名を竹帛に轟し高齢を以て攝州に歿し其の地底に永眠するものと思はゞ誤り少かるべきか。



 五、松平氏 (延寶六年二三三八 元禄四年二三五一)

 第一代 乗久

 延寶六年大久保忠朝総州佐倉城に転じ、佐倉城主松平乗久唐津城主に補せらるゝや、幕府は細井金五郎、新庄與惣右衛門を遣りて命を傳ふ。七月十日午前十時和泉守乗久着到ありて當城の授受を終へ、両使も無事唐津を発足した。この時和泉守の家中一統は大手門より堂々と入城し、加賀守忠朝の家臣は西ノ門より名残惜げに三十年来の古棲を後にしつゝ、粛然として打ち立ち出でた。
 乗久の先は徳川氏に出づ、将軍家康五代の祖源蔵人親忠の長子加賀守乗元、始めて参州萩生(また給生とす)の地に住しければ、世の人萩生の松平といった。乗元の曾孫和泉守と称す。親乗の曾孫に乗壽なるものあり、大阪冬・夏両陣に従ひ奮戦して首五十三級を獲て献る、寛永十五年濱松城に移封して三萬五千石を食む、天正十九年従四位下に叙し、正保二年上野国館林の城に移り六萬石を領した、承應三年正月病みて歿す。
 嫡子宮内少輔乗久家を継ぎて和泉守と称し、五千石は弟乗政に分ち、自ら五萬五千石を領せしが、寛文元年閏八月三日下総佐倉城に移り六萬石を治し、延寶六年唐津に移るや、怡士郡壹萬石は此の時幕府の公料に帰し、堂元村足軽二十人も佐倉の大久保氏に赴く、されば當代は七萬三千石に減ずるに至り、その内三千石は次男源蔵好乗に分知せしめ、幕府への奉公民治のことにも怠りなかりしが、入国より九年目の貞享三年七月十七日卒去し、法名を源正院前泉洲刺史太誉英徳大居士といふ



 第二代 乗春

 同年九月嫡子主水乗春江戸にあらしが、家封を襲ぎて和泉守と改称す。同四年和泉守乗春入国せしが、五月二十四日濱崎村にて暫時休息して、古格に習ひて領分の大小庄屋を引見し、同夜は鏡村に一泊して翌二十五日威儀を正して入城を終へた。越えて六月十九日大小庄屋を城中に引接して、民治上の奨諭をなす。この時また古例に従ひて各村より鳥目壹貫文づゝの献上をなし、平山村鑓の柄師、推ノ峰焼物師も右同様の献品をなせり。治藩の任に就きしより僅に四年にして、元禄三年九月(また五月とす)長逝す、法名を愛光院殿前泉州快誉廓白撒心大居士と云ふ。


  第三代 乗邑

 嫡子源次郎乗邑封を襲ぎたるも、終に當城には入部のことなくして、同四年二月志摩国鳥羽城に移封の命に接し、寶暦七年伊勢国亀山に、享保二年山城国淀に、同八年下総佐倉に再び転封し、同十五年老中職として功あり、一萬石の加賜を受けしが、延享二年即ち九代将軍家重の時、収賄のことありたりとの讒言に遭ひ、職を免ぜられ一萬石を削らる。後出羽山形に移り六萬石を食む。公は人となり器局宏量よく衆を容る、故に将軍家の寵任厚かつた。嘗て年十五歳の時柳営に浅野長矩吉良義央の刃傷のことありし時、乗邑も亦営中にありしが、事起るに及て諸侯紛擾して席を去りしが、乗邑一人座を離れず衆を制して曰く、諸君何をか為す、譜代諸侯の出仕は斯る非常の時に備ふるのである、速に席に就て其の筋の命を待つべしと泰然自若たるものがあった。以て其の器度を知るに足らん。乗邑また和歌を善くす。明和元年其の子乗祐参河西尾に移り、子孫相継ぎて明治に及び子爵を授けらる。



 六 土井氏(元禄四年二三五一  寶暦十二年二四二二)


 第一代 利益

 松平氏志州鳥羽に行き、鳥羽城主土井氏之に更りて當藩治に臨む。土井周防守源利益は遠江守利隆の二男にして、大炊頭利重が弟である。寛文二年冬徒五位下周防守に任じた。然るに宗家帯刀利久(利重の子)早世して嗣なく、家運断絶しけるを、祖父利勝が奉公恪勤の勲功顕著なるを以て、幕府特に利益に多くの地を加賜して延寶二年彼をして宗家を継襲せしめ、下総国古河の城主七萬石を知行せしめしが、天和元年二月二十五日志州鳥羽に移り、同三年春御奏者に任ぜられ、元禄四年二月九日唐津城に転じた。其の入国は同年仲秋の候にして、八月八日は先例によりで鏡村に一泊し、翌九日無事入城を終へ、寶永五年十二月十八日従四位下に叙せられ、闔藩無事泰平の徳澤に浴せしが、入国後二十三年にして正徳三年閏五月二十五日、壽六十四を以て卒す、法名を諦然院殿従四位下前防州廓誉高岸徳雄居士と云ふ。

 第二代 利実

 大炊頭利実は利益の長子なり、元禄十三年十一月十五日初めて五代将軍綱吉に謁す、寛永九年叙爵して出雲守に任じ、後大炊頭と改む。父君亡後の年七月十二日遺領を賜はりたれば、翌正徳四年江戸を発して、四月二十七日入部、鏡村に一泊し、翌日入城の儀行はれ、序で領内の大小庄屋引見の儀また先格に準據した。公の治世中、享保十七年西国四国九州一圓に亘りて水田害蟲の災害甚しく、殊に當藩は其の惨害他の比に非ずして、飢饉追りて蒼生餓死するもの甚だ多かりしは遺憾のことである。元文元年(紀元二三九六)には鏡神社の一千年祭典を挙げて敬神の誠意を表せり。嫡男従五位下出雲守利武、享保十八年二十歳を以て早世したれば、一族備前守利清が嫡子辨之助利延を養ひて嗣ぎとなす。利実は元久元年十一月二十六日江戸の邸に卒す、法名を寶眞院殿前大倉令穏蓮社明誉勇仁崇和居士といふ。

  第三代  利延

 大炊頭利延は、元文元年養父利実病歿しければ、同十二月十七日本多中務大輔の邸にて家督継襲の命を受く。翌二年正月初て将軍吉宗に謁して襲封の礼辞を述ぶ。十二月十六日従五位下に叙し大炊頭と称した。三年四月十八日行装を盛にし威儀を整へ藩国に入る、寛保三年四月二十一日利延参府して吉宗将軍に謁す。翌延享元年正月江戸表より急使ありたれば、家老土井蔵之丞は二十一日唐津を発し江府に赴く。君公の用務も果てたれば、之に随伴して帰国の途に上り、大阪よりは海路に就いたが、蔵之丞播州高砂浦にて急病に仆れ、四月八日同地の正定寺に葬る。その月十八日利延公は無事帰城ありたるも、間もなく公も亦二豎の侵すところとなり、不幸にも二十五歳を一期として七月十八日(?)易簀せり。
  墓所は唐津村大字神田なる丁田河畔の御山と云へる小丘上にある。墓碑は塔身高八尺五寸、面幅三尺七寸側幅三尺五寸、最上の臺石は厚二尺一寸、幅は七尺四寸に六尺九寸、下者は厚二尺一寸、幅二間一尺に二間四寸なり三石を以て畳む。碑材は鬼塚村大字和多田小字崎石より採りしものにして、延享元年即ち易簀の年より同四年六月十五日迄に成就せるものである。
 碑面に故唐津城主土井源公之墓と、刻し、左側に、諦了院殿前大倉令眞譽寂照湛然居士の法號と、延享元甲子年七月十六日とす(藩翰譜には前文の如く延享元年七月十八日とせり)碑の他側より背面に亘りて左の銘がある。

 公諱利延、源姓、土井氏、故古河城主従四位下行侍従兼大炊頭土井利勝之玄孫也、父備前守土井利勝、母土井氏、享保癸卯十一月十七日、生于武蔵江戸、元文丙辰十一月、為肥前唐津城主大炊頭従五位下士井利実之後尋、叙従五位下、任大炊頭、延享甲子七月十六日以病卒、享年二十有二(前文二十五歳とするは藩翰譜に拠りしものなるが享保癸卯の生ならあば二十二歳を以て正となす)、葬于唐津城西南神田之岡、公従幼特異温恭仁怒、言不苟、行必勤、好学信道、孜孜自強、常以安臣民為志、而未遂早世、天如仮之年、其徳業不可量焉、鳴吁命哉。於是、嗣君、欲建碑表墓銘其徳以顕於後命之臣、正義臣文字之陋、不足述其状、而以、侍講之久眷恩之厚、且今日君命之重、不能敬辞、揮涙竊謹録其徳美之一二、且系之以銘、其銘日、鳴吁惟公、天姿温温、廉静寡欲、荘敬常存、好学信道、納諫求言、在家孝友、親黨無恕、待臣仁恕、撫民厚敦、天如仮年、庶興斯文、何耶降病、禍此国君、黎民哀慕、遺徳更薫、今銘茲石、自致慇懃、過者稽首、仰此令聞。

  延享元年甲子八月  日    唐津家臣稲葉正義謹撰

  大炊頭従五位下   土井利里 建


  第四代 利里

 一 藩治の状況

 利延の卒するや、弟左門利里立ちて世嗣となる、寛保三年春はじめて将軍吉宗に謁す、利延卒去の年九月二十三日遺領を賜ひ、叙爵して大炊頭に任ず、翌二年四月朔日入部ありしが、こゝに領民にて歓迎のことに就きてゆゝしき紛議が起った。當時領内の庄屋惣百姓代豊前国小倉まで出で迎をなせしが、其の折町人にも同様の沙汰があった、然るに町人には乗物大小等の許容ありたるに、惣百姓代大庄屋は脇差のみにして、殊に又徒歩にて出迎すべき旨達せられたれば、百姓末々のものに至るまで挙りて痛く其の処置に不満を抱き、先格を崩潰して従来の慣習を無視するの甚しきを憤慨し、闔藩恰も鼎の沸くが如く喧々*(器の中に目?)々たり。當時町人よりの出迎人は兵庫屋・網屋の両名である。
 さて百姓代庄屋よりは、従前の格例の如くなるべきやう強制したるも、君公の入部までは願ひの趣き聴き届け難しとて、遂に其の要求は容れられなかつた。かくて愈々入城の儀も済みたるも、其の後何等の沙汰とてなければ、領内の百姓悉く不平勃々殺気横溢し、町人より先づ謁見の儀などあらんか、以後は町方とは一切諸品売買を断ち一大非買同盟を行はん、且つ又先格の如く百姓を重んずるにあらざれば、惣百姓挙りて他国に移住すべき旨評議を定め、ここに闔藩全く暗雲に鎖され風雲愈々急を告ぐ。隣藩佐賀領主鍋島氏は形勢甚だ不穏の状を見て日々藩境に警備の士を派して変に備へ、次で一隊の士を當藩内廣瀬(今の厳木村内)長巌寺へ屯せしめて、事落着せざる間は帰藩せざる旨宣明した。巌木村大庄屋よりは逐一當城に報告に及びしゆゑ、藩主も斯くの如く内難を醸して、他藩の干渉を見るに至りしを恥ぢて、百姓等の請ひに任せて、其の待遇謁見の次第全く前例に準據すべき旨沙汰しければ、百姓一般も大に安堵し、佐賀藩士の一隊も帰国するに至つた。四月二十六日惣百姓代大小庄屋引見の仰せ出でありしも、偶々君公微恙に罹りたれば、五月六日に延期入謁の儀を行ひ鳥目一貫文づゝを村々各組より献上のこと先例の如く、惣百姓の披露も滞りなく相終へ、同四月二十八日には小杉長兵衛を新に家老に任じ、紛議漸く鎮定するに至った。
 翌三年四月二十二日領内大洪水の災害起り、大川野御茶屋も浸水し、同宿駅は水底に浸して流失家屋十六棟に及び、久里村大堤防上に三尺除の水準を増すなど、実に稀有の天災にして災害を蒙るもの夥しく、惨状の程言語に絶する計りであった。
 同三年四月十日幕府の巡見使徳永兵衛・夏目藤右衛門・小笠原内匠等従者百七人を相具して濱崎村に到着し、二泊の上諸般の視察を遂げ。十二日呼子浦へ至りて二泊して藩治を検察し。十四日壹岐島へ渡りて風俗治績を視んとす、警衛歓迎の諸船として、唐津・佐賀・平戸・壹岐・筑前五ヶ国の船舶千八百六十八雙に及びしは、似て當時如何に幕府の威厳が諸藩に行はれたるかを察することが出来る。後十五年寶暦十一年幕府の巡見使神保帯刀・青山七右衛門・花房兵右衛門等上下百人の一行、四月三日濱崎村に入り、翌四日呼子浦に至り二泊のうへ、六日壹岐へ渡海せしが、其の間藩治の状況を監察せり。
 翌十二年九月晦日、祖先の舊領下総国古河城に転還の命を受けしが、土井氏四代はこの土にあること七十一年の久しきに亘った。水野和泉守忠任は参州岡崎より當城に、松平周防守康福は古河より岡崎に移り。翌二月十八日利里寺社奉行を兼ね、在職七年にして明和六年八月十八日所司代に任じ、従四位下侍従に進む。安永六年八月壽五十六歳を以て卒去す。


  二 土井氏の家臣
 家 老 職
三千石   土井内蔵允    五百石 朝倉藤左衛門
五百石   小杉平馬     五百石 奥與太夫
五百石   胡符田孫太夫   五百石 堀九兵衛

 番頭
千百右   小杉長兵衛    五百石 小谷源兵衛

 用人
三百五十石  堀勘解由    三百石 青山清左衛門
三百石    岡野郷左衛門  三百石 中村茂右衛門
三百石    井上新左衛門  三百石 小宮久左衛門
三百石    関八兵衛    五百石(用人例) 長尾新五郎
二百七十石(留主居)高松三右衛門  二百七十右(奏者)平尾市十郎
二百五十石(旗奉行)吉武門麻 二百石(旗奉行)近藤紋左衛門
二百五十石(先手物頭)鷲見十郎左衛門  二百石(同)三浦次郎右衛門
二百石(先手物頭)浅賀建左衛門  二百石(同)秋田孫左衛門
三百石(同)  坂本茂作   三百石(同)大久保義左衛門
三百石(同)  堀吉左衛門  三百石(同)千賀又左衛門
二百石(同)  齊藤五郎衛門  二百石(同)長尾十左衛門
二百五十石(同)三池五兵衛   二百石(同)吉武十太夫
二百石(同)  長谷川清太夫  二百石(同)高橋杢左衛門
二百石(郡奉行)粕谷彌三兵衛  二百石(郡奉行)井伊彌五兵衛
二百石(寺社奉行)関戸政右衛門 二百石(寺社奉行)井伊清太夫
二百石(町奉行) 加藤五郎兵衛 二百石(町奉行)信田次兵衛
二百石(船奉行) 河副新兵衛  二百石(船奉行)河島治左衛門
二百石(吟味) 石黒太郎太夫  二百石(吟味)堀十郎太夫
二百石(吟味) 河副勘兵衛   二百石(使番)早川欣吾
百八十石(使番)鷹見八太夫   三百石(使番)藤懸登
二百石(使番) 宮野猶右衛門   二百石(使番) 山中儀太夫
二百石(長崎留守居)岩崎彌門   百五十石(供小姓頭)布施清兵衛
百五十石(供小姓頭)曾我孫兵衛  百石(目付) 森川萬右衛門
百石(目付) 鈴木六郎兵衛    百二十石(目付) 只見政兵衛
百二十石(目付)芹澤助左衛門   百二十石(目付) 小杉角兵衛
百二十石(目付)小杉彌右衛門   百石(作事方)岡本與治右衛門
百石(作事方) 岡本彦右衛門   百石(地力吟味役)成島住助
百石(地力吟味役)稲垣儀兵衛   百石(大納戸役) 船橋七右衛門
百九十石(大納戸役)和田藤蔵   百石(大納戸役) 服部有右衛門
百石(大納戸役)渡邊七左衛門   百石(膳番)   曲淵庄兵衛
百石(膳番) 落合猶兵衛     百石(小納戸御側衆)菊地勘左衛門
百石(小納戸御側衆)今村六兵衛  百石(小納戸御側衆)金子新内
百石(小納戸御側衆)森田久右衛門 二百石(近習御側衆)井上主膳
百石(近習御側衆)越路甚五左衛門 三百石(近習御側衆)中村又八
百石(近習御側衆)井上兎毛  
三人扶持金十五両部屋住(近習御側衆)青山只八
十五人扶持(近習御側衆)米山甚左衛門  
三人扶持金十五両部屋住(近習御側衆)石黒志津麻
百石(近習御側衆)小野田平四郎  百五十石(近習御側衆)堀左仲
五人扶持十五石(代官)山田藤八  五人扶持十五石(代官)宇井治太夫
五人扶持十五石(代官)齊藤庄助 五人扶持十五石(代官)武井庄太夫
五人扶持十五石(祐筆)中森唯兵衛  五人扶持十三石(祐筆)奥村忠左衛門
五人扶持十三石(祐筆) 岡野兵治


  給人馬廻
三百石  中村彌次左衛門    二百石 永尾十郎兵衛
二百石  浅野庄兵衛      百五十石 石川又右衛門
百五十石  吉武団右衛門    百五十石  生郷十蔵
百五十石  河村理兵衛     百五十石(儒者)郷田忠蔵
百五十石  岡野小右衛門

 以下百石宛
菅根源太左衛門 日暮七郎左衛門 市川彌右衛門 川岸惣左衛門 臼井宇平次
瀧六郎太夫 蘆澤八右衛門 出手惣左衛門 渡邊逸八 堀江九平次
早乙女又助 時田清九郎 高木善兵衛 金子甚右衛門 神谷四郎左衛門
山口金太夫 松井儀右衛門 笹川吉左衛門 大森那蔵 奥村官治
長尾新助 堀與一右衛門 丹羽治郎左衛門 柴田權兵衛 一柳造酒右衛門

廿人扶持 鈴木權兵衛   八十石 近藤久兵衛
五人扶持十五石 馬役 河野三四郎
五人扶持十五石 馬役中村小六左衛門
五人扶持十五石 鷹匠頭 桑原又兵衛  
供小姓は諸士次男を用ゆ 二人扶持 金十五両


  醫 師
丗人扶持銀丗枚 上田玄孝   丗人扶持銀丗枚 得能卜水
二百石十人扶持 儒者 佐井玄策   二百石十人扶持 儒醫 原尚庵
十五人扶持  小児科 戸田玄庵   廿人扶持 島本見益
廿人扶持  小島玄碩    十五人扶持  眼科 榎並養伯
十人扶持  外科 水澤順庵  十人扶持  外科 川口了春
五人扶持  針科 杉原伯山

 小役御目見格
蔵方役  四人    臺所役  四人    下吟味役 三人
浦山奉行 二人    普請小奉行  二人  徒士目付 八人
水奉行  二人    米封附 二人   大船頭 二人
茶頭  二人   吹物書  二人    具足師 一人
弓師  一人   矢師  一人    刀鍛冶  一人
馬醫 一人  馬役 四人  外に下馬役 六人  徒士 十二人
名護屋番代  呼子番代  岸嶽番代  岩屋番代


 七、水野氏 
 寶暦十三年(二四二三) 文化十四年(二四七七)

土井氏去りて水野氏之に代りて當城を鎮す。幕府は、安倍平吉・松平藤十郎・豊後国日田の代官楫斐十太夫を派遣し、岡崎城よりは拝郷源左衛門・松本仲・水野伊左衛門・高宮伊兵衛・水野藤五郎・剱持嘉兵衛・小瀧六郎(後の関口氏)其の外諸侍来會して、寶暦十三年五月十五日城廓の授受を済す。同日當町高徳寺に於て、藩中の大小庄屋、惣町年寄等残りなく召集の上、日田代官より申渡しによりて、當藩領内にて福井村・鹿家村(以上は福岡県)・淵ノ上村・谷口村・五反田村・南山村(以上は玉島村内)横田組中にて黒須田分栗木(濱崎村内)等の約壹萬石を削りて、新に幕府の公料に編入することゝなつた。是に於て當藩領は六萬石を数ふる小藩として幕末に及びしが、最初寺澤時代の二分の一足らざる藩鎮となり終つた。

  第一代 忠任

 一 政治振はず

 水野氏は源姓にして、忠任は忠辰の嗣子である。寶暦二年三月忠辰致仕して家を其の子忠任に譲り、八月十八日三十一歳を以て世を終る。長十郎忠任は一族平十郎守満が次男である。寶暦元年十二月二十八日初て第九代家重将軍に拝謁し、従五位下織部正に任じた。同十二年九月晦日三河国岡崎より當藩に移封を命ぜられしが、公の入国以来天災多く、加之諸制度の変革行はるゝこと度々にして百姓其の堵に安んぜず、明和七年五月十三日(紀元二四三〇)には藩の鎮守神たる鏡神社回禄の災に罹り、金銀珠玉を鏤め善美を盡くしたる大社、一千年に及べる名社忽ち烏有に帰し、曩に朝鮮国王より奉納したる紺紙金沢の法華経竝に横八尺樅一丈四尺の幅物に書画ける楊柳観音、或は天国の太刀二口、正宗の太刀一口其の他二百余種の寶物を失ひたるは、藩民挙りて一は以て神意を恐れ、一は以て之を惜まざるものはなかった。
 翌八年正月廿八日地方役人小川茂手木・代官松野嘉藤治は、家老職拜郷源左衛門(千五百石)・水野三郎右衛門(千五百石)へ献議しけるには、従来百姓耕種の田地の内、永川砂押水洗といひて古来無租税地数多あれば、新に之を調査して輸租地となさば一萬俵余の内帑の利を得るに至らん、また百姓共に附與せる用捨地を収めば五千俵の増益も生ずるであらうと。然るに老職之を否みて、寺澤志州の治藩以来二百年間歴代の城主何れも其の沙汰なきに、當代に至りて俄に民力を誅求せば百姓必ず変を生ぜんと、されど終に其の議行はるゝに至った。また草野地方(玉島村地方)の百姓に命じて楮三萬株を植付けしめなば後世を益せんと、其の後小川茂手木領内を巡りて、免租地・永川・砂押・水洗・平押等の地を測量し殊に永川多き村々には数日の滞在をなし、其の間百姓の耕地に出づるを許さず、また草野地方にては楮植ゑ付けのために家業に服することが出来ず、百姓怨嗟の声到る所に発せらるゝに至った。されど楮は後年玉島村地方の製紙原料となりて、大に同地方の副産を起すに至つた。


   二 江川町人の溺死
 同八年鏡神社は、藩公の造営によりて美々しく再建せられ、其遷宮式の余興に大阪より姉川新太郎と云へる俳優来りて歌舞伎芝居を行ひしが、郷方百姓は永川・砂押などの不平のため一人も観覧するものなく、僅かに城下のものども赴き観るに過ぎざりしが、同月十六日江川町の男女十人許り彼の芝居を観て、いと興に入りて帰りけるが、月光雲翳に匿れたる夜陰に、松浦川の曲尺手(カネノテ)と云へる浅州を徒渉りせしに、折しも満潮に會して残らず溺没しけるが、幸にも其の内女一人のみは、偶々材木町のものにて長右衛門と云へる船夫が通りかゝりしに救助されて、僅に事の顛末を明にし、江川町に急報して、翌日まで死体捜索に打ち騒ぎたるは哀れなることであった。


  三 百姓虹ノ松原に集合し闔藩不穏
 かやうに不吉続出せるに、同月十八日城山鳴動し、又明神社境の神木折れ終夜震動止まず、十九日には名護屋城址に怪火飛びたるなど、不思議のこと多しとて、藩君忠任は儒者藤野藤太郎をして占筮せしむるなど、安き心もなく風声鶴唳にも驚かされたのである。然るに廿日午前七時、鏡村郷足軽脇山茂左衛門より、代官所宛に一札の飛報が到達した。

    以書附申上口上之覚
 何者共不奉存候得共、百姓と相見え蓑・笠・袋鍋之類を荷ひ、腰には面々鎌を帯し、鏡ノ原を押通り虹ノ松原へ屯仕候、其勢七八百人と打見え候故、直に彼地へ走附何者成るかと咎候得共一向答不申、余り不審に奉存候依之御注進申上候
    卯七月           脇山茂左衛門

 依て當番の代官松野嘉藤治より、直に郡奉行古市四郎右衛門に右の趣申達しければ、四郎右衛門即刻登城して未だ退出もなきに、足軽一人飛ぶが如くに馳せ来りて左の一札を上った。

 先刻申上候通松原へ集會の百姓共、只今押計り候処大数六七千人と見え、其外久里村の長堤或は玉島川の方より押出す其勢何程とも難斗、依之御注進申上候。

   同 日
 當番代官関口六郎急ぎ登城して事の次第を上申しけるに、また一人の使者馳せ参じて口上を以て申しけるは、先報の如く彼の地へ群集したる総勢最早壹萬人と察せらる、猶追々注進仕るべしとて取って返しければ、都築両右衛門・渡邊三太夫・千葉大蔵・松野嘉藤治・開口六郎・岡野笹右衛門の六代官は、同日午後二時打ち連れ登城して家老職へ事の容易ならざる旨を上達した。其の他郡中の郷浦島に以上三百余人の大小の庄屋どもより、廿日の昼過ぎより廿一日の朝迄に重波をうつて注進しけるは、

 私村方の百姓共何の訳とも相知不申、夜前一夜の内に村方を引退き行方不知相成候故とくと吟味任候処、御料境虹ノ松原へ集會仕候由、依之御注進申上候
                (各村の文面大同小異)

 かゝりければ城中の騒擾狼狽一方ならず、水野三郎右衛門・二本松右仲・中村紋左衛門・水野小源太の四家老、両郡奉行、小河茂手木、井上仲左衛門の両地方役人、六代官其の外惣物頭一統城中に参集して評議区々議論百出す、この時家老拜郷氏は参府中である。時に郡奉行古市四郎右衛門云ひけるは、我等如きの老輩殊に愚昧のものは一として君公に奉ずることも出来ずして碌々然たりと、當時威權竝び行はるる若衆こそ其の出精の程羨望に値すれ、されどかゝる事変を惹起するも亦御奉行なるにやと、年小輩の専權を痛撃したれば一座皆色を失った。
 かくて追々具申のために城下に参集せる郡中の大小庄屋等へ、各自速に松原に赴き屯集の百姓を村々に諭し帰らしむべしと代官より申渡しければ、惣庄屋ども取るものも取り敢ず、新堀より川船数十艘に打ち乗り、程なく松原へ馳せ付けゝれども、感情高潮に達せし百姓の気勢容易に鎮壓すべくも見えない。こゝに幕府の新御料地壹萬石の拾五ケ村の庄屋等も、松原の境界に詰所を設けて警備をなし、夜に入りて御料庄屋の詰所に高張二個を樹て、其上百姓共集會の場所にも思ひ思ひに、村々の印ある、提燈を立て列ね、濱崎より満島まで一里半余の松原は燈火天を焼かんとするの有様である。されば庄屋等も詮方なく空しく城下に還りて、この様を代官所に報告した。同廿日夜一時頃重ねて老臣よりの命により、穀取役人十五人、庄屋一統と共に再び松原に出で向きけるに、夜は次第に明け渡りて廿一日の朝暾東嶺に懸かった。この時穀取役人より庄屋一統に申渡しけるは、我等こゝに来れるは先づ御料庄屋へ挨拶をなし、其の上百姓一般へ篤と利害得失の説諭を為さんがためである。其の旨を百姓どもへ申聞くべしと。大庄屋一統は命を傳へんとて一揆の屯所に近づけば一揆の勢は残らず幕府の御料区域は転じたれば、幕領の庄屋一統は當藩に對して同情に堪へず、一揆の徒を藩域に退かしめんとし、穀取一同も料域に入りて、総百姓各村々に還るかまた藩域に退くかを諭すと雖も、一揆のもの共何のいらへもなさず、剰へ彼等は遅参の組々村々を詮議し、未だ到達せざる村々へは飛脚を発し督促を加へ、若し應諾せざれば大勢を催ふして焼き払ふべしと威喝しければ、遅参の輩も次第に参加し形勢益々険悪となる。この趣を穀取大庄屋より間断なく代官所に報告に及びたれば、廿一日午後二時過ぎて六代官連れ立ちて松原に至り、大庄屋両人づつを八方に分ちて、代官より惣百姓に諭告あるべしと傳達せしめ、先づ幕領の庄屋中へ一應の挨拶を終へ、それより百姓の各屯所に到りて左の諭達を高声に朗讀した。
 其方共何故に罷出候哉、願之趣有之事に候はゞ願書可差出候、其上にて何分申立致、勘辨可遣候間村々へ早速可引取候。
 然るに百姓より願書めきたるものを當藩領内なる杭木に貼附したれば、此の時代官より申し渡けるは、若し貼箋外に願出での筋もあらば早速に差し出すべし、また直ぐにもとあらば例の杭木にか其の他の方法によりて願出でよとて、代官は幕領より少しく隔退しければ、百姓等は例の如く無言のまゝにて、願書をかきたる一札を竹竿に挟みて杭木の邊に立て置きければ、大庄屋より彼の一札を代官に披露せしが、其の次第は

    乍恐以書附奉願口上書之御事。
一、御郡中村々御高之内永川之儀、寺澤志摩守様御代より御城主様御代々極々御吟味之上永川に被仰付置候処、此度起帰り被仰付難儀至極に奉存候間、御先代之通御引方奉願候。

一、年々砂押水洗之儀是又永川同様に御引方奉願候、尤手入等仕田畑起帰り候はば、御年貢上納可仕候。

一、年々御用捨高被下置百姓相続仕難有奉存候処、當年御取上被仰付難儀至極奉存候、御慈悲之上去年之通御手當奉願上候。

一、御年貢米御蔵納之節桝廻り四方霜降之儀、御先代々之通被仰付可被下候、竝に御米俵毎に指抜米御免可被下候、先御代々之通俵毎に差戻成可被下候、近来欠米余計に相立難儀至極に奉存候。

一、百姓持高之内相立置候楮御買上被仰付撰楮にて納候儀難儀至極に奉存候間、持主勝手売に仕候様奉顧上候。

一、諸運上之儀御先代々差出来候品差上可申候、新規運上之儀は御免可被下候、且又何品に不寄御運上差上元〆仕候儀、其者共一人之勝手筋にて諸人至て難儀任候間、相止候様奉願候。

右之外何品に不寄先代大炊頭様御仕置之通奉願上候、若願御叶不被成候ては百姓共相立不申候に付奉願上候。
  明和八年卯七月         御郡中惣百姓
     郡方御役所様


 かくて代官の一人松野嘉藤治進み出て、天地も震動せんばかりの大音声にて、其方共御上を恐れず御法度に背き大勢徒黨致候事不屈の至なり、之に依て急度仰せ付けこれあるべき筈のところ、御慈悲を以て此度は御免これ有るべきにつき、早々村々へ引き収るべしと呼はりければ、誰とも分らず大勢の中より一人笑出しければ、惣勢手を拍って一度にどっと嘲笑しけり。それより重ねて渡邊三太夫進み出で言ひけるは、其方どもかやうに集居ては我々役儀も立たざれば、皆々申し合ひ直に村方に引き還すべし、願出の筋は幾重にも申立て、よきに計らひ申べし、といと懇に申渡しければ畏りたる態に見えたりける。代官の一行は二三村も退きて彼等の様子を窺ひけれども、敢て帰還する気色さへない。夜は次第に深く屯集の惣人数は松が根を叩き、成は砂烟を蹴立て鬨を上ぐるなと凄絶の様は、夜陰と相交りて鬼神をも招来せんずる有様である。この時汀の方にあたりたる六人の代官は心細くや思ひけん、先づ松野嘉藤治は長居は無用なりとて立ち帰りたれば、他の五人の代官も続きて帰城した。
 赤熱化したる百姓等は、夜更くるに随って警戒を厳にし、様々の合図の印を附する堤燈数千張を照り輝かし、警戒区内に幅三尺の道路二條を設けた、これ一は藩の探偵潜入の際捕縛に便せんため一は各村毎に組頭一人を選びて其の交渉往来に便ぜんため、一は群衆の雑用に供せんがためである。群衆の往来には印符を所持せしめて其の所属を明にせしめ、混乱を防ぎ密探を警め、また群衆の統一には規定を設け其の意を板書して示し、昼夜二回警備区内を巡覧せしめて、益々結束を固くした。
其の制に曰く、

一、無益の事に對し、上へ雑言堅く致す間敷事。

一、役人衆より引取候様被仰付候節、決て物言間敷事。

一、如何様成る儀にても同士喧嘩堅く致す間敷事。

一、屯之内へ疑敷者入込候はゞ、直に召捕懸拷問候事。

一、惣人数之内病気差起り候者有之ば、代人を立て其後村方へ可引取候事。

一、諸願不叶内は何様之難儀に成行とも、決て一人も退間敷事。

一、惣百姓之内一人にても被召捕候はゞ兼て申合候通可致事。

右箇條之趣此度相集候惣人数銘々堅相守べき者也。
かやうに周到をる手配をなせしゆゑ、進退懸引一糸乱れず、整然として訓練ある軍隊のやうである。然れども東西二里に近く南北十数町の虹林に少しも水の手なければ、さしもの群衆飲料水に窮して船にて玉島川の水を運ぶと雖も普く配分すること能はざれば、夜陰に乗じて二人のもの鏡村赤水の邊に水を汲まんとせしに、折柄鏡村郷足軽二人田水を引かんとて赤水の邊に至りしに、途中にて両者相會したれば、郷士等の思ひけるは是れ砂子村のものども、同じく田水を竊に引かんとするならんと、無手と飛びかゝりて二人を捕り押へければ、彼等は用意の竹筒を吹き鳴せば、其の声松原に達し、すは合図の音と言ふ程こそあれ、二三千人の面々獲物おつ取り鯨波を作つて押し懸けければ、二人の郷足軽は気も転倒せん計りに周章狼狽して、一人は草田に隠れ、一人は鏡山へ逃れ入りければ、群衆は長駆するは無用なりとて松原に引き揚げた。件の郷足軽は終夜山中に忍び、漸く翌廿二日午後八時頃我家に馳せ帰り、喪心の体にてあらぬことのみ口外して泣き叫ぶと云ふも、可笑しき事共であった。
 さて又かく百姓の大群集を見るに至りし顛末を述べんに、去りぬる十二三日の頃誰とも分かざるもの一通の飛檄を持ちて郡中を馳せ巡り、且つ口上にて言ひけるは、事を共にせざるものは赤牛を引き懸け(放火のこと)押し寄せ踏潰すべしと、触れ歩いた、飛檄に曰く。

 一、永川之事、
 一、御蔵米桝之上之事、
 一、指米御取被成候事、
 一、御用捨御取上之事、
 一、楮御買上之事、
 一、諸運上之事、

 其外何品に不寄御先代御仕置之通り願立候間、當月廿日明六ツ時より虹ノ濱御料境へ御出張可被成候、但村役人には堅く御沙汰御無用に候以上。
    七月十二日
     人々御中

 右は七月十五六日までに移牒せしことなるが、和多田組・唐津組・神田組・佐志組には特に廿日の夕刻通告催促をなす、以上は城下附近のことなれば密謀漏洩の恐多ければなり。
 廿二日まで形勢を観望してゐた北方組も出勢に決し、入野組・切木組・有浦組は番場ケ原に勢揃をなし、名護屋組・赤木組・今村組・打上組・馬部組は佐志村濱田松原に集合せしに、早くも代官所に密告するものありて、穀取目付等の諸役は前者を白阪の邊に後者を中山峠に扼して、松原勢に合するを阻止せんとしたれども其の甲斐なく、両勢は一旦唐津熊ノ原に會合し、城外より新堀へ出でしが其の勢千二百余人である。當時町田口・名護屋口の両門を閉鎖し三日間通交を遮断した。其の勢程なく松原に到達したれば、惣勢こゝに二萬三千余人と聞えたり。この事早くも隣藩に聞え・佐賀・福岡・平戸を始め豊前豊後の諸国よりも、形勢探訪の役人鏡村濱崎村の邊に櫛の歯を引くが如く集り百姓群が藩の境界石に貼箋せるものなどを寫し取り、又佐賀小城両藩などは新に藩境に新関を設けて堅固なる警戒をなすなど、煩累他藩にまで及びて闔藩の面目を失ふに至りしは、強ち遮民の罪のみとは云へない。さて前日百姓一統より出願の條内議一決するや、古市四郎右衛門登城し君側に伺候して、愚臣かく頭に霜を頂くに至るの間君恩を叩にし、曾て寸功もなく、剰さへかゝる騒擾を惹起せしめ、御郡中を預り奉ること一に臣が罪なり、只恐懼の外之れなしとて涙を流して言上なしければ、君公にも亦雙眼に泪を浮べ、良ありて仰せけるは、これ全く汝等の罪にあらず余が不徳の致すところである、よろしく汝等彼の地に至り穏便なる処置を行ふべしと。四郎右衛門直ちに退城して午後二時同役剱持嘉兵衛同道にて馬を虹林に急がせた。代官六人も亦之に赴き、穀取・横目・大小庄屋等も廿日以来詰め切りにて、群衆屯所とは僅に数町を隔つるのみ。この間唐津村大庄屋櫻井理平は城下との聯路のため、往来一昼夜に十五度にも及び、屯集五日間恪勤甚だ務めた。両郡奉行出向の報達するや、代官等は廿九人の大庄屋をして群集の非体あるべからざるを諭さしめければ、前日と異なり一同静粛に差し控へた。両郡奉行は三町ばかりの地にて下馬し、代官等を率いて群衆の面前に臨みて、昨日代官をして諭告せしめしに對し願書を差し出し、今猶退散せずして上意を待つものゝ如くなれば、茲に書面を以て一同に示達せん、然る上は速に各自居村に解散すべしと、次で幕領の庄屋横田太左衛門を招きて、此度不慮の騒動に種々配慮を煩す旨挨拶を終へ、直に馬首を還した、其の諭達の文に曰く。

 其の方ども大勢罷出候に付願等も有之候はゞ願書可差出候、何分申立致勘辨可遣旨昨日代官より申渡候処、願書差出此度永川・起帰り用捨之儀相願候、右永川之儀は如何之訳にて引遣候、致吟味。侯へば其場所は不文明之由。起帰り之儀相願聞届たる事に候、然る所難儀至極に付引方之儀相願候、依之格別之勘辨を以本途めの高下に不拘一統五厘宛に相定、此以後増めは不致候、尤當年より三ヶ年之間は年貢令用捨可遣候、御損益に拘り候儀にては無之、右之訳にて一旦願之上相極候事に候へば、箇條多き事に付追て相尋之上にて致勘辨可遣候間、早速可引取候。

 右の諭達は大庄屋より群衆に高らかに讀み聞せし後、其書連を百姓に下附して、速に解散帰村すべき旨懇々説諭すと雖も、例の無言の方策を演出して詮方もなければ、暫らく彼等の挙止を監視せしも、廿二日の日も漸く黄昏に及びたれば代官等は其の場を引き揚げた。
 同夜呼子・名護屋・満島、新堀・水主町其の他浦々島々のものども残らず参集したれば、其の勢益々振ひて恰も大軍の陣営を見るの心地がする。来會者は各々簑笠に兵糧を包み、鎌・鳶口或は棍棒・熊手・竹鑓等の獲物、或は蓑中に一刀を縄に巻きて隠すもあり、形勢愈々非にして今や将に鮮血腥き修羅の巷と化せんとするの観がある。さしもの大群集なれども進退一糸乱れず、鶴翼の陣を張りて厳乎として終夜眠らず時々鬨を揚げて気勢を張り、浦々島々のものは當夜激浪躍るの中を濱崎浦に着船せしものも多かった。同夕八時頃横目二人穀取二人は大庄屋の屯所に来りて、境界石に貼附する願書の複寫は既に上聞に達したれば、今は其の貼箋を剥ぎ取り差出すべしとて、大庄屋櫻井新左衛門・兼武安左衛門・櫻井又右衛門の三人を伴ひ、同所に至りしに、又新なる貼箋あり其の文に曰く。

 一、五歩一鮪網魚取立直段之事、
 一、諸浦鮪網二歩五厘之事、
 一、千鰯運上之事、
 一、問屋之事、
 一、長崎梅野新左衛門二歩五厘懸り之事、
                御領分惣浦中
 かく津々島々のものまで郷方百姓に附和雷同して、右の如き要請をなすに至って事態は益々大を致した。横目穀取大庄屋の七人は先の郷方の貼箋を剥ぎ取らんとせしに、松原中以ての外の喧擾を惹起し、鯨波を揚げて七人に迫りければ、大庄屋等は穀取横目に向ひて、かくては事態面白からず且つは新に貼箋さへ見るに至りたれば、一應奉行所の指令を仰ぐこそ然るぺけれと、四人の人々実にさこそとて城下に急いだ。之を見るや再度まで凄調を帯びたる群集の喊声は天に響きて、それ密探なるぞ遁すな投げ突にせよとて叫めき立ちければ、大庄屋中の一人之を制して、汝等かゝる至重の所願を果さんとして集合しながら、徒に思慮もなく擾乱すること勿れ、萬一にも御家人に對し聊たりとも過失あらんか、汝等の所願全く水泡に帰すべし、苟も事を済さんと欲せば慎重細心ならざるべからず、千丈の堤塘も螻蟻の小穴より崩潰することを知らずやと、群集始めて鎮静した。
 一方城中にての評議には、かゝる形勢にては百姓の大群何時城下に乱入し如何なる狼籍椿事に及ばんも計り難ければとて、先づ弓・鐵砲・鎗・長刀・鎧・兵糧・松明など総ての武備を修め、要所の警備には廿二日より、小林郷左衛門組子を率いて大手口に備へ、渡口には古市四郎右衛門、大渡り口には剱持嘉兵衛、札の辻には青山三郎右衛門・落合某、町田口には石原平右衛門・都築内蔵太、名護尾口には松野尾才蔵・同源五衛門等を配置して防備怠りなく、総家中一統にも令して號砲五発を聞かば甲冑を帯して大手口に勢揃へをなすべし、また足軽中には三発の號砲を聞かば直ちに馳参すべしと。
 さてまた松原の群衆は廿三日も午を過ぐるも、彌々金鐵の如く団結堅固に一寸も引く模様なかりければ、出張警戒中の横目・穀取より群衆の動静を逐一報告し、大庄屋中より古館直助・櫻井理平・大谷治吉三人のもの城下に至りて巨細の注進をなせしが、此の上にも大庄屋一統の盡瘁によりて解散帰村せしむべしとの事ゆえ、三人の大庄屋も同日午後九時頃松原に急ぎ還った。さるにても彼等を四散せしむべき名案とてもなくして屈托せしが、豊後国日田代官所より警固の士派遣の由聞えければ、流石に九州統轄の大權を把持せる郡代所の噂聞えければ、當藩當局者も之を憂へ其の以前に処理を済さんとて、各々肺肝を砕きて凝議の未一策を立て、玉島谷口方面幕領の庄屋一統を証人とし大庄屋一統身命を賭して百姓群衆の願意を貫徹せしめんとの條件により、解散帰村せしむべしと、廿三日午前四時幕領庄屋中へ交渉に及びければ、直ちに承引を得るに至り、其の上同庄屋中より群衆に對し右の次第を傳へければ、彼等群衆は言へるに、一同異議とてはなけれども、後日の確証として書跡を得るに非ざれば退散し難しと、横田太左衛門之に應へて曰く、唐津御領はいざ知らず當御領其の外何方にても右体の書類は、上を蔑視する仕儀にて憚多ければさる慣例を聞かず、依りて余等一同之を確保すべし、若し其の上にても願意貫徹せざることあらんか、唐津領大庄屋中の屋宅を蹂躙するか、或は焼討劫掠を行ふか、また大庄屋一統を眞先に押し立て強訴するか勝手たるべしと。然らば幕領庄屋一同當藩領大庄屋一統立會の上誓言せらるべしと、依つて幕領庄屋惣代横田太左衛門を証人とし、當藩領大庄屋残らず参列して、廿四日午前一時各組村より百姓二人づつの惣代を出さしめて、右の趣誓約確保せんとする折柄、群衆中の二人茶を沸かさんとて松の落葉を拾ひ、他の一人松の枯枝を折り取りければ、出張中の藩吏及び鏡村郷足軽等追つ取り巻きて彼等を捕縛したれば、忽ち二萬五千四百六十九人の群衆大動揺を惹起し、竹槍・鳶口其の他の獲物取りどりに鬨を作って、恰も潮の湧くが如く又百雷の一時に落下するが如き猛勢を以て、彼等を奪還せんと肉迫したれば、一大修羅場と化せんとするの危機実に一髪である。この光景を観取したる大庄屋等は今は身を死地に投ずるに非ざれば、此の難関を救済すべからずとて、廿九人の大庄屋身を的にこの雲霞の勢を支持し、中に機智に富める一人身を挺して彼等百姓の捕はれし地点に馳せ行き言ひけるは、かゝる時変に際會し枯木五本十本伐採するとて何かある、然るに纔に松の枯枝を折り取りたるため大事を招き給ふか、若し御家人のうち些の怪我にてもあらんか忽ち大禍源を生まん、能くよく思慮あるべしと切言しければ、始て彼の三人を放還して事態漸く鎮静に帰した。廿四日午後一時頃二萬五千余人の群集は蜘蛛の子を散らすが如く四散して、それぞれ帰村の途に就いた。さて群集解散の急報として前田善右衛門・向林八・麻生太吉三人の大庄屋は飛ぶが如く城下に馳せ、残留の大庄屋は幕領庄屋一統へ謝辞を述べ、同日午後二時それぞれ退散し、代官所に至りで一同帰村すべき旨届け出でしが、代官一統より其の勤労を謝し猶君公も御満足に思召さるゝ旨を傳へ、帰村の上に更に残らず百姓ども帰村せしや精査し、明日中に其の旨届け出づべしと、大小庄屋一統同日黄昏頃各自家路に急いだ。
 廿七日惣庄屋一同再び城下に會合して、松原に於て群衆との誓言に就き代官所奉行所と数回の折衝を重ねしが、郷村関係官吏は閉門を命ぜらる。廿九日に至り庄屋一統より左の書面を奉った。

  御願方に就き百姓ども虹ノ濱松原へ罷出候節、願出御取上被遊候上、永川・起帰り砂押・水洗之儀結構に被仰付難有仕合に奉存候、併永川類之儀は御領分一統に行罷出候百姓ども、其分にて引取候儀及難渋何分引取不申候砌に至り、日田御役人様間もなく濱崎へ御出之噂も有之、御領中甚難儀之趣度々申聞尚又日数相重り候程奉恐、私共身分に引受難儀千萬之至前後途を失ひ、仲間及談判候は箇様之首尾に行當り、最早致方も無之後日我々如何様之難儀に相成共、願之内相残候箇條追て御勘辨之上可被仰付候旨被仰渡候に付、相違有之儀には無之候間、此段仲間共請に相立身命に懸け、何分共願申立可遣候、此儀は拙者共上を憚候儀に付、上に對し決定之請合と申候ては無之候得共、御役儀は勿論身命を差出候上は、慥に相心得引取候様に、一組より百姓両三人呼出可申談と相談仕、百姓共段々申談候へ共一向無言にて罷在候間、此上は無是非儀ながら御領庄屋中へ相頼み、彼方より談呉候様、百姓共存志相知可申と察候間、彼方庄屋中より右之趣篤と申談候処、百姓より申候には御尤に候得共何分手印の墨付にても無御座候ては、一同安心不仕候段、及難渋候に付、御領庄屋中申候は、箇様之墨付は唐津御領は不存候得共、何方迚も同前之俵にて、御領杯之役筋にては何分之儀候共、右体之墨附と申儀は上を憚り役方より遺候者にては無之、其代には拙者共証拠に相立可遣候、若御願筋不相立候はば右之訳に付大庄屋中を先に立御願申候様にと申談候処、御領庄屋中御領分大庄屋中三ツ金輪に御座候て被仰聞下候様にと、百姓共申候由横田太左衛門申開候に付、我々相談には兎にも角にも引取候儀を専一に存、前後考候次第に不至百姓望之通受合、竝に御料庄屋惣代に横田太左衛門を請人に相立候、依之百姓納得仕不残引取申候、右之通御座候に付、願方之儀私共請持罷在候得共、御催促申上候には無御座候得共、受持罷在候上は安心不仕。無是非右御願候て御内聞奉伺候以上。
    卯七廿九日          御領分大庄屋共

 右の嘆願書を差し出せしに、郡奉行所より大庄屋惣代六人を召喚して、代官列座にて左の申渡し書があった。

 百姓共差出候願書之内、永川並砂押水洗引方之儀、此間格別致勘辨遣し、相残候願之儀は箇條多事に付、追て致勘辨可遣と申渡候処、永川掛り等無之村は右相残も願之内一統へ掛候願筋不相済候故、罷出候場所引取兼候に付、其儀は其方共引受にて為引取、候由、就夫右之勘辨之儀其方共相願侯、依之相残候願之内別紙之通に、四條は向後令用捨可遣候、其外之儀は難致勘辨願に候間、右之趣可申渡候。


  向後令用捨可遣品
一、蔵納之節俵毎に差抜米之儀、俵毎に差戻申附候事、
一、家居根山運上指免候事、
一、諸浦鮪網二歩五厘掛り之儀差免候事、
一、買上楮直段左之通相増候事、
   上楮一貫目に付銭二拾匁増
   中楮一貫目に付銭拾五匁増、
   下楮一貫目に付銭拾匁増、
  右之通可相心得候。

 右の趣を庄屋一統より百姓一般に達したるに、表面は服従の体を装ひしも内心には不満措く能はず、此処彼処に會合して此の上は予約の如く、大庄屋居宅を焼き払ふか、或は直願すべきかなど協議怠りなく、時を移さず再び松原へ大集會を企てんとするの形勢容易ならざれば、大小庄屋一統は八月五日城下に集會し、またまた七日に左の願舌を提出した。

   乍恐奉願候事、
一、御蔵米廻方先記之通御取可奉願候、
一、干鰯御買上並長崎新左衛門問屋口銭請御免奉願候。

 右は此度御領分惣百姓願方に付、於松原願出差出候上にて御書付御渡被遊候後、引取候様に仕候訳は、此間は我々口上書指上候通に御座候、然処重て四ケ條御用捨被成下於私共難有仕合奉存候、此上御願難申上御座候得共、於私共身分前後に行詰り殆當惑仕候、其故は惣百姓存志私共引受奉願呉候筈と存罷在候様子に御座候、打捨召置候ては往々私共取扱決て相成申間敷と奉存候、右之仕合に付不得止事乍恐右ニケ條奉願候、私共身分之儀此節之大事に當り兎や角申上候筈には無御座候得共、人情之難捨を以不顧重罪又々私共より奉願候、此儀御勘辨被成下右願之通被為仰付被下置候はば、重々難有仕合可奉存候、依之乍恐以書附奉願上候以上。
    卯八月七日          御領分大庄屋共
  御代官御役所様

 右の願書を差し出し六人の大庄屋は代官玄関口に控え居たれば良々ありて代官衆罷り出て先に差し出せし願書を却下し、直ちに登城したれば、六人の大庄屋も彼等一同の集會場に引き取り、斯くと一統に報告したれば、一同進退茲に窮り、曩に松原にて百姓への誓約にも反することであれば、各々痛心沈思に耽りけるところに、七日午後十時頃郡奉行より密使来りて、六人の大庄屋を招き密談数刻の上、上意軽がろしく飜すべからざる懇諭により、六人のものも詮方なく退出したるが、其夜も明けて八日朝代官所より即刻願書進達すべき旨内意ありつれども、未だ再議容易に決せず、其日も昼夜熟議を疑らし、九日朝又々願書を提出申請するに至った。

  乍恐奉願候事、
一、御蔵納米廻方先規之通御取方奉願候
 右者此度惣百姓より願書差上候上にて、御書付御渡被遊其後引取候訳は、此間申上之通に御座候、猶又四ケ條御用捨被成下、於私共も難有仕合に奉存候、併私共前後當惑仕候訳、惣百姓存志何分私共より預受呉候筈に奉存候様子に付、打捨召置候ては往々私共取扱決て相成間敷と奉存候、右之仕合に付不得止事乍恐右之一件奉願候、此節私共兎や角申上候筈には無御座候得共、難捨置訳を以不顧憚、又々私共より奉願上候、此儀御勘辨被成下願之通被為仰付被下置候はゞ、難有仕合に可奉存候、依之以書付奉願上候以上。
    卯八月九日           御領分大庄屋共
 御代官御役所様

 右の願書は九日午前九時提出せられたるが、同日正午十二時代官所より、百人町郷組を以て達せられしは、即刻御用の筋あれば郡奉行所へ例の六人(古館直助、桜井理平、富田才治、前田庄吉、日高喜助、大谷治吉)同道にて出頭すべしと、召により至れば、両奉行六代官列席して、左の申渡し文書があった。

百姓共相願候蔵納之節桝廻之儀、其方共猶亦相願候霜降之儀は、御所替之節承合之趣百姓共存志とは相違致し、當時にては霜降之儀難相分候得共、今年より令勘辨霜降薄く可為取斗候其上尚又勘辨を以廻俵斤量分別歩之通相定候、此儀は廻俵之節不足米有之候得ば、其欠米高を以て斤量置俵にも差米致可為難儀事に候、右斤量分之儀は先規無之事に候得共、別段を以左之通に相定候

  廻俵斤量分け方之覚
一、拾参貫目より拾参貫八百目迄
一、拾参貫九百目より拾四貫参百目迄
一、拾四貫四百目より以上

 右之通三はへに致し廻侯て欠米有之時は、其高を以一はへ限りに差米可致侯。
 干鰯買上並長崎商人問屋之事、 干鰯御買上並長崎新左衛門問屋之儀に付相願候趣は、是迄難儀之筋不相知、尤願等も不致侯故為申付事に候、相障事に候はゞ前々之通干鰯買に成候はゞ、旅船へも売候儀勝手次第に可致候、御用に候はゞ直段相定候上にて買上に可相成候、新左衛門問屋之儀は右之者方へ申遣相止候様に可致候、暫之間可有候。

 右の二様の諭達は六人の大庄屋拜受退引の上、早速に他庄屋集會場に還り一統に披露せしかば、皆々体服着用の上拜讀して感涙に咽び、本城の方に打ち向ひて一向に君恩の優渥なるを拜謝し、勇躍して居村に帰還した。同十日地方役人小川茂手木・代官松野尾嘉藤治の二人は、官を没し閉門に処せらる。さて又大小庄屋は勝ち誇りたる凱旋の勇将の如く、居村一般の住民に諸願貫徹の段達しければ、挙郡等しく君公の仁政に感激し、郷家は野外に舞踊し、津々島々は船端を叩きて謳歌し、和気歓楽の声は山海に充溢して、泰平の幸先を祝福した。
 傳へ云ふ、この松原大集団の挙は、當時百姓の困苦を救はんとて、平原村庄屋富田才治の計によるものとて、群集解散の後彼は虹林の一角にて斬に処せらる。百姓之を悼みて義人として景仰し、私に之を祭祀して其の威霊を慰め、虹林の西端満島口の平原地蔵尊及び其の該躯を歛めたる今の玉島村字平原の才治様シャーリサマと云へるは、それなりとぞ云ふ。

 公は安永四年九月四十一歳にして致任す。子なかりしかば松平但馬守宗恒の次男式部忠鼎(タダカネ)を養ひて世嗣とした。



  第二代 忠 鼎

 忠鼎は明和四年十一月朔日初めて第十代家治将軍に謁見す、時に年二十四歳。やがて叙爵し、父が致任せし日に家封を襲いだ。この時代は明和八年の藩内大動乱鎮静の後を受けたれば、所謂雨降って地固まるの態にて、無事平穏の世態であった。安永八年八月十二日御奏者の事を承る。

  第三代 忠 光

 忠鼎の嫡子織之助忠光は、天明五年秋初めて十代家治将軍に拝謁を許され、従五位に叙せられ式部少輔に任じた。時恰も天明の天災続発の頃であって、上には田沼意次幕政を紊りて幣政頻りに臻り、天の時地の利人の和よろしからざるの時である。父に襲ぎて藩治に臨みしが、文化九年(紀元二四七二)封を忠邦に譲った。
 唐津町の南郊に雄嶽山といへる一小丘がある、丘上茅茨生ひ繋げれる間に、玉垣の石柱も算を乱して打ち倒れたる哀残の草裡に、公忠光の墓表は、大理石を欺く計りの美くしき花崗石造なるが、寂然として宇立して居る。塔身高八尺五寸前幅三尺三寸側幅三尺二寸五分、石笠の被風は厚一尺高四尺六寸各幅七尺、基礎の初階は蓮臺にして高一尺二寸幅各々五尺四寸、次階は高二尺幅各々七尺、下階は二石を以七組み立て高二尺一寸五分各幅一丈八寸を劃す。
 碑の前面に、故唐津城主水野織部正諱忠光公三位とし、碑の右側に、先考幼称織之助、叙爵称式部少輔、後改称和泉守、致仕改称織部正、浮屠追號曰、徳照院叡嶽宗俊大居士と、其の左側に明和八年辛卯八月二十日生江戸三田賜邸、文化十一年甲戊四月四日終於江戸青山別墅、享年四十四歳以四月十六日葬於下総山川新宿村萬松寺塋次、今奉遺命*(ヤマイダレニ坐)衣剱於肥前唐津城南雄嶽、以表石云。
   文化十二年乙亥三月       孝子忠邦謹記


  第四代 忠 邦

 忠邦は幼名を於菟五郎越中守と称す、號して松軒と示ひ後に菊園と改む。忠光の第二子として寛永六年六月二十三日江戸西久保の邸に生れ、文化九年五月家封を継襲した。世々唐津六萬石を食みしが、當時唐津を領するものは老中の列に加へざるを以て先規とせり。然るに公は閣老として天下の大政に干與せんことを熱望せしが故に、文政元年幕府に請ふて遠州濱松に移った。其の當藩にあるや七年の歳月を算す、されど治績に関する記録を見ず。八年五月大阪城代となり、翌年十一月京都所司代に転じ、十一年西丸老中に遷任し、天保五年三月本丸老中に補せられた。
 同十二年第十一代家齊将軍薨じて十二代家慶将軍立つや、之を輔佐して鋭意治を図り、所謂天保の改革なるものを断行した。公もと資性厳峻にして仮借するところなし、先づ君側の小人林忠英・水野忠篤・美濃部筑前守の三權臣を退け、改革の端緒を開き、享保寛政の勤倹制度の詩sを踏襲して時弊の救済に力め、かの将軍家日光社参の大礼の如き、三代将軍以家の廃典を再興し其の功を以て金麾を賜はり、次で奢侈品製造竝に其の購求使用を禁じ、女髪結ひを停止し、治安風俗に害ある著作出版を取り締り、市中の私娼を放逐し、士気を鼓舞し武芸を奨励す、更に外国の事情を察して、文政八年の外国船打攘ひ令を改め、総州印幡沼を開鑿し、江戸大阪十里四方に於ける旗本の領地を公収して、他に転封せしめて幕府の財政を理するなど改革着々として成りしも、其の作すところは宜しきも過劇直行たるを免れず、ために士民の怨恨を買ふに至った。
 嘗て水戸烈公の国にありて諸政改革の意図あるや、先づ側用人藤田虎之助をして江戸に出で、十三條の伺を為さしむ、依って虎之助越州忠邦の邸に至りて烈公の命を傳へ謁を請ふ、越州は公務鞅掌多端なれば暫く待たれよとて書院に控へしめ、暫時にして越州来り見る、侍臣襖を開けば衣裳整然として直ちに虎之助の前に座し、相去る讒に三尺許にして一揖して問ふて曰く水戸殿御安泰にて目出度存ず今日の御用の由何事なるやと、虎之助頓首して曰く、寡君国政を改正するを以て予め台命を請はんと欲す、越州曰く善し之を陳ぜよと、そこで虎之助先づ一案を提して此の事請願するを得べきや如何、越州答へずして其の次を問ふ、虎之助更に一案を陳じて此の事宮家に制規あるや否やと、越州答へず更に其の次を問ふ、虎之助また一案を述ぶる越州答へざること初の如く、其の次を問ふて積て十三ケ條に止まると告ぐるに及び、越州始めて對へて曰く、第何條は請願許可を得て後に従事すべし、第何條は幕府の制規に触るれば別に思考して再び上申せん、第何條は請願を煩はすに及ばず杯と、虎之助が陳べたる十三條を次第順序を追ふて一も錯らず明瞭に答へ終りて後、今日は好き折柄旁々緩話も致したけれども、公見の者重沓して其の暇なければ請ふ許容せよ、水戸殿に宜敷と云ひ放ちて俄然座を立ちて入る、其の風釆堂々として覚えず粛然たらしむるものがあった。 

 同十四年閏九月十三日事を以て職を免ぜらる。是より先き将軍平生の膳部に煮魚を侑むる毎に嫩薑を添ふるを以て例とせしが、特に其の美味を感ずる程にもあらざれば、之を嘗むることあり又味はざることもあった、一日将軍膳に就き煮魚を御し俄に嫩薑を思ひ、給仕のものに取り落せるにや尋ねけるに、其の者答へて曰へるに、何の日の発令に自今嫩薑禁止の目ありしにより、農家は其の令に服し作り出さゞるによればなりと答へ上げければ、将軍頭を傾け不審して蔬菜果瓜の類其の季節に及ばざる者を強て造り出さば.一は以て奢奢侈の漸を開き、一は以て有生に益なければ之を禁ずること然るべしと越州が建議により、其の道理に當れるを以て之を許可せしと雖も、嫩薑の如き膳味を添ふる者まで禁絶せしとは思はざりしと云へるを、姦人等之を聞知して、今回の諸政改革は悉く将軍の意中より出でたるものでなく、中間に於て越州の取り計らひて将軍の関知せざることもありたるを測知し、其の隙に乗じて之を離間すべき端を発見し、陰暗の裡に策を廻らし陥策に腐心す。偶々将軍日光社参の時越州扈従に列せざるの時を好機として熟謀を遂げ、其の帰城するも未だ之を発せず、陽に之を褒賞して懈らしめ、然る後機を相して之を行ひしかば、其の謀計的中して遂に罷免せらるゝに至った。弘化元年再び閣老に補せられしも、其の威權亦昔日の如くならず、二年二月職を辞す。九月に至りて在職中不正行為ありしとて加恩地一萬石本地の中一萬石合せて二萬石を別封せられ、蟄居に処せられしが、四年二月十六日其の病危篤に及ぶや、幕府其の譴を解く、同日卒去せり、其の実既に十日に易簀せしものであった、下総国山川萬松寺に葬る。越州の末年哀むべきものあり、されど彼の奉公は病ましきものあるにあらず、急激の改革に對して侫者の反噛に遭ひたるものである、之と當藩に関せずと雖も其の前身は比の地の出である。




   八、小笠原氏 
          文政元年(二四七八) 明治二年(二五二九)

  其一、小笠原氏祖先の偉勲

 小笠原氏は、清和源氏の流れを汲める新羅三郎義光より出づ、義光は伊予守頼義の第三子である、兄陸奥守義家と共に後三年の役に功あり。義光の曾孫遠光甲州加々見の地に居り加々見次郎と称す、其の兄武田信義と共に源頼朝を助け平民を討ちて功を奏し信濃守に任ず。其の子長清甲州小笠原の舘に生れたるを以て、加々見氏を改めて小笠原氏と称し、父と共に平氏を討ちて又功あり、承久の役には中仙道口の大将となる、父の職を襲ぎて信濃守に任ず、是を小笠原氏の始祖となす。子孫世々信濃の守護となりて同国深志の城に居り名将家と称す、其の名竹帛に垂るゝもの世多く之を知る、長清より十五世の孫大膳太夫長時の代に至りて、武田晴信と兵を交へ遂に敗れて會津に走り蘆名氏に寄る、其の後織田氏が武田氏を滅ぼす時、深志の城を以て木骨義昌に與ふ。幾何ならずして織田信長其の臣明智光秀の為に弑載せられ、信濃の地守りを失ふ、長時の子右近大夫貞慶其の隙に乗じ、舊臣を糾合して深志の城を取り、父祖の遺業を復す。是の時に當り徳川・上杉・北條の三氏交々兵を出だして信濃の地を争ふ、貞慶其の間に介して獨立すること能はず、或は上杉氏に属し或は北條氏に味方し、竟に徳川氏に徒ふ、後又志を豊臣氏に通じた。其の徳川氏に属するや嗣子幸松丸出でゝ氏に質となり、其の長臣石川数正の家に寄る、数正が徳川氏に背きて豊臣氏に降る時、幸松丸を伴ふて行く、蓋し数正貞慶と窃に謀を通じたのである、幸松丸元服を加ふるに及び、秀吉其の偏名を授けて秀政と名け兵部大輔に任ず。豊徳両氏が小牧役後和を講ずる時に至り、秀吉亦徳笠両家の怨みを解かんと欲し、貞慶をして徳川氏の附庸たらしめ、且つ家康の孫女をして秀政に妻はさしむ。夫人は家康の故の世子信康(岡崎三郎)の嫡女にして、其の配織田氏の生むところである、是れより秀政は徳川氏に随属した。
 天正十八年(紀元二二七三)小田原の役に、貞慶豊臣氏の命を受けて兵を関東に出だす時、豊臣氏の逃臣尾藤知定を伴ひたるの故を以て、罪を蒙り領地を奪はる、然れども秀政は徳川氏の姻戚たるを以て、連累の罪を免るゝことを得た。次で徳川氏が北條氏に代りて関東を領するに及び、秀政を下総の古河に封じて二萬石を食ましめ、関ケ原大捷の後二萬石を加へて信州飯田に移封す。慶長十八年に至りて同国松本に転封して復二萬石を加増す。松本は元の深志であって、秀政の為めには祖先以来世襲の領地なるを以て、特に之を授けられたのである。元和元年大阪の役に、秀政兵を率ゐて天王寺口を攻む、軍監藤田信吉の為に組まれて戦機を誤り、慚憤措く能はずして遂に奮戦して死す。秀政に八男二女あり、長子忠修・次子忠眞・三子忠知・四子重直・五子忠度・六子長俊(一に長氏)及び二女は夫人徳川氏の生む所であって、家康の為には外曾孫に當る、故に公及び台徳(秀忠)大猷(家光)の両公、諸子を眷遇すること極めて厚し。長子忠修(信濃守)は父と共戦死したから、次子忠眞(大学助)をして秀政の遺領を襲がしめ、忠修の遺子長次(幸松丸)及び三子忠知には別に釆地を授けらる忠知は即我が小笠原家の始祖であって之を天眞公となす、重直は出でて羽州上山の城主松平重忠の嗣子となる。長女は家康の養女となりて阿波侯蜂須賀至鎮に嫁し、次女は秀忠の養女となりで肥後侯細川忠利に嫁ぐ。余子は忠眞の為に養はれ、或は其の家臣となる。
 天眞公は初め虎松と称す、幼より秀忠将軍に仕へて寵遇せられ、長ずるに及び壹岐守に任じ、信州川中島井上に於て五千石の地を賜ひ、書院番頭を経て大番頭となり、後奏者番を兼ぬ。寛永九年(紀元二二九二)三萬五千石を加へ豊後の杵築に封ぜられ始めて諸侯に列した。これより先き徳川氏細川忠利を豊前より肥後に転封す、豊前は九州の咽喉であって枢要の地なるを以て、特に其の鎮守の撰を重んじた。是に於て公の兄右近将監忠眞を播州明石より、豊前小倉に移して十五萬石を與へ、公の姪信濃守長次を播州龍野より豊前中津に移して八萬石を與へ、公の弟松平丹後守重直を攝津三田より、豊後の高田に移して三萬七千石を與へ、公も亦杵築に於て四萬石を受け、一家兄弟の領するところ総べて三十萬石に過ぐ、亦盛なりと謂ふべきである。徳川氏が斯の如く小笠原一家に特恩を加へたる所以のものは、秀政父子の戦功忠死を追賞するに由ると雖も、亦一には其の姻戚たるの故である、故に徳笠両家の関係は宗支の如き親みあり、これ我が明山公(長行)が幕府の末路危急存亡の秋に當り、成敗利鈍を料らずして進んで難局に立ち、鞠躬盡力斃れて已まんと欲し、一身に関する毀誉褒貶の如きは措て顧みざりし所以である。
 正保二年天眞公封を三州吉田に移し五千石を加へらる、公に五子あり、長子山城守(長矩始め長頼)に封地を傳へて四萬石を領せしめ、三千石を三子長定(数馬後丹後守)に、二千石を四子長秋(外記)に分ちて幕府に仕へしむ。二子忠敦(出羽)五子長一(彦次郎)は早く死す。山城守奏者番を以て寺社奉行の職を兼ぬること十三年、卒して長子壹岐守(長祐)嗣立す、子なし、弟佐渡守(長重後に長亮)を養ふて封を襲がしむ、佐渡守は五代将軍綱吉の時に寺社奉行を歴て、京都所司代職に補せられ令聞治続あり、従四位下侍従に叙す、尋で老中職に挙げられ、一萬石を増して武州岩槻に移さる。六代将軍家宣の未だ世子たる時に、西丸附となり一萬石を加へられ、家宣立ちて将軍たるに及び復職せしも、幾何ならずして致仕して封土を次子壹岐守(長寛後に長*(ニスイニ煕))に傳ふ、長子長道(兵助)父に先ちて卒したるを以てなり。将軍家宣の薨ずる時薙髪して峯雲と號し、城北幡ヶ谷の地に隠棲す、壹岐守封を襲ぎ幾何ならず遠州掛川に移され、嗣子なし、族子山城守(長庸)を養ふて子となし、其の女を以て之に配す。城州公嗣立して早世す、長子能登守(長恭)遺封を襲ぐ、年末だ幼にして、封内に小変あるの故を以て奥州棚倉に移さる、蓋貶配せられたのである、然れども租額を減ぜず。卒して長子佐渡守(長堯)嗣立す、之を南萼公と称す、公賢明にして能く士に下り民を恤む、幕府重く用ゐんと欲し奏者番となし閣老の侯補に擬するも遂に果さず、父老今に至るまで其の徳を称してゐる。


  其二、第一代長昌、
     第二代長泰、
     第三代長會(オ)、
     第四代長和(カヅ)


 長堯の嗣子壹岐守長*(王爰)父に先ちて卒す、其の弟主殿頭(長昌)を立てて嗣となす、如ち明山公の父親にして霊源公と称す。材徳竝び高く勤倹下を率ゐ、力を農桑に盡して士民其の恩澤に浴す、封を襲ぎて幾何ならずして我が唐津に移さる、蓋し幕府の恩典に出づと云ふ、時に文政元年にして実に小笠原氏當城の第一祖である。越えて六年九月廿九日卒して、江戸駒込龍興寺に葬る。遺子明山公幼にして嗣立すること能はず、羽州庄内侯酒井左衛門尉忠器の弟鎌之助(長泰)を迎へて嗣君となし、其の封を襲ぎて佐渡守に任じ後壹岐守と改む、其の後壹州公疾ありて藩政を視ること能はず、致任して養子能登守(長會)に封を譲る。公実は一族弾正少弼長保の次子にして霊源公の外甥である。天保七年二月十九日江戸に没し、同く龍興寺に葬った。養子佐渡守(長和)襲ぐ、公は郡山侯松平保泰の九男である。天保十二年丑年正月二十三日卒して、當地瑞鳳山近松寺に葬る。
 同寺境内の乾の方に當りて幽厳なる塋域がある、是ぞ佐渡守長和永眠の霊区である。方形の切り石を以て畳める塀割は、東方に面して、幅員約四間側幅約六間の囲壁をなし、相應しき木造の唐門を構ふ、之を入れば後側に近く、幅一丈二尺側一丈六尺計りなる石の玉垣を設け、冠木門造りの石門がある、表に三階菱の定紋を彫み背に唐草模様を刻せる石扉を備ふ。内庭は悉く石を敷き列ね、其の中央に碑塔鎮座す。碑面に祥鳳院殿前佐州大守端巌崇輝大居士の法號を見る。塔身高五尺二寸方二尺三寸の方塔にして、頂は四方より斜に刷り上げて中央に一尖角を残す。臺礎は三階にして、上階は方三尺七寸高一尺七寸、次階は方五尺一寸高一尺五寸、下階は二石を以て造り方六尺五寸高一尺あり。外壁の左隅に接して、一間半に二間弱の面積を有する土造作りの祭器庫ありて、総て結構を盡してゐる。
 歴代藩公の墓碑の此の地に存するものを見るに、実によく時代思潮の反影表徴を示すものであって、寺澤、大久保の碑塔は、徳川幕初の雄大なる封建的思想を寫出し。土井・水野の碑石に至りては、形体漸く小にして技工を弄して、幕府中頃の太平の風韻を帯び。小笠原氏の墓碑に至りては、前者に比すれば塔身倭小なるも、精緻巧麗なる点あるは遙に前者の及ぶところでない、世は十二代将軍の時代にして華飾の風行はれ、また漸く世事多端ならんとするの時であれば、巧怜なる表徴を現すは、また面白き對照と云はねばならぬ。



   其三、第五代 長 国

第五代佐渡守長国は賢之進と云ひて、実は松本侯松平光庸の次男なりしが、入りて長和の嗣となり其の遺領を襲ぐ、これ我唐津最後の藩君として維新廃藩の時に及んだ、公に関する事柄は次節長行公の條にて略々之を知ることが出来る。明治十年四月二十三日卒す、壽六十五歳、東京下谷区谷中天王寺に葬る。


   其四、長行公


 一、幼壮時代の公
      
 壹岐守長行(ミチ)は、藩君たるに至らざりしも、五代長国の養嗣子として藩政に関り、殊に幕末史中の一異彩であれば、稍其の記傳を詳述するであらう(小笠原家文書に拠る) 
 明山君字は国華又の字は伯華山、明山は其の號である(封内の領麾巾山一名鏡山と称す鏡は明なり之に拠りて號となす)幼名を行(ミチ)若と称し後敬七郎と改む。文政五年壬午五月十一日唐津城本丸に生る、霊源公の長子にて、嫡母は元の唐津侯水野忠光の次女にして、生母を松倉氏となす。公の生まるゝ翌年即ち文政六年九月二十六日、霊源公江戸外櫻田の藩邸に於て下世す。この時公をして遺煩を襲がしむるを當然とす、然れども事情の存するものありて襲封を得ず、是れ公の為に不幸に似たれども、後年徳器成就して大名を天下に擧げたるものは、亦之に由ると謂はざるべからず。當時公が先考の遺領を襲ぐこと能はざりしは、公尚幼にして公役に服すること能はざるが為である、幕府の制に我が唐津藩主となるものは、同国島原藩主と隔番に長崎巡視の職を負ふを以て、毎年一回必ず長崎を巡回し、其の動静を視察して、幕府に報告せざるべからず、故に若し幼主にして其の職務を執ること能はざれば.他国に轉封せざるを得ず、然るに公の先祖久しく棚倉を領し租額六萬石の名あるも、領土各地に分割せられ(城附奥州常州の内にて三萬五千四百十七石羽州村上郡の内にて壹萬九千七百二石豆州君澤四方両郡の内にて四千八百八十余石)。収入時に由りては実額に充たざることあるを以て上下共に疲弊を極むるに至った、加ふるに数年前東西懸隔せる数百里の唐津に轉対せしを以て、其の移轉の為に費すところ貿られずして国帑益々空乏を告ぐ、比の際復他に轉封するときは、国帑遂に支へざるに至らんとす、故に或は他より長者を迎へんと欲し、或は轉封の憂に逢ふも血統の幼主を立てんと欲し、藩論紛々たりしも、有司遂に他より長者を迎ふることに決し、乃ち庄内侯の介弟を迎へで嗣君となし、公の生れしことは秘して幕府に告げず、長く廃人となし、城内二ノ丸の西館に置き(西御住居と称す、叔母徳姫の居る東御住居に対して云ふ)藩士小川正直(源左右衛門)等をして保育の任に當らしむ。公十二歳の時天保四年天休公(佐渡守長泰)病ありて公務を奉ずる能はず、闔藩の士民公の聡明にして且つ先君の血統なるを以て継嗣に立てんと切望す、困りて季父長光修理(藩人呼んで朱門公子と称す)老臣百束持雄(九郎右衛門)等公を伴うて東し、濱松侯水野忠邦に就いて斡旋を乞はんとす、當時侯は閣老の職に在りて、公の嫡母水野氏の兄たるを以てなり、侯は姻戚引援の嫌を避け却って力を盡さず、公を延見するに及び其の尚幼冲にして、且つ躯斡の短少なるを相て岳牧の任に堪へずと思ひ、一首の和歌「君が家の梅の立枝はしらねどもあるじ顔にも見えぬきみかな」と詠じ、長光等に與へて継嗣の事は望むべからずとの意を諷した、是を以て長光等は事の遂に成らざるを察し、翌年に至り公を伴うて空しく帰邑するに至った。かくて公は世子に立つことを得ず、庶子の待遇を受けて久しく蟄居し、二十一歳の時天保十三年江戸に移りて、深川高橋の藩邸中に在る一小亭(背山亭と號す)に住み、数人の侍者を使役し、一ケ月僅に拾五両の給養金を受くるに過ぎず、故に尋常の人ならんには少しは不快の感も起すべき筈なるに、幼より藩の督學村瀬文輔・大野右仲に就いて文學を修め、江戸に移りて後は當時の碩學松田順之(迂仙)朝川鼎(善庵)等に師事して、聖賢の道を聞き文藝の事を學び売れば、天性の温良恭謙なるに加ふるに徳教の化及びて、一毫の憤懣不平の気なく、他家より迎へたる数代の藩主に仕へて孝悌の道を盡せしことは、普く人の知るところなるのみならず、其の師とする處の朝川・松田等の碩學に事ふるにも、亦善く恭敬の誠を致したのである。又公は名門の出なるに能く布衣の交りを結びしかば、當世智名の士羽倉用丸(簡堂)、藤田彪(東湖)、鹽谷世弘(宕陰)、安井衡(息軒)、野田逸(笛裏)、川北里熹(温山)、藤森大雅(弘庵)、斎藤馨(竹堂)、田口克(竹州)、西島*(車兒)(秋航)の徒を始めとして門下に候するもの陸續踵を接す、故に令名嘖々として遐邇に鳴り、或は信陵君に此し、或は田中侯本田正寛の弟正訥・高錫侯秋月種殷の弟種樹を併せて三貿公子と称するに至った。又小笠原の二敬と称するときは、兒童走卒も才學に富みたる賢公子であることを知る。其の二敬と称するは公の通称敬七郎にして、安志侯小笠原長武の子貞大も亦敬二郎と称し才名高かりしを以てなり。然れども公は却て其の名の高さを厭ひ、自ら箴戒の辞を作りて怠慢の情を制するに至りしは、其の謙徳の程を知ることが出来る。公は又其の蟄伏せる時に於ても武技の研讃に怠らず、所謂文事あるものは必ず武備あるの心を忘れなかった、最も騎射の術に長じたり、また高島舜臣(四郎太夫)、江川英武(太郎左衛門)、に就いて泰西の砲術を講究した、加之藩邸の士を督励して武技を練修せしめたることは、一時士林に傳唱せし公が自作の合江園濱武記(園は深川高橋の藩邸内に在り)に明である。
 嘉永六年(紀元二五一三)六月米国の水師提督ペルリ浦賀に来りて互市を乞ふや、朝野の間和戦の利害開鎖の得失を諭ずるもの甚多し、公以為く身に官守なく言責なしと雖も、是れ国家の大事黙止すべからずと、同年七月意見を記して、當時外交の議に與かれる水戸中納言齋昭に贈りて、幕聴に達せんことを乞ふ、頗る長文に渉れば其要領のみを揚げん。

 上略 説者或曰、宜互市、或曰、利決戦、二説紛々未知孰勝、而言互市者十居其八、長若奮謂今 之言互市者、非暗必怯、今之言決戦者、非暴必愚、何則互市之害遅而大、決戦之害速而小、遺大害而懼小害、是固不可従也。雖然人心未固、器械未備、而倉猝開兵端、一戦敗衂、使無罪生霊陥塗炭、遂踵満清覆轍、是亦不可不深慮也。然二者皆其末也、蘇軾曰天下之患莫大於不知其然両然者、不知其然而然者、是拱手而待乱也、夫軾以水旱盗賊權臣専制不為憂、而以不知其然而然為憂者何也、天下之事有形者易制、無形者難治、今彼虎狼鋭牙利爪以摶噬人、是信可畏也、然人欲補之則井可以陥検可以*(金従ホコ)若雷霆則不然聲可聞也、而目不可見也、目可見、而手不可捍也、今蠻夷交侵、邊鄙不寧、其勢雖若可畏是虎耳、是狼耳、天下之禍亦有若雷霆者也、紀綱廃弛、風俗頽敗是耳、夫欲肥技者必先冀其根、欲治外者必先和其内本薄而末厚、内乱而外治者、未之有也。長若有四策、請試陳之一目、定国是国是己定、則民知所嚮、管子云禮義廉耻国之四維、四維張乃君會行、四維不張国乃亡、謂先定国是也、當今之時亦須張四維奮士気以為国是。二日擧賢才所以国之廃興存亡者、職由人才有無国之有人才猶燈之有、膏魚之有水也、然世衰事繁、必任法為治、任法為治、則賢者無所用、其賢能者無所用其能、賢能不用則人才必屈、是自然之勢也.孟子曰不信仁賢国空虚、豈不然乎。三日敦教化、夫飢思食、寒思衣、人之常情也、寒焉而不服盗之服、飢焉而不食盗之食、可欺不可誣、可殺不可辱者、教化使然也、宜敦教化以固人心。四曰去浮華、今世外有強梁之冠、内有鼠竊之盗宜精器械厳守備以制之、而其費幾百萬、非節用不可為也、節用之要在貴實用、貴實用須先去浮華、世之説節倹者、皆曰、悪衣服菲飯食抑末也、長若竊察近代之風俗徴求促急、而諸侯困弊、賦斂過重而民無所告訴、浮文虚飾、相競成風、貨賄公行、姦史悩人、是財之所靡也、是之不問而衣食之察、記曰放飯流*(又又又又酉欠)而問、無歯決是之謂不知務若先去浮華則諸侯與百姓財自足、末有其子富而其父貧者、未有其下足而其上不給者、故曰節用在去浮華。吁此四策雖似迂遠、亦厚木和内之一術也、内已和、本己厚、則墨賊英夷之徒、雖竝侵邊徼、焉足懼乎、若夫製大銃築*(石馬交)*(工鳥)造大艦、其人倶存、長若不贅辯也 下略

 以て公の意志が何の邊に存せしかを知るべし。公は是より益々邊釁を豪へて、翌年七月幕府が堀織部正利熙・平山謙次郎・水野正左衛門等をして、V夷樺太の由を巡視せしむるや、侍臣村瀬文輔・長谷川立身を平山に托し、其の従者となして北地の動静を観察せしめた。
 外交のこと日に困難に国前非なるの時、眞に国家の難を救ふの人材を要するのである、我が明山公は實に衆望の帰する所である。然れども公は庶子である、上之を擧げ下之を推すものありと雖も、直に執政に登庸することは當時の制度及び事情の許さざる所である、依って藩の世子に立て然る後閣老に推擧せむとするに至った。この間を斡旋盡力せるものは、内にありては老臣西脇勝善(多仲)及び藩士尾崎念(嘉右衛門)、大野右仲(又七郎)にして、外にありては鹽谷世弘(甲蔵)、安井衡(仲平)、藤森大雅(恭輔)、田口克(文蔵)、勝野某(豊作基山と號す、幕臣阿部次郎の臣)等の碩儒である。然れども其誌澁滞した、そは當主佐州公尚公より齢二歳少きに、父子の義を結ぶは不倫たるのみならず、他に斯の如き類例の稀なるを以てなり.而て佐州公の意固より料るべからず、其の實父たる松本老侯の意も亦料られず、萬一其の議中途に發露して其り意に逆ふときは、斧*(金?カマ)の刑を免かれざるのみならず、累ひ公に及ばんとす。故に其の議を建つるものは極めて之を秘し、窃に手を盡して其の類例を他に捜索せしに、幸に酒井家小濱侯に其の例あるを發見した是に於て徳島の儒臣片山某をして其主阿波侯松平齋裕を説かしめ、高知の儒臣安岡某をして其の主土佐侯山内豊信を説かしむ、二侯は有力の諸侯であって、殊に阿波公は徳川の連枝にして文恭公(十一代将軍家斉の第二十二子)又我が笠家と姻戚の関係あるを以て、期の事を處理するには最適當の人なればなり。二侯異議なく同意し、書を佐州公に寄せて公を継嗣に立つることを説き、且つ阿波公は柳営に於て面のあたり佐州公に説いた、佐州公其の説を容れ、在府の老臣多賀高寧(長左右衛門)、百束持盈新、西脇勝善を召して之を謀り、且つ其の類例あるやを問ふ。三老臣も亦其の議に賛同し、退て類例を調査し、先に勝善等が窃に探ぐりし酒井家の例を得て献ず、依て其の議始めて決し、安政四年八月三日(紀元二五一七)公を一門に列することを幕府に聞す。(曩に公の出生を幕府に告げざりしを以て是の時の届書には小笠原茂手記二男小笠原敬七郎此度一門引き直す云々とあり茂記は一門修理の養子である)、公既に継嗣となるに決す、佐州公老臣と議して多く侍臣を附せんと欲し、持盈なして其の意を傳へしむ、公益々卑謙し書を持盈に與へて固辭した。
 同年九月十八日佐州公は公を養子となすことを幕府に請ひ、同月廿一日之が允許を得た、これ公が三十六歳の時である。公の継嗣問題斯く速に結了せしは、幕奥の老女歌橋なるものが曾て公の詩を台覧に供せしことあるも、其の一因ならんと云ふ。
 同年一月朔日佐州公に従ひ始めて登営して将軍家に謁す、是の日下馬場に控へたる諸藩士公の儀仗を望見し、これ他日の閣老なりと、當時公が名聞の高きことを推して知るべきなり、同年十二月十六日従五位下に叙し図書頭に任ず。
 是に於て公の為めを計れる諸碩學及び有志の徒は、公を閣老に推擧して初志を貫かんと欲し、土佐老侯(豊信後に容堂)も亦幕府をして公を擢用せしめんと欲し、先づ其の器度を試みんと欲し、使を遣して公を其の邸に招く、公事に托して行かず、乞ふこと再三に及び遂に行く、老侯宴を設けて公を饗す、酒酣にして公を罵って曰く、内憂外患交々起り幕府の危急存亡の秋なり、卿等の如き譜代恩顧の徒は、朝暮余輩国主の門に伺侯して主家救治の策を問はざるべからず、然るに屡々位を遣はすも尊大自持して遽に来り見ざるは何ぞや、と杯を擲ち席を蹶って奥に入る、使者皆愕然たり、一人進み出でゝ謝して曰く、寡君今日の事臣等其意を解する能はず、想ふに酔後の妄行深く咎むる勿れ、明旦改めて不敬を謝すべし、請ふ速に駕を回せ、公泰然として封へて曰く、是等の些事何ぞ意に介するに足らん、僕も亦既に酔へり若し晩餐の用意あらば願くば一箸を下すを得んと、徐ろに之を喫して帰る。明日侯閣老某を訪ひ、告げて曰く、図書頭器量常を披く用ゆべしと、依て推薦すること頗る勉む、然れども當時尚舊例古格に拘泥すること甚しく、徳川氏開封以降諸侯の世子にして老職に擧げられたるもの稀なるを以て、其の議沮んで行はれない。侯が招宴の翌日公に寄せたる書を揚ぐれば。

 昨日は御来駕被下候處爾来御安全奉雀躍候、主人酔中之振舞別而御目撃御驚愕被成候と奉存候、是則容堂先生之本色若し倨傲不敬御○○被成候はば、如此無禮者御遠けにて可也、若し又足下量如大海御叱罵無之候はゞ、不相更接謦咳可申候、僕性強頑大抵如此御座候大笑抛筆、
    念七
  御頼之拙筆差出申條不一。


 事の沮格斯くの如くなりしかば、藩中末流の輩は遺憾に思ひ、其の目的を達せんには佐州公を退隠せしめて、公を當主に仰がんと窃に企図せしものありて、先づ人を以て佐州公の實父松本老侯を諷諭せしに、侯は之を不快に感じて拒絶した。ために佐州公と公との交情自ら隔意を生ずる傾向あらしかば、藩中公の志を得るを以て己の不利となす小人は、其の隙に乗じて公の地位を動かさんと謀り、陰に大殿黨と若殿黨とに分れて相闘ぐの悪弊を生ずるに至った。而て當時公は、公の人と為りを知らざるものより、誤りて水戸派の人なりと称せられたるを以て大老井伊直弼(掃部頭)の為に大に忌まれた、故に大殿黨の一派は井伊氏の勢力を籍りて其の目的を達せんと謀りしかば、公の地位極めて危かりしも、偶々井伊氏の斃るるに會し、其の禍を免れしは幸であつた。一時期の如き悪弊を生じたれども、佐州公は元来温良の君である、公は亦前述の如く義父祖に能く仕へ、殊に佐州公に仕ふることは所生に仕ふるにも過ぎたりしかば、遂に佐州公の意も和ぎて、父子の情好益々親密となるに至った。


   二、藩政を見る

 安政五年二月(紀元二五一八)佐州公の名代として唐津に帰り藩政を執るに至る、二十八日江戸を發するに臨み、佐州公自書を裁し在邑の老臣前場景福・百束持盈・高畠蕃綱・大八木住仁に與へて、政事を公に委任することを以てす。四月十一日唐津城に着す、公先に国を出でしより十七年にして帰国す。士民其の令徳を仰慕すること久し、是に於て相慶して賢公子行若君果して我が君たりしと、歓極まりて涙を流すものさへあった。十二月三ノ丸の練兵場(俗に御見馬場と称す)に於て江戸より率ゐ来れる従臣をして西洋流の兵式調練をなさしめて闔藩の士人をして陪観せしむ、蓋し舌兵法が時勢に適せざるを示し、武備の忽にすべからざるを示せるものである。
 同月十九日唐津城を發して長崎を巡視す、奮例に循ふものにて、二十二日長崎に着し、奉行及び目附等と會見し初見の式を済まし、翌日長崎を發し廿六日唐津に帰る治政の第一着手は、同年五月臣下に左の諭達を下して、俸禄の二割引及び役米役金の引高を宥免し、且文武の業を励まし、直言*(言黨)議を求むるなどの善政を施した。


  我等事乍不肖
 大殿様為御名代當表へ罷越追々及見聞候處、彌々上之引米にて家中一同難渋深察入候、譜代恩顧の家の子、無據義と者乍申、有様為致難澁侯事、
 御先祖へ對候ても實不本意之至に候、然る處時節柄厚く致勘辨艱苦相凌致精勤呉候段誠忠感入候也。近来世間何となく騒々敷、公邊にても御事多々にて不容易時節、別に海防筋長崎有事等、武備心懸無之而者不相成事故、如何様とも致遣存候得共、勝手向不如意にて何分不行届残念此事に候、依之従當年手取二割竝役米役金丈之處、先差免候、尚追々差含候儀も有之候間、此上共上下致一和共々艱難相凌、
  御先祖へ對し益忠勤相励可申候、且又文武者国之元気に候間、難澁と乍申不相替致出精呉候様頼入候。惣じて上下之情隔候事、第一治国之大害に候間、我等過者勿論其外心付候儀者、口上書取何れにても不苦、聊も無包隠眞直に可申聞、君臣一致肝要之事に候、此義大殿様にも探御心配被為仕、我等より宜敷申達候様兼々被仰付候、猶委細者家老共より可申聞也

 前述の如く、公の先代掛川より棚倉に轉封せらるゝや、租額六萬石の名あるも、實収之に充たざることあり、故に従来の臣下を養ふこと極めて困難ならしかば、禄制を変革して其の称呼の額と實際支給の額とに著しき差等を立てた、例へば知行百石を與ふと称するも其の給する所は左の割合である、但し高禄のものは其の減額の割合多きも、少禄のものは其の減額の割合が少ない。


  食禄百石を與ふるものに渡す割合

 一、大豆  六斗
 一、糯米  参斗
 一、玄米  六石貳斗五升参合
   但十二ケ月に割り毎月五斗二升一合宛渡すものとす。
 一、同   七石零八升
   但是は四人扶持として亦十二ケ月に割り前項の石数に加へて渡すものとす。
   計
    大豆  六斗
    糯米  参斗
    玄米  拾参石参斗参升参合

   外に
 一、玄米  参石参斗参升参合
   但是は二割引米と称し毎年二期代金にて渡すものとす然れども勝手向不如意の場合には引上げ切りとなすことあり。

 右の如く實際の支給額を減少せる上に、安政二年江戸大地震のため藩邸改築等の用度多きを以て之せ償ふため二割り引米となす、或は毎年二期代金にて支給することあるも、亦米価の見積り低廉なるを以て、被給者の為には甚不利益とす、故に減額をなしたる代りに、家屋の修繕等は一切藩費となし、従僕の給料及び薪炭紙薬の価の如きは、或は其の金額を給し、或は其の幾分を補給し得失相償はしむるの割合となし、又家老用人番頭等の重職には、別に役米を給する制ありと雖も、要するに他藩の禄制に比すれば減額最甚しきものとす、公常に之を憫む故に、先づ當時引き上げ置きたる二割米及び役金を宥免せしものなり。また七月には諭達を發して、藩士をして文武の業を励ましむ。屡々領内を巡廻して、善行あるものと農業に励精するものを視察し、褒賞奨励せしこと尠からず。毎年秋冬の交、水旱虫害に罹りて稔穀鮮少なる時、農民上申して納税を減ぜんことを請ふや、吏を發して之を踏査す、之を検見と云ふ、其の検見を為すや吏極めて多く(二十三人)儀式荘厳に過ぎ、村吏は吏の意を迎へて供奉極めて厚く、動もすれば其の減じて得る處費す處償はず、加ふるに巡視の吏と村吏と結托して奸をなし、民其の弊に耐へない。公之を察し是の歳十月寒威凛烈の日突然二三の侍臣を率ゐて柏崎村(今の久里村の内)に至り、検見の場に臨みて其の實況を目撃して吏を戒め、後検見のある毎に自ら巡検し、或は窃に侍臣を遣はして其の情況を視察せしめた、吏これより畏れて奸をなさず、儀式簡易に供奉減ず、民大に喜ぶ。十二月廿五日には諭達を發して、臣下の窮乏を救へり。公の唐津を治むること満三年の間、屡右の多き達示を出して言路を開き、文武を励まし勤倹を奨め、窮乏を恤むことを勉めしのみならず、自ら奉ずること極めて薄く、常に麁服を着麁衣を用ゐ、監国世子の身を以て後殿の使令に供するもの僅に数人に過ぎず、其質素なること背山亭に住みたる時の生活に異ならず。政務の余暇には儒臣を招きて、近侍及び藩士の學を好むものを集めて経史を講論せしめ、自ら其の席に臨みて聴聞し、課業終れば茶菓若くば酒肴を出だし、共に胸襟を披いて世事を談じ、時に或は夜を徹するに至る、又屡志道館(藩校)、演式場に臨みて授業の實況を閲覧し、勉励衆に超ゆるものは不次に擢用し、或は臨時に褒賞を與へしかば、闔藩翕然として文武の業を励むに至った。

 同六年正月公は醫學館に臨み授業の實祝を覧て、學頭保利文溟を召して奨諭した。従来藩内に橘葉館と称する醫學校ありと雖も、微々として振はず、公常に其振作を期せり、故にこの事ありたり。爾後屡其事に與る醫師を召して奨励す、是より醫學大に振ふに至った。五月五日西洋流の練兵術を學ぶ者を蒐め鏡山の巓に於て調練を為さしめ、訓示を與へて士気を励ませり。十一月例に依りて長崎を巡見す。十二月藩士に金を恵みて其の窮乏を救ひ、文武の道を奨め品行を謹むべき等を訓戒した。

 同七年正月五日城下の富商山内小兵衛、公が屡善政を施して領内の士民其の徳澤に浴するを感じ、金百両を献ず、公之を嘉納した。其の後又名護屋村山口久右衛門の献金、其の他富豪の金を献ずるものあり、公其の志を賞せり。然れど濫りに使用せず、多くは窮乏を賑恤するの資に供せり。閏三月長崎を巡視す、三日唐津を出で九日帰唐す、蓋し是の歳三月三日大老伊井直弼(掃部頭)水戸浪士の為に刺されて死し、物情騒然たり、故に巡視の期を早めたのである。帰路領内畑島村(今の鬼塚村の内)にて、山田村(同上)の農岩助の祖母ふき女を召し見て、其の壽を祝し手づから物を賜ふた。ふき女今茲百歳尚ほ矍鑠たり、曩に手作の米一苞を献ず、公は銀及び物を賜ひて之に酬ひ、且つ司農の吏(郡代)として慰撫せしめた。五月ふき女疾みて臥すと聞き、近臣数人を従へ岩助の家に至りて其の疾を問ひ、ふき女が常に用うる咽管を取りて、自ら莨葉に火を點じ之を與へ、且金員醫薬を恵めり。公は老人を遇すること極めて渥きこと斯くの如く、其の領内を巡回する毎に、尊卑の別なく老人を召し見て物を賜ふ。七月領内の長壽者を具申せしめ、八十歳以上には木錦一反、九十歳以上に木綿二反を賜ふた。

 同年六月廿一日老臣前場景福罪あり、其の職禄を剥ぎで致仕せしむ、是れより先き景福暇を乞うて三社に賽せんと欲し(藩制士人の妄りに他邦に行く事を禁じ士人をして金を醵し當箋を以順次に太宰府天満宮、筑後の高良明神、肥後の清正公の参詣を為さしむ之を三社詣と称す)、發程の日領内相知村に泊し、村中の婦女を集めて盛宴を張る。公當時屡命を下して風規を厳にす、後此の事を聞き以為らく法の行はれざるは上に居るもの守らざるに由る、是れを以て痛く懲らさゞるべからずと遂に世の命をなせり。景福執政の首席に在りて自ら風紀を破る、其の罪因より軽しとせず、然れども其の犯す所に至りては亦重しとせず、而て公は平素老臣を待する事極めて渥し、然るに平素の意に反して此の厳譴を加へしは、蓋し亦他に故あるのである。公の先世数代の君皆他家より来りて笠家の統を継ぐ、故に概ね事を宿老の臣に委ね身は垂拱して成を守るの風がある。公の国を監するに及び自ら事を執りで励精治を図り、.舊来の積弊を釐革す、故に久しく権威を振ひし老臣及び荀且偸安を事とする有司等は、窃に之を喜ばず、往々国帑の空乏等に託して其の盛意を沮みしかば、公の意常に楽まず、加ふるに先に廃嫡論の江戸藩邸の中に發生する報あるを以て、公は東上して其の害を除かんと謀りしも、亦老臣等に支へられて其の意を果さず、景福に内意を含め代りて東上せしめんとせしも、又事に托して意に應ぜず、故に中老福田直興をして東上せしむるに至った。偶々景福罪を犯すに會す、是に於てか公は又一身の利害を顧みず、奮て此の宿弊を一洗せんと欲し、遂に此の英断を施したのである。而て廃嫡論の主張者たる疑ひある足立兵左衛門・岩崎源兵衛を江戸より召して糺明せしも、其の要領を得ざりしかば、九月に至り鳥羽信徳を密使として江戸に遣はし、其の事情を探ぐらしむ、信徳は多賀高寧の實弟にして、當時在府の家老西脇勝善・用人多賀高景とは叔姪姻戚の関係あり、故に其の事を探査するに便宜を有するを以てなり、信徳江戸に到り、佐州公に謁して詳しく公の赤心の存する所を愬へしが、佐州公の疑惑も亦氷解し、其の黨類を糺して足立・岩崎及び吉倉唯一、青木呉平の四人を幽屏せしを以て、全く無事に局を結ぶを得た。是れより宿老及び有司皆公を畏れて、敢て其の命に抗するものなければ、公も益々力を国事に展ばすを得た。故に公をして尚ほ数年間唐津に止まらしめば、其の施設計画する所大いに見るべきものありしならん、然るに間もなく東上して幕府に擢用せられ、専ら意を藩政に注ぐ事能はざりしは、士民今に至るまで憾みとするところである。公は斯くの如く景福を厳譴せしかども、其の罪軽くして其の罰重きを憫む故に、翌年正月其の子小五郎に世襲の禄五百石を與へて先手物頭と為し、後江戸に召して寵任せしは、父の意を慰むる深衷なりしと云ふ、又廃嫡の主唱者たりし四人も一時は罰せられたれども、公は少しも意に介せず閣老となりし時、第一に此の輩を抜きて要職に用ゐしかば、闔藩公の處置の公平なるに心服し、今に至るまで其の善政の一に数へてゐる。

 同年九月有司に命じて封内の農商より祠官僧侶の徒に至るまで、盡く自家の利害藩政の得失並に其の希望の事を記して、目安箱に投ずることを示達す、目安箱とは従来、城濠に沿ひたる街頭に備へ附けし投書函の事である。今其の令一たび下りてより、封書を目安箱に投ずるもの前後数百千通の多きに及んだ。公自ら一々之を検閲するに讒誣非望に渉る説多き中に、名護屋村の里正松尾兵左衛門・直太郎父子の述ぶる所、公の意に副ひ、特に検見の弊を述ぶること最も適切なりしかば、公大に之を嘉みし、是の歳十一月古城を登覧せんと名護屋に到りし時父子を召し見て、懇に賞詞を與へ爾後尚ほ見る所あらば忌憚なく建白せんことを諭し、且つ物を賜ふ(筆架、注水壺及び菓子皿)。公は其の封事を検閲して、其の行はるべきものと認めたるものを抜萃し、十一月中旬之を郡宰に下附し、且つ誨告を加へたり。


 文久元年二月十九日(紀元二五二一)、米三千俵金百参拾両を農民に、米百五十俵金廿両を市民に施し、別に米三千俵を農民に百五十俵を市民に貸與して年賦返納せしむ、其の出す所通計米六千三百俵金百五十両にして金は則ち内帑より支出せるものとす。是より先き比年水旱の害ありて五穀登らず民菜色あり、公深く之を憫み賑恤する所あらんとし、屡々吏を戒めて冗費を節せしめ、又自ら勤倹下を率ゐて貯蓄に勉めたるを以て、其の効忽ち顕はれ、政を施す事僅に三歳にして此の盛擧を見るに至った、民皆蘇息の思ひをなして其の仁徳を謳歌し、歓聲相傳へて四境に達す。同月寺社奉行職のもの宗旨改法を釐革せんと欲し、其の方案を備へて稟請す、公之を閲して其の方案中僧侶の為に不便利なるものあるを察し、翌月に至り書を中老近藤祐記に與へ、奉行職のものに諭して訂正せしめらる。
 是の歳二月城下釜屋堀にて大砲を改鋳す、公亦内帑を發して其の費に供した。従来我唐津には城附の大砲十門及び幕府より預かる所の大砲二門あり。城附の大砲十門のことは寺澤氏の記事中前既に述べしところであって、共に寺澤氏以後の城主四氏を経て、遂に小笠原氏に傳へられた。公が唐津を治めて沿海の武備を修むるに及び、其の發砲を試みて粗製實用に適せざるを知り、私に書を長崎奉行岡部駿河守長常に寄せて改鋳の事を謀る、奉行其の適例なきを以て決すること能はず、幕府に稟請して萬延元年正月公許を得た。よりて公は藩士坂本次郎右衛門を長崎に遣はし、勝麟太郎、下曾根甲斐守に就きて製砲術を學ばしむ。次郎右衛門其の業を研究する事数月業を終へて唐津に帰り、翌文久元年二月始めて改鋳に着手して、三月下旬漸く四門(十八ポンド野戦砲一門、六斤野戦砲一門、十五ドヰム臼砲一門、十九ドヰム臼砲一門)を改鋳し、翌月一日領内妙見浦(今の西唐津)にて新製砲の發射を試み、公其の場に臨み自ら火を點じて之を検した。
 同年三月又例によりて長崎を巡視す、今回の行は路を轉じて、伊萬里・有田及び波佐見を経て彼杵に出で、帰路亦之を過ぐ、佐賀侯故らに吏を派して其の道路を修繕せり、蓋し公に敬意を表せしものなりと云ふ。
 同年四月江戸に参勤し、四日唐津を發し五月十六日(一に十七日とあるは誤り)江戸に着せしが、其の發程前一日左の達示を老臣及び郡宰に下せり。

 文武之儀近来一同に相励令満足候、無程致参府候に付而者留守中之儀、懸り役々共致心配候儀者勿論之事に候得共、一統之處も此上無心緩致出精、猶是迄相達候條々も堅く取守候様可被申達置候事、
     酉 四 月
 昨年中申達候儀有之、郷町役人之向其外共、品々目安差出中に者心得に相成候儀も有之奇特之事に候、此旨懸り役人共より夫々へ申達置候様有之度事。
     酉 四 月

 此の示達こそ公が唐津に於ての施政上最終の訓達である、其の後江戸に居るも藩政を改良して士民を休養するの念は、造次も胸臆を離るゝことなく、屡意見を老臣等に致して既往の改革を守ることを勉めしめ、且益々改良を図らしめしも、東西遙に懸隔せる事であれば、其の意を十分に達することが出来なかった。尋て幕府の為に擢用せられたるが故に、天下の事を以て自任し其の頽勢を挽回せんと欲し、東奔西走して寝食を安んずるの暇がない。公の唐津を治むる僅に三年、其の懐抱する所を十分に施すこと能はざりしと雖も、其の年期少くして其の効果の擧りしもの多きは、今人の唱ふるところである。
 公東上して櫻田の藩邸に入るも、佐州公は翌年瓜及の期まで尚ほ江戸に留まるを以て、公は邸中の別殿に住居し謙譲して復た藩政を裁理せず、唯子たるの道を守るのみである。然れども曩に施設計画する所、遂に解頽せんことを惧れ、在国の朱門公子(修理長光)に消息を寄する毎に屡其の意を致すと雖も、公子も亦當時閑散の身なれば、充分に其の意を賛襄すること能はざりしは遺憾である。
 文久二年三月佐州公暇を得て封に就く、五日江都を發し四月十二日唐津城に入る。



  三、幕政参與時代

 六月朔月在府の諸侯登営して将軍家に謁見す、公亦父君に代りて席に列せしが、式了りて将軍家更に藩侯を黒書院に召し、時勢を救済し忠誠を抽きんずべき旨の沙汰があった。是に於て列侯建白するもの多かりしが、公も亦数條の意見を記して之を呈した。
 乍恐以書取奉申上候、近来不容易御時勢に付、御政事向格外御変革被遊度厚思召之段蒙上意難有事存候。何哉御裨益に相成候事も哉と日夜焦思苦心仕候得共、素より短才無智之私何も心附候儀無之候得共、御下問之御盛徳を無に仕り候而者、却而怨入候間、愚存之次第左に奉申上候、一、公武御和熟御眞實之思召より、絶而久敷無之  御上洛被 仰出 天朝之被為仕候御至情、左も可有之奉感服候、然處右被仰出を伺、首を傾け額を蹙め嘆息 仕候族有之何故に御座候哉、愚考仕候處御至情之段は至極結構に御座候得共、太平久敷相續是迄之弊風無益之手数のみ夥敷、既に先年日光御参詣並 和宮様御下向之時すら、御道筋之百姓共不残人足に罷出、業を廃し田地を荒し、中には粮米不足餓死之者不少目も當てられぬ有様之由、實に歎かは敷事に候のみならず、上の御用度は勿論諸侯の入費、天下之疲弊幾百萬といふ事を知らず、千萬人之怨嗟皆御一人之御身に帰集仕候、右等之儀相考候處より、難有き被仰出を伺、却而蹙額仕候儀と奉存候、豊太閤時代東照宮御上洛の節殊の外御急にて、日々二十里余之御旅行十日を不出して御京着之由承り、諸事御簡易の程思やられ候、此節柄格別之御手軽世人の意表に出候に御調相成候はヾ實に御中興御開き之基本と奉存候へ共、萬一此上天下之疲弊を相増し候はゞ、乱従是生じ可申此度之、
 御上洛、御安危の分れ目誠に御一大事と奉存候、何卒断然と厳確に御規定御座候様仕度奉存侯。

一、人君之至極大切なるものは位に而御座候、易之繋辭にも聖人の太寶を位といふと相見候、其位を保ち候は、柄權に而柄權を維持するは賞罰に御座候、賞罰當を得れば權不招して帰し、賞罰當を失へば權忽去申候、權なくして位のみあるを空位と申て位なきも同様に候、左れば賞罰は如何にも公明正大に無之而は人心帰服不仕候、乍恐近来御賞罰往々姑息に御流れ被遊候様人々申居候、右申上候公明正大之御處置を被為失候而は、此節御改革の御手始と申、最御大切之御儀と奉存侯、何卒此上公明正大に御所置有之。誰が承り候而も御最至極に奉存候様被遊候はゞ、天下の人心も自然帰服仕り、御治世萬々歳と奉存候。

一、世上益々奢侈に募り虚飾を衒ひ、物価之貴さ事は古今に比なく、上下共困窮極り乱を思ふより外無之、四海困窮天禄永終之警語可懼事に候、かゝる時節なまなかの御改革に而は、迚も御立直し出来不申、断然と御憤發諸事萬端元和・寛永以前之御制度に復させられ、猶弊之由而来る根本を御糺し、其根本より被遊御改定度奉存候、大學に物有本末と御座候而、事一物之上にも必本末有之候、本を得る者之盛に末を逐ふ者之衰へ候は自然之理にて誰も存知候、然る處是迄致改正変革者是ぞ根本と存込精力を盡して取行ひ候両も不成就、偶然成就せし様に而も其人死する歟其役を去候得は忽互解仕候、是何之故に候哉、畢竟根本と見込候處實之根本に無之故に候、眞實之大根本を得て大変革被遊候はゞ、事之不成譯は決して無之、唯根本之御穿鑿肝要と奉存候。

 右陳腐迂濶之鄙見不顧恐奉申上候段、萬死難遁奉存候、献芹之微衷御哀憐一通り御覧被成下候はゞ難有奉存候、不敬之御科は如何様被仰付候とも、可奉甘心候、誠恐誠惶頓首頓首

    文久二年壬戊六月 日
              小笠原図書頭長行

 斯の建言は公が幕議に関して献替せし發端にして其の擢用せられし端緒も亦蓋し之より啓く。七月二十一日奏者番を命ぜらる、奏者番の職たる謁見及び進献の儀式に與るに過ぎない、固より要職にあらずと雖も、閣老及び参政の候補者たるを以て特に其の撰を重んず、而て公が世子の身を以て此の栄撰を蒙りしは、希有の特典である。是の時幕府は安藤對馬守信正(磐城平侯)、久世大和守廣周(関宿侯)、内藤紀伊守信思(村上侯)、本多美濃守忠民(岡崎公)の諸閣老前後踵を接して退き、水野和泉守忠精(山形公)、板倉周防守勝静(松山侯)脇坂中務大輔安宅(龍野老侯)の諸氏閣老に擧げられ、尋て一橋家(徳川刑部卿慶喜)後見職となり、越前老侯(春嶽慶永)総裁職となり、弊政を革新し武備を振張せんと欲するに會す。故に先には将軍家諸侯を會同して自ら直言を求むるに至った、而て公の名望元より世に高く、又衆に先だって時事を痛言せしを以て遂に擢用せられたのである。公奏者番の職に居ること一月余、其の弊風の甚しきを目撃して黙止するに忍びず、且益々時事に感ずる處あるを以て、上書して其弊風を改めんことを乞ひ、又施政姑息に流れず勇断の處置あらんことを乞ふ。かくて間もなく奏者番の廃せられたるは、幕府も當時革新に汲々たる際なれば、公の建議によりて速決せられしならん。

 閏八月十九日若年寄に任ぜられ職俸五千苞を賜ひ、同廿七日聖堂及び醫學館等の掛りとなる。聖堂及び昌平黌の事務は、従来若年寄の所管に係ると雖も、主司多くは林氏(大學頭)に一任して顧みず、故に學閥の弊益々長じて育英の路自然に杜絶する傾きあり、公の職に就くや屡聖堂に詣り其の弊を認め釐革せんと欲す、間もなく閣老に栄轉せしを以て果さず。然れども後に秋月種樹が若年寄格。學校奉行に抜擢され、鹽谷世弘・安井衡・芳野育等の宿儒が學官に登用せられしは、公の建議推薦に基くと云ふ。

 九月十一日老中格を命ぜらる、時に将軍家近日上洛の筈なるを以て、老中亀山侯松平信義と共に留守の命を蒙る。同月十四日職俸米五千苞を加へ合せて壹萬俵を賜ひ、同月廿七日役邸として常盤橋門内磐城平侯(信正)の役邸を賜はる。
 同年十月朔日外国御用掛となる、同十三日儀伐に槍二條を携ふるを允さる、蓋し大藩の世子を除くの外、二條槍を携ふるは特典とす。是より公の一擧一動は邦家の休戚に関するに至った。

 嘉永六年六月(紀元二五一四)米国の水師提督ペルリが浦賀に来りて、通交互市を乞ひしより、對外関係は復雑となり、安政五年六月(紀元二五一八)大老井伊直弼か独断専行を以て、米・露・英・佛・蘭の諸国と假條約を結び。一方には衆議を排して紀州家より家茂を迎へて将軍となし、其の政策に反對せる水戸齋昭以下を斥け、又當時幕府の措置を憤り外夷を攘はんとする尊王攘夷論は、鼎の沸くが如く擾然たれば、此等の輩を逮捕して酷刑に處し、水戸家に降りし密勅を返還せしむるに至りしかば、其の反動の為に櫻田の変に逢ふて伊井氏斃れ、安藤信正其の遺志を紹ぎて益々開国主義を執り、且皇妹和宮を請ふて将軍家に降嫁し、之に依りて公武一和を謀りしに、安藤氏も亦尊攘論者のために疾視せられて、坂下門の変に逢った、時に丈久二年正月にして、實に明山公が閣老に擧げられしも是の歳である。この歳四五月頃より国事は紛糾錯雑を極めた。公が入閣の初めに當りて第一に主唱せしは伊井大老及び三閣(安藤、久世、内藤)を迫罰し、且つ井伊氏等せ助けたる有司を黜罰して罪を朝廷に謝し天下の人心を慰めて公武一和を謀り、然して外国の事情に通ずるものを擧げて、外国の事を専任せんと欲するにあり。當時幕府の内情は閣老に人なく、一橋・越前両家は賓客の如き待遇にありて、下情壅塞して、台聴に達せず、それ公が君側の臣を去らざるべからずと慷慨し、一橋家の奮起を要望せし故である。公の劈頭第一の要望は松山侯等同意を表し、其の處分を公に委任せしかば、公は窃に有志者の意見を問ひ、罪案を起草して評議に附し、其の議決して十一月二十日に至り井伊氏以下諸有司を追罰せり。
 公及び松山侯を始めとして幕府の有司は、斯く尊王の實効を立て、公武一和して對外の良策を回らすことに汲々たるに拘らず、彼の攘夷と云へる難問題は、幕府を攻撃するには尊王説にも優りたる無比の利器であれば、不逞の徒が此の利器を擁して、幕府を倒さんと企図するを防ぐこと能はざりしは是非もなき事である。是より先き京都に於ては長土の藩士及び浮浪の徒集りて京紳と結び、攘夷を唱へ陰に幕府を倒さんと謀り、気焔日に増し遂に朝議を動かすに至り、十一月二十七日の攘夷の勅旨を幕府に傳ふ。公は開港の止むべからずして攘夷の行はるべからざるを主張せしも行はれず、将軍は明春を以て入朝奉答すべきこととなった。十二月朔日公は上京を命ぜられ、十六日江都を發し舟行して二十二日大阪に著し、東本願寺に館す、一橋慶喜は陸路上京して、公と共に公武の調和を謀り、且将軍上洛の準備をなさんとし、而して公が大阪に先著せしは、攝海の警衛臺場築造の用意を為すがためである。

 文久三年正月十三日急用を以て上京を命ぜられ、即日大阪を發して入洛す、同月廿二日参内拝謁して天盃を賜はる、二月朔日再び大阪に降り、臺場築造のことに力を盡くした。
 同年二月十三日家茂将軍は江戸を發し三月四日入京す、公は江州土山驛に出迎ふ。将軍入洛するや、朝廷攘夷の期限を迫りければ、一橋慶喜・松平春嶽・松平容堂・松平容保等種々協議を遂げたる所ありしが、公は一篇の開国論を草して将軍に呈し、其の論末に至り、勅命と云へば事の利害得失を料らずして、只管遵奉するは婦女子の處為にして、将軍の職を盡したるものと謂ふべからず、故に飽くまでも朝廷に對して其の是非を論争せらるべし、若し是が為に朝譴に触るるも敢て意となさず、今日に於ては民命を救ひ国脈を存するの大義に著眼し、天朝尊崇の眞意を事實上に顕はすべしと痛論した。公が忠懿にして平素尊王の大義を唱ふるに似ず、断然論じて是に至るを見れば、この事たるや国家の安危存亡に関するを以て忌憚なく直言せしものである。一方江戸に於ては文久二年八月の生麦村事変に對する英国公使の要求急なり、公は斯く痛切に論じたるも其の意行はれず、そは幕府の武備解弛して強藩を威壓する實力がないからである。三月廿三日に至り公は更に一橋家に先だちて東帰し、開港拒絶の應接及び生麦償金の談判をなすべしとの命を受けたれども、其の能はざるを知り長張老侯・會津侯とに因で辭退しけるも許されざれば、止むなく同月廿五日京都を發せり、この生麦村事変の談判は公の一世の経歴中困難の任務であった。斯くて公は台命を奉じて京師を發せしに、将軍は公がこの大任に赴くを見て励まさんとにや、急使を發し二川驛に於て、公の職俸を加ふるの恩命を傳ふ、然れども公は登庸以来寸功なく、又拒絶談判の成功期し難きを以て固辭せり
 四月六日江戸に著し、其の處分に就きて衆議に問ひしに諸説紛々として容易に決せず、かゝる紛議の中にも公及び外交事務に関する幕吏の意見は、長崎函館の二港を一時に拒絶することは到底行ふべからず、暫く横濱のみを謝絶し其の居留民を長崎函館の二港に移して、物議の鎮静を待ちて善後策を施すべしと決したるも、是れとて各国公使の承諾すべき望みなければ、先づ通交の先鞭者たる米国公使に對し、開港以来国内人心の動揺せる事情を述べ、曩にペルリが齎したる大統額の信書中に数年間互市を試みて、不利なるときは廃するも可なりとありしに、果して不利を蒙りたりとの口實を設け、且つ横濱は江戸に接近せるを以て開港地となし置くときは、徒に物議を招きて彼我の利益にあらざる理由を説き、彼をして承諾せしめ、然る後順次に蘭佛英等の公使に説くべしと定めたるが如し。然るに生麦村事変の償金の要求日一日に甚しきを以て、有司は償金支辨の議に傾き、遂に尾水両侯も其の議に同し、反對を唱ふるものは公及び外国奉行澤簡徳のみなり、公が反對したるは遠く京師の形勢混沌たればなり。将軍の目代心得たる水戸侯、親藩たる尾張侯は、公及び亀山侯・濱松侯の三閣老より、償金を與ふぺしとの證書を英国公使に交付すべしと逼りたれば、止むなく三閣老連署して五月八日を期限として、償金支辨の證書を交付した。然るに水戸家は京師の形勢強硬なるより、償金不支出に傾いた、當時幕臣中気慨の士乏しきを見るべし。既にして償金交付の期限五月三日に迫りたれば、公は暫時償金交付延期請求の書面を認め、之を英国艦長に移すべしとて、同僚松平・井上の二老に謀りしも、二老は病に託して登営せず、公は獨断を以て自ら其の書を裁し、五月二日夜急使を以て神奈川泊の英艦長に達せしも、却て其の違約を憤り、江戸湾に侵入せんとする形勢である、公は決然として物議を排し、八月早天蟠龍艦に乗り英艦長に面會を求めたれども拒絶して面會せず。公意らく償金を與へざるは元来曲我にあり、朝命黙止し難く拒絶せんとせしも、今は是非なし前約を履行して速に償金を與へ、然る後開港以来国内人心の激昂せる事情を明にして、開港拒絶を承諾せんことを要求するに如かず、他日償金を與へたる事に就き譴責を蒙むらば充分に其の理由を開陳し、若し聽かれずば一身を以て其の罪を負ふべしと決意し、遂に五月九月償金拾萬磅(時価二十六萬九千六十六両二分二朱余)を與へ、同時に激烈の談判を開かんとせしも、英艦長峻拒したれば如何とも為すこと能はざる有様である。一橋慶喜は京師より東帰して事を理せんとせしに、事の容易ならざるを見て将軍の後見職を辭したれば、公は入京分疏して朝意を回へさんと決心した。
 公は五月十八日上京を命ぜられたるを以て、同月二十五日井上信濃守・水野癡雲・淺野伊賀守・土屋民部・向山英五郎等を率ゐて江戸を出發し、神奈川に到り軍艦蟠龍丸に乗りて發航す、是の時二警衛攝海守備の役に就く、歩騎両隊総員千七十五人雇ひ入れの英艦に搭じて従ふた。同廿九月兵庫を経て六月朔日拂暁大阪に著し、即日将軍家に謁せんと欲し、橋本まで進みしが遽に上京を差し留められ、淀の旅館(興正寺)に至り謹慎して後命を待った。是より先き一橋・水戸両家は窃かに人を京師に馳せ、生麦事変の償金を與へたるは図書頭の専断なり、彼れ兵力を以て勅許を強請せんとして海路を経て上京せりと告げければ、京師の驚き一方ならず、而て公等の一行既に伏見まで上りたりと聞えければ、益々驚き急に傳奏をして、公等一行の入京を差し止むべしと在京の閣老に厳達せしめ、尚ほ鷹司関白輔熙は夜中急使を尾張老侯慶勝に寄せ、公等の上京を止めんことを乞ふたのである。斯くて京都にては公等を違勅の厳科に處せんと欲すれども、将軍を始め幕吏は公の處置止むなきを察知するを以て、将軍は書を以て慰諭した。されど朝旨により六月十日免官となり大阪城預けとなる。是に於て城代松平伊豆守(吉田侯)衛兵を伏見に遣して公を迎ふ、儀仗は唯持槍一本を減じたるのみにて常に変らず、幕府が公を罪人視せざるを知るべし。されば家士等の出入は肯て禁制せず、城代をして歓待せしめたり。故に逼塞は朝旨を體して譴責せる一片の名義に過ぎなかった。七月八日江戸より城代に書を當て東下を促したれば、公は十日順動丸にて大阪を發し、十四日品川に著し、諸侯の儀仗を整へて桜田の藩邸に帰る、而て幕府は復た公の罪を問はず。公は屏居の後と雖も世務を忘るゝ暇なく、経済界の不振四民の困窮は、貨幣濫悪の為めである、依りて其の改鋳を行ひ古制に復するは、目下の急務なる旨の建白書を水野閣老に致し、台聴に達せんことを乞ひたるは、懇切周到時弊に的中して、経済の理を盡して余蘊なかりしも、用ゐられざりしは幕府存立民生救済の為に惜むべきことであった。
 公が朝譴を蒙りて藩邸に屏居せしより、元治元年九月十六日(紀元二五二四)謹慎を解かるゝに至るまで、僅に一年有余の間には、薩英の開戦・朝議一変七卿の脱走・浪士の暴勒・長州人の犯闕・馬関の砲撃等大事変頻々として起った。元治元年十月廿三日には長州征討の勅命降下するに至りたれば、幕府は同時に中国九州の二十一雄藩に令して軍備を整へ、此の他萬石以上の諸藩に命じて戒厳せしむ。當時唐津藩主より幕府に差出せし請書を、叙記せんに、

 去十三日之御奉書今二十八日相達拜見仕候、松平大膳太夫(毛利氏)追討被、仰付候に付、海路下ノ関より之二之手松平美濃守・松平肥前守へ被仰付、私儀者右之面々援兵被仰付候間、申合同所より山口表へ駆向ひ、大膳太夫父子始誅戮可仕旨被仰出、且又長防両国へ攻入候、口々割合方之儀者、御別紙之通被仰出候間、是又可申合旨、尤當月中出陣之心得に而出張、日限之儀者、尾張前大納言殿へ可相伺段。依上意被仰下候御紙上之趣奉畏候。
 右御請為申上捧飛札候恐惶謹言

    八月二十八日     少笠原佐渡守
   水野和泉守様
   牧野備中守様
   阿部豊後守様
   諏訪因幡守様

 以て當時の有様を推知することが出来る。

 九月十六日公謹慎を免さる、昨年六月朝譴を蒙るや、幕府は之を憫み、是の歳四月謹慎を解かんことを乞しも、京紳の余憤尚ほ強くして許されず、偶々七月長州犯闕の変ありて、翌月閣老上京するに當り復た乞ふ所あり、又一方には公の臣下大野又七郎脱藩して京に入り、會藩士に周旋し、又其の紹介により二條関白の用人高島右衛門に會し、関白に分疏を依頼し、且つ幕吏永井主水正(京都町奉行)をして一橋家を説かしむ、加ふるに佐幕派たる薩州・肥後・土州。久留米等の在京留守居も、幕府のため公の再起を望み、相謀りて京紳及び一橋家に就て説く所あり、是に於て一橋家は参内して再三懇請せられしかば、朝議遂に之を容れ、八月十八日左の通り達せらる。

                小笠原図書頭
 不束之次第有之候に付、昨年御咎被 仰出官位被召放候處、此度幕府段々 出願無據筋も有之、格別之御憐愍を以、御咎被免候事。
  但諸太夫被 仰付候事。
 翌月十五日閣老諏訪因幡守より佐渡守家来に宛て、御用之儀候間明十六日佐渡守名代として、一類中一人用邸へ出頭すべしと達せらる、翌日御先手本間弾正を出頭せしめしに

                小笠原図書頭
 慎不残御免、前日之通諸太夫被仰付、並嫡子之通御心得候様被 仰出候。


 と達せらる、是に至りて公の寃全く霽れて翌十七日壹岐守と改称す。
 同月二十日水戸侯の同朋相田盛阿彌来りて、侍臣に就きて侯の密旨を傳ふ。

 一、以前の通御懇意被成度事、
 一、水府浪人當屋敷へ推参願出候儀も有之候はば、不包、水戸家へ通知せられたく、且願筋取揚無之事、
 一、水戸家御處置之義御相談被成事、

 公は侍臣をして體よく應答せしむ、蓋し此の時水戸の亡臣武田正生等は、尚ほ常総の間に出没して人民を苦しむるも、水戸家之を制する能はず、故に来りて公の意見を聴かんとし、且つ生麦村事変の償金に関し正生等が公を賣りたる事を暗に謝せんとせしなり。

 一方長州征討軍総督には尾張侯慶勝命を受くと雖も、遅疑遷延して進まず、漸く十一月に至りて廣島に進發した。されば同年十月十四日公は将軍家の進發緩慢に過ぐるを歎じて、一書を裁し宿論たる貨幣改鋳の意見を併記し、水野閣老に託して窃に臺覧に供せしことあり、されば長州征伐は既に出發の前に、其の奏功乏しく幕府の威を示すに足らざりしを如るに足る。十一月朔日公解慎後始めて登営す、十三日に至り諸大夫被仰付、口宣位記を受く。

 同月十二日長州侯は犯闕の三老臣の首を廣島に齎らし、謝罪状を添へて尾張総督に呈し、且つ山口城を毀ち、脱足の五卿の處分を為さんことを乞ふ。是の日佐渡守は唐津城を出馬し、十五日小倉に着す、従士二千四十三人外に船舶大小三十艘。

 同月十六日尾張総督廣島に着す、十八日総督は長州服罪の事を朝廷に奏す。

 同月廿五日當藩主佐渡守は、小倉駐屯の越前副総督の営に使を遣はして、強硬なる長州懲伐り建白書を呈し、同時にまた小倉藩と連合して先鋒となり、長州へ討ち入らんことを乞ふ。越前副総督は重臣本多修理をして命を傳へしめて曰く、建白書は至當と考ふるを以て更に在廣の尾張総督にも差出すべく、小倉藩と聯合先鋒と為りて討入の事は部署に違ふを以て聴き届け難しと、依て佐渡守は更に建白書を認め、百束持盈・尾崎念・長谷川久徴等を廣島に遣りて、尾張総督に呈せしも、総督は既に解兵と決せし時なれば容るゝ所とならなかった。

 十二月六日公は在府の重臣多賀高景を小倉に遣はし、佐州公の起居を問ひ、且つ書を小倉侯に寄せて、父公が厚遇を受くるを謝した。翌慶應元年正月三日、佐州公は藩兵を収め小倉を發し、七日領邑唐津に帰る。

 其の後長州にては過劇黨勢を制して国内騒然たりしかば、幕府は再征して*(雁月)懲すべしとて、慶應元年閏五月二十二日将軍家入京し、直に参内せしに、朝廷にては其の事情を推問せしに、将軍は毛利大膳既に服罪せるも、激徒窃に非擧を企つるあり、又外人と結託して兵器を購入するを以て不問に附すること能はずと奉答せしに、朝廷より兵は凶器にして軽卒に動かすべきものにあらず、暫く京阪の間に駐りて其の罪を糾明すべしと、幕議唯々として決せず、是の時藩府に人物なし、當時幕末の二本柱と目されたる松山侯は去年六月職を辭し、公は櫻田藩邸に蟄居す、今や阪地に在りて将軍の眞の股肱たるものなし、是に於でか松山侯か明山公の再起を要すべきなり、即ち七月二十六日公の上阪を命ずるに至る。公は時機既に遅れたるを思ひ、藩士も思慮あるものは亦起つべからずとせしも、公は国家の難に當りて成敗を料りて去就を決するを屑とせず、進んで其の難関に向った。

 八月二日佐州公の長女満壽姫と合*(承包)の式を擧げらる。

 八月晦日大阪蔵屋敷に着し、阿部閤老を訪ふて水野閣老等の意を傳へ、九月四日大阪城に登り将軍に謁す、老中格再勤の命を蒙る。この時英佛蘭米の公使大阪に航行して兵庫港の先期開港を逼らんとし、形労容易ならず。されど公はこの内難外憂の際、長州處分の一日も晩るべからざるを察しこの事を屡建議せしかば、将軍も其の議を容れ、外患の脚下に迫れるをも顧みず、将軍親征を闕下に伏奏せん為に大阪を發し京師に入る。此の時公は大阪に溜守居をなす。一日を隔て十七日に至り兵庫町役人より英佛蘭の軍艦九隻来泊せし旨を報ず、公は天保山沖の二軍艦に到りて、一應の尋問をなしたるも、彼我共に談判の全權委任を帯びざれば、来意を臺聞に達せし上にて確答すべしとて立ち分れぬ。然るに當時攘夷論に傾ける薩州を始め其の他非幕府諸藩は廷臣と結び朝意を動かして、飽くまで攘夷を主張し、一方幕府の長州處分の案件も急である、加之英米蘭佛四国公使は兵庫開港を厳談し、聴かれずんば兵を以て禁闕に到りて勅許を得んとす、将軍進退谷まりて職を辭し十月三日東帰せんと大阪を發す、伏見に至るや會桑一橋諸侯の諫止切なるによりて、遂に将軍も之を納れ、翌日伏見を發し二條城に入り病の故を以て朝する能はず、一橋侯更りて入闕した、将軍辭職東帰の決心は大に京紳を刺撃し、條約勅許の速に下りしも亦之に原由してゐる。此の日夕刻、公は一橋侯に陪し會桑両侯及び大阪町奉行井上主水正・目付向山栄五郎・松浦越中守と與に参内す、皇国の安危に関するを以て、是非とも正大至當の處置を以て開港の勅許を仰がざるべからずとて、世界の大勢を縷述するも、廷臣は尚ほ頑迷の議論を持して動かず、中にも公は必死となりて懸河の辯を揮ひて、反覆辯論詳悉せざるなく、遂には励聲一番斯くまで理解申請するも御許容なきに於ては、皇国のため御所を一歩も退かず、畏れ多くも一同此に割腹して天座を汚し奉るとまで強辯せられけるにぞ、然らば愈左京諸藩の士を召して衆議を聞いて裁断せんとの議に決した。時に鴉聲暁を報じ天色既に明なり。明くれば五日の早朝諸藩の名士召に應じて陸續出頭するもの薩州藩士(大久保一蔵、内田仲之助、井上大和)、久留米藩士(下村貞次郎、久徳與十郎)、鳥取藩士(安達精一郎)、桑名藩士(岡本作右衛門、三宅彌三右衛門、森彌一右衛門、立見鑑三郎、高野一郎右衛門)、福井藩士(小林資三郎)、高知藩士(荒尾騰作、喜多村彦三郎、津田斧太郎)、柳川藩士(宮川登三郎)、岡山藩士(伊藤佐兵衛、澤井卯兵衛、花房虎一郎)、熊本藩士(山田駿河)、會津藩士(野村佐兵衛、大野英馬、依田依登、外島機兵衛、上田傳次、廣澤富三郎、芝太一郎)、廣島藩士(熊谷兵衛)福岡藩士(本郷吉作)金澤藩士(里見寅三郎)津藩士(戸波明三郎、澤井宇左衛門)等三十余名を一座に會し、公卿も亦其の座に臨み、公は衆論を整理する議長として上座に構へ、兼て幕議を代表する政府委員の位置に立ち討議を開かれける。此の日幕府の奏上する所にして、議題と為したる案は次の通りである。
 此程不料外国船兵庫港渡来、條約之儀改て勅許有之候様申立、若幕府に於て取計兼候はば、彼闕下へ罷出直に可申立旨申張、種々力を盡し應接仕来る七日迄為相控候へ共、何れにも御許容無之候ては退帆不仕、去迚無理に干戈を動し候へば必勝之利無覚束、假令一時は勝算有之候とも、西洋萬国を敵に引請候時は幕府の存亡は姑く差置、終には寶祚之御安危にも拘り、萬民塗炭之苦に陥り可申實以不容易儀にて、陛下萬民を御覆育被遊候御仁徳にも相戻り、假にも治国安民之任を荷候職務に於て如何様御沙汰御座候共、施行仕候儀何分にも難忍奉存候間、右之處篤と思召被為分、早々勅許被成下候様仕度、左候へば如何様にも盡力仕、外国船退帆仕候様取計可申奉存侯。
   十月五日      小笠原 壹岐守
                松平  越中守


                 松平肥後守
                 一橋中納言
     飛鳥井中納言殿
     野々宮中納言殿
 此の議寒に對し諸藩士は各疑義を質し、其の意見を陳述せしかば、公は一々之を辯明説破し、薩備両藩の反對ありしも、會桑以下諸藩の賛成によりて議遂に決し、直ちに決議の趣を奏聞に及びしが、此の日夜に入りて左の勅諚を下された。

 條約の儀御許容破為在候間至當之處置可致事
                 家茂へ

 但し兵庫の開港は許されざりき。是に於て公は橋・會・桑の三侯及び井上主水正等と午後七時頃御所を退出した。されば鎖国攘夷の説は一頓挫を来し、公然開港の勅許を得て、我国をして外国と旗皷の間に見ゆるの禍を免れしめしは、抑も何人の賜であらうか、後世決して此の際當路有司の苦辛経営を忘れてはならぬ。兵庫港の差し止められたるは、薩藩の論是が根定を為したのである。同月七日松平伯耆守・松平周防守。小笠原壹岐守の名により書を送りて、兵庫港泊の外国軍艦の退去を求めしに、九日暁天までに残らず出帆した。
 将軍辭去の件に就ては、橋・會・桑の三侯及び公を始め重なる幕吏は、日々二條城に登りて評議を凝らしけるが、八日に至り其の職に止まることに決した。
 九日公は二條城御座の間に於て、加判の列を命ぜらる。公は前任及び再任の今日まで老中格たりしもので、當時は舊慣に泥み階級を重んず、故に正格新古大に威權を異にす、然るに公が常に正席古参の同僚に推されて、重要の地位に立つ所以のものは、其の材能衆心を服するに由ればである、こゝに愈々正格の閣老となり、十三日役米三萬俵を賜はる。
 さて長州の處分に就いては、幕府糺明使を發して交渉至って緩漫なるは、幕府のために遺憾のことである。兎も角も漸く糺明使の漠然たる復命に接して、橋・會・桑三侯及び公・板倉両閣老は連日の會議にて、橋侯は改易を主張し、會桑二侯は半地削除を唱へ、二閣老は前説を過酷として、削地十萬石を至當とし、遂に将軍の沙汰によりて公等の主張の如くなりたれば、翌二年正月廿一日五人は幕府の決意を奏請せしに、朝廷は薩藩の意を容れて容易に聴許あるべくも見へない。
 二十三日公は藝州へ出發準備のために下阪す、この日老臣西脇勝善藩兵を率ゐて上阪し、在府の老臣多賀高寧は既に来りて滞阪してゐる。翌日公二人を召して今回将軍家より藝州に發向を命ぜらる、汝等如何に思慮するぞと、二人答へて台命重しと雖も今回は辭退こそ然るべしと、公首肯されしが、日を経て二人を召し将軍家より重ねて恩命ありたり如何せば可なると、二人は感泣して斯くまで優遇を賜ふ、今は是非なし御請けあるべしと。十六日大阪に於て藝州差遣の命に接せり、其の他板倉閣老以下進發の命があった。二月二日将軍は書を以て公に長藩の處分を委ねらる。
 一、防長所置之儀與全権候間萬事見込通十分に取計可申事。
 一、事の緩急により必出馬可致事。
 一、處置済之上は速に上洛候様必東下は不致事。
 右之條々に可得其意者也
    二月


 四月公は紀藩の軍艦にて大阪を發し、七日廣島に着し、二十二日藝藩の重臣を其の旅館大手筋一丁目丸内買屋敷に召して、長州の支藩徳山・長府・清末及び国老吉川監物・毛利筑前・宍戸備前を廣島に呼び出すべき旨を命ず、然るに是等の人々容易に出頭せず。飜て藝・因・備三藩の近況は皆幕府の裁許を以て苛酷とし、頻りに長藩を保庇して只管其の執行を妨げんと勉め、加之薩藩も京都にありて長州征伐の阻碍をなす、此の問公の苦心思ふべし。かくて日を経るも長州支藩一人の出藝なきを以て、四月朔日断然日を期して長州公以下の出藝すべき旨を藝藩をして達せしめた。

 同時に藝州・佐賀・松江・松山・柳川・津和野・彦根・高田・小倉・中津・福山・濱田の諸侯及び紀州の国老安藤直承に長州の不逞を報じ、命令一下せば何時にても長州打ち入りの用意を相整へ置くべき旨を通じた。

 四月二十四日藝州藩より毛利本・末家の家老着藝の届を為す、五月朔日公は国泰寺にて長州の使臣を引見して、毛利の家臣不穏の擧あるは其の罪軽からざるも、祖先以来恪勤の功により特に寛大の御主意により奏聞を隔て、知行拾萬石を削り毛利大膳は蟄居隠居、同長門は永蟄居を命じ、興丸をして家督を襲がしめ貳拾六萬九千四百拾壹石を知行せしむる趣裁許を與へ、同月廿日までに請書を差出すべき旨示達す。

 五月五日公は九千余騎を従へ行装を正して、二葉山に登り東照宮の廟に参拜し、大に兵威を示して藝藩の懦気を鼓舞せんとせり。

 九日廣島滞在の宍戸備後介・小田村素太郎を召すも至らず、依りて持小筒組二小隊・歩兵一大隊及び唐津藩士六人を遣りて二人を補へ、藝藩に託して禁錮せしむ。十八日長藩より請書差出の期を廿九日まで延期せんことを乞ふ、公これを許容し、同時に、廿九日の期限に至り請書の提出なき時は、討伐軍の諸勢(二十一家)長州へ攻入すべきやう命令を發した、斯くて使を大阪に遣して、長州よりの延期請願ありしことを承認し、討手諸勢に示達せる趣旨を報告し、且つ紀伊総督の速に征途に就かん事、九州四国の総指揮を定めて發向せしめん事、廿九日後に討ち入りの奏聞あらん事等を要求せしに、廿四日紀伊総督及び閣老松平伯耆守は廣島へ、京極主膳正は四国へ發すべしと命ぜられ、公を以て九州表討手指揮と為す。始め九州方面には越前老候春嶽を擬せしも、公異議を唱へて自ら是に當らんとせり、越前候は征長前役に小倉にて失敗ありたればなり。よりて此の命に接するに至る。されど公が藝州を捨てゝ此に赴くは、藝州方面には幾多の状勢に通ずるも、知見乏しき九州口に向ふは幕府のため又公のため不利なりといふべきものである。

 廿九甘長州は前の裁許に服従すること能はざる旨返答す、今は一刻も猶豫すべきにあらざれば、其の次第を大阪に急報し、六月朔日公は藝州藩主をして、追討の幕令を毛利一族に達せしむ、一方同月七日には一橋侯より征長の勅命を奏請す。公は藝州口の軍務を松平閣老に引き渡し、同月二日軍艦朔鶴丸に搭じて廣島を發し、三日豊前小倉に入り開善寺を旅館とし、幕僚と共に日々追討の方算を議し、第一着に長州の罪状十四ケ條を擧げて英佛公使に示す。

 此の時熊本・久留米・柳川の諸藩は小倉に出兵し居ると雖も、其の兵数甚だ尠きを以て九州諸藩に出兵を促すも、會々梅霖連日諸川汎濫して行軍を妨ぐるのみならず、鹿兒島は最初より出兵の理なきを唱へし程なれば命に應ぜず、其の他福岡・佐賀も口實を設けて兵を出さず。然れども関門海狭は幅員数町に過ぎざれば、敵の不時に来襲するも料るべからず、故に小倉藩老島村志津摩は田ノ浦を澁田見舎人は門司浦を、小倉支藩(小笠原近江守)の兵は楠原を、安志藩兵は庄司を、唐津藩兵は白木崎を、熊本藩兵は大里を警戒せしが、十七日黎明濃霧を利し長州軍艦不意に、門司・田ノ浦・楠原・庄司を砲撃す、島村志津摩最も善く戦ひて敵艦一隻を撃沈し一隻に損害を與ふ、長兵これに屈せず岸に上り奮闘して門司・田ノ浦・楠原を焼きたれば、大里に退きて據守せしも利あらず、大砲廿門其の他を敵に奪はる。會々熊本兵千六百新に来り會し、又大里沖には幕府の軍艦二隻警備をなす、この日の戦甚だ困難なりしは、我軍の武器不良且つ舊式に属すると、兵気振はざるとに起因するものたるは疑ふべからず。七月三日長兵は引島より大里を砲撃し、又兵を門司に伏せ窃に大里の背面を襲ふ、翌日敵は大里を陥れ、守兵小倉に走る、熊本・小倉の兵敵を赤阪に邀撃し、富士・回天の二艦は砲を發して應援す、長兵遂に退く、次で回天艦は直ちに下ノ関砲臺を衝きしも利あらず。幕軍の不利小倉口のみならず.藝州口にては総督紀州侯と松平閣老との不和と、且つ軍気更に振はず、石州口また敗戦退却をなすのみ。加之七月廿日将軍大阪城に薨ず。廿六日夜長兵襲ひ来り交戦翌日に亘る、小倉兵最も苦戦し熊本兵之を援けて力戦すと雖も、後援續かざるを以て纔に壘を保つに過ぎず、又幕府の軍艦進退運轉一致せず、是の故に熊本の総帥長岡監物は屡々公に策を建ぜしも、議協はざるを以て兵を率ゐて去り、續いて久留米・柳川の兵も亦去る、折柄大阪なる幕閣より将軍薨去を内報し帰阪を促し来るを以て、一日も猶豫すべきにあらずと決心し、廿九日公は老臣西脇勝善・多賀高寧を召して、大阪表急御用に付き今夜乗艦出發せんとす、高寧汝は窃に江戸より扈従の家臣を率ゐて長崎に廻るべし、勝善は夜に人り唐津の兵士を率ゐて帰藩すべしと命じ、夕刻両人をして小倉藩田中孫兵衛に、壹岐守大阪急御用に付き一先當地を出立すること、及び小倉藩に對する謝辭を通ぜしむ。

 斯くて公は夜半窃に富士艦に搭じ小倉を發し長崎に向つた、これ海上壅塞せるを以て南海を廻らんとして長崎に迂回せしなり。二日長崎に着し、六日同港を發し廿一日大阪に着す。時に小倉引き上げを以て公の失策となし之を責むるもの囂々たり、板倉閣老窃に公に告げて、暫く屏いて物議の定まるを待つに若かずと、公其の意を諒し藩邸に蟄居して命を待つ。

 八月八日将軍の不例を公表し、萬一の時は一橋候に相續を仰せ付けられ度く、長防追討の儀も名代として出陣せしめ度き旨、上奏に及びたれば、勅許ありたり。然るに十日に至りて小倉落城(八月一日落城)の報達したれば、今は急に征服の望みも絶え。二十日将軍薨去及び一橋侯嗣立のことを發表す。九月朔日勅して征長の軍を止めしむ。

 九月二十三日公帰府を命ぜられ、廿九日軍艦に搭じ十月五日江戸に着す。翌日閣老を免ぜらる、征長事件のために責を受くるに至った。されど十一月九日擧げられて三たび加判の列を命ぜられ、役米三萬俵を賜はる。某侯一日嗣君一橋家に謁して、小倉の事天下嗷々として壹岐を責む、其の聲未だ静まらざるに復た彼を起して閣老に擧ぐ、世間皆台慮の存する所を怪む請ふ得て開くべきかと、一橋家微笑して曰く、天下人あらば何を苦んで復た彼を用ゐんや、壹岐守は今の幕府に缺ぐべからざるの材なりと。公は一時退引の意ありしも、同月二十九日外国御用係竝に御勝手御入用掛を命ぜらる、御勝手御入用掛は格別の事情あるにあらざれば、概ね首席の閣老を以て之に充つるを例とし、其の職權も自ら重きを加ふ、故に當時首席たる板倉侯を推すべきなるに、侯は當時京阪にありで嗣君一橋家を輔翼す、故に外交の衝に當れる公をして兼攝せしめたのである、されば公は其の信任の厚きに感涙を催ふした。

 十二月五日勅使二條城に参向して、嗣君に征夷大将軍の宣旨を降され、右近衛大将に任ぜられ正二位右大臣に叙せらる。

 同三年正月七日公は上京を命ぜらる、兵庫開港勅許の件にて将軍家より召し出だされたのである、十三日重ねて召命ありしも、しかし十六日に至り上京を中止すべき旨達せられた、然るに二十五日俄に西上するに至った。此の時英・佛・米・蘭諸公使も亦攝海に航行す、既にして将軍は京師より下阪して諸公使を引見せしが、公専ら應接の任に當った。三月五日将軍慶喜上奏して兵庫開港の勅許を許ふ、幾多論難の末終に五月廿四日開港勅許の命に接す。公は前将軍家茂の時開港の止むなきを唱へしも、国事多端の際なりしため果さざりしが、今や再び外交の衝に當り新将軍を輔けて、積年の難問題たる兵庫開港事件の解決をなすに至った。間もなく公は外国事務総裁の任を京師に於て命ぜられ九月二十九日大阪を發し兵庫を巡視し、同所より奇捷丸に駕し六月三日江戸に帰る。比の時老中御用番を廃して、御国内事務総裁(稲葉美濃守)、會計総裁(松平周防守)、外国事務総裁(小笠原壹岐守)、陸軍総裁(松平縫殿頭)、海軍総裁(稲葉兵部大輔)を新設す。六月五目公は幕府を代表して、外国貿易奨励の旨を普く国内に布達せしに、二十一日英国公使ハリエスパルケスは、公に書を寄せて謝意を表した。

 九月二十八日幕府は公に辭命を交付して、向後役料を給せず役金壹萬両下賜すべきを以てす、これ西洋の制度に做ふて官吏給金の發端を開きしものである。

 十月十四日将軍大政を奉還すべきことを請ふ、翌十五日朝廷これを嘉納し給ひしが、家康幕府を開きしより、十五代二百六十五年にして維新の政治を見るに至ったのである。

 慶應四年則ち明治元年二月七日公病の故を以て辭表を奉呈す、十日其の職を免ぜられ、同時に佐渡守の名義を以て、病気廃嫡厄介に為したき旨出願して聞き届けらる。是に於て公は深川高橋の別邸に屏居して夢棲と號し、五十年間の浮世を黄梁一炊の夢を観て、風月を友として優游余年を送らんと欲するも、或は在藩の士民東上して故国に迎へんとし、或は舊幕臣の中にも舊将軍の恭順に歉らずして、兵を擧げ以て公と去就を共にせんと欲し其の擧動に注目するもの亦多し、進んで事を擧げんか舊将軍の意にあらず、退いて藩に帰らんか新政府は厳刑に處せんとするの流説あり、假令皇澤天の如く其の罪なきを察して寛容せられんも、今は長州人政府の要路に立てば、到底彼等に對して首を低れ尾を揖るに忍びやうか。寧ろ暫く舊封棚倉の地に韜晦して時勢の変を観んと、三月三日待臣十数人を率ゐ夜に乗じて高橋の邸を逃れ出でしも、豫期に反して東北地方の変乱となり、稍もすれば其の渦中に投ぜんとする恐ありて安居する能はざるに至った。十二日夜棚倉に入りしより、四月若松に轉じ、七月松島に遊び、寒風澤を訪ひ十月末頃其處より幕府亡命の徒輩の開陽艦にて、蝦夷島鷲木に逃れ、十一月半頃陸路五稜廓に移り、直ちに函館に轉ぜしも心ゆかずして、十二月十三日五稜廟の邊に隠れ、二年二月函館の西方山人泊に轉じたるも、四五月の交は函館戦争となりたれば、復た身を安んずる能はず、四月再び東京に還り、舊知大野誠等の庇護により、湯島妻恋に一戸を*(ニンベン就)して此に潜伏せり。かくて新井常保・堀川慎等の計らひにて公は米国に遁走せりと聲言し、計吏を欺き時に為換を横濱在留の米人に宛てゝ振り込ましめ、其の者をして公の許に轉達せしめて其の用度に供せし故、僅かに乏しからざるを得たので、舊臣と雖も公の在外を信じて殆んど疑はなかった。

 此の間に藩地にては継嗣問題が起った、始め戊辰の変に中書公(佐渡守長国中務大輔と改称の故)佐賀老侯閑臾と上京して、謹慎命を待つに當り、一面には老侯等の救解を求め、一面には縁故ある朝紳今城中納言・嵯峨大納言・中御門大納言等の諸卿の周旋により、八月廿六日藩地に帰った。今城家に数子あり、其の次子を以て中書公の継嗣となさんと欲す、中書公夙に其の意を察し、一門長光(修理)の嫡孫岩彦を立てゝ嗣となし岩丸(長久)と改む。翌年三月再び上京の時之を件ふて行く、諸卿大に望みを失ふ。帰藩の後岩丸を佐賀に遊學せしむ、實は佐賀侯の庇護を受けしめんと欲したのである。公の子を捨丸と称す(今の長生公)生れて三歳(明治元年生)公の*(革ノツ臼)晦前之を下総佐倉の醫師藤倉元秀に託して養はしむ、在藩の士民之を立てゝ岩丸を廃せんと欲し、遂に三年春其の議を發す、時に長光国事に與らずと雖も尚ほ頗る勢力あり、有司其の意に背くを恐れ、之を拒んで岩丸君も亦主家の血脈なり、もし之を廃して朝敵たる公の小子を立て、若し天聴に達せば追譴を蒙るを如何せんと、皆曰へらく今や公海外に漂泊するは舊幕に忠勤を盡せし故である、されば陪臣たる我等も亦公のために忠節を抜きんぜざるぺけんや、捨丸君を今中書公の庶子と称し之を嗣立せしむるとも、天朝何ぞ之を咎めん、もし内情發露せば臣等死を以て之を争ひ、其の嫌疑を解かんと、甲論乙駁議論容易に決せず、闔藩頗る騒然たり。是に於て士分の臣下を悉く城中に集め可否を決せんとて、中書公親しく其の場に臨み一々可否を投票せしめしに、数百の投票中廃嫡を不可とするもの数個に過ぎず依って、即日砦丸を廃して捨丸を嗣立するに決した。乃ち使を佐倉に遺して捨丸を藩邸に迎へしめ、中書公の幼名を繋ぎて賢之進と改称せしめ、世子廃立の事を朝廷に稟請し裁可を受くることを得しは、亦以て闔藩の士民公を景慕する深情を察することが出来る。
 五年七月海外より帰朝の旨届出で、謹慎命を待つこと三十日、朝廷亦罪を問はず。是に於て駒籠動坂に一小邸を購ふて之に移り、花卉盆栽を以て娯楽とし、児女の教育に心を用うる外は、親戚故舊にても総て面會を謝絶せり。九年十一月従五位に叙せられしが、坐なから朝恩に浴するは不敬の罪免れ難しと、参朝して御禮の執奏を乞へり。長国の卒後賢之進幼にして家を襲ぎしも、家事に関するを好まず、総て令扶に一任して敢で干與せず。十三年六月特旨を以て徒四位に叙し、廿四年一月廿二日を以て卒去し、谷中天王寺の先塋の域に葬る。



 其五、小笠原氏の家臣及び御領高

 一 士卒人名と禄高(原本は村松喜太郎氏一族村松氏所蔵)

 藩士と俸禄(四百九十一人)

 現米百五拾俵    小笠原睡翁

 同百俵    小笠原岩丸

 同八拾俵    多賀圓治

 同七拾五俵
   高畠一郎  四脇太郎  大八木衛守  百束新 近藤祐記
   野邊小作

 同七拾俵
   中澤泉  雨森十郎兵衛  永江恒一

同六拾五俵
   福田時中  市橋卯左衛門  鳥羽傳兵衛  松澤權左衛門  竹田才兵衛
   平岡多宮  渡邊彦左衛門  高原作十郎  坂本桐生   富田克己
   加藤彌惣左衛門  牧野 糺  水野忠三郎  鎌田彌金司  前場 登

同六拾俵
   友常典膳  千葉新介  青島勘兵田  田上忠左衛門  百束四郎
   佐久間右内  田邊覚左衛門  川上金右衛門  今泉尉右衛門  曾根隼之助
   米渓 湊  中村對助  小川才右衛門  倉橋三郎右衛門  春日蔵太
   長井西東  天野才馬  大久保 乾   鈴木 傳  雨森藹樹
   杉江頼母  村上雄蔵  田山登守  衣川武實  市原半右衛門
   佐藤十蔵  山田 準  近藤六三郎  大久保重平  西脇求馬
   岩崎 貞  交雄一雄  各務門平  喜多尾令三  大野 誠
   三宅求身  富永亀太郎  高須 塘  山田静雄  小沢鉄太郎
   蜂谷三吉  小木曾又助  堀銓次郎  稲田嘉織  小川 猷
   山口早太  山久知文次郎  中山東一郎  河内明倫  坂井猪兵衛
同五拾五俵
   吉倉唯一  中澤見作  松澤平角  前場善之助  津田重平
   中山廣右衛門  田林春樹  多賀 亙  篠崎儀三郎  山田忠蔵
   河野金兵衛  岸澤右衛門  太田橘衛  高田平蔵  神田重兵衛
   尾崎有菴  山崎善六  栗原東菴  掛下官右衛門  鈴木源蔵
   秋元三平  来村次郎作  小高筍太  原田捨蔵  金子十内
   牧野 *(金ヘン護) 村田與作  佐藤澄江  長谷川豊太郎  藤浪雄
   桑原銑太郎  竹前全平  橘望策  磯貝孟  稲石有三郎
   平岡彦左衛門  明石克太郎  高須熊雄   長尾仙菴

同五拾俵
   村瀬轟  山田帰一  大石清左衛門  林要兵衛  下山三司兵衛
   杉江重次兵衛  中村稔  倉持元英  神戸由門  近藤好太郎
   今泉武三郎  黒部又右衛門  浅野正右衛門  阿部又男  水野録助
   田邊幸左衛門  森下友蔵  稲村助左衛門  杉浦富右衛門  矢田巻太
   長谷川正己  井上男也  大島小三太  稲垣速見  江口彦五郎
   水野彌一郎  林與三郎  塚田春之助  牧野廉蔵  市丸鑑助
   近藤平馬   印具官太  鈴木又次郎  村上熊蔵  西村兵右衛門
   山越慎平   田邊伴治  木村寛蔵  中島軍司右衛門  和田新次郎
   萩原半兵衛  長谷川碩蔵  渡邊善司  土方守雄  中村平兵衛
   中川房五郎  小野 資  西脇源六郎  本多淳亮  蜂谷恕菴
   河村束  橘英周  大野右仲  鳥羽瀧馬  岩崎愚守
   増田卓爾  豊田譲  堀川俊蔵  野邊ワ五郎

同四拾五俵
  田中厚右衛門  山田久作  山田順蔵  小林明操  志村忠司右衛門
  芳賀庸助  三井豊右衛門  太田鉾右衛門  中山百助  山田安次郎
  岩間音左衛門  平岩岸蔵  増山繁平  増田喜代蔵  佐竹岱圓
  高田千治  彦坂鉞太  小野膳蔵  石河良菴  神崎要助
  岡田忠左衛門  山中小太郎  丸山七郎  印具豊之助  清水桝蔵
  田邊彌一右衛門  佐野菅右衛門  岡島角蔵  兼子五郎兵衛  海老原里美
  田中武左衛門   香山五三郎  足立虎雄   多賀 一   栗原順之助
  須藤鎮太郎   吉川七之丞  吉岡治左衛門  加藤甚十郎  松井季平
  岩井門十郎   井口良太郎

同四拾俵
  鈴木儀之助  松井五郎作  井上東兵衛  田林 覚  小田周助
  渡邊定蔵  岩附平左衛門  山縣雄太郎  笹本芳五郎  加山吉郎右衛門
  上野貞順 熊谷吉左衛門 田中源次右衛門 杉山甚五右衛門 辰野専右衛門
  佐藤喜多右衛門  石河初太郎  中村唯之助   中山保兵衛   吉田祐吾
  山崎瀧右衛門  鶴田善次郎  長谷川重助   安川要助  石井並助
  小島七郎右衛門  柴田門吉郎  西村小一郎  瀬倉近救  海老原喜兵衛
  三井百太郎  長束孫平  戸田元司兵衛  丸山荘吾  杉山森之助
  鈴木官六  堀木銀之助  田中芳右衛門  榛葉與惣左衛門 安川清左衛門
  小林儀三太  河村道有  村田多助  市川養甫  水谷作兵衛
  本多儀兵衛  野田勇助  保利文溟  鶴田文哉  原田民蔵
  齋藤橘太郎  竹本武右衛門  瀧順蔵  横山鳴右衛門  松沢慎次郎
  増山圓蔵   栗田十之助  細田翁助  山口用蔵  桑原身直
  永谷新治   秋山音門  木村但右衛門  岡本文海  鈴木盛右衛門
  東小川瀬兵衛、 加島彦治  金坂綱右衛門  山本幸治  村田寛三郎
  池原源五右衛門  丸田織右衛門  姫松倉右衛門  徳光五郎蔵  尾島文助
  山野邊七郎  板澤源次右衛門  村田治右衛門  箱崎勝兵衛  鈴木民助
  岩附鳴右衛門  竹上潤平  長谷川鐐右衛門  麻生芳助  高山忠三郎
  堀木嘉兵衛  吉田八右衛門  古川保助  天野玄陸  松澤仁三郎
  小林才八郎  鈴木弾蔵  鈴木孝之助  須藤蔵之助  日向野彌三郎
  湯浅慎治  大草守之助  鈴木多年松  松本安次郎

同参拾六俵
  百束 間  水野三左衛門  下田瀧三郎  山田柳助  杉山伴作
  渡邊良兵衛  大川民左衛門  山崎庄蔵  鹽田善次兵衛  岡本平内
  永田良助  松本三保蔵  浅原豊蔵  佐藤繁蔵  佐藤源助
  矢代嘉左衛門  留川石右衛門  松井謹吾  福尾惣治  淺野紋兵衛
  小田彌藤治  太田熊右衛門  成瀬友右衛門  松浦記右衛門  伊庭満度
  吉岡嘉左衛門  辰野隆蔵  関根幕蔵  杉山済之丞  金澤英賢
  星野應助  中村郷右衛門  永居造酒三郎  中山利平治  杉山正直
  岡田眞記  天野官吾  小島儀三治  浮須杢助  進藤安次郎
  藤田兵吾  岡田門三郎 並木鐵次郎  深谷信明  藤田嘉七郎
  宮尾淳次郎 石河五十郎  岸田五郎  中里藤太郎  加藤門治
  和田丁吾  岩瀬清七郎  木元盛之助  笹本休滋  細田覚之助
  森才助   毛利仙治  益田哲蔵  田邊林右衛門  遠藤力右衛門
  稲垣立  戸澤小兵衛  澁谷門兵衛  吉原品右衛門  村田新吾
  一柳敏次郎  中條和助  長谷川雪塘  榛葉東助  智田松蔵
  小島權之助  田邊鐵吾  志村晴之助  上原亀太郎  小出清吉
  丹羽包里  山本官蔵  大澤左源治  吉川*(金ヘンの隣)作  古市八十人
  国友右源太  唐澤敬逸  潮田辰次郎  西村信蔵  竹林三子松
  平尾健司  中村文太  柳井三亥  高濱小之助  小島用蔵
  松下平五右衛門  高濱十郎  太田唆太郎 来村鐵之助  須藤房一郎
  磯野祖左衛門  宮口休吾  小柳津三彌  西村省吾  寒河江嘉六
  瀧澤為蔵  平間清之助  伊東金八郎  吉成繁右衛門  村松喜多治
  小島膳三郎  澁谷善助  山崎瀬助  三澤吉蔵  藤田友蔵
  宮本類蔵  小林浅蔵  中里宇兵衛  柿村兵右衛門  久野平太兵衛
  西 廣太  原三郎助  原田門六郎  名古屋森治  正木庄兵衛
  佐藤助三郎  土屋勝助  片岡淳治  澁谷又兵衛  後藤傳治
  尾高平蔵  高崎俊太  村井郡治  中村宗a  池谷又兵衛
  菅原縫右衛門  飯野勘助  小林藤兵衛  酒井政徳  佐野東九郎
  稲垣愛助  植野兵助  宇田慎吾  筒井圓平  小田倉鐵吾
  薄兼太郎  山岡武助  山口郡左衛門  坂本庄之助  村松領左衛門
  地原文蔵  岡島英之  小松元之  一條類吾  関谷福三郎
  高仲重次郎  竹野葉右衛門  藤森官次郎  太田順之助  川島勇助
  関根銅之助  村松嘉津蔵  木村亀太郎  山野柴右衛門  松下森治
  植松保太  草場貫一郎  渡邊直一  緑川金蔵  堀衆助
  緑川俊蔵  大森正慶  金沢又郎  大島吉三連  乗附覚四郎
  中里大蔵  中西光小五郎


  ○藩卒と俸禄(四百七十八人)

現米貳拾六俵
   高須銀左衛門  竹本民蔵  小島元蔵  古市集助  栗田丹蔵
   楠原與三郎   小柳今太  平野六助  川泉立右衛門  増富元治
   小田重郎右衛門  藤森儀平  丸山善平治  大浦玲蔵  鈴木小平治
   駒崎清太  新井鐘治  堀越健吾  山崎文吾  中山宗助
   三村喜兵衛  高瀬美代吉  麻生黙蔵  大平林兵衛  山下柳太郎
   加茂武七郎  石尾治三右衛門  白江益太  松下愛治  田代寛作
   吉村玄朴  飯野小助  今井重次郎  青木文兵衛  大住全平
   吉田友太  柴田勘之助  兼子東五郎  梶山利兵衛  谷勤治
   鈴木與助  松下重蔵  本山小藤太  山際平三部  柴田亥三郎
   城木重助  中島敬太郎

同貳拾四俵
   河野政右衛門  内山元治  藤田文治  佐藤政次郎  石塚政治
   武田銅之助  吉村喜藤太  山中積右衛門  山口喜兵衛  吉田牧右衛門
   湯浅安治  鶴田浅右衛門  熊川九内  佐藤喜多治  三浦多助
   田口新左衛門  辻半平  伊藤大治  江坂仁助  菅忠三郎
   畑清太郎  内山秀蔵  野崎幸兵衛  井上団平  鈴木順蔵
   高崎作右衛門  小島伸助  坂田四郎平  河原芳之助  前田傳七
   鹽田伴兵衛  松下彦兵衛  河口與平治  湊柿右衛門  栗田治三郎
   長島宇平  原田関左衛門  齋藤卯右衛門  原仙之助  関根政十郎
   先崎繁蔵  星野吉郎兵衛  伊藤又三郎  吉田詫次郎  高橋四方助
   橋本孫兵衛  田中良平  辻宇三郎  柴田十兵衛  白井忠兵衛
   菊池吉助  小島富蔵  中村十郎  永田米蔵  渡邊記八郎
   佐藤賢七  芋川品蔵  後藤貞助  鈴島半平  牛草甫助
   河合繁泊  安田杢三郎  山口義理  松本定次郎  渡邊茂三郎
   後藤清三郎  梅田利三左衛門 坂本常右衛門  内山光三郎 竹内新右衛門
   野崎文助  坂本益太郎  原田兵治  小島善蔵  山口榮太郎
   前田仙兵衛  菅冨次郎  黒川孝治  瀧銀次郎  中山為之助
   鈴木芳蔵  木村昌左衛門  辻三郎  廣岡喜助  浦田彌壽太
   板澤喜代太  秋山富男  太田兼三郎  田村吉三  堀越休蔵
   川原宗助  吉崎領蔵  林孫助  吉崎喜三右衛門  浦田鐵治
   澁谷求三郎  松下柳蔵  小宮楽三郎  藤田禎助  小宮文四郎
   浦田繁太  山崎重蔵  小宮右之助  内山蔵治  原田富之助
   柴田喜藤治  吉田政治  西川三五郎  高木熊五郎  北出小源治
   石崎重右衛門   竹房安太郎  森鐵太郎  来代熊之助  岡田蔦治
   宇野助十郎  永山定一郎  山内政太  小栗啓吾  山本貝蔵
   徳光吾吉郎  大島米蔵  湯浅悦治  西友治  折尾力蔵
   麻生和助  内山寅吉  澁谷三平  瀬戸重右衛門  潮田善太
   畑重兵衛  成瀬濤之助  有吉知又  辰野郡右衛門  宮口末太郎
   木村善太  矢代榮治  松本多吉  畑由太  有吉保之助
   田村直一郎  神田源三郎  畑繁次郎  栗田榮吉  加山吉松
   上原愛次郎  小林隆次郎  金澤恒次郎  田邊小吉  遠藤蔵太郎
   畑 萬治  山口文助  原鐵蔵  瀧澤善治  伊藤恒治
   村井文吉  水谷富蔵  小島庚  中島鎌之助  瀬戸秀蔵
   丸田節蔵  東小川筑之助  久野幡次郎  池田此治  大岡鐘次郎
   山崎峯次郎  高仲友次郎  青木松太郎  藤島平次郎  森田和助
   亀崎小平太  黒田清太郎  岩田新治  吉田祐太郎  山本亭次郎
   渡邊虎吉郎  齋藤立甫  高橋鎗蔵  林喜三兵衛  小島歴蔵
   内山庄太郎  大岡憂太郎  出井重太郎  野崎兼太郎  小倉鐵蔵
   緑川熊太郎  樋口萬治  瀬戸休治  脇山為右衛門  吉田要乏助
   大洋甚之助  高山優次郎  木元健次  藤田大五郎  田中蔵治
   千葉惣右衛門  森永勘左衛門  吉岡米蔵  大澤雄治  田村角蔵
   井上忠兵衛  池田惣太郎  佐川清吾  板倉要蔵  瀧澤梅治
   田村鐵三郎  佐藤益治  鈴木清三郎  宮川丈之助  鶴岡健四郎
   佐藤房太郎  河村藤四郎  松田箕之助  今泉孫七  市川金五郎
   岩野邑右衛門  西田七作  山本鹿蔵  原田丘左衛門  小柳半之助
   柳川関彌  江藤吉松  来代音才  白井忠五郎  森田金太郎
   中島彦太郎  高瀬吉三郎  西村健太  白水良次郎  渡貫文吉郎
   鶴田次太郎  佐野兼吉  山口誠助  南川泰次郎  安形兼松
   田邊乙作  前田敬太郎  長束凍吾  大島満之助  中里三五郎
   陶 鶴松  中重愛助  中里文太郎  田口愛蔵  向江玉右衛門
   小池幸次郎  松本常太郎  高井安太  水野豊太郎  松下東太郎
   湊 貞蔵  熊田嘉津太  藤田祐助  梅村保太郎  瀬戸禮太郎
   脇山勝之助  田中幸助  古館源治  菊地兼太郎  青木權蔵
   小久保豊次郎  大島島太郎

同拾八俵
   吉田利重  脇山忠平  前田茂吉  松田熊四郎  山口孫助
   島津鐵蔵  坂本祐吉  平尾武七  松本利市  山内榮作
   山口又蔵  麻生金兵衛  吉田杢平  袈裟丸榮作  森田浅右衛門
   高田重男  吉田俊之助  前川儀平  山田半次郎  大場安衛
   原田郡八  常住喜市  樋口森治  梅崎瀧蔵  中江粂治
   吉川虎郎  秀島新右衛門  岡島騎之丞  瀬戸武十郎  加茂幸之丞
   脇山治郎助  松尾孫右衛門  吉田源三郎  岡本澤太  中島三之丞
   中島重治

同拾五俵
   楠田倉右衛門  宮崎善助  高崎周平  佐々木角治  中川定五郎
   森中嘉五郎  吉田新左衛門  馬渡廣作  藤本愛助  久我宗助
   前田利吉  中村喜久右衛門  脇坂吉之助  加茂硝造  船越和七
   吉田善七  牛草藤太郎  山岸久太郎  大津秀吉  諸岡丁治
   櫻井徳太郎  奈良崎東内  柴田武七  浦川集蔵  前田儀惣右衛門
   牛木勘七郎  松本助右衛門  丹野太右衛門  奈良崎郡平  奈良崎平太郎
   原善左衛門  西源三郎  牛木成太郎  丹野六郎  松崎松次郎
   小林平十郎  加納蔵太  小山喜右衛門  瀬戸圓助  有浦集助
   藤田錠太郎  坂本頼平  瀬戸覚之助  青木浪助  早川幸兵衛
   坂本光蔵  米倉助次郎  麻生鐵四郎  瀬戸源吾  熊澤奥右衛門
   大津寛之助  瀬戸武八郎  米倉權三郎  坂本源三郎  瀬戸與助
   岡本澤右衛門  脇山富左衛門  麻生禎三郎  竹下三郎  小川官吾
   脇山記太夫  城文左衛門  脇山勝兵衛  岡崎儀平太  吉田郡平
   吉田橘助  永田林助  吉川禮助  楢ア友右衛門  西五左衛門
   瀬戸武七  瀬戸重蔵  瀬戸勇次郎  岡崎甫助  川原官蔵
   長島浪三郎  脇山専次郎  熊本源右衛門  鶴田善五郎  鶴田又蔵
   成瀬達右衛門  脇山庄左衛門  脇山要右衛門  坂本源之助  松田重三郎
   川添清助  岡崎類助  松田禎蔵  脇山廣蔵  岡崎庄右衛門
   脇山信助  脇山廣平  鶴田傳右衛門  坂本幸内  徳田源助
   小島林兵衛  杉元忠司  坂本材太  吉田林吾  牧山虎蔵
   浦川喜右衛門  戸野川周蔵  山口傳次郎  山口右助  吉田清蔵
   田中仙次郎  松本猪平  松浦萬之助  梅崎瀬平  脇山喜兵衛
   梅崎徳次郎  樋口圓蔵  吉田宗治  井手芳蔵  野中村太
   福永熊平  山口守蔵  中尾源之助  山口関蔵  井手清太郎
   岡本志喜蔵  山口秀作  武雄兵左衛門  田中丈右衛門  坂本儀市
   濱田平兵衛  濱田儀兵衛  濱田清太郎  増富庄兵衛  増富奥右衛門
   吉田三郎  市丸祐五郎  吉川傳七郎

 士卒合計 九百六拾九人(幕末藩治最終時の人名なり)



 二 藩士略家譜(原本は村松喜太郎氏一族村松所蔵)

 仕官の年代と藩主 士官の地名    職務   食禄  本国名 雑記 姓名
 (イの部)
 享保、七、(五代長熙)遠州掛川 本方 十五人扶持  奥州二本松  五代 市橋卯左衛門
 (初代忠知)     駿州吉原 御徒        豊後     七代 磯貝猛
 正保、三、(初代忠知)三州吉田 先手組 六石二人扶持 三州小池村 七代 稲石有三郎
 寛文年中(二代長頼) 同上   御留守居組 五石二人扶持  信濃 五代 今泉好門
 慶安年中(忠知)   同上   町組  五石二人扶持  三州   八代 稲垣速見
 寛永年中(忠知)   豊後杵築 馬廻  二百五十石   讃岐   九代 井上男也
 寛文年中(忠知)   三州吉田     二十石九人扶持 和州      市原半右衛門
 (四代長重)     同上   先手組         豊後      印具官太
 萬治、二、(忠知)  同上   同上  五石二人扶持  三州小坂村 七代 印具豊之助
 正徳、元、(五代長熙 遠州掛川 町組  四石二人扶持  遠州佐野郡板澤村、五代 岩井門太郎
 享保、一五、(五代長熙)同上  先手組 同上      遠州掛川 五代 岩間草左衛門
 正徳、五、(五代長熙)     同上  同上      同上   二代 井口良太郎
 文政、一〇、(七代長恭)    修理様料理方      信濃   実は棚倉下町幸八甥 石河重厚
 天明、四、(長恭)       近藤組手 四石二人扶持      四代 池原源之助
 文政、三、(十代長昌)     先手組 同上      遠州岩附兼ね左衛門次男初代 岩附平左衛門
 安永、三、(長恭)       醫師  二人口後八人口 信州   三代 石河良庵
                             遠州佐野郡 五代 岩附鳴右衛門
 琴氷、九、(長堯)       先手組 四石二人扶持  奥州白川 二代 磯野祖左衛門
 文政、一二、(十代長昌)    臺所働仲間  一両二分二人口 奥州棚倉  二代 石井並助
 文政、四、(同上)       先手組 四石二人扶持  唐津       稲垣愛助
 寛政、四、(同上)       同上  同上   三州岡崎  二代  板倉祐三郎
 文化、四、(同上)       同上  同上  奥州白川  三代 岩野房次郎
 文政、四、(同上)       醫師 一人扶持    信州  二代 一條類吾

 文政、元、(同上)   江戸 先手組 三両二人口   唐津 三代 池田此治
 同上(同上)      同上 同上  四石二人扶持 信州 二代 今井重次郎
 文政、二、(同上)      石垣師 三石二人口  唐津 二代 井上団平
 文政、三、(同上)      本所屋敷番 四石二人口  同上 一代 伊蔵又兵衛
 安政、二、(長国)      鍼醫  玄米十俵   小倉 一代 市川養甫
 文化、五、(長堯)      表坊主雇 二人口四石二人扶持 安川要助弟 岩瀬清七郎
 弘化、二、(十四代長国)   武具方 四石 棚倉 井上仁左衛門弟 井上東兵衛
 安永、元、(七代長恭) 江戸 先手組 三両二人口  上総 五代 伊東金八郎
 元治、元、(長国)      部屋坊主 六石二人口 信州    石河重堅
 (ハの部)
 寛永年中(忠知)   杵築 馬廻  二百石  美濃土岐 十代 蜂谷三吉
 慶長、一八、(始祖秀政) 信州松本 後郡代 三百石 甲斐 九代 萩原半兵衛
 正保、四、(忠知) 三州吉田  徒士 十石四人扶持 紀州 八代 林新之助
 (四代長重)    同上  旗塩 五石二人口 三州吉田  六代 原田捨蔵
 元禄年中(同上)      徒士       同上 四代 林誠一郎
 享保、六、(長熙) 掛川 先手組 四石二人口 西ノ郡牛田村 実は来村次郎作弟 長谷川豊太郎
 元文年、中、(長頼)三州吉田  同上  五石二人口  同上 六代 同彦左衛門
 明和七、(長恭)        町組 四石二人口   三州 三代  同正巳
 享保、二、(長熙)  掛川 鷹飼 同上  同上 五代 同硯蔵
 天明、四、(長堯)  棚倉 留守居組 同上  越後 四代 同鐐右衛門
 寛政、二、(同上)        同上大工 五石二人ロ  陸奥 二代 芳賀庸助
 嘉永、元、(長国)     醫師 十石三人口  又左衛門三男 蜂谷良仲
 寛政、元、(長堯)     坊主小頭格 二人口  三州吉田 三代 原田民蔵
 寛政、七、(同上)     御城小頭見習 同上  奥州 二代 箱崎太次右衛門
 文化、三、(同上)     表坊主御雇 一人口  三州 彦左衛門二男 長谷川重助
 文政、元、(長昌)  棚倉 御城小使  同上  水戸 二代 畑清太郎
 同上(同上)     江戸 組子  三両二分二人口 相州小田原  二代 原三郎助
 文政、五、(同上)     先手組 四石二人口  肥前  二代 熊川九内
 文化、九、(長昌)     買物小使 三石二人口  陸奥  二代  原保蔵
 文政、六、(同上)     旗組 四石二人口   肥前  二代 濱田宇平
                      岩井紋左衛門六男 原田門六郎
(ニの部)
                              西脇大太郎
 寛文年中、(長頼) 吉田 御側役 百五十石  信州松本  八代  同求馬
 享保、一二、(長熙)掛川 先手組 五石    遠州掛川 四代 西村兵右衛門
 寛文、二、(忠知) 吉田 同上  五石二人口 同荒井 七代 同信蔵
 寛文、元、(長堯)    表坊主 一人半口  同上  三代 同小一郎
 文化年中(長昌)     先手  四石二人扶持 棚倉 竹上作右衛門次男二代 西田七作
 文化、一三、(同上)   先手  同上    陸奥  二代 丹羽治兵衛
 文政、五、(同上)    同上  同上  肥前  一代 西廣太
 文政、元、(同上)      大工見習  二人口  常州平潟  二代 西村八助

(ホの部)
 寛永年中(忠知)  信州  小姓頭  二百石後五百石 信州 八代 堀銑次郎
 明和、七、(長恭) 棚倉  町醫   無      豊後  四代 本多淳亮
 寛政、九、(長堯)     先手  四石二人口   紀州  四代 堀木立巳
 享保、元、(同上)     同上  同上   陸奥  三代 本多益太郎
 文化、七、(長恭)     丁田口門番 同上  同上 嘉平治次男二代 堀木嘉兵衛
 享和、二、(長堯) 棚倉  町組 同上 白川 三代 星野應助
 寛政、八、(同上)     會所小使 三石二人口  棚倉  二代 堀右平太

(トの部)
 寛永、九、(忠知) 杵築 堪定後郡代  百五十石  豊後 九代 鳥羽鉞次郎
 正保年中(同上)  同上 馬組    百五十石   加賀金澤 六代 富田克巳
 寛永年中(同上)  同上 小姓  十八石役金七両 豊後 五代 鳥羽順平
 安政、三、(長国)    馬廻  五十石 富田武兵衛三男 富田塚太郎
 享保、二、(長堯)    儒者  同上 十五人口  下総 三代 豊田譲
 寛永年中(長知)  杵築 塗師 廿五石四人口  小倉 八代 戸田元司兵衛
 元禄、七、(長重) 江戸 厩番 四両二分二人口 丹後竹野郡徳光村 五代 徳光五郎蔵
 寶永、六、(長重)    帳付 六両三人口   江戸 四代 戸澤小兵衛
 寛政、二、(長堯)    先手  四石二人口  陸奥 二代 留川石右衛門
 文化、一四、(長昌)江戸 足軽 三両二人口   遠州 二代 土岐専平治

(チの部)
 享保、一一、(長熙)掛川 馬廻  二十石五人口  上総 六代 千葉新助
 文化、三、(長堯)    先手  四石三人口   棚倉 二代 智田松蔵
 文政、元、(長昌)    留守居組 三石二人口  新潟 二代 地原文蔵

(オの部) 
 寛永、一〇、(忠知) 江戸 小姓頭  二百石  山城嵯峨  七代  大八木衛守
 慶長、一九、(同上) 川中島 家老職  二百石後千二百石  信州  八代  小川獻
 天保、二、(長恭)  江戸  使番  二十人口  因幡  二代 大野右仲
 享保、一六、(長熙)     蔵帳付 四石二人口  杵築 六代 太田亀太郎
 元禄、四、(長重)  吉田  中小姓 二百石   信州 五代 小川助次郎
 寛文年中(長頼)       馬廻 十石四人口  同上 七代 小澤宜鑑
 (忠知)           家老 五百石    同上 近藤甚右衛門二男九代 大久保末松
 天明、四、(長堯) 棚倉   馬廻席儒者 三十人口  山城 四代 大石清左衛門
 寶永、四、長亮(長重隠居の名) 奥家老 百石  常陸 六代 小高筍太
 正保年中(忠知)  杵築   代官       三州 八代 小野資
 寛永年中(同上)  同上   先手  五石二人口 杵築 六代 同膳蔵
 寶永年中(長重)       右筆 七両三人口後十三石二人口 若狭 五代 大島興義
 天明、元、(長堯)      鐵砲細工師 五石三人口 奥州穴澤内村 二代 太田鉾右衛門
 寛文年中(忠知)  吉田   先手組  五石二人口  吉田  五代 岡島角蔵
 寶暦、一〇、(長恭)棚倉   同上   四石二人口  江州  三代 岡田忠右衛門

 文化、元、(長昌)     武具付 三石二人口  棚倉 三代 同 紋三郎
 文政、四、(長昌)     先手  四石二人口  唐津 初代 大草銃兵衛
 文化、四、(長堯)     若黨  一人口    奥州 二代 岡島銀次郎
 寛政、七、(同上)     足軽  四石二人口  白川 二代 小田周助
 寛政、元、(同上)     會所小使 一人口   三州 二代 同 彌藤治
 寛文年中 (長頼)     町組  五石二人口  吉田 七代 岡本平内
 享保、元、(長熙)     中間  一両三分二人口 遠州佐野郡家代村 五代 小柳津三彌
 寛政、一〇、(長堯)    鐵抱方弟子 二人口  豊後 三代 小野五郎事 吉川*(金扁に隣)作
 寛政、七、(同上)     先手  四石二人口  奥州 二代 岡田直記
 明和、七、(長恭)     同上  同上     常陸 四代 大森正慶
 享保、二、(同上)     同上  同上     下野 二代 尾高平蔵
 文政、元、(長昌)     牢番  四石二人口  奥州 三代 小田倉鐵吾
 天明、元、(長堯)     蔵帳付 同上     二本松 四代 大岡夏太郎
 明和、二、(長恭)     先手  同上     遠州  四代 大住全平
 寛政、八、(長堯)     山組  二両一分一人半口 二本松 四代 大川鍵司
 文化、九、(長昌)江戸   岸組 三両二人口   武州 三代 小川本左衛門事川島春房
 元政、元、(同上)     紙方手代 三石二人口 奥州粟田郡 二代 大平林兵衛
 文化、元、(同上)     先手組 二人口   肥前 二代 小田重郎右衛門

(ワの部)
 寛永年中(忠知)杵築    馬廻 百五十石  敦賀 八代 渡邊多門
 天保、一二、(長和)    弓術 後八石三人口         十右衛門次男 同酉八郎…紺…凋
 元政、元、(長昌)     雇組 初二人口後四石二人口  大村 三代   渡邊直一
 元政、元、(長昌)     先手 三両二人口 武蔵 二代 渡邊良兵衛
 文政、二、(同上)江戸   同上 四石二人口 肥前 二代 脇山平太

(カの部)
 寛永、一九、(忠如)杵築  馬廻 二百石  攝津粟野郡 七代 謙田氏胤
 (同上)      同上  中小姓 三十石五人口後百五十石 讃州 八代 川上金右衛門
 明和、八、(長恭)     取次役 百石四人口 信州 四代 河内明倫
 正保、年中、(忠知)吉田  画師        河内交野郡 七代 交野一雄
 元禄年中(長亮)京都 小姓肴奉行 四両二人口後六両三人口 伊勢 五代 加藤與惣左衛門
 寛文年中(忠知)   金奉行 百石  武州 近藤甚右衛門五男 六代 河野金兵衛
 寛永、一一、(同上)杵築 馬廻 二百石後三百石 會津 十代 春日蔵太
 寛文年中(同上)吉田   徒士 五両三人口   加賀 五代 加藤甚十郎
 享保、二、(長堯)    醫師 二両三人口   同上 四代 河村束
 元禄年中(長重)京都 普請小奉行 十二石四人口 丹後宮津遠州磐田郡 神戸由門
 享保年中(長煕)掛川   足軽     掛下村後豆州代官  掛下官右衛門
 寛永、一九、(忠知)杵築 左官 十五石 杵築  五代  加山吉郎右衛門
 元禄年中(長重)武州岩付 郡代所小使 四石五斗三人口 吉田 同代 金子五郎兵衛
 天明、五、(長堯)    遠在施役 中間、馬一疋、籾一俵 加賀 四代 河村右介
 天明、七、(同上)    中間 二両一分一人半口 棚倉 三代 金澤勝蔵

 文化、六、(同上)     鐵砲師 四石二人口 泉州堺 岩井門右衛門五男 加藤門治
 天明、八、(同上)     中間  二両一分一人半口 陸奥 二代 梶山利兵衛
 文化、元、(長昌)     町組  四石二人口   肥前  二代 植野兵助
 文化、一五、(長昌)江戸  先手  同上      唐津  二代 神田源三郎
 天明、四、(長堯)     同上  同上      陸奥  四代 河江繁治
 文政、二、(長昌)     同上  同上      唐津  二代 加茂武七郎
 文政、六、(長昌)     同上  同上      福岡  二代 川泉立右衛門
 安永、五、(長恭)     町組  同上     兼子仲七弟 四代 兼子東五郎
 文政、元、(長昌)     茶方中間 一両三分二人口 唐津 三代 川口富太郎
 天保、一五、(長岡)    町組  四石二人口   同上  一代 川原廣蔵
 天明、二、(長恭)     茶方中間 一両二分二人口 棚倉 二代 唐澤参太

(ヨの部)
 寛政年中(忠知)杵築    中小姓 十五石四人口 信州川田 六代 吉岡三平治
 寛保、三、(長庸)掛川   先手  四石二人口  遠州      吉原品右衛門
 文政、三、(長昌)     同上  四石二合   陸奥 伴春右衛門次男 二代 横山寛之助
 安永、七、(長堯)     表坊主 一人半口 来村七兵衛弟 二代 吉田祐吉
 寛政、九、(同上)     足軽  四石二人口  白川 一代 吉原縫右衛門
 文政、六、(長昌)     廻り方若黨雇 一人口 信州川田 吉岡八内弟 二代 吉岡嘉左衛門
 寛政、四、(長堯)     先手  四石二人口  常州  二代 吉成務右衛門
 文政、元、(長昌)     町組  同上     唐津  二代 吉田友太
      (向上)     臺所膳番 三石二人口 向上  二代 吉田文助
 文政、六、(同上)     左官 二両二朱二人口 同上  二代 吉田詫次郎
 天保、五、(長會)     會所小使 三石二人口 同上  初代 吉田武右衛門

(タの部)
 寛永、九、(忠知)杵築   家老 四百五十石   甲州 九代 高畠勘解由
 元禄、九、(長重)京都   醫師 二十人口薬料十両 信州 五代 田上忠左衛門
 寛永、一一、(忠知)杵築  中小姓 百五十石   豊後 七代 竹田才兵衛
 寛永、九、(同上) 向上  物頭 三百石   武州佐渡殿原 十代 高須猛
 文政、五、(長庸)江戸   足軽       甲州  四代 田邊覚左衛門
 廷寶、四、(長頼)吉田   勘定 二十俵三人口  讃州 五代 高田平蔵
 寛文、一二、(同上)同上  小姓 十五石人口後百五十石 近江 六代 多賀亘
 寛永、正中、(忠知)杵築  山廻 六石二人口   阿波 九代 田林助松
 元文、五、(長庸)     徒士 六石三人口   武州 四代 高田千治
 寛永、九、(忠知)杵築   指物頭 二百石    讃州眞岡 八代 高原惣左衛門
 寶永、三、(長重)武州岩附 先手 五石二人口   姫路 六代 瀧喜三郎
 文化、一一、(長昌)    同上 五石二人口      初代 田中厚右衛門
 正保、二、(長知)吉田   鐵砲組 同上     尾張 七代 同 岩右衛門
 (同 上)杵築       先手  同上     豊後 七代 竹上潤平
 天明、五、(長堯)     同上 四石二人口   陸奥 三代 辰野嘉藤治
 天保、九、(長国)     賄方 六石三人口      初代 田林覚右衛門

 天明、元、(長堯)     醫師 同上  不明 五代 瀧美代橘
 天明、二、(同上)     木戸番 一両二分一人半口 陸奥 四代 竹本武右衛門
 文政、二、(長昌)     先手  四石二人口    尾州 初代 田中芳右衛門
 (同 上)         會所小使見習 一人半口  遠州 三代 竹林三根松
 寛政、七、(長堯)     先手  四石二人口    陸奥 二代 田林仁太郎
 天明、元、(長堯)     同上  四石二人口       三代 高山忠三郎
 寶暦年中(長恭)      牢番  同上       陸奥 三代 竹野葉右衛門
 享保、八、(長熙)幡ヶ谷  中間部屋頭 三両二分二人口 信州 四代 瀧澤為蔵
 文政、一〇、(長昌)    先手  四石二人口    唐津 二代 竹房安太郎
 文政、二、(同上)     同上  同上       下野 二代 田口新右衛門
 延享、四、(長恭)     同上  同上       陸奥 五代 田邊鐵吾
 天保、元、(長和)     大庄屋 五人口      唐津 初代 田代寛作
 文政、二、(長昌)     町組  四石二人口    同上 初代 高橋四方助
 文政、四、(同上)     留守居組 同上      伊豆 三代 谷勤治
 文政、一一、(長恭)    會所小使 一人口     槻倉 初代 田邊林右衛門
 天明、三、(長堯)     町組   四石二人口   陸奥 三代 高崎俊太
 文政、二、(開昌)     紙方見習 三石二人口   唐津 二代 田中米蔵
 文化、一〇、(長昌)    先手  四石二人口    陸奥 二代 瀧澤喜助

(ツの部)
 寛文年中(長頼)吉田    馬廻  三十人口     尾州    津田重平
 寛永年中(忠知)杵築    剣道指南  二十人口   信州    塚田春之丞
 (長照)    掛川    足軽後金奉行 三両二人口後十二石四人口 信州 鶴田善次郎
 文久、三、(長国)     醫師   二人口     幸次郎弟  同文哉
 文政、元、(長昌)     雇組   同上      唐津    筒井良蔵
 文政、二、(同上)     留守居組 三石二人口   同上    辻三郎
 文政、元、(同上)江戸   先手   四石二人口   同上    鶴田浅右衛門

(ナの部)
 寛文、七、(長矩)江戸   小姓   十石三人口
          田安上屋  馬廻   百石五人口   上野    中津泉
 同上   (長頼)吉田   中小姓  十五石四人口
                 馬廻   百石      美濃苗巣 永江恒一
 元文、二、(長熙)     長庸公御供 五十石    武蔵   長井西東
 寛永年中(忠知)      馬廻   百五十石    丹後畑見 中山廣右衛門
 安政、五、(長国)     馬廻席蘭擧者 十人口   中澤角太夫三男 中澤見作
 延享、三、(長恭)     醫師   十五人口    越後高田 市橋卯左衛門次男 長尾良節
 (忠知)          法源院殿御附 五両二人口 信州   中村孫太郎
 寛文年中(同上)      先手  五石二人口    吉田   中川房一郎
 寛政、九、(長堯)     留守居組 二人口     遠州   中島軍次右衛門
 寶永、七、(長重)武州岩附 蔵帳付  四石二人口   吉田   中村平兵衛
 正徳、五、(長熙)     先手   四石二人口   横須賀  中島三左衛門
 元文、二、(同上)     町組   同上      掛川   中山久太夫
 元文、元、(同上)掛川   中間   一両三分二人口 同上   長束市左衛門

 文政、一一、(長堯)    修理様料理方雇 三人口 信州 甚五兵衛三男 中村唯之助
 (長重)          先手      四石二人口 伊豫  永谷新次郎
 文化、二、(長堯)     寺社方詰番   二人口   奥州  中西孝五郎
 文化、一一、(長昌)    先手      四石二人口 武州 高田新左右衛門三男 中山利平治
 文化、一四、(同上)    江戸定番    同上    信州高島 永居造酒三郎
 貞享、四、(長和)吉田   先手      五石二人口      永田源太郎
 文政、五、(長昌)     搗屋帳付    三石二人口 唐津   成瀬友右衛門
 文政、元、(同上)     先手      四石二人口 同上   中島倉太
 文化、四、(長泰)江戸   同上      同上    下野   中山勝三郎
 文政、元、(長昌)同上   同上      同上    肥前   名古屋森治
 文政、七、(長堯)唐津   旗組      同上    播州   中村孫兵衛
 文政、五、(長昌)     先手      同上         同 實右衛門
 文化、二、(長堯)     木口定番    同上    陸州   永田亥内
 嘉永、二、(長国)     弓師雇     一人口   大村   中村戸十郎

(ムの郡)
 正保年中(忠知)杵築    馬廻     二百石   伊豫 大阪留守居 村上雄蔵
 天保年中(長和)      寶蔵院鎗術馬廻 十人口  同上    同熊蔵
 文政、六、(長昌)江戸   儒者     二十人口  大村    村瀬文輔
 元禄年中(長重)京都           五人口   信州    村田輿作
 天明、八、(長堯)     旗組     二人口   吉田    同兼太郎
 延寶、一〇、(長祐)吉田  先手     五石二人口 同上    同 勝太郎
 文政、二、(長昌)     町組     四石二人口 尾州    村井郡司
 文化、二、(長堯)     旗組     二人口   陸奥    村松領右衛門
 元文、元、(長熙)掛川   先手     四石二人口 横須賀   村松克造
 文政、五、(長昌)     雨森惣兵衛組 同上    同上 此右衛門長男 村松喜多治
 安政、六、(長堯)     留守居組   同上          向江玉右衛門

(ウの部)
 永禄、一一、(長重)武州岩附 先手   五石二人口  下総    上野敬次郎
 享和、二、(長堯) 江戸   油方   二両二分一人半口 信州  上原亀三郎
 文政、元、(長昌)      先手   三両二人口  唐津    牛草源蔵
 文、二、(長昌)       先手雇  二人口    同上    植松保太
 (同上)    棚倉     同上   一人口    近江    宇田七五三右衛門
 (同上)           町組   四石二人口  唐津    内山来蔵
 (同上)    大阪倉屋敷  足軽   同上     加賀    宇野慎平

(ノの部)
 寛永、九、(忠知)杵築 近習組後家老 二百石後五百石 泉州   野邊小左衛門
 嘉永、四、(長国)     馬廻    五十石    亦右衛門次男 同ワ五郎

(クの部)
 正保、四、(忠知)吉田  先手  五石二人口    三州   桑原尚志
 寛永、九、(同上)杵築 物頭後家老 四百五十石   信州棚倉 倉橋三郎右衛門

 正保、二、(同上)吉田  馬廻   二百石 阿波  黒部又右衛門
 享和、元、(長堯)    醫師   二十人口   下総   倉持玄英
 慶安、三、(忠知)吉田       六石二人口  三州   熊谷耕吾
 寛政、二、(長堯)    先手   四石二人口  陸奥   栗田素位
 文政、二、(長昌)    同上   同上     肥前   草場秀太郎
 延享、元、(長庸)掛川  同上   同上          桑原弾右衛門
 寛政、三、(長堯)    町組   同上     奥州   久野平太兵衛
 文化、七、(同上)    高須組  同上     出羽   菅富才
 文政、四、(長昌)    先手   同上     白川   栗田藤太郎
 文化、七、(長泰)    同上   同上     奥州   熊田甚三郎
 天明、三、(長堯)    鐵砲師  六石三人口  常州笠間 国友右源太

(ヤの部)
 寛永、九、(忠知)杵築  馬廻   二百石    陸奥   山口早太
 正保年中(同上)     徒士   十五石四人口      山久知文次郎
 寛文、七、(長頼)江戸  小姓   同上   駿州山中   山中小太郎
 寶暦、一二、(長泰)   先手   四石二人口  白川   山田勘左衛門
 享保、二、(長熙)    大工   六石三人口  攝津   同 正道
 天保、一三、(長相)   兵學師範 一人口         同 帰一
 正保年中(忠知)     徒士   拾五石四人口 讃州高松 矢田孝序
 享保、七、(長熙)    指物師  六石三人口  上野   山越慎平
 天和、七、(長祐)吉田       五石二人口  遠州   山田安次郎
 慶安、四、(忠知)    留守居組 同上   越後村上   同 惠助
 元文、元、(長熙)    先手   四石二人口  遠江   山崎瀧右衛門
 寛永年中(忠知)杵築   山廻頭取 五俵人口   豊後   安川要助
 寛政年中、(長堯)    留守居組 四石二人口  奥州   山野邊七郎
 正徳、二、(長熙)江戸  手廻   五両二人口  越後   矢代嘉左衛門
 正徳、元、(同上)    先手   四石二人口  三州   山口儀平太
 寛政、八、(長堯)    殺生方雇 三石二人口  白川   山野奥右衛門
 安永、六、(同上)    寺社方詣番 一人口   遠江   山崎庄蔵
 安永、一一、(同上)   表坊主見習 同上    掛川   山岡武助
 文政、七、(長泰)    町組   四石二人口  肥前   山本時右衛門
 安永、九、(長堯)    留守居組 同上     陸奥   山岸壽仙
 文政、四、(長昌)    永江組  四石二人口  福島   山木繁太
 文政、三、(同上)    来川組  同上     唐津   柳井小太郎
 安永、八、(長堯)    先手   同上     陸奥   山口郡右衛門
 寛政、一二、(同上)   旗組   同上     越後   同 牛太郎
 (同上)         同上   同上          同 要平
 天保、元、(長祐)吉田  持筒組  六石二人口  三州   山本重太
 文政、五、(長昌)    近藤組  四石二人口  播州明石 山崎瀬助

 (マの部)

 寛永、一四、(忠知)杵築    馬廻 四百石  尾州清州            前場登
 寛永、二、(同上)       徒士頭 百石  三州       松澤權左衛門
 (長祐)            近習後家老 三百五十石   攝津    米渓新助
 文化年中(長堯)        支度掛 二人口 宇土 牧野本右衛門孫 牧野獲
 正徳、二、(長熙)掛川     先手  四石二人口     増田卓爾
 寛永、一四、(忠知)杵築    厩小頭        信州  松澤濱右衛門
 享和、二、(長堯)       馬廻  五十石  尾州    前場善之助
 嘉永、五、(長国)       同上  同上       内記弟  牧野廉蔵
 享保、二、(長熙)遠州中泉   町組  四方二人口   遠州     増田喜代蔵
 享保、一四、(同上)      先手  同上   掛川  増山澤蔵
 天明、四、(長堯)       普請方 二両一分三人口 上野館林    松本磯次
 延享年中(長恭)        川上組 四石二人口   掛川     丸田織右衛門
 元禄年中(長重)        幼雲院相手 三両三人口 三州     松澤文太郎
 天明、五、(長堯)       先手  四石二人口   陸奥     丸山荘吾
 文化、七、(同上)       春日組 同上 掛川   同圓蔵
 延享、二、(長恭)       醫師  三十人口   伊勢      松井刀三郎
 文化、一四、(長昌)      先手  四石二人口  棚倉      増子哲職
 寶暦、一三、(長恭)      同上  同上     同上      松本三保蔵
 文化、一四、(長昌)      同上  同上    陸奥 林右衛門次男 丸山重太
 文政、四、(同上)       町組  同上    唐津       松下重蔵
 文政、一一、(長恭)      瓦師  三石二人口 同上       松本常太郎
 天保、三、(同上)       旗組  同上    同上       前田傳七
 慶長、一九、(忠知)信州川中島 中小姓 廿石五人
                 後徒士頭 百七十石  肥後宇土    牧野糺

(フの部)
 寛永、九、(忠知)杵築     小姓  三百石 三州福田村 福田勇
 寛政、五、(長堯)       馬廻  五十石 同上    同 嘉織
 享保、四、(長熙)       馬役  拾人口袴代五両 尾州 藤兵吾
 天明、六、(長堯)棚倉     先手  四百二人口   奥州 深谷喜傳治
 文政、元、(長昌)       同上  同上         藤田嘉七郎
 文政、七、(長恭)       畳師  三石二人口   筑前 保介寛政
 寛政、四、(長堯)       留守居組 四石二人口 越後  藤田熊右衛門
 同上              山組  同上  棚倉   古市二喜和太
 元禄、一五、(長重)江戸    足軽  三両二人口   武州岩附  藤森官次郎
 文政、六、(長昌)       留守居組 四石二人口  肥前   古市集助
 文政、元、(長昌)       先手 二両一分一人口 棚倉   藤田仙六
 天保、六、(長會)       大工  四石二人口  唐津  古館與四郎

(コの部)
 寛永、一一、(忠知)杵築    物頭  三百石  遠州伊井谷   近藤甚右衛門
 文政年中(長昌)唐津    馬役 八石三人ロ 三州 六左衛門次男 同 平馬
 正保年中(忠知)三州吉田  賄師 二十石四人口   同上     同 六三郎

 文化、一三、(長昌)    馬廻 五十石 遠州伊井谷 甚右衛門次男 同 好太郎
 寶暦、八、(長恭)     中間 一両三分二人口 白川  小林明正
 正徳、元、(長熙)江戸   先手 三両二人口   掛川  小島七郎右衛門
 安永、一〇、(長堯)    同上 四石二人口  白川東河内村  小林春正
 文政、元、(長昌)     郷夫 十一俵二人口 唐津   小島伊三次
 文政、四、(長昌)     町組 四石二人口  同上   小松勝蔵
 文政、三、(同上)     杉澤組 同上   同上    小島元蔵
 文化、一〇、(同上)    倉附中間 二両一分二人半口 棚倉 小池彌右衛門
 元禄、一三、(長重)岩附  町組  五石二人口  武州  小島銀太郎
 天明、六、(長堯) 同上  山組  二両一分一人半口 同上 小出精吉
 天保、一二(長和)     留守居組 四石二人口  出羽 小柳今太
 文政、六、(長昌)江戸   鳥山組  同上   駿河  小林藤兵衛

(エの部)
 正徳、元、(長熙)     先手 五百二人口  掛川 海老原里美
 安永、七、(長堯)     同上 四石二人口  遠州 海老原喜兵衛
 文化、二、(同上)     植付方中間  一両一分二人口 奥州 遠藤刀右衛門
 文化、四、(長昌)     先手 四石二人口  三州   江坂政吉
 寛永、一九、(忠知)杵築  醫師 二百五十石       江口彦五郎

(アの部)
 寛永、三、(忠知)杵築 児小姓 二百石
             後家老 後五百石  江州雨森  雨森十郎兵衛
 寛文、八、(長頼)吉田  持筒組      三州    天野才馬
 享保、二、(長熙)    留守居 百石   信州松本  秋元與一郎
 安政、二、(長国)    馬廻  内分々地五十石  惣兵衛次男 雨森小仲太
 延寶年中(長頼)吉田   近習 百石  遠州伊井谷 近藤甚右衛門四男 浅野正右衛門
 文化、七、(長恭)    醫師 十人口 丹後 阿部又男
 延寶、六、(長祐)吉田  厩方 三石五斗二人口   浅野紋兵衛
 文政、二、(長昌)    左官 三石二人口  奥州 秋山與太
 文政、四、(長昌)    倉橋組 四石二人口 唐津   麻生芳助
 文化、一四、(同上)   旗組  三石二人口    阿部常蔵
 文政、七、(長恭)    百東組 四石二人口 唐津 麻生黙助
 文化、七、(長堯)    先手  同上   奥州  天野官吾

(サの部)
 寛文年中(長頼)     小姓後郡代 百石後二百石  信州 坂本孫三郎
 延寶年中(長矩)     勘定    十石三人口   吉田 坂井大助
 寛永、一八、(忠知)杵築 中老   四百石  山城  佐久間右内
 (同上)      同上 徒士   二十万  常州  佐藤五兵衛
 寛政、八、(長堯)    旗組  二人口   遠州  佐野菅右衛門
 元文、五、(長庸)    先手 四石二人口  同上笹本 笹本芳太郎
 寛文、二、(長頼)吉田 留守居小頭 十石三人口 豊後  佐藤喜多右衛門
 慶安、四、(忠知)同上 持筒組 六石二人口       酒井正徳

 文化、五、(長堯)大津 大津倉邸勘定見習 一人口 近江  笹本順蔵
 (同上)        先手 四石二合 遠州 岩附鳴右衛門二男 細田庄吾
 享保、二、(長熙)掛川 同上 四石二人口  北初江村 佐藤源助
 明和、五、(長恭)   同上 同上   掛川  寒河江嘉六
 安永、八、(長堯)   中間 二両二分一人半口 磐城小名濱 佐藤政次郎
 寛政、三、(同上)   旗組 二人口  杵築  同 喜多治
 文化、七、(同上)   同上 四石二人口 越後柏崎 坂田幾三郎
 享保、七、(長熙)   厩番 一両三分二人口 豆州 佐野東九郎
 文政、四、(長昌)   賄所買物使 三石二人口  奥州  佐藤賢七
 文政、三、(同上)   町組 四石二人口 唐津  坂本庄之助
 文化、一四、(同上)江戸 先手 三両二人口  羽州 齋藤宗右衛門
 文化、三、(長堯)   會所小使 一人口  陸奥  佐藤繁蔵

(キの部)
 享保、一四、(長熙)   近習組  三人口  近江 衣川金太夫
 貞享、二、(長祐)吉田  小間使  七石三人口 信州 来村次郎作
 寛永年中(忠知)杵築              同上 同 宗太夫
 (向上)    同上   先手      豊後野田村   吉川與兵衛
 文化、一一、(長昌)    同上 四石二人口  三州 松澤孫七次男 木元八蔵
 文政、六、(同上)     永江組 同上   吉原又兵衛次男 木付圓蔵
 文政、三、(長昌)     表坊主 一人口      来代数太
 文政、元、(同上)     雨森組 四石二人口  棚倉  菊池兼太郎
 文政、五、(同上)     牢守  同上   越後  木村亀太郎

(ユの部)
 天保、ニ、(長泰)     徒士 六石三人口    湯浅慎治
 同上(長會)        先手     鏡村郷組小頭早川嘉平悴   同 代右衛門

(メの部)
 文政、七、(長昌)     先手 四石二人口   出羽  飯野勘助
 文化、一五、(同上)    武具方中間 壹両三分二人口 最上 同 小助

(ミの部)
 寛永年中(忠知)      射術方馬廻  二百石  備前 三宅永身
 寛保、元、(長庸)     先手 四石二人口   遠州  三井百太郎
 安永、三、(長恭)     同上 同上          同 勝義
 寶暦、九、(長恭)     町組 同上  攝州  緑川金蔵
 文化、二、(長堯)     先手 同上  伊勢  水谷銀兵衛
 寶暦、元、(長恭)     中間 一両三分二人口 駿河   緑川俊蔵
 文政、三、(長昌)     武具方細方  二人口 熊本  宮尾淳次郎
 寶暦、七、(長恭)     中間 一両三分二人口 掛川  緑川由右衛門
 寛政、八、(長堯)     先手 四石二人口 陸奥 三澤吉蔵
 文政、元、(長昌)江戸   足軽 三両二人口 越後高田  宮本類蔵
 文政、二、(同上)     先手 四石二人口 肥前 宮口休吾

 文化年中(同上)      旗組 三石二人口 棚倉 水野小四郎

(シの部)
 寛永年中(忠知)江戸    徒士 五両三人口 小田原  篠崎儀三郎
 天明、元、(長堯)     先手 四石二人口 三河   志村忠司右衛門
 文化、一四、(長昌)    留守居組雇 一人口 遠州 緑川太右衛門次男 柴田門吉郎
 文化、五、(長堯)     旗組  二人口   伊勢   鹽田彌惣治
 享保、四、(長熙)掛川   先手  四石二人口 奥州   榛葉彌太郎
 寛政、七、(長堯)     富田組 同上    棚倉   同東助
 文政、三、(長昌)     先手  同上     鶴田諸右衛門次男 清水柳蔵
 天明、四、(長堯)     同上  同上   棚倉    鹽田辨才
 文政、二、(長昌)     倉橋組 同上        進藤安村
 文政、五、(同上)     留守居組  同上 播州 白江幡太夫
 天保、一〇、(長和)    武具方雇 二人口   肥前  城水新作
 安永年中(長恭)   中間後學館掃除 三万二人口 奥州  鹽田伊兵衛
 天保、五、(長會)     大工  四石二人口  唐津  白井忠兵衛

(ヒの部)
 天文、一九、長時(忠知秀政の祖父)信洲 家老 三百石 越後 百束新
 寛永、一九、(忠知)    中老 貳百石   同上     同 兵衛
 寛文年中(長頼)吉田    先手  五石二人口  三州   彦阪鉞太
 寛政、八、(長堯)     膳焚  三両帯刀   陸奥   姫松倉右衛門
 延暦、六、(長祐)吉田   旗組 五石二人口   三州   平尾健司
 天明、六、(長堯)     普請方中間  二両一分二人口  東小川瀬兵衛
 文政、元、(長昌)     中間 二両一分一人半口 陸奥  平野六助

(モの部)
 (忠知) 江戸 中小姓後大納戸  百石   信州  森下金八郎
 享保、二、(長熙)掛川 旗組 四石二人口  遠州  森田京蔵
 文政、六、(長昌)    先手  同上   肥前  毛利仙治
 文政、四、(同上)    同上  同上   同上  森 才助
 文政、三、(同上)    料理方 同上       本山小東太
 文政、一二、(長泰)   會所小使 二人口     森 銕太郎

(セの部)
 寛政、一二、(長堯)   先手 四石二人口  陸奥 関根兵五右衛門
 文化、元、(同上)    同上 同上     同上 瀬倉領右衛門
 享保、一四、(長熙)   旗組 同上     豊後 関谷萬祝
 文化、一四、(長昌)   先手 同上     奥州 関根番作
 文政、元、(同上)    先手組雇 二人口  肥前 瀬戸禮助

(スの部)
 天明、三、(長堯)    表詰格 十石三人口 三州 杉江頼母
 明和、三、(長恭)    近習助役後馬廻 二十人口  武州 鈴木源蔵
 寛文年中(長頼)     先手 五石二人口  三州  鈴木傳

 正保、三、(忠知)吉田  同上     同上     病身にて扶持方差上 杉江重次兵衛
 寛文、二、(同上)同上  餌差鷹匠 八石三人口  同上  鈴木利政
 同上(長頼)同上     菓子方小姓目付 五石二人口  同上    杉浦與次兵衛
 寛政、五、(長堯)    城小使見習  一人口  奥州   須藤傳次右衛門
 文化、九、(長昌)    初金百両後金三百両献上ニ付 六石二人口  陸奥    鈴木孝之助
(同上)   父彦右衛門正乗両度ニ四百両献上ニ付文政元年許可二人口    彦右衛門悴宗兵衛 鈴木民助
(同上)        先手 五石二人口 陸奥    須藤芳蔵
 享保、一二、(長熙)   同上 四石二人口  掛川 鈴木儀之助
 文化、八、(長堯)    旗組 二人口   奥州  同弾蔵
 文化、二、(同上)    中澤右仲組  四石二人口 三州    杉山甚五右衛門
 正徳、元、(長熙)江戸  陸尺 四両二分二人口 仙臺  鈴木官六
 享保、一六、(同上)   路次中間     吉田   杉山伴作
 文化、一一、(長昌)   町組   四石二人口  越後松松  同齋之丞
 享保、一九、(長熙)掛川 先手  同上  遠州    同 正直
 寶暦、一四、(長恭)棚倉 同上 同上  陸奥  同 志賀蔵
 天明、二、(長堯)    中間 一両三分二人口 宇都宮  杉山盛右衛門(鈴木)?
 文化、四、(同上)    先手 四石二人口   會津   薄兼太郎
 寶暦、六、(長恭)    同上 同上  陸奥     鈴木與助
 寛政、三、(長堯)    城小使 二人口  同上  同與次右衛門
 安永年中(同上)     陣屋中間 一両三分一人半口 常州    同小平治
 天保、一五、(長国)   大工 四石二人口  白川  同 順蔵
 明治、二、(同上)       同上   唐津    同 是吉
     以上合計四百五十三名

 △参照
一、貳人扶持(米一升五合の日宛にて、一ヶ月四斗五升、一ヶ年五石四斗とす)
一、参人扶持(米三升の日宛にて、一ヶ月九斗、一ヶ年拾石八斗とす)
一、四人扶持(米四升の日宛にて一ヶ月一石貳斗、一ヶ年拾四石四斗とす)

三 御領高村別

 村名  本村石高     村名  本村石高   村名 本村石高
      新田石高          新田石高       新田石高

 唐津組、二ケ村
       石         石
 唐津 二,〇七六、七三    大島  六二、四七 
         一九、二六         一四、二六

  小 計 二,一三九、二〇 
           三三、五二

和多田組、八ケ村
 和多田 一,四七一、五九     大石 一九〇、六四    養母田 四〇三、四九
          二九、三〇             〇、九六         一八、四八

 山本  一,二一五、〇七   千々賀 一,〇〇六、三一   畑島 二九九、九五 
            八、二九             四二、八四       一三、七四

 橋本 二五、八六   山田 四五八、五六 
       〇、六八        一〇、七五


  小計  五,〇七一、四七 
           一二五、〇四


徳須恵組、拾貳ケ村
 徳須恵 七二七、九五   竹有 一一〇、五八   稗田 五四七、五八 
          一、三九           九、一一          一八、三五

 田中 五五一、二五    岸山 二一七、二三    大杉 三一三、八三 
         三、四七           七、八八           六、二七

 石志 八三五、八一    上平野  九九、九三   小平野  四八、三三 
        一八、七四、           四、〇〇            三、〇〇

 下平野 九四、七三    山彦 一六四、六三    行合野 一七五、四四 
        一五、四八           四、七八           五四、六七

  小計  三,八八七、二九  
           一四七、一四

馬場組、九ケ村
 馬場 相知 七四五、四五   梶山 三〇四、九三   山崎  五二、一六 
           三九、二四          二五、三七         一、三二

 牟田部 七七四、三八    久保 二〇九、九二   中山 三三六、三七 
          四八、二五          七、七三          一三、四三

 佐里 六五三、三一   黒岩 四三八、八九   伊岐佐 一五一九、四八 
        三六、〇七          八、〇九           三六、五二

  小計  五,〇三四、八九 
           二一六、〇二


鏡組、拾壹ケ村
 鏡   二,二〇二、八一   満島 六四、九六   梶原 五八九、三四 九、三八
          一一二、七六          〇

 鹽屋 一八二、〇三    高島 五一、四四    野田 三四八、五八 
        〇、五七           一、三二          一一、七〇
 
 山田 六九四、七三   半田 一,二八一、三七    矢作 五九三、一四 
        一四、〇七            九、七一           六、二七

 池原 五七七、一七   柳瀬  六九、六二 
        一六、三六         四六、二九

  小計  六,六五五、一九 
            二二八、四三

久里村、九ケ村
 久里 一,二八四、五四   夕日 一四四、三一   柏崎 六七二、三六 
          一〇、三〇          五、九九          八、一三

 有喜(宇木) 一,〇二五、九二   中原(ハル) 一九三、四三   原(ハル) 七一八、一七 
              一七、六一             六、〇四             三、七五

 西原 一〇九、六一   大野 六七六、一一   双水  四二九、〇二 
         八、七三         二〇、五九         一四、三八

  小 計  五,二五三、四七 
             九五、五二

畑河内組、拾ケ村
 畑河内 二七七、五五   花房 一六七、四八   長尾 一四六、四〇 
         四八、三八          六、二七          九、〇七

 眞手野 二八一、七九   重橋 二三四、五五   谷口 九一、七七 
         二八、六二         二〇、七〇       一二、九七

 内野 二〇八、六六   畑津 三〇〇、〇七   辻 二四八、九八 
        二二、六九         一四、三二       七九、九一

 馬蛤潟(マテガタ) 四九七、九一 
                一、六九

  小計 二,四五五、一六  
          二五〇、六二

黒川組、十一ケ村
 小黒川 一七二、七四    大黒川 二三〇、三一   鹽屋 四三、七八 
         六三、五七           四三、四七        三四、四六

 黒鹽 一一六、三三   椿原  五九、六二   清水  四二、八八   
       三六、七七         一五、四八         三、一〇


 横野 六七、三二   立テ目 三七、六七   牟田 四一、三四 
       三、九〇          二、一二       一一、六八

 福田 七二、五一   煤屋 四三、〇五 
      四一、六三       一六六、二三

  小 計  九二七、五五 
          四二二、四一

井手野組、拾ケ村
 井手野 四二九、三八   原屋敷  一七四、三五     府招 三二五、二〇
       一五、四一         八、二〇          三三、七一

 小宮原 一三〇、七五   大河原  二一四、六〇    高瀬 一五一、二六 
        四、七二         一一、三九         四、六三

 大曲 一一二、七二   古里 一七〇、一四   水留(ツゝミ) 三六九、四〇 
        四、二八        四、九六             一五、七〇

 志気 一〇九、三七 
       一七、二〇

  小 計  二,一八七、一七 
           一二〇、二〇

神田組、七ケ村
 神田 一,六〇二、四三   成淵 一三八、七六   重河内 一〇九、一五 
        二三、三二        一一、五六         一〇、三七

 奥村  三六、二八   唐ノ川 一四四、六七   竹木場 七二、六一 
        一、五九         六、九四        一二、一五

 菅牟田  六九、三九 
         二、三五

  小 計  二,一七三、二九 
            六八、二八

佐志組、八ケ村
 佐志 一,四三三、八一   見借 五七七、四八   唐房  八二、七三 
        三二、二四         八、八七        三、四六

 浦  六一三、三九   鳩川 一〇五、七六   相賀 五四二、二一 
       一二、六三        五、一六        九、三二

 湊  一,五六九、七五   神集島 一一五、〇三 
         一八、七三        一八、七五

  小計  五,〇四〇、一六 
         一〇九、一六 

 
馬部(マノハマリ)組、拾六ケ村
 馬部  一四八、八九   枝去木 一二〇、七四   石原 一一五、七二 
       二一、七七         一、七七          一、四三

 野中  四一、三四   平菖津  三八、一二   山道 一七二、〇四 
       〇、〇九          〇           七七、二〇

 名端越  八、一七    中尾  七〇、八三   後河内 一九二、六六 
       二、六五           四、一一        七、五〇

 小十官者  四四、五一   梨子河内  八四、一一   大良 四五、八〇 
         七、二六          一三、八三       一六、八六

 八尋峯  三六、〇〇   藤平 八三、六三   田代 一七三、四一 
        二、〇七        四、六七         六、六〇

 永田  三五、三九 
       五、九九

  小計  一,四一一、四六 
         一七三、八〇


打上組、八ケ村
 打上 六五六、七五   横竹 三九四、六一   菖蒲 五五三、三一 
       二二、九六        四九、七八       一四、九六

 八床 一九八、三八   岩野 一〇四、〇九   高野 六〇、九九 
       七、七三         二、九三         二、九六

 加倉 二〇九、〇〇    石室 五五〇、四七 
        四、九六        一二、三九

  小計  二,七二七、六〇 
          一一八、六七


赤木組、拾ケ村
 赤木 六八九、〇七   横野 二六四、五七   大友  九二、八六 
       三二、一六        六、六三        一、三一

 小友 六〇、二六   丸田 三三三、二三   呼子 二七四、七四 
      三、七七         一六、二九      二五、一九

 中野 一五八、一一   鹽鶴 二六二、七九   屋形石 六九九、七五 
       四、九七        一五、五七         三二、九一

 中里 一一四、六九 
       一三、三二

  小計  二,九五〇、〇七 
          一五二、一二

名古屋組、七ケ村
 名古屋 一,八六四、七〇   加部島 二九一、九八   小川島  五一、三五 
          六〇、九二        三六、二五        一三、一八

 加唐島  四四、二三   馬渡島 九五、八三    波戸 一七一、四二 
        二二、一五       一〇、三六          六、六三

 串  七三、四〇 
      一二、九一

  小 計  二,五九二、九一
           一六二、四〇

今村組、拾ケ村
 今村(値賀) 六六一、三四    普恩寺 三八一、八二    向(ムク)島  四、四〇 
          一一〇、一九         三六、六七          二五、六九

 平尾 一八八、四三    濱野浦 一七七、七四    大蓮 一三〇、一四 
       一四、五九          二〇、四四        二八、五六

 値賀河内 二一八、八九   小加倉 一七四、〇〇   假屋 八一、一二 
          四、三四         五、三一       二一、六五

 石田  一七一、七三 
        八二、八二

  小計 二,一八九、六一 
          三五〇、二六

有浦組、八ケ村
 有浦 六三八、七二   有浦下 三六七、七九   長倉 三〇七、九六 
       四三、一四        一二、五五        三〇、〇九

 轟木 一一五、九八   牟形 一六三、一六   大串     〇 
       三九、九四       九〇、九一    一〇四、三一

 諸浦 二四八、八九    新田 二一四、五五 
       一九、八九        一五、二三

  小計  二,〇五七、〇五 
          三五六、〇六

 入野組、九ケ村
 入野 七五九、一七    鶴牧 二三六、六八    納所(ノウサ) 八七六、六三 
       五〇、一五         五四、四九            五一、九六

 星賀 二〇二、六七   犬頭  一六、五九   田野 一九七、三三 
       三九、五〇       二、二〇         二八、九三

 新木場 三二四、九五   梅崎  八一、三二   吉浦 一四六、九五 
       一三、三五        三四、〇九        二一、四一

  小計  二,八四二、二九 
         二九六、〇八

切木組、拾壹ケ村
 切木 三一一、四七   赤坂  九一、四四   中浦 一四六、四八 
       五〇、九三       二、五二          五、二一

 大浦 二七九、三一    満越  六二、二〇   瓜ケ坂 一七〇、七九 
       一五、二四        七、二〇         九三、六八

 上ケ倉  六五、一二   萬賀里川(曲川) 一九二、二八   馬野尾  七四、八五 
         八、四九               七、一三       七、五六

 仁田野尾  四六、二一    庄河内 一〇二、二六 
         七、六一          五、七一


  小計  一,五四二、四一 
          二一一、二七

板木組、拾ケ村
 板木 一八一、七五   中山 二六〇、七四   津留 六五、九一 
       一〇、〇九      一一、七一       五、〇九

 主屋  五〇、一八  田代 一二二、九六   井野尾 二一一、二二 
        一、七六       五、八二         八、七四

 筒井 五五二、一〇   木場 四一七、六六   湯野浦  二一、四七 
        七、六七        一二、四七       九二、二八

 杉野浦  六九、四〇 
        一九、四八

  小計  一,九五三、三九 
          一七五、一一


                
 総計 本村石高 六一,〇九二、六三石
    新田石高  三,八一二、一一石

 総合計 六四,九○四、七四石



  
四 幕領御預り所

 村名 本村石高   村名 本村石高  村名 本村石高
    新田石高      新田石高     新田石高

          石           石            石
 大川野 一,九九六、七五   川西 五四九、一九    川原 一八四、八三 
         四〇、二〇       二四、二五          五〇、七三

 山口 二二二、九三   田代 二〇〇、五〇   厳木 四四七、二七 
       四三、一六      一九、五一         二一、五九

 牧瀬 二九三、四五    中島 五七九、八八   浪瀬 一八一、六四 
       一三、九八        一〇、一六       四三、五一

 瀬戸木場  一六、五五   古川 四九、三三   笠椎 三〇八、八五 
          九、七四       七、七五       一四、〇〇

         
 総 計  本村石高 五,〇三一、一七石
      新田石高   二七八、五八石

 総合計  五,三二九、七五石


 
 九 雑録

 其一  唐津城廓の結構  原本は筒井氏所蔵
一、本丸
 城地 東西 六十二間
    南北 七十三間
   (寺澤氏の記事の数とは異なるも頂上を測定せしか城脚を測定せしかによりて異なるものと思はる)

 高 海面より拾九間。

 家屋 建設なし。

 矢倉 拾壹。
  内 二重矢倉 三。 門矢倉 二。 平矢倉 六。

 矢狭間鐵砲狭間 百八。
(鐵砲狭間は九寸三角を規程とす。矢狭間は巾四寸長一尺六寸四分。角狭間は三寸四分四方とす。)
  内 矢狭間 三十四。鐵砲狭間 七十四。

 石落
  内 失狭間石落 十一。堀石落 二。

 門
  内 一ノ門 左右石垣高二間一尺。
    二ノ門 左右右垣高二間五尺五寸。

   本丸より西に出づる埋門 左右石垣高一間二尺五寸。
   天守臺より脇南へ出づる雁木門 左右石垣高二間。
   二ノ曲輪より西に出づる埋門 石垣高 北三間。南一間一尺。
   二ノ曲輪より北に出づる埋門 石垣高 東三尺五寸。西五間。

一、二ノ丸
 住居建家坪数 九百九十四坪余。

城地  東西 二百四十七間。  南北 百二十二間

矢倉 十六。
 内 二重矢倉 六。門矢倉 二。平矢倉 八。

矢狭間鐵砲狭間 四百五十七。
 内 矢狭間 百八十四。鐵砲狭間 二百七十三。

石落 三十四。
 内 矢倉石蕗 十六。塀石落 十八。

門 拾ヶ所。
 内 雁木門 左右石垣高一間四尺五寸。
   坂口門 石垣高東四尺七寸。
   水ノ門 左右石垣高二間二寸。
   切手門 石垣高 南一間四尺。北二間五尺五寸。
   腰曲輪埋門 石垣高 東一間二尺。西一間一尺五寸。
   二ノ丸より西に出づる埋門 左右石垣高二間三尺五寸。
   船入門 石垣高 東一間二尺。西一間一尺五寸。
   二ノ丸門 左右石垣高二間二尺四寸。
   北ノ門.石垣高 東二間四尺五寸。西二間五尺五寸。

一、三ノ丸
城地  東西 三百十一間。南北 三百二十五間。

矢倉 十。
 内 二重矢倉 三。門矢倉 二。平矢倉 五。

矢狭間鐵砲狭間 三百九十八。
 内 矢狭間 百四十六。鐵砲狭間 二百五十二。

石落 二十二。
   内 矢倉石落 十三。塀石落 十。
  門 六ヶ所。
   内 大手門 左右石垣高二間三尺。
     水門  石垣高 南二間三尺。北二間。
     濱手門 左右石垣高一間三尺。
     埋 門 左右石垣高二間。
     西ノ門 左右石垣高二間三尺二寸。
     大手冠木門 左右石垣高二間三尺。

一、外曲輪。
 矢狭間鐵砲狭間 七十八。
   内 矢狭間 二十八。鐵砲狭間 五十。

 門
  内 札ノ辻門 左右石垣高五尺。
    丁田口門 石垣高 東二間三尺。西二間二尺五寸。
    名古屋口門 左右石垣高二間。

一、二ノ丸門外堀。
  長 二町四十七間四尺。
  幅 北十九間。南二十二間。
  水深 四尺。
  石垣高 南ノ方 四間二尺五寸。
        北ノ方 四間。

一、外堀。
  大手門外より西ノ門迄。
   長 六町四十九間。
   幅 大手外十五間三尺。
     西門外十四間。
   水深 三尺。
   石垣高 三間。
   土居高 二間一尺。

  丁田口門外より名古屋口門迄。
   長 五町七間三尺四寸。
   幅 名古屋口門外十二間。
        丁田口門外十四間。
   水深 二尺五寸、
   垣石高 水面より二間。
   土居高 水面より三間五尺。

  丁田口門外東掘。
   長 二町三十間四尺。
   幅 西十二間。
      東十三間一尺。
   土居高 四間。
   堀向土居高 二間。

一、西ノ門外堀。
   長 三十三間一尺。
   幅 八間。
   石垣高 三間。
   土居高 二間。

一、大手門外東堀。
   長 二町二間三尺。
   幅 東十間。西十六間五尺。
   向石垣高  二間ニ尺。

一、侍屋敷 百十七軒。
   其ノ内 外側に八軒。

一、侍長屋 十二棟。

一、足軽住宅 三百七十九軒。

一、足軽長屋 四十一棟。

一、中間長屋 三棟。

一、井。
   内 本城に一ヶ所。二ノ丸に三十一ヶ所。三ノ丸に百十七ヶ所。

一、厩 三棟。
   内 切手門内に一棟 十三疋立。
     切手門外に二棟。
     内 内十三疋立一棟。十五疋立一棟。

 
其二 番所

一、満島番所 但船手番。

一、船宮前橋口番所 但船手番。

一、魚改番所 但郷足軽番。

一、島口並に藩境番所。
   呼子一ヶ所。名古屋二ヶ所。馬渡島一ヶ所。
   加唐島一ヶ所。神集島一ヶ所。向島一ヶ所。
   笹原一ヶ所。川原一ヶ所。府招一ヶ所。
   馬ノ川一ヶ所(但穀留。番所)
   池原一ヶ所(但穀留。番所)

其三 橋染。藷普請人足等。

一、二ノ丸門外橋 長二十一間。幅三間。

一、大手門外橋 長四問二尺。幅三間。

一、札ノ辻橋 長十四間。幅三間。

一、丁田村石橋 長八間。幅一間五尺五寸。

一、船宮橋 長四間。幅一間九尺五寸。

一、瓦橋 但 土橋一ヶ所。

一、徳須惠村土橋一ヶ所。
   右瓦橋 鬼塚村にあり、
   徳須惠橋の二橋の改築または修繕の節は、労役人足は郡中一般の負担であって、
   一ヶ所に配する三百五十人を無賃金とし、其の余は総て賃金を支払ふべきものとし、人足一人に
   付き四八銀九分苑を與ふる定めとした。

一、島々郷中・茶屋・番所・御高札場等、普請の節には郷人足を使役して、一日賃金一人に付き四
  八銀九分宛と定めらる。

一、城普請には、郷人足は従来より使役を禁ぜられ、手普請また町日雇等を以て之に服役せしめた。

一、藩庁にての神社普請の個所は左の通りである。
   唐津明神。鏡大明神。大石天神。
   佐志八幡。松浦佐用姫社。


 
其四 番代屋敷、高札場、茶屋其他雑務所

一、番代屋敷所存 四ヶ所。
   内野尾 壹軒。  岩屋 壹軒。
   名古屋 壹軒。  呼子 壹軒。

一、御高札場所在 十六ヶ所。
   札ノ辻。 満島。 神集島。 小川島。
   呼子浦。 名古屋村。 外津浦。 假屋浦。
   星賀浦。 小黒川村。 府招村。 徳須惠村。
   大川野村。 馬場村。 巌木村。 鏡村。

一、茶屋所在 六ヶ所。
   呼子村に 壹棟。 杉野浦に 壹棟。 徳須惠村に 壹棟。
   和多田村に 壹棟。 大川野村に 参棟(内一棟は庄屋宅。)
   鏡村に 壹棟(但庄屋宅。)

一、馬渡島。
  厩 壹棟。 竃屋 壹ヶ所。 庄屋宅(表通りの分は手普請。)

一、焔*(火肖)蔵所在。
   貳棟 神田村字赤。
   壹棟 神田村字下神田。

一、諸役所役宅等。
   一、本町使者屋敷一棟。
   一、學問所一ヶ所。
   一、諸稽古所一棟。
   一、捕手稽古小屋三棟。
   一、作事役所。
   一、大納戸役所。
   一、捕山方地方 役所。
   一、代官役所。
   一、船方役所。

一、島々の境界番人・茶屋守家。
   神集島 二棟。
   呼子浦 五棟。
   名古屋浦 五棟。

  加唐島 三棟。 馬渡島 三棟。 向島 三棟.
  府招村 三棟。 川原村 三棟。 笹原村 三棟。
  和多田村茶屋守一棟。


 
其五 役金、御朱印寺社、雑色諸規定

動役金のこと。
一、郡 代   金十五両。 一、貳百石以下御物頭 金十両。

一、郡代添役 金七両。
一、浦山奉行。御勝手方。本方。金五両苑。
一、地方吟味役。紙方奉行。御代官。金三両宛。
一、御取締  金一両二歩。
一、諸組員  金一両。 一、御勘定 金一歩。
一、御預所頭取  米廿俵。但三斗俵とす。

藩士継嗣のこと。
  當士死亡の節は、継嗣者は一二階級を下し、また継嗣幼少のものは御捨扶持として、殊に五六階級を降下する扶持待遇を受く。
 御朱印寺社 即ち社寺領を賜はりし社寺。
田島神社  高百石 名古屋組加部島の内にて。
浄泰寺 唐津町 高五十五石 馬部組枝去木の内にて。
近松寺 唐津町 高百石 馬場組伊岐佐の内にて。

雑色諸規定。
一、竹材木材は入用次第、山方役人の計らひにて船場に伐出さしめ、當地に産せざる材は材木屋にて購入し、屋根板も亦同様にして、此等の竹木材用達商は材木町の商人伊兵衛半助の二人である。

一、瓦の用達は、岸山村及び海士町の瓦師にて辨した。

一、鐵物類の用達は、木綿町の安右衛門・満島の七右衛門なる鍛冶の手により納入す。

一、石材は、地方役にて事に慣れたるものにて用達をなす。

一、赤土は、唐津村の内汐水谷と云へるところを採掘場とした。

一、山茅・藁・小麦柄・歯朶・苫縄・蕨縄・萩は、郡中より代官方へ納入す。

一、諸職人中町方のものを遠方にて使役する時は、宿泊料として二分の割増をなし、宿所は各自の欲するまゝに任す。

一、諸職人の勤務時間の定めは、午前八時に業に就き、正午より午後一時迄一時間の休憩中食時となし、日入りの頃を以て終業時とした。

一、遠方への荷物運搬は、郷人足を以て之に充て、一切賃金を支払はず。

一、遠方へ出張の際の食事手當は、一度に上三十文・中十九文・下拾文とす、但し庄屋の負担たること。
  諸職人無位の輩を使役する際には、三日の問は見習とし扶持作料を支給せず、其の後は下級の給金を與ふるものとす。

一、郷村の普請所にて、使役する郷茅葺師一人の手當は、四十八文銀一匁二分を以てす。

一、郷町大工 百八十八人。
   内 上々・一人。上・百三十四人。中・二十九人。下・二十四人。

一、郷町木挽 五十七人。
   内 上・四十五人。中・九人。下・三人。

一、郷町桶師・屋根師合せて 百二人。
  内 上・二十七人。中・五人。下・十三人。無位・五十七人。

一、郷町瓦葺師 十一人。
  内 上・一人。中・五人。下・五人。

一、郷町茅屋根茅師 十三人。
  内 上・六人。中・一人。下・四人。無位・二人。

一、郷町石工 六給参人。
  内 上・五拾人。中・一人。下・四人。無位・一人。見習・七人。

   右諸職人は何れも、扶持米壹升六合作料銀四拾八丈、銀にて上一人に付き壹匁五分、中一人に付き一匁二分四厘、下一人に付八分、上々は一人に付き壹匁七分とす。



 
其六 江戸藩邸
 邸は外桜田にありて、邸地面積四千八百拾参坪を有す、今其の築造物の状況を細別記載すれば左の通りである。
  惣建坪千百貳拾七坪半。
   内
   住居 五百拾壹坪。
    其内 二階 拾七坪。平家 四百九拾四坪。
   総て瓦葺建物なり。
   長屋 四百八拾八坪貳分五厘。
    其内 二階 二百八十二坪半。
       平家 二百五坪七分五厘。
  総て瓦葺建物なり。
土蔵 四ヶ所 合計四十五坪半。
  三間に六間。二間に五間。二間に二間半。二間半に五間。
厩其他 八十二坪五厘。
  其内 瓦葺 六十 二分五厘
     柿茸 二 二坪半
以 上。



 
一〇 藩政時代の教育及び代藝術

   
其一 藩政時代の教育

 武家政治創設以来學問文藝に頽たれて、戦国時代に入りて極度に達したるが、徳川家康政柄を握るに至りで文教の切要なるを悟りて、儒者藤原惺窩・林羅山に學を講ぜしめしより。學間教育の道次第に振起して、五代将軍綱吉の如きは自身書を群臣に講じたることさへありて、學者欝然として輩出するに至った。

 我が唐津藩にては、将軍綱吉の元禄四年土井氏藩治に就きしが、第三代利延四代利里の頃(約百七八十年前即ち寛保・延享頃にて第八、九代将軍頃)、吉武法命なる人ありて官を辭し閭塾を開きて青年教育の道に献身的努力をなし、孝悌仁義の教化に意を傾け、封内所々に閭塾を設けて、村正其他徳行篤き人を塾頭となし、以て其の目的の貫徹普及に盡力せしが、即ち相知村に信齋(又希賢堂と云ふ)あり、塾頭に向杢彌・向平蔵・向林八等を置き。徳須惠村に買珠亭ありて、前田庄吉之を預り。佐志村に時習亭あり、海士町に新に齋あり(後に双水村に移る。)平原村に彊亭あり富田氏之を司り。吉井村に思順亭あり。何れも怯命に属する閭塾であって、大小村正の子弟及び篤學諸子の教化を行ひしが、成積日に擧り一般民衆に其の影響及びて孝悌節義の人々少からず、依って其の門生なる前田正命をして「津府孝子傳」の編集を為すに至らしめた。其の後土井氏去りて水野氏・小笠原氏藩治に臨むに至りて、脈々として教育事業の見るべきものありしは、因を吉武氏に發するものと云はねばならぬ。

文政元年(約一〇〇年前)厳木村方面及び大川野(西松浦郡)地方四十五ケ村高一萬七千石(?)は、幕領に帰して豊後日田郡代の支配となりしも、同地方教育のことは更に何等の変化なく發達して、唐津藩時代と異なることもなかった。
 土井侯頃の儒者には、原三右衛門・宇井治太夫・稲葉十左衛門・奥清兵衛・吉武義質等名ありしが、中にも吉武氏は前述の如く一己の學究を以て終ることを屑とせず、普く藩民の教育に身を投じたるは、一大卓見にして其の着眼の程敬崇と感謝に堪えざるものである。

 吉武義質は法命と称す、寛保・延享の頃土井侯に仕へて郡宰たりしが、身を挺して教育事業に従事せんとて、職を辭して布衣の一儒者となり、藩内所々に閭塾を設けて門人高足の舎長に教示を司らしめ、法命は屡々諸塾に囘感して、向學の青年子弟を集めて聖賢の道を講ず。抑々法命の學燈は朱子學派に属し、聖賢の千言萬語は天人一體の心法なり、人として此の道により正道履まざれば天に背く、此の天理に適はざれば天の禍ひあるべからざるを知る。嘗て三宅尚齋に此の道を問ひ、天人一體の道理を窮め、學問の要こゝにあるを悟る。彼の所説を知るには左の諸説によりて分明す。

同志會談の辨
 同志此に集って月會を為すは學問のためなり、其の學問と云ふは、天理の本然人道の當然を明め得るをいふ。為學の方は小學近思録に備って今更云ふは愚なれども、天理の本然人道の全体は大虚の中に伏して見分に及ばず、此の理天命の性情具って須臾も離るべからざるの道なれども、気質の偏人意の私事なる物欲に蔽はれて、道と心と離れて天理に戻り禽獣の域に陥るものなるぞ、同志茲に理を窮め知行せん為の學問なれば、各々固有なる五常の性を失ふべからざるなり。聖代を離れ後世唱ふところの學問といふを考ふれば、徒らに経書の字訓を務めて私に想像し臆度の私知を用て理窟に渉り、甚しきはむづかしき字訓を解き得て以て人に誇り、妄りに學問の美名を慕ふばかりにて、程朱一生心を盡せし注解の意味は朦として知る事なく行ふ事なし。夫子の玉ふ、古昔の學者は己が為にす、今の學者は人の為にすと、此己が為にする處の學者より見ては、一生の閑勾當天地間の徒法なり。我黨の同志これを知りながら、不識不知舊習染俗の蔽ありて此の趣を脱洒するに意なし、夫れ本領の五性は日用事物の上に行はるゝを以て、道は天地に達す、然るに仁を説ながら應事接物の上には私欲を以て従事し、義を説ながら當然必為の志はなく、只一坐の便宜に殉ひ、禮を説ながら揖譲謙遜の心なく、智を説ながら自己の好悪に惑ひて是非を明辯する事なし、是世上の俗學に五十歩百歩なる者なり、願くは浮躁浅露昏棄無亨の舊習を改て眞心に天理を追ふべきなり。

聖學明辯
 一、學間を為る人大方経書の筋を分たず、只聖賢の道理上より、一つ事を種々に言ひ述べたりと思ふ者多し、夫故に四書・近思録・小學五経其外の書物を皆こね雑ぜにす、故に聖賢の意に通ぜず、先づ是を能く明察すべし。
 一、堯舜の時司徒典楽の官を以て萬民を教ふ、三代に至って教法精密になりて、大小學を設けて教を施し、周の末になりて教法廃れて學校も起らず、萬民生れたるまゝに物欲縦に生立つ、故に皆夷狄禽獣の域に陥り、父を無にし君を無にするに至る。孔子是を患て天人の道を教解し給ふ、門人聞*(古又)を得て論語を著し、後世に道を傳ふ、夫れ故論語には大小縦横悉く道理を説て 次序なし。孔子の説き給ふ所、或は*(酉去皿)を乞ひ車を請ふ、薑を食ひ酒を飲む、其事は微なれども其の義は精微に薀を極む。夫れ故程朱も読事愈久して意味の深長なる事を覚ゆと云へり。
一、孟子は、孔子の七十二子を相手にして説玉ふとは違て問者も甚疏なり、夫故答も肝要の理を的實に説て精微の事は鮮く、一つ一つに事證を指て人に示さる、千変萬化只心上より来る事を示せるは、論語と似たる様なれども事證を捕へてしかじかと説かるゝ故に、論語の如く渾然の気象薄きが如し、又義を添て人心のはづみより興起さする説き方なり。
一、右の如く論孟にて天人の道は知れたれども、今日學者身上に受用するに條目は見へず、是がなければ學者の法則立ず、夫故朱子傳記を集めて小學を集成せらる、論孟とは編集の別なる次第なり。
 一、右の如くにても學問の測源は知らず、失故程子禮記の内より中庸を表章して、堯舜以来道銃の學を示す、乃ち天理の本體學問の骨髄此書に在り、是亦前の書とは甚別なり。
 一、小學にて學者の法則を立て、中庸にて學者の測源は知りても、學問の全體と云ふ物は是では見へず、そこで程子・朱子大學を表章す、つまんで云へば三綱領、分けて云へば八條目學間の次第は此書を以て知るべし、是亦前の書の趣とは別なる者なり。
 一、四書小學にて學問の意は残るところなし、然れども古の事故其時に應じたる語意なる故に、近世の人に示すやうに綿密になし、夫故四書先哲の語を集めて、朱子と呂氏と近思録を述べ、此を集成して中庸の精微・大學の次序・小學の法則・論語の精義妙道悉く此書に備れり、故に四書小學の階梯と云ふは此書なり。
 一、右の書の筋々を逐一能く合點すべし、一つ缺くれば一つ丈けの穴が明くなり、是が前に云ふ、一つ道理をあれでも云ひ此でも思ふと厚く重て云ふは、恐くは古の學かと思ふは大なる誤なり。
 一、五経は又別なり、詩経でなければ人情と云ふものを盡さず、書経でなければ二帝三王の気象を見窺ふものなし、易でなければ陰陽鬼神の造化する妙を知る事なし、春秋でなければ聖人の国家を治る體用を知事なし、禮記は純粋の経書では無けれども、禮法儀式の名目を知るに足るべし、言長ければ委くは述べず。

諸塾學談
 一、學びの道旅發の者に似たり、京師を望み長途せんとする者既に鞋を著く、即其途程を示すべし、鞋を著ざる者には途程を示すとも忘説となるのみ、今吾子等四五輩稍學に志を見る、是亦京路に向て鞋を著けける者と似たり、途程を示さずんば若し悪くば邪路に陥らん、故に愚説左の如し。是先師の教詣眞儒の定論にして、愚言の耄にあらず必疑ふことなかれ。
 一、學の道本源天に出て、更に人為に非ず、此理四書五経の中朱註に備はれり、各亦知るところなり、但聖賢の説如此なりと云ひて直に了悟せざれば、了悟の惑胸中に描事在って不知不議の闇浪生ず、天人實に一貫也、聊私意存すれば道と吾と霄壌所を易ゆ、天人一貫と云ふ所を物に當り事に因りて實に了悟すべし、空談に置くべからず。

一、天人一貫なれども一點の私意存すれば天と人と懸隔す、夫故學問して天人一貫の所に至るなり、學問の道先づ小學を以て先とす。
一、小學の教は人の上に五倫有り、外の道なく是に接るの道に親義序別信の條々有る事を善く了悟して、身を以て是を行ひ、其行ひの法心術威儀を敬むに習ひ、其習ひ知と長し化心と成る事を要すべし、其書は以上の事を明に知る為なれば、自家の身上に體認する事親切にすべし。

一、大學に進では小學に學び習ふところの事皆自然の天理に出て、人為にてなき所の理を明むべし、理を明むるの要は事々物々に就ても物理を究むべし、事々物々の上に就て其理を致めねば空理虚會になりて、今云ふ口チ先學間と云ふものになるなり、何程高上に精密の理を説ても、皆心に理を會待せざれば隣家の寶を計ゆると言へるが如し、自家身上に干渉せず、是を小人儒俗學虚學迂儒説夢の學などゝ書にも有るぞ、大學の書を讀んで八目三綱の意と文義篤と理會し、程朱の説に仍で眞粋の所を篤と合點すべし、妄に辯舌口説を貴ぶべからず。

一、論語孟子を讀んで吾心に理會し得たる理と、舌聖賢の心と背くか齋しきかな参考すべし.
聖賢の上と専心の理と違ふ所にては、更に熱思玩索して吾が通ぜざる所を暁達すべし、此所に至て自ら私知を用る牽強附會の意を起せば、一生聖賢の心地を知らず、更に程朱の説を尊んでも異見を主張すれば、自ら天心に違ひ己が本心を失ふなり。

一、古聖賢の心地を理會せば、自家に體認して道の本を立つべし、道の本元は天に出で、其實體は吾心に具れども、気稟の偏人欲の惑己私の蔽より心體瞑然と暗く、目の見る所明かならず、耳め聴く所聴き得ず、思ふ所中らず、為る所正しからず、是其元は心體本然の暗みより生るなり。此に至って中庸の心法、程朱の主一、孟子の養気、宋儒の敬學、王覇の辨、誠偽の分、異端の似是之非、朱學王學の辨などとて、至極*(糸眞)密の論有る事にて、こゝは初學の探り知れぬ所なり。つまり學間の極致は心法なり。堯舜の道銃は心法の事なり、大學もつまりは正心の章に在り、孟子千変萬化心上より説き来ると云ふも、朱子四十二歳にて中庸の要令を得たと云ふも、孟子の後知る者すくなし。千五百年の後宋に至て又明なりと云ふも、皆心法の上より云ふ事なり、夫れは程朱を初め其後明儒我朝山崎先生の著すところの書を以て夷考すべし。然るに世俗道學と云ふ各目計を問て、孟子の後絶學と云は流義の事かと思ふは可笑。譬ば観世流の謡が當時筑前国に絶て今は皆今春の下懸り計りになりて上懸の謡が絶たと云ふやうに、孟子山崎の流義を継ぐを道統と思ふ者あり.殊に不知の甚しきなり。聖學不傳と云は書籍斗りを知て吾心の道體を知らぬ事を云ふなり。是の一事は吾子輩の至り及ばざる所なれども、學問の模様を知て迂儒俗學に惑はぬ為に是を記すなり、こゝが京師に往く者に途程を示すと云ふものなり、未だ鞋を著けざる人に妄に告ぐべからず。

一、右に記す如くなれば、今初志の徒先づ慎獨を大切に工夫すべし、慎獨して本智を得ば眞實に聖賢道統の心怯誠道の所に至るべし、念頭に外の為人の為利の為名の為に趣く意志あらば、聖賢と口先き斗り合せて利欲で走るものなり、歩随はんとして道は南北すべし、或は文字言句を逐ひ辯舌口給を以て書を談じ、私意妄想を以て書籍を説くは、是正學の邪魔儘道の蓁蕪なり、口平心易気大公無我にして程朱の説を信用して自家親切に了悟し、黙識無言を以て聖學の眞道に入るべきものなり。
                        義 質


   習化堂其外諸賢熟 思之
 右は御領内諸所の開塾たる信齋・買珠亭・新々齋・時習亭・習化堂・強亭・思順亭に集るところの諸生へ、教示されたる學問の大意である。
法令の墓碑左の如し。

家君義質翁、諱法命、姓吉武氏、其先居于近江吉武村、因以氏之、考涼山君諱宗信、始禄於土井侯、妃干賀氏、家君以天和三年癸亥九月十有一日、生武蔵江戸柳原、四歳而涼山君見背家君、以其次子、恭拜侯命、分其世禄、新為別家、歴任税官監司管船官、既而告病免官、享保十有七年壬子十一月復告病、請以致仕令、不侫敬親、嗣其世禄、寶暦九年己卯十二月三日、病卒子肥前上松浦郡唐津城中、年七十有七、男子四人、越其月五日、葬城南神田村宮町丘云、

 今は土井氏時代より小笠原氏に至る大約百二十年閭に亘る、各村に設けられし閭塾の状態を便覧するために、略表を掲げて参照に供せん。


 塾名   所在地     時代   塾師    舎長
 信齋  相知村 寛保、延享頃約一八〇年前土井氏時代  吉岡義質 執事進藤源右衛門 舎長向平蔵

 買珠亭  徳居(スエ)村  同     同    前田庄吉

 新々齋  自海人町、移双水村  同   同   大谷治吉

 時習亭  佐志村     同  同  大谷治吉

 習化堂  玉島村     同  同  松崎九兵衛

 強亭   平原村     同  同  富田理太夫

 思順亭  糸島郡吉井村  同  同  楢ア九兵衛

 希賢堂  相知村 寶暦、明和頃約一五〇年前土井、水野氏時代 向平蔵 舎長落合豊吉 學頭櫻井九一郎

 希賢堂  梶山村 寶暦=安永頃約一四〇年前土井、水野氏時代 峯忠人 舎長渡邊良兵衛。進藤源介 學頭 前田敬蔵。峯忠四郎

新々齋 自双水村、移佐志村  同  大谷治吉

希賢堂 相知村  安永、天明頃水野氏時代 向林八

希賢堂(又集義亭) 山崎村 寛政、享和頃約一二〇年前水野氏時代 進藤源介

輔仁堂(又滄浪亭) 吉井村(當時幕領) 寛政=文化水野氏時代 片峯敬吾

由義齋 自横竹村(打上ノ内)移長倉村(有浦ノ内)移原村(久里ノ内) 同 富田楽山

薀徳軒(又柏薗) 柏崎村  同  稲葉伊蒿

明倫舎 打上村 文化頃約一○○年前水野氏時代 後藤飛弾

明倫塾 白山崎村、移相知村 移浦河内村(厳木ノ内) 同 進藤源介

希賢堂 町田村  同  桜井覚兵衛

強怒亭 西松浦郡大川野村 同  富田九十郎

神集精舎 神集島村 同  菊池俊蔵

希賢堂(又培根塾) 西松浦笠椎村  同  向平十郎

葦葭堂(又聖功舎) 古川村(幕領) 文政頃約一〇〇前内外小笠原氏時代 山口與次造

新隍精舎 新隍村 小笠原氏時代 富田七介

観蘭堂 石志村  同      櫻井綱治

時授堂 唐津十人町 同     大艸銃兵衛

愛日亭 見借村 同       宗田運平    小田周助

濯纓(タクエイ)堂 西松浦郡水留村 同   山口禎次郎

帰厚舎  鏡村    同    松本退蔵

明倫塾  浦河内村(幕領) 同 秀島寛三郎

會輔塾  厳木村(幕領) 同  同

五惇堂  中島村(幕領) 同  同

 以上は村閭にありて一流階級子弟に漢籍により中等教育を施せるものにて、他に寺小屋教育なる初等教育も至るところに行はれ、城下にありて藩士の教育を為すには藩黌ありて、小笠原氏の志道館はそれである。
 志道館は、主として家臣の中階級以上の子弟のために、経書によりて専ら道學の教育を行ひたるものなるが、今其の起原を詳にせざれども、小笠原氏の頃大野右仲・村瀬轟・山田忠蔵等の儒臣之が學監として講學教育に従事し、授業は概ね午前十時頃を以て終る。後に館内に九思寮を設けて特に研學篤志の輩の便宜を図りたるが、館の将業後こゝに集まりて研鑚に耽るもの多く、寮長芳賀庸助之が指導監督の任に當る。維新の當時館の数科目を分ちて漢學部英語部となせしが、現大蔵大臣高橋是清は東太郎の別名により、英語部教授の任に當りしことあり。この外醫學館・橘葉館ありて醫薬の學を授けた。
 また藩臣の子弟にして志道館に學ばざるものは概ね、大手小路在住の儒臣臨黨野邊英輔の家塾に學びたるものにて、大艸の時習学 (主として家臣以外の子弟教育を司る)と相競ふの様なりしが、野邊門下の俊髦にて名をなしたるものに辰野金吾天野為之掛下重次郎等である。
 又詩文の學を修めんとするものは、出でゝ多久の儒臣草場佩川豊前の村上佛山などの門に遊ぶものも存した。
 今この時代に於ける特に學問教育上の著名なる人士数氏の略傳を記録して、大方の参照に供するであらう。

 大艸庄兵衛政義は幼名を坂口萬蔵と称し、父を坂口九兵衛といひ、唐津領久里村に生る。土井侯の儒臣吉武法命の學統稲葉伊蒿に就て聖學を修め、小學四書五経の大道を知らんとして、年十三の時筑前の儒醫道榮を慕ひ行きて書鑑を乞ひ、十四歳にして崎陽に遊び、十五歳の春方金一角を懐にして東都に行く、時に一書を残す其の書に曰く。
 …此度東行致候儀は不孝の至に御座候得共、左の條々學問・軍學・弓術・馬術・剣術・鎗術之至妙、書・文章・禮法、其外天下の善事、唐津に居候ては十分之稽古難致候、尤學問武藝、日本を廻り稽古仕妙に至り度奉存候、此儀妙に不至は残念之至に奉存候、此儀三年以前より志候得共東行致兼居申侯、此段必十五年程御他言被下間敷候、此書御尊父様へ御披露可被下候以上。
                           坂口萬蔵
      坂口清太郎様
 既にして江都に至り、神陰流の剣法の師木村傳次郎に随ひ、三年の間に剣法の印可を得、剱鎗・馬術・和歌に達し、聖學は紫野栗山に随ひ、書法は細井廣澤の門人惇信に學び、頗る妙所を得たり。中年に至りて森重靱負に就きて砲火術を修練す、文化四年九月蝦夷地に於て露人の暴行警衛に功あり、五年帰府せしに、老中青山下野守は彼に賛辭を與ふ。文化七年三月江戸を發足して、砲術修行として天下五十八ヶ国を歴巡せしが、其間會津・熊本の両侯其の技を傳習すること六ヶ年に及んだ。甲斐国に至りしに、佐々木道太郎は甲州の代官たりしが、大艸氏の尋常人にあらざるを知り、遂に師弟の約を結ぶ、道太郎は師を尊重すること頗る厚ければ、天下の門人一千一百余人中、たゞ道太郎にのみ皆傳をなす。道太郎常に語って曰く、求玄先生(政義の號)時至らずして處士たるを憂へて其の任官を勸むと雖も之を肯かず、修身天命に安んじて著書に耽り、殊に西洋夷賊の我国を侵さん事を早くより知りて海防録を著し、先見の明なること鏡の如く、其の砲術器械の技能知見に至りては先哲の未だ發せざるところを發し、其の極致に至りては仁の一字に帰することを示す、戦要砲火術書有余巻を著す。天保七年十二月江戸にて歿す。


 宗田運平は義晏と称す、其の父近義名古屋村郷正在任の頃、運平年十一歳にして横竹村(打上材の内)閭塾由義齎なる富田楽山に學ぶこと三年、後見借村に移り、十四歳の頃より柏崎村薀徳舎の稲葉伊蒿の門に入り、十七歳にして見借村々正に任ぜられ、二十五歳の頃藩君水野氏の儒臣司馬廣人に就きて、大和流の弓術を學び三年にして免許せられしが、其の傍ら易経を講じ、二十八歳の時父の命に由て、同藩の原田團兵衛活*(王幾)の門に入りて関流の算術を學び、研鑚五年に及んだが、偶々薄君遠州濱松に轉封す時に文化十四年なり。此の後師活*(王幾)の命によりて、筑前恰士郡武村の代官原田多仲太春種(治*(王幾)の師)に入門して算術天文暦術を學び、授時暦・貞享暦・寶暦々西洋暦を究む。文政十二年小笠原氏の藩廳に召されて、天文暦数研鑚の労を賞せられて、特に思召により苗字帯刀を許され、甚だ奨励せらるところがあった。天保五年には藩侯長會同十一年には同長和領内巡察の際に、何れも佐志村役宅にて運平の篤學を賞讃せらる。
 かやうに學問進みたれば、同志謀りて経書の會讀會を創め、毎會父子共に出席して、朱子の小學編集の意より四書近思録五経に至る迄の義を講ず。五十余歳の頃篤志者の請を容れて、家塾愛日亭を興して門生の教育に従事せしが、次子病に歿するや欝悶の心を轉ぜんとして、諸国遊歴の志を超して、天保十三年佐賀・柳川・肥後・島原に遊びて、佐賀にて馬場栄作なるものより寛政暦法秘書数巻を得て推歩の理を研鑚す。十四年小笠原氏は其の篤學を賞して、大庄屋席を命ず。
 弘化元年二月数學研究のため、京阪に遊び、江戸に至りては長谷川善左衛門の門に入りて、見、隠、伏三傳を授けられ、帰国の後別傳免許一巻を送致し来る。其の後算法通解を著述し、また初心者のために算法芥問答を著す。
 文政の頃より、藩士村民の入門するもの多く、其の中見・隠・伏の三免許を得たるものは、藩士小田周助・杉山伴作・の二人であって、見・隠の二免許ありしは秋山興太・古川壽助宗田氏の男外九郎にして、見題の免許は中江幾蔵のみなりき。運平七十歳の後、藩士指南學頭小田周助に、暦数教授の任を譲りて、己は一途に経學を志し、同志の輩と共に毎月二の日に會講怠ることなかった。
 嘉永元年藩廳は、運平が気節考を書きて奉りしを賞して、御紋付麻上下を賜はる、同三年には其の篤學を賞して米五俵を賜與せられた。安政元年には藩君巡察に際して、佐志村役宅にて金五十疋を賞與せられ、三年二月には、彼の暦数篤學を賞して、爾今以後毎歳米三俵下賜の恩命に接した。
 同五年七月廿五日、図書頭長行は豫告もなく運平宅を訪ふて、其の蔵書を硯察し、家庭の有様を問ひ、運平の顔貌を見ては其の長壽の相あるを以て励ます。帰城の際、図書頭の意により七十七歳以上八十二歳迄の高齢者を田圃の間に接見し、また馬上より運平の篤學讃称の辭などありしが、同月廿九日運平を藩廳に召されて 唐津焼筆架一個・同筆立一個新訂坤輿略全図一業を賜ふ。まだ八十歳以上の同村二人の高齢者には綿二斤宛、七十七歳より七十九歳のものには御酒代一封を賜ふた。六年四月四日、図書頭また不意に運平を訪ふ、運平病に臥せしが、特に接見して病状を問ひ近況を尋ね、また彼の篤學を称しては手づから、新撰年表・南京焼盃など下賜せられ、帰城せんとするや、其の子息外九郎を木戸先きて接見して、役柄丹精を称揚し老父に孝養怠りなきを励ます。文久三年正月外九郎上阪の析柄、図書頭偶々大阪滞留中であったが、外九郎を引見して、其の親父の安否を問ひ、また外九郎が親父を助けて村政に恪励なるを称し、御懐中羅紗紙入一個・御薬御懐紙・早付木・手帳等を外九郎に渡し、親父に傳達すべき旨を以てす。同六月老年の故を以て職を辭せしが、曩に毎年米三俵宛を下賜せちれしが、今後引き續き其の終身同じく賜給の旨達せられた。
 同六月廿七日嫡男外九郎父の職を嗣ぎ、其の身は退隠して澗山と號す、時に年七十七歳にして、在職六十一年なり。其後一に文墨に親む。
 大艸政徳曰く、余澗山翁と交ること三十有余年、翁の性淡くして水の如し、三十年前小學の精巧に由て四書近思録を講會す。其の後余東都に遊ぶこと四年にして帰国し。砲術指南の余暇に左傳の會讀を約し、安政四年七月開巻、文久元年二月之を終りしが、會講五年の間集會の人々には、富田叔蔵・中里禹之助・堤伊賀・浮須孝太郎・草場見節等ありしが、澗山翁に至りては一席の缺座さへなかりき。
 又曰く、吉武法命以来諸先輩々出し、歴年の間古川・山口・葛山の諸氏及び余の友加茂信蔵・黒岩断治・藩士金子五郎兵衛に至りて、崎門(山崎闇齋)の學を尊信して千里を遠しとせずして、三都に至り崎門の大儒によりて其著は云ふ迄もなく、佐藤直方・三宅尚齋・浅見安正の筆記文集等を書寫し、一百有余年にして漸く全備せり。殊に澗山翁は天文算學に通じ、書寫の筆記學談書七十部巻帙百五十巻、算學の書百部、天文暦書五十五部、地方の書八十六部巻帙百五十八冊皆澗山翁の家に秘蔵せり。それ翁の人となり性酒を好まず魚肉を多く食せず、儼威厳格にして謙譲節倹廉直にして、其の義にあらず、其の道にあらざれば一介も取らず、嗜慾を寡くし、滋味を薄くし、疾言遽色なく、惰容なく、嬉笑の言をきかず、世利紛華聲伎游宴の事を好まず、不善と交らず、小悪と雖も之を悪み、小善と雖も之を為す、其の他類推して知るべし。其の子九郎其孫に祐蔵あり。


 落合與吉諱は安重字は子曠通称を與吉といふ、郡内濱崎町船大工與平の子なり。壮時誤って腰部を傷けしより歩行に苦しむに至りしが、三十歳の頃より家業を廃して、相知村の希賢堂にて復齋向平蔵の教を受け、遊學数年にして舎長となる。復齋歿後其の遺言により上京して、山田静齋につきて學を修む、静齋の門には公家の人々にて従學するもの少からず、安重は遂に其の舎長を命ぜらるるに至った。後伊勢長島侯増山河内守の招聘によりて、勢州に赴く。河内守に従ひて江戸に入りし後、辭して江都の儒者栗山に學び、数年の後国に帰る。
 安重は實践躬行の人にして知りて行はざるを恥ぢ、吉武怯命の説く如く天人一理の心法を尊び、功利虚學を斥け實學を主とし、第一孝道を行ひ得たる人にして、人にも實践したるところを教ふれば、其の教示よく徹底し、童幼兒女に至るまで其の所説を體得することが出来た。初め長島侯より山田静齋に儒者を常めしに、静齋は直ちに安重を推薦せしに、身を立て道を行ふは孝道の終りなれば、直ちに之を諾して任に赴く、同門の士其の行を盛にし、殊に西塔院少納言卿は同門に學びしが、安重のため旅装其他の便益を計った。
 さて長島にては、嗣君及び家臣に對する教授誠意を致すも、嗣君元来遊楽に耽り、古道心法に親まざれば、安重惟へらく、身を以て仕ふるは一身の利にあらず、今は無用の禄を食むに等し、これ天理に背くものなり、如かず仕を致さんものをと、屡々留任を勸められけれども、遂に所願を達するに至った。この時侯河内守より太刀一口を賜ふ。安重帰国後も、終身其の太刀を身邊より離さず、山崎村確齋の希賢堂に出入すること数々なりしが、其の太刀の来歴を語りて、長島侯河内守の恩誼を銘せり。
 安重は常に、學談講書にも、其の理を始終日用の事に説き及ぼし、日用居常の事を書典に照し、學と行と分離しては聖學の意にあらず、講書の折り切要の點に達すれば巷を覆ひて、實際問題を詳述す、其の眞知實行を以て聖學とし、殊に孝道に意を傾く。
 安重曾て曰く吾壮年の頃桑弱なりしが、先生復齋に學びしより甚だ強健たるに至る、實に気質の変化と云ふべし。其の京洛山田静齋の門にあるや、静齋頗る彼を重んじて舎長となす、其辭に曰く。
  賢之學、予嘉其篤志勤苦、以作學監攝學頭、自今以往、躬益勉強、又兼正諸士、以能成大業焉、右與落合君。
    丙申孟夏      清省拜(静齋の別称)

 進藤源介は相知村酒造家傳兵衛の三男にして諱を誠之といひ確齋と號す父傳兵衛は吉武法命の門人である。相知村大庄屋向平蔵・梶山村庄屋峰忠八も同門の士であって、確齋は忠八の門人なり。其の教育主義は法命の意を受け、性に遵ひ己を修め、身を敬みて人民を安んじ、太平の徳化を蒙りたる恩義を忘れず、恭敬を専らとして天帝に背かず、孝悌忠信を主本とし、人の為に謀りて為す時は忠を盡し、朋友と交る時は信を盡し、教を受けて之を行ふには、名聞功利に陥らずて誠を盡すにあり。
 塾詰めの子弟が他に止宿する時は、其の實行せし孝悌の道を録せしめて、出塾の時に是を提出せしむ、年幼にして自書出来ざるものは舎長に嘱して塾師に出さしひる法であれば、幼弱の輩と雄も信を忘れず、其の素懐を述べざるはなし。居常出入禮と敬を重んぜしむ。其の教を乞ふもの、郡中の庄屋長氏郷足軽の子弟或は降藩の子弟前後二百余人を数ふ。夜は屡々學談を試みて古今の嘉言善行を論じ、討論會を開きては實際問題を議して虚談を許さず、義理困難にして決し難きは塾師の裁決に待つ、如期して教化目に擧りて、世の稗益大なるものあるは言ふ迄もない。
 藩君水野氏より、塾の教育費扶助として歳々米拾俵を下賜せられ、小笠原侯に至りても同様にして、確齋の終身に及ぼさしむ。
 居常質素倹約を主んず、故に塾生を導くも亦乙の心を以てす。衣服は出入常に薄藍染の短禍を用ゐしめ塾中の食事三度共に焼鹽を用ゐ、数日に一回粗汁を吸はしむ、唯菜根葉菜などを混ずるに過ぎぬ。然るに確齋に一人の老親あり、塾中の食事にては粗悪なれば、分居せる二弟たる善次傳次をして、河魚泥亀の類を漁獲せしめて老父に賄ることを怠らず。老父傳兵衛は、洒落無我の資性を有す、九十九歳の壽を保ちしは、確齋兄弟の孝養厚きの功も少からざるべし。
 確齋始め畑島村庄屋に任ぜられ、其の傍に家塾を設けて諸生を教授しけるに、次第に門生増加したれば、兼職のまゝにては公職に疎遠を生ずる恐れあれば、之を辭去して、山崎村に希賢堂(集義亭ともいふ)といへる塾を開き、諸生の教育に努めしかば、郡代山中荘蔵藩域巡視の際、大に塾生に奨励を加ふ。
 偶々横竹村百姓三右衛門といへるもの同村百姓與惣兵衛の死後入夫して、先夫の子與之助と實子勇助との田地分配のことより争論を惹起し、村役にての裁断成らず、藩廳に訴へ出でしに、藩廳は三右衛門及び與之助を召喚して、之が裁決を下さんとせしも、何れが罪科に處断せんも愚策なればとて、希賢堂塾の進藤確齋に托して、教化によりて諭すに如かずとして之を確齋に図る。確齋命を奉じて二人の者を入塾せしめて、人間の大道を解き篤く訓諭を加へしに、二人のもの終に先非を悔悟するに至った、確齋この事を上聞せしに、藩侯大に喜びて二人のもの罪を問ふことなく帰村せしむ。
 確齋の家風倹素にして悋まず、清約にして能く人の貧を憫むの意探し。又常に客を愛すること切なるも凡俗の輩は近づき難し。道を論じて理に逆ふの説を為すものあれば、大に風雲叱咤を加ふるも一點の私心なく、事終れば風光霽月の様あり。
 其の友として隣津多久長門の臣深江簡齋(博学徳行の君子なり)草場佩川(古賀精里の高足)あり。其他逸事功勲の善行少からず。

 大艸銃兵衛は諱を政徳といひ、天山また晩翠と號す。幕末小笠原氏の頃唐津十人町に時習堂なる塾を開きて、郡民の學に志すものは藩士と云はず町村人の別なく之が教育に従事し、其の教を請ふもの門に集まり、男生四百七十七人、女性八人(三浦徳女(東裏町人))佐々木悦女(材木町人)脇坂福女(材木町人)吉井登濃女(水主町人)田中満知女(水主町人)吉村壽賀女(十人町人)浦田幾久女(新堀町人)内山梅女(材木町人))、の多きに達し、吉武法命以来閭塾家塾多しと雖も、政徳の時習堂を凌ぐものなく、家塾の小なるものは数人の諸生を有するものもなきにあらず。
 政徳また實用館を設けて、求玄流の炮火軍術の師範として門生を教養し、門人に鈴木弾蔵・押兼銀右衛門・伊藤忠左衛門等あり。


 秀島寛三郎、姓は藤原、諱は義剛、字は子泉、幼名を達治、通称を寛三郎と称し晩年亀一(アヤカス)と更む、鼓渓また信齋と號し、天明五年六月肥前松浦郡浦川内村に生る、家世々其の里正たり。弱冠にして父の職を継承す、其の上に仕るや恭、其の下に臨むや恵、藩君屡々金品を以て之を賞す、明治四年五月八十七歳を以て歿す。資性温厚人の善を揚ることを好み、常に云へり、人の不善を罰するは人の善を揚ぐるに如かず、上たる者人の善を揚ぐれば人競ふて善に向ふ、人善を行ふに至らば之を罰するの要なしと。乃ち郡内古今善行ある人の記傳をなして、積慶録五巻を編纂す(藩政時代の教育史料の精細唯一のもの。)。幼時確齋進藤源介の明倫塾に入り學を修め、最も易経に精通し、易経本義解四巻易説一巻を著す、且つ師説を尊信し専ら實践躬行を力め少時より老齢に至るまで始終一日の如し、又父母に事へて孝惇、母親齢九十余行歩に難む、鼓渓年六十有余、嘗で孝養を怠たることなく、自ら扶持して敢て人を煩すことなし。又平常村民に農事を奨励し、裁植培養の道を講し、農桑道利なる書拾四巻を著述す。また古記の散逸を憂ひ百方捜索して松浦記集成五巻附録四巻を編集す。平戸松浦伯爵家始祖の墳墓所在地を明にして、同家より賞賜せらる。鶴田議官其の書の發明多きを以て、編輯局に献納を慫慂す、依って其の騰寫を納付す。其の他報国志(嘉永年間米艦来航以来維新頃迄幕府と諸侯の政令変遷を録す)三十五巻、政教時談三巻稽古録四巻、家道二巻、邇言録廿七巻、弘道録一巻、五品釋義一巻、鼓渓箚記(文化元年より明治二年迄諸大家詩文、逸話、和文、和歌、俳句、自詠の詩文和歌、俳句、狂歌、随筆等)七十六巻、其の他数種の著あり。
 文政年間其の居村幕府の直轄となりしが、西国郡代鹽谷氏の命に依り家塾を居宅の邊に設け、明倫塾と称して育英の業に従事し、後嘉永安政の頃には厳木村に會輔塾を開き、萬延文久以降は五惇堂を中島村に置きて、前後其の教を受けしもの数百人に達す。歿後墓碣を建て草場船山の撰文を録す。明治二十二年に至り及門の子弟追慕の余り、紀念碑を建設し録するに岡千仭の文を以です。
 翁の如きは實に稀有の、篤學の士にして、其の文献の功績、後人をして感謝措く能はざらしむるものにて、殊に其の著松浦記集成・積慶録の如きは郡史資料の重寶であって、また第一である。吾人後學の輩の裨益開發蓋し尠からざるものありて、余が本書を録するにも其の負ふところ多大なるものがある。
 鼓渓毎歳正月十五日門人等と釋奠の儀を執行す、今安政三年正月會輔塾にて行へる式奠の様を録せん。


○神前
清酌 鏡餅 清酌
薯蕷 蘿蔔
鯛魚 香案 

〇一同盥手
洒掃拂拭  波多保教
聖像奉掲  大賀就利
進香案   白水重恒
焼香    祭主
降神    同
退香案   白水庸重

○供物進献
鏡餅     祭主
清酌     岡田大某
同      田久保友某
薯蕷     中江伊某
蘿蔔     役豊丸
鯛魚     原壽某
進香案    藤松重興

○衆一同就位
焼香     祭主
讀祝及讀姓名 保利信近

○拜

○仰

○衆一同退下
闔門      竹下源某

○少間主一
啓門      吉原勝某
焼香      祭主
告徹下     同
退香案     加茂老某

〇徹下如前序
闔門       波多松某

〇一同盥手
啓門       平岡市某
進香案      小島達某

○衆就位
焼香       祭主
辭神       同

○拜

○仰

○衆一同退下
退香案      波多保教
聖像巻納     藤松重興

○互祝賀
節令       波多保常
書記     藤松重與
司貨     保利信近
烹調     大賀就利

 ○告文
惟安政三歳、次柔兆執除、月正朔、己未、望癸酉、後生秀島義剛、敢昭告于先聖先師孔夫子、鳴呼猗與、夫子刪述六経、以垂教于萬世者、盖人之道也、若夫此道也、非得夫子、則後世亦何所據哉、伏惟夫子道冠古今、徳配天地、舟車所至、人力所通、天之所覆、地之所載、日月所照、霜露所墜、凡有血気者、莫不尊親、敢謹與諸生、以薄奠、拜於至聖、尚饗。



 其二 古代美術工藝

鵜殿ノ窟(イハヤ)
 鵜殿ノ窟は相知村和田山にありて高大約百尺計りの砂岩より成れる一小丘の中腹にある天然の洞窟にして幅員の延長大約五六百間に達し。窟の奥行き深きものにて三間計りもあらん。窟壁に彫刻せる佛像は大小数十に達し、大なるものは丈余に達するものあり、中には神韻瓢渺たる佛體も存すれどまた後人の手に成れる如き粗造のもの存するやうである。地下和田山炭坑採炭のため、巌壁に亀裂を生じて、或は傾き、或は潰裂墜落するものありて、其の舊跡を泯滅せんとするの状なるは惜むべきことである。(墜落の釈迦座像高八尺計りなものを相知村曹洞宗妙背寺に移せるもの一躯存す。
 縁起に、延暦二十三年釋空海遣唐使藤原賀能に従って入唐し、大法器となり、平城天皇大同元年八月帰朝し、松浦郡の里に着岸し、鵜殿の霊窟に佛體三尊を刻するや、一日にして成る。時に異容の人現はれ、更に佛天の形像を加刻すること許多、誠に神変不可測なりと云ふべし。天長年中僧堂暁入宋帰朝し、殿堂を窟中に建て、鵜殿山平等寺と號し、後其の法嗣空海眞作の薬師日月光二菩薩を奉安す。鬼子岳城主松浦黨の崇敬深かりき、偶々西国○○の乱に遇ひ盡く灰燼となり、唯石の伏天を残すのみ。元亀年中松浦黨久我因幡守堂宇を再建し、佛工を選みて、薬師月光二菩薩十二神将を安置し、以て先師の志を継ぐ、今の尊像即ち是なり云々。
 著者考古學に暗し、鵜殿窟石佛が何時の頃の作なるかを知らずと雖も、縁起中の誤傳を指摘すれば、延暦二十三年空海は遣唐使藤原葛野麿に従ひて入唐せるは事實なるも、藤原賀能と云ふは
なし、或は葛野麿(カドヌマロ)の誤りか。また天長中僧堂暁入宋云々といへるも、其の時代には天延・天元・天喜・天仁・天永・天治・天承・天養・天福などの年號を見るも、天長なる年號はない。天長年代は淳和天皇の頃にして、宋の建国よりも約八十年前である、延暦二十三年(空海入唐)より天長元年迄は僅かに廿年を去るのみである、しかして空海は天長十年明くれば承和と改元し、其歳二年三月入寂して居る、然るに堂暁……後其の法嗣空海眞作の薬師……と云へるは、甚だ意を得ぬ次第である。要するに平安朝末運には、松浦黨の首領波多氏鬼子岳城に居りて、和田山と地を接する佐里は其の城下なれば、波多氏の帰依ありしは明かなる事なるが、同時に又其頃の作にはあらざるか、唯盲者の疑を存するのみ。兎もあれ、郡内唯一の石佛にして重寶なる舊跡である。


 ○国寶

 鏡村大字鏡に、曹源山惠日寺あり。同寺には形質珍稀なる銅鐘一筒を蔵せり。大正二年国寶に指定せられたるが、鐘銘に、太平六年丙寅九月阿清部(一字不明)北寺鍮鐘壹躯入重有百二十一斤棟梁僧談白とあり。其の紋様龍頭等其の類を見ず。
 太平なる年銃は我国にはない、支那にて、呉(太平元年は皇紀九一六年)、北燕(太平元年は皇紀一〇六九年)、南梁(太平元年は皇紀一一二六年)隋末楚(太平元年は皇紀一二六七年)、遼(太平元年は皇紀一六八一年)に此の年號を見る。或は朝鮮に最も接近せる遼国より、轉々して我国に傳はりしものにあらざるか。

 有浦村字有浦下なる瑞泉山東光寺に安置せる、本尊薬師如来は三尺余りの坐像にして、藤原家に属したるものならんかと云ふ、大約九百年前の作に係る古佛であって、大正二年八月二十日国寶に指定せられた。また寺境の観音堂に安置する六手観世音菩薩は、平重盛が父清盛の死後の冥福を修せんために彫ましめて、海中に投ぜしものなりと傳ふ。後、假屋湾内佛崎に於て漁夫松右衛門の網にかゝりたるを、同寺に寄進せしものなりと云ふ。

 玉島神社は玉島村にありて、秘蔵太刀壹口を有す、備前長船家助の作に成り、古社寺保存會委員子爵松平頼平の鑑定に係るものにて、大正九年国寶に指定せらる。長二尺四寸二分、幅一寸、反り一寸五厘で、刃文は乱れにして、表に棒樋下に眞の剣巻龍、裏面の棒樋下に梵字蓮座の彫物がある。銘は備作長船家助、裏面に應永二十一年二月日と刻す。

 田島神社は呼子村大字加部島にありて、縣内唯一の国幣中社なるが、大正四年五月十日宮中顧問官正二位勲一等侯爵鍋島直大奉納の太刀一口は、備中国住人吉次の銘あり、目釘穴三個、刃長二尺三寸九分、半反り七分、*(金祖 ハバキ)下より刀身中央に至る表裏鎬角(シノギ)に細き樋あり、刃文丁子乱、単*(金祖)銀無垢の逸物にて、大正九年四月十五日文部省告示第二百六十號を以て国寶と指定せられた。



 其三 産 業

○山村周平(後敬吾と改む)
 周年は山村家九代の孫にて、寛政十二年(水野侯の頃)相賀村庄屋見習となり、文政二年(小笠原侯の頃)亡父敬吾の後を継で同村の庄屋となり、職に在ること二十三年、其の間村治の効績を擧げたること少しとせず。
 元来相賀村は人口に比しては田園乏しく漁区亦狭く、殊に地形上旱害水難の患多く、藩中第一の寒村である。時に水野氏藩鎮にありしが、天災地変多く、農民苛斂に泣き為に暴民動揺したるが、相賀村民亦納租に堪へず、藩廳の刑罰を受くるものあり(手錠を嵌め倉庫に投じ、親族隣保などより租税を完納するにあらざれば其戒を解かず)庄屋山村敬吾も亦村治擧らざるの故を以て蟄居を命ぜらる(青竹責めと称へ青竹を以て門扉を鎖し藩領二百五十ケ村の戒となす)彼譴に居るの際百方村治の改善民風の興起を策立して、老躯を挺し身を以て實践して勤倹力行の風を振作せんとて、毎朝鶏鳴に起き、風雨寒暑の厭なく、村内百数十戸を巡りて早起を促すこと三ヶ年に及ぶ、村民其の精根に勘まされて勤勉の俗勃然として起り、昔日の寒村は程なく一面目を改め、其の美風は習性となりて大正の今日に及ぶ。今彼が遂行せし事柄を擧ぐれば、

 勤倹力行の方法
 一、朝早く起き各自の稼業に取り掛るべき事。

 一、朝起きたる上は衣服を着すると同様の思びを以て直ちに草鞋を穿く事。

 一、従来一日四度の食事を三皮に減食する事。

 一、風雨の時は婦女子の別なく漁具用の綱縄を綯ひ他村より買ひ入れざる事。

 一、総て仕事は出来得る限り組合を設け一同集合して互に競ひ合ひをなす事。

 一、夜分の仕事は最寄りの所に炬火を焚き一所に集合し人に負けざる様心掛くる事。

 一、衣食住とも総て質素を旨として人に目立たざる様心掛くべき事。

 一、牛馬にて物を運ぶ時は其の幾分は必ず人の肩にて供に運ぶべき事。

 一、婦女子は野山の草花並に海藻類を採取し草花は唐津城下に販ぎ海藻は山内地方に賣りて米穀と交換する事。

 一、田畑の畦畔竝に道路の側等不用の地を利用して水仙花か植ゑ附け大に繁殖に勉むる事。
    但し同花を唐津に販ぐ時は代価を一定し必ず乱賣せず賣残りは持ち帰り田畑の肥料にする事。

  右の水仙花は大正の今日益々盛に賣り出し遠く福博地方より遠きは東京地方にまで販路を拡張し村内唯一の副産となり利潤少からざるものである。



 溜地改修等
 旱害水難の患多き土地なれば、溜池の改修を行ひて藩内第一の大貯水池を築きて旱害を除き、灌漑水利の便を許る。山林原野の開墾を奨励しては耕地を増大し。又漁区狭少なれば、新に漁場の認可を得て漁区の拡張を計る。
 村民其の徳を景仰して、文政二年敬吾のために記念塔を建設し。藩廳其の治績を褒して苗字帯刀を許す。




 第八章 明治新政以後

 一、版籍奉還廃藩置縣
 徳川幕府二百六十余年の治政も、欧米諸国の開国強請のことより其終焉を迅め、慶應三年十月十五代将軍慶喜大政を奉還し、十二月王政復古の大詔が降下した。されど諸藩は依然として舊態を改むることなかりしが、明治元年姫路藩主酒井忠邦率先して版籍奉還を決行せんとせしも、要路の遮るところなりしが、二年正月薩長土肥の四藩主之が建議をなせしより、諸藩皆これに傚ひ、天皇優詔して同年六月奉還の允許あり、諸侯公卿を華族に列し、諸藩を政府の直属となし、従来の藩域に舊諸侯を以て直ちに藩知事となし、食禄を給して舊土を治めしめられた。即ち小笠原長国に子爵を授け華族に列し、唐津藩知事となし、對馬侯宗重正は厳原藩知事として舊領濱崎地方を統治せしが、郡代所に於て両郡大庄屋一統に示達を發せられたが、其の申渡に曰く。


  ○申渡
 今般御一新に付
殿様版籍奉還被遊度被仰上候處、被聞召届、去月十九日改而唐津藩知事被為蒙仰、恐悦至極之御事に候、就而者追々御沙汰之品も可有之。別而一分相慎農業専致出精候様、小前末々迄不洩様可申致候、此段申達候以上。
    明治二年已七月廿一日        郡 代

 次でまた御代官所白洲に於て、両郷大庄屋に示達せられし次第は、

 今般御一新之際莫大之御軍費は、勿論上下疲弊を極め生産富殖之道に差障より、格別御仁恤之御主意を以て、上下融通のため金札御布行に相成、則六萬石の分壹萬五千両御下げ渡相成候、依之郡中にて壹萬千両市中にて四千両正金引換被仰付候、尤去る六月行政官より御渡之御書付相渡候間、大小庄屋相見の上御趣意の趣深く相辨へ、小前末々に至迄篤と申諭、速に引替相納可申候、且近来正金拂底の趣粗々相聞候間、幾應も手数を相盡候上にも、自然不都合之次第も有之候はゞ、米高は国札を以て相納候はゞ、紙方役所に於て引換遣不申、跡半高之處は如何様にも致心配、正金取纏来る八月十五日限當役所へ無遅延相訥不申候、呉々も朝命遵奉聊麁略に心得不申様、急度此段申達候。
  明治二年己七月廿七日     代官

 かくて新藩廳の組織成立するや、政事廳には大参事に中沢泉福田時仲、權大参事に千葉新介・富田克巳、少参事に川上金右衛門、權少参事に高原惣左衛門・米渓湊等を任じ、司民局・司計局・地
壤廨(カイ)・改正權宗廨・司民代廨・紙道署・物産廨・運漕廨等の下司を督して新政を行ひ、先づ左の諸布達を發して新政に著手した。



 〇申渡
               大小庄屋共へ
 今般藩制就御改革、別紙之通役名更に改称被仰出候、此段申渡候也。
   明治三年十二月朔日        司民大属

其の申渡しの役名改称に就ては
               司民大属へ
               里正 但従前大庄屋
               與長 但従前庄屋

  今般藩制就御改革改名更に令改称候也。
     明治三年午十一月  大参事


 また里正與長一統へ對しての諭告には

 ○申渡
               里正與長共へ
 民政之儀、知事様深被遊 御憂慮、去月廿八日御内家へ御呼出御趣意被仰渡之上、御直書御渡相成候に付一同へ拜見申付候、猶自分共は乍不及職掌を盡す心得に候條、其方共茂一際致勉励御意貫徹候様、小前末々迄無洩可申諭候、此段申渡候也。
   明治三年午十二月      司民属

 新藩知事は治政の綱領を詳録して、司民大属以下の諸員に訓達して以て、良政を布き民利民福を増進せんと力めさせらる。

 ○藩知事の御直書
 司民の儀は萬民の苦楽壽夭総て相係り、最重き職掌にて残なく其道によりて其處を得させんことは、古訓に型り人情に達する人にして能し得べきか。我等不肖にして朝意を遍く此藩内に及さん事萬無覚束深恐入候、唯々いつれも心を盡して其職を探擧候半ことを頼存候外更に無他事候乍去我等日夜思念する所も亦黙止すべきにあらず、固より要領を得ず候得共、意中を、認被致候はゞ、或は補ひあらんかと條々書記見世置候也。
    明治三年午十一月     知事
              司民大属以下郷町役人共へ

   覚

一、神を敬ひ朝憲を尊ばしむる事。

一、庶民を子とするの誠ありや否を省る事

一、教養其道を得るや否を省る事。

一、法を簡にし費を省く事。

一、鰥寡廃疾の源を塞く事。

一、五倫の道によらしむる事。

一、隣伍を親ましむる事。

一、窮乏を相救はしむる事。

一、無産の者を業に就かしむる事。

一、弱年にして奉公に出るものは其家業を撰ばしむる事。

一、市井漁村に百工を起さしむる事。

一、嫁娶の時を失はしめざる事

一、療病怠らしめざる事。

一、醫師の業をはげます事。

一、徳性を磨き人才を育する事。

一、讀書習書を唱ふ事。

一、遊惰を禁じ華美を抑る事。

一、不和の事は速に解き跡に残さしめざる事。

一、禮譲の風を起さしむる事。

一、分を安じ業を楽ましむる事。

   以 上

 かやうに詳細なる訓達を發せられしと共に、大参事が司民大属に戒飭を加へたるものに、左の示達があった。

  司民大属へ
 今般御渡相成候、御直書之趣奉戴仕銘々官職中は親類知己之跡遠を不憚職掌に盡力、時々郷中附属之官員は不及申、里正・陌正・與長・陌長之輩呼立、下情休戚被及訊問、御趣意貫徹候様可被心得候也。
    明治三年午十一月          大参事

 同時にまた司民少属・同權少属・同吏生にも同意味の諭達を夫れ夫れく發したるが、叉馬渡島牧場に関する指令には。

    司民大属へ
 馬渡島牧場之儀は、石垣築造竝に駒捕等之節、多分之人夫相費郡中之不為に付、番人共始廃止申付候條、往々田畑開發島方繁榮候様可被致事、但牧馬之儀、難民共之多足相成候者共へ、差遣候様取計可被申候事。
    明治三年午十一月         大参事

 翌十二月司民大属より里正與長共へ右同様の示達を發せり。また民政改草に就き各階級に與へたる文に。

           司民正權大属へ
 今般民政改革之存意に委細は以書面申聞候、深可致盡力候也。
    明治三年午十一月        大参事


 〇申渡
                里正
                典長
                惣百姓共へ
 先般申達置候通民事之儀は、知事様深被遊御痛慮、今般郡中諸納物其外廉々別紙之通御寛免被遊候旨、御直書を以て被仰出候間、拜見申付候、各承知之通御維新以来度々之御上京御多端之折柄莫大之御入費に相成、會計始め御逼迫之處、斯迄御仁恤之程自分共始め下々迄重疊難有事に候、就ては別て職業相勤前之儀は勿論之事に候得共、兎角人情恩義に馴候得者、往々身之安きを貪るものに候間、其心の生ぜざる様、上を敬ひ友に信あるの道を盡したる事を知る古き訓へを守り、吉凶共相互に助け合、御趣意不取失様小前末々迄懇切に可申諭、尚委細之儀は少属より可申聞候、此段申渡候也。
  明治三年午十二月十四日      司民大属


 ○申渡
              一同へ
 只今大属衆被申達候而、知事様民事之儀深被思召、會計局御逼迫之御中被仰出候御仁恤之程、自分共始め末々迄誠に以て重疊難有仕合奉存候、諸納物之儀は往古よりの定にて納物代米之儀は年々置米致暮に至り*(シンニョウ官)不足取調勘定帳差出候儀も、下方にて殊の外手数相掛候を被遊御厭、又は諸品の内にて時相場不相當之品も有之、深歎かはしく被恩召、来春より御廃止被仰出、諸局廨御入用の分は時相場を以て御買上被成候と申は、實以奉恐縮難有御儀に有之、将又営繕廨御買上竹も相場にて御買入、尚御厩納飼葉も往古より無代米納の分共御廃止時相場にて御買入、其外諸中間尻抱錢差出に不及是又相當の給錢にて御雇被成、御林山番遠見番も御廃止、村割出米御差留、又竹木肴共品に寄り直に旅出御免被仰出候段、言語難盡冥加至極難有仕合、御恩澤之程幾久敷忘却不仕、諸局廨より御入用の品々注文申触次第其所有より御間缺に不相成様實體に御世話可致候、此旨小前末々迄愚味之者に至迄耳に入安き様候、深實に致勘辨、里正與長村役人より申諭、農業専丹精為致、総て身の程を知り奢ケ間敷儀不仕、假初にも賭事諸勝負事は決で不仕、何事も里正與長之沙汰を急度相守り、夢々心得違致間敷候、

此段申渡候也。
  明治三年午十二月十四日     司民少属


 ○御直書
 百姓共へ教訓竝取扱之儀は先日書付にて申達置候通、支配地之百姓共饑に凍ゆるの悩なく、銘々其住居に安堵いたさしめんと願ふ處なり。元百姓は年中暑さ寒さの厭ひなく骨折して、上へ貢物を納め公役をつとめ、老たる者幼なき者を養ひ、生業の営み暇なきは、全く上へ納め物多きと公役の繁きとに本づくと、我等深く心を痛め悩まし居る折から、朝廷より是迄辛きならはし悪き仕来りを御改めなさる御沙汰なるにつき、如何にも右の苦しみを解き遣し度候得共、思ふだけはくつろぐるを得ず、先づ左の通向後ゆるめ遣す。

一、諸役所役高柄物を品々ゆるす。

一、厩納飼葉草藁共免す。

一、諸中間村出錢を免す。

一、林山番をゆるす。

一、村速見番をゆるす。

一、竹買入は相應の価にて買遣す。

一、竹木旅出品に依てゆるす。

一、漁人共魚旅出を免す。

 右の條々此度ゆるし遣すに付、銘々田畑の作り物に心を懸け、怠りなく老たるを養ひ、幼なきを慈しみ、悩み煩ふものは憐み扶け、尚暮し向にあまりあるは親類組合を相互に救ひ、義理強くなさけ深く、人の人たる道を盡すやう教へ諭し可申候也。
    明治三年午十二月       知事


 かゝる仁恤深さ政令を發して民を愛撫せられしが、猶又大参事よりも左の如き訓達を發して奨励甚だ努めた。

 今般御改正に付、知事様、朝廷御仁恤之御趣意御奉戴被為、在里正始郷中農民共へ、別紙之通従前定額之内八ケ條、爾後被差免候、依之耕作等諸務は勿説銘々一分之行跡一際相修め、此上倹素且和順に齋家致し候様、精々教諭加可被申候也。
    明治三年十二月      大参事


  ○覚

 営繕廨納。
一、山茅  一、小麦柄   一、草藁  一、中縄  一、歯朶

一、下品苫
   運漕廨納

一、山茅  一、大中縄  一、麻苧  一、鍛冶炭  一、勝藁

一、澁柿  一、中下苫  一、薪

   御茶碗竃納
一、長尺薪   一、薪  一、上中品苫

   司計局納  軍司局納  主殿廨納  御休息納
   御搗屋訥  御茶方納

一、薪
   御厩方納

一、薪   一、竹箒  一、毛振茅
   掌隷方納

一、竹箒
 右之品々例年諸代置米申付、為納来候得共、諸代置米相廃止、品々相當之代錢を以て御買上被成候。


  御厩方納
一、飼葉草藁共
 右之品々従来無代にて為納来候處、無代米共以来相當代錢を以て御買上被成候。就ては前條の品御入用次第某局廨より注文申触候、此間其品有之所より御間缺不相成候様、實體に御世話可致侯。

一、諸中間村出錢竝藩中郷夫共、右従来尻抱錢と唱へ村方より差出来候處、今般御差免被成候、向後御内家始都て相當之給金を以て、御雇入被成候間、諸中間藩中共出入申達次第、御間缺不相成候様御世話可致候。

一、御林山番
 御林山番御廃止被成、山林番出米錢共御差免被成候、就ては御林枯枝下草等は其村方へ差遣候間、往々御林繁茂候様、里正與長共にて屹度御取締可申候、萬一不正之義有之節は當人は勿論里正與長共迄、咎方申付候間、兼で相心得可申候。但御林下草枯枝等他村より請場仕来之分は、是迄之通請場申付候間、御林繁茂之義も其受場より取締可申候。
               納所村  星賀村  相賀村

          小友村 黒鹽村 杉ノ浦村
 右之村遠見番御廃止被成候に付、遠見給米割出米差免申候、尤異船其外無據届等多分之郷夫召使候村には、其入費郡中割に申付候。
   営繕廨納
一、大中小竹
 右は従前定之直段を以て買入為納来候處・不相當に付注文次第其品有之所より、御間缺不相成候様御世話可致候。
一、竹木旅出
一、漁人共魚旅出
 右従来差留置候處、今般其場所柄其品に寄旅賣便利之儀は、其村與長へ申届け許し有之上直に旅出御差免被成候、尤旅出仕法之儀は里正與長にて仕法申談其旨可申出侯。
 右之廉々来る未年より御差免被成候間、一同不洩様可申聞候也。
   明治三年午十二月      司民大属

かやうに改革著々其の緒を開き庶民の福利尠しとせざるも、全国各藩依然として舊藩主を戴ける治世は、上下の関係情誼等幕府時代と異なることなく、従って施政困難にして一新の気分漂はず、新政の趣旨にも適せざれば、左の如き太政官達は公布せられた。
 今般藩を廃し縣を被置候に付ては、追て沙汰候迄大参事以下是迄之通事務取扱可致候事。
    明治四年辛末七月       太政官

 依りて藩知事小笠原長国は残務を伊萬里縣に引き継ぎ、東京に僊居し、永く皇室の藩屏として邦家に貢献することとなった。是に於て舊唐津藩六萬石、對馬領八千石、天領一萬石の地は松浦郡中に編し、四年九月四日佐賀・蓮地・小城・鹿島と共に伊萬里縣の管轄に属するに至った。
 嗣君長生(ナリ)、幼時恰も一庶民と異ることなき規律の下に成長し、天稟の英資と相待って學徳日に進み名望年と共に高く、筆を執れば忽ち金玉の文字を聯ねて文才の誉天下に擧り、剣を握れば好箇の武人として令名世に廣く海軍中将に昇叙す。其の徳行の崇高なるは世既に定評ありて華胄社會の第一人者である、彼の武士の典型として仰がるゝ故乃木将軍の知遇を得て、華胄教育の淵叢たる學習院幹事として、乃木院長を輔佐して同院の革正校風の振作に関預したるを以ても知るべし。遮莫
 今上陛下の御親任益々厚きを加へて、皇太子御教育係幹事宮内省出仕の要職を拜するに至り、昨春御教育所廃止と共に其の職を免ぜられ、同時に現在の宮中顧問官を拜命せられた。


  二、行政区割の変遷
明治四年七月十四日藩知事小笠原長国及び厳原藩知事宗重正(濱崎地方の對州領生)職を去り、舊藩地は九月四日伊萬里縣の一地区として管轄せられ、縣令古賀一平林友幸相次で縣治の任に就く。因て唐津町に伊萬里縣出張所を設け、五年二月所長持長傳彌赴任して、大手廣場高畑一郎宅を以て出張所充つ。
 五年五月二十九日佐賀縣に改められしが、六年十月出張所を廃止した。縣權令多久茂族・岩村通俊・岩村高俊・北島秀朝の更迭聾任となり。九年四月十一日佐賀縣を三潴縣に合併して筑後地方と治を一にせしが、五月二十四日松浦郡杵島郡を割きて長崎縣に属せしめしが、六月二十一日には藤津郡をも分割して長崎縣に併せ、八月二十一日三潴縣廃せられ、佐賀以下六郡も亦長崎縣に合するに至った。十三年五月五日松浦郡を分ちて東西南北の四郡とした。十六年五月九日佐賀縣を再興し、肥前国の内十郡を管轄し、二十九年基肄養父三根三郡を併合して三養基郡と称せしも、本縣の行政地域の廣狭には十六年以来何等の変化なく以て今日に及んだ。

 四年二月各村庄屋の称號を止めて、大里正(大庄屋)里正(庄屋)を置き。五年二月更に触元里正及び里正と改称した。六年一月郡を区に改め、更に十大区に分ち、各大区を小区とし、区に長を置き、大区に戸長小区内各村に副戸長を配し、十月副戸長の称を改めて村長とした。當時に於ける区内の行政区割の状況を表記して一覧に便しやう。

廿七大区 第一小区−村長四人。
 鳥巣、星領、廣川。天川、天野、鳥越。浦河内、廣瀬、中島、巻瀬、町切、楠、千束、田頭、湯屋、横枕。伊岐佐、黒岩。

廿七大区 第二小区−村長四人。
 相知、梶山、鷹取、長部田、本山。山崎、大野、双水、中山。大杉、石志、山本、橋本。牟田部、佐里。

廿八大区 第一小区−村長四人。
 砂子、濱崎、横田(上下)、梶原、矢作、半田。西原、原、中原、久里。夕日、柏崎、有喜(宇木)。鏡、鹽屋、満島、高島。

廿八大区 第二小区−村長七人。
 五反田、南山。仁部、瀧川、木浦。池原、馬(マ)ノ川、荒川。藤川、白木。淵ノ上、谷口、岡口。平原、柳瀬。山田、野田。

廿九大区 第一小区−村長五人。
 徳末、行合野、竹有、田中、山彦。稗田、岸山。下平野、上平野、小平野、重河内。津留、主屋、中山、板木、田代、木場。畠島、千々賀、山田、養母田(ヤブタ)。

廿九大区 第二小区−村長五人。
 和多田、大石。唐津、大島、妙見、見借。神田、竹木場、奥、唐川(タウカハ)、元廓内外、内町外。

三十大区 第一小区−村長五人。
 今村、外津、普恩寺、平尾、濱ノ浦。石室、小加倉、値賀河内、石田、假屋、大薗。名古屋、波戸、串。加唐島、小川島、加部島、松島。馬渡島、向島。

三十大区 第二小区−村長八人。
 佐志、唐房.鳩川、相賀、浦村。馬部、山道、枝去木、野中、平菖津、石原、名場越。岩野、菖蒲、加倉、八床、高野。湊、神集島。赤木、中里、鹽鶴、丸田、大友、屋形石、横野。呼子、小友、打上、構竹。

卅一大区 第一小区−村長二人。
 切木、湯野尾、曲川、赤坂、仁田野尾、坐河内(ソヽロガハチ)、小十官者、後河内、梨河内。中浦、上ケ倉、杉ノ浦、大浦、湯ノ浦、満越、爪ケ坂、井野屋、筒井。

卅一大区 第二小区−村長五人。
 大良、永田、田代、藤平、牟形、中尾、大串、八尋峯。有浦(上下)、長倉、諸浦、轟木、新田。高串、晴木(ハルキ)、梅崎、田野、新木場、寺浦。犬頭、鶴牧、納所、駄竹。入野、星賀、京泊、菖津。


八年三月区の改正を行ひて、本郡を第五大区と称し、大区に区長一名、小区に戸長一名副戸長若干名を置く。當時の区長に就任せしものは坂本経懿であった。九年五月また第三十六大区と改称した。十一年十一月廿九日郡区制改正の結果、村戸長の制を設け各村に戸長一名附属員若干名を置いた。

 唐津町は舊藩の頃には、内外町の称呼なく十五町に分れ、この十五町に大年寄四名と、各町に年寄二名組頭二名ありて萬般の町務を處理す。大年寄は郷村の大庄屋と等しく苗字帯刀を許さる。明治四年二月大年寄を改めて陌正四名とし、外に各町に陌長一名を置く。五年二月戸長二名をして町務を行はしめ、各町に総代を置いた。六年十月また改めて廓内外村長、内外町村長の二名を以て町政を處理し。八年三月前制を改めて戸長一名とし。十一年十一月内町・外町・廓内・廓外の四戸長を設けた。

 廿一年四月十七日法律第一號を以て、市町村制を布き、廿二年四月一日より之を實施せられて、郡内を一町二十村とし以て今日に及んだのである。

 本郡長官の氏名を表示すれば。
    拜命年月         官名    姓名
    明治六年         区長    坂本経懿
    同 八年         郡長    古川龍張
    同 十一年        郡長    久布白繁雄
    同  廿二年       同     松尾芳道
    同  廿五年       同     福地隆春
    同  廿六年       同     加藤海蔵
    同  廿八年       同     袖山正志
    同  卅一年       同     大野右伸
    同  卅二年       同     高畠光太郎
    同  卅三年       同     大島 信
    同  卅三年       同     廣瀬昌柔
    同  卅四年       同     巌谷忠順
    同  卅八年       同     原田守造
    同  四十一年      同     柳田 泉
    大正二年五月廿四日  同     佐藤七太郎
    同 三年十一月四日   同     酒井茂馬
    同 八年五月十二日   同     中島五十男



 三 佐賀の乱と唐津

 明治維新後、朝鮮の無禮なる振舞を怒りて征韓論起りしが、議合はずして桂冠せし参議江藤新平は、民選議院設立を建議して亦意の如くならず、不平欝勃たりしが、時に佐賀に新政治を喜ばざる憂国黨ありしが、二者合して一は征韓の意志を達せんとし一は封建政治復興を名として、乱を作さんとし、新平を推すに至ったが、佐賀藩士にして前秋田縣令たりし島義勇また之に應じ、共に叛徒の首領となり、従黨二千五百余人を集め、七年二月一日兵を佐賀に挙げ、先づ小野商會を襲ひて金銀貨幣を奪ひ軍用資金に充つ。其の報東京政府に達するや、四日熊本鎮臺に令して之を討たしめ、九日参議兼内務卿大久保利通に命じ、往きて之を鎮撫せしむ。又陸軍少将野津鎮雄を熊本に、同鳥尾小彌太を大阪鎮臺に、同山田顕義を西海道に、外務少輔山口尚芳を長崎に派遣して大に之に備へをなす。十五日叛徒縣廳を襲ふや權令岩村高俊鎮臺兵を指揮して防戦せしも糧食盡きて筑後に奔った。

 一方唐津にありては、唐津町区長に佐賀人にて安住百太郎といへるものありしが、佐賀の叛徒は百太郎を通じて應授隊を出さんことを請ひければ、即ち舊藩士を志道舘跡に會して援隊派遣のことを議したるに、激越せる士人は舊隣藩の関係情誼と、一は国事を憂ふる赤心より評議一決して、立ちどころに三百五十余人の出兵を決定した。

 二月十七日(陰暦正月元旦)志道館跡に勢揃を為せしに、先に出兵に同意せし輩も自己と国歩の利害打算の結果二百余人に減員し、同日未明愈々出發せし志士は僅かに百二十余人に過ぎなかった。是より先き百太郎は佐賀勢に投じたれば、小川司馬太郎・井上孝継は一隊を統べ、時の副区長たりし海老原里美は兵站を掌り、其の他佐久間退三・山田道正・形野安命・西脇勝心等の幕僚之に参し。満島を経て同夜は今の七山村に泊し、翌日佐賀勢の本営たる佐賀郡川上村實相院に着し、作戦方略の謀議を遂げ、機を見て官軍に肉薄せんとし、止ること三日間であった。二十一日神崎に向ひ同夜は其處に幕営を張り、翌日六田口の熊本鎮臺に突撃を試みんとせしに、佐賀勢既に鎮臺兵を撃退し居たれば、空しく神崎に退営した。廿三日は東中原なる筑前口の官軍に當り、午前八時頃より砲撃銃聲轟々殷々天地を震撼する計りなる有様なりしも、各々地物の要害を扼することなれば、一進一退勝敗終に決せずして、午後五時頃互に兵を退けた。この日の戦は小城兵と行を一にし、唐津勢の負傷僅かに二名であった。同夜はまた神崎に宿営をなす。翌日は唐津兵のみは休養を行ふ。二十五日田手川の戦は両軍の大會戦にして、佐賀・小城・唐津の軍勢死力を盡して防戦甚だ力むと雖も我軍支ふること能はず、唐津勢は敗走して牛津に退却し、翌二十六日唐津に還り、龍源寺に入りて一同謹慎して以て命を待った。
 朝廷は更に嘉彰親王を征討総督とし、陸軍中将山縣有朋・海軍少将伊藤祐麿をして、佐賀を討たしめんとせしも、征討軍到らざるに利通博多に於て部署を定め、連勝して三月一日佐賀に入り城終に陥り、義勇は鹿兒島に捕へられ、新卒は土佐にて縛に就いた。乃ち総督宮は命を奉じて博多に於て之を處決し、利通之に参し河野敬謙之が截断をなし。四月十三日新平・義勇を佐賀に梟し、其の徒十一人を斬り、其の他懲役百三十六人、除族二百四十人、禁錮七人、連累者にして罪を免んぜられしもの一萬七百十三人あり。

 唐津人士の處刑せられしものは、小川・井上・山田の三人は懲役三年に、海老原里美は懲役二年に、佐久間・形野・西脇等は除族に處せられしも、もとこれ国家を思ふの念より出でし誤解に基きしものなれば、数年ならずして各復族を許され、聖徳の厚さに浴するに至った。




  四 奥村五百子

 愛国婦人會の創設に奔走し、東洋最大の婦人団體を組織した、正七位奥村五百子は、弘化二年五月三日唐津中町高徳寺に生る。女史の父は左大臣二條治孝の三男寛齋の末子で、文政八年に十歳に得度して、高徳寺の法燈を継ぎて了寛と改む。母は小笠原藩士山田圓太夫の長女浅子である。彼女の兄圓心は、嘉永四年に九歳にて得度し、佛學を修むる傍、廣瀬青村・革場船山につきて漢籍を學ぶ、父の極端なる尊王論の感化を受けて、文久三年齢二十一歳の頃より国事に奔走するに至った、當時唐津藩は幕府との関係上佐幕諭を唱へて居た。然るに高徳寺は二條家との因縁上、尊王論を主唱すれば、師は時に蟄居に處せられしこともあった。
 彼女はこの父兄の許に育ちしことなれば、自然気象も雄々しく男性的気分ありて、幼時より豪宕勇邁の性格を有して、世の婦人の上に超忽たるものがあった。十四歳の頃、叔父山田勘右衛門を訪ねんとして、父母の制止も聴かずして、単身船に貸して大阪に至りしこともあった。
 萬延・文久の頃は国事多端の際なれば、父了寛・兄圓心等国事を憂へて、諸藩の志士と往来せしが、彼女も亦これ等志士と交りて、男子も及ばぬ気焔を吐いた。丁度文久三年彼女十九歳の時父に代った、長州の家老宍戸氏(夫人は女史の叔母)に使したが、其の際の扮装は、義経袴に朱鞘の大小を落し差しにし、深編笠を冠りて伊達衆姿にて、大に叔母を驚かしたのである。

 彼女二十二歳の頃福成寺に嫁せしも、夫と死別し、二十六歳にして、水戸の浪士鯉淵彦五郎と婚せしが、母兄共に之に賛せざりしより、唐津を去りて、夫婦は平戸に流浪し、水戸に至り、後唐津に帰りて古着また茶商を営んだ。彼女は明治二十年夫と離別し、一男二女を擁して一時また生活の難に遭ひしも、長女敏子また母に似て気象勝れて家産を助けた。

 二十三年国會開設せらるゝや、女史また衆議院議員選擧運動に奔走し。松ノ浦橋架設、唐津鐵道布詮、唐津開港などに関しても盡力少からず、殊に唐津開港の如き内面的女史の功労は忘るべからざるものがある。

 兄圓心師が本願寺布教師として朝鮮にあるや、女史は之を追ふて、明治三十年全羅道光州に入り、一旦帰朝して、翌年再び光州に至りて實業學校を創建して地方民の利益を図らんとて、具さに苦惨を嘗めて、九月漸く上棟式を擧げた。後病を以て三十二年七月帰国せしが、十月東伏見宮妃殿下に謁し、十一月には閑院宮妃殿下に謁せしに、其の韓国に於ける、布教教育に労せし功を嘉賞せられた。

 女史が国家的活動の背後には、本願寺門主・小笠原子爵・近衛公爵の有力なる援助があった。三十三年五月女史は南清視察の途に上った、これ此等名家の委託によるものである。上海より長江一帯の風俗教育宗教などを視察しつゝ、之を遡って南京に至りしが、恰も北清事変なるもの起りて、其の余波南方に及ばんとすれば、六月一先づ帰国して、調査事項を復命した。

 北清事変は、最初日英米佛獨露墺伊の聯合八ケ国軍寡勢にして苦戦せしが、間もなく我第五師團出兵するに至って破竹の勢を以て敵を斃し、北京の囲みな解いたが。女史は北清出征軍慰問のため連枝の派遣を本願寺に説きしに、其の議用ひられて、大谷勝信師慰問使として發足し、同年十月女史は仁川にて同一行に随従して、芝罘(チイフ)・太沾(ターク)・天津・北京等を歴訪して、或は慰問演説を試み、或は傷病兵を見舞ひ、また戦死者の法要を執行するなど、懇切なる慰問の任を果して十二月帰朝するに至った。

 女史は此の行中、戦地の光景の惨憺たるものを見て、出征軍人に對する同情の念は心中に湧き、帰国の途次既に京城・仁川・釜山等にて、其の遺族救護の演説を行ひて、痛く聴者に感動を與へて、少からざる寄金を得たるが、抑も愛国婦人會創立の基となりしものである。女史は帰朝後直ちに愛国婦人會創立の切要を高唱して、寝食を忘れて盡瘁し、閑院宮妃殿下を始め、近衛公・小笠原子其他名門を訪ふて、同會創設の賛意を促がし、終に女史の熱烈なる活躍の結果、三十四年二月發起人會は麹町区平河町禮法講習會所に開催せられた。

 かくて同會は翌三月事務所を飯田町日本體育會門衛所に移し、公欝岩倉夫人久子を會長に仰ぎ、三十六年三月には、閑院宮紀殿下を総裁に、同十一月には東伏見宮妃殿下を始め、多数皇族方を名擧會員に推戴するに至った。
 さて同會今後の重大事業は會員募集と寄附金収集である、為に同三十五年より三十七年に亘りて、女史は東奔西走遊説に席温ることなく、全国に足跡到らざるなく、三百余回の演壇に立つに至ったが。女史はこの行草鞋を穿ちて腕車を避け、旅宿も下等に定めて粗服を纏ひて倹薄自ら持して、會の盛運を期せしが、偶々三十七年一月公欝近衛篤麿の薨去は、同會の一大打撃なりしも、間もなく日露戦争勃發して、国民の愛図心沸くが如くなりしかば、為に同會の大發展を来すに至り、三十八年四月には法人組織の一大財団となり、體育會全部の建物を購ひ、本部の體裁も整ふに至った。

 日露戦争中には、女史は一年有半の間、満洲の野に出征軍隊の慰問をなし、軍隊の出入には送迎に奔走し、傷病兵の見舞、戦死者遺族救済等、遺憾なき後援振りを發揮した。

 同三十九年四月の本部総會は新宿御苑に開かれ、畏くも、時の皇后陛下(照憲皇太后)の臨御を仰ぐの盛運に達し。京都府石川縣文部総會には、総裁宮殿下の御臨場あり、女史は御随行の光榮を擔ふなど、女史の得意察すべきである。

 女史健康昔日の如くならざれば、郷里唐津に退隠せんとするや、同會は其の功労を多とし、祖道の宴を九段偕行社に擧げしに、妃殿下方も御臨席遊ばされたのである。かくて三十九年唐津に帰臥せしが、健康次第に衰ふれば、翌四十年京都大學醫院に療養せしが、二月七日眠むるが如くして年六十三才を以て長逝す。其の葬儀は、総裁宮殿下の台命により、愛国婦人會の名により、二月十日京都に於て壮厳に行はれ、時の大森京都府知事は同會の顧問なるより、葬儀委員長として事務を鞅掌した。其の遺骨は東京・京都・唐津の三ケ所に埋葬す。今や女史逝て十有五年、其の遺業は盛々隆盛に、所期の目的を達して居る。



  五 交通機関の發達

 道路は文明の尺度である、交通機関の状況に依って其の土地の文化の程度を察知することが出来る。
 舊幕時代は互に藩境防衛の必要より、道路橋梁の開鑿修築は之を避けた、されば天下の大街道と雖も曲折紆余高低上下の不便は免れざりき、況や其の他の道路は言ふ迄もなきことである。藩境撤せられ交通繁劇を加ふるに至りて、自然の要求上道路開修の問題は到来するものである。時の区長(今の郡長)坂本経懿見るところありて其の任官中に本区の幹線道路たる厳木呼子間の車道を鑿き、進んで佐賀との連絡を計らんとて、隣郡小城の有力家田上某に之を謀りたるに、彼は之を無益の土木として敢て耳を假さゞりしは、未だ時運の要求を察するに至らざりしものと云ふべきか。経懿は之に関せず断然工事に着手して路に本区の幹線道路の開鑿を竣工せしが、郡民其の便を受くること大なるは言を俟たざるところであって、氏の創意卓見の程後人等しく賞せざるはない。後松尾芳道の郡長時代に、先きの坂本案に成れる道路も未だ不完全なれば、縣道として幅員四問の道路に改修せられ、其後各村また要地に至る里道郡道縣道等次第に年を追ふて便利を見るに至る。

 鐵道は明治三十年四月唐津鐵道株式會社が起工せしに創まりしものにで、抑もこの鐵道布設に就きては、當時本郡長たる加藤海蔵の功大にして、其の在職中より唐津港の發展と相俟ちて、必然缺ぐべからざる大事業なるを悟りて画策に怠りなく、頻りに金融の大中心たる大阪に出入して、資本家の遊説に盡瘁せしが、其の労空しからず、豪商黒川幸七先づ之に應じ、協力して資金募集に幹旋せしが、其の経過頗る良好にして忽ち豫定の資金に達し、白耳義人ハーブルも亦資金を投じ、一時唐津に止まりしこともありし程盛況を呈した。是に於て海蔵官界を去りて同會祖々長に就任し、専心専業を督励し中沢孝政工事請負者たりし一方また事業経営の顧問として貢献せしこと少からず、着々功成り数年にして九州線幹線と久保田驛に連絡し、三十九年鐵道国有法案によりて政府の有に帰した。

 九州電燈鐵道株式會社の経営に属する、濱崎佐志間約三里の軌道経営は、もと満島馬鐵會社の事業として濱崎満島間に営業を開始したるは、明治三十三年六月十一日である。翌三十四年五月には材木町に延長し、四十四年六月には唐津村字京ノ熊に達し、同年唐津軌道會社と改称し發動機関による車體の運轉をなし、大正二年十二月には唐津村字観音谷に達し、同年九州電燈鐵道株式會社の経営事業となり、同五年九月佐志村字龍體に通じ、今や電気鐵道に改めんとて其議頻りに起りつれば、遠からず實現するに至るであらう。

 北九州鐵道は福岡縣博多驛の南方竹下驛に起りて、唐津を中心とし伊萬里驛に聯絡せんとするものにして、大正八年三月同會社の創立を見、草場猪之吉社長として之が経営に努力し、今や工事に繁忙であるが、竣功の上は福博長崎方面との聯絡交通の便益大なるものがあらん。

 唐津町に始めて電話線を開通して市民の利便を計りしは、明治四十一年である。
 唐津の港湾たるや北風の憂なきにあらざれども、古より韓漢に對する形勝の地位を占めてゐた。明治に入りて郡の南方諸炭田の發掘盛なるに従ひ開港の必要を促進するに至ったが、偶々明治二十年の交久留米市土木監督所にゐて、千歳川改修工事の任に當ってゐた、内務省土木技師石黒五十次唐津に来るを幸として大島小太郎は唐津港修築の意見を聴きたる後、縣の土木課に港湾設計を依嘱したるが抑々同港湾問題の起原であって、縣よりは技師を派遣し測量を行はしめしも有邪無邪然として終了した。

 二十二年小太郎東上中、元老院議官山口尚芳を訪問したるに、折柄税関局長中野建明席にありしが、健明謂へるに、目下政府は九州に於て特別輸出港選定を急げり、門司・唐津・口ノ津を適當と認めんとするも未だ唐津港の眞価を知らず、請ふ之を語れと、小太郎欣然として具さに同港の實況を述べしが、終に二十二年七月特別輸出港として認可せられた。これ今の唐津東港である。然るに同港は水深浅くして大船巨舶を緊ぐに不便である、同時に又出入港とするの欲求は地方人士の胸中に往来して、益々良港湾を得んとするの念は旺盛となった。偶々海軍出張所長星山大機関士は唐房湾の天然の良港たることを語りしより、或は東港を竣渫改修せんと主張するものと、或は唐房湾の天然形勝を利用せんとするものとの二派を生じたが、両港の利害得失を詳覈したる後、東港論者の議を斥け、永遠の利を策して唐房湾の便を唱へて、此の間を奔走せしものは長谷川芳之助・加藤海蔵・大島小太郎・坂本経懿・井上孝継・河村藤四郎・菊池音蔵・吉村儀三郎・岸田音吉郎等である。唐津村字妙見の漁民等は開港修築のこと成らんには、彼等は漁港を失ひて生活問題に関すること至大なれば大に之に反對し、郡當局殊に一科長永江景徳の如きは之が説得に労すること尠からざるところがあった。

 かくて二十九年二月二十八日には、今の唐津西港たる唐房湾築港のことを大島小太郎・坂本経懿・河村藤四郎・山崎常蔵・井上孝継・福地隆春・菊地音蔵・寒河江哲太郎・寒水敬的・市川才次の十名が、関係町村發超人総代となり、唐津村長中島磯之助の名儀により榎本農商務大臣に出願した。時の佐賀縣知事は田邊輝實にして書記官は山田春三である。

 山田春三は唐津開港につきては唯一の功労者といふべき人である。偶々唐津の東方数里なる福岡縣船越湾亦熱烈なる開港運動を開始し、唐津港の運命知るべからざるものあれば.事に當れる人士の其の間の苦心は一方ならざるものである。是に於て春三東上して極力政府當局に運動盡瘁甚だ力めた、之に従随せし唐津人士は大島小太郎・井上孝継である。かくて其の滞京長からんとするや、知事田邊輝實は春三の帰縣を促せしに、彼は頑として應ぜず、此の事たるや豈に一地方の小事ならんや、国家貿易の盛衰消長に関すること大なり、地方事務の如きは宜しく下僚に托するも可なりとて、関係官廳及び国士を訪ふて表裡両面の運動に寝食を忘れて奔足した。彼の女傑奥村五百子が此等の人士を激励せしも當時の一挿話である。

 政府は終に實地踏査を必要として、税関局長石川有幸して九州の港湾視察に派遣す、有幸先づ船越湾を見る、小太郎等憂苦措く能はず直ちに馳せて之を唐津に迎ふ。有幸即ち唐房湾の良否生産力の状況を審かに調査して長崎に赴く、春三・小太郎は鐵道なき地を腕車を駆りて特に長崎縣下早岐に見送り、有幸の意を動かすことに違算なきを期した。次で内務省土木局長古市公威は政府の命を帯びて来り視察せしが、果して其の港湾の優良なると生産力の十分なるを認めて、具さに政府に報告するところありしが、三十二年七月十二日勅令を以て開港場たることを認許せられた。これ即ち今の唐津西港である。

 唐津鐵道の全通、郡内炭田の發達、小城杵島両郡炭坑の興隆によりて、唐津港の昌運を来し、殊に大正三年南北亜米利加を載ち切りたるパナマ大運河開通以来、亜来利加と支那間の最捷航路の薪水供給地として至便の地位を占むるに至り、且つ南満州北支那との貿易上有利の位置を有すれば、港湾の修築な行ひて大艦巨舶の安碇と水陸貨物の取扱の便益を計るは、港運の盛衰消長に関すること大なるものである。前既に述べたる如く曩に築港の企画ありたるも計画不備の點ありしより、更に唐津築港株式會社を起して、大島小太郎外十三人の聯名にて、大正二年十月一日築港認可の出願を提起せしが、同五年七月十五日許可の指令に接し、更に同六年四月十三日附きを以て願出の唐津港修築工事實施設計変更の件は、同十年一月二十四日に至りて認可せらるゝことゝなった。然るに時恰も財界沈滞の時に際會して、未だ工事に入るの期運に達せず、将来適當の時期を待つことを余儀なくせられてゐる。




   六 教育。新聞

 志道館は唐津明神社の西側にあり、維新後は其の敷地跡は監獄署となり、大正四年迄は幼年監所在地となり、現時は唐津小學校運動場となってゐる、舊藩時代唯一の公立學舎たりしは前既に述べし如し。明治三年小笠原長国知藩事たる時、牙城にある藩邸を分割して一を政廳となし一を私邸となせしが、廃藩置縣に及びで志道館の學生をこゝに移し、政廳跡を小學校となし私邸跡を中學校となせしが、九年十月中學校を唐津准中學校と改称した。其の設立には坂本経懿・松浦顯龍・河村藤四郎等與って力あり。これ本郡中學校の濫触にしてまた小學校の萠芽の端となる。

 學制は五年始て公布せられしも、小學教育は以前の寺小屋教有と大差がない。十二年舊學制を改めて教育令を發布され、小學教育の大網を定められしより、各村の教育次第に普及進歩の跡を示すに至った。

 中學校は十一年三月本縣中學校規則により、唐津中學校と改称し、十一月縣立唐津中學校と改む。十七年の縣會にで廃校となりたれば、更に郡費と地方税の補助金を請ひて公立唐津中學校の名称を以て存續した。十八年十一月郡立中學校となり。廿年學制変革の結果地方税支辨尋常中學校(佐賀中學)の外は、中學校の名称を附することを得ざるに至りたれば、四月より高等唐津小學と称し、郡内小學高等科二ヶ年修業以上の生徒を収容し、廿一年唐津大成學校と改む。廿六年五月縣達により公立大成學校と改称す。廿八年四月縣立東松浦實科中學と改め。廿九年三月實科中學を廃し、四月佐賀縣尋常中學校唐津分校となり。卅二年四月獨立して佐賀縣第三中學校といひ。卅四年六月佐賀縣立唐津中學校と改称して今日に及ぶ。

 女學校は四十年三月八日唐津町の創立にかゝり、唐津町立實科高等女學校と称し、實科を加味せる中等女子教育を施し、廣く入學を許可して其の普及を企図せり。然るに民意は純然たる中等女子教育の必要を提唱し、四十一年四月より唐津町立唐津高等女學校と改称し、専ら婦女教育に遺憾なきを期せしが、大正九年四月より佐賀縣立唐津高等女學校となるに至った。

 従来唐津小學校に於て商業上の補習教育を行ひ居りしが、大正十年度より乙種商業學校の認可を得て、校舎を唐津公園下に設けて授業を開始す。

 教育の向上改善を図るの機関として、斯道の人々を會し各種の考案を附議し、衆意の向ふところの良案を採りて實地に行ひて教育の効果を擧ぐるの要がある。十八年六月東京久敬社に於て教育會設立の議發るや、直ちに規則を編成し、翌七月八月の両度公立唐津中學校竝に近松寺に於て、中學校教員其の他學務委員等教育に関係ある人々を會し本會設立のことを計り、其の結果本部教育會創立
のことを縣廳に申請することゝし、八月十八日規則を作製し、發超人十名大草政秀・大島小太郎・堤静男・山邊濱雄・峰澤治。寒河江哲太郎・横山辨太郎・澁谷門二郎・太田芳太郎連署して、郡衙を経て知事の認可を請ひしが、十月七日許可の指令来る、依て同月三十日夜浄泰寺に於て組織會を開催して、諸般の事務を評決し、且つ會長以下の役員の假選擧を行ひ、會頭に久布白繁雄を副會頭に大草政秀外に幹事六人を設く。十一月八日浄泰寺にて開會式を擧げしが會合するもの六十七人なり、是に於て本郡教育會愈々成立するに至り。二十年三月五日臨時教育総集會を行ひて、地勢によりて本郡を六区に分ち、本會の部属六支部會を設く。各部適應の問題を審議實行して着々効果を収めてゐる。


 二十九年七月四日唐津新報を發刊せしが、其の後西海新聞起りて相拮抗するの態にて、一小地方に両新聞の對峙するは、蝸牛角上の争たるを免れざる傾きあれば、大正三年十月両新聞社間に融合合一の契約成立して、唐津日々新聞と題し、體裁内容共に整ひて日々隆盛に赴きつゝあれば、前途の光明見るべきものあらん。



  七 殖産工業


   其一 唐津焼

 唐津村字町田の中里氏の唐津焼沿革文書は、吾人の参考に少からざる利益あれば之を其のまゝ記録せん。
                                   
 抑唐津焼陶器の源因たるや、神功皇后三韓御征伐御勝利にて、質人(シチビト)新羅高麓百済三韓王代として三子を携へ、本州東松浦郡草野郷(神功皇后舊跡玉島川近所鬼ケ城と唱ふ所在りて、皇后御所の地と云傳、又古史にも在り。後に鏡宮の社務職草野中務大輔藤原永平の先祖此處に城を築き、文禄役迄相續す、此邊草野郷と今以唱来)に御凱陣の上、同郡上ハ場(方今の舊城西の方を云ふ)と唱ふ地内佐志郷内に置給ひ、武内ノ大臣三子を新羅太郎冠者・高麗小次郎冠者・百済藤平(フヂヒラ)冠者と呼給ひて、新羅太良冠者を置き給ふ所を大良(ダイラ)村、高麗小次郎冠者を置給ふ所を小次郎冠者村、百済藤平冠者を置給ひし所を藤平(ヒヂヒラ)村と今以て唱来り(三子の名は世々同称すと古史に在り)。高麗小次郎冠者居所の地へ陶器竃建立し、陶器を製造して神功皇后へ献納す(小次郎冠者村地中より今以て掘出す陶器を佐志山焼と唱ふ)之れ皇国の陶器製造最初の地とす。故に伊萬里焼迄を唐津焼と云傳ふ。然るに往古東松浦郡秦(ハタ)郷、後に波多郷鬼子嶽城主に秦三河守なる者在り、八代にして断絶し、其跡嵯峨源氏にて波多氏を称し、数十代連綿と相續す。亦鏡宮の社務職草野郷鬼ケ城主草野氏数十代相續して、波多草野の両家は久家なりしを共に文禄三年豊公破没収。右泰氏前代に高麗小次郎冠者の裔孫を鬼子嶽城邊に被移轉、又波多氏中前代に小椎の地に被移、何れも焼物竃建立ありて陶器製造。此年間製造の陶器を古唐津と唱ふ(鬼子嶽小椎の地中より陶器今以て掘出す事在り)。
 豊臣秀吉公朝鮮御征伐の砌、前領波多草野の両氏を被没収、其地を以て寺澤志摩守を封ぜられ、波多氏別館の波多郷田中村島村城に住居に相成、慶長年中今の唐津城築立に相成轉移り後、城の西の方字坊主町へ陶器焼竃建立に相成、前件小椎より私先祖中里又七を坊主町へ被移候。文禄の役豊公名護屋御滞陣中御好に付、陶器を献上し、其の例を以て徳川幕府に同様右陶器を献上したる事とは成りき。

 寺澤氏正保四年被没収幕府領になりても、右陶器は幕府へ献上仕居候中。慶安二年大久保加賀守封地に成、二月城受取に成り。亦延寶六年松平和泉守封地に成り、七月十日入部、此時に當迄、又七二代中里太郎右衛門・三代甚右衛門相勤、元禄四年土井周防守封地に成、六月三日入部、此時代坊主町陶器竃を方今の唐人町へ被移、右三代甚右衛門及四代太郎右衛門相勤。寶暦十三年水野和泉守封地に成、五月十五日城受取済み、五代中里喜平次及六代太郎右衛門相勤。文政元年小笠原主殿頭封地に相成、六月二十三日城受取、九月十六日入部、七代中里荘平及八代の私迄代々の領主扶助米を被與、献上陶器製造仕。往古高麗小次郎冠者傳ふる所也、傳法を不失陶器古製の正統相續罷在候。偖又陶器は献上の外賣却する事は代々に堅く禁じ来候。

  右之通御座候也  以上
  明治十七年十月
    高麗小次郎冠者遠裔
      東松浦郡唐津村士族  中里敬宗


 工藝志料や、八代国治外二名の合著であって古今陶甕攷工藝志料を本として録せるもの、其の他地方小記録の一二に就きて、此等を参照摘録して見れば。

、唐津焼は孝徳天皇・齋明天皇頃(約千二百七八十年前)に創始するものと云って居る、是日本陶器製造の開祖と云ふのである。而して此の頃より建長年間(約六百七十年前)迄を(或は元享年間迄、約六百年前と云ふ説もある)一段とし。それより文明年間(約四百五十年前)迄を二段とし。其後慶長初年(約三百二十年前)迄を(或は天正年間迄約三百三四十年前と云ふ説もある)三段とし。通じて古唐津といった。其の一段のものは白土にて陶膚に薄釉(ハクイウ・ウスキウハクスリ)を施す、之を米量(ヨネハカリ)と称す、而して陶膚潤澤なし、古へ之を斗量(マス)としたと云ふ説あるは非なり、そは其の形状一ならざるを以て然らざるを知る、唯米を斟ひしを以て名とするのである。其の二段のものは、白土あり赤土あり、釉色は鉛色にして、臺輪(イトゾコ)の内皺紗(シウサ・チリメン)の皺(シハ)の如く緻(ケツ・シボリ)状に土質を露して釉を施さず、之を根抜(ネヌケ)といふ、三段のものは、奥高麗(オクコマ)と称し、高麗の器物に模造せしもので、陶膚稍々密にして釉色枇杷實の如く、或は又青黄のものもある。是も亦臺輪の内に皺紋あるを以て良品とす。此の外瀬戸唐津とて、應仁の頃(約四百五十年前)より天正年間(約三百三十年前)に製する所の者あり、尾張瀬戸の釉水を用ひし故にこの名あり、白土にして白色釉を濃に施せり、故に亀紋の劈痕が甚しい。又繪唐津といふ者あり、慶長年間以降のもので、其の質赤土青黄黒を兼ねたる釉を施してゐる、最も潤澤を有す、繪は草画である、茶碗盞盆等の雑器が多い。朝鮮唐津は、天正より寛永年間(約二百八十年前)に製する所のものにて、朝鮮の土及び釉を用ひ、土質赤黒にして青白を雑へたる釉を流布してゐる(俗になまこ薬といふ、)水壺盞盆の種類が多く、茶碗は稀である。堀出唐津と云ふは、寛永より享保年間(約二百年前)に製するもので、陶質堅く、青黒を帯びたる釉色であって、臺輪の土質を露すものと然らざるものあり一様でない、且つ臺輪の内に皺紋あるを良品とす、其の形多くは正圓でない。其の掘出と名づくるは、火候度に過ぎ或はくぼみ或は缺損するので、工人之を不用物として土中に埋めしを、後世堀出して賞翫せしより此の名がある。これより元来埋めざる完備の物も、この器と同種の物は皆堀出唐津と名づくるに至った。

 又左の如き記録がある、後柏原天皇の時(約四百年前、)伊勢の人五郎大輔祥瑞といふ者あり、明国に住きて磁器を作ることを學び、帰朝の後、技を肥前唐津の工人に傳へ、こゝに於て磁器の製作起れりと』。

工藝志料には、伊勢五郎太夫祥瑞は松坂の磁器職工なり、氏を山田(或は松本に作る)と曰ひ、則之(ノリユキ)と名つく。飯野郡黒部村に生る。幼より陶器を製せんことを欲し、後柏原帝の時明に航して之を學ぶ、江南に在て陶器を製す、時に日本に輸入する者あり、銘して呉祥瑞(ゴシヤウズヰ)或は五郎太甫と曰ふ、是より其名海内に播けり、永正十年六月(大正十一年より四百九年前)帰朝し、肥前今利に窯を開きて盛に之を製す、終に今利(伊萬里)に歿すと。

 按ずるに、中里氏の文書は貴重のものであって、同文書によりて、唐津焼窯の移動変遷の状態を知ることが出来。また八代氏等編著等によりて、唐津焼陶器の種別を明にすることが出来る。
そこで此の二者を對照せば唐津焼に就きて大體の治革を概知し得るかと思ふ。

 けれども中里氏文書中に「質人新羅高麗百済三韓王代として三子を携へ……武内大臣三子を新羅太郎冠者高麗小次郎冠者百済藤平冠者と呼給ひ…‥」とあるは信ずることが出来ぬ。元来冠者(クワンジヤ)とは、元服し冠したる少年の称、或は六位無官の人の称と云ふのである。然らば元服の起原は何時頃かといへば。聖徳太子傳歴に、太子が十九歳、崇峻天皇の朝(約一三三〇年前)に冠し給ひしと云ひ。国史には元明天皇の和銅七年(約一二一〇年前)聖武天皇皇太子として元服を加へ給ひしを始めとすと云ふのである。冠者をクワザ、クワンザ、クワジヤともいひて、源氏物語にくかんざの御座とか、くわざの君などの語を用ひ。平家物語に辻冠者ばらなどのことあるより察すれば、平安朝時代に入りて多く聞くことが出来る称呼である。それで神功皇后征韓時代頃に到底冠者などの文言称呼などあるべき筈がないと思はる。且つ又、皇后の三韓御征伐は新羅のみであって、時に皇紀八六〇年(一七二二年前)にして、百済の内附は皇紀九〇七年、高句麗の入朝は皇紀九三六年であれば、百済の内附は新羅征伐に後るること四七年、高句麗の入朝は七六年の後である。されば何れより考ふるも、三韓の三王子を質人として伴ひ来りたると云ふのは信じ難い。且つ又元服の一義中六位無官の人を云ふといへる點より見るも、四位とか五位とか云ふ位階は文武天皇の大寶令制定の時(約一二二〇年前)に始まって居る。
 是に於て考ふるに、八代氏等の云へる如く、唐津焼の起原は孝徳齋明朝の頃(約一二六〇年前)ではあるまいか。即ち其の頃には、遣唐使の往復やら、又齋明の朝には百済を援けて、新羅及び唐の聯合軍と韓半島で戦ってゐる時代で、彼我の交通も頻繁なる際であれば、彼の土の陶工を伴ひ来って、大良小次郎・藤平などに窯を開きしものではあるまいか。元服加冠の風習も大凡此の時代に起りしやうであって、次で冠者なる称呼も始まりしものとすれば、此の方面より見ても、冠者を称する名ある工人が神功皇后時代にありしとも覚えず。

 猶大良・小次郎・藤平などの地名は、現今東松浦郡切木(キリゴ)村にありて、偶々古竃跡より陶器の破片などを出すことがある。
 中里氏文書中に、「故に伊萬里焼迄を唐津焼と云傳ふ」とあり。工藝志料中に「肥前今利に窯を開き盛に之を製す、終に今利に歿す」と。依りて考ふるに、五郎太夫祥瑞は、今の唐津地方に開窯せしものでなく、伊萬里にて窯業に従事せしものと見るべきものであらう。

 かやうに唐津焼は、我国最古の窯業史を有し、脉々として後世に傳はりたるものなるが、殊に藩政時代に入りては、各代共に数寄奨励のため其の業振ひ、光格天皇の御宇(約百二三十年前)小笠原氏陶工に命じて、肥後八代焼に似たる白紋(地を彫り凹め其の上に白釉を施して文をなせり)にて雲鶴等の模様を現はさしめ、幕府に献ずることなどもあって、一種進歩の技工をも案出するに至った。維新後一時この業衰頽せしも、明治の末頃より大正に入りて其の業大に振起し、唐津名産の一として四方に販路を求め、世人其の雅致を賞翫するもの少なからざるに至った。




  其二 小川島の捕鯨

 小川島は呼子村に属して、呼子の北方三里の海中にある孤島である、大約百五十年前より捕鯨組の根據地なりしが、明治三十四五年の頃より汽船鐵砲を備へて漁獲する西洋風の漁法をも用ふるに至りて、往時の雅趣ある漁獲法は次第に頽れて、今は全く機械漁法となり、其の根據地も呼子の對岸加部島に移すに至り、萬般の施設も極めて簡単となった。こゝに往時の捕鯨の有様を載録せんに。

  ○諸般の施設
一、納屋は島の東端なる嶽の山海邊にありて、二十二間に十二間の藁葺家にて、入口は石を畳み、一段下りて一面に簀子竹を敷き詰めらる、この内に鯨肉を納むるものである。上納屋とて其の東側に瓦葺の家あるは事務所合宿所である。

一、諸器具には、轆轤臺、大庖丁二十枚中庖丁若干、釣棒五十本、段切庖丁若干、臓籠若干、船二十艘、銛(モリ)五十本。

一、漁夫の幹部を波座士(ハザシ)と云ひて三十二名あり、内六名は釆振(ザイフリ)の役をなして漁場に於ける進退懸引を號令するものである、数多の水手之に属す。


  ○網代(アジロ・漁場)六ヶ所あり。

一、嶽の山下なる水ノ浦海岸より、約八町の沖合を坐頭鯨の漁場とす。比の区の海底は砂地にして水深廿三四尋を数ふ。

二、同水ノ浦海岸より約二十町の海面は長須鯨の漁区にして、暗礁三あり潮流頗る急激であって、海底は一面に小石原となり、水深廿五六尋より三十二三尋に及ぶところがある。

三、小川島中には外に、永ノ尾・雁ノ尾の両漁区もある。

四、加唐島に淀の網代といふところがある、座頭鯨に最も良き漁区であって、島中第一の網代である。
      
五、同島の小泊口(コトマリクチ)の網代は、海岸より大約五町の沖合にして、水深廿八九尋乃至三十二三尋を有し、海底は一面に小石である。

六、同島の黒水沖の漁場は、水深十八九尋乃至二十二三尋にして、海底處々に暗礁があって、長須鯨の網代として最も良きところである。


   ○漁期

一、捕鯨の季節は、従前は小寒十日前より翌春土用明け十日後に終ることにせしが、後には小寒三十日又は二十五六日前より開始し、日数約百三十五日を漁季とし、此の小寒中を長といひて
長須(ナガス)子持鯨の最も多き季節である。

一、鯨の水路は、小川島山見より北東に當り烏帽子島と地ノ島との中間、また北々東の於呂ノ島見渡しより、游ぎ来るを常とし、春の彼岸後は上り鯨とて、西々南の北松浦郡平戸島方面より
                                
馬渡(マダラ)島南方にかけて游ぎ来るものにて、其の游行には序ありて鯢鯨(メグヂラ)を先とし、それより白長鬚・長鬚・座頭とし、榴花吹き盛る頃には蝉鯨の好季節とし、白長鬚は又四月頃再び来ることあり、最終にはまた鯢鯨・鰹長鬚来るものである。



  〇漁法
                               
一、一切の漁具は各船に積載せられ、毎朝未明より、勢子・持双(モツソウ)船等を魚見場に配置す。

一、流シ船と称して、東・西々南・西の三方の海上に船を漕ぎ出し、鯨の来游を待ち、鯨影を認むれば直ちに旗を擧げて魚見場に之を報ず。

一、魚見場はこの合図を見れば直ちに莚旗を揚げて船子に之を知らしむ(未明の時は炬火を用ゆ)、此の時勢子船は油断なく漕出し、鯨の振合に應じて除ろに網代の方面に追込み来る。

一、鯨網代に入れば、采振の波座士は潮流の緩急海水の深浅鯨の方向及び速度など、臨機應変機敏の策を立てゝ網張の指揮を發す。鯨網に近くに従ひて舷を叩いて烈しき音を立て、鬨の聲を擧げて之を威嚇して網中に遂ひ込む。この時直ちに口張網をなして後方を絶ち切り、又一入烈しく舷側を叩きて益々鯨を脅威すれば、彼は愈々狂奔す、此の時乳合とて幾枚も有る網を細き緒紐にて結び合せたるものあれば、鯨これに懸りて緒紐は切れて網は一枚となり、鯨の頭より半身にかけて網を蒙り進退の自由次第に衰へながら、一生懸命に遁け出さんとする時に、勢子船・持双船は全速力を以て之を追及して、各々先を争ふて銛を打込む、この時一人の波座士は隙かさず手形庖丁を携へ海中に躍り入り、鯨の鼻を貰きて之に網を通ふし、其の一端を船に結び付く。鯨身に銛を突き入るゝ数は、蝉鯨には凡五百、座頭鯨には二百、長鬚鯨には百五十振以上である、かくて體内に潮水浸入して勢力滅するに至り、持双船に縛り付け納屋場に曳き来るのである。


  ○解體の次第

一、脊の身を左右に割る脇の身も同じ。

一、大骨(脊の中央より丸切して腰の續目迄)を抜く。

一、山(頭)の皮を剥く。

一、頭(上頤より上側)を反す。

一、丸切(腰の續目)を切放つ。

一、肋を反し臓腑を出す。

一、肋を割り左右に開く。

一、敷の皮(股の畝簀)を剥く。

一、頭を割る。

一、丸切より下の皮身を剥く。

一、中切庖丁にて百五十斤=二百斤位に切りたる後納屋の魚棚に荷ひ込む。


  ○肉肉の分類

雑肉
ぼんのうの身  靨(エクボ)の身  物の身の身  蓮花の身  うなぎ
海老鐵     圓羽        小髭     油肉    潮吹
とんぴ  かぶら骨  頭(カバ)チはぎ  あいはぎ  石膓
はなくそ   耳紛   黒皮   でんどうまはし

あばら
あばらの身    同はゝゐの身    かめの身   れんげの身  つめさき小骨
油肉       天井肉       あばら剥   むな骨の身  むねの身


あふぎの身    同ふたへみ   同はらゐ   同かなめ   同ぶうつう
扇骨       ひうちの身   あふぎはた  同油肉

立羽
立羽諸かわ片皮   同ゑりまきの身   同がうの身   大剥   小そぎ
つゝろはぎ     つゝろ骨

觜(ハシ)
はしの身   はしの皮   觜のまくら皮   でんどうまはし   はしはぎ
はしあい

大骨
大骨の身   つめさきの身   同骨   だきの身   大骨のはぎ
大骨のはさみ肉   同うでぬき   だきのはさみの肉

かいのもと
かいの身   かいのふち   とこねかまはり   たけり   かゞみの肉
小便袋    きんつう    かいあいの身    かいあいの赤身   わらじ

丸切
丸切の皮   同しのぎ   同身筋   丸切のはぎ
くらはぎ   筋の皮  にべいちご   まはし

臓腑
のど輪   ちいこ   ひめわた   丁子   赤わた
大膓   いかわた   ふきわた   丸わた  まるの皮
百尋   百尋のかさ  かみわた   豆わた  臓の肉
ちわた

大納屋
山の皮   脊の皮   錢のみ  さよ わきの皮
小骨   しのきの皮   たな   たなあい  かた皮
しのぎ   うね     すのこ   けず   尾羽毛
黒皮    切だし    切レ赤身   おとし

骨の数
せみ鯨の骨  百六十個      坐頭鯨の骨  百六十二個
長鬚鮫の骨  百六十九個      児鯨の骨  百六十四個


  ○骨納屋
 骨納屋は事務所の東隣にあり、横八間縦十二間の藁葺屋根造であって骨切場・唐臼場・釜場の三区に分たれ、先づ鯨骨を荒割して三十余人の工女に送れば、工女は之を細く削り、六箇の大釜にて油を煎し出す、煎じ滓(カス)たる骨は四箇の唐臼にて粉末とし肥料を製す。こゝに面白き骨削の歌があって、太鼓の調子に合せて、一様に庖丁を使ひながら工女が謡ふ歌に。

 あすはよいなぎ沖まぢや遺らぬ磯の藻際で子持ち取る。
 親父舟かや萬崎沖よ菜(ザイ)をふりやげて水門(ミト)まねく。
 水門は三重側其のわきや二重蝉の手持はのがしやせぬ。
 納屋のろくろに鋼くりかけて蝉を巻くのにや日間もない。



 其三 金融殖産工業

 銀行

 唐津銀行は明治十八年の創業であって三百五拾萬圓の資金を擁し、西海商業銀行は同三十一年の創立であって百五拾萬圓の株金を有し。相互銀行は大正二年開業して百萬圓の資金を動かしてゐる、其他唐津町には各種の銀行、各村にも株式または合資の大小金融機関がある。

 礦業
 唐津炭田の沿革を述ぶるには、唐津・相知・厳木各地の斯業の関係諸氏の諸説と高野江基太郎氏の日本炭礦誌中の一部とを探りて綜合記録するものであるが、著者往々要を脱し核心に触れざるものあり、見る人其心を以てせられたし。
 抑も唐津炭田の發見年代は明かならざれど、口碑の存するものに徴すれば、今を去ること大約二百年前の享保年間(徳川八代将軍の頃)、北波多村大字岸山小字「ドウメキ」(今芳谷炭坑礦区内)にて、耕鋤の農夫が偶然露頭炭の發見をなせしに始まると云ふのである。
 其の採堀は、地理と運搬上の便宜関係にや、最初北波多村岸山、碑田方面に於て開堀せられ、其の後相知村佐里・相知・平山に及び、漸次厳木村岩屋方面に發展してゐるやうである。今其の開堀の沿革を考ふれば、創業時代・海軍省豫備炭田時代・機械利用時代の三期に分ちて發展の跡を尋ぬるを便宜とするやうである。
                                   
 創業時代は採堀法幼稚にして、明治維新前より各所に小規模なる所謂狸堀(タヌキホリ)により堀出すものであったが、常時石炭の使途は、僅かに鹽田地の製鹽釜に使用せし外瓦焼及び自家用ガラ焚きなどに用ひし位に過ぎなかった。然るに幕末維新の頃に至つては、各藩にて洋式に學び軍艦を備ふるものがあって石炭の需用を要することゝなった。そこで我唐津藩では御手山を開坑した、御手山なるものは相知村押川字一ノ谷及び本谷にて、向定吉を棟梁とし藩営として之が開坑をなし、資金は地方(チカタ)役所より同坑の問屋吉井定冶・松本源助の手を経て供給せしものなるが、明治初年大島興義統轄の下に満島に小笠原家借区炭山事務所創設され、多数の艀船を造り、同坑炭の山下し場たる相知村岩バエより唐津港に運炭して、賣買上荷賃の利得を計れり。

 舊藩時代に於ては、御領山即ち幕府領有の炭山と、私領山即ち藩有炭田とがあつて、、御領炭山区域は平山上・平山下・鷹取・本山・岩屋・浪瀬の一圓にして、日田(豊後)代官役所に年額金貳拾五錢の冥加金を納むれば何人も随意に開坑することが出来た。又私領炭田は相知・佐里・牟田部・岸山・稗田部内であって、小笠原家の管轄に属し、各自許可を得て開堀したものである。

 其の他薩摩・久留米・熊本各藩の経営せし炭田の状況は下記の通りである。

 薩摩藩よりは、慶應年間藩士池上次郎太を派して、岩屋の人藤田源助・藤田平内・藤田令蔵等の斡旋の下に、最初本山舟木谷に坑区を開き、其の後鹿子岩を経て岩屋方面各所に着手せしも、廃藩と共に明治六年よりは池上次郎太箇人の営業に移り、明治十五年の頃岩屋田原に開坑せしも、翌十六年には廃坑に帰したが、其の出炭は総て鷹取土場より川下せしものである。

 久留米は、同藩御用商人松村文平に命じ、慶應年間平山下村字「ローサイ」に開坑して納炭せしめたるものであるが、廃藩と共に同人箇人の経営となる。出炭は佐里川岩小屋土場より船積みとし川下せしものなり。

 肥後山とは、明治三年肥後熊本藩より藩士横田卯内外二名を派遣し、宗田信左衛門を棟梁とし平山下村武蔵谷に開坑せしが、一時は出炭額も多量にして相知村岩バヱ土場より川下しとした。常時同藩船萬里丸・凌雲丸の二隻が戴炭運輸のため入港せし際は、黒船来るとて唐津人士をして驚異の感を以て迎へしめたが、明治十一年頃業を止め廃坑となる。

 海軍省豫備炭田時代。明治六年九月日本坑法發布實施と共に、岩屋方面薩藩関係坑区は最初に海軍豫備炭田に編入せられ、續て平山方面に及び、明治十五六年頃迄に岸山・碑田方面の優良坑区は逐次豫備炭田に編入せらるゝに至り、海軍省は是等の豫傭炭田坑区には夫れ夫れ下稼人を置きて採炭せしめて、其の一部を海軍用炭として買ひ上げ、残余の大部分は剰余炭として、各下稼人に八分金を納付せしめ全部を拂ひ下げしものである。同省は此等の事務を處理するため、明治七八年頃より満島に海軍属吏を派遣し、同十一年に至りて唐津公園下(今の商業高校敷地)に唐津海軍石炭用所を設立し、相知村には同出張所を置き、叉一旦有事の日に際して、艦船に搭載の便宜上當時の良港呼子村字殿ノ浦に貯炭場を設置した。かく海軍が唐津炭に着目せしは、炭質の良好なると、炭層の関係上採炭選炭などの労費が、他の炭田より経済的なるによるといふ。

 同八年時の区長坂本経懿官界を去りて身を實業界に投じ、前記の剰余炭を一手に収めて、海軍剰余炭賣捌所を設遺せしが、同二十二年高取伊好・松尾寛三等と共に當局に要請するところありし結果、茲に豫備炭田は開放せられて、當時の下稼人五十一名に各自坑区の交付行はるゝに至った。依って経懿は剰余炭賣捌所を會社組織に改め、唐津用炭會社と改称し、そして豫備炭田解放後の石炭全部の販賣權を獲得するに至った。現今の唐津石炭合資會社の前身はそれであって、唐津海軍石炭用所に豫備炭田開放と同時に廃滅に帰した。

 機械利用時代。茲に機械利用時代といへるは機械の利用盛に至れる頃を云へるものでありて、勿論其の以前より多少機械の利用をなせしことは云ふまでもなきことである。さて始めて機械を採堀に利用せしは、明治七年長崎の豪商永見傳三郎唐津舊藩士帆足徹之助の協同経営により、岸山村寺ノ谷に汽鑵を据え付けて井坑堀鑿により採炭せしものを以て、唐津炭田に於ける機械立ての嚆矢となす。其の後幾何もなく中止廃坑に帰せしが、長崎の人青木休七郎は同十三年之れを継承して再興せしも、亦一二年にして失敗に終った。同十九年に至りて、竹内綱・高取伊好・外村宗治郎・魚澄総左衛門等共同経営の下に芳ノ谷に開坑せし時より、組織的機械立採堀法起りて、其の後他坑にても之に做ひて機械据え付け採炭に従事するに至った。今は各炭田の發展沿革を簡叙するであらう。

 八代町炭坑。明治二十一年福田嘉蔵・小笠原長世・三宅吉*(益蜀)・矢田進・原徳實・山田元貞の六人出資の下に、小林理忠太の坑区買収と共に、海軍豫備炭田の一部拂下を受け、時の小笠原家々扶河内明倫の斡旋により、東京米商會所頭取中村道太等の銀主を得て、翌二十二年九月汽罐を据え付け開坑に従事せしも経営意の如くならず、更に銀主を東京原亮三郎に仰ぎて業を持續せしも、これ亦失敗に終り、二十五年終に廃坑に帰す。翌二十六年田代政平の懇請により同人を下稼人として再び事業を開始せしに、時運に際會して出炭日に増加するの隆昌を見るに至りしが、同三十九年六月坑区を擧げて芳谷炭坑會社の買収するところとなった。

 牟田部炭坑は、明治二十二年九月吉原政道。小林秀知・杉本正徳等の共同事業として経営せられ、小林理忠太の抗区を基礎として附近坑区を併せて二十四萬坪の大借区として起業せるものに始まったものである。二十三年三月第一堅坑堀鑿深二百六十尺にして四尺炭層に着炭した。二十四年一月第二堅坑を開始せしが資金意の如くならざるため、二十五年一月長谷川芳之助の出資と唐津物産會社後援の下に事業を継續しつゝありしが、二十六年に至りて全然長谷川芳之助の手に移り、三十二年十月東京の人木村騰の買収する所となった。三十七年二月英国人ゼー・エム・ダウを社長とし桂二郎を取締役とする牟田部炭坑株式會社の経営に帰し、四十年三菱會社の有に移轉し、爾来同社の経営する所となりしが、四十四年堅坑の崩壊すると共に終に廃坑となる。

 芳谷炭坑。海軍省豫備炭田時代は大小の炭田錯綜してゐたが、前記の如く明治十九年竹内以下の共同礦区となり、附近の小礦区を買収併合して七萬二千余坪の礦区に拡張し、約半里程なる鬼塚村大字山本小字鹿ノ口なる松浦川沿岸に大八車にて運炭し、七千斤積みの上荷船にて唐津東港に出炭した。同二十三年には中野に第二坑を開き、同年松浦川畔に至る一哩三十鎖の間に軽便鐵道を敷設し、小機関車を運轉して運炭上の改革を計り、一日の採炭量十四末萬斤に及び、二十五年の頃には一日出炭二十五萬斤を算するに至った。二十七年三月株式會社組織に改め竹内綱専務取締役となる。

 二十八年には約七哩を隔つる唐津港に電話線の創設をなす。三十一年蓮炭用軽便鐵道を複線とし、機関車運搬の法を改めてヱンドレスロープとなす。三十二年唐津鐵道敷設後は全く之に依り、又大島に貯炭場を設置した。三十九年六月矢代町礦区全部の買収を決行す。然るに曩に三菱會社は相知炭坑を入手せしが、次第に其の冀足を伸べて、四十四年四月本礦区の営業權をも継業するに至った。

 相知炭坑。同二十七年三月芳谷炭坑の組織変更となるや、高取伊好は同炭坑を去りて、現相知炭坑地方なる数多の小礦区を買収して三十萬坪の大礦区となし、二十八年十一月鐵錐試錐の結果有望なるを確知し、二十九年四月一日始めて堅坑開鑿に着手し、八ケ月にして三尺層に着炭し、爾来経営四年の後、三十三年十一月三菱會社に譲渡し、漸次昌運に赴き三百萬坪の大礦区を包擁するに至った。

 岸岳炭坑。生石のまゝにて村民の燃料に供せしは二百年前であるやうだ。舊藩政時代は、採堀炭に對しては地役として幾分の納金を取り立てたるものらし。廃藩後當坑附近一帯は海軍省豫備炭田に編入せられ、後年之が解放により舊藩士族授産のため配當せらるゝに至った。最初鑛業幼稚にして単に上層炭のみを探堀せしため、未だ市場の聲価上らざりしが、二十二年に至りて始めて下層炭發堀せられて産額増加し品質良好となるに至り、頓に唐津炭の名聲を博するに至った。三十四年古賀製次郎・下村銓之助・野依範治・古賀新次郎の共同企業に移ったが、世人其の鑛石の存在を危みたるも、断然所信を遂行して帆足鐵之助・原徳實・宮島傳兵衛や所有鑛区を買収し、大字稗田に開坑せしが本坑経営の第一着手であって、爾来鑛区を買収して五十余萬坪の地区を有し、三尺五尺の両炭層を採堀し、四十四年には第二坑の開鑿をなすに至った。運炭は坑所より約五町を距る波多川の積載場より、上荷船によりて唐津東港に輸送するものと、中途唐津線鬼塚驛に陸揚げして汽車便にて西港に送るものとの二法を取った。其後大正元年に至り三菱會社の買収する所となり、同十年迄は同坑口にて出炭せしが、翌十一年よりは芳谷坑の坑口より排炭することゝなった。

 岩屋炭坑。もと向秀助の坑区にして島津利平次坑業の未廃坑に帰しゐたるを、明治二十六年藤田郁次郎は大石の採堀權を譲受け事業に着手せしが、同三十年神戸の石井源兵衛・梶原伊之助と共同出資の上規模を拡張して事業を継續せしも経営意の如くならず、三十六年一月廃坑の止むなきに至った。當時の石炭は唐津石炭合資會社の取扱に属してゐた。四十一年三月に至りで貝島太助の所有に移りたるが、坑運次第に順調にして今日あるを見るに至る。採堀炭は三井物産會社の一手販賣に属してゐたが、大正九年冬より貝島家にては其の販賣のことも自営となすに至った。

 厳木炭坑。本坑はもと大谷炭坑と称す、これ厳木村大字牧瀬小字大谷にあるが故である。最初島津利平次により開坑せられ、明治二十七年藤田郁次郎の経営するところなりしが、其後波多昌太郎を経て、四十一年箱田菊松の所有に轉じたるを、四十四年澤山熊次郎之を買収し、漸次事業と坑区を擴張せしが、大正六年十一月大阪の豪商住友吉左衛門に賣却せられて、今日あるを見る。

 其の他小炭山は郡内所々に散點してゐる。

 唐津炭として他所に送り出されたるは、明治三年宮島傳兵衛が肥後山の依頼を受けて大阪に輪送せしが、同地移出の嚆矢にして、二十二年六月大久保福太郎が英国船グリンガイル號に積み込めるは、外国輸出の緒口を開きたるものである。


  唐津港排出炭数量概見
 明治二十六年       一五七,一六九噸
 同二十八年(日清戦争中) 二三三,一七二

 同三十八年(日露戦争中)  四八八,〇六四噸
 大正九年         一,四五二,九七六

  郡内主要炭坑最近産額唐津港着炭
  炭坑部       大正九年       大正十年
  芳谷炭坑      四九七、五七六噸   三六二、七九五噸
  相知炭坑      三九九、七〇三    三五三、一一五
  岩屋炭坑      二〇六、四二二    二〇八、三七〇
  石炭會社所属炭坑   七六、一三三     五五、九一九
  厳木炭坑       三五、一七七     三三、一七八
  平山炭坑       一〇、四二二      四、六二八

 唐津港にて取り扱ふ石炭は、右の外杵島・小城両郡なる杵島・佐賀・新星敷・多久・古賀山・*(竹助)原
等の各炭田産出炭とも含みて、前記唐津港排出炭数量中には、此等の出炭額も合算せられてゐる。



 工業

 株式會社唐津鐵工所は、明治四十二年四月の創立にかヽり、最初は竹内鑛業株式會社に属せしが、大正五年四月獨立して株式組織とし、高級鐵工用機械・工具及び附属電動機を製作して、精巧と堅牢を標傍して信用日に厚く、陸海軍工廠・造船所。兵器製作所其他全図各方面に販路を有して、我国有数の工場として發達しつゝある。

 株式會社唐津製鋼所は大正六年十月創立して、最初は唐津電気製鋼株式會社と称せしが、同十年六月唐津製鋼所と改称し、鋳鋼・鋳鐵。錬鋼・鋼塊等の作業に従事し、創立日猶浅きも著々経営の成績を擧げてゐる。其他株式會社唐津製作場は、炭山向きの機械製作に従事して居る。其の他郡内各地に、或は煉瓦工場、或は製紙工場等ありて唐津半紙の名高く。唐津製鋼所の製品も名あるに至った、唐津は水陸交通の便と石炭の供給の便利あれば、将来有望の工業地たるべき要素を供へて居る。

 其他

 農業は、郡農會及び各村農會の活動とによりて、耕作法施肥法選種法など頗る改善せられ、また各地に耕地整理を行ひて、田面を擴大し灌漑耕作の便を図りて、日進月歩の態を示し、且つまた範を欧米に取りて造林業なども見るべきものあるに至った。

 水産業も亦長足の發達をなし、水産組合漁業組合等を設けて、漁撈法水産製造の道など工夫して、漁額を増大し、殊にまたトロール船漁法なども起るに至った。

 博覧會、唐津納涼博覧會は大正十一年七月二十一日より同八月二十日までを會期とし、子爵小笠原長生を総裁に戴き、杉山正則を會長に推し、高取伊好を協賛會長となし、工學博士宇佐美柱一郎を審査総長に工學博士栗原鑑司を審査長として、唐津小學校舎を利用して開設せられたのである。従来各町村又は郡内聯合にて、學藝品農産水産物の展覧會品評會などは開催せられ、時に或は縣内水産品評會等行はれし事はありしも、博覧會として廣く全国の生産品を蒐集して産業の發展を企図せしことは、之を以て嚆矢となす。(郡内生産を主とするも)しかも一町にして此の事業を決行せしは、町長杉山正則の英断と、新時代の唐津人士の意気の壮図によるものである。陳列品は、工藝館(四館) 農産物及び食糧品館、染織物及加工産物館、特設館(教育學藝品)美術館に分ち、余興場として演舞館の設をなす。抑々一町にして此の擧あるは其の負担軽きにあらざれど、其の効果に至りては、産業取り引き上の効益ありしは謂ふまでもなけれど、白砂清波の唐津、風光繪の如き唐津、海港として優良の唐津、財界有為の唐津とを、絡介したる利益亦少からざりしは明なる事實である。



附録

一、附録に収むるところの神社佛閣の縁起は、往々現時の記録を記載すると雖も、史料蒐集のこと困難なりしため、松浦記集成所載のものを主として載録せり。

一、縁起載録の目的は歴史上の参考を主眼とす、故に舊記録に価値少からざる點あるを覚ゆ。

一、神社佛闇の縁起は、総て斧鉞批判を加へず、これ本来の性質が神秘的要素を基本とすればなり、讀む人心せられよ。

 附録 神社佛閣縁起


 一 唐津神社 (唐津町城内)

 社格 郷社。

 祭神 底筒之男命、中筒元男命、上筒之男命。

 創立 天平勝寶七年九月。

 由緒 唐津神社は往古神功皇后の奉崇にして、其神霊は底筒之男命・中筒之男命・上筒之男命の三神を祭祀す。其の由緒を原ぬるに、始め皇后神教を奉じ新羅を征するや、西海茫々として一望際無なく、身師向ふ所を知るに由無し、時に皇后三神に祈誓して曰、神若し吾をして新羅を征せしめんと欲せば、願くば一條の舟路を示めせ、吾頼て以て師と進めんと、我朝固より神国なり、神霊豈顧みざらんや、奇なる哉妙なるかな海上忽光輝ありて以て后軍を導く者の如し、皇后頼て舟路を得遂に能く三韓を平治す。皇后神徳の著しきを感じ、凱戦の後鏡を捧げて松浦の海濱に三神を祭る。然るに其の後数百の星霜を経て漸く衰頽を極め、社殿自ら消滅に至らんとするの時、恰も孝謙天皇の御字地頭神田宗次と云ふ者あり、一夕神夢を得て海濱に至る、忽ち一筐の波に浮びて来るあり、之を採りて開けば則ち一寶鏡なり、且愕き且敬ひ、其霊異を怪み、之を時の帝に秦聞す、朝廷神徳を感じ、特に詔命を下して號を唐津大明神と賜ふ、實に天平勝寶七年九月二十九日なり。事来崇敬、文治二年神田廣に至り、益々尊崇して社殿を再建し、且つ祖先宗次の功労を思ふて其霊を合祀すと。

慶長年中寺澤氏唐津城建築成りて、後十五年改めて當社を再興し、同氏祈願所と定められ、其後大久保・土井・水野・小笠原の各氏相次で祈願所と崇敬せり、明治六年郷社に列せられ唐津神社と改称せり。

 松浦記集成に録するものを見れば。

社號 唐津大明神。

祭神
一宮  磐士命  赤土命  底土命  大直日神  大綾日神  海原神
二宮  八十任日神  神直日神  大直日神  底津少童神  底筒男神
     中津少童神 中筒男神 表津少童神 表筒男神
相殿
水ノ神罔象女ノ神(ミヅノカミミヅハメノカミ)

  寺澤侯御築城之時、火災守護として御勸請有之此為相殿

 當社は神功皇后三韓征伐之時、船路静かならざるを天に祈り給ひて、程なく洋濤静に治り、三韓平定御帰朝の後此處に勸請し給ふと云。

宮司   勸松院  戸川美濃守藤原惟成

社家   安藤陸奥守源政郷   内山一太夫藤原重固


  同大明神別録縁起

 當社は神功皇后三韓征伐の時、西海蒼々として船路静かならざりしに、皇后天に向はせ祈念し給へば、我朝は神国の故にや、海上忽然として浪穏になりければ、船路やすらけく三韓平定の功を奏し給ひ、帰朝の後此地に勸請なさしめ給ふ神社とかや。其後帝都の三位蔵人豊胤信するところの観世音、底江五郎宗次に抱かれ西海に赴き給ふと夢みければ、豊胤不審にぞ思はれける。さてまた底江五郎宗次は在所唐津に於て、天平勝寶七年九月二十六日夜夢中に白衣の老僧来り枕上に現はれ、三ケ日を待て北方の海邊に出て見るべし、必ず不思議あるべしと宣ふと見て、夢は覚にける。また翌夜も同じことなるにより、奇異の思ひをなし其日を待ち得て、供の用意をなさしめ、海邊に出で遙に沖を眺められしに、奇なるかな一ツの筐物照り輝きて波濤に浮めり、間もなく渚に漂着しければ、潮をむすぴて嗽ぎ、、直に其の寶筐を携て帰宅す。宗次倩々思ひけるは、我此處を領せしこと遠きにあらず、然るに今かゝる夢想を承ること、神明の告に疑ひなし、仍て清淨の地を撰び寶筐を奉納して、武運長久をも願ふべしと、其の用意をなしけるに、譜代相傳の家来を始め領内の民百姓等まで、尊崇し奉りて、則ち先の神所石の寶殿のありける所に納め奉りぬ、時に天平勝寶七年九月二十九日なり。其の後五郎宗次帝都に到り、蔵人豊胤の館に行き、不思議なる夢物語りありけるに、三位豊胤も過ぎにし頃に観世音の現夢の物語りあり、符節を合せたる如き霊夢なれば、終に天聴に達せられしに、時の帝孝謙天皇詔命を下し、唐津大明神と神號を給ひぬ。神徳廣大にして舊例の祭祀惰りなく、諸事の式禮等また同じ、其の後遙かに時を経て、松浦黨の内、始祖源太夫判官より八代に當りて、鴨池源三郎の男神田五郎廣と曰ふ人あり、往古の五郎宗次の跡を尋ねて、其の名を請ひ継ぎ尊崇して、後鳥羽院の御字文治二甲辰ノ年、三位豊胤五郎宗次の二霊神を、唐津大明神の相殿に勸請し奉りね、この二神則ち唐津大明神八座の中にておはします、今唐津城中にあり。

 又別記に曰く、唐津大明神は孝徳天皇の御字、當国の住人神田五郎宗次上京して、中将と曰ふ人宗次に懇意となり、唐津の勝地なること委敷語れば、あはれ願はしきところなり、一生の中必ず行きて住居せんと深く契りけれども、公事如何とも為しかたく、末期に及んで我誓って唐津に行かんと、死後棺に納めて其の上に官位姓名年號月日を記し海に入れよと、終焉の日遺言の如く難波の海に浮べたるに、難なく天平勝寶七歳九月二十九日唐津の海濱に流れ者きけり、宗次夢想の生を得て、右棺の入りたる箱を海士人の手に得たり、宗次尊崇し其の趣を具に都に奏上しければ、帝詔を下し唐津大明神の號を賜ふ。以来元和元年に至て九百余年を経たり、九月二十九日の祭禮怠ることなしと。

 右の外にも縁起の所録存するも、大同小異なれば之を略す。

奉 寄進田 之事。
唐津大明神宮之御所在、肥前国上松浦郡之西郷、庄崎之川向八丈田之下、田地三丈之事、四至堺書(カ)の作也。
右件の田地者、親實知行無 相違處也、然尊天長地久當村安穏家門長久子孫繁昌息災延命、為御油燈 奉 寄進 處也、仍寄進状如件。

 文安六年己已正月十日      源親判
    (紀元二一〇九)
 同社鐘銘に曰く。
 肥之前州松浦郡當社大明神者、神田五郎宗次以夢想、往来于海邊、一日有一箇寶筐浮海上、光明照輝遍満十方、宗次半驚愕之、半尊崇之、〇〇孝謙天皇即下詔命號唐津大明神、于時天平勝寶七歳九月二十九日也、故老所傳、一宮観世音化現、二宮茲氏尊降下也、爾来歴八百五十一星霜、霊験不減昔日異哉、今也寺澤志摩大守廣忠朝臣、命工鋳洪鐘、祭神〇〇〇〇大守為尊神徳周華鯨新鋳、祝千秋、鐘聲亦興名聲大遠近傾、願九々列。
  慶長十一年龍集乙已二月 日
                   前南禪承兌誌焉
                   當宮司覚任房



 二 諏訪神社 濱崎村
          
祭神 健御名方命(タケミナカタミコト)

 建暦三年甲子十月二十七日勸請、其後大永七年迄七百四十余年之間諸記紛失、大永八年戊子六月二日地頭高階朝臣永勝造営より今に至て棟書等連續す。

 本社 東面して拜殿籠殿あり。
 末社七宇
                
  大神宮 祗園宮、八幡宮、猿田彦大神、稲荷宮、鷹社、誓来セウライ社。
 社家一人 建武三年より相續、寛文六年以来吉田家配下、當代従五位下隈本土佐守藤原朝臣次孝。

  諏訪宮古傳記
 縁起曰、肥前国上松浦郡草野庄濱崎の諏訪大明神者、延暦年中奉勸請所也、舊事本紀曰、天孫降臨之時大己貴神(オホナムチノカミ)第二子健御名方命、欲拒天孫、於是経津主神・遣岐神(武甕槌神なるべし)逐之、健御名方命逃到信濃国諏訪郡迫甚、而請曰、願得此郡以為父母………、而作我居則吾豈奉背天孫哉、因茲経津主神、以諏訪一都附于健御名方、是則諏訪明神也。神皇正統記、大物主神子健御名方刀美神者、事代主之弟也、今諏訪明神是也、一云神功皇后征三韓時、天照大神託、以住吉明神・諏訪明神令為輔佐、延暦三年甲子當所近隣於玉島里、建聖母大菩薩之社、是則神功皇后奉 崇所也、同時勸請於平原郷住吉明神於當郷諏訪明神是往古皇后三韓征伐時、二紳為輔佐故也(以上縁起)。
 昔者宮殿全備之時、地境営作整斉宏麗、應仁乱後四海騒擾此地為戎馬之衢、殿字廃頽、宮地荒蕪、況於簡冊器用乎、慶元之後寰宇一新民庶繁滋、然後雖加修造、終不復舊観矣。十月廿七日為祭日、神輿幸于玉島河之下流海濱、邑之北境也、祭儀厳整頗為壮観、近世祀事残闕、僅致如在之意、而猶為郡中大祀、歳時小奠具于年中行事。神秘有愛鷹悪*(兀虫・マムシ)之事、古傳曰筑前博多、今津・加布里及本州唐津・平戸等一帯之地。往古海舶之域湊泊之所也、有韓人誓来(セウライ)者、献鷹子當宮、一日狩于二本松、鷹撃鳥而下麻・小豆。胡麻之圃中、為*(兀虫)被害、蓋神愛惜之乎、爾後濱崎村濱崎浦・砂子村之地、山野林薮絶無*(兀虫)矣、若有誤落麻・小豆・胡麻子、者、則一夜花實根株之下忽生*(兀虫)蛇、故土人無栽三種子、乃摸刻其鷹形為神寶、寫鷹羽為神紋、誓来客死此地、祭其霊為末社矣。今世不謹之徒誤落三種子、而間々有遇彼変異者、世人之所識不贅于此、*(兀虫)蛇之害人民、為非命之死、為終身患、為期月之疾、使稼穡失其時者比々皆然、近村殊多、而犬牙之縁界不入當宮之産土三村之地、芻蕘于他山偶有包裹*(兀虫)秣中来落此地即死、産子(ウブコ)入他村雖有毀傷者無疾痛焉、是故遠近来乞祀前之清砂而為避*(兀虫)之符、持之者*(兀虫)不敢近矣。国史所載諏訪明神武神也、以経津主。武甕槌(タケミカツチ)之雄、而負日神之光天下無不風靡、而與之決一旦之雌雄、既而感皇澤之探、知天始之可畏而帰順焉、率群神而為天孫開国之孚先、豈非全智仁勇、者乎、萬世列朝之祀典、為天下之鎮霊、守文護武愛物仁民洋々乎、盛乎、赫々然明哉、何新禳之不應、何志願之不得、所謂控之者應洪纎而効響、酌之者随浅深而皆盛者乎、人唯患誠敬之不至、而不可患應感之虚矣、夫神砂避*(兀虫)之一事、中古偶有此事、而中神之忌諱乃然耳、愚民以為避*(兀虫)之神、是豈足測神徳之萬一哉、然而亦可窺霊威之顯赫也矣。



   附記
 正徳六年丙申(享保と改元す)八月十八日、唐津侯土井大炊頭源利實君、遊于玉島河、便路拜當宮、召祠司隈本宮内藤原次利、自賜懇詞。越廿六日召次利于城中賜金、而令奠之後為 常例敬仰異 于他祠、歴利延君、利里君、寶暦十三年移封総州古河、土井侯移封之後唐津之邑入為 六萬石、余地入縣官、後五十余年、文政元年戊寅郡為對馬侯之邑、侯之敬神擢 于他邦、廼以當宮為郡之宗祠、對馬之為国海上遼遠、是以毎年使田代総督代拜焉、崇奉超于前時。


  同社別録縁起
 當社は人皇第十六代仁徳の御字、百済国より王仁といふ宮人、鷹を献じ奉りしに、其頃迄は日本に鷹といふ鳥渡らず、其のよし皇帝に奏しければ、鷹は所謂霊鳥と聞きつる、請取るにも禮儀あるべし、其の禮法を知りたるものや有ると宜へども、其の故實を知りたるものなき故に、其の由天聴に達しければ、女を出して請取るべし、婦女は其の禮を知らずとても苦しからずとて、御吟味ありけるに其の頃の官女に、神功皇后三韓征伐平定したまひ、大矢田宿彌といふ人を新羅国に留置き鎮守府将軍の職を賜ふ、これ鎮守府将軍の始めなり、この宿彌の四代に當りて大矢田連と云ふ人の娘を諏訪ノ前といふ、則ち宣旨ありて鷹を受取らしむ、其の出でたちいと花やかに見えけり、この諏訪ノ前と申すは四八の相を備へて類稀なる美女にして、和歌の道はもとより諸道に達したる禁廷張中の官女なり。王仁の子に誓来といふもの、鷹を持ちて渡す時倩々思ふやう、かゝる官女に渡すこと其の例なし、直ちに渡すも如何なりと、笄を抜き錦の帛紗をかけて畳の上に立てゝ鷹をおろし、少しく後方にひかへたり、則ち諏訪ノ前さしよりて受け取りけり。鷹は「コノリ」なり、天皇御感斜めならず、誓来を三年留めさせ給ひ、鷹の居様故實杯委しく相傳せり、其の中にはい鷹を仕立て、日本鷹狩り始まる、日本にては諏訪ノ前を鷹匠の大祖とす。三年目誓来帰国のとき、この松浦より船に乗りけるゆへ、諏訪ノ前見送り来り給ひぬ、此處にて鷹匠はまたらを合せけるに、麻と小豆を作りたる畑の中より、一つの蛇出で鷹を巻き殺せり、諏訪ノ前惜みたまひけれども其の甲斐なくなりにけり。かくて都に上りて帝に何と奏せんやと案じ煩はせ給ひ、暫く此の松浦潟にをはせしが、御年二十八にて草野の露と消えさせ給ひぬ、この唐土ケ浦のものどもおしみまいらせ、今の御社の所に葬り奉りて都に奏しければ、諏訪大明神と尊崇すべきよし内勅ありしなり、則ち唐土ケ浦の守護神と祝ひ祀りて、十月二十七日の祭禮怠らず。其の後この浦に麻小豆胡麻を作れば、蛇多く生ずるとかや、蛇と麻・小豆を憎ませ給ふゆへ、この浦に蛇来らずまた此の社内の砂を請ふて他所の居屋敷に振り置けば、蛇そこへ出でずと云ひ傳へ、世擧りて信仰し奉りぬ。諏訪大明神奉納の軸に「夫れ鷹は天地の間の奇物、群禽の中の悍鳥なり、されば古人も猛烈神俊の才に比し、和漢ともに是を賞せり、我朝にては神功皇后は在位四十七年丁卯、百済国より鷹を貢に備へ、其の後仁徳天皇の御字にまた鷹を献じければ、天皇御猟に出で給ひ、鷹を放つて雉子を得給ふ、是鷹狩の始めなり、夫れより代々の天皇も是を愛し給ひて、世々名鷹も多かりき。鷹の一物たる勇俊武備の鳥なれば、最武士の愛すべきものなり、遊戯の業に似たれども、孔子も猟狩すといへり、四時の狩は耕作の害を除くためなれば、往古より其の事なきにしもあらず。兼て山野の狩に馴るゝ時はいかなる厳寒の軍場にも、脛の雪髭の氷も厭はず、指をおとし膚をさく寒に堪へ、鶴翼八陣のかけひきに習ひ、土卒の足を固むる業なれば、其の備に用ふること徒といふべからず。此の大明神に詣る時は鷹能一物あり、末世の今まで奇特あること有難き御神なり。


三、聖母大明神(今の玉島村南山の玉島神社)

祭神 神功皇后
 此の社地を珠島と云ふは、皇后三韓征伐の役に向ひ給ふ時、干珠満珠の二寶を海人に得給ひ、
暫く此の地に秘蔵し置き給ふ故に珠島と曰ふ。

縁起
往昔神功皇后は、長門の豊浦宮仲哀天皇の御后なり。此處の川を玉島川又梅豆羅川とも曰ふ、爰に於て三韓征伐の兆を試み給ひ、金の素針を入れ給ひ鮎を釣り給ふに、忽ちかゝれり、此の素針にて釣り給ひしことは神秘なりとかや、釣竿は攝州播州の堺なる幹竹といふ竹なり、今に生田須磨邊に釣竿竹とてあり、此の金の素鈎にかゝりし因縁にて此の玉島川の鮎にかぎり唇金色なりと謂ひ傳ふ。其の節皇后の上り給ひし石を、紫臺石といふ、今は川底に埋みて見えず、川岸の上に玉島山といふ所あり、則ち皇后の宮を安置し奉り聖母大明神と称し奉るなり。また干珠満珠の山とて二あり、此の山の隣るところに加茂某といふ隠者あり、常に語りていふ、我住所の前に細き土橋あり、溝川なり、前は往還なり、適々大地震と外々騒ぐことあるとき、此の玉島山には地震を知らず、故に此の家に生れたるもの地震を知らずと、其の天理如何と笑談せり、これも御神徳なるべし。

 そのかみを汲てこそしれ玉島の簗にこぼるる瀬々の落鮎
 恋君をまつらの浦の乙女子はとこよの国のあまおとめかも

 是は山上憶良が松浦の玉島川に逍遙する時、詠ぜり、釣する女ありて打ち連れたちて行く、みめ形すぐれ、何れの里か何れの家にあるぞと問ひ、また疑ふらくば神仙かと問へば、女ども打笑ひて答ふ、皆釣するものなり、たゞ里もなく家もなくして、此の山水に遊ぶなりと答ふ、其の事を後に詠めるなりと。とこよの国は是より北に世界あり、且つは浦島が子の事も、とこよといへりと、此
の山ノ上憶良の事八雲御抄にも出でたり。

断簡に曰ふ、

 天地のともに久しひつけと此のくしみ玉しかしけらしも、是は神功皇后新羅を討ち給ひし時、ニッ石を御裳の腰にさしはさみ給ひて、是誕生あらせたまひし故なり。件の石をくしみ玉と曰ふなり。たゞ姫神のちごらが彼の国をば討ちしなり、件の石は恰士郡深江村子負臨海岳の上に在り、二石の大は長一尺二寸六分、囲一尺八寸六分、重十八斤五両なり、小は長一尺一寸、囲一尺八寸、重十六斤十両なり、如鶏子其美好成る事論に絶えず、所謂住尺壁これなり、此の二石肥前国彼杵郡平戸浦の石占にて是を取る、深江を去ること二十里、往来の人下馬跪拜す、古老傳曰、息長足女命新羅征伐の時、此の両石を用杵着御舳中以鎮懐、されば是本説なり、書方葉五誕生のことは世人の説なり、末世に下馬は知らず、此のくしみ玉の事知る人稀なり。
 神功皇后は仲哀天皇二年正月立后気長宿彌の御娘なり、気長足姫と申し奉る、開化天皇の御曾孫なり、神功皇后と申し奉る、武内宿彌を大臣とし、大伴武持を大連とす、今の左右大臣なり、同九年庚辰二月二日、天皇橿日にて崩じ給ふ、御年百歳、皇后諸臣と議談ましまして、天皇の御遺骸をひそかに、長州豊浦宮にかりもがりし奉る。同三月皇后新羅・高麗・百済の三韓を討ち、其の冬に至り三韓悉く平ぎ、王は皇后の御陣に降参しければ、大矢田宿禰を新羅に留めて、鎮守将軍とし三韓に下知せしめ給ひて、皇后は帰朝し給ふ、三韓は今の朝鮮なり。十二月十四日築紫楠屋の宮にて誉田別尊を産み給ふ、則ち應神天皇なり。楠屋の宮は今の産宮(ウミグウ)なり、誉田(ホムタ)と云ふ事は生れ給ひし時、御腕の上に肉高く集まりて鞆のごとし、鞆を誉田と云ふにより、御名を誉田天皇と申し奉るとかやまた胎内にましゝ時に、仲哀天皇崩じ給ひければ、未た生れ給はずといへども、帝王の正統なれば、依て胎中天皇とも申し奉る。神功皇后辛已年冬群臣三種の神寶を奉り、御即位を進め奉るといへども、甚だ辭退ましまし、皇子に更りて攝政をなし給ふこと六十九年、即位を辭退し給ひけれども、第十五代の帝と称し奉りぬ、女帝の始めなり、然れども一本に三十四代推古天皇を始といふは御位を辭し給ひし故なるべし(著者曰ふ、徳川時代までは天皇の列に加へ居、編纂のときに皇后の列に下せり)。神功癸未三年譽田別尊太子に立ち給ふ、都を岩余(イハワレ)に移して若櫻宮と云ふ。同四甲申歳乙酉歳両年、新羅百済より八十艘の貢を捧ぐ、同十二壬辰より癸巳までの二年に、仲哀天皇を越前国角鹿(ツヌガ)に気比大明神と崇め奉る、皇太子同年御拜ありたり、同六十九年神功皇后崩御、壽百十二歳、狭城盾列(サキタテナミ)陵に葬り奉る。同十六代應仁天皇庚寅元年正月朔日御即位、七十一歳にならせ給ふ、仲哀天皇第四皇子なり、在位四十一年なりき。この帝欽明天皇の御世庚寅三十一年に、豊前国字佐郡蓮臺寺の麓に垂跡し給ひ、其處に白旗八流下り立てるより、八幡大神と崇め奉り、また五十六代清和帝貞観元年己卯に、釋行教和尚に神託ましまして、山城国男山石清水鳩峰に鎮座まします。
 人皇三十代欽明天皇の御宇二十四年癸未、神功皇后御妹淀姫神を、肥前国に鎮座ましまし、河上大明神と崇め奉る、同三十年己丑冬肥前国菱形の地邊に住みける兒、三歳になりけるをして神託してのたまはく、我は是れ人皇十六代譽田八幡なりと勅し給ふ、其の時また筑前那珂郡に白旗四流赤旗四流下りたり、其由都に奏しければ、八幡大神と勅使を以て神號を贈り給ふ、是より八幡の號を得給へり。其處に松を植えて印とせり、是れ即ち箱崎宮なり。

 比の玉島川にて皇后鮎を釣らせられ、希見物(メツラシキモノ)と悦び給ひしにより、こゝを梅津羅国と云ふなりと日本紀にも見えたり。今の松浦を知らぬひの梅津羅ノ国ともいふなり。其の川上に聖母大明神と申す宮在り、これ則ち神功皇后を祭りしなり、正八幡大神の御母君にてまします故に、人皇三十代欽明天皇の御宇二十四年甲申、皇后の御妹ノ宮川上淀姫大明神と同時に、詔下りて祭れるなり。此の聖母をしやうもんさまと所のものども云へり、国の云ひぐさにては、はねる言葉多し、二重嶽をにん重うたけと云ひ、十方嶽をとんぼふ嶽と云ふ如期例多し、訓聲に心付くべし。また此處より住吉大明神・荒御崎大明神、皇后の御船を守護し給ひぬとなり、此の因縁を以て平原村に、住吉大明神を勸請し奉るなり。



四、無怨寺大明神(今の玉島村大村神社)

祭神 太宰少貳廣嗣

 松浦廟宮先祖次第竝本縁記

 贈太政大臣大中臣鎌子連鎌足、俵功任大臣、鎌足薨之後給食封二千戸、尚如生時、即被授藤原姓、有一男右大臣藤原不比等朝臣是也、有其四男即立四門也。

 一男 左大臣武智麻呂   南家 元右大臣
 二男 贈太政大臣房前   北家 元参議民部卿
               
 三男 参議式部卿正三位宇合(ウマカイ) 式家 馬養とも書す
 四男 参議左京大夫麻呂   京家

 宇合朝臣有 八男。
 一男 太宰少貳従二位下廣嗣       二男 贈太政大臣正一位良継
 三男 贈太政大臣正一位種継       四男 右大臣贈正一位近衛大将皇太子傳麻呂
 五男 内舎人縄手(トネリナハテ)    六男 贈太政大臣正一位百川
 七男 参議太宰帥従三位勲一等蔵下麻呂  八男 参議従三位濱成

本縁起
 右近少将従四位下藤原廣嗣、太宰少貳任中慮外難罪、製世音寺讀師能鑒、執事筑前ノ介南淵深雄、内竪磯上興波等慕主公而傳。
 右少貳廣継朝臣者、孝徳天皇御宇大織冠太政大臣大中臣鎌子連鎌足御殿戸(オトド)之孫、正三位式部卿藤原朝臣宇合之第一子也、以天平十年四月授従五位下拜式部少輔兼大養徳(ヤマト)守、同年十二月為太宰少貳 兼 行将軍職、抑件少貳先祖父鎌足御殿戸奉授君王功遍天下、名満華夏、而以彼子孫非可任外庭之傍臣、然而為令防禦敵伺隙之危、以文武竝朗、兼将軍職所令拜任、然将軍少貳既是天下神妙之聖哲黙賢奇異之其一也、於彼存在時有五異七能。

  謂五異者
一、御髻中生一寸余角(諺曰人者雖 賢専角不 生云々今案謂 之世間稀有)

二、侯宇佐玉殿頃年奉仕囲碁(此亦稀有専非人間之事。)

三、龍馬出来(少貳任初年十二月郭中聞 一音七度嘶之即以高直令労飼専不喰例草喰荒強草或時喰 大小*(木若)又其形体尤寄異也是知 龍駒 仍試櫪中打四杭労飼之間漸々登立四杭如是経数日縮足立一杭遠近見開甚馬 異體。)

四、峙面従者不後龍馬(得件龍馬午上従都府之務午後勤朝家之命如此往返之間備中国板倉橋之爪立異體男専不似例人干時少貳間曰汝何処居住乎申云丹波国氷上郡所生矢田弘麻呂也中曰即被召奉永主人也又中云誰人洛下鎮西朝夕往返給人其人吾共可有云々参候更不後御馬尻及渡門司関之時進立御馬前也世傳云龍出来者有峙面若謂之歟)

五、華洛鎮西朝夕往返(古往今来世人未有此事奇異甚多今略擧五異而已設雖得龍馬朝夕往返身力豈堪乎仍異常人也五異之中一寸角神通龍随重堪半斤石以五町抛訓。)

謂七能者

一、形體端厳強軟自在(瞋無敢敵之者軟即有羽毛之恩。)

二、文箱通達内外融洞(世俗文筆法門奥義悉能了知莫不研學之)

三、武藝超輩戎道練習(一度括二失射放分中二物不異揚由又十盞桃燈而脱太刀十燈一時濂?之。)

四、歌舞和雅聴莫不感(音韻雅音宛可比浄土天人諸天楽)

五、管絃幽徴律呂弗違(一曲之中奏八音)

六、天文宿曜陰陽通達(伎術自在之條亦勝衆能之中此業殊勝也)

七、妻室花容人間希有(他人十倍己従夫加水此希有事但依件妻女蒙官責即亡身命也其能雖多略以明之。)

 凡比等事以為希有、是以高野姫天皇御學士右衛門督眞吉備朝臣並僧道鏡、又與少貳御近親人々相共語云、其眞吉備苟為朝使、以去霊亀二年入唐、至于天平二年経十四年之間、砕々分明研鑒数多内典外書天文陰陽、又能捜試人情、令件廣継朝臣者猶尚勝於両朝人也、才學優長茲朗、内外通達異能克備矣、此人自然為物妨歟、朝家蠹害斯而已如是質*(日一寸)毀(ガイアツテ)謗之間、以天平十四年冬十一月被加従四位下、遷右近少将、其故何者相會彼新羅賊、之日、為我朝有勒公之節、仍所被拜任也、爰高野姫天皇發御不快之気、令候道鏡其寵罔極、漢宮入内之夜如星侵月、伉儷成宴之朝似鳥戯花、帝王之位因斯難惜、後代之謗乎、不敢為耻、而間天変怪異種々非一。於是少貳以天平十年勘之、頻以上表、(其表文は本記第四章廣嗣。の傳に出つ今は省略す。)雖知此旨上表、時帝更不破納件表奏、可譲帝位於玄ム之由、以和気清麻呂為勅使、奏宇佐大神宮、専不憚帝勘為攝神罰、返奏不容受給由、帝姫大瞋攻彼清麻呂降穢麻呂、斬其手足己配流隠岐国替替宿街(大隅国なるべし。)爰商客之船漕於逆風来、従管州密通事由乗船、淨海得達宇佐宮、俯伏拜表申云、為攝神宣返奏不容之由、今遭禍難唯願神験如故、還復悲哀睡入覚悟之次、手足還生神助不空、感喜之足、即依祈念之應建立神護寺(在愛宕山今為御願寺和気氏之寺也)、于時玄ム者帝王御恩之余矯恣自長、於少貳在京妻室命婦欲通花鳥之気以風多情之志、女已不肯被白単衣染翰飛文、落居都廳前、少貳忽以上洛高聲放言、城中之人善聞為恐、是擧世云僧正被。○歟。廣嗣朝臣已上才人也、天下俊者也(一箭射四方)、為君為臣必致凶計、不知却朝廷、乃至断身命、即天平十五年九月急激發軍兵、以従四位上大野朝臣東人為大将軍、従五位上紀朝臣飯磨為副将軍、軍監軍曹各四人、竝召集東山。東海。山陰・山陽・南海五道之軍総一萬七千人、委東人等符節討之、又召隼人廿四人令候御在所、右大臣橘宿禰諸兄、勅授位各々賜當色服發遣、冬十月少貳率一百騎許、在於板櫃橋河之側、親自率隼人為前鋒、即編木為船渡河、于時佐伯大夫・式部少輔安倍大夫御坐云々、良々久乗、馬出向官使被到来、再拜承之、常人等所率六千人陳河東大叫云、逆臣豈拒捍官賊哉、直滅身罪及妻子親族者也、常人等云為賜勅符、小貳下馬又以再拜即遁去肥前国松浦郡値賀浦、乗龍馬遙欲移隣朝、向馬於海上不敢進、其時少貳云以小直買此馬故不進也、即削頭棄畢、乃乗船浮海、得東風往四個日行々見島船上人云、是*(身沈)羅島也、于時東風猶扇船留海中不肯進行、漂蕩已経其夜西風卒起更吹還、自提驛鈴一口臨海云、我是大忠人也神冥豈捨我哉、是頼神力暴浪暫止、然而黒風彌々扇白浪不平、帆柱之上種々鳥来居、所謂烏鵲鳩等也(烏者住吉鵲者香椎鳩者八幡大神也)、遂吹着小値賀島、次還来松浦橘浦(彼御忌日十月十五日也)、其遺體三箇日懸虚流雪、鎮落之處今鏡宮也。
 抑廟霊非愚只依朝祈神冥愍趣也、阿因名称鏡宮、電光照耀夜如昼如此之間、勅使頓滅二三人、洛下外鏡奉見其影、奉聞其名、酔気迷神死已甚滋、臣下公卿妖死又多、諸卿朝議、眞吉備嘲臣外誰人奉祈鎮哉、槐林同門學館契深、況又祭祀祈鎮其能尤勝者以眞吉備朝臣、所被択遣也、奉宣旨以後令修降伏邪悪之法、途中毎宿勤仕河臨解余之秡、又従筑前国宗像郡、以圓座四枚宛着手足、御幣負背匍匐参来高聲唱申、一日為師終身為父、一字千金二世恩重、依聞此唱忿心急和影、談存生没後之事等不敢致害(所兼思計眞吉備勅使下也我心卒和也云々)、而聞道鏡僧正屈請有験名僧、登大和国高山一向勤修北斗七星之法、於殿上宮中所々、令修調伏之法、又依託宣以右近司立檜木、造立同身六尺彌勒佛像一體、又書金泥法華経一部(託宣云以雷電檜木彼引導佛可破造云々仍以倬(?)木令造給)乃以二十口僧為使、奉担下件佛経其料夫六十人也、於斯勅使眞吉備朝臣以天平十七年造立廟殿二宇、奉令鎮座両所廟、以即建立神宮知識無怨寺、奉安置佛経、以彼二十口僧定置祈願住持之僧、以扶夫六十人分置宮寺雑掌人(御墓守三十人、寺、家雑役人三十人)至于彼達忌日者、昼則披存時佛法華経、講説一乗妙義、夜傳菩薩三聚淨戒、被加行府御誦経、復次天平十九年十二月騰勅府、為誓度逝雲、始置年分戒者、又同令始修法華三昧、如此等事皆以為祈鎮也、于時姫天皇寵愛尚甚、件僧正道鏡終被任太政大臣、然後未経幾程天皇庵然崩給、於大和添下郡高野山陵是也、即道鏡奉荷御骨、陵下結廬勤行、而間姦計事相發俄被定下下野国薬師寺別當、是尚依先帝厚恩也、而任下不幾頓以死去、世人云彼藤原少将霊罰也、亦即舎弟弓削清人、男弘方・弘田等配流土佐国、而間忽死去。如此過十余年之間、眞吉備朝臣内心祈念云、剋念若叶先可奉事松浦藤廟所、念已成就以天平勝寶六年、拜任太宰都督、即経奏聞、定行廟宮春秋二季千巻金剛般若讀経並最勝會彌勒會等、其料置大領田拾五町施入(在當郡見留加、志之庄是也)又神宮無怨寺寄置水田四十町(二十町燈油佛餉并廟御忌日十五日、料二十町、住寺祈願僧二十町之料也)
又免田六十町(三十町分置御墓守三十人料、三十町寺家雑役人三十人料)、又其次定置鏡廟之號、其故何者廟霊忿怒之時、御在所方丈照耀如懸鏡、仍称鏡山也、又藤少将者是累葉高門之胤、勤功忠臣之烈仍授尊號、故称鏡尊廟也、然則雖大悪忿怒、依彼存時之契終為眞吉備朝臣被祈鎮給、可謂心為恩使命依義軽、寧非斯哉、爰眞吉備朝臣任太宰都督、既歴八箇年之間、建立施薬院竝起種々佛事等、凡此朝臣若冠時者被擇為遣唐使、擧日本之面目、帰朝以降廣聞賢名、是依神佛有助也、遂登大臣位、多是藤廟助成云々。書曰玉雖有映不研専無其光、雖能治之人無傷時者、曾不見其所治、若於世間無如期大乱者、誰知眞吉備朝臣忠言之譯哉、然則委尋其奥大略
記之、若於後代宮寺之間、有神妙希有事者、詳緇素注加之耳。
   天平勝寶三年二月十一日染筆

 右肥前国松浦郡鏡宮所蔵縁起一巻、文字不正間有可疑者、應松平和泉守之倖臣仙石利重及侍醫市井玄*(シンニュウ+台)之需、而校正之、別寫一本以為倭訓云。
  元禄三年庚午三月庚申日
         下御霊神主 従五位下藤原朝臣信直

  別録縁起
無怨寺宮は天平九年丁丑九月晦日、廣嗣公値賀ノ浦よりこの茅原ケ浦に着き給ひければ、此所の賤民どもいたはりまゐらせ焼き火にあて奉りけれども、御脳痛しきりなれば、其の浦中物音を止め、さまざま介抱し奉りけり、この焼き火にあて奉りし翁を、焼火ノ翁と號して末社の一なり、然るに有為轉変生者必滅の習ひなれば、十月十五日薨逝遊ばされ、其の節御遺言ありて此處に葬り奉る、千原寺と云ふ一宇を建立して、御菩提を弔ひ奉りしなり。其の後神霊八寸方圓の鏡と現在し給ひ、内裏の方へ光を放ち給ひ、如何なるいはれか帝御脳気ましまし御不例なりしかば、博士に占はせ給ひしに、霊魂、帝を恨み奉りしなりと奏しければ、吉備大臣を勅使として、この松浦に下し給ふ、比の事鏡二ノ宮ノ記に出づればこゝに略す、それより鏡宮大明神の尊號下りて、松浦郡の宗廟と仰がれ給ふ、其の後茅原寺を改称して無怨寺大明神と称し奉りしなり。誠に比の所まさしく聖廟なれば、此の御社、鏡宮と同時に勅命ありて御造営あり、又無怨寺の號故あり、御寺大明神と崇敬し奉るなり。

抑此の御寺大明神堺内は正面五町横十町なり、後の山を伐り開きて大乗妙典の法華経を敷き、唐金の七十五佛を納め奉りし、寺地霊場なり。爰に宮を建て諸堂鏡ノ宮と同じ、然れども大伽藍七堂廻廊等はなし、妙法華経を移し給ひしとかや、本尊は天年勝寶元己丑年、行基菩薩檜を以て彫刻し給ひし彌勒大菩薩なりとぞ、都藤原の俊成公よりの寄附にて、此の御寺宮へ安置し奉られしとも、また波羅門僧正の寄附ともいへり、かゝる霊地なれば、一度この御寺大明神に詣てし信仰の人は、無實の難を遁れ天福あること、疑ひなかりけるとなり。



 五、河上山大権現 玉島村字平原

 祭神 熊野権現
 肥前国上松浦郡草野庄平原村、河上山權現社者熊野權現也、往昔人皇四十二代文武天皇御宇大寶年中、山伏之元祖役ノ小角(エン オヅヌ)行者、入唐不帰、行者之二代義學修験者慕役師、當国下向之時、熊野權現奉勸請於此郷、祭宮定、而祈国家之安全、當国者以隣三韓之故也、爾来至于元禄之今、千有余年、于此毎截之祭祀無懈怠、貴賤之緇素(シソ・ソウゾク)運歩、無不奉敬崇、祭日十一月十五日也、十一月者子之月也、子者北方之位、十二支之始也、是發揚之元、偉哉神徳、遠照於七末之天、近曜於五始之地、奉號日本第一大霊験者、宜哉亦依有由緒、當国之古跡、鏡大明神、田島大明神、両社倶、奉崇於同社者也矣、謹上再拜敬白。

  日本紀神代巻曰
 
 伊弉冉(イザナミ)尊生火神時、被灼而退去矣、故葬於紀伊国、熊野之有馬村焉、土俗祭此神之魂者、花時亦以花祭、又用鼓吹幡旗、歌舞而祭矣。

 白河院詣熊野時、見路傍花盛開詠和歌曰、
 左伎爾保布(サキニホフ)、波那能気志紀乎(ハナノケシキヲ)、美慮加羅尼(ミルカラニ)、軻彌乃許々慮曾(カミノココロヲ)、贈羅尼志羅留々(ソラニシラルル)。是亦以花祭之意乎。

 又神代巻曰
 伊弉諾(イザナギ)尊與伊弉冉尊、盟之乃所睡之神、號曰速玉之男、次掃之神號 泉津事解之男(ヨモツコトサカノヲ)、凡二神矣。
 今按、速玉之男、事解之男、伊弉冉尊、是熊野三所權現也。


  古今皇代図曰
 崇神天皇六十五年、始建熊野本宮、景行天皇五十八年建熊野新宮
両所権現者、薬師観也、傳云、伊弉諾・伊弉冉也、若一王子者放無畏大士、號曰日本第一大霊験熊野三所大權現。

  神名帳曰
紀伊国牟婁郡熊野早玉神社
 愚按、神名帳之趣者、両所権現者、速玉之男、事解之男也、三所者應加於伊弉冉尊也。
  元禄十一戊寅年九月三日 謹書



六、加茂神社 七山村字瀧川小字谷

 祭神 加茂別雷命 加茂次郎義賢

 由緒
 加茂次郎義賢朝臣は、肥前守上松浦入道直傳と號し、清和天皇の流れを汲める八幡太郎義家の弟美濃守加茂二郎義綱五代の孫にして安元二年宣旨を請ひて、筑紫肥前国上松浦に下向し、瀧川庄に館を構へて居住す。上松浦郷の山内の領主たりしが、歿後土人産土神に勸請せりと云ふ。
 往古は、瀧川村・仁部材・木浦村。藤川柑・白木村・馬川村・荒川相の七村に亘れる廟社なりしと。後世に至りて瀧川一村の産土神となり、明治十二年八月村社に列せり。子孫連綿として今尚七山村玉島村に居住せり。



七、鏡大明神 今の鏡村鏡神社

一宮、神功皇后
 社殿、鏡山の麓に在り、神功皇后鏡を納め祭ると云ふ。或曰、一宮神功皇后到當国登松浦山祷天神地祗、以鏡納于此、故立祠為鏡宮、天平十年始祭之云々、祭日九月九日。

二宮、太宰少貳廣嗣
 後奈良院の御宇、大明神と勅號ありたり。
右、一二之宮司。社僧 米六石境領主より賜る 宮師坊
           同五石宛同断 御燈坊
            社司 同二石五斗宛同断 多治見紀伊守
           同断 坂本出雲


  日記
 桓武天皇ノ御宇、鏡大明神社殿内裏より御造営あり、後奈良院の御宇改めて勅額を下し給ふ。社領松浦郡草野庄を附けらる、高二萬五千石也、九月九日の祭日に毎年市立つ、諸侯より一州二疋の馬を献ぜらる。社の境内八丁四方なり、方一里の間下乗なり、境々の印の所を八丁塚と云ふ。宮殿・七堂。大迦藍・惣廻廊・釈伽堂、毘沙門堂・不動愛染両明王其外末社数多し、鐘楼門・山門・二王門・一三の華表・御供殿、普請方諸役三百廿人、大宮司草野陸奥守源鎮光、復姓して後藤原となる、草野宗瓔迄二十八代の元祖なり、往古は社僧領一萬石、大宮司領一萬石、下社官十八人大宮司より扶持す。其後草野威勢強くして一圓に所領となり、社僧法印・政所坊。宮路坊・御燈坊・御供坊・轉法院を始めとして草野家よりの賄となる。草野氏は鏡宮並に無怨寺宮の大宮司なり、戦国の役に戦敗して、今は僅に社僧二坊、社司二人とならぬ。

  社記曰
 鏡大明神者、人皇十五代神功皇后息長足姫尊也、往昔三韓征伐出御之砌於鏡山、皇后捧寶鏡、自祈誓天神地祇、而安置寶鏡于當山、依之以来號鏡山、而後奉齋今之本社也、故奉號鏡大明神、一奉称松浦明神是也、松浦郡宗廟之神社、而国史等詳明其神徳、今又不有暇枚擧、故略記之耳。

  二ノ宮記事
 松浦鏡二宮、祭神者、式家始祖参議式部卿正三位宇合之長子、太宰少貳従五位下藤原廣継朝臣神霊也、朝臣有故違天聴、為官兵終敗績、而自辭世矣。後蒙天皇之赦使、基霊魂鎮座於茲地、于時吉備大臣承勅而来、奉齋祭朝臣于鏡廟二宮也、猶由緒委子續日本紀及諸記事焉、故今又不贅於此矣、後奈良院天文二年、奉勅、奉称大明神、則並祭於鏡廟宮、而尊號松浦二宮大明神是也矣。

 同別縁起
 鏡大明神一之宮
 當社者、神功皇后御鏡を納め給ひし宮殿なり、皇后の御父は息長宿彌と称し奉る、其の姫は息長足姪と申奉りし姫宮にてわたらせ給ふ、開化皇帝の御曾孫仲哀天皇の御后にて、八幡大神の御母后なり、筑前国香椎宮に鎮座します、庚辰九年二月六日に、仲哀天皇香椎にて崩じ給ひしより、武内宿彌と議談ましまして、皇后則ち長門国豊浦の宮におくり祭り奉り給ひぬ、同三月八日皇后大臣武内宿彌と、新羅を討ち随へ給はんことを計らせ給ひ、筑後国山門縣より、肥前国玉島に行かせ給ふと、日本紀に出てたり。
 抑神功皇后は先に天皇の神の教によらず。早く崩ぜさせ給ひしことを深く歎かせ給ひ、今は唯神の教に従ひて、賊の国を求めんと思召し、群臣百寮に命じて、罪をはらひ過を改めて、更に齋宮を小山田村に造らせらる、是香椎村に隣れるところ山田の里に、往古より神功皇后を祭れる跡とて残れり、其の横へ廣大にして、今猶小社存す、其の社内にあまさかるむかつ姫命健布津神・事代主命・表筒男・中筒男・底筒男の大神をも祭れり、九月九日と十一月六日祭禮にて、其外三月朔日より七日まで、祠官等宮籠して、天下泰平異賊降伏の御祈祷を申奉る、其邊を聖母屋敷といふ、是則ち齋宮の故跡なり。九月九日の祭日は、肥前国松浦にて御鏡を納め給ひ、天神地祗に祈誓をなし給ふ日なり、今其の鏡大明神の霊地なり、比の時天神地祗奇瑞を顯はし給ひ、異国降伏のしるしを得させ給ふにより、末世の今までも、九月九日の祭禮怠ることなし、其後筑前国山田村に此の祭禮を移せり。又三月朔日より同七日まで、山田村に祠官宮籠しけるは、神功皇后の七ケ日を撰び給ひ 齋宮にいりこもらせ給ひ、御自ら祭主となり給ふ、武内宿彌に命じて琴を弾ぜしめ、中臣の烏賊津の使を召て番神とし給ひ。同年三月二十日層増岐野に至り、羽白熊鷲を討せ給ひ、此の山門縣より、肥前国松浦潟に至り給ふと、諸記に出でたり、今も筑後より直に松浦へ行く道あり、筑前国田島七隈の北を通りて、姪の濱の南に出で、山戸村の北を過ぎて、生ノ松原に出づる、太閤秀吉公も此の道皇后の吉例に任せて、糟屋郡の内を通り給ひしなり、其の時の茶店の跡とて今も残れり、是皆皇后の御跡を尋ね給ひし道筋なり。
 此處より皇后同四月三日に、肥前国松浦郡玉島川に来り給ひ、こがねの釣を御自ら曲げさせられ裳の糸をぬきて釣糸とし、進食の飯粒を餌として、此の川に投じ、三韓征伐の吉兆を試み給ふに、細鱗魚を得給ふによりて、此の川の鮎金色にして唇余所の鮎に異なり、日本第一鮎の名産となれり此の川水清潔なれば、垢離し給ひて天に向はせられ三韓征伐の祈願を籠め給ふ、其の時此の峰に寶を上げ給ひ、天を拜し給ふに、寶瓊より光を放ち西の方へ輝きしより、此處を瓊島と名付け給ふ、其の流れの裾を玉島の小川といへり、今神功皇后の宮殿の所にて進食し給ふ、爰におゐて皇后みづから針を曲げさせられ、川中の石の上に上らせられ、釣糸を投げ給ひて細鱗魚を得給ひ、めづらものと宣ふ、故に其處をめづらの里と名付く、後に訛りて松浦の郡といへり、一郡の發る所のもとなり。この玉島の野は、恰土郡と松浦郡との境より半里許り南なり、玉島川其の前に流れ、一筋は平原村より出づる小川なり、又七山より流るゝ一筋は川水ふとし、淵上村に落ちて両川一筋になりて海へ入るなり、小川の邊に玉島社あり、神功皇后を祭れる宮なり、川中に釣し給ひし所あるなり、其の始は淵なりしが洪水に砂石埋れて浅くなりぬ、其處に方三尺ばかりなる石あり、是れなん皇后給ふ石なりしと云へり、共に埋れり、又土井侯唐津城主たりし時、御立石といふ御札の立ちしなり、右の石を紫臺石といへり、山上憶良の歌萬葉集第五巻に出でたり。時に皇后此の川水清潔なればとて、御ぐしをすまさせられ、天に向て宣はく、朕神祗の教を請ひ、皇祖の霊を蒙り、滄海を渉りてみづから西を征せんと思ふ、是を以て今髪を水中に濯ぐ若し験あらば、此の髪自ら分れてひらけと宣ひて、河水に浸して濯ぎ給ふに、御ぐしおのづから左右に別れぬ、其まゞ干させられ、御髪を左右に結び別けさせられ、同四月四日今の鏡山の麓に出でさせられて、則假宮を建てさせらる、群臣に宣ひけるは、それ軍を發し衆を動すは、国の大事なり、国のために安危成敗必爰にあり、今征伐のことを以て群臣にさづけんに、もし事ならずば罪群臣にあらん、是甚いたまし、故に朕婦女にして又不肖なりといへども、暫く男貌をかりて強て謀を發し、上は神祇の霊護を蒙り、下は群臣の助功に依て、兵を調へ波浪を渉り、船を發し賊の国を平らげん事を求む、若し事成らば群臣ともに功有らん、又事成らずんば朕ひとり罪あらん、それ是れ共に謀へと宣ひしに、群臣皆申さく、皇后天下の為にはかりまし、国家を安くせさせ給ふ所なりとて、頓て詔を承る、秋九月九日勅令を下し、御姿を移し給ひし御鏡を納給ひ、天神地祇に祷り給ふ所、今の鏡大明神の霊地なり。暫く此處にましまし、諸国に詔命を下し船を集め兵練を成し給ふに、軍つとひかたし、皇后宣く是必神の御心ならんとて、則ち濱邊にわたらせ給ひ潮をむすぼせられ、天に向ひ祷り給ふ、其の跡今唐津大明神の霊地なり、此の事唐津宮の記に委し。
 皇后それより手配を定め給ひ、賊の国をさして征せんと、道すがら悦び指さし給ふ所を指(サシ)村と名付けぬ、方今佐志の二字とはなりぬ、皇后は住吉大明神の顕れ給ふ島ありければ、此の島へ渡らせ給ひ、皇后自ら斧鉞を持ちて三軍に令し給ひ、金鼓節なく旌旗乱れなば兵則ち調はじ、財を貪り欲を含み、私を懐き内顧せば、必敵のために淨囚と成らんと、軍神を祭り、宴を催し給ひ、かはらけを流されし所を土器崎とは申すなり。則ち惣軍勢を揃へさせ給ひ、和珥ノ津より御船に召れしなり和珥ノ津は今の湊浦の濱なり、此處を往古はみあへのわに津といひし由、此時諸軍勢首途の鬨の聲を揚げしに、玄海すさまじく鳴動せしより、響灘とはいへり、それより壹岐島へ渡り給ひて、新羅国も程近しと聞し召され、此處異賊に勝つもとと宣ひしにより、勝本と號けゝり、又御船を進めさせられ、對州に着岸在せられ、下縣郡豆酸(ツツ)村の南の出岬に着せられ、批處へ假宮を建て暫くおはしけるに、御船中よりして、少し御産の御催し在らせければ、陸に上らせられ、産期の延んことをいのらせ給ふ、其處り石、今も對州府中の西の山下に在り、此の石地上に出づること六尺、又地中に在ること至て探し、方一尺三寸にして、柱の立てるが如し、既にして荒岬をさし招き、軍の先鋒其敵少きとも侮ることなかれ、敵多くとも屈することなかれ、奸暴をば赦すことなかれ、戦勝者は賞せん、背き走らん者は罪せんと宣ひて、既にして又神教に宣はく、和魂(ニギタマ)は皇后の玉體にしたがひて守護せん、荒魂は先鋒として軍船を導んと、虚空に響けるを聞きなせり、皇后則ち天神の教を請ひて拜禮し給ひ、依て依網吾彦男垂(ヨサミノマビコヲタリ)を以て神主として、祭らせしめ給ふ、此の神は則ち住吉大明神なり、荒魂は陽霊、和魂は陰霊、和は玉體を守護し、荒は先鋒として破るの意なり、此時皇后應神天皇を胎ませ給ひ、御腹大にして御鎧の脇合はざりしかば、武内宿彌御鎧の草摺を切りて、御脇腹に當て申されたり、夫れより鎧の脇楯は始まれり、又皇后の御宇に、多羅樹の眞弓、蟇目の鏑矢を持給ふ、弓をみたらしと云ふこと是より始まれり。皇后此島にて三韓征伐の評議ましませし所を評定石と號く、此島に三日三夜天を拜し給ひてまどろませ給ふ、御夢中に諸神顕れたまひ、岩が先(ハナ)に弓を張り給ふと見給ひければ、その夜弦音夥く響きぬ、此時諸軍勢其の岩ばなに弓をあてはりぬ、三韓の方へ弦音を響かせられし所を弓石と號け、末世の今までも一たび天下に変ある時は此の石缺ると云ひ傳ふ。此島に香椎・住吉・諏訪の三神を祭れり、往古より年に二夜の通夜今に懈らず、其夜は何とやら物騒敷く、暁に至り静りぬ、此處に軍神を集て、豊ノ明りをたまふ故に、神集島と號す。
 時に吾瓮の海士人烏磨と云ふ者をして西の海に出して国有りやと見せしめ給ふに、晴曇を考へて帰り来り、西に国見えずと訴ふ、吾瓮は今の湊浦なり、又名草の海士人へ見せ給ふに、西北の方に山あり、帯雲横たはる疑ふらくは国有らんと申上しかは、則ち吉日を撰びて、出陣の日を定め給ふとかや、此の名草は今の名護屋なり、既に首途の酒宴をなし、和魂を請ふて御船の鎮として、十月三日賊の国に赴かせ給ふ、此の時まづ満珠を海に入れ給ひしかば、潮遠く新羅国中に及べり、新羅王驚き恐れて其の罪を謝せしかば、又乾珠を入れて新羅を救はせ給ふ。釋日本紀には新羅王、宮庭に満つと見えたり、三韓を随へ帰朝の時も、和珥ノ津より上らせらるゝに、神集島を見渡し給ひ、天神地祇を拜して士卒に至るまで、各勝軍を相賀せよと宣ひしにより、其處を相賀(アフカ)と號けたり。又賊の国を征せんと、彼方をさし給ひし吉兆なればとて、此處へ御鋒を納め給ひ、これ則ち佐志八幡大神なり、夫よりぬれたる衣を干し給ひし山を衣千山と號け、其の山を下らせられ諸神を祭り給ひし濱邊に出でさせられ、御自ら御秡し給ひしところ、今唐津大明神の霊地なり、委くは其所々の記に出でたり、仍て略之。



  鏡大明神二ノ宮
 當社は、藤原廣嗣公の神霊を崇敬し奉りしなり、天平四壬辛年太宰少貳に任じ給ひ、筑紫にくだり給ひぬ、此の君は藤原宇信の御子にして、博識に有らせ給ふにより、諸人是を猜みまゐらせ、吉備大臣・玄ム僧正等讒言して、今廣嗣九州四国の軍勢を催して、都に攻め上るよし注進頻りなりと奏聞す、此の故に大伴古麿をして實否を正さしめ給ふ、是れもとより吉備・玄ムに合體してありけ
れば、さまざまの悪評を奏聞す。皇帝此の上は朝敵退治せずんばあるべからずと、伊勢太神宮に奉幣使を立て、諸所の関所を堅めさせ、官軍の用意をぞなさしめ給ふ、又婆羅門僧正に朝敵退治の調伏を命じ給ふ、玄ム僧正これを承つて修行す。則ち天平十二庚申年按察使鎮守府将軍大野東人を大将軍として、下道眞備等筑前国遠珂郡板櫃川にて、一戦し給ひけれども、官軍追々勢重く、廣嗣公敗軍し給ひ、肥前国松浦郡長野の原にて、又烈しく防戦し給ひけれども、勝利を得給はず、龍馬に鞭を當てひとつの峯を飛び越え、山道をつたはられ假屋浦に出で姶ふ、官軍御跡を慕ひ奉れども、更に其の御行衛を知らず。爰に廣嗣公の忠臣に中部多といふ者、長野の原に踏み留り、廣嗣公の御烏帽子を戴き、手痛く戦ふて深手を負ひ、太刀の切先をくはへて討死にす、其首咽の内より吹き切って空に飛び上り、赤き鏡と化して官軍を殺すこと夥し、其の霊日夜に飛行して、見るもの多く死せり、此の故に官軍進むこと能はず軍を引きしなり。廣嗣公侫人の讒言によって、一旦朝敵の汚名をとり給ひけれども、終に肥前国の鎮守と尊崇し奉ること、暁の雲の顕るるが如く、奈良の僧正玄肪等勅命を蒙り、調伏すと聞し召れて止むことを得給はず、反逆の気起り給ひ、伯父君房前公いさめ給ふと雖も、早露顯して天聴に達しければ、一卜先づ三韓に到りて、討手を防がんと思し召れしに、忠臣の中部が霊立ちふさがりて、落しまゐらせしに依て、安々と落延び給ひぬ。
 又御持病に御脳痛ましますにより、此處に假屋を建て漁夫ども介抱し奉り、御脳痛ゆゑに物音を禁じて、静に労り奉りしなり、三日を経て御快くならせられ、それより漁夫どもに御暇を給はり、龍馬を率きよせ乗り給ひ、島傳ひに渡り給はんとて、海に乗り入れ給ふに、龍馬一歩も進まず、比の時龍馬の平首を落して.是を挟み、浮木に跨り海上にうかみ給ひぬ、舎人なるもの龍馬の骸を埋み、其處に自殺す、漁夫どもは廣嗣公を招き奉りけれども、風波荒くして沖へ出で給ひ、程なく茅原ケ浦に着き給ひぬ、此の浦のものども集りて、焼火にあて滲らせり、後年是を焼火の翁とて末社の一に列せり、然るに廣嗣公租不例にしてなやませ給ふにより、介抱し奉りけれども、終に天平九丁丑年十月十五日薨じ給ひぬ、其の夜其處のものに御告夢ありけるは、此處に金胎両部の地をしつらひ、我廟としたらんには、末世永く守護神と成るべしとなり、各夢覚めて不思議に思ひ、則ち其處に葬り奉り御廟とせり。
 かゝるところに再び官軍数千騎を引率して、此處に来りぬ、ところの者ども委しく其の趣を演説しければ、其の陣を引き拂ひて都へ登り、上表しければ、帝叡慮を安んじ給ひぬ、後此處に一宇を建立して茅原寺と號す。其の時この大村を茅原ケ浦といへり、今の大村田原は入江にて大船も着きしとかや、さて其神霊八寸四方圓の鏡と現じたまひ、松浦山の峯より輝を放ち、皇居をなやましめ給ひぬと世に謂へり、夫れゆゑ貴僧高僧に仰せて、御祈祷ありけれども、更に其の験しなかりしなり。

 爰に又元明天皇の御宇和銅二己酉年、筑紫の観世音寺建立あり。玄ム僧正の不義顯はれで、此の筑紫に配流せられ、或時此の寺にて玄ム説法教化の折りから、俄に空かき曇り震動雷電して、高座の上にて即座に頭抜け失せたり、これ全く讒言を構へて調伏をなしたる罪、天誅なるべしと、太宰府にても専ら沙汰しけるとかや、其の頭は南都東大寺の庭に落ちたりとぞ、王城にては博士に占はせ給ふに、まさしく讒者の舌頭に依りて征伐を差し向け給ひけるを、霊魂怨敵をなすと奏しければ、則ち吉備大臣を勅使として九州へ下し給ふ、筑前国博多へ着し、此處より三拜一歩して来りけるに、尊霊神馬に跨り、歴然と顯はれ給ひければ、吉備大臣往宣なりと云ひけれども、少もひるみ給はず、白柄の長刀を携へ立ち向ひ給ふ、其の時吉備大臣往古一字の師たることを問答されしに、一字たりとも師弟の禮は黙止しがたしと、勅宣を請ひ給ふ、其の時松浦の宗廟鏡大明神と號すと、勅書を渡し三拜して去りぬ、誠に和光同塵の大慈悲世擧りて尊崇し奉りぬ。
 其の後桓武天皇の御宇鏡大明神の御社、内裏より御造営、中古又後奈良院の御宇改めて勅額を下し給ふ。社領松浦郡草野を附けられ、高二萬五千石なり、祭禮九月九日、其外小祭は毎月行はる、祭の度毎に市立つ、九月九日には日本国中、毎年一州二疋の馬を引き来りしとぞ。御社境内八町四方にして、方一里下馬下乗なり、境々の印の所を八町塚といふ。宮殿・七堂・大伽藍・惣廻廊・釋迦堂・毘沙門堂・不動愛染両明王・末社数々なり。鐘楼門・山門・二王門・一二三の華表・御供殿、普請方諸役三百廿人、大宮司草野陸奥守源鎮光復姓して後藤原となり、草野宗瓔まで二十八代の祖先なり。往古社僧領壹萬石、大宮司領壹萬石、下社官十八人、大宮司より分け宛つ、其の後草野威勢強くして、領所廣く一圓に領所と成り、社僧法印・政所坊・宮路坊・御供坊・轉法院を初めとして、草野よりの賄と成りて、領所の内を分け與ふ。草野氏は鏡宮竝に無怨寺宮の大宮司なり、是に依て増長せりとかや、今は社僧ニケ寺宮司二人なり、唐津城主侯より合力米として、宮司坊へ現米五石、御燈坊へ現米四石、社宮へ現米二石五斗宛、毎年破下之也。


  松浦古事記に出づるところ左の如し。
一、鏡大明神
 一宮  神功皇后
 一宮  太宰正二位藤原敦諸公
         神主  草野宗瓔
            下社家十家、都て田数百廿町。
一、人皇五十代桓武天皇御宇延暦三甲子年御寄進有之也。
一、日本国諸大名より馬市有之(但九月一ケ月中なり)。
一、従今上皇帝御武運長久、御祈念御勅命有之也。
一、紺紙金泥法華経七十巻、同金剛経拾不願六十巻、右何れも唐本也、好政公よう御寄進有之也(好政公は波多伊勢守也)。
一、御供米三百石、従波多氏御寄進也、神主草野京瓔大村鬼ケ城主二萬五千石。
一、御社七堂大伽藍(東金堂本尊毘沙門天。西金堂本尊薬師如来)。
一、彌勒堂、十一間四面但茅葺也、神楽堂・法華経堂・同断。
一、宮師坊・御燈坊、古二ケ寺内にあり。
一、諸寺院、百二十三ヶ所 天台宗。

安永寺、上野坊、安国寺、松前坊、長永寺、駿河坊、安慶寺、津軽坊、妙音寺、上総坊、瀧清坊、下野坊、安膳寺、肥前坊、清香坊、安藤坊、永蓮寺、彦根坊、蓮昌坊、白河坊、松大泉寺、石見坊、圓命寺、常陸坊、海金坊、大隅坊、相林寺、美作坊、相迎寺、越前坊、昌蓮寺、伊賀坊、金剛院、土佐坊、助法院、讃岐坊、昌秀院、備後坊、南西院、大澄坊、眞光院、豊前坊、法昌坊、筑後坊、東方院、肥後坊、西連寺、伊豆坊、永道寺、播摩坊、相命寺、阿波坊、龍光寺、佐渡坊、迎蓮寺、伊豫坊、源龍寺、越後男、松岡寺、大和坊、金清坊、伊勢坊、了圓寺、長房坊、覚林寺、武蔵坊、昌命坊、若狭坊、湯永寺、信濃坊、秀用寺、金剛坊、妙昌寺、加賀坊、妙眞寺、西入寺、度陽寺、参河坊、大昌寺、眞得坊、迎覚寺、淡路坊、正西寺、美濃坊、大覚寺、出羽坊、天得寺、西蓮寺、香清寺、近江坊、法林寺、迎月坊、秀妙寺、越中坊、寶昌寺、千林坊、昌山寺、覚入坊、林濃寺、慶眞坊、得昌寺、眞入坊、妙楽寺、法慶坊、金剛寺、入法坊、長床坊、長久院、昌林寺、室山寺、長松院、林政院、西月院、光清院、南光坊、源服院、東光院、明政院、林松院、寶蔵院、天得院、正得院、月心院、實相院、圓林院、迎泉院、林員院、松昌院、得林院、寶泉院、圓光院、米松軒、光月院、龍白院、大政院、秀昌院、久光院、圓覚院、来迎院、妙音院、観音院、大寶院、金蔵院、法尊院、永久院、世薬院、法迎院、寶徳院、月光院、妙法院、昌尊院。
 右者法頭坊、田教十町、光三千石、六石宛現米也。

  同二之堂別記
 河海抄云、廣嗣叛於西府、於是勅大野東人為大将軍、率官兵討之、時廣嗣不利、自抜刀斬首、飛升空蹶移官軍、其霊化為赤鏡見者多死、今肥前国松浦郡鏡明神是也。
 天文年中後奈良院より大明神之號を下し給ふこと也、社頭の額に有之其宣旨曰、

 宗源 宣旨、
 鏡尊廟宮 肥前国松浦郡
 宜授大明神號者
 右依
 今上皇帝 聖勅 神宣 御表之神璽如件。
 天文十二年六月廿七日神部任波宿彌奉神祇官領長上卜部朝臣



 八、天山宮  厳木村字廣瀬

 祭神 安御中主尊、稚産霊(ワカムスビ)尊、倉稲魂(タライナダマ)尊
  天山嶽之麓小域郡二社、松浦郡一社在嶽之良 祭日十一月二日

  記事曰
 抑人王四十一代持統天皇御宇、来舶于鎮西、對馬将擴異国風俗焉、因茲参議藤原安弘、蒙勅命退治之、于時天皇賞其功、賜晴気里焉、民人慕安弘之徳来集、住于天山之下、於是祠天御中主尊於天山之嶺、為庶民擁護、祈五穀禮饒有歳、然後、文武天皇大寶元年辛丑歳十一月十五日、廣瀬本山、岩蔵上、由是安弘又勤請天御中主尊、於是三所以曰天山宮、在其巓號上官、其下號下宮云々。

   本社棟札曰
 永禄三年庚申十一月二十三日
     當地頭   波多大方
             同 藤童丸
             鶴田兵庫介源前

 祭器
唐銅十二大 同百二十小
右、大の方十器の銘に曰く、
 上松捕廣瀬天山宮 寶徳元年十一月 日  道源置之
右大の方二器の銘に日く、
 鶴田上総介源賢 天正十六年戊子六月吉日
右小なる方百二十器は無銘
 鳥居の銘に曰く、
天正十六年戊子吉旦 願主鶴田上総介源賢

 末社
 八幡宮 黒尾大明神
吉田殿配下 杜司三元十八神道宮原土佐正藤原親信 小城本山社司の説。
松浦郡廣瀬村天山宮と小城郡本山天山宮は其起原同じ。
天御中主命、宇賀(ウガ)ノ魂(ミタマ)ノ命(ミコト)、稚産魂命(ワカムスビノミコト)。
 此の三神を天山宮と称し奉るなり、文武天皇大寶二年小城郡本山と松浦郡廣瀬と右二ヶ所に奉祀するものなり。
 俗に辨財天と称するは非なり、天山嶽に辨財天を祠れる社あり、故に誤て之を唱ふるものなり。

 黒尾大明神
 右は末社なり、参誌正三位民部内大臣藤原安弘これにして、天山宮の社司の祖なり、即ち房前公の諱なり、是れ藤原姓の祖とする神なり、天平神護元乙巳年勅宣を蒙り、安弘公を以て黒尾大明神と為すなり。



九、熊野權現 厳木村字牧瀬

 祭神 速玉三男、泉津奉事之男(ヨモツコトサカノヲ)、伊弉冉(イザナミ)尊
   祭日 十一月八日
 比の社は往昔、この地邊の山野修験者の行場なりし時、安置せし社といひ傳ふ、今に牧瀬地方の産神と称して祭り奉る、この邊に山伏岳(玉女平とも云)、金剛山(金剛平とも云)金烏山(鳥羽山とも云)、萬象山・作禮岳等皆行場と云ふ、其の外五ケ山・七山にかけ平原村河上山熊野權現社に至て、其の遺跡といひ傳ふ、河上山は役ノ小角の二代の後なる義學修験の勸請と云ふ、宮記にあり。



 一〇、大山積大明神 一に三島大明神と彌す
                    厳木村字浦河内

 祭神 大山祇(オホヤマヅミ)命
  祭日 十一月十五日

  社殿上棟記
 維此神殿、上棟下宇再建既成矣、伏惟、鎮産于豫州越智郡三島・攝州島上郡之島・豆州加茂郡三島以上三州、而称三島大明神者是也。伊豆神社者、古昔、崇峻天皇庚戌年開社祀。攝津神社亦鎮座于州之三島江、有由来曰、伊豫神社者、仁明天皇之朝、初祀之、嘗太宰大貳佐理卿、自鎮西帰京師、到于豫州越智郡、書神門之扁、其文曰、日本総鎮守大山積大明神、是乃、所以仰神徳拜尊称者也、所謂保某社稷、和其民人、始原是也。謹考、勸請其神霊於此地、以開社祀之基元、雖未分明、然有村落、則必本社稷、蓋此地之由来也。閲松浦黨之家系、正暦庚寅、源五渡邊綱、属于将軍源頼光、初来居於西肥松浦、所謂松黨之創業是也、至于其筒波多親侯、文禄甲午之世変、星霜六百有五年、以傳其采地矣、社邊之地名、曰山加美、而人家田圃、亦若干在于此中、則有由来久焉。按崇祠之基源、當在于其以前矣、是乃有村落、則本社稷故也、同乙未、寺澤志州侯、移封于松浦、爾後二百三十七年、前後星霜都至于八百四十有二年也、崇祀其以前、則不可考焉、侯治此邑、検耕地、定貢税、此事乃在于元和丙辰、田圓之簿籍、土俗之口碑、以山加美為地號者、是亦足知當時社祠之基原矣、夫自寶永丁亥之再建以来、纔一百十有五年、而社殿破損、故得卜兆之吉、復以欲経営之、蓋此地、閲三十三年来、村民殖益、凡至于八十口、私顧是偏、所以神明之降福地、豈不仰平、亦不敬乎、于時天保二年辛卯四月二十有一日、神殿成焉、同九月神楽殿亦成焉、匠工*(倨-古+子子子)功、忽奏上棟祝詞矣、恭惟、農夫誠心、常希下民之蕃息、仰請神慮、伏額多福、以之記之。社司宮原土佐正親信、謹讀祝、村中産子謹承事、匠工篠原新蔵、嗣子新吾、助工井上萬吾・井上甚吾、小工篠原分右衛門・井上良四郎、石垣加茂茂平・篠原米作・加茂重助・岸川彌三郎等助之、以全成矣。
          村正  秀島義剛謹述之
          嗣子  同 義道扶助之



一一、田島神社  呼子村字加部島

社格 国幣中社

祭神 陽神二座 大山祇命 稚武雄命
    陰神三座 円心姫命 多喜津姫命 市杵島姫命

延暦式に肥前国四社、大社一小社三、両以當社為大社。
御朱印社領高百石壁島に於て賜はる、豊臣太閤より賜はるものなり。御朱印状には姫島神職平野亀之丞とあり、吉田家裁許状には平野内蔵之允とあり。

  縁起
 當社は三神合社にておはします、第一田心姫尊、第二端津姫尊、第三市杵島姫尊。當社は則ち第一田心姫尊の神社にして中尊に立ち給ひぬ、左、端津姫尊、右、市杵島姫尊なり。
 筑前国大島神社は、左、田心姫尊、中、端津姫尊、右、市杵島姫尊の神社なり。また澳津島の神社は、左、田心姫尊、中、市杵島姫尊、右、端津姫尊り神社にして、この三社にておはします。
 松浦郡の神社は皆この末社にして此の社往昔肥前国第一の大社なり、延喜式神名帳等に委し、日本紀第一神代巻に、素盞鳴尊、伊弉諾・伊弉冉尊の御心に叶ひ給はず、根の国に赴き給ひし時、高天ケ原にまうでて姉の尊の天照大神にまみえ給ひて後、ひたふるにまかりなんと望み給ひしに、伊弉諾尊ゆるさせ給ひしかば、則ち天に登り給ひしに、天照大神は素盞鳴尊の国を奪ひ給はんことを疑はせ給ひければ、則ち素盞鳴尊このよしさることなりと宣ひ、我れ初めより黒心なし、ひたふるに根の国にまからんとす、もし姉の尊にまみえずんば我れいかんぞ敢て帰らん、この故に雲霧を隔て遠きより参りぬ、思はざりき姉の尊いかり給はんことをと宣ふ時に、天照大神のたまはく、将に何を以てか赤心をあかさん、對てのたまはく共に誓はん、其誓約の中にものを生ぜん、将にもし女ならば濁心ありとおぽせ、男ならば清心ありとおぼせ、爰におゐて伊弉諾・伊弉冉尊の二神、最愛し給ひて天上をしろしめし給ふ時、御もとどりに結び付け給ひし、八阪瓊のみすまるといふ玉を、素盞鳴尊に傳へ給ひしを、天照大神請ひ給ひて喰ひくだき吹き給ふに、御息の中より生ひ出でさせ給ひし御神を、天の眞名井に振り濯ぎ給ふに、先づ田心姫尊を生み給ふ、是肥前国松浦郡田島大明神、姫神島に鎮座ましますなり、其後星霜遙に隔りて天平十戊寅年夏、大伴古麿に詔命を下させられ、田島大明神とおくり給ふ、時に人皇四十六代聖武天皇の御代なり、神代より三座島々に鎮座ましますこと、異戎鎮守の御社なり、此の時よりべつの宮と云ふ、又この島をかべしまと號すこと、文禄の頃太閤秀吉公この島塀を立てたるが如しとて、壁島と名付け給ふ、今は加部の二字を用ふ。
 唐土玄宗皇帝の時に當って、聖武帝吉備大臣をして遣唐使を立て給ふ、帰朝の折から空一面にかき曇り眞の闇と成りけるに、船路遙に光を顯はしさながら旭の輝くにことならず、則ち附船を寄せしめ見せしに、女神とおぼしくて、天の岩船にめして、天冠をいたゝき給ふて、其の光り白昼の如しとなり、是田島宮なるべしと、吉備公九拜して神霊を尊崇し、帰朝の砌其の由奏聞ありければ、則ち大伴古麿に詔を下し給ひ、田島大明神と贈勅ありしなり。此の島を姫神島と號して毎年夏越の御秡怠ることなし。また孝謙天皇天平勝寶八年、禁中寝殿の長押に天下泰平の四字自ら生ず、此の田島大明神の寶殿に一つの蜘蛛出で、国士安全の四字を顯はす、又駿河国浅間大明神の境内の桑に三寸の蠶出て、背に皇帝命百歳と云ふ五文字をなす、何れも奏聞ありければ、年號を天平勝寶と改めらる。其の後仁明帝の勅命によって承和元年甲寅年、小野篁入唐の時船中安全のため、奉幣を捧け祈願を籠められしに、夢中にこの大明神顯はれ給ひ、船中安全にして渡唐すといへども、唐土に於て一つの大難あり、其の賢才なる事を憎みて害せんとす、其難遁るること能はず、今一年を経て入唐すべしと詫宣ありければ、篁もこの事かねて覚束なく思はれし故に、虚病して松浦の沖より帰られしに、皇帝逆鱗あらせられ、罪科死刑にも行はるべきところ、博學多才の人なるが故に、其の事を赦され、隠岐国に流罪せらる、其の年その難何れ遁れがたしといへども、其の害を避けられしこと、この田島大明神の加護によってなり。それより暦数遙に隔たり、天慶四辛丑年平純友謀叛せしによって、六孫王経基・多田満仲・橘遠保等討手の宣旨を蒙りて、純友・純素を亡ぼし、九州平定して後三十六年にして貞元二丁丑年八月十五日、多田満仲剃髪して法名満慶と號す、同年源頼光肥前守に任じ、肥前国に下れり、此の時に満慶の命によって、九州肥前国大小の神祇に寄附奉納等あり、この田島大明神にも、天元三庚辰年鳥居一基を奉らる、寛政の今まで八百有余年に及べり、此の鳥居一旦崩れすたり、其の後に建てけるにや、年號はいまだ天元三年と鮮かに見えけれども、波多氏之を修造すとあり、往昔頼光の銘なかりしにや、又苔むして其の銘分らざりしにや。波多の元祖渡邊源太夫判官久は、久壽元甲戊年卒す、其の先祖は武州箕田に住す、其の以前に波多氏の名あることを聞かず、天元より久壽まで年暦百七十余歳隔てり、さあれば多田満仲の命は仍て、頼光の寄附を本説とすべし、現在田島宮の鳥居に天元の年號歴然たり。
 又太閤秀吉公名護屋御在陣の時、此島に鹿狩りを催し狩り捕りたる鹿を、社壇の前に寄せられしに、群集の臣下神明の咎もいかがなれば、外へ運び出すべしといひけれども、秀吉公少も恐れ給はず、何條のことあらんやと寛然として居給ふところに、忽ち風波起りて集りたる鹿残らず吹き流され、穢土を清めければ、則ち宮司に仰せて、神慮清(スズ)しめの神楽を奏し給ふ、其の後祈祷祈念懈り給はず、奉納寄附等ありしなり。既に朝鮮渡海の先陣小西攝津守・加藤主計頭軍勢出船の折から、敵国降伏の祈祷をなさしめ給ふ、御社の後森の中に大石あり、此の前に壇を築き注連を引きて、宮司丹誠して祈りければ、百騎の精兵弓箭を帯して朝鮮の方に向ひ矢を放ち、鯨波を上げければ、大石中より竪に割れたり、其の石破れたるまゝにて、今に宮殿の後ろに在り、秀吉公御感斜ならず、神明を仰ぎ給ひ、軍勢海陸無難敵国降伏の祈願を籠め給ひぬ、其の後一艘の船を献じ、朝鮮の苗梅奈良の八重櫻の苗を社内に植ゑさせ給ふ、今に其の樹残れり。
 松浦郡の神社は皆末社にて有りし由、境内の末社に佐用姫の神社あり、縁起別にあるなり。太閤秀吉公往古神功皇后の御祈願籠めさせられし例に仍て、田島大明神を尊崇有りしなり、又大伴狭手彦の因縁あるを以て、朝鮮征伐の砌より高百石山林相違なかるべきの御朱印を附せられ、今尚代々の将軍家これを賜ふ、宮司従五位下任官昇殿を赦させ給ふ、夏越秡の祭禮御旅所(オタビショ)宮崎にあるなり。
 跡たれし下津岩根をそのままにおしまの神のこゝろとも見よ。

  同末社 佐用姫神社
    祭神 佐用姫
    望夫石を祭る

 欽明天皇朝、高麗有叛、遣大伴狭手彦征之、其妻佐用姫惜余情追慕之、到松浦山振衣巾招船哀歎終死去、名其山曰巾振山、於此社内號望夫石祭其霊也、松浦山一名鏡山、従姫振衣巾曰振巾山、又曰領巾振山、共訓比禮不留山。

 由来
 かけまくもかしこき佐用姫神社と申奉るは、大伴の狭手彦の嬪にして、人皇二十八代宣化天皇二年冬十月壬辰、新羅任那を侵す、天皇大伴金村に詔して、其の子盤・狭手彦をして任那を授けしむ、是の時磐は筑紫に留まりて、其の国政を執り以て三韓に備へ、狭手彦往き任那を鎮す。時に佐用姫御あとをしたひ、此の姫島てふまで来り給ひ、御船をさしまねぎたまへども、御船はおい風に帆をあげて眞空を飛ぶ鳥のごとゆき給へば、佐用姫かにかたに別れを惜みかなしみ、御袖もて御貌にあてうち伏し給ひ、御姿のままに石となり給ひき、佐用姫神石これなり。後豊太閤三韓を攻め討ち給ひし時、名護屋御在陣のせつ、敵国降伏のためおりおり詣で給ひ、百石の御朱印を附け給ふ、御當家、東照宮の命の稜威により、二百とせあまりの今に至るまで、常磐堅磐御朱印を下し給ふ。


 別記
 宣化天皇四己未年、大伴狭手彦勅命を蒙り新羅国におもむきぬ、狭手彦の妃松浦郡篠原長者の娘佐用姫つくづく思ひけるは、今新羅国と任那国と戦の折柄なれば、若し遠き別れにもならんやと一入名残をおしみ、狭手彦に言ひけるは、新羅国に妾も供し給へ行くすえ覚束なし、心爰にあらずとてひたすら願ひけれども、遣唐使の勅命を蒙りし事なれば、其事思ひもよらずとて許されず、暫しのかたみとて鏡一面・小太刀一振・軸物一巻を渡して、すぐに唐土ケ浦より船を出さんと赴きしに、佐用姫心乱れて跡を慕ひ、しばしの形見を持ながら九里川を渡りしに、誤て鏡を水底に落しぬ、夫より領巾麾山の絶頂に登り聲をかけてまねげども、はや追風に誘はれ沖に出ぬ、此の時木の根茅の根に取り着きて漸く登りしに依て、鏡山の茅其道一筋下へなびくなり、今の世まで其のしるしあること奇特といふべきことぞかし、もはや船影も幽に成ければ、夫より船影の近き方といそがれしに、一つの島を見當り、かしこへ行かんと狭手彦の名を呼びて慕はれしにより、今の呼子を呼名の浦といふなり、すでに海士の釣船に打ち乗りて姫神島に渡りぬ、この島の小高き所に傳ひ登られしにより、傳登嶽(テントウダケ)と書きまた田島嶽と名づく、其處よりはるかに唐土の雲路ともおぼしく、一面に見渡すに船影も見えざれば、絶頂に伏し轉び歎き悲み、其の姿終に石と化す、是を松浦の望夫石といへり。其の後曇惠・道深といふ両僧、狭手彦帰朝の時一所に来朝しけれども、物部大連等日本に佛法を廣むるにより、神の崇りありと奏して、佛像を難波の堀江に沈め、寺を焼き失ふにより、蘇我稲目の指図に依て、この松浦より唐土に帰る時、両僧川上の里に観世音を彫刻し、また傳登嶽に登りて追善をなし、卒都婆を建て帰りぬ、其の佛法弘まりて一宇を建立す、天台宗傳登山惠深寺と號す、其の後この寺絶したるを再建して今龍雲寺と號す、是れ佐用姫の菩提寺なりと云ふ。往古人皇四十五代聖武天皇神亀四年、玉津島大明神々祇官に詫してのたまふ、肥の西に篠原長者の娘佐用姫といふ貞女あり、夫なるものゝ入唐をかなしみ死す、其姿忽ち霊石となれり、萬代の亀鑑ともなるべし、今詔を申し下し是を神祇に祭らしむべしとなり、武智麿この御告を得て佐用姫の神社と崇む、この時田島大明神の末社となし奉りぬ、其の以前は傳登山の峯に在せしなり、佐用姫神の社僧たりし今の龍雲寺寂滅の穢れを忌めり、さるに依て此の寺衰微して、又立ち難く見えけるにより、波多相模守固の代に當りて、加部島・加唐・馬渡三島を残らずこの寺の檀家に附けられ、此の時神職より奉幣して社僧はなれたり。
 其の後太閤秀吉公名護屋御在陣の時、御尋ね在って、この望夫石を見給ひ、かゝる舊跡を其の儘にして置きがたし、社を建つべしとのたまひけるより、小社を建立す。其の以前はたゞ其の御姿石に注連を張り、其の祭祀怠ることなし。武智麿の告文惠心寺に持ち傳へ、これこの寺の大什寶なりしに、いつの頃より紛失しけるにや、又はちぎれ朽ちたるにや、今はこれなし、此の武智麿は藤原不比等の子なり、不比等太政大臣正一位に昇進し、薨去の後文忠公と謚り給ひぬ、この事太閤秀吉尋ねたまひしに、龍雲寺にても神職にても申傳へし計りにて、いつの頃紛失せしとも知れざるよし申ける、類ひなき舊跡ゆゑ、佐用姫社領として百石御寄附御朱印、寛文四甲辰年寺社領御朱印御改め、宣化四年より寛政十二年まで一千二百四十五年になるなり、狭手彦は大伴金村の子なり。



一二、佐志八幡宮 佐志村宇佐志
               
祭神 譽田別(ホムダワケ)尊、足仲彦(タラシナカヒコ)尊、息長足姫(オキナガタラシヒメ)尊
相殿祭神
   天御中主尊、国常立尊、日本武尊 大鷦鷯(オホサゝギ)尊
   呉料神(ゴレウシン・鎌倉權五郎之霊を後世祭れるもの)、
   七十五神(神號不明)

縁起
 當社者、人皇七十三代堀河院御宇康和三年辛已年、源義家卿之家臣鎌倉權五郎景政、依有祈願事、石清水八幡宮奉鎮此地、于時十一月十九日也。其後領主波多氏社加修理、神田寄附在、人皇九十八代後圓融院御宇(南朝之後亀山)應安五壬子年、足利義満卿之家臣衛門佐源朝臣頼泰、九州為退治松浦郡、下着之時、當社被捧願書、社殿加修理神領寄附在、至爰神威益赫然。
 波多三河守、文禄之間朝鮮之役不利、坐事貶常州、波多氏亡、先此天正之末、豊臣秀吉公朝鮮為征伐、當国名護屋出陣之砌、借名神領悉被召放。慶長間寺澤廣高侯、知此地略戸封、僅免粢料。年暦治乱之間、興廃数換、寛永之始、社殿火炎回禄、神記悉皆焼亡、慶安四辛卯年、領主大久保忠職候、及遷此地、奉書而探神跡、神主曲以事聞、*(搖−テヘン+系)此信敬滋深、選日而詣本社、見宮殿荒廃、嘆息不止、謂左右曰、夫治国以武、守国以丈、我国神威之境、以敬神為守文、矧當社八幡宮、武家之宗廟、不可以弗厳之、遂發興復之志、重而修當社之神廟、祈天下太平、求武運長久、而後松平侯・土井侯・水野侯・小笠原侯領主代々、為祈願所。


  別記
 祭神 仲哀天皇、神功皇后、應神天皇
 一説に此所神功皇后三韓凱陣之時、鋒を納め給ふといふ。
          社司  宮崎主税
          下司  宮崎但馬
              同 越後
 末社 鎌倉御霊ノ宮
    鎌倉權五郎景政之霊也。

     松浦黨佐志将監建立云
         佐志将監墓所此處在
 佐志村八幡宮は、人皇七十二代堀河院の御宇康和三壬已年、源義家公の家臣鎌倉權五郎景政九州退治下向の節、石清水八幡宮を此處に勸講有之、十一月十九日に奉安置、其後人皇百代後圓融院應安五年二月六日、源義満公の家臣右橋門佐源頼泰、九州退治として松浦郡へ下向の節、夢想の事ありて、願書を神前へ捧げ、社の修理を加へ、神田若干を寄附せらる、其後松浦黨より信仰彌々厚くして、社の修理神田等数多寄附これあり。然るところ天正の末豊臣秀吉公神田を残らず取り上げらる。文禄三年波多三州公の世変誠に薄運の至りにて、其の後寺澤分神徳を尊敬し給ひ、社の修理を継ぎ、米一石五斗御供米寄附これあり、鳥居御建立等これあり、其の後正保四丁亥年、寺澤兵庫頭公御逝去御家没収となり、翌五年戊子御料と成り、東都より御上使御下向、萬事御調の上、當社の修理御供米等御定め下され、其の後慶安二己丑年、大久保加賀守侯御封内に相成り、當社の神跡を御探り、深く御信仰これある旨申傳へらるゝに至れり。



 一三、龍體神社 佐志村字龍體

 祭神 大綿津美神
 由緒
 當社は正保元年六月、唐津沖に異船来りしとき、城主寺澤兵庫頭、福岡城主と心を合せ、之を打ち沈め、海底に沈みたる品物を引揚ぐるとき、揚げ残りの大砲梵鐘、手を盡すと雖も、揚ぐること能はず、依て所々の神職に命じて、容易く引き揚げんことを祈らしむ。 此時佐志八幡宮の神職宮崎丹後、海濱に出で祈願すること良々久し、終に眠に就く、夢中に女神来りて曰く、残る品物は海中に留め置くなり、必ず取ること勿れと、忽ち夢覚む、丹後この旨を城主に言上す、城主之を疑ひ、龍神の姿を現すべしと、丹後再び海濱に出て、龍神の出現を祈る、此の時朱龍波間より来り、海邊の石上に息ひ、又元の波間に没す、城主も天主臺より之を見て、奇異の思ひをなすに、佐志より注進ありて、即ち大砲引き上げの儀相止みたり。彼丹後の案内にて、岡島七郎右衛門・並河九郎兵衛彼の體を現しゝ石上に至り見れば、龍鱗三枚あり、丹後之を持ち来り、小祠を建て之を祭り、則ち龍體神社と尊崇す、龍體を現しゝ處を今に龍體と號す、鱗石尚今に在り、時に正保元年申八月十七日なりと傳へたり。今は佐志八幡宮境内に移せり。



  一四、八坂神社 湊村大字湊
              
 祭神 素盞鳴尊、大己貴(オホナムチ)ノ命、少彦名(スクナヒコナ)ノ命
    事代主命、稲田姫命
 湊浦は古昔鰐ノ浦といひ、神功皇后三韓御征伐の時軍船を数多碇繋せられしより、湊の称をなすと傳ふ。本社殿堂の創立年代不明なるも、神殿前の小さき石の鳥居に延暦三と模糊たる文字を見れば、大方は平安朝初めの創建にかゝるものなるべし。祭祀は毎年四たび行ひて、陰暦正月十五日を春季祭と称し、又灰振り祭ともいひ、神輿渡御の前に産子(ウブコ)のものども老若男女の別なく木灰を打ち振る儀あり。これ神功皇后の柏木を焚き、其の灰を振り神を祭らせ給ひし古例に傚ふものなりと云へり。
六月十五日は祇園祭と称し毎年引山二本を奉納す。六月十九日は例祭と称し神輿渡御の儀あり。秋季祭は十一月十五日に行ふ。
 天正八年岸嶽城主波多三河守の命により、當地領主八並常陸介に當社の修築を行はしめ、神領として字牟田。祇園田・神楽田とて三ヶ所部合百余石の寄附をなせり。波多氏滅亡後寺澤氏は右の神田を没収せり。境内に雨乞池といへる十二間に八間の古池あり。また鎮西八郎為朝の五輪の塔と傳ふるものあり、高九尺計りなり。明治六年村社に列せらる。天正以来の神殿廃頽して明治三十九年改築せり。



 十五、住吉神社  湊村大字神集島

祭神 底筒男命  中筒男命
   表筒男命  息長足姫命
   天ノ兒屋根命

 本社はもと弓張山に鎮座のところ、元禄七戊歳同島宮崎に遷座せり。本殿は神功皇后三韓征伐の時数日間御滞留あらせられ、諸神を神集めし給ひ、干珠満珠の二寶を納められし神社なりと傳ふ、この故を以て神集島と名つくと。明治六年村社に列す。
 當社の寶物たる干珠は直径三寸六分の自然石の球體にして、金色の光を放つ。満球は直径三寸三分の球體の自然石にて、青黒の色彩を帯ぶ。
 又御三體の木像あり、精巧を窮め極彩色を施したるものにて、縣内にては佐賀市の楠公社奉安の木像と併称せられて、他に類例を見ざる尊像と云ふ。

 序に云ふ、同島には常に変りたる古墳ありと、篤學の士佐藤林賀によりて傳へられたるが、大正十年十一月十八日文學博士白鳥庫吉之が踏査をなして、四千余年前の族長の古墳たるドルメンなることを確認せられて、學界の耳目を牽くに至った。此の種の發見は我郡内にては嚆矢とするところで、史上稀有の事柄である。聞く長崎縣下壹岐島には、大小のドルメン数百を發見せりと。往昔は厚葬の風ありしは我国のみならず、他国にも見るところであって、彼の埃及のピラミッド(ギゼーに聳てゐるものゝ中には、現在の高七十六間、傾斜面の長九十五間余、方形の基底の一邊の長約三町)なる埃及王の古墳(約五千年前)の如きは、ドルメソとは同種のものにあらざれど、古墳たるは同一であって、實に偉観を極めて居るものもあるやうだ。神集島のドルメン(石窟)は僅かに人を容るに足るが如きものなりと云ふ。




 一六、土器(カワラケ)神社
                湊村大字屋形石字土器崎

  祭神 神功皇后
 息長足姫命三韓征伐の時、戦勝を祈り土器に酒を注ぎ海神を祭り給ひし所といひて、後世小殿を建立し土器崎神社を奉祀す、社殿の附近に七ツ竃とて名高き玄武洞穴の奇勝あり。




 ◎ 佛 閣

一、瑞凰山近松寺 唐津西寺町

 當寺は臨済宗南禪寺派に属する小本寺なり、抑も本音は往古上松浦郡禪宗七刹の随一にして、後二條天皇乾元元年(紀元一九六二)の創立にかゝると云へり。茲に湖心禪師は。後奈良天皇の天文八年(紀元二一九九)の春大内殿の命を承け、正使として大明国に至り、明帝に拜謁す、十年冬帰朝せり、尋て幕府の台命によりて筑前聖福禪寺に住す、此に至て名聲海外に高し。時に岸嶽城主波多三河守、師の高徳を慕ひ、浦島山の地を擇び(今の舞鶴城址)近松の一宇を再建し、聘を厚くし辭を卑くして以て師を招待し之が開祖と為し、寺田若干を寄附す、然るに正親町天皇天正二年正月三日兵火に罹り、七堂伽藍鳥有に帰したるは惜むべきことなり。
 後陽成天皇慶長元年寺澤志摩守廣高公豊臣大閤の命を承け唐津を鎮し、異国防備のため長崎に判事たり。然れども外国通辭に乏しきを憂ふこと久し、時に湖心禪師の高弟耳峰禪師は道學兼備の人にして高名亦師に過ぐ、因て寺澤公専使を遣し外国の通辭たらんことを乞ふ、禪師之に答て曰く、近松禪寺は吾師湖心禪師再興の地なり、幸に今公の奉邑にあり、先に兵火に罹り久しく荒廃し終に一小宇のみ存せり、公若し興復の志あらば其の命に應ぜんと、公曰く比の擧は天下の公事たり何ぞ少財を悋んで名師を失せんや、宜しく師が意に順はんと、乃ち唐津に移り共に外事を議て大に勲功を効す。故に本寺を今の地に移し世々の菩提寺と称し、寺田百石並に山林を松浦郡新木場村の内を以て寄附せられ以て寺産に充つ。明正天皇寛永十年四月十一日を以て廣高公逝す、壽七十一歳。是より先き公京師に役す、数々紫野大徳寺春屋国師を見て我が宗意を参得す、特に休甫居士の號を受け頗る禪法に帰嚮す。嫡子堅高公継て立ち、正促四年十一月八日又本寺住持の隠居扶持高貳拾石を新木場村の内を以て黒印にて寄附せらる。公正保四年十一月十八日逝す嗣なし故を以て寺澤氏終に絶し、當寺も亦衰ふ 當時第四代遠室禪師深く衰廃を憂へ、柳営に到り其の由緒を懐て愛愍を将軍徳川家光公に乞ふ、公先師の勲功を感賞して慶安二年八月十七日直に御朱印を賜はり、松浦郡伊岐佐村の中百石を寄附せらる、竝に寺中竹木諸役を免除す、因て舊観に復するを待たり。仁孝天皇文政三年小笠原公封を唐津に移し、本寺を以て菩提寺となし、年禄百石を寄せらる。
 明治維新王政復古の際天下一般土地人民を奉還す、因て又伊岐佐村の百石を奉還し、継で小笠原公の百石を返附す、其の後明治四年より六年まで稟米として下し賜はり、同七年より十六年まで十年間遞減禄として御下賜ありたり。
 本寺の由来大略是の如し、然れば前陳の如く朱墨印の二百石を領し、且つ當寺の末派寺院の数往古は十七ケ寺のところ、百年以来二寺を廃し維新の際十五ケ寺のところ、明治三年に三寺を廃せられ、方今全く十二ケ寺の末寺を有し、本派に於ても有名なる小本寺たる顯然たり。
 境内書院前の庭園は曾呂利新左衛門の築きし、唐津城下の風景を寫せしと傳ふる築山なり。寺域の西方に寺沢志摩守廣高公堂の五輪の大墳墓、同兵庫頭堅高公の自然石墓標、小笠原佐渡守長和公等の墓所あり。また華厳の釋迦佛の石像大佛は、松平和泉守乗春公の建立なり。淨瑠璃界の鼻祖近松翁の墳墓あり、墓石の裏面に隠し銘として略傳を刻す。昔時は當時の八景等も存し、維新の際まで大佛殿等もありたれども、廃禄以来全く荒廃に帰せり。本来當寺は無檀家なるも、文政年間小笠原公移り来りし際に、該藩士は悉く本寺の檀家たらんと希望したるも、陽溟大和尚は性太だ淡泊にして之を謝絶す、されど祖先を以来本宗の信徒に限り、止むなく承諾帰檀を許せしもの五十余戸、外に庶民の檀家たるもの十戸に満たず。
 現存の建物中にて法皇殿(本堂)衆香国(庫裡)の二屋は、慶長三年正月の建立にかゝり、大門は名護屋城大手の門を豊公より下賜せられ、同三年其のまゝ當山に移したる名門なり。小笠原家御廟所諸堂は天保十二年十一月の建設なり。
 寶物
一、名剱長刀 一振(相模守藤原政常の作)
一、同駕兒刀 一刀(左近将監源祐信の作)
  右長刀は夜念佛と記録に記せり、寺澤志摩守所持當寺に寄附。
一、足利權大納言将軍義照公筆   二通
一、寺澤公父子の書翰       教通



 二、清凉山淨泰寺 唐津新町

 寺澤志摩守贋高、御父越中守殿菩提の為め建立せられたるものにして。天正十五年丁亥年(紀元二二四七)眞譽空阿上人の開基とす、淨土宗知恩院の末寺にして、三代将軍家光公より御朱印地高五十石を、佐志村字枝去木に賜はる。
 當寺本尊は、御長二尺九寸の阿彌陀如来なり、人皇六十五代花山院の御字、寛和三年の夏、惠心僧都其慈母安養尼公におくれ給ひて、孝養追善の為め、一夏九旬の際、一刀三禮して彫刻し奉れる霊像なり。威容魏々祥瑞多端にして、洛中の貴賤、洛外の緇素普く尊重し、現世の頼望結縁を祈るところなり。星霜漸く重りて人皇百七代正親町院の御宇、松浦郡領主波多三河守公役の序上京し、叡山四明の聖堺に詣て、横川の邊にて此の尊像を拜して曰く、我領知するところは日本の邊地にて、人心質朴ならず、邪悪不信の民攝化済度のため、猶我が子々孫々、国家安全の守護佛と崇め奉らんと願はれしに、其の事叶ひ、則ち本尊を守り奉りて本国に帰り、當郡の内神田村山口といふところに、山谷の清香坊在りて一宇を造営して、稲田数町寄附せられ、僧侶日夜の勤修怠ることなし。眞譽に奇異の説を申傳へしは、其の頃波多家の代官職に、池田帯刀といふ者あり、この地を守りしに、佛餉料田地良田なることを惜みて、麁田を替へて佛田としぬ、農民これを受けて作をなし、五月頃早苗を取るに、毎夜童手の足跡にて、右の替地を踏み荒すことあり、何者の仕業と云ふ事を知らず、或時射功を得たる侍五六輩を以て、夜陰に窺はしむるに、一人の小僧出で、彼の田の中に入る、右守衛の中より矢を放った、手答へして覚えけれども其の人なし、足跡をしたひ此の寺に来り、小僧同宿など尋ぬれども疑ふべきものなし、堂に登りて本尊を見れば、佛像の裾に泥土附きてあり、又左の脇に彼の失深く射込みて立ちければ、當番の侍是を見て膽をつぶし、罪科を懺悔して矢を脱き取りたり、今に其の失跡歴然たり、此の故に世俗呼び名して矢負如来、また泥土附き本尊とも云へり。又慶安二年五月當寺四世教譽上人住寺のとき、本堂に面の瓦一度に落ちて、遠近騒動することあり、本尊を尋ぬれば、西表の塀の上に遷座し給ふ、見聞の人毎に不思議の思ひをなせり。其後的誉上人の弟子に単歴と云ふ小僧あり、天性魯鈍にして睡眠ふかく、誦経の度毎に沈睡せり、或時勤経念称して眠りけるに、鼠色の衣を着たる老僧来りて、扉を聞き給ふに、時節の暑を堪ゆる様に覚えて、眼を開き彼の老僧を見て恐懼しければ、佛壇に登り給ふと見えて同様になり給ふ、夫より単歴眠らずして、聡明なり侍るこそ奇特の事共なり。又現在(転誉某)、元禄年中の頃春雨車軸のごとく降り、頻に本堂の拍手して人を呼ぶ音すなり、童僕答て出迎ふに人なし、天井より雨漏り強く篠のごとし、急ぎ本堂を脇の内に移し奉りけり、佛殿の上屋根板腐れて落つること、岸の崩るゝが如し、僧侶奇異の思ひをなし、右拍手の音は如来の御告諭なりと有りがたく覚えぬ。誠に末世に至りて泥木塑像の、かく不思議あることを名體不離にして、眞佛不離不即の謂れぞと、檀家他門の男女まで尊重し奉ること、生身の阿彌陀如来のごとし。然るに文禄中太閤秀吉高麗出陣のことあり、寺澤越中守子息志摩守廣高供奉の兵士たり、父越中守當国名護屋に止り守護の士たりしに、越中守この如来威徳を感
じ、御堂を名護屋に移し給へり(今名古屋村専称寺)年経て越中守卒しければ、子息志摩守家督し、両親の崇敬したまひし寺なればとて、亡骨を當寺へをさめ給ふ。
  越中守 巌淨院殿看譽淨泰禪定門
  夫 人 華璽院殿春譽慶圓大姉

 則ち淨泰居士の法名を以て寺院の號とせり、是に依て慶長元年七月寺領を改変して枝去木村にて五十五石、山林竹木まで永代寄附の寺となり侍るなり。然るに慶長四年に、志摩守當唐津の城主となり給ふによりて、此の地に寺を移し、本堂・方丈・庫裡等形のごとく造営し給ふ。爰に志摩守嫡男兵庫頭堅高正保四年早世したまひて継子なければ、代々の家断絶せり、内相迂流の習ひ誰か是を免れんや。
 當寺住僧教譽上人、寺院の衰廃せんことを悲しみ、武州江戸へ到り、時の寺社所安藤右京進殿・松平出雲守殿両所へ先訴し、五十五石の寺領分御朱印となし下され候様にと願ひ申し上げ、又當城の在番として、中川内膳正殿。水谷伊勢守殿へも相達し、御上使齋藤佐源太・津田平左衛門見分の上を以て、右の願相叶ひ、始めて大猷院殿(家光将軍)御朱印を給ひしなり、代々の将軍御代替りの節頂戴すること、今に変りなきなり。
 凡當寺創立は天正二亥年にて、今まで百三十九年なり、開山實蓮社眞譽上人より、百三十余年の星霜を経ると雖も、寺門衰変なく、師檀繁榮なること、當尊像不思議の高徳にして、末法萬年の燈び明かにして、利物偏僧の御利益誰か信ぜざらんや、中にも此の寺は波多廣直公、明君理世の跡を尋ね、庶民の安全を祈らん為めに、南都北嶺の伽藍を形どり、聖武桓武の帝徳に習ひて、此の地に造立し給ふ精舎なれば、国家安全四民豊饒にして、理世安穏後世菩提の道場なり。
  享保二酉年十月十日      當現住轉譽比岳岌山
                  謹而誌之



三、釜山海高徳寺  唐津中町

 淨土眞宗東本願寺の属寺にして、大閤朝鮮征伐の時彼の地に於て諸将士の葬事を勤むる故に、帰朝してかくは號するなり。當寺開山其の人は、始め織田家の臣奥村掃部之介、永享三年亥年世を辭し、本願寺六世教如聖人を師とす、其の師より一寸八分の黄金佛と、開山聖人の九十歳の像を寫し贈られしを、其の家に傳へ、其の孫小源太といふ者に至り、先掃部之介の例に傚ひ、本願寺十一世顯如聖人の弟子となり、天正十二未年松浦に来り、一宇を建立し、朝鮮に渡海し、彼の土にも帰依者多しとなり、同十三年酉七月帰朝す、其後大閣名護屋にて朝鮮のことども尋ねられて、渡海を許し、彼の地にて討死者の霊を弔ひしとなり、釜山海の號を大閤より賜り、其外拜領左の如し。
   五味の茶釜     金銀鐵錫銅の五品や交鋳。
   金砂の茶碗     古高麗焼なり。
   梅繪高麗焼茶碗   クワンニウなり。
   呂床の慶      大古物のよし。
   金屏風一双  檜に焼匁笹の画狩野元信寫縁り蜀紅の錦花桐の模様
   堆朱香盆   地に彫り模様彫り上げ唐馬
 本尊彌阿陀如来春日作り、本願寺内佛より移し来る。開山聖人自筆の書、聖人七寶の珠数、教如・蓮如の書、教加の袈裟、寝塔水蓮花座、苦行釋迦の画像了海の筆、太夫坊覚明経文掛物、其他公家方墨跡等軸物数多あり。

  同別記
 織田家の臣奥村掃部、永享三辛亥年世を辭して、本願寺六世教如上人を師とす、則ち僧となりて七世存如上人の時まで随ひぬ、親鸞上人九十歳にして遷化し給ふ、教如上人其の影像を寫して、是を掃部僧號玄了頂戴せり、今に此の開山上人の尊像高徳寺に傳ふ、或説に奥村掃部の子小源太、其の子小藤太といふもの、掃部より傳へたる一寸八分の金佛と、教如上人の画かれたる開山上人の九十歳の影像とを待ち傳へて、古主織田家に奉仕せんと、辛苦を凌ぎたるに、其の砌織田信長と合戦出来て、其の着到の人数にも加はりたく、暫く見合せ居たりしに、天正十年午六月二日、信長明智日向守光秀が為に自害、信忠は二條の御所にて自害し、今は織田家衰微して、故主の仇を報ずるものなし、暫く京の片邊に隠居しける、こり小藤太また剃髪して、顯如上人の弟子となる、天正辛未年僧と成る、此の時までは本願寺東西の差別なし、小藤太廻国して松浦に来り、此處に高徳寺の一宇を建立し、顯如上人より與へられたる、本願寺御肉佛の本尊を移し奉り、猶朝鮮国に渡海し、彼国にても帰依信心の人多し、同十三年酉七月帰朝せり、其後秀吉公の厳命に依て、夜話の御伽に召れ、朝鮮国の事ども委しく御尋ね有りて、さまざま申上げければ、御機嫌よく朝鮮渡海をゆるし給ひぬ、則ち一寸八分の黄金佛彌陀を守護して、彼地に再渡しけり、彼の地にて討死者の霊魂を引導し、太閤御機嫌よく、名護屋にて種々の拜領物ありたり。



 四、安樂寺 唐津呉服町
 京師本願寺譜代端坊は、太閤秀吉公御定めの名護屋六坊の中の随一なり。文禄元年秀吉公朝鮮征伐のとき、毛利駿河守之春三男、端坊順了と號す、名護屋御陣に於て、格別の御懇意なり、折々御伽に召されたり、其連中には端坊・龍源寺・龍泉寺。淨泰寺なり、名護屋端坊境内に六坊あり。
  善海坊 本勝寺  順海坊 安淨坊  龍泉坊 正国坊  了善坊 行因寺
  了休坊 傳明寺  端坊 安樂寺
 名護屋端坊に於て、本願寺教如上人、両度駕輿を入れられし其の格式にて、今に至るまで本山より使僧ありと雖も、上壇の翠簾、拜前の手摺欄干等其の儘にて、待ち請けあり、是れ普通の寺格にて、なり難き事となり。毛利家傳来の什物品にあり、一系図譯書等傳はりぬ、然るを法弟一保といふ僧、此の一系図を以て出奔し、長州に至り厚く用ひられければ、三年にして又出奔し、美濃国に至りしに、幸に小院ありて居住す、其の頃行脚の山伏この寺に雨伏しけるに、住僧出てゝ何れの修験者にて候やと尋ねければ、肥前国小城と答ふ、折ふし雨頻りにふり、暫く休息しけるに、住持の曰く、小城とあれば愚僧も同国なり、隣国唐津安樂寺を知れりや、院分知れりとて委く語りければ、此の一巻を持ちいで大切なる品に候へども、何卒遅滞なく唐津安樂寺へ、届け給はれと頼みけるにより、受け取り帰着の砌、安樂寺に送り届けぬ。抑々當寺本尊は御長二尺有五寸にして、行基菩薩の作佛にて、此の本尊其の始は、天川村禪宗西光寺の本尊なり、然るところ西光寺の住持へ、或時示現し給ふは、寧ろ此の山林に隠れんより、市井に出でゝ衆生済度をなすべしとなり、此の故に安樂寺に其の事を傳へ送りけるに、天川村の人皆擧りて言ひけるは、聞くならく御本尊は忝くも行基の作佛にて、西光寺傳来の本尊なり、佛示現し給ふと雖、いかでか他の寺に移すぺけんや、是非に之の如く西光寺に迎へ奉らんと、手段を窮め難なく迎へしに、さまざまの異変ありければ、又安樂寺へ送りしなり、此の時安樂寺より本山へ伺ひ、右の譯にて本尊を迎へたるに、其の以前御本山より下されし本尊に、また此の節右の譯にて迎へし本尊、如何仕るべきにやと伺ひけるに、御本山よりの本尊は本勝寺に送り、行基の作佛は安樂寺の本尊に備へ奉るべしと、指し図に依て本山の家老宮内卿法橋承り、安樂寺へ傳へければ、則ち本山より賜はりしは、本勝寺の本尊に供へ奉りしなり。名護屋の寺坊は後唐津に移る。




 五、養福寺 唐津 東寺町
 延享の頃養福寺諦譽上人といふ住持あり、或時學窓に書を讀みながら、ふらふらと眠りしに、夢に地蔵菩薩顯はれ曰く、是より西の方衣于山の麓に一つの岩窟あり、往昔此處に阿彌陀佛と共に立てり、今汝が寺に移らんことを願ふとなり、夢覚めて驚き思ふ、我信心せんと執着の迷ひなるべしと打ち捨て居たり、翌夜また替らず其の夢を見ければ、不思議に思ひ、直ちに衣于山の麓へと志して寺を出でぬ、丁田村蓮地の邊にて、鷹見根右衛門といふ人に逢ひぬ、根右衛門いひけるは、諦譽上人は何方へ赴き給ふぞと問ふ、上人答へけるは、我思ふ仔細ありて衣干山の麓に赴んとす、根右衛門申けるは、我も仔細ありて御寺に赴くなり、此所より御寺へ還り給へといふ、諦譽又いひけるは、愚僧不思議の夢を見たり、一夜ばかりならばさのみ信ずるにおよばねども、両夜まさしく同じ夢なれば、夢想の告げ疑ひなし、阿彌陀佛竝に地蔵尊二體、衣干山の麓の岩窟におはすよし、尋ね求めんと思ふなりと噺しければ、根右衛門手を拍ちて感心し、我も其事を告げんと思ひて、此處まで出浮きしなり、其仔細は我家に阿彌陀佛と地蔵菩薩と二體、往古より持ち傳へたり、この佛像夢中に告げ給ふやう、養福寺院内へ移すべしとなり、余り不思議に思ひ其事を話しまゐらせんと、今此處まで来れり、さらば右の佛像を贈りまゐらすべし、我家へ来り給へと誘ひて、則ち佛像を諦譽上人へ渡し養福寺に移しぬ、入佛供養等の事済みて 一両年経て京都の佛師に彩色を頼み、又其の像の作者を尋ねければ、地蔵菩薩は恵心僧都の作に紛れなきと定めぬ、今一佛は上品の阿彌陀佛なり、是も何れ佛作なるべし、何れの佛師の作といふことを知らず、かゝる佛像假初の彩色は仕がたしといふ、然れども押て頼みければ、後光蓮花座ばかり彩色をなし、其の儘にて下り給ふ、この故に未だ煤びたるまゝにして安置し奉りぬ。土井大炊頭及び其の大老職土井内蔵允といへる人信仰ありて、折々参詣せらるゝ帰依佛なり。



六、高城山法蓮寺  唐津東寺町
 開基は遠誠院日親聖人なり、歴代の内、住職波多三河守殿舎弟八幡坊日解聖人、其の頃石志村(今鬼塚村の内)高城山にあり。然るに大久保加賀守殿唐津城主たりし時、城下東寺町に移し、大久保家菩堤寺の内なり、三寶祖師、四菩薩、四天王、波多三河守殿御母公の寄附なり、其の後住持日悟聖人再興す、當本寺は房州小湊なる誕生寺なり。
 當寺本尊は、御長一尺二寸の観世音にして縁記を添ふ、施主土井大炊頭殿家中井上新右衛門、この観世音は武蔵より下総の間、火水の難等さまざまの奇特あり、彼の寺縁起に委し。この縁起竝に観世音尊像につき、武州にて明暦年中の大火の時奇妙のことあり、この故は焼け残りたる所の文字、或寺僧盗み奉らんとしけるに、其の夜しきりに眠りを催ふし、其のまゝに打ち臥し、夜明で目覚めけり、翌晩宵より盗み取り風呂敷に包み、寺を出奔せんと覚悟せしに、又其の夜不思議なるかな、其の風呂敷元の如くにして、尊像は佛檀に直り給ひぬ、この僧懺悔して寺を出でぬ。
 日親聖人法弟日儀作と、尊像の後に銘あり、又師命に依りて是を彫刻すとあり。近頃日誠聖人再興すと。
 この寺代々の聖人、紫袈裟紋白の免許あり、寺格最もよし。



 七、法雲山龍源寺 唐津東寺町
 應永三年癸卯年二月十四日、融能大和尚の開山にして、曹洞宗豊後国泉福寺の末寺なり。太閤秀吉公より御朱印三十石を賜はりしが、寺澤志摩守の時故ありて黒印となる、寺澤家没落後は、城主より合力米三十俵づゝ毎年賜はりたり。



 八、寶聚山功岳寺 玉島村字南山
 禪宗曹洞派、開基草野長門守永久、以其諡曰功岳寺、境内有墓所、
銘曰 勝運院殿前長州大守功岳淨勲大居士
 日本寛延四龍次辛未秋八月十一烏、正當當寺開基勝雲院殿前長州大守功岳淨勲大居士二百年之遠忌也。世號草野長門守藤原姓永久、肥前州上松浦郡草野庄領主也。當寺十五世住持僧法沙門高州叟預三年前、相謀草野郷大小之村吏、轉玉島山塔廟、移當寺東南隅矣、曰所以慮拂拭疎漏也、然草野郷民多先君家臣類葉也、故募教民家、喜捨淨財、而以充移墓修之資、其及忌筵設齋之助料也、斯時前後一七日、請諸山晴衆、而開甘露門、轉無上法輪、以追福先君冥社、忌筵聚會緇素凡三百有余人、遠近聴衆不知其員也、如在祭奠可謂勉矣余竊惟、草野家系年代深遠、時是戦国、惜乎始末不詳、故余撮諸国軍記、或*(小見)村老口碑、平生無閣、片言隻字所見聞逐一雑録焉、備後見、可與不可錯兼不錯、竝考則是幸也。我聞之昔年、天智天皇御宇曰雉年中、筑後国御井郡領主草野太郎常門者、智仁兼備勇士也、平日信聞圓通大師、以霊木刻彫尊容、且新建観興寺、而奏聞天智帝、為勅使右大辨種政卿参向云々、詳観興寺記録也。然常門末孫草野太郎永平時、當源平壽永乱、九国諸士多属平家、草野太郎属源家、以盡無二忠、依茲頼朝公厚賜恩禄云々、而附属筑後居城嫡子何某、而賜別地肥前上松浦郡、居止於此矣。于時永平故郷難忘、筑後草野在名悉移此地、異地同名此彼相符合者乎、爾来累代相續来、而草野入道圓種、元弘建武乱之時属宮方、芳野執行法印宗信曰、而今員諸国不変宮方、於筑紫、菊地・松浦・鬼八郎・草野・山鹿・土肥・赤星云々、元弘三年八月二十九日入道圓種依軍功賜綸旨云々、草野太郎永平同種守・同貞永・同四郎入道圓種・同四郎武永・同永治・同長門守永久・同中務太輔鎮永・同鎮信・同鎮恒・又我聞之青木何某任鏡明神大宮司、因茲於福井村、庄田三十余町宛行者也、向後可為一族親也、鎮永書與青木何某云々、天文十三年為鏡尊宮勅使参向、地頭永久主此事云々。又松浦軍記云、波田鶴田両家者、草野之墓下也、然波多鎮者、草野永久甥也、中務太夫鎮永者原田劉雲軒了榮之三男也、永久養子之、而相續草野家、然原田家早逝、而無嫡子、亦養鎮永二男、令續原田家、永久居城南山、鎮永居城二重嶽、相續築松尾城、今云引地是也、見于筑前風土記、奥州會津保科家臣原田氏者、草野原田両家末孫也、筑前黒田家臣澤木氏者、原田之類族也、依有由緒以草野鎮永娘、嫁澤木姓、同家中松原氏室女亦鎮永娘也云々。草野家建立精舎四院、曰興聖寺済家也谷口村、曰畳石山天澤寺洞家也岡口村、曰玉島山千福寺洞家也、玉島寶聚山功岳寺洞家也南山村、典聖・天澤・千福三寺者、有為轉遷惟有名跡耳、寺者則無焉也、當寺者元、天文二十三年草野鎮永為慈父永久公、所造建蘭若也、因請一如和尚、為開祖住持、未幾歳嬰老病遷化焉、相次寺亦為兵火焼失矣、于時鎮永再建佛閣殿堂、請岡口村昌岩院貴菴和尚、菴固辭不赴、相共謀而粛請本師勝山和尚、称重興第一世、勝山以老主持不能、一歳謝而附属寺貴菴、退間華峯、貴菴重興第二世也、爾来法脈嫡々相承、而至於今流通無窮盡也。元禄年中當寺住持矩堂高欽代、當邑南北限上猫石下新橋、稲梁枯朽而不實者一分中数百茎計也、如此者十有三年、居民大慨而祈神社佛閣、雖使陰陽巫覡考占、而無其効也、茲或人占斯則高家人古塚埋在荒野無有識者、依此崇有此凶、高欽於玉島山、石刻地蔵菩薩尊像、而為草野家一類眷族、設施食法會、其年以来稲枯随而止云々、至今毎歳七月朔有施食會。金平日慮、開基塔廟本所不正而置懐不忘、然去庚申年六月十一日、余遇々有 津城行、帰路経歴玉島大道、至於此余意頻欲見玉島寺跡、即往窺視地形、荒廃土中埋有如塔様者、但謂(オモフ)唯心所為乎、帰寺謀村老等而七月十七日至彼地、穿石除土則大塔儼然而出矣、銘文不泯滅果而開基永久公之眞塔也、因茲訟於官、官命之而曰、寺僧勉勿怠拂拭也、八月十一日近郷庶民聚會彼地而更造建木浮屠、以伸供養、余謂此事實不可思議者也。
  寛延四年辛未秋八月十一日
               前総持當寺十五世傳法沙門高州叟謹記



 九、河上山殿原寺 玉島村字平原
 今は寺號と本尊のみ残りて小堂あり。

 縁起
 肥前国上松浦郡草野庄平原郷、根本観音者、松浦佐用姫之霊佛也、往古宣化欽明両朝之御宇、高麗新羅背於我、為征伐大伴金村大連之長子狭手彦被遣三韓、狭手彦到當国滞留之間、以佐用姫為最愛之妾。狭手彦發船之時佐用姫慕別離、登高山望其船、流涙振袖而招而詠歎、故其山號領巾振山、今鏡山是也、其後佐用姫到此處終死、其宅所有大椿、類族為姫追善、伐彼椿木、以立根木五尺刻観世音霊像、依之號根木観世音、建立一宇曰河上山殿原寺。當国北方之海邊有島名田島、今曰壁島、爰在田島大明神之社竝佐用姫之霊石、此神者則崇祭大伴狭手彦也云々、夫話佛之感應雖無勝劣、観音之霊験殊勝也、大慈大悲之秋月無不照所、三十三身之春花無不匂所、
一運歩之輩成就二世之願望、纔唱名者消滅當時之殃災、孰不仰此菩薩乎。
  寛永五戊辰年九月三日   敬書




 一○、天鼓山来雲寺 鏡村字宇木

曹洞宗の門派に属し、領主より合力米六石の附與あり。寺澤式部大夫の基其の境内にあり。
寺澤氏より寺領附與の書状左の如し。
 宇木村之内高五十石、全可有寺領也、仍如件、
  寛永十二年乙亥正月二日    兵庫頭堅高 書判
                  来 雲 寺


同家老の副状あり左の如し。
 常寺領之事、先年継目之時、志摩守書出、兵庫頭被留置、則兵庫頭書出取替進申候處、相違無御座候者也。
  正保五年戊子正月十五日
                 熊澤三郎右衛門
                 竝河太左衛門
                 澤木七郎兵衛
                 今井縫殿之介
                   来雲寺

右の通り寺領附與のところ、寺澤侯没落以後は右の合力米となる。




 一一、瑠璃光山醫王寺 久里村字黒岩
 今は改めて芙蓉山とす、曹洞宗の寺院にして、能登国総持寺の輪番所なり、領主より合力米六石の附與あり。
 寺内に北條氏房の墓あり、朝鮮役名護屋在陣のとき、此處に葬りしものか、また大友の塔とて大なる墓あり。此寺に名護屋在陣の時、諸侯の書寫にかゝる大般若経あり、其の姓名記あり。此り寺の山號は始め浦田山と名けたるよし、如何なる故か明かならず、浦田は人の姓を取りたるものか、開基に縁あるものか、末寺に廣瀬の福聚寺、畑津の寶泉寺其の外数多あり。



 一二、龍谷山瑞巌寺 北波多村字徳須惠
 波多参州公の菩提寺なりしが、今は僅かに一小堂宇を存するのみにして、煙滅廃残の状あはれなり、其の當時は禪宗に属する一大巨刹たりしこと、今も田圃の間に寺跡の名称を存する範囲に於て推知すること難からず、本尊の観世音は牧渓の作なりと傳ふ。



 一三、日生山心月寺 鬼塚村 字山本
 開山は仁岳大和尚にして、禪門なり、鬼子岳城主波多三河守親の前室、心月瑞圓大姉を埋葬したるところにして、為に一寺を建立し、本堂の床下本尊の下方に墓所を設く。
 元和二丙辰年寺澤志州侯、検地のことあり、乱世の砌にて郷方に記録の存するもの稀なり、検地の節心月寺住持を頼み、水帳を書きしなり、其のとき侯は同村庄屋方座敷に、住持を招きて諸事の尋ね物語りの上、寺附きの持地の分は、田畑地味の等級を下して、特典を與へて租額を減ぜられたり。
  什 物
 一、瑞圓大姉遺物の琵琶。
 一、夢中飛入の観世音。
 一、瑞圓大姉遺物の懐剱。
 一、同 操珠数。
 一、波多相模守の鎧。
 一、天竺傳来苦行の釋迦。




一四、普堕落山潮音寺 湊村字湊

 如意山潮音寺とも號す、本寺観世音は、安元乙未年小松内大臣重盛公の願望にて、難波ノ浦より送り奉られし霊像なりと、是れ則ち重盛公世の盛衰を観じて、同年六月三千両の金を育王ケ島に送られぬ、此の重盛は本朝の聖賢と賞せられし人なり。此の観世音の佛像この浦に着せし因縁を尋ぬるに、其の頃潮の鳴ること数日にして、金色の光に香気あり、所のものども評定区々なり、爰に萬吾・萬六とて兄弟の漁夫あり、出入兄弟共にし、釣り網を業として世を渡りしが、この兄弟生得律儀にして浦人には稀なるものどもなり、二人囲炉裏の前にて四方山の物語りの序に、弟萬六申しけるは、かく兄弟心を同うして漁事をなし世を渡りけれども、家貧しきこと外に竝ぶものなし、適々先祖を祭るといへども、漁事の価の残りを以て、漸く香花を捧るのみなり、願は渡世を替へ一生を送らんものをといひければ、兄萬吾いひけるは、生ある燐魚を殺生して世を渡ることを恐ること尤もなるべし、されども父母の業を継ぎ、兄弟も其の家産を受けて育ちたる身なれば、其の業を改むるは不孝とやいはん、いざ潮の来りければ網せんとて、兄弟打ち連れて出でにけり。然るにこの時潮の鳴音すさまじく、金色の光り香気等の顯はれしこと不思議なり、兎も角も網をおろし見ばやと、則ち網を下しけるに、魚は一つもかゝらずして、此の尊像は忝くも賤夫の網に罹り給ひければ、兄弟驚き船ばたに引き揚げ奉り、禮拜尊崇して直ちに賤が草家に移し奉りければ、近浦の漁夫遠近の親族奇異の思をなして、兄弟が家に群集して彼の霊像を拜しけり。衆皆兄弟に申しけるは、早く小堂を建立し、尊像を安置すべしと、されども兄弟家貧しく朝暮の糧さへも継ぎ難ければ、其の営み叶ふべきにあらざれば、深く是を嘆きながら是非なく、息穢の魚鱗とまじへ安置し奉り居けるを、近浦のもの打ち寄りて、小堂を建立し移し奉りぬ、其の後霊像夢中に示現し給ひ、此の穢土を淨地に復すべきに依て、三日の内に炎上の変あるべし用心覚悟すべしとなり、果して彼の堂も類焼せり、尊像は早く出し少しも損せざるこそ奇妙なり。
 又寛元四丙午年蘭渓といふ僧来朝し、此の沙門に随身したる惠教法師といふ僧、西海に行脚の時、普堕落山潮音寺といふ七字を壁面に書き付けて去りぬ、この蘭渓は後に大覚禪師と號して、鎌倉建長寺の開山なり、其の後この菴寺を改め、建長寺と称せんことを望みけれども、平氏の祈祷により送り奉りし尊像なれば、其のこと成就しがたくして止めり、又重盛公この尊像の内に金子百両宛を,御づし料として封じ込み置かれしなり、星霜遙かに隔り、應永四辛戌年洛湯に修復に遺せしに、佛師金子を抜き取りしとかや、この者狂乱して洛中洛外を狂ひ廻り、金銀を使ふこと土砂子の如く、或は堂の上にて御供を掴み喰ひ、経文を喰ひさき、何處のものどもも制し兼ねて、将軍義満公に達しければ、召し捕られ直ちに獄に下し置かれぬ、此の観世音は湊浦に再び下り着き給ひぬ。



 一五、醫王山東光寺 湊村字相賀

 薬師佛は、住古茅原浦 玉島村五反田のこなた淵ノ上村に建立しありし佛像なり、御長二尺にして、弘法大師の作なり、この寺済家宗醫王山東光寺と號す。今相賀浦に移せる故事を尋ぬるに、承安二辰年洪水にて淵上村崩れ落ちて薬師佛共に海中に入る、其の後所々尋ねけれども、更に其の尊像を得ず、三年を経て、四年申午海中に夜な夜な光りを見る、人々恐れて近づき寄ること能はず、ただ評判区々たるのみなり、或時墨衣の旅僧何れより来るとも知らず、この浦に止宿して、其の海中の光れる事を聞きていひけるは、正しく是れ佛作の霊佛海中にましますならん、斯るためし世に往々あることなり、必ず懼るまじとて、其の夜海濱に出でて讀経せられしに、いやましに光り其の邊に輝けり、自然と浪静に忽ち尊像顯れ給ふ、それより夜の明るを待ちて、浦人ども海中に飛び入りて尊像を捧げ上れり、則ち領主に訴へて、小堂を造りて安置し奉りしなり、其の由淵ノ上村より聞きつけ、尊像を迎へんと望みけれども、相賀浦より許さず。
 抑この本尊は弘法大師、延暦五丙寅年より頻に無上の法を求めんとて、入唐の志を記せし折しも、この尊像に祈誓し、何卒我に離塵の大善法を得させ給はゞ、帰帆の後一異を以て、七體の尊像を作り奉らんと、深く誓はれしとなり。大同元年帰朝して、阿字本不生の善法を得て、終に素懐を遂げ給へり、是に依って則ち帰朝の後作られし、其の七體の中の一佛なり、其の余の六體三州蓬莱寺・攝津有馬潟山・讃州北濱・因州鳥取・肥後法華嶽・筑州堅粕・今の恰士松浦両郡の境淵上に安置し奉りしなり。承安前後の頃は、鬼ケ城草野氏。鬼子岳波多氏・二重嶽原田氏縁者たりといへども、取り合ひ度々にて自然に穢士となりける故にや、この相賀浦に移り給ひしより、今に至るまで霊験あらたかにして、さまざまのこと擧げて数へがたし、猶また是も諸人に勤善懲悪のため書き載せ侍りぬ。
 文徳帝の御宇仁壽三癸酉年、住僧の盛厳和尚熱病にて、露命はかなく消えんと思ふ折ふし、薬師佛日衣の老翁と化し給ひて、悩み臥したる床の元に来り給ひ、奇妙の薬湯を與へ給ふと覚えて、和尚忽ち快くなれり、如何なる人とも知れざりければ、薬師尊の助にやあらんと思ひ拜し見れば、薬の入りたる茶碗を手に持ち居給ふと覚ゆ、誠に薬師佛の助けに疑ひなし、感涙深く拜謝し侍へりぬ、右の霊夢を感得せりと、古記に見えたり。
 天正十五年丁亥臘月上旬、盗人大鐘を盗み取りければ、諸方を尋ぬれども行衛知れず、同月上旬に至りて、相賀浦湊の間の北濱に怪敷き聲あり、皆人行きて見れば、鐘の龍頭に藻を纏ひ、浪間に浮沈して其の景色、相賀に帰らんとの音ある有様なり、是に依って寺内に取り寄せ侍りぬるとぞ。
 慶長元丙申年二月中旬、寺澤志摩守妙なる鐘なるよし聞こしめされ、唐津城に取り寄せ、時鐘としたまへば、忽ち菅留りければ、佛意に叶はざるやと、相賀に送り返しけるよし古記に見えたり。
 後光厳院帝の御宇、延文三戊戌年八月八日、大同元年丙戌年より五百五十年に當て開扉あり、其の後貞享四丁卯年二月八日より三月八日まで開帳ありと古記に出でたり、大同元年より享和元年酉まで凡千三百十三年に成るなり。



 一六、内田山淨聖寺 唐津村字神田
 内田山本尊は、御長一尺二寸の観世音菩薩なり、人皇五十九代宇多天皇仁和四戊申年、弘法ノ大師の御弟子眞然大僧都、仁和寺供養の導師たらん事の勅宣を蒙り、離塵の大善法を修し、南無大慈大悲念彼観音力と合掌し、我今仁和寺供養成就の後、尊像を造り奉り安置し奉らんと祈誓し、供養の後、その尊像を彫刻し内殿に納め、昼夜の勤経怠りなく、眞然僧都遷化の後、醍醐天皇の御宇昌泰三庚申年正月、融大臣の御子左大臣源光の住み給ふ、六條河原院の樹上に金色の光り顯はれしにより、信心結定して拜し給ふに、この尊像にて渡らせ給ふ則ち奉迎し奉り、松浦郡鬼子岳城主松浦波多治郎永より傳へて、神田五郎廣一宇を建立して、打田山淨聖寺と號す、神田の領主より代々の修理をなし、又寺領あり。
 然るに太閤秀吉朝鮮征伐の後、波多三河守改易して、上松浦一黨飛花落葉の有様にて、城跡は狐狸の栖となり、所々の神社佛閣其の名のみ残りて、草むらと成りぬ、本尊の在す所も定かならず、されども此の尊像は忝くも、仁和四年より今享和元辛酉年まで、八百九十八年の星霜を歴るの間、奇々妙々擧げて数へがたし、星轉り物変り堂塔破却して、漸く假の小堂に在すといへども、廣大慈悲の奇特滅せず、霊験あらたなること誌すに遑あらず。爰に文禄年中太閤秀吉

高麗出陣のため、當国名護屋の城廓を築き給ふ時、寺澤越中守の遺骸を淨聖寺に移す、依てこの寺堅固に永續し、内田山淨聖寺往古の門脇に、三界萬霊の塔あり、この碑面に内由山淨聖寺了源とあり、これ則ち當寺を守りし僧なるべし、この尊像の縁起ちぎれ朽ちたるを集めて文字を合せ、古鑑を琢磨して現世安穏のため、敬みて書記畢ぬ。
 維新後檀徒少くして維持すること能はず、終に廃寺となる。




 一七、曹源山惠日寺 鏡村字鏡
 惠日禪寺は郡内屈指の巨刹にして、末寺五寺を有し、其の開山宗祐寂門禪師は本朝曹洞宗開祖承陽大師七世の孫と称す。永和元年の創立にして、本尊金銅観世音菩薩は、欽明天皇の御宇大伴狭手彦高麗征伐のため松浦の地より船を出せしが、其の妻松浦佐用姫追慕の余り死したりければ、狭手彦彼の地にて之を聞き悲歎やる方なく、其の菩提を弔はんとて鋳なせる尊像なり、
もと赤木にありしものなれども、當寺創立の時移して安置せしものなり。
 殊に當寺には形質珍稀なる銅鐘一箇あり、大正二年国寶に指定せらる。鐘銘に太平六年丙寅九月阿清部(一字不明)北寺鍮鐘壹躯入重有百二十一斤棟梁僧淡白とあり。其の紋様龍頭某等の類を絶す。
 本寺は世代を重ぬること三十六葉の久しさと雖も、其の間の記録煙滅して以往を尋ぬる由なしと云へりとぞ。




 一八、瑞泉山東光寺 有浦村宇有浦下
 瑞泉山東光寺は、永享年間壹岐守日高入道宗任打上村字赤木に戦ひ、敗戦して有浦村に隠れ、大庄屋を務めたる時、邸地を割きて自身の所念佛なる薬師如来を本尊とし、小宇を建立して朝夕信仰怠りなかりしが、天正二十年前越州秀岳珠呑大居士の信仰厚く、前任元智記室禪師を請じて、赤木なる東光寺と云へる衰頽せる寺あるを、こゝに移して建立したるを當寺の起源となす。
 寺の本宮薬師如来は三尺余りの坐像にして、藤原家に属したるものならんかと云へり、實に八百八十余年前の作に係る古佛にして、大正二年八月二十七日国寶に指定さるゝや、當寺の名頓に世に知らるゝに至れり。
 また寺境の観音堂に安置せる六手観世音菩薩は、平重盛が父清盛の死後の冥福を修せんため、六臂観音像を彫ましめて海中に投ぜしものと傳ふ、後に假屋湾内佛崎に於て、漁夫松右衛門なるものゝ網にかゝりたるを、三代の松右衛門其の霊験に感じ當寺に寄進したるものなりと云ふ。観音の御丈五尺六寸の立像にして古色蒼然たる霊像なり。