末廬國より
(昭和39年8月30日刊行)

旧家の由緒

坂本智生

唐津 呉服町



 
慶長築城の昔
 大手門に直接

  筆頭・大年寄が住む



 呉服町という町名は慶長の昔、唐津城とその城下町が建設される時、城の玄関口に当る大手門に直接するこの町が、呉服屋が軒を連ねる程にも繁華な通りになることを期待して名付けられたもので、この町の、城下町唐津に於いて占める位置の重要さを現わしておりこのことは、唐津町大年寄の筆頭ともいえる石崎氏が、この町の住人だったこととも無関係ではあるまい。
 石崎氏の屋敷は、
今の福銀支店の左側、アメリカ屋″などのある辺りで、明治も十年代には没落しているので古老の間でも記憶が薄く、大年寄の石崎氏と刀町の石崎氏とを混同することがあった。勿論、刀町の石崎氏とは同族で、屋号も同じく菊屋といい、作り酒屋が本業であった。もっとも、酒屋株はその後、町切村の礼助という人に譲っている。
 唐津町に大年寄の制度が設けられたのは安永年中のことだと、前に書いたことがあるが、石崎氏の系図書や記録の類によると明和も初めの頃で、水野公着任早々のことらしい。大年寄石崎氏は嘉左衛門−嘉十郎−茂十郎−嘉左衛門と続いて明治に至るが、また代々、嘉兵衛とも称したらしい。唐津曳山の創始者といわれる石崎嘉兵衛は、大年寄の石崎嘉十郎賢氏のことと考えられるが、嘉十郎は文化十四年に投しており、曳山が完成するのは翌々年の文政二年なので、この辺りをどう説明したものかと案じている。いづれにしても、思い立ってから完成する迄には四・五年くらいかかることもあるし、それに製作者が三人の連名となっていることも説明の助けになりそうである。
 呉服町には、煙草屋・樽屋・亀屋と呼ばれる三軒の辻姓の家があった。煙草屋は、今の
福銀支店のところ、魚屋町の平田屋や中島屋と肩を並べた大きな呉服屋で、辻甚兵衛の頃には御腰物師・御綿屋として藩の御用を勤めていた。甚兵衛の父辻利吉は中町曳山の製作者として名を残しているが、また田舎辺りの祭の飾り山なども、頼まれれば引受けるといった細工の旨い人だった。樽屋は、今のうさぎ屋″のところ、ここは呉服町辻姓の総本家といったところで、代々、伊右衛門・伊兵衛などと伊の字が付いていた。辻伊平治の孫に当る富治郎という人は、町会議員を勤めて話題の多い人であった。
 亀屋の辻亀太郎は
京町角の於釜屋をしばらく預っていたが、その後、今の東京堂帽子屋の辺りで亀屋という作り酒屋を始めた。この亀屋の屋敷はもと、柏屋こと長谷氏の屋敷で、長谷幸左衛門という人は、町年寄を勤めたり、御用達や掛屋なども勤めたが、代々の作り酒屋で、薬種商をも兼ねた裕富な商人だった。
 具足屋こと山内氏の屋敷は、安楽寺の左側大手口に面した角の一帯を占めていた。この家は、寺沢かあるいは大久保の時代に始まる旧い由緒がありそうだが明らかでない。木炭問屋などのほか、城内の家中屋敷に出入して日用品の御用を承っていた。旧藩の頃は、柳堀の水運を利用して、当時八軒町と呼ばれた大手口附近まで、米や木炭などを積んだ舟が出入しており、呉服町や刀町の商人達に便利を与えていた。
 山内利右衛門は町年寄や年行事を勤めているが、その子の山内準治は、明治十一年戸長役場の制度が開かれて以来、内町戸長・内外町戸長に公選され、明治十六年戸長が官選となる迄勤めている。
 横町筋の肴屋については前にも書いたが、
四ッ角の八百徳こと深見氏も、もとの屋号は肴屋。三根氏も魚屋町の魚吉″の分れ。浦元・大橋は徹肴屋として藩の勧用を勤めたことがあり、大橋氏は度々町年寄をも勤めた。
 大橋の左隣、前田床屋辺りに吉村儀助の屋敷があったが、ここの屋号も肴屋。儀助の子の儀七が酢屋を営んだので酢屋と呼ぶ人もいる。儀七の弟の儀三郎は、宮島伝兵衛と肩を並べた石炭問屋で、唐津銀行の重役などを勤めた唐津財界の有力者の一人であった。
 藩に百工方(ひゃくこうかた)という役所があって、商人達に資金の融通をしたり、鯨油や石炭などを港外に移出したりしていたが、この百工方の掛り役として、裕富な町人が任命されていた。呉服町からは、前記の吉村儀助と、瀬戸屋こと峯清兵衛とがいたが、この峯氏は瀬戸物屋。屋敷は今の
ふじや糸店″の辺り。ついでに百工方掛りの町人名を列挙すると、

 大石町 小島新兵衛(綿 屋)
 新 町 前川仁兵衛(岡口屋)
 京 町 草場清次右衛門(平田屋)
 江川町 山岡惣兵衛(米 屋)
 材木町 平松儀右衛門(炭屋)
 呉服町 峯 新兵衛(瀬戸屋)
 江川町 田中安兵衛(綿 屋)
 呉服町 吉村 儀助(肴 屋)
 魚屋町 山内小兵衛(木 屋)
  〃   草場三右衛門(平田屋)

 米屋町側の横町筋の、今は古屋の倉庫になっている松尾印刷所の前辺りに、米屋という屋号の、岩下姓の家があった。船問屋と作り酒星を兼ねていたらしいが、利左衛門の頃には町年寄をも勤めている。今の
福助″からキシヤ″辺りにも岩下姓の家が二軒並んでいたが、ここはもともと岩下利右衛門掛け持ちの屋敷なので、同族に違いあるまい。京町の岩下氏なども同族のはずだが、米屋の岩下氏のほかは檀那寺も違うし、屋号も違っているようである。



註:
   
今の福銀支店 : 現在のしらい整骨院
   
うさぎ屋 : ツルヤの隣、中町駐車場に抜ける場所

   京町角の於釜屋 : 現在は「まちなか休憩所」
   今の東京堂帽子屋 : 安楽寺前の空き店舗(旧山下博文堂の北隣)
   四ッ角の八百徳 : 火事で解けた呉服町中央の角の空き地(駐車場)

   ふじや糸店 : 現在のみきや楽器店の南隣
   福助 : 現在の大志?
   キシヤ : 杉谷窯 異中庵


註:は管理人吉冨 寛が記す
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