掲示板過去ログNo.19(2010/3/9~2019/2/4)

題名:無題  名前:ryuichi19690105 2010/03/09(火) 18:25 No.1208   119-47-39-247.ppp.bbiq.jp

大島邸を残されたのはわかりますが、私が質問している子供達に今より広い校舎、運動場にして欲しいと言うこにかんしてはどうお考えですか?
山内薬局様のブログにも書いてありましたが大島邸を潰して建て直しても校区の運動会を一緒にする広さはないといわれていますよね。図面を見ても大島邸を残して建て直したらもの凄く狭いのではないでしょうか?
この前の日曜日に地域の体協の行事があったので周りの人に尋ねてみると大島邸の件をいってみたのですが大半の方は学校が狭くなると?取り壊しに決まったと思われていました。
何人かは歴史的な建物だから残して欲しいと言われました。
その方に学校が建設予定より狭くなる話をしたら私の子供は今年で卒業だから関係ないと言われました。逆に今度新1年生の父兄は建て直るのなら少しでも広いほうがいいと言う意見が多かったです。この話はどこまでいっても平行線だと思います。



題名:mahiro5150さんのお尋ねの件について(私見です! 
名前:むずかしいことわからんが 2010/03/06(土) 01:11 No.1207   pl-734-202.people-i.ne.jp

山内さんのブログにてお尋ねの件、
部外者がしゃしゃり出るのは不適任とは重々わかっているのですが取り急ぎ浅学不識の私にでも聞き及びの程度でご報告しています、ただ、そういうことですので記述についていわゆる「残す会」のご見解ではありません、お含みおきください。また、残す会のかたで内容についてはご訂正いただければ(出来ればお早めに)なお、幸いです。

1 大島邸は文化財に指定されているんでしょうか?

現在、文化財指定などには登録されていないとおもいます。
たしか、平成7?か8年度に佐賀県教育委員会によって県内にて行われた
「佐賀県内、近代和風建築物に関する調査」の中で建設年代や、現存建築物の特徴などは検証が行われ
その折、担当委員さんらによって母屋については明冶12、または13年ごろの竣工と推定されているようです。
ただ、成立年代については、専門家諸氏(建築畑の方と、歴史畑の方では意見が相違しているような話を先日聞きました)
の間では、いまだ流動的要素を残している模様です。


2 宮島醤油さんのホームページで読んだのですが、茶室を利用されている方達がいるようですが、ここの利用料はいくらですか?そして、年間利用者の実数はどれくらいですか?

このご質問については、解りかねますが、宮島醤油さんの記述はたしか、同社創立120年の記念事業の一環であったとおもいますので、
現在より数年前以前の大島邸利用状況を表わされていると思います、
以前は、各流儀合同の大寄せ(っていうんですかね?)など大島邸を会場にされていたようですが、
(野蛮人ですので、お茶は伊藤園のおーい、お茶程度)
現在は、そのような利用はどうなのか?昨年の11月の茶花展の折は、座敷を使って立礼式(?っていうんですか、椅子で飲むお茶)
のお振る舞いが行われていたようでしたね。

3 唐津市唯一の武家屋敷とのことですが、引用していらっしゃる文では明治に入ってから建設されたとあり、内容に食い違いが生じていますが、増築されているんでしょうか?

ええと、武家屋敷という表現をご覧になったということで、たしかに?とおもいますが、
佐賀新聞などの記事中の表現は「武家屋敷の面影を残す、、、」というような言葉であるとおもいます、
先日の藤原恵洋先生(九大教授、建築学)のお話の際、建築様式に見る建設年代の考究がちょっと触れられていましたが
明冶初年より暫くは、江戸期の諸建築形態様式がそのまま使われることが多く、というお話でした。
ただ、その建築様式のみより類推すると大島邸の建設完成年代は現在言われている明冶12年ころより下がる可能性も指摘がございましたことも
付記させていただきます。
いずれにせよ、城内において武家の居住邸宅の趣をそのままに残す現存遺構としては最大、最高の物件ということについては
諸専門家の先生方、いずれ様にも共通された認識であるというのは間違いのないところかと存じます、

4 当時の図面を見ると、既に無くなっている建物があるようですが、そちらは保存する価値がなかったのでしょうか?

自分の話をするのは、お恥ずかしいのですが、
小学校時代は結構、悪がきでしたようで(今も悪人かどうかは、自分ではわかりませんが)
当時、志道小体育館の横手、体育用具倉庫脇から見えていた、なんだか、怖そうな家?に
(友達は皆、お化け屋敷と呼んでました、そんな風に小さな頃の眼には映りました、竹の藪のなかに白塗りの蔵が建っているのですから)
探検だ!!などと一回だけ不法侵入したことがありました。
蔵などというものは、入ると普通まっくらで何も見えないものなのですが、そこは今になってよく考えてみると戸を開けた記憶がないので
雨風によってこぼたれていたのでしょう、中で上を見上げると屋根の上にぽっかり穴が開いていて青空がやけに綺麗だった記憶があります
そのあと、床が壊れていたのを知らずに踏み抜いて、溜まっていた雨水にどぼんと落ちてしまい、ずいぶんと先生に叱られました。
ご指摘の建物はその文書蔵のことかと思います、


5 建築士の方が、文化財として保存するのは難しいとの見解をホームページに書いていらっしゃいますが、税金でどのように保存することを望んでいらっしゃるのでしょうか?

そのホームページは未見ですのでちょっとお話はいたしかねますが、下にて書いてあるように
別に活用策とか、そういうお話はまったく(残す会の皆さんの腹中には各々お持ちなのかもしれませんが)ないに等しいのではと、推測します。
あくまでも、私の推測でしかありませんが。
もともと、利害とか、市の姿勢に物申すとかそういう感じではなくて、各人のやむにやまれぬ想いよりなされている活動とご理解いただけると現実に即したご理解となるかと
思います、
ですから、保存に関わる費用と、その費用対効果とか(もっともそういう難しい議論が私のような浅学なものにはできないという事なのですが)
そういうお話もおそらく出来かねるのではとおもいます。
先日、「若し、保存できるというような事になった場合の費用は?」などという話題が勉強会中に話柄になっていましたが
それは、仮定の話であって
たとえば、文化財指定を受けたとしても、どういうランクのものを受けるかによっても保存の仕方が変わってくる。また、活用の仕方などでも
補修の程度が違うので、という専門家のご意見でありました。

6 寄付を募って、市から建物を買い取ることは考えていらっしゃらないんでしょうか?

残す会のみなさんや、現在保存に想いを寄せる方にもさまざまなお考えがおありのようですので
一概には言えないのでしょうが、たとえば、お屋敷だけを市の所有するいずこかの場所に移転してという事は、
あまり意味を成さないことなのでは?と私の個人的な考えでしかありませんが、思います。
それは、あのお屋敷が大島小太郎の旧宅として城内に存在していたということに文化財的意義や意味づけが存すると思うからです。
また、大広間の壁(専門家の先生お話の由、承るところではあれは、聚楽というらしいですが大島邸の仕事はそれは見事なものなのだそうです)
ひとつにしても復元はかなり難ではないかと思うのですが?


重ねて、末文ながら、これは個人的な見解ですので、残す会の方々でご訂正されるべき部分があれば、
ぜひ、お早めにご訂正、下さるようにお願いしておきます。



題名:僭越ですけれど、大島邸を残す会、  名前:むずかしいことわからんが 2010/03/05(金) 21:16 No.1206   pl-734-202.people-i.ne.jp

3/3(水曜日)夜六時よりの勉強会に、初めて(私は別に残す会の会員でもありませんので)
参加しましたものです。

そして会員さんや、興味を持って集まっていらした方々のご発言を
なかば傍観者として聞かせていただく機会をえました。
ryuichi19690105 さんは大志小にお子様を通わせていらっしゃるご父兄として
大島邸保存運動について、お考えがおありで、また、お心を煩わせておられること、
当然のことと拝察いたします、

昨日、初めて勉強会に参加してみて驚いたことがあります。
それは、(今までずっと勉強会や、運動をしていらした会員の皆さんは不快に想われるかもしれませんが)
別に、高らかな理想や、また、よく一部の人が保存運動という語感に感じていらっしゃる、たとえば、市政にたいする糾弾とか
そんなものはなく、ただ、皆さんが「どうしよう、?どうすればいい?」という思案投げ首状態??

仔細に、参加されている方を存知あげてはいませんが、
或る人は、お茶の道に学び究すものとしての、邸のお茶室についての愛惜、であったり
また、(私などはそうなのですが)
大島小太郎という人が(または大島さんを象徴とした明治の先人たちが)唐津を珠のように愛し磨いてきた
その功績をゆかしくおもって、とか、
ある方は、その邸の建築物としての価値、資料性に着目されて、
また、庭の森木と遊びさえずる小鳥たちのもたらす雰囲気にメロメロの向き、などなど
その考えや、想いはまったくどうも(今の段階であっても)ばらばら、のようでして
でも、皆に共通しているのは
「なんとか、大島邸を次代の唐津のために残せないだろうか」
という一点のみ、なのであります、(と見えました)

現実に、三月市議会で議案(解体事業予算)が成立すれば、一機に事は決まってしまう、この段階に
ともあれ、事の成否はウンヌンする暇もなし、ともかく出来ることは?と
大島邸惜しさで右往左往しているというのが現状という感じなのです。

ちょっと時系列として話させていただくと(これは山内薬局さんのブログなどの過去の記事をご参考いただくほうが
より正確であろうと想いますが)
もともと大島邸は、たしか10年以上前、その邸宅の(住まわれていた大島小太郎さんの業績も合わせて)
唐津の近代史に対する歴史的価値を鑑みて当時のそのあたりの地価や、ウワモノの常識的評価よりもかなりの重価で
市によって買い上げとなったものです、
その当時、ちょうど高取さんちも文化財保存にという時期でもあり
当局による説明も、大島邸は城内から、繁華街にとの回遊性観光を目指す観点より
文化財として保存、活用するというアナウンスであったと記憶しています、
その当時も、大島邸に心を寄せる方はおいでであったと思いますし、保存運動をとお考えの先見の向きもお有だった由は
昨日の会合で伺い、知りえたことでしたが、
(私もそう、思っていましたが)保存に思いいたす人も多くは
「市が文化財保存という事で買い上げになった上からは、まあ、大丈夫、まあ、高取邸や唐津銀行と物入り事業が
 目白押しだから、そのうち整備になるのだろう」となかば、安心していたのだと思います、
で、【大志小改築、その折に大島邸解体、敷地は転用という話】は、しってる方は(ryuichi19690105 さんのように)
お聞き及びであったのでしょうが、けっこう寝耳に水、でびっくりしたのですよね、
私などは、噂話などにうといぼんやり者ですから、なおさら。

で、ともかく、ちょっと解体は待って、立ち止まって考えてみてください、と、いった感じが保存会の現状というのが
正直な印象なのです。
だから、残す会のみなさんも大志小の改築に反対なわけではないというのはご理解いただきたいとおもいます。
山内薬局さんも旧志道ご卒業の由ですが、私も志道でした。
私の時は、一学年2クラス、同級生は76、7名かしら。
現在と違い、プールがなく、夏が近くなると運動場の校舎側3分の一ほどを使い、組み立てプールでした。
プールが出来ると、昼休み遊びにくいったら、ありゃしない。
また、当時は運動場にネットがなかったので、ソフトなんかファール厳禁(笑)
でも、まあ、そんなもんだ、とおもっていましたね、皆、比較対照を子供はもちませんでしたから、
ただ、できるなら、より良い環境でというお考えは当然のこととおもいます。

しかし、せっかく大成、志道と明治以来の歴史ある両校に縁があって学ぶのですから
旧藩校の伝統とかも少し残っていてもそれはそれで、素敵なことだと想いませんか?
私などは、♪ゆかしうるわしあの志道~館♪ってずっと歌ってましたから、

おとといでしたか、唐津がどうしたこうしたとかいう面倒くさい文章を山内さんとこに
掲載していただきました、
山内さんの過去ブログ中の大島邸関連記事などもチラ見していただいて
大島邸にお出でいただき、お庭から邸をご覧いただき、現在を醸している過去と連続する時間を
ちょっとお考えいただけるととても嬉しいです。
(保存運動への可否はまた別として、ですね)



題名:市原源之助氏の思い出  名前:やまめのたより 2010/03/02(火) 14:11 No.1202   gate201.bunbun.ne.jp

 市原源之助氏の思い出

 昔、石炭史を調査していた頃、ある書類の中から
市原さんのお手紙を数通発見した。

多分、石炭火力の公害を指摘する内容だったと思う。

 石炭産業の斜陽化の中、政・官・労挙げての誘致運動、
唐津の1等地に立地し、操業してまもなく、石炭産業は
終息してしまった。
 
 その前後だったかな、市原翁の悲報が紙上に掲載され、
公害に関する記事が掲載されていた。
当時は、マスコミが存在を無視した市原翁に対する
お詫びの記事であったと理解した。

   
 

題名:Re: 市原源之助氏の思い出  名前:山内薬局 2010/03/02(火) 15:11 No.1204    softbank220062098075.bbtec.net

郷土先覚者列伝より

184 市原源之助 鉱山技師 (唐津)-昭和四十七年 79

  素晴らしい景色の唐津湾に九州電力が唐津発電所を計画した。美景を損傷するべら棒に高い煙突三本が建ったのは昭和四十二年秋。唐津市が発電所誘致に凱歌をあげたのは昭和三十七年春、その頃以来二年に及んで勇敢に反対の警鐘を打ち鳴らし、煙害の恐怖、毒害を訴えたのは生粋の唐津人市原源之助であった。心ある市民は一斉に市原に支援を惜しまなかったが、当時の政治的支配勢力を覆えすほどの力には成り得なかった。市原源之助は名ある旧唐津藩士の裔。唐津中学校から熊本高工採鉱冶金科を卒え住友の別子銅山に永年勤務、昭和三十二年以来帰郷、城内埋門小路に住んでいた。

むずかしいことわからんがさん。
そしてやまめのたよりさん。
書き込みありがとうございました。

   
 

題名:Re: 市原源之助氏の思い出  名前:やまめのたより 2010/03/02(火) 19:53 No.1205   gate201.bunbun.ne.jp

 市原さんが顕彰されていてよかったですね。

 住友勤務の経歴からすると、四国の新居浜か、
四阪島精錬所の煙毒事件に何等かのかかわりが
あったのでしょうね。

 明治期の新聞には足尾鉱山、住友別子鉱山精錬所の煙毒事件が
再三登場します。



題名:大島小太郎の記事  名前:やまめのたより 2010/03/02(火) 14:42 No.1203   gate201.bunbun.ne.jp

唐津鉄道の株主の大島小太郎の記事が登場しました。
明治32年4月
28 唐津鉄道㈱は定期、臨時総会を唐津町の浄泰寺で開催し取締役を選挙。大阪の今西林三郎と前川槙造は新選、兵庫県の建野郷三は再選、福岡県の守永久吉は再選。県関係は西英太郎、大島小太郎、相浦秀剛の3人でいずれも再選。社債40万円の発行を提案、前社長加藤海蔵に対する慰労金の支出は否決する。笹原トンネル工事は下旬に貫通の見込み
        4・16,30,5.4<2>



題名:唐津というものを醸してきた過去なるものは?、 
名前:むずかしいことわからんが 2010/03/01(月) 22:41 No.1201   pl-734-202.people-i.ne.jp

♪♪たまに唐津にお出でになったお客様をおもてなしの意にて、
あちこちといわゆる名所などにお連れすることがあるのですが、
鏡山や、唐津城などは眼下の眺めのすばらしさからどなたにも愉しんでいただける、
いわば、鉄板の場所です。
安心してお連れできるのですが、ただ、皆さん口を揃えておっしゃるのは、
「なぜ、こんな素晴らしい風景なのに、煙突、、、、、、、(以下皆さんの想像通り)」

あの大島付近の二本の煙突、昨今は薄い色に塗りなおされていて前ほど目立たないように配慮されているのかも?
知れませんが、前は、赤白のかなり目立つものでしたね、

真相はよく存じませんが、
石炭によって明治以来殷賑を誇っていた唐津港もエネルギー革命なる黒船が襲来し、昭和後期、
まだまだ付近には優良炭が残っているというに、どうにも売れないという仕儀になってきたそうです、
その頃、唐津のお偉いさんたちは、
唐津炭を使った発電所を作ってそれを稼働させれば、一石二鳥と現発電所、誘致計画を打ち上げ
地元経済界も諸手を挙げて、だい賛同。

しかし、当時、大名小路にお住まいであった市原源之助さんは、その住友鉱山勤務時代に実見した、
公害の地元に及ぼす影響と、風光明媚な愛すべき松浦潟を子孫のために護らねばという見地より孤軍、反対運動を展開、
しかし、理解は広がりを見せず現在、煙突はにょっきりと立っているわけです、
その後、玄海原発の誘致があり、ほとんどその存在価値は失われているのに、にょっきりと、です。

唐津城は、(私は奇しくも唐津城天守落成年の生まれなのですが)
その美しい姿と、旧市街何処からでも折に触れ仰ぎ見る事のできる点で
唐津市民誰もが、愛してやまぬ素晴らしいお城であると私は想います、
実際、商用などで他出して、車で、電車で、
博多より帰ってくる夕暮れ時、
松浦潟にそびえるその白亜の姿が見えてくるとなんともほっとする、
そういう実感は共感いただける向きも多いと想像します、
ただ、残念ではありますが、現在唐津市街に展開されている城郭遺構はそのほとんどは後世(いいかえれば現代)
の鉄筋によって建設されたいわば、イメージです。

現在の唐津という町を醸成した歴史を俯瞰するとき、唐津くんちに代表され象徴される【町方文化】と
その重みを共有するものとして【城内(武家)文化】というものもあわせ考えなければならないと私は常々考えています、

従来、その二つはなんだか、対立するもののごとく語られる事が多かったように想うのですが、
(よくくんちは、町人の武士に対するレジスタンス、、、、なんという意味づけありましたが)
そうではなく、農漁業者も含めた地のものども、と、為政者の武家は
(利害による対立はまま、あったとは想いますが)
各々がその違いを認めつつ、互いが響きあい、車の両輪のように唐津という町を創ってきたのでしょう。

今回、この保存運動を遠くから眺めながら、
その素材として大島小太郎さんの生涯をいたって簡単ながら知る機会を得ました。
彼は、いわば、財界人として(旧唐津藩の借財などを含んだ形で明治維新後の理財を担ったというスタンスは
              旧土佐藩の三菱、岩崎家をちょっと思い起こさせますが)
自身の利殖という事をまったく考えていなかったとは思えませんが、
しかし、地元経済、多くの人々の民福を図るという視点が彼の行動の中には色濃く見られます。
また、それは、炭鉱事業で集積した富を地元の教育などに大きく散じた高取伊好や、
一身を捧げて鉄道敷設事業を進めるべく金策中に異土にて帰らぬ人となった草場猪之吉など

私を滅しても公のことを考えて行動するという明冶の先人に共有する気概であったと考えますし、
その気概は儒教的教養を基とする城内(武士)の文化そのもののように想います。

町方の気概、を象徴するものとして【ヤマ】があるということにはおおよそ異論はないのでは、とおもいますが
翻って、はて、城内を後世の唐津の人々に考えていただくものとして一体、ナニがあるのでしょうか?

ぜひとも、大島邸は、現在より未来へと唐津を俯瞰する重要な装置として
なんとか、残していただきたい、残すように衆知を集めなければ、と想います、

城内の文化、を感じるためにも、あの庭森に鎮まる、あの佇まいのお宅が必要なのです、
一部を移転して芝居の書割のような部屋を作っても意味はありません。
その時々の利害を超えて、今一度、ご一考いただきたいと書き込んでみました。



題名:明治28年頃の唐津町の地図  名前:やまめのたより 2010/02/27(土) 19:35 No.1200   gate201.bunbun.ne.jp


 今日の研究会で、明治28年頃の地図が配布されました。
このなかで唐津町には松浦橋が架かっていません。
渡船場の表示です。廓内の外側のお濠は、完全に残っています。
裁判所は唐津実科中学校のそばに所在。
唐津線は免許線として表示され、起点は唐津駅から小城~牛津です。
 全体として、この地図は、誤りが多く、参考程度の扱い。
参謀本部作成を改めて探すことにしました。



題名:明治34年  名前:やまめのたより 2010/02/16(火) 20:12 No.1199   gate201.bunbun.ne.jp

 これが先日掲載した岩崎久弥の唐津視察の記事です。
おそらく、これは大島が一役かっていたでしょうね。
 この頃、唐津鉄道は資金難に悩み、三菱に泣き込みます。

○ 唐津鉄道は三菱(資)に10万円の借り入れを交渉するが、利子年7分が低いため、三菱は人を派遣し実地調査中                              2・24<2>
 ○ 熊本の共進会の県売店で横尾峯吉郎らの丸房露や佐賀桜羊羹(ようかん)、カステーラの売り上げが好調 2・24<2>

27 三菱の岩崎久弥が三菱相知炭坑と唐津港を視察 
                       2・24,3・3<2>



題名:無題  名前:やまめのたより 2010/02/16(火) 19:42 No.1198   gate201.bunbun.ne.jp

 2月27日の大島邸の勉強会、ご案内ありがとうございました。
当日は1月に1回の研究会の例会があり、
どうも参加できないようです。
 (この例会は、約30年以上続いています。)

 講師の三原さん、仕事の関係で存じあげています。
非常にまじめな方で、奥様も確か建築家ではなかったかと
思います。

 講演をお聞きしたいですね・・・・・



題名:支局時代に書いたのですが・・・  名前:ton 2010/02/16(火) 01:41 No.1194   113x36x0x90.ap113.ftth.ucom.ne.jp

 大島小太郎について、11年前に唐津時代に私が書いた記事があります。佐賀県の偉人を取り上げた年次企画で、県版で毎週日曜日掲載された「疾風人伝」の中で5回目の登場人物として掲載されました。確か30人を超える人物を取り上げました。なんであれ出版しなかったんだろう。残念です。
 小太郎さんの人物像に迫る資料も、つきあいのある生き証人もとにかく少なく取材には苦労しました。かすかに知っておられて取材した方々も、いまや他界されてしまわれました。したがって、想像力を働かせて読み物風に仕立てました。
 重要人物の証言、言葉を後世のために残すことは、記者としてとっても大切なことだと、そのとき痛感しました。余談ですが、昨年出版した「虫庭の宿」の溝口薫平さんの聞き書きも、由布院の町づくりの歴史を今のうちに語っておこうと思われた、薫平さんと私の思いが一致して実現したものです。

以下、長文ですが、「疾風人伝」を掲載させてもらいます。

1999年8月29日付紙面 
◎佐賀県/疾風人伝<5>庭石の配置 大島小太郎 近代唐津つくった是清の生徒-連載 「貿易港」を銀行で支える

■20世紀から21世紀へ 佐賀を読む■
 「ざんぎり頭をたたいてみれば、文明開化の音がする」
 巷(ちまた)にこんな歌が流れていた、一八七一(明治四)年。唐津城大手門前に現れた青年の異形に、唐津っ子が目をむいた。
 ざんぎり頭にフェルト帽、洋服に赤のネクタイ、手にはステッキ。唐津藩が設立した県内最初の洋学校「耐恒寮」の英語教師として招かれたこの男こそ、後の首相、「財政の神様」とうたわれる高橋是清の若き日の姿だった。
 「異人かぶれの若造が。唐津が汚れる」と、大人たち。だが、生徒の五十人の少年たちは、次々とちょんまげを切った。
 中に、唐津銀行頭取として明治以降の唐津の産業経済の基盤づくりに奔走した大島小太郎(一八五九―一九四七年)がいた。「オイたちが変わらんと、唐津は時代から取り残さるっばい」。小太郎、十二歳の夏。玄界灘にまばゆい太陽が照りつけていた。
 ▼原点
 小太郎は是清の授業に驚いた。会話は一切が英語。唐津湾に入った黒船に乗船し、船員相手に英会話の特訓。徹底した英才教育を受け、次第に世界に目を開く。
 幕末の唐津の町は人口約八千人。商人の町として栄え、唐津くんちの豪華けんらんな曳山(ひきやま)を競って建造した。しかし、廃藩置県で譜代藩主の小笠原長国や重臣が東京に移ると、豪商は没落する。この激動期の地方にあって、小太郎は西洋文化の新知識をむさぼるように吸収する。
 「西洋人に負けん建築家になる」「オイは化学者や」。同窓の少年たちは大志を描いた。後に日本近代建築の礎を築く辰野金吾。さらに曽祢達蔵(建築家)、掛下重次郎(裁判官)、渡辺栄次郎(化学者)、天野為之(経済学者、早稲田大二代目学長)…。小太郎は誓った。「じゃ、オイは唐津ば良か町にする」
 ▼拠点
 十四年後の一八八五年、小太郎の自宅を唐津の商人たちが訪れる。「オイたちにも意地がある。どうか、銀行設立に力ば貸してほしか」。これより三年早く、伊万里に地元の資本としては県内最初の銀行が誕生していた。
 小太郎は東京の三菱商業学校・二松学舎を卒業して帰郷。唐津藩御金奉行だった父興義が漁民の資金、販売援助のために設立し、倒産寸前だった「漁会舎」を再建させたばかり。その手腕を見込まれ、唐津銀行設立への協力と初代頭取就任を要請されたのである。
 小太郎も、大陸との交流拠点として栄えた唐津の将来性を見据えていた。「これからの日本は海外貿易が命。唐津も貿易に備えて産業基盤の整備が急務です。唐津銀行をそのための拠点としたい」
 商人たちに異論はなかった。小太郎、このとき二十六歳。
 ▼繁栄
 小太郎は唐津銀行の資金力を背景に、猛烈な勢いで走り出す。
 まず、唐津の後背地の相知、厳木の良質の炭坑に着目。倒幕運動にも参加した女性運動家、奥村五百子(愛国婦人会創設者)とともに唐津港開港運動に乗り出す。
 当時、国内の貿易港は横浜、兵庫、長崎など、わずかに六港。小太郎は、佐賀出身の官僚や、榎本武揚らの政府首脳を相手に粘り強い開港工作を展開する。
 一八八九年、石炭の特別輸出港の資格を獲得。十年後、数十のライバル港を抑えて貿易港への昇格を果たす。唐津町民は喝さいした。唐津城本丸跡での祝賀会で、旧佐賀藩主・鍋島家や旧唐津藩主・小笠原家から贈られた豪華な衣装をまとった五百子は、舞いを披露しながら感涙にむせた。「これで唐津は繁栄する」。小太郎は自慢の口ひげを満足そうになでた。
 小太郎の予感は的中する。一九一四(大正三)年、第一次世界大戦ぼっ発。石炭市場は最盛期を迎える。この年開通したパナマ運河を通り、日本に来る外国船の三分の一が唐津港に入港する。三井、三菱の大商社が湾岸に事務所を連ね、英国領事も駐在した。
 ▼継承
 唐津興業鉄道が炭坑と港を結ぶ唐津線を敷設。唐津電灯社が工場や家庭に電気を供給する。唐津から糸島半島への海岸道路が開通。北九州鉄道(現・筑肥線)の着工が急ピッチで進む。これらの事業の経営者として、出資者として、小太郎は深くかかわった。
 「おじはよく私の父(小関世男雄・唐津電灯社支配人)に仕事の指示をしていた。金なら心配するなって」。小太郎のめい・西村初枝(88)=横浜市在住=は小太郎の陣頭指揮ぶりをこう述懐する。
 「唐津の基礎になる財産を残してもらった」と、唐津商工会議所会頭の金子勝商(81)。しかし、小太郎が死去して五十二年。肉親は既に亡く、人間・小太郎を今に伝える資料は皆無に近い。
 小太郎はかつて、唐津鉄工所会長の竹尾彦己(88)にこう語った。「庭木はね、目には楽しいが永遠じゃない。枯れるだろ。でも庭石は残る。古くなればコケもつき、味わい深くなるんだよ」
 この一枚のパズルで、あえて推論するならば、小太郎は唐津の町を庭に例えたかったのではないか。そして、自らは唐津の産業基盤を永遠に残る「庭石」として配置しようと考えたのではないか。
    ◇    ◇
 じりじりと肌を焼くような晩夏の日差しの下で、唐津港は眠たげだった。堤防に釣り人の影、遠くヨットが波を切る。
 貿易港指定からちょうど百年。かつての石炭港の面影はなく、今、観光交流基地を目指すウオーターフロント計画が進行中だ。
 唐津銀行はその後、吸収合併を繰り返し、一九五五年の最後の合併で佐賀銀行となり、県経済界を支える。市中心部に立つ赤レンガの旧本店は国の登録文化財に登録された。小太郎が暮らした「大島邸」(同市西城内)は、市土地開発公社が今春購入し、保存活用方法が検討されている。
 百年前、小太郎が配置した「庭石」は、現在も唐津の街のあちらこちらに残る。二十一世紀も小太郎の「庭石」を利用して、唐津の「庭づくり」は続く。 (敬称略) 
     ◇
 ▼高橋是清と唐津 幕府の御用絵師の息子だった高橋是清は、十二歳で家出し、横浜でホテルのボーイをしながら英語を勉強。仙台藩の留学生として渡米。帰国後、花街に入りびたり、東京でぶらぶらしているところを、唐津藩に見いだされて雇われた。
 知事の月給が三十円だった当時、是清は百円という破格の高給。しかし、東京時代の二百五十円の借金を返済した後は、自ら六十円に減給し、残りは学校の維持費に繰り入れた。
 是清の在唐期間は一年数カ月だったが、多くの逸材を育てた。後に日銀総裁、大蔵大臣を歴任。一九二二(大正十一)年、首相。一九三六(昭和十一)年、「二・二六事件」で暗殺された。
    ×      ×
 ●大島小太郎がかかわった唐津開発史
1859年 小太郎誕生
  71年 高橋是清の「耐恒寮」で学ぶ
  83年 「漁会舎」の再建に小太郎乗り出す
  85年 唐津銀行設立。頭取に就任。県会議員になる
  89年 松浦川河口の満島港が石炭の特別輸出港に指定
  90年 唐津物産設立。石炭の海外輸出始める
  96年 唐津興業鉄道設立。唐津線の着工
  99年 唐房湾(現在の唐津港)が貿易港に指定
1903年 唐津線全線開通
  09年 唐津電灯社設立
  12年 唐津銀行本店を新築
  14年 第一次世界大戦ぼっ発。パナマ運河開通
  19年 北九州鉄道設立
  26年 北九州鉄道、東唐津―博多間開通
  31年 佐賀中央銀行誕生。小太郎が頭取就任
  41年 太平洋戦争
  42年 小太郎、佐賀中央銀行の会長就任
  44年 小太郎、同銀行会長を退任
  45年 終戦
  47年 小太郎、死去
  55年 佐賀中央と佐賀興業の両行が合併、佐賀銀行誕生

   
 

題名:資料に「生命」を!  名前:ton 2010/02/16(火) 02:31 No.1195   113x36x0x90.ap113.ftth.ucom.ne.jp

 11年前に「資料は皆無に近い」とか書いてますが、資料はたくさんあったんですねえ。当時は1回分のたち切り記事ということもあって、努力不足で発掘できませんでした。
 ただ、資料は生資料のままでは眠ったまま。誰かが資料に「生命」を与えて、小太郎の人物像を今の時代に蘇らせないといけませんね。

   
 

題名:Re: 支局時代に書いたのですが・・・  名前:やまめのたより 2010/02/16(火) 09:24 No.1196   gate201.bunbun.ne.jp

 初対面です。

「佐賀近代史年表 明治編 下巻」の編集を担当いたしております。
 
  元本は、佐賀新聞典拠のため、当然お膝元の記事が多いですが、唐津の記事もかなり多く、記事と大島小太郎文書の合致点が多く、感激しています。内容が豊富で原資料としては、最高ですね。

 佐賀は工業団地造成計画を途中で取りやめて、吉野ヶ里公園、
赤松小学校、城南中学校を玉突き状態で移転して、佐賀城本丸を復元、いまや観光の重要な目玉。
 
 これだけの資料があれば、赤レンガの唐津銀行、大島小太郎邸と、建物と歴史資料を組み合わせて、保存活用を検討すべきでしょうね。
 


   
 

題名:Re: 支局時代に書いたのですが・・・  名前:山内薬局 2010/02/16(火) 13:46 No.1197    softbank220062098075.bbtec.net

ton
ありがとうね。

こいつをうちのブログにそのままそっくり転載してもよかだろか。

こっちの掲示板よりも今ではブログの方が人気があるようで。
いかんだったら言うてね。

書評を見たよ
「虫庭の宿」
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2009&d=0926&f=column_0926_001.shtml



題名:唐津銀行西支店参考資料②  名前:むずかしいことわからんが 2010/03/21(日) 21:44 No.1229   pl-734-202.people-i.ne.jp


大正4年刊、【佐賀県官民肖像録】これは当時の官民の知名士や
商店写真などが豊富で便利な本なのですが(辻薬店や、みのやさんの当時の写真など興味深い)これによると、どうも、西唐津支店くさい、うーむ。どうだろう?なお、明冶の営業報告にはなぜか、本店と相知支店しか記載がない、なぜだろう?



題名:3/21ブログ、唐津銀行西支店参考①  名前:むずかしいことわからんが 2010/03/21(日) 21:38 No.1228   pl-734-202.people-i.ne.jp

唐津銀行諸資料、本来別の用事で取り出していたのですが、
ちょうど良かった。(もう、面倒なので、これに付随した書き込みはお蔵入りとしましょう、ヒャッホー、)



題名:大志小  名前:唐津浜 2010/03/16(火) 14:20 No.1224   pl-734-202.people-i.ne.jp

お尋ねですが、大志小建設の件ですが、大志小PTAにはどのような説明があったのでしょうか?
大島邸・小学校に囲まれる民家・運動場が見えない校舎など、PTAはそれで納得されたのでしょうか?

   
 

題名:Re: 大志小  名前:むずかしいことわからんが 2010/03/16(火) 17:10 No.1225   pl-734-202.people-i.ne.jp

先日の市議会、石崎議員の一般質疑中の、大島邸関連質問と
それについての、教育部長さんの答弁をテレビで傍聴した程度ですが、
PTAすべてかどうかは存じ上げませんが、
父兄会などとはかなりの回数、会合を市としては設けてその席上
大志小建替えについて説明が行われたということです。

市の説明によると、校舎の設計については
さまざまな立地を検討した結果、現在計画の
大島邸跡地を使用する骨子案が最上とする結果となったという
ことです、
民有地(二件)については計画後、昨年十二月に各家に
市担当者が説明に訪問したとのこと、
また、運動場が、校舎より見え難いのではという質問には
「運動場使用時には担当教諭による指導が行われる規定であり
また、職員室よりも視認できるよう、可能なかぎり配慮する
設置計画である、また、新校舎完成後は、現在ある教育指導規定なども踏まえつつ、新たな事情などにも適宜対応するように
」などというアナウンスのようでした。
また、当該校区内住民については、市報などで告知したのみで
とくに説明会などは設けていないということだったと思います、。
PTAへの説明内容は知りませんが、仄聞するところでは
おおよその新築計画が説明されたということで
要望などについては(教育委員会内などで上申されたのかは知りえませんが)とくに陳情する機会はなかったように聞いております、
市の公式コメントは
「民主的に市民の代表として選ばれたいわば、民意を総覧すると
いえる市議会において過去、数度図って進行してきた立替であり
また、PTAや、市民にも市報などで告知しなんら問題は派生しない」といったニュアンスに聞こえましたけど、

   
 

題名:Re: 大志小  名前:唐津浜 2010/03/17(水) 15:48 No.1227   pl-734-202.people-i.ne.jp

むずかしいことわからんが様
ありがとうございました。
でも、市の説明とは何か食い違っているようですね。
お話があったとしても、決定してからの説明のような事を聞いております。子供達の事、大島邸、市の財政色々問題はあるかと思いますが、みんなで知恵を出し合ってほしいです。



題名:大島小太郎の父、興義の死亡記事  名前:やまめのたより 2010/03/15(月) 21:14 No.1221   gate201.bunbun.ne.jp

 以前、新聞記事に登場した大島小太郎の父、興義の死亡記事
をメモしていた。
 
 この文章の中の「一代の閲歴は一編の唐津近代史を物語る
の意味を当時追跡せず、そのままにしていた。
 
 今回の大島邸の保存問題で功績がわかったので、
紙面にスペースを作り、追補しよう。
これが先人に対するせめての罪滅ぼしかもしれない。

 記事は明治41年12月

 3 大島興義が死去、80歳。大島小太郎の父。一代の閲歴は一編の唐津近代史を物語るとの由         12・6<3>

   
 

題名:Re: 大島小太郎の父、興義の死亡記事  名前:むずかしいことわからんが 2010/03/16(火) 23:48 No.1226   pl-734-202.people-i.ne.jp


ええと、最近暗い話題(と大島邸のことを言うと掲示板主に叱られそうではありますが)ばかりなので
閑話休題、

今年の大河ドラマは、「竜馬伝」
長崎生まれの好男子、福山某による阪本竜馬である。
別に、好男子に劣等感があるわけでも、いけ好かない感情があるわけでも
(いつぞや、偶然聞いた福山某のパーソナリティによるラヂオはエロ話ばかりで
  愉しいおっとこ振りであった、好漢ですね、男の目より見ても)
ないのだが、なにかココロにフィットしない、

視聴率は良好のようなので、私だけなのかもしれないけれど、
なんだか、かっこいい竜馬のメロドラマという現在までの印象でのめりこめないのである。
(まあ、じゃ、見なきゃいいわけだが、そういってしまうと話がおわっちゃいまんがな)
やはり、アチキの青春のバイブル、司馬遼センセの「竜馬がゆく」が拭い去る事ができないほど
自分の中に竜馬像を成形しているんだろうな、と、自己分析してみる、
あの、司馬遼センセの龍馬像もかなり史実とはかけ離れたものであるのだけれど、
華麗に散りばめられた史実の断片がなにやら、全編をまるで史実というか
センセ、タイムマシンにでも乗って見てきたように書いてますね、(笑)てな感じですか?

まあ、その司馬遼の竜馬観を始めとして、現在流布している阪本竜馬像というものは
どうやら、明治期の政治力学も関連する土佐閥の思惑から作り出されたという言説もあって
(汗血千里駒なる一種の政治小説風のものが、竜馬の伝記の草分けだそうでまた、伝説の祖形となっているらし)
本来の竜馬像はまだ検討の余地が多くあるそうな、
現在放映中の青年期などはまったく不明のことどもばかりともいえようね。

しかし、明治維新期陸続として登場する志士、のなかでやはり異彩を放つという点では
だれも異論はないほど変わってますよね、
特に司馬史観で語られることだが、他の志士が理想とか思想などを重視する(というか絶対視?)
することと、竜馬の中にある理財とか、経済といったものに対する理解という点が回天の偉業に大きく
寄与した関連性といったことは大変私は面白いと思うのですよ。
それは、竜馬の生家の阪本家が高知城下においても有数の富を有する商家であり、
郷士の株を購入して士分でありつつ商家でもあるという特殊な生育状態が強く作用しているのだろうと考えます。

翻って、(ああ、またか)
大島小太郎さん、

父君の大島興義(小三太だったっけ)は、御金奉行の要職にあり、まあ、武家でありながら
いわば、商業には深く関わらざるを(本人の好悪は知りえないが)得ぬ立場であった。
これは、市の資料目録にはあまり見かけないようだが、以前あるところで興義の手になる
長崎での藩の交易関連の手控え(たしか横帖体のもので慶応の記録であった)を一見したことがあった。
小太郎も幼少時より父君の日々の話や、藩の苦しい財政の繕いに苦労する後姿を仰ぎ見ながら
成長していったのだろうことは容易に想像できるところである。

論語?だったっけ?

「父在らばその志を観(み)、父没すればその行ないを観る」

父の行いやその人生を理解して、敬い、没されたのちはその歩まれた道を振り返ってまた、己の行動の規範とする。
明冶の人々にはごく、自然な感情であったことなのであろうが、小太郎の唐津への一種異常なほどの
想いもなんとなくこの一文で、理解できるようにもおもえる。

写真は、昭和14年刊の「唐津開港五十年誌」巻頭、
【明冶31年唐津興業鉄道が大島沿線まで延長工事中の西港と西唐津】
大島さんの偉業のひとつとしてご紹介してみます。



題名:大島の功績  名前:やまめのたより 2010/03/12(金) 09:16 No.1216   gate201.bunbun.ne.jp

また、書いてすみません。
 
 風光明媚な唐津に住まいを構えた高取伊好と、実業界の中心となって産業基盤の元を築いた大島小太郎。
資料がほとんどない高取伊好と文献資料の豊富な大島小太郎。
 
 大島の評価が欲しいところですね。

下記は、明治32年、大島が大株主となって開通にこぎつけた唐津鉄道の開通と唐津西港の輸出船第一船の記事 
 その後、高取は相知炭坑を芳谷炭坑に売却し、杵島に本拠を移します。

13 唐津鉄道の山本~厳木駅間がようやく完成し開通式を挙行。既成線の妙見~山本間を合わせた沿線は13哩68鎖となり、全線計画の2分の1に達す。最大の顧客は石炭輸送で石炭を積み込む炭坑は38坑、1日平均出炭高は133万4580斤、石炭の年間運賃収入は6万8588円が見込まれている。各駅からの石炭積み込み坑は山本から牟田部、芳谷など17坑、相知4坑、厳木4坑
                      6・15<2>
14 唐津西港に入港の三井物産会社の勝立丸(4000トン)へ石炭の船積み完了、西港の輸出開始祝賀と勝立丸歓迎会を同船で行い、300余人が出席。唐津鉄道の延長で石炭輸送の主力が鉄道になり、西港の大島貯炭場が整備されて石炭輸出港が東港から西港に移る                    6・18<2>

   
 

題名:Re: 大島の功績  名前:むずかしいことわからんが 2010/03/13(土) 12:03 No.1217   pl-734-202.people-i.ne.jp


まだお会いしたことはございませんが、大島邸保存運動に関して
さまざまにお心にかけていただきまして、ありがとうございます。
昨日、市議会にて山下議員による質疑をテレビにて傍観しておりましたが、なるほど、と自分の考えとまったく異なる意見もあり
またそれが、世間一般の良識というものかもしれない、
と自問しておりました、
ただ、こざかしくうるさい連中だと思われようが
声は声としてあげていくことも必要なことと想い定めて
あきらめる事なく邸の後世への意義を訴えたいと思います、

高取家の文書資料につきまして
資料がない、というお嘆きがあるようですが、
高取合資、また、杵島炭鉱、関連、また高取家の私的な文書
、おおよそにつきましては
秀島選三先生のお骨折りによりまして
トラック数台分が九大石炭研(だったかエネルギー研だったか)
に寄贈されています。
同所には麻生本家などの旧炭鉱主よりも資料が寄託、寄贈で
収集されていますが、
(仄聞するところでは、麻生本家分などは数十年の間は
公開しないという付帯条件つきとか)
研究機関に予算がほどんどついていないと(近年)という
現状より、膨大な資料群は未整理のままに置かれるのだとおもいます。
文書資料にしろ、諸資料にせよ公共による文化財保存ということがすべて後世への最上の保存手法なのかしら?と
先日の唐津市民俗資料館などの件も併せて一考させられることであります。
写影はうちの書架にあった大正9年刊の
「佐賀県銀行会社要覧」記事中の大島さん、お、!お若い!!

   
 

題名:Re: 大島の功績  名前:むずかしいことわからんが 2010/03/13(土) 18:29 No.1218   pl-734-202.people-i.ne.jp

秀島選三先生、うっかり書き違えておりました。

秀村選三先生です。どなたさまもすみませんでした。

   
 

題名:Re: 大島の功績  名前:むずかしいことわからんが 2010/03/13(土) 21:04 No.1219   pl-734-202.people-i.ne.jp

大島邸とは無関係ですが、さきほどネットサーフィン中に
見つけたものです。
やまめのたよりさんの、ご研究の一助となれば幸いです。
また、唐津史の新たな切り口とも考えます。

http://camp.ff.tku.ac.jp/YAMADA-KEN/Y-KEN/fulltext/09kz.html

   
 

題名:Re: 大島の功績  名前:やまめのたより 2010/03/15(月) 20:16 No.1220   gate201.bunbun.ne.jp

 山田晴道さんの論文ありがとうございました。

 明治文化資料叢書以上の詳しいデータです。
いま、日刊紙だけしか追っていませんが、これだけ詳しく掲載されてあれば、楽しいですね。
早速、研究仲間にも知らせします。


 先日、昭和7年の佐賀日々新聞を1号だけ、骨董市で手に入れました。
 
 杵島炭坑の資料、九大に保存されたということは、初耳です。
昔、高取合資会社にお伺いしたときは、ほとんどありませんという回答。閉山事務所のものは、離職者、精算、鉱害関係で、創業期のものはあまりなかったのですが・・
これも日本大学に持ってゆかれたとお聞きしていました。

 

   
 

題名:Re: 大島の功績  名前:むずかしいことわからんが 2010/03/16(火) 10:36 No.1222   pl-734-202.people-i.ne.jp

唐津新聞の消長より唐津の経済状況を見通すという視点はとてもユニークだなあ、と拝見していました。
十五年ほど前、建物は解体されたようですが、大島邸の近所、
産業道路沿いの武家屋敷風、土壁が長く続くお屋敷跡のなかに
旧高取合資所有の建築物がありそこにかなりの文書類が保管されていたと聞きます、おもにその分が九大に行ったのだとおもいます、あの塀も高取家の皆さんの想いでまだ、あの状態で保存されていますが、永久にあの姿があるとは思えないのですけれどもね。

   
 

題名:Re: 大島の功績  名前:やまめのたより 2010/03/16(火) 12:08 No.1223   gate201.bunbun.ne.jp

 杵島炭坑96日ストの頃、緊迫した労働情勢の中、閑静な長く細い石塀の細道を通学していました。
争議のためか、邸内は、ひっそりと静まり返っていました。

 高齢のため、石炭史に取り組むエネルギーも、残された
僅かの時間も残りが少なくなりました。。

 若い熱心な研究家の出現を期待し、僅かの残さいの中から玉を見つけていただき、井手以誠さん著の「佐賀県石炭史」をしのぐ名著を期待するしかありません。



題名:無題  名前:むずかしいことわからんが 2010/03/11(木) 22:24 No.1215   pl-734-202.people-i.ne.jp

毎月、ピープル放送の視聴料はいやおうなしに引き落としされているが、あまりそれらを観ることはないのだけれど
現在開催されている市議会での大島邸関連の論議が気になってちらちら中継を眺めている、

本日の、青木茂市議の「唐津市民俗資料館」(西唐津、旧三菱唐津支店)についての質疑は興味深かった。
文化財保護に関する諸条例などを引用しながらの質疑は、はっきりとは表面には出ないながら
文化財行政の問題点が浮き出されていたように見えたのは私だけだっただろうか?

ワタクシ事ながら、「唐津市民俗資料館」が開館した当時は、まだにきび面の一中生(しかもバカ)であった。
当時も今と変わらず抹香臭い趣味であったので、郷土研究部などに所属して自転車で鏡山麓あたりで
弥生式土器の採集などにうつつをぬかしていたわけだが、
その頃、文化庁による民俗生活などの調査、伝承、生活用品などの収集が行われていたらしく
うちの顧問の先生が委嘱されていた関係もあってワレワレ部員もなんだか意味もわからず
つまりは無給の作業員として木臼や、酒舟(大きな長持ち状のもの、上に木の蓋と重石をして酒を絞るものと聞いた、
大島邸のごく近所の民家からそれを搬出させられたが、今にして思うとなぜ?あんなものがあのお宅に?と不思議だ)
ワラのなんだかばっちい蓑とかさまざまなものがあちこちから集められ
(それらは、イニシエの生活様式などを後世に伝えるという文化財として寄贈をお願いして集められたものだったはず)
鏡神社前の?廃校のなかや、上記の民俗資料館などに膨大に収納されていたのを実見している、
(当時は、ゴミの山にようにしか見えなかった、いや、いまでもそう見えるかもしれない)

ワレワレバカ中学生は、無論単純作業しか出来ないのであるが
「唐津市民俗資料館」開館当時は、週末になると館内清掃や、窓拭きなどの労働の合間に
初代館長でいらした後藤為義先生にさまざまなお話をお聞かせいただくのがとても愉しみであった。
開館記念展であった「玄界のくじら取り」展(佐賀県博で行われた同展示を唐津に移動して展示したものであった)
で見聞したさまざまはいまでも私のなかに大事な記憶として残っている、

しかしそのようにして開館された同館であったが、青木市議のお話によると昨今は経年の劣化など激しく
大きく損耗しているとのこと、
いつか、ちょっと気になることがあり同館を久々に訪ねた事があったが、なにやら開館などは
近所の方に依託されているような模様でもちろん館長さんなどの姿も見受けられなかった。

唐津市の文化財保護についての基準などさまざま、担当のお偉い方のご説明は聞いていたけれど
なんとなく虚しく聞こえて仕方がなかった。

あの唐津市全域より集められた古民具たちは今、どこで虚しく眠っているのだろうか?

また、唐津市における文化財の指定、選定におけるプロセスについての質疑も行われていたようだが
唐津城下整備構想としてさまざまな、うどん屋のような建築物(西の門館)などが
建設されていたが、あの段階ですでに県の近代和風建築物遺構調査を受けその価値が認識されていながら
なぜ、大島邸を市教委は文化財として選定しなかったのだろうか?
私には頭が悪いからだろうか、わからないことばかりである。
なんだか、非常に気分が滅入ってしかたがないのですね。



題名:史跡と新しい公共需要  名前:やまめのたより 2010/03/11(木) 21:36 No.1213   gate201.bunbun.ne.jp

 うーん、難しい問題ですね。
佐賀市の場合、昔の佐賀城の復元のため、
城南中学校を移転し、その後に赤松小学校を移し、
赤松小学校の跡地の佐賀城本丸跡に、今人気の本丸御殿を復元しました。
 さらに、今のNHK佐賀放送局の東の民地を購入した、ところに
昔埋め立てたお堀を復元しようとしています。
 
 また、今の県立病院好生館が移転しますと、
さらに大きな空間が生まれ、新たな魅力を増すと思います。

 これに、多大の税金を投入しています。
佐賀市民が反対ということはありません。
そして、今、年間何十万のお客が訪れ、
また周辺は佐賀市民の憩いの場です。

 今の時代の流れは、史跡を現代に生かして、保存活用を図る
ことです。
 大島邸の保存の問題は、この大きな時代の流れと申しますか、
大きな視点の認識が弱いことでしょう。

   
 

題名:Re: 史跡と新しい公共需要  名前:むずかしいことわからんが 2010/03/11(木) 22:22 No.1214   pl-734-202.people-i.ne.jp

難しい議論は出来ないのですが、たしかに佐賀城本丸歴史館は
画期的な建築構想といえるものなのだと思います。
本来、あのような形のものでは当初の予定ではなかったのですが
建築前の基礎調査段階において旧佐賀城の埋蔵遺構が思わぬ良い状態で発見されたことによって、埋蔵遺構を保存できるような
歴史資料館という観点より建造物はいわゆるコンクリの箱ものでなく、あのような形態となったと記憶しております、
(ただ、そのおかげで当初構想にあった文書館機能は
併用できなくなってしまったことは残念ですが)

本丸御殿復元の成功事例は、(前後関係ははっきりしないのです、間違っていたらすみません)
長崎奉行所や、熊本城などの同様の形態をもつ建造物を
招来し、新たなムーブメント?となりつつありますね、

ただ、あまり文化財などに興味を持たなかった人々も
招きよせ、歴史、文化に対する理解、啓蒙に寄与するという
面は非常に重要だとは思いますが、
入場者数が確保できたからすべて好いとは
(もちろん、そういうようなお考えは誰も持っていらっしゃらないのはわかってあえて、そういってみるのですが)
おもえません、

いずれにも言えることですが、既に姿を消していた遺構が
新たに復興されるのも良いことですが、
現物があるに越した事はないのは異論のないところだと思います、
たとえば、観光客の誘致に
(くだけていわせてもらえば、ウケルようにですな)
近代和風建築という点では、高取邸と印象がかぶる
(武家文化の象徴建築という点でそれは違うのですが)
大島邸を、からくり忍者屋敷に改造したら
唐津の目玉になるのでは?というような
射利を主眼とした議論にはそれがたとえ公共の利益となっても
私個人の感情としては組したくありません。

あくまで、文化財はその後世まで残すべき価値という点で
論じるべきであり、その活用という点は副次的なものであってほしいと思いますが、ちょっと自分ながら論だてが変?かも
すみません。



題名:無題  名前:ryuichi19690105 2010/03/09(火) 21:31 No.1211   119-47-39-247.ppp.bbiq.jp

「小学校建て替えのために崩してしまうバカヤロー!」とありますが
私も父兄の一人とした子供達に少しでも広い場所を提供してあげたいと思っています。バカな親かも知れませんが

   
 

題名:Re: 無題  名前:むずかしいことわからんが 2010/03/09(火) 22:49 No.1212   pl-734-202.people-i.ne.jp

ヒトという種類の動物が他の動物と違う点は、【言葉】というもので話す事のできるという事なのだと思います、
話し、聴くということを無視しては決して互いの考えを理解
(その主義、主張を取り入れるということはまた別として)
することは出来ないということは言うまでもないことだと
考えます。
そういう意味において貴方様のお話は、
保存運動に心するものとしても傾聴せねばならないことだと
心から思っていますが、ただ、以前ご自分でもお書きになっておいでですが、(大志小への合併は以前はあまり興味が薄かったが
ご自分のコドモさんが通学するようになってからウンヌン)
やはり(私もそうですが)誰でも自分に関係する事柄、利害を
どうしても判断の基準においてしまうことは無理からぬことだとおもいます。この掲示板でも書かれていましたが、
大島邸の保存に理解を示された父兄さんは今年卒業される児童の
父兄さんであったという話は。ちょっと困惑させられますが。
皆、(とくに大志の関係者)運動場は広いほうが
校舎も新しく建てるべきだ、などということは
議論するまでもなく、解っていることではあると考えます。
しかし、現実に日々を過ごす生活者として以前に
カラツンモンが唐津でずっと暮らしていく時の
ココロの問題(ちょっと短い文ではこの点は
ご理解いただけるようにお話しできませんが)として
保存運動はあるのではとずっとこの掲示板でお話ししてきている
つもりなのですが。

現実に、民主的に選ばれた市長と市議会にて
決定されてしまいそうな現段階において、あまり拡がりを見せているようにも思えない保存運動に、貴方様のように
感情的に反駁なさることはあまり意味をなさぬのでは
?と、ふと、疑念を感じてしまうのは私が間違っているのでしょうね。
ただ、ずっと大志小のことや、あれこれを折に触れ自分のココロの中であれこれと考え続けてみても、どうしても大島邸について
あきらめる事ができかねるというのも、どうしたものでしょうね。
三浦先生のブログにても、大島邸について氏の考えが
述べられています。
それは、現代の文明観などにも絡む、思想的世界観をも
含んでいるようでちょっと小さな大島邸保存の論とは
次元が違うのかもしれませんが
大島邸問題は多分に精神的部分が多くの部分を含むことは
ご理解いただきたいと思います。



題名:無題  名前:ryuichi19690105 2010/03/09(火) 21:28 No.1210   119-47-39-247.ppp.bbiq.jp

あるブログに書いてあったものですが
「名前:アクル 日付:2010/2/28(日) 23:25
産業・交通・文化の近代唐津の草分けを手がけた大島家のお屋敷を
小学校建て替えのために崩してしまうバカヤロー!

よ~く考えてみると、大島邸の土地を購入し、東高が移転し、志道・大成が合併し、早稲田を誘致?し、今回の大島邸解体後の大志小建て替え。行政の大まかなストーリーはできていたんではないか。

もういい加減目を覚ませよ。行政は唐津を台無しにしては居ないか。

昨夜の勉強会の講師、三原宏樹先生のブログをご覧下さい。
ここをクリック
http://alphdesign.blog91.fc2.com/blog-entry-630.html 




題名:無題  名前:ryuichi19690105 2010/03/09(火) 18:35 No.1209   119-47-39-247.ppp.bbiq.jp

私が思うのは大島邸を移動されて一般、又は観光客の方達に有料でお茶会を体験し唐津の和菓子などされたどうでしょうか?
大島邸でお茶会と唐津のおいしい和菓子を提供されてはどうでしょうか?
山内薬局様が場所を移動しては意味がないと言われています
それもわかりますが今のままで言ったら解決法は無いと思います



題名:大島小太郎、郡会議長選挙で敗れる  名前:やまめのたより 2010/04/04(日) 22:20 No.1262   gate201.bunbun.ne.jp

 大島小太郎は政治にも意欲を示します。

 明治32年9月、府県制、郡制の改正後初の選挙が実施されます。
大島は実業派から東松浦郡会議員選挙に立候補し、当選します。
 
 11月6日、選挙後の臨時郡会が開催され、
正副議長選挙が行なわれ、議長選挙では実業派大島小太郎11票、
次点自由派大川内敬10票、と1位になるも過半数に達していなかったため、決選投票を行った結果、大川内13票、大島12票で惜しくも議長のポストを逃がします。実業派は少数のため進歩派と提携しますが、多数の自由派が強く、涙を呑みます。

 その後行われた参事会員選挙でも敗れます。

 (注) この頃、県内では多数派の大隈重信率いる憲政本党=進歩派が退潮し、板垣退助が率いる憲政党=自由派が大きく伸びます。
 この過渡期に、大島らは両党の中間勢力として実業派を結成し、選挙に臨んだようです。その後、大島は憲政党→政友会に傾いて行きます。



題名:曳山組織の内部事情教えてください  名前:匿名さん 2010/04/03(土) 22:32 No.1261   119-47-40-240.ppp.bbiq.jp

山内薬局さんは京町の取締役さんと聞いたのでお尋ねします。
私の知人に町外のモンですが、くんちに参加したい者がいるので
お聞きしたいのですが、以前、曳山組織の若会は当然、町内の人しか入れないのでしょうが、町外者で構成されるヤマ会は人数が少なくなっているので各町、「入りたい」という意思があれば歓迎されるとの話を聞きました。(数年前の話ですが)現在の状況
を教えて下さい。



題名:唐津築港会社  名前:やまめのたより 2010/04/02(金) 22:27 No.1259   gate201.bunbun.ne.jp

これは、大島が関係した会社です。

 唐津港が明治32年特別輸出港に指定されます。
これが唐津港の貿易港としての発展の起点です。
大島もこの指定に奔走しています。

 そして、これにあわせて、いよいよ唐房湾の埋め立てが始まります。

明治32年3月16日 唐津築港会社の総会を開く。
唐房湾に築港を目的として資金 100万円の会社設立を
めざしていたが、事業は一時停滞、株式申込者の総会を開き、
善後策を協議                 3・18<2>

 大島家文書に登場します。

   
 

題名:Re: 唐津築港会社  名前:やまめのたより 2010/04/03(土) 05:07 No.1260   gate201.bunbun.ne.jp

 特別輸出港の指定 出てきました。
 
 唐津町、唐津村の町民達の喜びが手に取るようですね。
明治32年7月です。

 12 新条約実施に伴い唐津港は横浜、神戸と並ぶ特別輸出港となる。
下関、博多など22港が同時に新指定を受け、関税実施日の8月4日から施行(勅令)。
 祝賀会を計画し、準備協議会で会費1000円、唐津小学校敷地に数百坪の小屋掛けをして式場及び園遊会場を設営することなどを決める。唐津港の30年貿易額は32万2357円、31年は40万0285円                   7・14,18,22<3,2>



題名:無題  名前:やまめのたより 2010/04/02(金) 21:41 No.1257   gate201.bunbun.ne.jp

 皆さん、大島邸の保存のため、最後までがんばるとの決意に
改めて、敬意を表します。

 それでは、大島を理解していただくため、
出来上がった原稿をあせくって、
大島小太郎の本拠地、唐津銀行の建設の新聞記事を探して
みますね。何本かあったような気がします。
 
 索引もエクセルで作ってもらっていますが、
この抽出の方法がまだわからなく使用できません。
 
 大島邸の記事は全く出てこないですよ。・・・・・
高取邸は、能の関係でよく登場しますが、・・・・

   
 

題名:「水火の争い」、  名前:やまめのたより 2010/04/02(金) 21:49 No.1258   gate201.bunbun.ne.jp

 まだ、まだありました。
大島小太郎と火力発電所、

 世に言う「水火の争い」、
これが一番面白い、探しますね。



題名:佐賀までつながらない唐津線  名前:やまめのたより 2010/04/01(木) 04:58 No.1252   gate201.bunbun.ne.jp

 唐津~多久~牛津~佐賀を結ぶ唐津興業鉄道。
資金難、裁判続き、工事の遅延続きの前途、
やっと明治32年12月25日厳木~多久間が開通。
増資問題がこじれ、重役が総退陣。
妙見~山本~北多久間の全面開通のお祝いも、
餅くばり程度で質素。

 33年1月の元原稿を覗くと、松方正義大蔵大臣が
斡旋に乗り出し、やっと経営陣の建て直しがなされている。
さらに、多久~牛津間の工事は無期延期のようだ。

 この会社の資力では無理のようである。
さてさて、どうなるか。

 次は身売り話のようだ。
これも九州鉄道による買収の際のトラブル劇が出現。 
これは既に調査済み。
焦点は九州鉄道による買収後の
多久~北方、多久~小城~久保田、多久~牛津、
多久~小城~大和~佐賀の4線の敷設の誘致争い。

 多久~小城~久保田の路線が決まってからも用地買収が
中々進まない。

 最後までトラブル続きの会社。
それに比較し、伊万里鉄道は開通と同時に、
いとも鮮やかに九州鉄道に身売りしている。

   
 

題名:Re: 佐賀までつながらない唐津線  名前:むずかしいことわからんが 2010/04/01(木) 18:06 No.1253   pl-734-202.people-i.ne.jp

掲示板主さんは、大島邸を諦めないというご決意のご様子、
まるで、鉄道敷設に血の小便が出たという明治のもろもろの方のようだ。

やまめのたより様は明冶がご専門でいらっしゃるのでしょうか?
私は、明冶は(も?か?)わからないことだらけです。
諸処、ご教導賜りますと、幸いです。
よろしくお願いいたします。

さて、明冶の唐津、
炭鉱関係に限定して眺めてみると、明冶初年よりしばらくは
地元資本(有力商人、豪農など)の投機的色彩も若干付帯した
感じの開発、営業参画がほとんどのように見受けられますが、
(宮島、相知の池田一族、など)
この地方資本は明冶後期になると急速に衰えをみせ、
県内の有力炭山はほとんど財閥系資本の経営下に組み込まれていきます。(例外は高取でしょうが、まあ、あれは特例ですかね)
国の指針でもあったのでしょうが、
鉄道についても、同様の例が多く見られますよね、
唐津の場合は、やはり良くも悪しくも、
政官界に有力なパイプが細かったという点も影響したのでしょうか。
現在、の民主政権下の、唐津の、、、、、

あ、だれか、玄関にきたようだ。

   
 

題名:Re: 佐賀までつながらない唐津線  名前:やまめのたより 2010/04/01(木) 19:54 No.1254   gate201.bunbun.ne.jp

 本当に大島邸は、惜しいことになりましたね。
坂井さんに対抗して出馬した大草氏であれば、どうなったかなと、しばし沈思黙考中。
嬉野では、いったん取り壊した温泉館を観光資源に復活中なのに・・ あの市長は、商売人ですね・・

 マア、最後は市民の代表である議会が決めたことですからと諦めることにしています。・・・
もっと、観光に活用すればよいのに・・・


 唐津と石炭との関係ですが、唐津地方の石炭資源は、
埋蔵地域が非常に狭く、炭層がほとんど3尺層、
筑豊みたいに多層を形成していないそうです。
しかし、比較的地層が浅く、松浦川の舟運に恵まれ、日本の近代化の初期の発展期に貢献したということが一般的な評価ではないでしょうか。

 高取も、相知炭坑を開発するものの、早期に見切りをつけ、優良炭田である杵島に本拠を移します。

 大島、宮島、平松、草場ら地元資本家は、政友会の佐賀の大物
長谷川敬一郎、或いは川原茂輔と手を組み唐津東松浦郡の振興に努力します。
 あの手、この手、韓国航路を開いたり、製塩会社、満島馬鉄、汽船トロール、松永安左衛門や福沢桃介と手を組んだり、
ここらあたりの群像の評価が少し低いところかな。
2代目宮島伝兵衛ももっと評価が欲しいところです。

 本業が忙しくなりましたので、しばらく投稿をお休みします。

   
 

題名:Re: 佐賀までつながらない唐津線  名前:山内薬局 2010/04/02(金) 14:42 No.1256    softbank220062098075.bbtec.net

やまめのたよりさん

まだまだ諦めたらいけませんよ。

まだまだ訴えて行きます。

このままでは今の唐津の行政は貴重な文化遺産を破壊したという汚点を残すことになります。唐津の為です。皆さん、声を上げましょう。

4月5日から16日まで、佐賀銀行唐津支店二階で大島邸の写真展を開催します。「見て、知ってください。」がテーマです。
一人でも多くの方に見ていただきたいと思います。



題名:あきらめない・・・・こと  名前:kominka 2010/04/02(金) 14:12 No.1255   p6061-ipad03fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp

 いよいよ自由に立ち入れなくなりましたね(涙)、3月のうちに外観を写真に残したいともう一度出かけました。「はだかの王様」みたいに・・・みんな知ってる市職員も首長さんたちもその価値を御存知なのになぜ残せないのでしょうか?
 不肖kominkaの家は台風17号と19号のダブルパンチで大被害を受け、少しずつ工事していたのですが18年がかりでほぼ完了しました、庶民はそうですよ。こんなでも、とりあえず雨風しのげれば暮らせます。不便な部分は多々ありますけれど(笑)
 けれど大島邸は別です、あんな「いいもの」(材料・材質としても歴史的にも、これからの経済効果も)を残さない手はないと、誰でも?思いますよね。各地ではお客さんを呼ぼうとあの手この手でイベントなどして客寄せしてあるのに、お城といくつかの歴史的な建物だけではリ目が肥えたお客さん・観光客には魅力に欠けると(失礼ながら)思われます。すぐ近くにいる者としては、歯がゆくてなりません。
 最期の最後まであきらめずに。いろんなやり方で、智恵を集めて「楽しく」できることを期待しています。署名にしても浜崎のkというハーブティ喫茶でお話したら「してなかった、何枚かください」とおっしゃってました。まだまだ唐津市内のいろんな方に語る必要があるように思います。



題名:無題  名前:むずかしいことわからんが 2010/03/25(木) 15:02 No.1244   pl-734-202.people-i.ne.jp

最後に呉服町辻三家の亀屋、辻家、薬種商です、
同じ、大正4年刊、【佐賀県官民肖像録】より



題名:吉野ヶ里遺跡の想い出  名前:やまめのたより 2010/03/24(水) 13:16 No.1239   gate201.bunbun.ne.jp

 吉野ヶ里遺跡は、もともと神埼工業団地の造成予定地、
弥生後期の環濠集落が発掘の際出土。

 この貴重な発見に、当時の香月熊雄知事は、
工業団地造成途中ながら吉野ヶ里公園造成に転換した。
これが国営公園吉野ヶ里遺跡。
 
 この遺跡を活用したのが、旧三田川町、駅舎も町名も吉野ヶ里。いまや毎年、数十万の観光客が押し寄せる。
修学旅行のメッカでもある。

 この一件の英断で、香月知事は県政歴史上に残る名知事となった。
 



題名:唐津銀行西支店参考資料②について  名前:やまめのたより 2010/03/23(火) 05:03 No.1231   gate201.bunbun.ne.jp

 浅学菲才の身ですが、
唐津銀行は、明治32年頃、相知村に支店を開設します。
この頃、相知村は高取の相知炭坑、三井の鹿子炭坑、牟田部炭坑、隣の芳谷炭坑などの炭坑が隆盛期を迎えており、
この頃、県内一の鉱業町村となります。
資金需要が高まり、取引先の需要にこたえるためのものでしょう。
 その後、西唐津に支店を設置します。
これは唐津港の石炭積み出しが、満島の沖積みから西港に移っていったためです。

   
 

題名:Re: 唐津銀行西支店参考資料②について  名前:やまめのたより 2010/03/23(火) 05:06 No.1232   gate201.bunbun.ne.jp

 西唐津支店の営業報告がないのは、実質が代理店であったかもしれませんね。
   
 

題名:Re: 唐津銀行西支店参考資料②について  名前:むずかしいことわからんが 2010/03/23(火) 05:49 No.1233   pl-734-202.people-i.ne.jp

早速のご教導、ありがとうございます!
ブログ、拝見いたしました。熊本城本丸御殿、いかがでしたか?
昔、ある古本屋さんの店頭で、【大佐賀市論】という戦前の本を見つけまして(欲しかったのですが、持ち合わせが足りませんでした、買っとけば良かったと後悔しきりです)
その本の中で、或る論者が(在地の識者、多数による意見集なのです)
「佐賀といえば、良くも悪くも思い出す風景は、
 県庁前のお堀端と、大楠だろう」というような事を書いており
まあ、今も昔も同じなのね、と、ほほえましく思った記憶があります。
佐賀県人にとって、県庁前の風景や、鯱の門が県をイメージする代表的風景であるように、おおよそ、何処の町でもやはりお城とその付随物というのは、格別の風景といえるのかもしれませんね。(熊本のヒトは何かあると、熊本城だもんな)

さて、西唐津と相知についてご教導、恐縮です。
西唐津は、私の幼い頃の故地でありまして、子供ながら
寂れた感じの町並みを記憶しています。
小さなまちなのに、結構官庁があって不思議な感じだったのですが、(市史によると、西支店と同時期に松浦座なる芝居小屋も
出現しているようです)昔の殷賑を残す風景だったのだな、
と今になって膝を叩くお粗末さです。
そういえば、佐原の国立民博の展示が完成したと先日、知人に聞きました。開館よりずいぶんたつのに、!とびっくりでしたが
近代の部分について検証が続いていたらしく、やっと昭和後期分の展示内容と、展示物が公開されたようです、上野英信ご夫妻と
ご子息の写真など(私淑しています)炭鉱関連資料も取り入れられていると聞きます、。佐賀は筑豊に較べると、(特に唐津)
経済、鉱業史より見た炭業といった研究が多く、
従事者の生活や、営みといった事を著したものがあまり見出せないように思いますが、知見不足なのでしょうか?
「にあんちゃん」があまりにも有名ですけども、

   
 

題名:Re: 唐津銀行西支店参考資料②について  名前:やまめのたより 2010/03/23(火) 15:53 No.1236   gate201.bunbun.ne.jp

 唐津銀行相知支店は明治32年10月16日設置です。
住所 相知村相知178番地
支配人 小林春正
 となっています。
 取締役は大島小太郎、平松定兵衛、草場猪之吉、山崎常蔵、
山内久助の顔ぶれとなっていますね。

 西唐津が寂れた感があるのは、石炭荷役が沖積みから
陸上からの直接積み込みに変化していったこと等、
それに定期船の乗客の上客は唐津町内、下客は西唐津であったことも一因ではないでしょうか。

 

   
 

題名:Re: 唐津銀行西支店参考資料②について  名前:山内薬局 2010/03/24(水) 00:16 No.1238    softbank220062098075.bbtec.net

西唐津支店は、現在の佐賀銀行西唐津支店の道路を挟んで北側に建っていたという情報を得ました。


題名:紙くずの山の中で思う、(あまり書かないほうが良いのかも) 
名前:むずかしいことわからんが 2010/03/22(月) 23:08 No.1230   pl-734-202.people-i.ne.jp

掲示板のご主人様はなにやら、ご家蔵の古写真にご執心のご様子。
いつぞや、お宅にお邪魔させていただいた折、一見させていただいた明冶の古写真は
いずれも唐津の近代史を彩る、資料性が浅学のワタクシにも感じられて
(長崎の、上野彦馬の写真館より送られた、送り状の上書きまで現存していたのは、びっくり!
  本邦の商業写真の貴重な現存資料といえる)
なにやら、わくわくさせられる、ことではある。


私も、今日は夕方より、
やまめのたよりさんに啓発された?のか?
着手するのがイヤでイヤで、忘れた振りをしていた(笑)
段ボール箱の山を崩す作業、!
むかーし、入手して、そのままの紙くずの山、
あれこれと、手付かずなのである。
(いや、変に整理せずに入手のまま、保存するほうが中途半端に整理するよりかえって効率的なのよ、
 、、、、、、、、と言い訳してみたり、)
ある資料(見た!記憶はあるのでどっかに入っているはずなのであるが、)を再度、実見せんとの目論見であったが、
発見出来ず、やれやれ、である。
その代わり、といってはなんだが、明冶末頃の、【新唐津】【唐津新報】【西肥日報】が数部出てくる、
昭和始めの、【唐津時事】も、。
で、本日の収穫の最大のものは、これ!
【唐津商工会雑誌】明冶25年の三号、と同26年の六号、である。
内容については、特筆するほどのこともないようだが、笑顔子(誰だろう?)筆の
「奮起せよ、唐津商人」なる一文はちょっと、興をそそる。
いわゆる、北海道炭田など各地の炭田の開発によって、当唐津炭の優位性が崩れ唐津炭に依存していた
地域経済が停滞感を強くしている現状を愁い、官民一体の鉄道敷設運動で事態の大回転を、という趣旨の文である。

まあ、いままでも語られていた文意なのであるけれど、
よくよく考えてみると、当時の唐津人の、自立の精神というものは特異な感さえ覚える。

旧来、唐津人の佐賀への敵意?というか感情の激しさは江戸期以来のものという説明が多くなされているが、
どうも、そうなのかなあ、と、この一文を読みながら、また、唐津銀行の創立時のことなども併せ考えて、
遡ってみたりして。

もともと、唐津人は江戸期は佐賀に対して、さまでの劣等感も反感もなかったのではないのかしら。
若し、その遠因を求めるのであれば、それは明治維新というものがもたらしたものなのかもしれない。
ご存知の通り、佐賀藩は薩長土肥と呼ばれるごとく、維新の回天には特別の功績があった。
維新直後の官員録などをみると、佐賀の鍋島直正は並み居る諸大名よりぬきんでて、重く地位を得ている、
直正の高い識見も求められた結果でもあるのであろうが、佐賀の持つ実力、が評価されたものともいえる。
で、我らが、唐津藩はといえば、世子であった明山公、小笠原長行が幕府老中として幕政を扶翼していたこともあり
朝敵として討伐されかかっていたわけですね、。
(明山公を廃嫡し、石炭を献上したり、あれやこれやと土下座外交でなんとか取り繕ったわけである)
で、普通六万石程度の大名であれば、当主は伯爵を頂戴できるのであるが、
唐津は子爵なんですな、佐賀本藩は侯爵、小城は伯爵、えらい違いですな、ま、当然なのかも。
明冶政府からも、
(現在、民主党本部が巷間、言われているような、「言う事聞かねば、@@県の公共事業予算は、、、、てな感じ?)
また、その出先機関である佐賀県からも、まあ、はっきりいえば、冷遇されていたとしか言いようがない状態。
その頃の、感情の残滓が、ずっと感情のなかにわだかまっているのでは、と、ふと、考えて見たりしたのでした。
おそらく、鉄道敷設についても、
「お上は、あてに出来ず、自らの手で打開するしかなし、」との決意はそのあたりの機微も併せて考える必要があるのかもしれない。

などと、唐津鉄道、創立時に思いをいたしたり、しておったところでありました。

ちなみに、この【唐津商工会雑誌】印刷所は、京町、山内活版部、
初耳だが、明治期、盛業であったと聴く、京町の山内呉服店の関連事業なのだろうか?

   
 

題名:Re: 紙くずの山の中で思う、(あまり書かないほうが良いのかも) 
名前:山内薬局 2010/03/23(火) 07:03 No.1234    softbank220062098075.bbtec.net


京町、山内活版部?
京町、山内呉服店?

どちらも初耳です。

呉服店はもしかして魚屋町では
中の木屋が確か呉服店だったと聞いていますが。

うちのお隣は明治初年の町割り図では山内小兵衞借家とあります。もしかしたらそこに活版部があったのではないでしょうか。

京町には他に山内小兵衞借家は見あたりません。
呉服町には西の木屋(○木)の瓦が乗っていたと聞きます。
   
 

題名:Re: 紙くずの山の中で思う、(あまり書かないほうが良いのかも) 
名前:むずかしいことわからんが 2010/03/23(火) 07:39 No.1235   pl-734-202.people-i.ne.jp


魚屋町、中の木屋さんの呉服屋さんは私もうっすら聞いていたのですが、最近、京町山内呉服店の記事を?なんだったかで見たような記憶があり、(最近なのに覚えてない、ぼけてんの?)
そう思ったところだったんですが。
山内活版所ですね、正しくは。

   
 

題名:Re: 紙くずの山の中で思う、(あまり書かないほうが良いのかも) 
名前:山内薬局 2010/03/24(水) 00:11 No.1237    softbank220062098075.bbtec.net


不景気ニ就テハ
印刷物代弁強
もとねにて請合仕り枡

いつ頃の不景気でしょうかね。



題名:唐津人の心意気  名前:やまめのたより 2010/06/24(木) 10:22 No.1286   gate201.bunbun.ne.jp

明治32年9月の佐賀新聞です。
11 唐津町の実業家は、唐津港を東洋のマンチェスターやマルセーユを目指して唐津実業同志会結成を準備。政党・政派とは無関係で、主なる人は河村藤四郎、宮島伝兵衛、大島小太郎、山内久助ら13人。創立主意書案を唐津新報に掲載
            9・15<2>

 CDーR ありがとうございました。



題名:日限のお地蔵様の夜の、極私的感想  名前:むずかしかことわからんが 2010/06/09(水) 18:24 No.1284   pl-734-202.people-i.ne.jp

私は、良い事なのかそうではないのか?自身ではわからないが、
生まれて今まで、唐津のほかで暮らしたという経験を持たない。

ずっと、この裏路地のごたごたした町並みのなかで育ち、現在に至っている、
別に、さほど良い街だとも、ずっと暮らしたい素敵な町だとも想ってもいないし、
きっとこれからもそう考える事は、ないだろうとおもう。

それどころか、生まれてこの方、
苦しくて、ショッパクテ、どうしようもなく醜い人間関係や
はらわたが煮えるような腹立たしい思い、
無力感、その他、さまざまな苦い感情を抱きつつ、この町で足掻きもがき、
そのうちに誰からも褒められる事も無く、残念に惜しまれる事もなしに
いつかは去ることになるに決まっているようなものだ。

そうしてだんだんと物事に、静かに諦めていくことが、生きるという事なのかもとも想う。

昨日、西先生と仰る、ご高名な建築学の先生がご来唐されて
【大島邸を保存する会】さん主宰の夜会が、聖持院さんのご本堂で行われた。
ずっと、大島邸関連の勉強会には、途中より参加させていただいていたが、
昨晩の寄り合い?(まさしくそんな印象であったが)が、もっとも議論の集約が見られたような
そんな夜であった。
西先生によって、収拾され、整理された大島邸関連の一連の動きや現状が
ある意味、客観的に俎上にのせられ、それについて明解に問題点、攻めどころ、落としどころなどが
教示されていく、
集まった面々にも、あるいは?というある一種の希望を抱かせる良いお話であったとおもう。

ただ、そういうお話や、また、集まった皆さんの熱っぽい、大島邸への想いを耳にしつつも
どこか、醒めている自身の心があったのはどう言い訳しても否定できなかったのであった。

いつであったか?商工会館で、【大島邸を残す会】(このあたりはややこしくてアホな私にはよく解らないのだが)
さんの主宰で、会の名を失念しているが、唐津の未来を考えるとかのシンポジウムも開催された。
その折、ひな壇上の、商工会議所長、商工観光部長などのお歴々は、
観光唐津の未来のための、うんぬんといったお話をよくなさっていたような記憶がある。
(なんだか、記憶が曖昧ではあるが)
そもそも、観光ってのは、一体、産業なのかしら。?
なにを、バカなことをと、嗤われる事を承知で自身も含めて問い直してみたいところだ。

現在、唐津では、中町を中心として
【大正、昭和の街再生】事業が進められている。これも美しく化粧が施された旧唐津銀行本店と、
高取邸、唐津城関連建築物、それらを抱合した、美しく懐かしい、次代に残すべき唐津の街の総合デザインを
だれぞさまは、プロデュースされておいでなのであろうとおもう。
それは、また、観光を次代産業の大きな柱の一つにおいているお偉いさまの
私のような庶民には、解りようもない高等な筋書きなのであろう。
しかし、私はへそ曲がりであるのか、そういう整えられた芝居の書割のような街には
まったく魅力は感じないのである。


現在、日田の豆田町や、吉井、島原、ETCと古い町並みを売り(嫌な言葉ではあるが)
にして、人々の耳目を集めている町は九州内にも多い、

しかし、それらの町に共通していることは、町に暮らす人々が皆、父祖が生き、
自身が生まれ、育ってきた街というものに無意識に抱き、強く念じている
【残し、伝えていく。(またはいかねばならないという)心】のような気がしてならない。
決して、古いものは、なにもかも貴重なものだ、全部保存ずるべきだなどとの妄言を述べるつもりなど
毛頭ない。
ただ、人が人として生まれ、生きていくうえで
誰もが自分の父祖に想いをいたすように、自分が生まれ育った街の歴史や、美しい町並み、流れる情趣といったものを
護りたい、次世代に残し、伝えていきたいと願うのはごく自然な感情ではないのだろうかしら。

だが残念ながら、現在の唐津の雰囲気は、そういう意味での議論の醸成といったものは
私にはまったく感じる事が出来ない気がする。
【大島邸保存】という問題は大きなテーマではあるのには間違いはないだろうが、
実は、それはひとつの象徴的現象として顕在化したものであって、
ホントウは、見つめて、見直さねばならない本質が別にあるのでは、と、ずっと考えていた夜だったのでした。

まあ、なにもしないくせに、大言壮語ぶりは恥ずかしいことですが、
(含羞のないこと、我ながらイヤで、書き込むのやめようかと何度も考えましたが)
あえて、一言、感想を述べてみました。

   
 

題名:Re: 日限のお地蔵様の夜の、極私的感想  名前:やまめのたより 2010/06/10(木) 20:26 No.1285   gate201.bunbun.ne.jp

 西先生がおみえになりましたようですね。
是非お話をお聞きしたかったのですが、残念です。



題名:またまた、唐津鉄道に災難  名前:やまめのたより 2010/05/31(月) 20:06 No.1283   gate201.bunbun.ne.jp

 唐津線は本当に苦難続きの鉄道ですね。
資金難、用地買収難、裁判所の工事差し止め、経営方針の対立、
経営陣の交代、資金難から従業員の解雇。
今度は人夫の破壊活動、なかなか長崎線につながりません。
最後まで続きます。

 33年3月4日
唐津鉄道笹原トンネル付近の多久側の側壁が夜間に、破壊され、
不通となる。賃金未払いに立腹した人夫数十人が犯行に及ぶ。
巡査約20人が出動、80人を逮捕、11人を検事局に送る。
                  3・6,7,11,16<2,3>



題名:唐津鉄道株主総会  名前:やまめのたより 2010/05/24(月) 16:17 No.1282   gate201.bunbun.ne.jp

32年4月です。
この後、唐津鉄道の株主間に、経営方針を巡って内紛が発生、
大島は翌年辞任します。

28 唐津鉄道㈱は定期、臨時総会を唐津町の浄泰寺で開催し取締役を選挙。大阪の今西林三郎と前川槙造は新選、兵庫県の建野郷三、福岡県の守永久吉は再選。県関係は西英太郎、大島小太郎、相浦秀剛の3人でいずれも再選。社債40万円の発行を提案、前社長加藤海蔵に対する慰労金の支出は否決する。笹原トンネル工事は下旬に貫通の見込み
        4・16,30,5.4<2>



題名:無用の用 不易流行  名前:三宅島 紫陽花 2010/05/18(火) 14:50 No.1277   p4212-ipad106fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp

昨日、お電話した者です。
先代の意思(遺志)を次代に受け継ぐ・・・・難しい問題ですね。頑張って下さい。

   
 

題名:Re: 無用の用 不易流行  名前:三宅島 紫陽花 2010/05/18(火) 15:55 No.1278   p4212-ipad106fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp

福岡市に比べると、唐津の方が断然城下町の名残がありますよ。
佐賀県は道路も奇麗です。

   
 

題名:Re: 無用の用 不易流行  名前:山内薬局 2010/05/18(火) 20:36 No.1281    softbank220062098075.bbtec.net

昨日はお電話ありがとうございました。

日曜日は定休日。子供達の柔道の試合で朝から夕方まで出かけておりました。せっかくお立ち寄りいただいたのに申し訳ありませんでした。

博多と唐津は比べようがありません。
唐津は手つかずの部分が残っているだけです。

唐津においでの際にはどうぞ当店にお立ち寄り下さいませ。


題名:山内さんに贈り物  名前:やまめのたより 2010/05/05(水) 07:31 No.1276   gate201.bunbun.ne.jp

 先日書いていたように、山内のお名前もよく明治の新聞に登場します。
 これは、掲載事項が多いため、削除予定ですので
差し上げます。ご先祖さんは、宮島伝兵衛さんと同じく、
石炭業も経営されていたようですね。 

 明治32年8月の佐賀新聞です。
原本は~市立図書館のマイクロフイルムから
文末の日付の新聞を見てください。

○ 大阪の住友家は小城郡北多久村柚木原付近の山内喜兵衛所有の石炭坑区80万坪を購入の由 8・27<2>

   
 

題名:Re: 山内さんに贈り物  名前:山内薬局 2010/05/18(火) 20:09 No.1280    softbank220062098075.bbtec.net


やまめのたよりさん

この山内喜兵衛さんは西の木屋ではありません。
中の木屋さんの古い写真にこの山内喜兵衛さんの写真がありました。他にも何点かございましたのでご紹介します。

上の写真前列中央は私の祖父山内小兵衞です。東の木屋長男→西の木屋に入る。

下の写真は一族の写真(名前を古舘正右衛門さんが書かれたものです。)

山内喜兵衛に関しては「九州名士列伝(上巻)大正3年4月28日発行」に記載あり。

その一部ですが。
「氏素ト唐津町一酒造醤油醸造業者ノ家ニ生レ幼ニシテ不幸眼疾ニ苦シミ十八才ノ牡年時代マデ筑前上須恵村田原眼科醫院ニ入院シ遂ニ就学ノ機失ハレ哀レ碌々トシテ長ク日月ヲ無為ノ中ニ空費シ終ル然ルニ此ノ無学ノ一青年恐ルベシ天禀ノ才ヲ有シ膽力殊ニ強烈ニシテ十九才ノ春遂ニ厳父太平氏ヲ喪フヤ自カラ酒造醤油醸造ノ事ニ当リ而モ能ク驚ク可キ先天的ノ儁才ニ出デ能ク同町斯界ノ巨星中ニ飛躍ヲ試ミントス、然ルニ明治十五年租税改正令ノ発布セラルゝヤ遂ニ唐津町八醸造合同シテ組合ヲ組織シ八廚組ト称シ氏若クシテ其ノ組合長トナリテ諸般ノ事務ヲ鞅掌ス、然モ氏ガ烱眼ハ深ク時ノ唐津町ニ於ケル金融界ノ不振ヲ慨シ時偶々大島小太郎氏ガ東京商業学校ヲ卒業シテ眞ニ寵児トシテノ名望ヲ一身ニ負フテ帰唐スルヤ氏直チニ大島氏ト協力唐津銀行ヲ創設シ身自力ラ其ノ任二当リテ四五年間モ其ノ事務発展ニ勤務シ其間廣ク鉱山事業ノ偉大ナル」

この記載をみると、喜兵衛は中の木屋ではなく、唐津町一酒造醤油醸造業者ノ家ニ生レ(西の木屋とは限らない)の記載より、西の木屋8代目蔵六の時に番頭さんをしていた優秀な人がいて、名字もつけて暖簾分けをしたと聞いていた材木町の山内さんではないかと思います。

十九才ノ春遂ニ厳父太平氏ヲ喪フヤ自カラ酒造醤油醸造ノ事ニ当リ(これが西の木屋の番頭として活躍していた頃?)父太平はどんな方だったのか分かりません。調べてみます。



題名:唐津銀行本店の落成  名前:やまめのたより 2010/05/04(火) 03:41 No.1275   gate201.bunbun.ne.jp

 念のため、唐津銀行本店、現在のレンガ作りの建物の
完成日を調べてみました。
佐賀銀行史は4月15日とありますが、これは商法上の移転登記日か、営業開始の日のようですね。
明治45年4月の佐賀新聞から

 7 唐津銀行は43年 8月起工、3月末竣工したので落成式を行なう。辰野金吾の監督の下に田中工学士が設計、総建坪は138坪、来賓700人。創立当時の資本金35,000円、年間取扱高130万円、明治45年の資本金は50万円、年間取扱高は6500万円       4・3,8<2>

   
 

題名:Re: 唐津銀行本店の落成  名前:山内薬局 2010/05/18(火) 19:25 No.1279    softbank220062098075.bbtec.net

やまめのたよりさん達が書き込んでいただいたものを次のサイトに残すことにしました。
http://tamatorijisi.web.fc2.com/oosimake.html

大島家に関すること、何でも書き込んでください。



題名:唐津銀行株主総会  名前:やまめのたより 2010/04/22(木) 04:45 No.1264   gate201.bunbun.ne.jp

 私事が忙しくなってきたので、
アトランダンで、大島の記事を提供しますね。
当時の唐津財界の顔ぶれです。
日清戦争後の不景気の中、高配当です。

明治32年9月
9 唐津銀行㈱総会を東松浦郡唐津町公会堂で開く。頭取に大島小太郎、取締役に山内久助、平松定兵衛、山崎常蔵、草場猪之吉を再選。監査役には吉村儀三郎、池田市五郎を再選し、河村藤四郎を新しく選出。配当は年1割2分       7・6.12<2>

   
 

題名:Re: 唐津銀行株主総会  名前:山内薬局 2010/04/23(金) 12:55 No.1266    softbank220062098075.bbtec.net

いつも貴重な記事をありがとうございます。

ブログの方に載せておりましたが、改めて唐津銀行西支店の落成の写真をUPします。

佐賀銀行百年史に西支店のことが書かれていました。
唐津線の開通で,従来,松浦川口で船積みされていた石炭がほとんど西唐津から積み出されるようになると,妙見地区の商業はいよいよ盛んになっていった。そして40年7月に唐津興業鉄道が日本国有鉄道に合体,これと同時に,妙見駅が西唐津駅と改称され,当地区は文字どおり大唐津の一画を占めるに至った。この商況に促され,同行は41年3月25日,2番目の支店である西支店を東松浦郡唐津村大字唐津7182番地5に開設した。

新本店(本町)の完成は明治45年4月15日です。

   
 

題名:Re: 唐津銀行株主総会  名前:山内薬局 2010/04/23(金) 12:59 No.1267    softbank220062098075.bbtec.net

中央にはひげの大島小太郎、その向かって右は草場猪之吉。その隣は山崎常蔵。大島小太郎の左は平松定兵衞と山内久助(私の曾祖父・白髭じいさんと呼んでいます。)です。

   
 

題名:Re: 唐津銀行株主総会  名前:やまめのたより 2010/05/03(月) 20:10 No.1271   gate201.bunbun.ne.jp

ブログのご主人の祖先は、山内久助ですか。

その後登場する山内小兵衛は、祖父ですか。

   
 

題名:Re: 唐津銀行株主総会  名前:山内薬局 2010/05/03(月) 22:34 No.1273    softbank220062098075.bbtec.net

山内久助は分家東の木屋です。
本家西の木屋8代目均安蔵六さんの長女が東の木屋に嫁ぎました。
西の木屋9代目均幸さんが21歳で亡くなり、分家東の木屋の長男(私の祖父)が本家西の木屋の9代目となります。西の木屋は代々小兵衞を名乗ります。

西の木屋に関してはこちらをご覧下さい。
http://www.geocities.jp/tamatorijisi/nisinokiya.htm

「その後登場する山内小兵衞」は私の祖父です。

   
 

題名:Re: 唐津銀行株主総会  名前:やまめのたより 2010/05/04(火) 03:27 No.1274   gate201.bunbun.ne.jp

 明治40年代になると、佐賀新聞に「山内小兵衛」が
唐津の代表的企業人として、盛んに登場します。
かなり貪欲に集録しています。
古館正右衛門も。

 特に日露戦争後の社会不安の中で、
社会福祉、慈善事業にも熱心でした。
どんな人物かと興味がありました。

 今秋出版予定の本には、索引を付けることにしており、
40年台はエクセルで入力済みです。
まだ、並べ替えしていませんが、関数で抽出する方法を
ご存知の方は、今でも抽出できるようになっていますが・・・





題名:唐津港が開港  名前:やまめのたより 2010/04/23(金) 12:12 No.1265   gate201.bunbun.ne.jp

大島小太郎らが協力に運動した唐津港の特別輸出港の指定が実現し、開港祝賀会を開催します。

明治32年8月4日
唐津港開港と条約改正祝賀会を盛大に開催。関知事、県高官、各郡市長、九州各県新聞社員など来賓一般会員計約600人が参会、唐津町内は休業し、曳山が出る
                    8・1,2,5,6,8<2,3>

   
 

題名:Re: 唐津港が開港  名前:山内薬局 2010/04/23(金) 13:03 No.1268    softbank220062098075.bbtec.net

貴重な情報ですね。

唐津くんち 番外編に追加させていただきます。
これは何という新聞の記事でしょうか?

http://www.geocities.jp/tamatorijisi/bangaihen.html

   
 

題名:Re: 唐津港が開港  名前:山内薬局 2010/04/23(金) 13:12 No.1269    softbank220062098075.bbtec.net

大島小太郎らが協力に運動した唐津港の特別輸出港の指定

大島小太郎らが強力に運動した唐津港の特別輸出港の指定

さてどちらでしょうか?

   
 

題名:Re: 唐津港が開港  名前:やまめのたより 2010/05/03(月) 20:04 No.1270   gate201.bunbun.ne.jp

典拠は、佐賀新聞です。

 正確には、下記の通りです。
なお、当時東松浦郡には、県政界の大物長谷川敬一郎が存在し、
彼の力も大きく働いたでしょう。長谷川の記念碑は、旧久里村の
彼の生家に設置されています。大島と並ぶ大物です。

「大島小太郎らが強力に運動した唐津港の特別輸出港の指定」

 ただ、九州全体からすれば、筑豊炭を扱う若松港、三池炭を扱う長崎県口之津の取扱量のせいぜい10分の1です。

   
 

題名:Re: 唐津港が開港  名前:山内薬局 2010/05/03(月) 22:27 No.1272    softbank220062098075.bbtec.net

郷土先覚者列伝に次のように記載あり。

長谷川敬一郎 実業家 弘化二年-大正七年  73
  久里村の生れ。十五才で平野組の庄屋、累進して久里村庄屋。県会議員を経て大正二年五月に衆議院議員に当選。大正三年十二月には「三十四年間県会議員を勤め公共の為に尽せり」ということで三っ組金盃を受けた。その間、唐津石炭合併社社長、郡町村組合議長、西海商業銀行役員、唐津製塩社長などを歴任。その他久里村住民に施したる施策は厚く、住民は頌徳碑を建設して功績を称えた。(長谷川庫治)


唐津は何かあれば曳山を出します。ですから塗替はしていますが曳山の目には唐津の変遷が焼き付いているのです。



題名:無題  名前:むずかしいことわからんが 2010/04/05(月) 00:35 No.1263   pl-734-202.people-i.ne.jp

♪♪花に嵐のたとえもあるぞ、、、、、さよならだけが人生だ♪♪

さよーなら、大島邸、綺麗にキレイにお掃除して、
名残は永久に尽きせども、さても浮世のココロにまかせぬことよ、、、、、、

と、ヨヨとばかりに泣き崩れ、汲めども尽きぬ、うぐいすの、、、、♪(どこまで、おちゃらけるの?)

いや、生活者であるからにはお仕事、優先なのである。
【衣食足りて、礼節を知る】

いやいや、衣食も足りぬこの身ゆえ、残すの残らないのなどと、浮世離れしたことばかり言っている場合ではないのである。
今週末の、11日にはおまんまの種、博多、箱崎宮前の蚤の市がある、
ごちゃごちゃ、準備もせねばならないのである。
まあ、この掲示板をみていらっしゃる方は、ご存知の向きは少ないとはおもうのですが、
従前、骨董の露天市などというと、眼鏡でもかけて、ステッキでも持ったおじいさんが
焼き物などを眺めすかして物色するてな、イメージをお持ちでは?とおもうのだけれど

いえいえ、さにあらず、
最近は、朝も開けきらぬ早朝より、若い女の子や、お子さん連れなど意外なお客層と、その人出の多さは
ちょっとびっくり、なのであります。
嘘ではない証左には、書店店頭などで、ファッション系の若い女性がご覧になる雑誌、
【クーネル】ETCを覗いて御覧なさいませ、
なんじゃこりゃ、てな、部屋のインテリアコーディネート、
昭和30年代に使われていたような、木製のボロッチィ椅子だの、さびてんじゃないの?と見える
アイアンなんとか、(鉄編みのかご、っていうか?なんだろ、)
そんなものが、近年は
【かわいい、かっこいい?】らしいのである。
おっさんの感性では、まったく理解はできないのだけれど、朝一番で、木製の丸椅子などを必死で漁る婦女子さんを見つつ
????と、首をひねるしか、無いワタクシではある。

しかし、鉄筋の白っぽいマンション、アパートに多く暮らす彼、彼女らが、
そのような、経年の古びたものに憧憬や、いやしをもとめるというのは、
【人として、暖かさや、過去というものと連続した時間というものに自分をおきたい】ということなのではないのかしら、
などと、ちら、と、考えて見たりするのだ。

さて、
話変わって、このところ、唐津ケーブルテレビ、ピープル放送をよく見ている、
ぜんぜん、面白くもないのだが、(ごめんなさい、関係者さん)
市議会中継をずっと見ていて、癖になっているようだ、
先日、なんであったか、
唐津銀行の内装、修復がほぼ、完了したという内容の、放送を偶然見た。
担当者が、苦心談と、その出来栄えを自ら褒めるという不思議な放送であったが
中で、ちょっと気になった事があった、
それは、
◆建物を創建当初の姿に復元する苦心、というもので、経年のうちに塗り替えなどで元の色や、形がわからない◆
ペイントをこそいでいき、初源の色を特定し、それに合わせるべく、塗装を剥離し、創建時の色になおす
てな、話であった。

キレイになるのは良いことに違いはないのだが、建物というものはその建築史、な意味はもちろん重要なのだろうが
使用され、愛されてきた経年の歴史というものも、まったく意味のないものではないのではあるまいか、
それを、まるで、ゴミでも掃き捨てるような、話の感じに(大島邸問題で、私がひねくれているに違いないのだが)
むかっと、!きたのである。

そのお話を、先に大島邸の掃除中、九大の藤原先生にお尋ねしてみたのだった。
お答えは、
「建物はかならずしも、建設当初の姿に戻さなければ、文化財としての価値が認められぬものではない。
ただ、その文化財の価値をいずこに認めるかという議論が保存委などで討議され、その活用などとも関連して
どのような修復、保存が適宜であるか、ということより結論が導き出される、
その上で、一番簡便であり、穏当なのが創建当初の姿への復元なのだ」というご教導であった。
建物は、その持ち主の姿や、暮らし、思想までも顕す、いわば、分身のごときものとよく言われる、
愛着や、深い思い入れなどがあるのも無理のないことであろう、
しかし、それが、文化財となった時点で、ある種の公共財となり、個人の想いとは次元を異にする様相をもたらす
こともあるともお教えいただいたのだった。

古く、経年の味というものに憧れを抱く、若い人々と、
創建当初にぴかぴかに復元することが文化財保全と考える識者さんら。
私のような、無知蒙昧の輩にはなにがなにやら、わからないことばかりである。

ただ、あの、大島邸もなにも考えを抱かずに眺めると、さて、どうなのだろう。
その明冶より現在にいたる時空に想いを巡らすことの出来る人ならば、
きっと、その素晴らしさに共感していただけるのでは、とはおもうのだけれど。


題名:むずかしいことわからんがさん  名前:山内薬局 2007/06/05(火) 23:38 No.815   softbank220062096089.bbtec.net

先日小笠原家の墓石を確認して来ました。
うちのブログに写真を載せております。

墓誌には唐津城主の名は勿論のこと、
それ以前の戒名が4名書き込んでありました。

臨済寺殿秀政公 元和元年五月

天真院殿一峯日定大居士 忠知公 寛文3年7月29日

法源院殿了仙日心御(若しくは淑?)霊  寛永11年10月8日

南蕚院殿前佐州大守梅翁崇馨大居士 小笠原佐渡守 文化9年4月29日

上から秀政・忠知・?(法源院)・長堯(長昌の父)と判明。
法源院が誰なのか調べておりますが、難儀しております。

手がかりは「東松浦郡史」の中で、小笠原藩士の名簿

「東松浦郡史」
二 藩士略家譜の中
法源院殿御附 五両二人口 信州 中村孫太郎

間違いなく小笠原家に法源院なる人物はいたと考えられます。
没年が寛永11年(1634年)です。

秀政の没年は元和元年(1615年)です。

秀政の子
忠知・天真院(没年寛文3年1663年)
忠脩:忠脩(おがさわら ただなが、1594年(文禄3年)-1615年6月3日(元和元年5月7日))
忠真(おがさわら ただざね、1596年3月26日(慶長元年2月28日)-1667年12月3日(寛文7年10月18日))

時代的にはこの辺りと思われましたが没年が違っています。

むずかしいことわからんがさん
心当たりはございませんか?

   
 

題名:Re: むずかしいことわからんがさん  名前:むずかしいことわからんが 2007/06/07(木) 06:49 No.818   gate210.people-i.ne.jp

ブログ、拝見させていただきました。
大変お疲れ様でございました。
花の東京に行かれても、なんたらヒルズとかには行かず
お墓参りとは頭が下がります。

さて、東松浦郡史を全文、打ち込まれた貴方様には
そんじょそこらの先生方も叶わないと思うのですが、
(学生時代、筆記する事が覚える早道とかいって
よく、写したりしてみましたっけ、、、、)

法源院殿?存じません。情けないけど。
もう、すでにお答えはお持ちでいらっしゃるのでは?とも
思っているのですが、
忠知公のお子様で、若くしてお亡くなりになった方が
お二人いらっしゃるようですので、そちら様では
ないのでしょうか?通称出羽様では?
この方はもう一方と違いすでに、元服を済ませておいでであったようですし、お付の方の給金が、五両という低額であるのも
うなずけるような気がします。
院殿号がつけられているのが?不審なのですが
居士名でなく、霊号であるのも夭折を意味するのではないでしょうか?って、つられちゃったのかな、もしかして。

   
 

題名:Re: むずかしいことわからんがさん  名前:むずかしいことわからんが 2007/06/07(木) 07:05 No.819   gate210.people-i.ne.jp

意外と唐津小笠原家について書かれた記録というのは少ないですね。これは明治の久敬社誌。現在と違い当初は旧唐津藩中の在京人の集まり的意味合いを多く持っていて記事も、そのようなものが多い。どこかに固まってあると小笠原家の事も多くわかるのだけれど。
   
 

題名:Re: むずかしいことわからんがさん  名前:むずかしいことわからんが 2007/06/07(木) 07:08 No.820   gate210.people-i.ne.jp

ブログでちょっと触れられていた、小笠原家墓地内にある山口さんのお墓は、この方。戦前は有名な方であったらし。史談会の雑誌に載っております。
   
 

題名:Re: むずかしいことわからんがさん  名前:むずかしいことわからんが 2007/06/07(木) 07:13 No.821   gate210.people-i.ne.jp

これで最後。小笠原家関連。
家茂公(14代将軍)より図書頭長行公への直書。
長行公伝に全文、引用されています。
私の数少ない、秘蔵品のひとつですが
本来、私蔵すべきものではないのですが、、、。

   
 

題名:Re: むずかしいことわからんがさん  名前:山内薬局 2007/06/07(木) 18:07 No.823   softbank220062096089.bbtec.net

いつもながら恐れ入ります。
山口家の墓を見ましたら、山口重五郎とありました。
間違いなくこのお方ですね。

末盧国248頁読みました。
余程忠義篤い方だったのでしょうね。

   
 

題名:Re: むずかしいことわからんがさん  名前:山内薬局 2007/06/08(金) 19:39 No.829   softbank220062096089.bbtec.net

法源院殿了仙日心御(若しくは淑?)霊

>忠知公のお子様で、若くしてお亡くなりになった方が
>お二人いらっしゃるようですので、そちら様では
>ないのでしょうか?通称出羽様では?
>この方はもう一方と違いすでに、元服を済ませておいでであっ>たようですし、お付の方の給金が、五両という低額であるのも
>うなずけるような気がします。

出羽様ですか。忠知公の歿年の29年前に歿しておられるということになりますね。
法源院逝去は杵築時代のことでしょうか?

   
 

題名:Re: むずかしいことわからんがさん  名前:山内薬局 2007/06/08(金) 21:36 No.830   softbank220062096089.bbtec.net

ttp://homepage3.nifty.com/hyuuga/daimyou/ogasawarakokura.htm#d
寛永9
忠知(34):奏者番,豊後杵築城4万石転封,奏者番免,帝鑑間詰
長矩(9):将軍家初見

長矩は延宝6年卒、55才
長矩の兄弟が出羽様なのですか?
何か文献に載って居れば宜しいのですが。



   
 

題名:Re: むずかしいことわからんがさん  名前:山内薬局 2007/06/08(金) 23:29 No.831   softbank220062096089.bbtec.net

小笠原長矩の兄弟
小笠原長敦、小笠原長定、小笠原長秋、小笠原長一 ですが。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E9%95%B7%E7%9F%A9


   
 

題名:Re: むずかしいことわからんがさん  名前:むずかしいことわからんが 2007/06/09(土) 22:36 No.832   gate210.people-i.ne.jp

ちょっとパソコンから逃避しておりましたもので、言い逃げのような形と相成りまして、お詫びの言葉もございません。

ええと、貴方様の?(松代先生の)東松浦郡史中の

>正保二年天眞公封を三州吉田に移し五千石を加へらる、公に五子あり、長子山城守(長矩始め長頼)に封地を傳へて四萬石を領せしめ、三千石を三子長定(数馬後丹後守)に、二千石を四子長秋(外記)に分ちて幕府に仕へしむ。二子忠敦(出羽)五子長一(彦次郎)は早く死す。

という記載より、かくのように申してみたわけですが、
出羽様の没年がわかりませんので、なんとも申しようが
ないのですが、時期はぎりぎり、通りそうなのですが?

   
 

題名:Re: むずかしいことわからんがさん  名前:山内薬局 2007/06/11(月) 10:34 No.834   softbank220062096089.bbtec.net

灯台もと暗し。
東松浦郡史でしたね。
出羽様の没年が分かると良いのですが。

墓石だけでなく、位牌があれば、何か手がかりが掴めるのかもしれません。

谷中の天王寺から幸龍寺に移されるときに、位牌も持ってこられたはず。次回の参勤交代では位牌堂までお邪魔せにゃいかんですね。

聞くところに寄れば、東高が千人塚ん先さん移転後、早稲田関連の高校ができるそうですが、歴代のお殿様はじゃん思わすだろか。
おいは東高のOBでんなんでんなかばってん、唐津の城ば明け渡すごてして、個人的にはあんまいよか気色のせんとです。
 誰もじゃんもなかとだろか?

   
 

題名:Re: むずかしいことわからんがさん  名前:とおりすがり 2011/07/04(月) 22:56 No.1307   EM111-188-37-63.pool.e-mobile.ne.jp

もう、4年も前の記事ですが…。
法源院は小笠原忠知室の多賀氏の事だと思います。



題名:呉服町樽屋(辻家)の子孫です。  名前:唐津呉服町辻家 樽屋 2010/01/05(火) 12:57 No.1186   61.234.192.61.east.flets.alpha-net.ne.jp

はじめまして。私は画幅長樽屋辻家の子孫です。現在千葉県に在住しています。先祖の墓と過去帳を調べているうちにこのサイトに行き着きました。
また、この正月に先祖の墓参りに参った際、高徳寺の住職とお話しているうちに、私の先祖の名前と略歴についてお話を伺うことができました。とてもうれしく、自分の血筋を明確に記載しておられることに感激いたしました。樽屋は祖父“芳郎”の代に博多西新の地行移り、満鉄の関係で満州に移り住み、父“幸一”はそこで生まれました。その後満州から引き上げて参りました。
私はその長男です。また詳しいことなどもっとお教えいただきたいと思いますが、まずはお調べいただきまして、ありがとうございました。

   
 

題名:Re: 呉服町樽屋(辻家)の子孫です。  名前:山内薬局 2010/01/06(水) 12:13 No.1187    softbank220062098075.bbtec.net

はじめまして
呉服町の辻さんの御子孫ですね。
父から聞いている辻は恐らく分家ですね。
呉服町のまんなか、現在の白井接骨院に大きな呉服屋があったとか。父の子供の頃には店も寂しいもので、広い板張りの店先にばあさんが座っていたと言っていました。

ご覧になったものは、末廬國のもので、私が調べたものではありません。これを書かれた頃と今では随分と様子が違ってきています。現在の場所がはっきりするように書き加える作業をしないといけないと思っております。

唐津に来られたときはどうぞ当店にもお立ち寄り下さい。

   
 

題名:Re: 呉服町樽屋(辻家)の子孫です。  名前:樽屋辻家 2010/03/25(木) 08:01 No.1240   wb01proxy11.ezweb.ne.jp

返信に気付かず失礼しました。
地域の過去を事細かに残すことは、いろんな感動をもたらしてくれますね。我が家でなくとも実に興味深いです。
さて呉服町樽屋のあった場所ですが、うちの本籍地がまだ呉服町にあります。行ってみましたらアーケード街を50m程先行った右側で、横に駐車場があり、田中不動産が裏手にありました。たしかに「うさぎや?」さんがあったあたりがと高徳寺住職から聞きました。行ってみると、もはやその名残も無く、一抹の淋しさを抱きました。
当家の墓の中には1800年代前半からの先祖のお骨が納められております。(以前墓の中を開けて見ました。)過去帳にも名前の記載があり、裏付けるものとして整合性が取れました。
所在地の写真も撮ってきたのでアップできる場所があれば後ほどURLに添付してみます。
ありがとうございます。

   
 

題名:Re: 呉服町樽屋(辻家)の子孫です。  名前:むずかしいことわからんが 2010/03/25(木) 14:55 No.1241   pl-734-202.people-i.ne.jp

掲示板主さんは、東奔西走中でして【昨晩も森まゆみ先生にお出でいただいて大島邸にての講演、その後、なんだか肩の凝る議論でしかめっ面でいらしたです、】
ええと、唐津にお出でになったのですね。父祖の地の印象はいかがでございましたでしょうか?本日唐津市議会は最終日、ずっと掲示板主さんが運動されておいでの
大島邸、解体予算の決定日です。
朝より、大島邸の大掃除に出ておりましたが、
我が手で磨くと磨くほどに、年輪が美しく浮き出でてくる
お屋敷に、参加者、皆、なんともセンチメンタルになっておりました、。
なんでしたか、?出典を忘れましたが
【人、皆、その父祖を思わざるなし】
昔に想いをいたす事が、骨董趣味とか、感傷にすぎないとか
いう訳知りの方がおいでですが、それは自然の情理というものだと思うのですが、
(残す会運動を見つつ、ついなんでも結びつけて申し訳ございません)

下のほうの記事で触れました、便利本(笑)
大正4年刊、【佐賀県官民肖像録】より
呉服町、樽やのご当主と思われる、方、
(たしか?町会議員でいらしたのでは、と記憶しますが)

   
 

題名:Re: 呉服町樽屋(辻家)の子孫です。  名前:むずかしいことわからんが 2010/03/25(木) 14:59 No.1242   pl-734-202.people-i.ne.jp


呉服町の辻家は三家ありまして、樽屋さん、それと屋号【煙草屋】の辻家、こちらは掲示板主さんがご紹介の呉服町中ほどの呉服屋さん、写真は江戸末の煙草屋辻家文書、綿屋株、呉服太物株、の文書と、軒暖簾、
   
 

題名:Re: 呉服町樽屋(辻家)の子孫です。  名前:むずかしいことわからんが 2010/03/25(木) 15:01 No.1243   pl-734-202.people-i.ne.jp


大正4年刊、【佐賀県官民肖像録】より煙草屋、辻家の店頭です、(残念ですが、煙草屋さんは見出しえません)
   
 

題名:Re: 呉服町樽屋(辻家)の子孫です。  名前:樽屋 2010/03/25(木) 23:14 No.1245   p3048-ipbf1302funabasi.chiba.ocn.ne.jp


ありがとうございます。官民肖像録というのがあるのですね。樽屋はないのでしょうかね・・・

お話の通り、冨治郎さんは町会議員だったそうで、何やらうるさ型だったのでしょうか??文献を読むと、微妙な表現をされているようです。
しかし驚いたのは、私の顔に似ていること・・・逆ですね私が似ているのです。私のひいじいちゃんにあたります。その親が伊平治、伊平次、伊兵衛、伊平、伊右衛門の父となっています。若干、過去帳の表示が微妙ですが、没年から追うとそういう順番です。
伊右衛門さんの父とされる先祖は1803年没です。

掲示板主様、御苦労様です。
大島邸残ると良いですね。ご返信頂いた方も、お掃除御苦労様です。モノは買って手に入りますが、歴史や伝統はお金では買えませんからね・・・

現在の樽屋跡の写真添付します。この場所です。




   
 

題名:Re: 呉服町樽屋(辻家)の子孫です。  名前:むずかしいことわからんが 2010/03/26(金) 00:22 No.1246   pl-734-202.people-i.ne.jp


樽屋さんのお店の写真があるとよいのですが、浅学非力とて
見出しえません、申し訳ございません、、、、、、、
ええと、この写真は、上の電燭看板より昭和始め頃の
呉服町のスナップと知れます。後ろに現在もあるお菓子屋の名店【ツルや】さんの看板がありますので、このあたりという雰囲気だけでも、お知らせします。

   
 

題名:Re: 呉服町樽屋(辻家)の子孫です。  名前:むずかしいことわからんが 2010/03/26(金) 00:27 No.1247   pl-734-202.people-i.ne.jp


すいません、上の写真、手前の御茶屋さんが篠崎さんのようで、では、どうもツルや近辺ではなく、大手口と見るのが穏当のようです、ちょっと場所が違いました、ホントウは、以前この掲示板にアップした夜の呉服町、岩下酒屋付近の写真が一番いいのですが、どこにあるやら解らず、恐縮です、これ一応、当時の呉服町です
   
 

題名:Re: 呉服町樽屋(辻家)の子孫です。  名前:むずかしいことわからんが 2010/03/26(金) 00:32 No.1248   pl-734-202.people-i.ne.jp


当方蔵架の明治の電話帖、一番古い分の明冶44年版には、辻冨治郎さんは石炭商にて記載されています。
以降、、昭和4年の電話帳までは冨治郎さんは石炭木炭商として掲載されています、以降分はちょっと資料がとぼしく現時点では解りかねるようですね、ご参考になると良いのですが、

   
 

題名:Re: 呉服町樽屋(辻家)の子孫です。  名前:山内薬局 2010/03/26(金) 00:58 No.1249    softbank220062098075.bbtec.net

No.1246の写真
これは呉服町の出口、びんつけ屋ですね。その先には池田屋呉服店の角の鉄柱。これにツルヤさんの宣伝看板ですね。
その向こうにはまいづるデパートのビルが見えますね。

No.1247の写真
右側、小松屋の電飾看板、次の暗闇が安楽寺、その先は前川(モスリン?)

No.1248の写真
辻さん、炭屋という屋号もありかと。
如何でしょうか?
京町の常安さん、お仕事は?
左側、近江屋?今の一番館辺りでしょうか?

   
 

題名:何度もすみません  名前:樽屋辻家 2010/03/30(火) 17:46 No.1250   wb01proxy11.ezweb.ne.jp

山内薬局さん、むずかしいことはわからんがさん、誠にありがとうございます。

ちぃと解釈に迷ったのですが、もしかして唐津に樽屋の末裔とする一家があるのでしょうか?

父に確認しましたが、たしかに冨治郎は石炭を扱っていたそうです。同時に町会議院でした。

すみません。お忙しい中とは存じますが、所見をお聞かせください。


   
 

題名:Re: 呉服町樽屋(辻家)の子孫です。  名前:むずかしいことわからんが 2010/03/30(火) 19:40 No.1251   pl-734-202.people-i.ne.jp

まったく古いことはわからないことだらけで、樽屋さんのことも
ほとんど存じないのですが、まあ、江戸期より呉服町にて商家としてご繁盛であったお宅ですから、親類筋、また、奉公人筋の暖簾わけによる新家、別家、分家などはあったでしょうね。
ただ、現在知る限りではそういう風に称しておられるお宅は
存じません。
唐津では、辻、と申される一統は
初代城主、寺沢家入封以前より、現在の二の門、付近にて
栄えていたとか?それをお城の新築のため
大島村に強制的に移住させたとかの伝承?があります。
(で、現在も大島では辻姓は巨族です)
ただ、呉服町の辻姓は、商家ですので在地の辻姓のかたとは
違う江戸期に唐津に招かれた?お出でになった?ものなのかも
しれません、
ご厳父さまなど、ご親類筋に色々とお尋ねになるのも
ルーツを探すということだけでなく、さまざま有用なことでは
と存じます。
ご考究の発展をお祈りしています。

   
 

題名:唐津に行きます  名前:樽屋の宏幸 2011/02/10(木) 07:33 No.1304   KD014008238166.au-net.ne.jp

山内オーナー様ご無沙汰しています。
その節は色々教えてくださりありがとうございます。
また、皆様にも写真などを出していただいたりと、大変感謝しています。

さて、今度の土日の12.13日に樽屋辻家一族が揃って、唐津の菩提寺にて法要をします。本家として長男の私も出席致します。
つきましては、12日の昼頃に山内薬局さんにも訪問したいと考えております。
よろしければ少しでもお会いできれば幸いです。

   
 

題名:Re: 呉服町樽屋(辻家)の子孫です。  名前:山内薬局 2011/02/10(木) 10:59 No.1306   softbank220062098075.bbtec.net

ご無沙汰しておりました。

菩提寺は高徳寺でしたね。
12日は店に居りますのでどうぞお立ち寄りください。
お待ちしております。



題名:明治中・後期の高取伊好  名前:やまめのたより 2011/02/06(日) 15:00 No.1303   gate201.bunbun.ne.jp

 お久しぶりです。
高取伊好の高取邸建築の期間は、次のようです。

 鉱業は石炭採掘が主であり、農業に次ぐ主要産業である。炭坑は東松浦郡、小城郡、杵島郡、西松浦郡に所在、38年には炭坑数85、労務者数1万625人で筑豊に次ぐ炭坑地帯であった。主要炭坑は東松浦郡では、芳谷、相知、矢代町、牟田部、多久地方では柚木原、杵島地方では福母、市村、杵島、北方、赤坂口であった。中央資本、筑豊の鉱業家の県内進出、地場資本の活躍も目立ち、この動きを概観すると、三菱は東松浦郡では、33年11月高取伊好が共同経営していた相知炭坑、41年10月牟田部炭坑、さらに44年4月芳谷炭坑を買収など、同郡の主力炭坑を買い占めた。三井は31年12月相知村の鹿子岩炭坑を買収している。筑豊の大辻炭坑から転じた古賀製次郎は宮島伝兵衛から鉱区を買収して34年6月岸嶽炭坑を開発、筑豊の貝島は32年8月多久の柚木原炭坑を買収、41年3月岩屋炭坑などを買収し、42年1月柚木原炭坑から撤退して生産を岩屋炭坑に集中。多久地方では、北多久地区で中小20数坑が操業、杵島郡では相知炭坑から撤退した高取伊好は34年9月大串又左衛門所有の福母炭坑の採掘権を得る、35年赤坂口炭坑を買収、さらに42年12月に田島信夫から杵島炭坑を買収、杵島地方に本拠を構えた。中山重次郎は大町・北方一帯の優良坑区を集積、佐世保の藤原勘次郎に売却、これが後の佐賀炭坑となり、のち高取に買収されドル箱となった杵島第3坑である。古賀善兵衛は北方炭坑を経営、34年12月には市村炭坑が同村に開坑している。伊万里湾では麻生太賀吉が41年12月久原炭坑を重野謙二郎らから買収している。大手炭坑を中心に技術の近代化が進み、輸送手段では、鉄道を炭坑構内に引き込み直接積み込みや軽軌道による合理化が進んだ。採炭技術では、芳谷炭坑は電気を取り入れ、採炭現場に英国製コールカッターの導入、圧搾空気による採炭、電気扇風機による通風、ベルト式の選炭など当時有数の近代化された炭坑であった。


   
 

題名:Re: 明治中・後期の高取伊好  名前:山内薬局 2011/02/10(木) 10:41 No.1305   softbank220062098075.bbtec.net

やまめのたよりさんから先日「佐賀新聞に見る 佐賀近代史年表 明治編 下巻」の完成間近という案内を頂戴しました。
ご苦労様でした。
山内小兵衞は、縁者とわかっていれば、もう少し多く収録したのにと書き加えておられましたが、どうかご勘弁。
明治期の小兵衞は8代目。蔵六と名乗り、「首出さず手足も出さず尾も出さず身を納めたる亀は万歳」をモットーにしておりました。9代目は21歳で亡くなり、次の10代目小兵衞(私の祖父)も名前を出したがらなかったと父から聞いています。

高取邸と大島邸の棟梁が同じく吉田吉次郎であったと新聞が報じていましたが、当時の唐津を思い描くには良いニューだと思いました。



題名:閑題  高取邸の能舞台  名前:やまめのたより 2010/08/11(水) 15:03 No.1296   gate201.bunbun.ne.jp

 今、唐津で任期の高取邸の能舞台が登場。
明治38年8月です。

 高取邸の由来について、高取は杵島炭坑で財をなしたと
書いてあるが、歴史上は高取が杵島炭坑を買収するのは、
この後なんだが、・・・・

 また、ドル箱の大町の佐賀炭坑の経営に
乗り出すのはさらに遅れるが・・・・
 大町の杵島第三坑の威容のイメージが強すぎて、
誰も信じてくれない。


26 高取伊好は、唐津の自邸に能舞台を設け、観世流の大西、片山一座を招き、能会を催す、28日まで
                   8・12,17,30<2>



題名:無題  名前:やまめのたより 2010/08/07(土) 14:33 No.1294   gate201.bunbun.ne.jp

 大島小太郎は水産業にも意欲を燃やします。
明治35年4月の佐賀新聞3面の会社登記から
 ○ 唐津魚(資)は、資本金を6万円に増資、大島小太郎は9500円を出資(公告)     4・9<3>

   
 

題名:Re: 無題  名前:山内薬局 2010/08/11(水) 00:27 No.1295    softbank220062098075.bbtec.net

いつも貴重な資料をありがとうございます。

魚会舎は今のdocomoで後大名小路に移ったんでしたっけ。
父の子供の時分には大名小路時代だと思います。
父と祖父(山内小兵衞)は弓を抱えて魚屋町を出て本町を抜け大名小路の魚会社に顔を出して、二の門の古舘九一さんちに弓を引きに行っていたと聞いています。以前の掲示板に魚会舎の屋根にあった鯛の鬼瓦の写真をUPして貰ったことがありました。山内小兵衞は当時魚会舎の監査役をしていたようです。



題名:能の話、  名前:むずかしいことわからんが 2010/08/05(木) 02:32 No.1293   pl-734-202.people-i.ne.jp

8/4に掲示板主さま、ご執念の例のアレ、
【大島邸】の実地見学会と、西先生、藤原先生によるご講演、意見交換の集いが市民会館において開かれた。

前日、掲示板主さまより珍しく、拙宅にもメール。
昨日の、ブログの記事、
【鎮の能】の文面が送られてきた。
当日は、市の主宰による【大島邸活用のための懇話会】も
発会するようだが、それは要するに、博多祇園の鎮の能の
ようなもので、解体を前提としたセレモニーなのではという
粋な!、たとえで上手いなあ、ちょっと対象となる話が
苦笑させられるけど、と想いながらメールを拝見したことだった。
正直、勉強会など私は真面目な参加者ではない、気の向いたときに
ぶらりと参加する程度なのでアレなのだが、
これまでの参加会合は、なんとももどかしい、
ささかやな希望の光さえもあまり見えないような状況に
思えることが多々あって、暗い夜道をとぼとぼと帰る中途でも
うつうつとしてしまうことばかりで、
もう、話を聞きに行くのは止めにしようと何度想ったかしれない。
ただ、本日の両先生のご講演、ご教導のお話は、
ずっと、うつうつと考えていた折に自身のなかでもやもやと
渦巻いていた、運動一般というものの意義を明確に定義いただいたものでなんともすっきりとした気分で帰路に着くことができた。

さて、【能】の話、
ワタクシは大変こういうことを言うのは恥ずかしいのだけれど、
【能】というものがよくわからない。
いや、実地で結構数は観劇したことはあるし、
それなりに、テレビや、ビデオや、ものの本なども
読んでいるつもりなのだけれど、震えるほどの感動どころか、
見れば見るほど、退屈に感じられてならないのだ。
実際、井筒という奴の観劇で爆酔したこともある(苦笑)

【能】は、その幽玄さ、高尚さ、芸術性の高さは
多くの人が口を揃えるものであって、そういうものがわからんとはやはり自分はボクネンジンって奴なんだろか?と
ずっと恥ずかしいと想っていた。
ただ、先日ふと何かを読んでいて眼に留まったのだが、
その人も【能】という物が胸に落ちてこない人であるらしく
私同様の愁いを持っていたらしいのだが、
こういう言葉を耳にしたのだそうだ、

「普通に暮らしている現代人に能がすっと解るはず無いよ、
能楽堂に足を運ぶほどのあれの観客というものは、ほとんどは
自身も仕舞をする人か、または謡をする人ばかりだよ、」

「ある先生が、【能】なんてものは、ちびた下駄では見に行けないものだよと嗤ってたけど、精神に余裕がたっぷりなけりゃ、
伝芸なんて、味わえません」とも。
そうかなあ、とちょと疑念も浮かんだのではありますが、
とまれ、自身の悩み?(でもないかも)は少し薄らいだのではあります。

さて、本日の実地見学会、大変な人出でありました。
また、講演会も多くの方で満席ではありました。
ただ、それではこの運動が広く、多くの市民に広がっているのか、といえるのかというとそれは意見が分かれるところでしょう。実際、私の【能】と同じように、一体大島邸のどこが
一部の酔狂な人達が大騒ぎするように、素晴らしいのだろうと
実地でご覧いただいた方の中にお思いの方ももしやあったかも
しれない。
難しい議論ももちろん必要ではあると想うのですが、
多くの私と同じような住民が大島邸の素晴らしさを胸に落ちてくるように感じられる切り口や、運動方法などはないものなのだろうか?などと今、能のことと一緒に考えています。



題名:大正15年頃の唐津町市街地図  名前:やまめのたより 2010/07/30(金) 20:01 No.1292   gate201.bunbun.ne.jp

 今日は、刊行本の付録に掲載する地図を探しに、
佐賀市内をうろうろ。
もうこれが最後と出かけた訪問先,
依頼して、また立ち戻って、こんな地図と話していたら、
出てきました、幻の「明治45年佐賀県管内地図」。

 これには、佐賀市内地図と唐津市街地図付き。
よく見たら、手持ちの大正15年地図の元本でした。

 後者のほうが詳しく松浦川の埋立地導水堤とか馬車鉄道、
唐津製鋼所などがカラーで詳しく掲載されていた。
松浦橋は私達の幼年期にレンガ作りの橋脚が少し残っていた
中流域。



題名:唐津興業鉄道株式会社  名前:やまめのたより 2010/07/19(月) 06:53 No.1291   gate201.bunbun.ne.jp

この会社は、明治30年代の佐賀新聞の常連登場会社。
経営状態が悪く、最後までもめにもめ抜いた会社。

 この会社の名称が途中から、唐津鉄道株式会社に変更する。
名優だけに、会社の名前が変更した時期を特定したい。
脳裏から離れず、ウオッチング、やっと広告の中から見つけた。


 変更した日付が調べた史書のすべてが同じ日付、
しかも、その後も唐津興行鉄道株式会社名でさかんに登場する。

 どうも、最初の著者が株主総会で決定した日付を用い、
その後これが定着したらしい。
この著者は、会社法とか戸籍法を知らなかったようだ。
すべては登記とか戸籍に登載したときから始まることを・・・・
その後の史家も・・・・

 地域振興の期待を担って、「興業」をつけた会社、
旗を降さざる得なかった事情に万感の想い。



題名:唐津曳山  名前:やまめのたより 2010/07/09(金) 05:36 No.1288   gate201.bunbun.ne.jp

 明治33年11月の佐賀新聞に、唐津曳山が登場しました。
衣干山に伝染病院ができた年です。

20 東松浦郡唐津町で明神社秋季祭、各町の山車を引き回す、21日は西の浜に1万人の人出     11・24<2>

   
 

題名:Re: 唐津曳山  名前:山内薬局 2010/07/09(金) 19:40 No.1290    softbank220062098075.bbtec.net

明治32年8月4日
唐津港開港を祝して曳山を出したという記事を以前頂戴しましたが、翌33年の記事。11月21日とは一体どんな日だったんでしょうか?明神社秋季祭はそんな日ではなかった筈なんですが。




題名:木下 助六  名前:やまめのたより 2010/06/27(日) 07:02 No.1287   gate201.bunbun.ne.jp

 昨日、研究会があり、その席上、大島邸について発言があった。
これに付随して、下記の記事を報告する。

 佐賀新聞の死亡記事 明治33年2月4日2面
「肥後国権党の木下助六が死去。熊本県会議長、衆議院議員を歴任。壮年の頃、唐津藩の財政顧問を勤める」

 を付随して報告したら、
これは、肥後熊本藩の横井小楠の実学党と唐津藩や大島興義
との接点を示す記事です。と解説があった。

 

   
 

題名:Re: 木下 助六  名前:山内薬局 2010/07/09(金) 15:29 No.1289    softbank220062098075.bbtec.net

私の祖父、少年期は唐津ですが、その後東京の旧細川藩家老の屋敷に預けられています。祖父の父、東の木屋山内久助の長男です。この山内久助は大島小太郎が唐津銀行頭取だったときの支配人です。祖父は家老のその屋敷から大倉高商に通い、加納治五郎の講道館にも稽古に通いました。大倉高商では熊本出身の田尻宗彦先生にお世話になっていたと聞いています。

写真には前列中央に板垣退助が写っています。
前列向かって左端に田尻先生。三列目向かって右から5人目の学生が私の祖父です。帰京後本家西の木屋10代目となります。

熊本と木屋山内家とのつながりが分かりませんでしたが、もしかしたら木下助六との関係があったのかとも思えます。
題名:山内小兵衛、山口久右衛門について  名前:にしやん 2013/03/10(日) 12:10 No.1329   p1032-ipbf3605hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp

「東松浦郡史」の中に次のような記載があります。
『安政七年正月五日城下の富商山内小兵衛、公が屡善政を施して領内の士民其の徳澤に浴するを感じ、金百両を献ず、公之を嘉納した。
 其の後又名護屋村山口久右衛門の献金、其の他富豪の金を献ずるものあり、公其の志を賞せり。』

ここに出てくる城下の富商山内小兵衛や名護屋村山口久右衛門とはどういう人物だったのかご存知ありませんか。

   
 

題名:Re: 山内小兵衛、山口久右衛門について  名前:山内薬局 2013/03/10(日) 13:09 No.1330   softbank126107076188.bbtec.net

はじめまして

安政7年の山内小兵衞は西の木屋8代目です。
長行公と親しかったようで、8代目の墓石に見刻まれております。

敬徳院姓山内諱均安称小兵衛蔵六其退隠之名也
父自古舘氏出母祖父均言之嫡也以天保七年十一月生
称儀三郎後改名小兵衛擢大年寄贈月俸最爲奮知事
長行公所愛幸數蒙其恩賜
明治十一年告老專以恤貧救窮爲務傍嗜俳諧號葵笠
又學茶道於赤塚氏極遠州流之薀奥號宗耳嘗建設観音堂
於菩提寺中併祀祖靈越二十四年卒卯旧七月十六日
卒年五十六葬観音堂前

長行公と8代目を並べて年表を作っております。
http://www.geocities.jp/tamatorijisi/husumae.htm

名護屋村山口久右衛門さんのことは存じ上げません。申し訳ありません。




題名:山内薬局様  名前:草場 2012/10/16(火) 16:07 No.1327   58-3-43-72.ppp.bbiq.jp

山内薬局様

早々のご教示ありがとうございました。
草場家の祖の流れはいくつかの流れがあるのですね。
菩提寺の方ですが、唐津市浜玉町南山にある功岳寺(曹洞宗)になっております。
草野家最後の城主(草野鎮永)の菩提寺になってる様です。

私なりの持論ですが、波多氏滅亡後 寺澤志摩守が唐津藩の初代城主になられますが、その際 現糸島市(福岡)の一部領地も治められてます。
その時に糸島の方から来られた志摩守の家臣では・・・?
などとも思っております。
糸島の方には草場と言う地名もあります。

ありがとうございました、今後ともよろしくお願いいたします。

   
 

題名:Re: 山内薬局様  名前:山内薬局 2012/10/16(火) 17:02 No.1328   softbank126124136181.bbtec.net

功岳寺でしたか。20年ほど前、父とあの辺りを探索したことがありました。功岳寺山門を入って左に草野家の墓所があり、霊場になっておりました。

草場さんの先祖が草野の流れかどうかは功岳寺にあるはずの草場さんちの過去帳を見れば何か分かりはしないかと思います。

功岳寺に疑問を解く鍵があるような気がしますが。




題名:草場家の祖について  名前:草場 2012/10/16(火) 13:25 No.1325   58-3-43-72.ppp.bbiq.jp

はじめまして 福岡市に住む唐津市出身の者です、一年程前から自分の先祖のことを調べておりましたら こちらの掲示板に巡り合いました。
少し前ですが、H12年1月の掲示板の中に【草場家のくだり】と言う記事があり、その草場家の事でご教示願えないものかと投稿させていただきました。

【草場家のくだり】や他の文献にも記してありますが、唐津地方の草場家の祖は草野家末代の草野五郎鎮恒(シゲツネ)が草場姓に改名したことから始まったとなっております。
私も草場姓で、私の代で16代になり 松浦党・波多氏の家臣の人(天正年間の人)から代々庄屋をして来た家筋です。
もともと草場姓ではなかった様ですが、6代目(唐津藩2代目城主 大久保氏)の時代に草場姓に変わっております。 
おそらく、大久保加賀守の時代に制定された【村方三役制】の村替えに伴い他の地から新しく来たものと思われます。
(1650~1660年代頃だと思えます。) 

そこでお尋ねしたいのは、6代目として来た草場氏の出自です。
残されている家系図など見ますと、草野家 → 草場姓に改名した草場五郎鎮恒氏の家筋とは違う様に思えます。
【草場宗益家系図譜】は何度も目を通しました。
ちなみに、6代目草場氏の名前は 草場平右衛門 と申します。、
また 弟は大久保加賀守が下総佐倉藩へ国替される際に祐筆としてお伴してる人物です。

以上、自分なりには草野家とは関係のない他の家系から出た草場家があるのでは・・・? と思ってるしだいでございます。
ご教示のほどよろしくお願い申し上げます。

   
 

題名:Re: 草場家の祖について  名前:山内薬局 2012/10/16(火) 13:48 No.1326   softbank126124136181.bbtec.net

草場さん
はじめまして

仰る通り、唐津の草場はいくつかの流れがあるようです。

うちの前にはイトヤという鯨組の屋敷がありました。その一族も草場を名乗っており、そこは浄土寺だったと思います。
宗益草場家の方は長得寺です。

草場さんの唐津の菩提寺はどちらでしょうか?

確か松雲寺にも草場家があると聞いています。
檀家寺で調べると何か分かるかも知れません。

今後ともよろしくお願いします。



題名:にあんちゃん映画を見て  名前:唐津なつかしむ人 2012/08/18(土) 11:47 No.1324   zaqb4ddf113.zaq.ne.jp

30年ほど前大手口のトイレの付いた.ロータリが有りましたが  資料か何か教えくだい                    昔の東唐津駅 舞鶴公園の大砲も 


題名:獅子の性別は??  名前:しんちゃん 2012/08/04(土) 07:58 No.1323   pl-734-202.people-i.ne.jp

唐津くんちの獅子の性別を教えてください。

赤獅子・青獅子・金獅子・黒獅子

角の本数で判別するのですか??



題名:無題  名前:さかき 2019/04/23(火) 13:19 No.1319   p283249-ipngn200209takakise.saga.ocn.ne.jp





題名:北九州鉄道についての動画  名前:あかつき3号 2012/01/27(金) 02:46 No.1314   ZV240206.ppp.dion.ne.jp

北九州鉄道に関する動画を作成しました。
ご笑覧ください。
貴HPを参考にさせていただきました、ありがとうございます。


   
 

題名:Re: 北九州鉄道についての動画  名前:山内薬局 2012/01/27(金) 11:31 No.1315   softbank220062098075.bbtec.net

拝見しました。よくできていますね。脱帽です。
製作協力に名前まで載せていただきありがとうございます。

草場家のくだり。

唐津の草場は元は草野ですが、もとは筑後のようですね。

1 草野経永  1301年 鏡神社大宮司
  通称次郎。性豪毅にして胆力があった。筑後、草野城より鏡に移って鬼ケ城を築き、弘安四年蒙古の大軍が筑前の浜に攻め寄せたとき、兄永綱(筑後三井郡草野・竹井城主)と共に馳せ参じて少弐、大友、島津、秋月、菊池、河野、竹崎らの諸族と共に奮戦。同年七月五日には一方の大将として少弐経資その他の兵船と舳艫相ふくんで敵艦を襲撃し抜群の戦功を立て、松浦党の面々と肩を並べた人物。正安三年没。

筑後で没落したのではなく、浜崎の奥の平原(ひらばる)に居城し秀吉に滅ぼされ、草場と変えて唐津に下りてきたと聞いています。

草場宗益家系図譜をご覧下さい。
http://tamatorijisi.web.fc2.com/kusabakensetu.html



草場本家と猪之吉氏

昔より我等は、現主草場六一氏の平田屋薬舗を本家又は本屋と呼びなしてゐたことを記憶する。呉服町に育之助氏が新店開業の場合、猪之吉氏の令父三右衞門氏より、平田屋なる屋号の称が特に恵与せられたと云うので非常なる喜悦と感謝で、将来の発展が祝福されたことも、未だ忘れていない。

平田屋と云えば、西の木屋と併び唱えられた唐津の富豪で、旧き家門。権威ある商店として繁昌し、而も西の木屋山内小兵衞氏、平田屋草場三右衞門氏が共に富豪として高節な人格と、商業上の信望、果た亦社会上存在的位置は、慥に其当時至大なるものがあったからである。要するに格式の高い平田屋を本家と唱ふることは、草場一門の矜持であったに相違ない。蓋し我が家の三代先祖にして、医祖第一代の宗益は、平田屋本家の始祖義空氏の次弟であって、義空氏より鎮之、滋廣、嘉根氏と漸次継承、三右衞門氏より六一氏の令父猪之吉氏の時代に至り、甚大なる社会公共事業に貢献が発暢。累代に於ける平田屋の内容充実力は、外容的にも進展を見るに至ったのである。是れ実に猪之吉氏其人を赤裸々に発揮せられたものである。

猪之吉氏の玲瓏にして、而も賢明なる卓見と、広遠にして理智的信念は、独り家業のみならず、否既に業に積み上げられたる家業の継承任務は、猪之吉氏にあっては、極めて平凡にして且つ過小業務だったに違いない。猪之吉氏の理想によれば、尊敬せられた平田屋の存在は、家業的業務にあらずして、郷土商業の革新的隆盛にあり。先ず以て交通機関の施設こそ、一日も放棄する能わずとなし、*テヘンニ延身的に企画、熱心なる主張を見たるは、県庁所在地を結ぶ、佐賀唐津間の鉄道敷設事業であった。幾多の辛酸を経て、氏の主張は実現せらるるに当たり、次ぎに之に伴うは福岡唐津を連結する北九州鐵道の創設事業であった。其の他社会的公共事業枚挙に遑あらずして、その功績は実に偉大なるものが存する。

余は嘗て帰省の際、猪之吉氏の広遠なる理想として、祖先の遺産は増殖するのみが能でなく、如何に有益に消費するかも、重要なる業務で、自分は家の為にも、郷土にも存在せねばならぬ、との卓越した高見を聞いたことがあった。是れ恰も彼の世界的米の富豪「カーネギー」が消費学を研究して、理想の公共事業を世界的に遂行したのも、大小の相違はあっても理想の原理は同一であると云うべきである。草場家本家を継承に伴う猪之吉氏の超越せる心構えは、その時より基礎づけられて居ったことが窺われる。茲に「唐津市先覚者小伝」より転載し、我が本家の畏敬すべき偉人故猪之吉氏に敬意を捧ぐ。

「草場猪之吉は草場三右衞門の長子なり。明治元年八月唐津魚屋町に生まる。家世々薬種商を営む。猪之吉唐津中学校を経、福岡薬学校に入り十八歳を以て薬剤師の肩書きを得、家業を嗣ぐ。佐賀中央銀行の前身、唐津銀行の創立せらるるや、取締役として就任。地方財界に重きをなす。当時電信電話の架設なきを遺憾とし、平松定兵衞、山内小兵衞等と相謀り、寄付金を募集し、幾多の困難を経、遂に之が実現を見るに至れり。二十九年県立唐津病院の廃止せらるるや、有志と謀り私立唐津病院を設置し、刀圭界に貢献す。三十年二月唐津貯蓄銀行を発起し、昭和四年肥前合同貯蓄銀行に合併せらるるに至るまで、三十有余年間頭取として終始せり。大正五年北九州鐵道の創設を提唱し、どう八年会社の設立せらるるや、選ばれて社長となり、献身的に社運の隆昌と交通の発達を謀れり。其の他新聞紙の創刊に力を尽くし、青年団の設立に思いを致す等、社会に寄与せる事蹟枚挙に遑あらず。実に公共事業に没頭し、全精神を社会に提供せるものと云うべし。惜しむべし、晩年社運少しく停滞を見るに至り、粉骨砕身之が挽回を謀る中、昭和五年四月十四日、不幸東上中病魔に冒され、六十三歳を一期として病歿せり。聞くもの痛惜せざるはなし。」





題名:褒状と出品壜は現存していますか  名前:菖蒲和弘 2011/11/27(日) 16:30 No.1312   softbank219212148009.bbtec.net

コメントありがとうございます。
山内小兵衛は、山内薬局さまの祖父でしたか。良かったです。
現在、唐津市の宮島醤油株式会社の一升壜について調査しております。ところで、大正7年の酒類醤油品評会の①褒状②品評会に出品した際の褐色硝子製四合壜は、現存していないでしょうか。佐賀県から「特選賞」を受賞したのは、これが最初で最後です。それだけに褒状が、どこかに大事に保管されていると思うのですが。
 



題名:大正7年、佐賀県醤油醸造者について(2)   
名前:菖蒲和弘 2011/11/12(土) 18:42 No.1309   softbank219212148009.bbtec.net

前回の続きです。
「特選賞、○の中に「木」の文字、二号、佐賀、山内小兵衛」。「壱等賞、○の中に「木」の文字、一号、佐賀、山内小兵衛」についてですが、銘柄を「○の中に「木」の文字」と書きましたが、○は○印という意味で、その中に、「木」の文字が入っています。
山内小兵衛は、唐津魚屋町の西ノ木屋商店(明和6年創業、マルキ醤油醸造元)、山内小兵衛は8代目山内小兵衛均安蔵六と考えてよろしいでしょうか。

   
 

題名:Re: 大正7年、佐賀県醤油醸造者について(2)   
名前:山内薬局 2011/11/21(月) 22:19 No.1311    softbank220062098075.bbtec.net


大正7年は私の祖父です。

8代目山内小兵衞均安蔵六の長女カネが分家東の木屋に嫁します。
9代目幸之助が21歳でなくなりましたので、東の木屋カネの長男勘蔵が本家西の木屋の10代目当主となります。



題名:大正7年、佐賀県醤油醸造者について  名前:菖蒲和弘 2011/11/12(土) 09:53 No.1308   softbank219212148009.bbtec.net

以前、大変お世話になりました。大正7年の酒類醤油品評会に、佐賀県からは「特選賞、○の中に「木」の文字、二号、佐賀、山内小兵衛」。「壱等賞、○の中に「木」の文字、一号、佐賀、山内小兵衛」。「弐等賞、千歳ノ松、佐賀、弟子丸米吉」。「参等賞、国見、佐賀、益田権平」。「参等賞、松ノ緑、佐賀、松本嘉次郎」。以上四人が受賞しています。「 」内の順序は、銘柄、所在県名、出品受賞者名」となっています。山内小兵衛の二号、一号は、出品壜番号です。佐賀県から「特選賞」を受賞したのは、これが最初で最後になります。
山内小兵衛は、唐津の山内小兵衛だと思います。しかし、醤油業を営んでいたのでしょうか。商店名は何と言うのでしょうか。弟子丸米吉・松本嘉次郎について、インタネット検索しましたが手掛りが得られません。益田権平は、明治25年3月、有田町に創立した協立銀行専務の益田権平だと思われます。
いずれの醤油醸造元は廃業しているため、佐賀県の何町村に所在していたか分かりません。もし、ご存知でしたら教示下さい。

   
 

題名:Re: 大正7年、佐賀県醤油醸造者について 
名前:山内薬局 2011/11/21(月) 22:11 No.1310    softbank220062098075.bbtec.net


久しぶりの書き込みで驚いております。

大正7年でしたら私の祖父の代となります。

マルキ醤油です。

○の中に木が本家西の木屋(酒造:銘柄は蔵六・醤油醸造)
○の中にきは分家東の木屋(酒造:銘柄はさよ姫)

現在は本家西の木屋が醤油醸造のみ営業しております。

西の木屋は代々当主は小兵衞を名乗ります。
私の従兄は名乗っておりませんが。

醤油は魚屋町通りを挟んで南側、
北側は母屋と酒蔵でした。
題名:ごあいさつ  名前:秀島博規 2019/02/04(月) 13:49 No.1350   softbank221096198204.bbtec.net

はじめまして(ではないかも知れませんが&#127925;)。
土日にインターネットで唐津散歩をしていたら、貴兄の素晴らしいブログを見つけました。
力が入っていますね❗大変な研究家でいらっしゃいます✨
僕は唐津生まれ中学まで高砂町界隈育ち、今は大阪在住ですが数年前から唐津中毒(⁉️)になっています&#128517;
高徳寺の豊さんが貴兄をご存知との事、いずれご縁が有ることを祈念致します&#128591;&#128079;
因みに、フェイスブックで「唐津 文化の力 調査会」のグループを立ち上げています&#128517;



題名:黒獅子について  名前:なかさん 2016/11/03(木) 04:29 No.1349   em1-115-199-146.pool.e-mobile.ne.jp

はじめまして。

紺屋町さんが黒獅子を復活しようとしていると聞いてから

かなりたちますが

現在は黒獅子の復活の話はどのようになっているのか

ご存知ではないでしょうか?

黒獅子の復活を願っている者として

とても気になっています。

何か情報があれば教えていただきたいです。

お忙しいところ申し訳ございませんが

どうぞよろしくお願いいたします。



題名:大正時代の共立病院  名前:友田晴彦 2016/06/15(水) 16:30 No.1345   i58-93-115-4.s42.a013.ap.plala.or.jp

お休みしているようですが、是非教えていただきたいと思い投稿しました。明治時代に祖父友田鉄太郎が建てた共立病院が貴ブログ「唐津と夢二」の三番目の地図の左上に載っています。明治時代から戦後手放すまで、小生の父親が戦後まで田原某氏に貸していました。地名は唐津市弓町になっています。現在の地名と今は何になっているのかご存知でしたら教えていただけると助かります。宜しくお願いいたします。尚、現在唐津にある協立病院は別物です。
   
 

題名:Re: 大正時代の共立病院  名前:山内薬局 2016/06/15(水) 19:29 No.1346   softbank126107076178.bbtec.net

はじめまして
大正15年の地図ですね。

大正13年の「唐津商工案内」という冊子に広告が出ていました。

   
 

題名:Re: 大正時代の共立病院  名前:山内薬局 2016/06/16(木) 23:25 No.1347   softbank126107076178.bbtec.net

現在の地名は弓鷹町、数年前まで共立病院としてやっておられましたが、廃業され、取り壊され、あの一郭は住宅になりましたよ。
   
 

題名:Re: 大正時代の共立病院  名前:友田晴彦 2016/06/20(月) 13:02 No.1348   i58-93-115-4.s42.a013.ap.plala.or.jp

早速の返信ありがとうございました。
共立病院は数年前まで開業されていたようで、開業中に訪れたかったですね。敷地は1500坪ぐらいあったと思いますので、住宅街となったとしたら何軒もの家が建っているのでしょう。
貴重な情報、深く感謝いたします。



題名:お尋ねします  名前:具足屋の末裔 2015/08/24(月) 07:20 No.1341   h219-110-135-042.catv02.itscom.jp

どなたか、唐津にお墓の掃除代行をして下さる業者さんを
ご存知ありませんか?

75近くなったら足腰が弱くなり、1kmの散歩も辛くなりました。
東京在住でもう5年以上唐津の墓参りにも行けていません。

唐津でお墓の掃除を代行して下さる方をご存知でしたら
お教え戴けると幸いなのですが・・・・。

お墓は東十人町の龍源寺の山の上です。
現状では唐津駅からお寺さんまで歩いて行くのがやっとで
箒や水を入れたバケツを持ってお墓まで行けるかどうか?

十年程前にお墓の裏側に茂った樹木をお寺さんが
切って下さったら、日当たりが良くなりすぎて
小さな木がコンクリートの割れ目から伸びていたのを
切った記憶があります。
雑草も相当伸びているだろうと、気にしていますが
体が思うように動きませんので、お墓の掃除をして
下さる業者さんがいらっしゃれば、お願いしたいと
思います。

この掲示板には場違いな投稿かと思いますが
お許しください。


   
 

題名:Re: お尋ねします  名前:山内薬局 2015/08/15(土) 15:26 No.1342   softbank126107074056.bbtec.net

父が幼い頃は西の木屋は盆正月には具足屋さんの墓参りもしていたとき来ました。血縁ではありませんが、堺からのご縁だったのではと父が申しておりました。
30年ほど前、別当きみさんが来られたときに父がお相手しました。わたしはちょうど出張中でした。その後松戸に会いに行ったことがありました。きみさんは102歳だったと思います。

墓の掃除代行業者、唐津にあるかどうか知りません。調べてみますのでお待ち下さい。

私は龍源寺の山内さんのお墓には参ったことはありません。一度行ってみたいと思っています。

   
 

題名:Re: お尋ねします  名前:山内薬局 2015/08/15(土) 16:22 No.1343    softbank126107074056.bbtec.net

http://www2.hp-ez.com/hp/benriya-zero/ohaka
便利屋ZEROという業者さんがあるようです。

   
 

題名:早速のご連絡有難うございます。  名前:具足屋の末裔 2015/08/16(日) 09:26 No.1344   h219-110-135-042.catv02.itscom.jp

「暑い最中に墓所掃除でもないので、涼しくなってからで
結構です」とお墓の掃除に関して便利屋ZEROさんに連絡を
しました。

107歳で亡くなった別当の伯母から家は東の木屋で
今の村岡だか前のお茶屋さんの軒に「○に木」の文字が入った
軒瓦が残っている様な話を聴いた記憶があります。

具足屋はお侍の米も扱って居た様で、伯母や親父から
暮になると戴いた塩鮭が何本も軒にぶら下がっていたと
聞いた覚えがありますが、何せ没落した商家の為
何一つ残っていません。唯一つ、伯母の自叙伝の中に
ある荷を運んできた馬の足を洗う馬盥が引っ越した西寺町に
残っているのを見た記憶があります。
それ以外は文書も家財道具の残っておらず、
親父も私もサラリーマン生活でしたので、具足屋に関しては
判りません。
ある時、堺の具足屋のご本家の末裔は西宮あたりでお医者さんを
やっていらっしゃると聞いた事があります。
また、分家と思われる方が堺で石油商をやっていらっしゃる
ので、お逢いした事があります。

唐津にはお墓しか残っていないので、私の代までは何とか
墓を守れますが倅は唐津に住んだ事も無く、墓参りも
重荷になるかと悩んでいます。





題名:昨夕  名前:ぼんぶえ 2014/03/10(月) 06:18 No.1339   203-179-197-159.ppp.bbiq.jp

おはようございます、昨夕古地図の新堀に記された、お宮は新堀のイゲ様でしょう
   
 

題名:Re: 昨夕  名前:山内薬局 2014/03/10(月) 20:02 No.1340   softbank126124135220.bbtec.net


前金さんから次のような書き込みを頂きました。

船宮・新堀の先に見える鳥居が「御船宮」でしょうか?
水主町古老から聞いた話で、新堀沿いの松浦川に通称「イゲ様」という目の神様が祀られていたそうです。
果たしてこの絵図にある鳥居は「御船宮」?「イゲ様」?

御船宮とイゲ様は別物なのでしょうか?
あの辺りに現在祠か何か残っていましょうか?



題名:名護屋帯について  名前:茶々 2013/06/14(金) 18:54 No.1338   KD175108002151.ppp-bb.dion.ne.jp

 初めてメールいたします。4年ほど前に名護屋城博物館に行った際に名護屋帯という大きな組紐でできた帯を拝見いたしました。
その帯は、文禄・慶長の役の時に参陣した武将がお土産として国に持ち帰り日本全国に広がったと伺いました。
 家(東京)に帰って、そのことに関する史料を探しましたが、見つけることができず、今年3月に博物館へお邪魔したのですが、残念ながら休館中でした。
もし、この帯について何かご存知の方がいらっしゃいましたら教えてください。よろしくお願いいたします。
                    



題名:山内小兵衛について    名前:にしやん 2013/03/11(月) 21:17 No.1337   p1032-ipbf3605hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp

山内薬局様

 ご教示いただきありがとうございます。
 まさか山内薬局さんと山内小兵衛が関連しているとは思ってもみませんでした。
 今回の質問は当初から予定していたものではなく歴史についての私の探究心といいますかそういうところからくるものでした。
 たいへん失礼いたしました。
 お気を悪くされたらお詫び申し上げます。



題名:山内小兵衛について  名前:にしやん 2013/03/11(月) 17:00 No.1335   p1032-ipbf3605hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp

山内薬局様

 お世話になっております。
 わざわざ確認して下さりありがとうございます。
 勉強不足で申し訳ないのですが、系図を出して確認して
 ということは、山内薬局さんとこの西の木屋の山内小兵衞とは 所縁があるということなのでしょうか。
 山内小兵衞は西の木屋という酒造業で財を成していたと
 いうことかと思いますが、
 現在も西の木屋は酒造業で続いているのでしょうか。
 また、山内小兵衞という名前も引き継がれているのでしょうか。
 申し訳有りませんが、ご教示願えればと思います。

   
 

題名:Re: 山内小兵衛について  名前:山内薬局 2013/03/11(月) 19:03 No.1336   softbank126107076188.bbtec.net

にしやんさん

どういうことをお調べでしょうか?

私の父は西の木屋10代目山内小兵衞の三男坊です。
私の従兄が12代です。

代々小兵衞を襲名します。(従兄はまだ名乗りませんが)
何代目から小兵衞なのか確認しましょうか?

それに代々「均」を名乗ります。唐津で生まれた初代は均忠
ご指摘の7代目が均斎、8代目蔵六さんは均安 9代目均幸
私の祖父10代目は均敬です。

天正時代、名護屋城築城の際、木屋利右衛門が堺から唐津に来たときは大船頭、恐らく貿易商、海運業だと思います。唐津で生まれた初代利右衛門の時に酒造株買い求め酒屋を始めます。(父のメモには寛文9年)その100年後、明和6年に醤油屋も始めます。
現在は醤油屋だけやっております。(マルキ醤油)



題名:山内小兵衛、山口久右衛門について  名前:にしやん 2013/03/10(日) 23:00 No.1333   p1032-ipbf3605hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp

山内薬局様

 年表を拝見いたしましたが、山内小兵衛均安蔵六が八代目ということであれば、『文久2年(1862年)に家督を継いで小兵衛と号す』からすると安政7年(1860年)正月に献金した山内小兵衛は7代目ということになりませんか?

   
 

題名:Re: 山内小兵衛、山口久右衛門について  名前:山内薬局 2013/03/11(月) 00:19 No.1334   softbank126107076188.bbtec.net

なるほど。系図を出して確認してみましょう。

7代目は文久元年12月6日歿です。
8代目は文久2年2月家督小兵衞と号す

にしやんさんのご指摘の通りでした。

7代目は古屋から養子に入られた方で、均斎を名乗ります。
8代目は均安です。
代々均を頭に付けています。

また何かお気づきでしたらご指導よろしくお願いします。



題名:山内小兵衛、山口久右衛門について  名前:にしやん 2013/03/10(日) 13:45 No.1331   p1032-ipbf3605hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp

山内薬局様

 早速、ご教示いただきありがとうございました。

   
 

題名:Re: 山内小兵衛、山口久右衛門について  名前:山内薬局 2013/03/10(日) 16:04 No.1332   softbank126107076188.bbtec.net

にしやんさん

お役に立てましたでしょうか?