いらんこつかも知れませんが、 大川校長の銅像除幕式は昭和3年10月でした。 13回忌に有志が作ったように書いてありました。 昭和3年という事は没後18〜9年 13回忌に銅像の話が持ち上がり、昭和3年に完成したということでしょうね。
母校百年史より 「かかる内憂外患の重大なる時に、我唐津尋常高等小学校に於て一大痛恨事が勃発した。明治四十三年五月二十七日、この日は我日本海軍が露国の海軍を対馬海峡に迎え撃って大戦勝を挙げた日本海々戦の日で、海軍記念日として毎年祝賀の行事が行われていた。この日唐津小学校にても全校生徒を講堂の前庭に集め、大川謙治校長が壇上に上って、大きな体躯を詰襟の教員正服に包み、特徴的な大きな両眼を輝かせて、慈顔をほころばせつつ、勇壮なる日本海軍の奮戦力闘の模様を興奮の中に話していられた。その最中、突如として先生を脳卒中という病魔が襲った。崩れるように壇上に倒れられた大川校長は遂に起つことはなかった。早速病院へ運ばれたが六月十四日惜まれつつ退職されたのである。明治十七年三月二十五目唐津小学校に赴任され、四月一日初代校長として就任されて以来二十六年四ケ月間、唐津小学校が唐津高等小学校、唐津尋常高等男子小学校及び女子小学校を経て、唐津尋常高等小学校に成長するまで、校長として喜びも悲しみも小学校と共に歩まれ、風雪に耐えて慈しみ育ててこられたのである。学校は勿論唐津町当局、卒業生、全生徒共に大きな支柱を失った如く悲しみ、嘆いた。先生の偉大な遺徳を偲び、業績を讃えて、唐津尋常高等小学校の正門の東側にブロンズの胸像が建立された。然しこれも昭和十八年七月三十一日大平洋戦争で金属回収として赤襷が掛けられて応召したので、現在は陶像として志道小学校の校庭に起ち、唐津小学校の未来を静かに眺めておられる。」
元々はブロンズ像だったんですね。 初代奥村五百子像もそうでしたね。
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