刀町 赤獅子考

 


唐津くんちを語る上で、一番話題になる一番曳山赤獅子

赤獅子の起源を探るべく、様々な資料を照らし合わせて文政2年にタイムスリップしてみたいと思います。

その前に、赤獅子ができる前のことを少々。

昭和35年10月1日発刊の唐津神社社報第一号によれば


唐津神社由緒


御祭神

一ノ宮 住吉三神

底筒男命(ソコツツオノミコト)、中筒男命(ナカツツオノミコト)、表筒男命(ウワツツオノミコト)

二ノ官 神田宗次(コウダ ムネツグ)、相殿 水波能女神(ミズハノメノカミ)

 神功皇后三韓を征し給ふや、西海茫々として一望際なく舟師向ふ所を知るに由なし。時に皇后「願くば一条の舟路を示せ」と住吉の三神に祈り給へば間もなく風波治まり、凱旋の後神徳著しきを感じ松浦の海浜に鏡を捧げて三神を祀り給ふ。然るに其後数百年を径て漸く衰頽し社殿自ら廃滅に頻せんとする時恰も孝謙天皇の御宇地頭神由宗次一夕神夢を得て海浜に至れば、一筐の波に浮び来るあり。之を採りて開けば一宝鏡なり。これ正しく皇后の祀り給ひし宝鏡ならんと驚き敬ひて時の帝に奏聞す。朝廷神徳を感じ詔命を下して「唐津大明神」と賜ふ。時に天平勝宝七年九月二十九日なり。爾来郷党の崇敬加はり文治二年神田広に至り社殿を再建し、祖先神田五郎宗次の功を追慕し其の霊を合祀して二の宮とす。文安六年領主波多三河守親田地を寄進して尊崇す。
 慶長七年寺沢志摩守広高唐津築城に際し現在地に社地を設定し、社殿を改築し領内守護神として崇敬せり。且つ城下の火災鎮護として水波能女神を相殿に勧請す。その後大久保、松平、土井、水野、小笠原の各藩主も祈願所と定め、広く領内の総社として益々崇敬せり。
 明治六年郷社に列し唐津神社と改称す。其の後境内拡張、社殿の総改築成り昭和十七年県社に昇格す。
 戦後杜他社殿旧に変ることなく四時祭礼も怠ることなく、杜頭愈殷賑なり。
 
ということであります。

つまり
天平勝宝7年(755年)に唐津大明神の神号を賜る。

文治2年(1186年)に神田宗次を二の宮とする。

文安6年(1449年)に波多三河守が寄進。

そして徳川の代になり、唐津の城下が形成され、

それまでは汐の先にあった社殿を慶長7年(1602年)になって寺澤志摩守が現在の地に移したとされています。

 
津神社の神祭と曳山に関する抄録
編著   戸川 鐵
4 唐津神祭と
 現在の曳山以前のやマの変遷

(昭47.11.10.記)

 唐津には、現在の曳山ができるまえにも、神祭のヤマがありました。神祭で唐津神社の御神幸が行われはじめたのは、寛文3年(1663年)(第111代後西天皇の御代の江戸幕府時代で、昭和47年より逆算して309年まえ)です。宝暦13年(第116代桃園天皇の御代で、昭和47年より逆算して209年まえ)の唐津藩主土井大炊頭利里の時代に、全町内から傘鉾山が奉納されました。それは「かつぎ山」と言われ、各町の火消組がかついで西の浜へ御神幸のお伴をしていました。そのころは、領主も行列を整えて随行していたということです。
 次の領主の水野公時代になると、「かつぎ山」は車のついた「走り山」注3)に変わりました。江川町の「赤鳥居」は常に神前にあるために行列の先頭を進み、次いで本町の「左大臣、右大臣」、木綿町の「天狗の面」、塩屋町の「仁王様」、京町の「踊り屋台」かできてきました。
 当時の記録によれば、また走り山であった江川町や塩屋町や木綿町や米屋町が従い、「わあー」っと走りだして、先行の大名行列や御神輿に追いつくと、そこで停まって壊れたところをコトコトと修理して、また「わあー」っと走っていました。これを「溜め曳き」と言ったそうです。京町の「踊り山」は町内の娘たちを屋台に乗せて町に出て、踊りを披露しながら通りました。そして、その後ろに二の宮の神輿が進みました。
 現在の第1番曳山「赤獅子」が製作されたのは文政2年(昭和47年より逆算して153年まえ)で、小笠原長昌公が藩主のころです。当時、刀町の石崎嘉兵衛がお伊勢参りの帰途に京都の祇園山笠を見物し、帰唐してから大木小助などの同士とともにこの曳山を製作したと伝えられています。曳山の内側に作者の名前が漆書きされています。






赤獅子ができるまでの記録を年表にしてみました。
天平勝宝7年  755年  唐津大明神の神号を頂く
文治2年  1186年 神田広により神田五郎宗次を二の宮とする
文安6年  1449年 波多三河守寄進
慶長7年  1602年 寺澤志摩守は社殿を城内に移す 
寛文3年  1663年 神祭で御神幸が行われはじめる。
宝暦13年  1763年 水野公の代が始まる。全町内から傘鉾山(かつぎ山)が奉納される。 
文化14年   1817年 水野公の代が終わる。この頃までにかつぎ山が走り山に変わる。
江川町赤鳥居、本町左大臣・右大臣、木綿町天狗の面、塩屋町仁王様、京町踊り屋台 
文政2年   1819年 刀町赤獅子奉納 


赤獅子が誕生する前までの様子はこんなところでしょうか。

 
 
さて、いよいよ本題の赤獅子に入っていきましょう。

先ずは唐津曳山三大資料をご覧下さい。

 「曳山のはなし」古舘正右衛門著より
 
刀町の赤獅子  文政二年九月作

 獅子舞は古く行れていて、シシはカノシシ、イノシシの事である。古くは鹿の角を持って舞ったり、鹿の皮を着て舞ったりしていたが、仏教の伝来に従い百済から唐獅子と伎楽獅子、中国から舞楽獅子が伝わった。そして、神や仏の祭に獅子舞が奉納されるようになった。また、一人又は二人一組になって唐獅子頭をかぶりながら舞うようになり、時代が下って神輿の神幸が行われるようになると、獅子舞は神輿に先駆するようになった。

 浅草の三社祭には雄(角がある)、雌(角がない)一対が後部でつながっている。飛騨の高山の八幡祭にも一対の獅子頭を台に載せて並べてある。また、長崎くんちにも獅子舞がある。さらに、それを真似て八代の妙見祭にも獅子舞が参加している。

 唐津神社の大祭には、飯田一郎氏の著書には、町田、神田、菜畑、二夕子、京町等にカブカブ獅子が神幸に従ったと記している。また、神祭行列絵図にもカブカブ獅子が六つ描いてある。さらに、戸川真菅氏の思い出草にも六、七頭のカブカブ獅子が参加していたと記している。従って、神祭に参加していたことは間違いないことである。

 飯田氏は神田の一対のカブカブ獅子頭を見て、このカブカブ獅子頭があたかも赤獅子の模型のように記載されている。この根拠となるものはない。恐らく赤獅子を作るとき、このカブカブ獅子頭も参考にはしたであろうが、(注@)赤獅子の決定に最も影響を及ぼしたのは、小笠原藩入部の後、掛川の獅子舞と祭の模様を聴いたためだと確信する。少なくとも獅子頭の大きさは掛川の大獅子の話を聞いて決定したのではなかろうか。特に、紙を張り重ねた一閑張の工法などは掛川の獅子頭のことを知って初めてできることだと思う。

 浜玉町川崎渉助氏の奥さんの家(中菊屋?)に伝わったという(注A)木製漆塗(二十五糎大)カブカブ獅子があり刀町赤獅子の原型だといわれている。これも一考察で参考にはなる。

 この曳山の本体の作り方がその後のヤマの作り方の手本となっているので、その方法を書きとどめておく。

 一色健太郎氏の話によれば、最初に粘土で原型を作る。その上を良質の和紙を蕨煎(蕨を煎じて作ったのり)で張る。乾かしては張り乾かしては張りして二百枚位張る。二寸乃至三寸位(約六〜九センチメートル)希望の厚さになるまで貼る。これを「いっかんばり」という。適当な厚さになったとき、中の粘土をとりはずす。

 次に内側も生漆と麦粉とまぜたもので麻布を貼る。少くとも二回は貼る。次に外側で凹凸を是正し細かい細工を必要とする箇所は「こくそ」(細かい鋸くずと漆とをまぜたもの)を塗る。次に砥の粉と漆とをまぜたもので塗る。一回毎によく乾かして、少くとも七・八回は塗る。これを「シタジ」という。こうして乾燥したものを砥石で磨く。初め荒砥を使い、のち仕上砥を使う。

 最後に上塗りをする。上塗り漆(生漆を精製し−中塗り漆とは製法が少し異っている、染料を加えて色をつけたもの)を塗って、一回毎に蝋色炭で磨き上げる。上塗りも少くとも二、三回行う。そうして、その上に角石(かくせき)と称して鹿の角を白焼きした粉と種油と「すりうるし」(艶つけ専用に作ったもの)とをまぜたもので塗り、手指または綿につけて丹念に磨き上げる。その上に金箔または銀箔などを施す。

  注@ 掛川の獅子頭との関係は再調査する必要があろう。
    A 浜玉町川崎家保存の木製漆塗のカブカブ獅子は中町の青獅子によく似ている。(古老談)
 
 「神と佛の民俗学」飯田一郎著より


三 ヤマの製作

 (一)製作の動機

 現存する十四台のヤマのうち、一番古いのは文政二年(一八一九)に作られた刀町の赤獅子と呼ばれるもので、この製作ついては次のようなことが伝えられている。それは当時刀町に住んでいた石崎嘉兵衛なるものが、伊勢参宮の途次京都に立寄り、偶々祇園のヤマを見て大いに感ずるところがあり、帰郷の後、大木小助らとはかってこのヤマを作ったのである、という。このことは専ら口碑として伝承されているもので、遺憾ながら文献の徴すべきものが一つも残されていない。たゞ製作年代と作者などについては後述の如くヤマそのものに漆書の銘があるので、間違いないと思われるが、問題はその動機についてである。祇園のヤマを見て赤獅子を作ったという事実は動かぬものであったとしても、京都で見たという祇園のヤマと唐津で作られた刀町の赤獅子とは、神祭のときに引かれるものであること、かなり大きなもので之を引くのに多人数を要し、多くの人出を予想するものであること、従って神祭の賑かさを増すものであること、などの点に於ては共通だと思われるけれども、先ず一見しただけでもヤマの形態は全く異っている。従って、京都に於て感激を覚えたとすれば、先にあげた共通の諸点に関してであって、その結果作られたものが赤獅子(獅子頭)であったという点についてはまた別個の影響があったとせねばならない。

 (二) 動機についての異説

 小笠原氏が水野氏に代って入部してから町民の景気を振興するために作らせたのだ、或は小笠原氏の前任地奥州棚倉の行事を模したものだとの説が一部に行われている。このことは小笠原氏の入部が文化十四年(一八一七)であり、最初の唐津のヤマが出来たのが丁度其の二年後であるところから、いかにも真実らしく唱えられ、或は城内の旧家にこのような口碑が伝えられているというようなことさえ言われているけれども、これらの証拠はすべて確認されていない。私が聞いた限りではこうした口碑は城内の旧家にも全く伝わっていないし、唐津神社の宮司戸川顕氏の長男健太郎氏(国学院大学出身四十八歳)の調査されたところでは、奥州棚倉にはこれに類似した行事は見当らないとのことである。よってこれらの説は偶然なる年代の契合から作り上げられた憶説に過ぎぬものとせねばならない。なお若しこれが藩公若しくは其の周辺からの奨励ないし指導があったとすれば、各町内のヤマの製作がもっと年代的に接近し歩調を揃えて出来たであろうと思われるのに、事実はそうでなかったこと、それからまた第二番目の中町の青獅子は刀町の赤獅子に五年おくれて製作されているが、中町の人達がこれをつくるときその作りかたを刀町の人達に教えて貰おうとしたが、教えてくれなかったので、それではということで、中町の人たちがわざわざ京都まで出掛けて習って来た、という話が中町の古老の間に伝えられているということ、この二つの事実も右のような異説の成立を困難にするものというべきであろう。

 いま一つ、「これらのヤマは武士に対する町人のレジスタンスとして作られたものと伝えられておりまして…」というようなことが一部観光関係者によって解説されている。実はこうした「伝え」は決して古人からあったものではなく、ごく最近それも終戦後何年か立って新しい歴史の見方が一般化する頃から言い出されたのに外ならない。「伝えられた」という点を除いて、武士に対する町人のレジスタンスであったかどうかということについて考えるならば、それは、全く歴史解釈の立場の上の問題で、どちらの解釈に従うのも一応は自由であろうが、確実な史料の徴すべきものを見出さぬ限り、一方的にかくと決めてしまうことはむしろ慎しむべきであろう。ヤマ引きの場合に限って町人も場内を闊歩することが出来たし、武士に対しても無礼講たることを許されていたらしいから、レジスタンスであったごとく解されないこともない。けれども、それが果して現代的な意味における所謂レジスタンスというものか否かについて問題があると思われるし、所謂無礼講もヤマ引きの結果として許されたもので、初めからこれを予想してヤマを作ったかどうかについては更に大きな問題がある。今はまだ断定すべき段階ではないと思う。


 (三) 獅子舞とヤマの製作

 最初に出来た刀町のヤマが赤獅子であり、次に五年おくれて出来た中町のヤマが青獅子である。更に後のものだけれども、本町の金獅子、今は現存しないが紺屋町の黒獅子が作られ、また京町の珠取獅子が作られたというように、十五台作られた中に五台まで獅子であったという事は、先に述べたように、祇園のヤマから直接に影響されたものとは考えられないので、これは獅子舞の獅子にヒントを得たものだと私は思っている。唐津神社の現宮司戸川顕氏(八十歳)の叔父戸川真菅氏が昭和八年十月十八日朝鮮済州島にあって顕氏に寄せられた書信(書名を「唐津神事思出草」という)の中に、町田神田のカブカブ獅子七八御輿の前後に従へりとある。真菅氏は当時老体七十五歳というから、安政六年(一八五九)生れで、その少年時代十二三歳の頃は明治四・五年頃に当っている。思出草にいうカブカブ獅子が七つ八つ御輿の前後に従ったというのは、その頃のことであろう。戸川顕氏や江川町の吉村茂雄氏らの古老の談話によれば、当時はカブカブ獅子を持っていたのは町田、神田の外、菜畑・双子・江川町・京町などの部落があったという。それらの多くがいつの間にか廃れてしまって、今は神田の獅子が雌雄二つ残されているだけである。

 神田の獅子は今も秋祭の十月廿九日には必ず若者らにかつがれて、午前五時に神社に参拝して獅子舞を奉納し、それから以前は御神幸の行列に参加していたけれども、今はそれをやめて、二手に分れて東西から神田部落の家を一軒一軒打って廻わり、最後に飯田の観音堂で落合って、そこに置いてある箱の中に納まることになっている。行列の参加を止めるに至った理由については、他の町内のヤマ引の若者どもが面白がって貸せと言って仕様がなかったこと、それからこのカブカブ獅子が果物店の前に立って大きな口を開けると、店の者はその店先にある柿なり梨なりみかんなりを一つずつ口の中に投入れてやるという風習であったのを、いつか乞食のようだと 悪口を言われたのに憤慨したからというようなことなどが伝えられている。

 そこで現存の神田のカブカブ獅子を調査したところ、其の大きさは次の表の如くである。

耳幅 頬幅 前後 全高 角ノ高サ 口周 (単位 糎)
雄獅子 八〇 三八 五〇 五八 二三 七三
雌 〃 七二 三九 四九 五二 二二、五 七一、五



木造漆塗りで、下顎は金具で以て上下に動くように作られ、若者が頭に被ったまま、取手を以てカブカブとやることになっている。縁の木心に深く判然とした刻銘があって次のように記されている。

  享和二戌年 神田村
       大工又蔵四十三歳作

享和二年は一八〇二年で、刀町の赤獅子が出来た文政二年(一八一九)より十七年前に当っている。町田、菜畑・双子等のものについては今知るよしもないが、少なくとも神田のカブカブ獅子は現在の唐津のヤマの作られる以前から厳然として存在していたことが知られるのである。

 さてこの神田のカブカブ獅子を見ると、写真でもわかるように、その雄獅子の方は耳・角・目・鼻・口などそれから後に頭髪を垂れているところまで、全体の格好が中町の青獅子にそっくりである。写真ではわからないけれども、この両者は色まで全く同じである。これは一体どうしたわけであろうか。両者に共通な祖型があって、各々がそれを模したものと考えられないこともないが、そうした祖型に当るものは、今のところ見当らない。とすれば、中町のヤマが神田のシシを模して作られたものとするのが最も順当な考え方であろう。

 このように考えて来ると、最初に刀町の赤獅子が作られたときも、その原型を遠くまで求める必要はなかったのではないか。今は廃滅してその姿を見ることが出来ないけれども、町田か菜畑か或は双子かにこれが原型になるカブカブ獅子があったに違いないと考えていいのではないかと思われる。

 このようなカブカブ獅子がいつ頃から唐津神社の御神幸におともをしていたのか、それはまだ全くわからない。併し、浜崎にも佐志にも湊にもシシがあって神祭のときに出るそうだから、この地方にもかなり古くからこうした風習が行われたものと思われる。この地方ばかりでなく、これは日本各地に広く見られる風習で、古くは 「年中行事絵巻」の中に獅子舞の絵を見ることが出来る。この絵巻の原本は後白河天皇(一一二七−九二)の勅命によって藤原光長が画いたもの、そして松殿関白(藤原基房一一七二関白任一一七九貶)に進ぜられたものと伝えられる(大百科事典)ので、大体の見当では一一七年頃即ち今から凡そ七百八十余年前のものとしてよいであろう。

その頃京都に行なわれていた風習が其ののち全国津々浦々に及んで各地各様の獅子舞となり、例えば三日月村の面浮立の如きも其の一変形と見るべきものであろうが、割合に品の良く美しい正統的な流れを汲んだものがこの地方に伝えられて町田神田のカブカブ獅子となり、それが或る機縁に触れて一躍数倍乃至十倍近くに拡大されてデンと納まったのが唐津のヤマであると、概論的にはこのように考えてよいだろうと思われる。

 先に述べたように、現在は消滅している紺屋町の黒獅子まで加えて合計五台の獅子ヤマが作られたが、刀町・中町についで第三番目に出来た材木町のヤマは浦島に亀、四番目の呉服町のは義経の兜、次の五番目の魚屋町のは鯛といった工合で、全部が全部獅子ではなく、獅子でないものが合計十台、全体としてはむしろ獅子よりも多く作られている。思うに、第三番目辺りから、獅子ばかり作るのも能のない話で何とか別に気の利いた趣向はないものかと各町内が工夫を凝らすことになった所為であろう。一々についてこれを確証する文献も見当らないし、口碑のようなのもまだ聞くことが出来ない。要するところ、各町内が競って負けじ劣らじと工夫を凝らして夫々特徴のあるものをこしらえたということになるようである。


  「唐津曳山考」     坂本智生著より

一番山刀町について
 一番山刀町の本体内側には、その製作年と関係者の氏名が漆書されている。その製作年については「文政二年己卯九月吉祥日」とある。これは勿論文政二年のおくんちに奉納された、という意味で、数年以前から計画され、工作されていたことは相違あるまい。

 それから「獅子作者」として、「石崎嘉兵衛、大木小助、同儀右衛門」とある。石崎嘉兵衛とは何者か。一般には刀町・中の菊屋の当主とされている。しかし、中の菊屋の石崎嘉兵衛は文政四年の生れで、明治二十一年に死亡していることは、彼の墓碑により確かめられる。彼のフル・ネームは石崎嘉兵衛長則とある。

 石崎嘉兵衛は石崎八右衛門の三男で、天保年中に中の菊屋の石崎常左衛門の養子になっている。常左衛門は文久二年に死去しているが、常左衛門と同じ頃、石崎常七という名の造り酒屋が刀町にある。

 曳山の漆書によると、「組頭」として「石崎兵左衛門、石崎常七」の名がある。石崎兵左衛門は、所謂西の菊屋であるが、石崎常七が何れの菊屋か明らかでない。明治になって、菊屋という旅館が記録にみえるが、この辺りに東の菊屋があったかもしれない。

 ところで、文政二年の段階で、石崎嘉兵衛という名前は、刀町には見当らない。石崎嘉兵衛という名はむしろ呉服町の菊屋ではないかと推定される。

 石崎嘉兵衛というのは、明和年中に設置される初代の大町年寄の名である。この嘉兵衛は菊屋総本家五代の治郎右衛門の二男である。菊屋の総本家は材木町、現在の中央大劇辺か。嘉兵衛はその後、呉服町の分家石崎嘉吉を継ぎ、文化の初年に死亡、二代の大町年寄を二男の嘉十郎が継ぎ、三男の源八郎は、後嗣の絶えた材木町の本家を継いだ。

 二代の嘉十郎は又嘉兵衛とも称したが、文化十四年に死去し、三代目の大町年寄には、その子茂十郎が為る。茂十郎が嘉兵衛といった証拠はないので、筆者は二代嘉十郎即ち嘉兵衛が「獅子作者」ではないかと思う。文化十四年の翌年は文政元年だから、余り無理な推定ではないと思う。

 呉服町石崎氏はまた、初代嘉兵衛以来、藩政の終えん期まで、代々「嘉左衛門」という名も使っているので、嘉の字はこの家の通字になっている。

 また、四番山呉服町の作者として石崎八右衛門の名があるが、この人が刀町中の菊屋の石崎嘉兵衛の実父としても、年代に無理はないが、八右衛門が何処の菊屋なのか今の処見当がつきかねる。石崎氏の関係者には一統の系図書があることも承知しているが、性来の無精で確かめていない。

 ついでに、大木小助という名について述べると、この名の人が明治十年代迄本町の、現在の中野陶園の辺に住んでいたし、旧藩時代の記録にも本町・大木屋小兵衛という名がみえる。昔は同名が二代、三代続くことがしばしばあるので、刀町の「獅子作者」の一人が本町の人であった可能性も強い。


 『曳く山鉾』が即ち『曳山』ということになるが『曳山』即『唐津曳山』とはならない。『唐津曳山』とは、現存する唐津特有の曳山である。
 唐津案内の最初の活版本とし明治三十五年大石町の大和屋が発行した「唐津名勝案内」という冊子があるが、その内の「唐津神社」の項は次の如くであり、「曳山」に対する順当な記述がなされている。

 陰暦九月二十九日は毎歳の祭日なり、神輿は字西の浜に渡御の途次各町を巡幸せらるる。此日の見物とも言うべきは曳山とて、各町より曳出す処の山鉾なり、山鉾とは鯛又は獅兜等を形る張り貫きの模造物にして高さ三間、幅之に適ひ粉色工みに施され云々″
 つぎに惣行事という事 唐津大明神の祭礼は、明神さんの社僧歓松院から惣行事受持町に対する依頼に始まり、惣行事の町は月当番の受持町に協力を依頼して実施にかかる。観松院は明治になって廃止されることになった。

 唐津では惣町十七力町という言い方が旧藩の時代から明治にかけて使われている。その十七力町とは、本、呉、八、中、木、材、京、刀、米、大石、紺屋、魚、平、新、江川、塩、東裏、であるが、明治になると塩屋町は材木町に、東裏町は大石町に合併し、従前郷方に属した水主町、新堀が加えられて十七力町には変りなく、惣町十七力町という町民意識は明治を通して強烈なものであった。
 津神社の神祭と曳山に関する抄録  戸川鐵
 
5 現在の曳山の起こり
(昭47.11.11.記)
 文政元年(第120代仁孝天皇の御代で、昭和47年より逆算して154年まえ)に、水野忠邦に代わって小笠原長昌が奥州棚倉から唐津に封ぜられるとき、現在の刀町曳山「赤獅子」が造りはじめられていました。完成したのは翌年の文政2年ですが、ちょうど長昌か棚倉から入部する途中に、最初の曳山神祭に会われたと伝えられています。
 「赤獅子」が製作された経緯は前述のとおりです。つまり、藩主水野公の末ころ、刀町の石崎嘉兵衛という人が伊勢参宮の途次、京都で祇園山笠曳きの光景を見て帰り、自分で土や竹や木などでいろいろと工夫を凝らして山笠を造って楽しんでいました(越後獅子の面に動機を得たとのことです)。これを見た町内の人々がおもしろいことだと言って、大木小助らをはじめ、協同で造りあげたのが現在の刀町曳山「赤獅子」であり、唐津曳山の第一祖なのです。
 これを筆頭に、明治9年に至るまでに15台の曳山が次々に数年おきに造られましたが、明治22年のころ第9番の紺屋町曳山「黒獅子」か破損して姿を消し、その後復活しなかったことは誠に惜しいことです。
 元祖刀町曳山「赤獅子」をはじめ、曳山はすべて竹や木などの骨組みの張り子漆塗り、すなわち一閑張りでできています。
 神祭に曳山を曳く理由は、次のとおりです。まず、根本的な考えかたは、曳山は氏神である唐津神社の神輿に供奉するために曳くのです。この考えかたは昔も現在も変わりません。
 次に、町民の武士に対する階級的示威運動として曳山を曳くようになった、という説もあります。つまり、町民が武士階級に対する一種の腹癒せとして曳くようになったということですか、当時の世相から推して断定はできません。しかし、その当時、この曳山を明神社前から明神横小路を経て大名小路に曳き出て、日ごろは低頭平身して通っていた大手門を意気衝天の勢いで喚声をあげて曳き出るときの町民たちの心中には、一年間の鬱積をこの一日に晴らそうとする底意があったものと思われます。神輿のお供であるという観念が充分に彼らを支配して許された日であるとは言え、流れる群集心理は封建制度に対する一種の腹癒せでもあったにちがいありません。






次のような新聞記事・神社の社報があります。


刀町山笠の原型獅子頭
   製作者石崎家に代々伝わる


唐津名物の文化財山笠群中の一番山笠赤獅子の原型「獅子頭」がこのほど判明した。その持ち主は市外浜崎にある教護施設虹の松原学園に住む、同園長代理川崎沙助氏(38)で、氏の語るところによるとこの獅子頭は氏の令関佐和子さんが、玉島にいる厳父石崎藤三郎翁(76)から譲られたもので、形は木彫の二本の角、そり耳の、高さ、幅ともに二十センチ、下あごが離れるようになっている獅子頭で、初めの塗り色はわからぬが時代で黒ずんでいる。
 今までの調査に上ると刀町の赤獅子は文政二年刀町の石崎嘉兵衛さんが、伊勢参宮の帰途立ちよった京都祇園の山鉾にヒントを得て製作し、これを唐津神社に奉納したと伝えられその刀町山笠を製作するに当ってこの原型をこしらえたものといわれている。石崎家は代々唐津領六万石のうち二万石を酒を造っていた家柄で、前記藤三郎翁は嘉兵衛さんから三代目に当るなお記録によると嘉兵衛さんは呉服町の山笠義経の兜も製作奉納しているが、製作者不明の本町の山笠金獅子、魚屋町の山笠鯛も同人の製作奉納したものと藤三郎翁は語っている。
特にこの原型は写真でもわかるように上部半分は中町の山笠青獅子、下半分は刀町をこれによって作ったことも確認される。
 
昭和38年4月12日 唐津新聞
 
 
赤獅子原型発見
 四月十三日玉島石崎藤三郎様お宅から唐津一番山笠赤獅子の原型が発見された 之より先昭和三十三年八月既に神社より同家に趣き原型のことに付き親しくお話しを承たのであるが同家は唐津大町年寄の家柄であられるので今一度お伺いして許しくこの原型のことのみならず唐津神祭の古い事柄等を調べて次号に其の記事を発表したいものだと思っている。
  唐津神社社報 第6号  昭和38年 4月27日発行

 
 


さてここで問題になるのが石崎嘉兵衛さん

石崎嘉兵衛を考えてみましょう。(平成30年11月5日より以降加筆

末盧国(昭和56年6月20日刊)
石崎嘉兵衛と浄土寺の仁王像  近世 常安弘通

浄土寺の仁王像  赤獅子の作者と同一人

石崎嘉兵衛

 石崎嘉兵衛という人物は、古文書などにも、名前が見えず、果して実在した人物であるかどうかも疑問視されていた。言い伝えによる江戸時代に菊屋の屋号を持った刀町の豪商の出であるくらいのことだった。今回仁王像の背面刻字によって実在の人物だとはっきりしたわけである。
 江戸後期から伝わる国重要民俗文化財に指定されている唐津くんちの曳山で、一番山の刀町赤獅子の作者は従来漠然と刀町住の石崎嘉兵衛と言い伝えられて来た。
 ところが、唐津市西寺町の浄土寺(永禄十一年〜一五六八年開基)が本年二月、倉に眠っていた仁王俊二体の補修を奈良市の仏像修理師中西盛二さんに依頼したところ、一方の像(阿形のほう)の背に「文化十三年−唐津刀町石崎嘉兵衛清堅作之−」と刻まれていた。この人こそ、刀町赤獅子の作者と同一人である。
 これまで名前以外には素性が判らなかっただけに関係者は大よろこびである。
 浄土寺の仁王像二体を奈良に運び、修理のため背面に打ちつけられていた杉板を取りはずしたところ「唐津刀町住石崎嘉兵衛清堅作之」と彫りつけた銘文があった。
 曳山「赤獅子」は文政二年の作と赤漆で書いてあるところから文化十三年は赤獅子が唐津神社に奉納された文政二年の三年前であることもはっきりした。
 
 
   仁王像の材質は楠で、高さ一b六〇、幅八〇誓。初めは極彩色であったらしいが、長年月のため風化して彩色はわからなくなっている。

  銘文に
 文化十三丙子年初秋吉祥日湛然山現住吉擧顕瑞上人代細工唐津刀町住石崎嘉兵衛清堅作之とはっきり彫ってある。

 
   
 

 さてここで重大な文書が登場
文政2年12月幾久屋儀七の名前の中ノ菊屋の文書であります。

中ノ菊屋、文政2年の当主は喜久屋儀七と言うことが分かります。では嘉兵衛はどこに行ったのでしょう。儀七の孫が嘉兵衛であります。菊屋の角樽をお見せしましょう。
裏に石崎嘉兵衛と書いてあります。この角樽は何を語っているのでしょうか。

中ノ菊屋の末裔の方の話では嘉兵衛は儀七の孫だとのこと。
ますます謎が深まる一方です。系図を見せて貰って考えてみようと思います。

 
   
   
   
 
 ここで面白いサイトをご紹介。

その前に
唐津の常識

刀町の石崎嘉兵衛がお伊勢詣りの帰りに京都に立ち寄った際に、京都祗園祭の山鉾を見物、それをヒントに赤獅子を制作したといわれる。

しかし現在の京都祗園祭に刀町の赤獅子を髣髴させる山鉾・山車は見当たらない。
お伊勢詣りのの帰りという事をヒントに探してみると、面白いものに引っかかった。
仁藤の大獅子である。


天然寺の角を北へ進むとすぐに仁藤大獅子保存小屋に至る。ガラス越しに大きな獅子頭が見えた。有名な仁藤大獅子の獅子頭であろう。 

 案内板によると、
 掛川の大獅子 今より約三〇〇余年前、掛川市仁藤町にある天然寺の名住職帆誉覚在上人が伊勢の国を御巡錫中、たまたま白子町(三重県鈴鹿市)で二メートル四方余りの大獅子の頭を車に載せ、短い母衣をつけ町中を引廻しておりましたものを見られ、「この動かざる大獅子を動かしむるには吻や興深きものならむ」と語られ、度々の失敗に不可能視されたものが、名匠の妙技と工夫とに依って作られたもので、耳の長さ1.20メートル、眉毛の長さ85センチメートル、円周1メートルの金の宝珠を戴く大獅子頭に、670平方メートル近い母衣を体とし、頭を操縦するものが十四人、母衣内にはタンポをつけた竹竿にて百余人の人足が母衣を張りささえ、尾には尾引きと云って若者が四、五十人、頭の十四人と呼吸を合せ進退し、西側に揃いの獅子法被姿の青年の三十人が紅白に別れて、獅子の進退の警戒に当り、この外二〇人の竹法螺吹きがその間に点在してボーボーと吹く法螺声は獅子の怒号に以て遠く響き渡り、大篝火を点じ拍子木を合図に凄壮な大太鼓の舞曲に合せ、総勢200人を要する小山の如き怪物の大乱舞のさまは、70センチメートルの大眼球が焔の如く爛々と輝き、物凄きこと限りなく見る人をして感歎せしむるものであります。
http://kinosan.fc2web.com/hu5315b.htm



白子の大獅子をモデルにした仁藤の大獅子だが、形が違う。大獅子を車に乗せ、短い母衣をつけてという形ではない。
この記述は刀町の赤獅子にそっくりではないか。
白子にはその獅子は残っていないそうだが、時代も石崎嘉兵衛が文政二年以前にいお伊勢詣りで遭遇する事が可能である。



文政二年頃の記録に「文政2年9月明神様付添申候町々の引物など所々に出来申候 先づ、此度新二出来候町々ニハ 刀町 獅子の首此首の中にて囃もの等致し申候」とあり、赤獅子が「獅子の首」と表現されている。
                             (唐津市ポータルサイトより

浄土寺の仁王像を彫る程の器用な中ノ菊屋(造り酒屋)の主、石崎嘉兵衛は、信心深く、ある年お伊勢詣りの途中で見てきた白子の大獅子をヒントに獅子の首をこしらえたと言うことで私の心の中では落ち着いた。


令和元年5月5日、刀町赤獅子の弐百年記念奉曳がある。新元号を祝う意味もある。
そのお目出度い日に石崎嘉兵衛に近づけたような気がする。