刀町 赤獅子考
![]() |
唐津くんちを語る上で、一番話題になる一番曳山赤獅子
赤獅子の起源を探るべく、様々な資料を照らし合わせて文政2年にタイムスリップしてみたいと思います。
その前に、赤獅子ができる前のことを少々。
昭和35年10月1日発刊の唐津神社社報第一号によれば
唐津神社由緒 御祭神 一ノ宮 住吉三神 底筒男命(ソコツツオノミコト)、中筒男命(ナカツツオノミコト)、表筒男命(ウワツツオノミコト) 二ノ官 神田宗次(コウダ ムネツグ)、相殿 水波能女神(ミズハノメノカミ) 神功皇后三韓を征し給ふや、西海茫々として一望際なく舟師向ふ所を知るに由なし。時に皇后「願くば一条の舟路を示せ」と住吉の三神に祈り給へば間もなく風波治まり、凱旋の後神徳著しきを感じ松浦の海浜に鏡を捧げて三神を祀り給ふ。然るに其後数百年を径て漸く衰頽し社殿自ら廃滅に頻せんとする時恰も孝謙天皇の御宇地頭神由宗次一夕神夢を得て海浜に至れば、一筐の波に浮び来るあり。之を採りて開けば一宝鏡なり。これ正しく皇后の祀り給ひし宝鏡ならんと驚き敬ひて時の帝に奏聞す。朝廷神徳を感じ詔命を下して「唐津大明神」と賜ふ。時に天平勝宝七年九月二十九日なり。爾来郷党の崇敬加はり文治二年神田広に至り社殿を再建し、祖先神田五郎宗次の功を追慕し其の霊を合祀して二の宮とす。文安六年領主波多三河守親田地を寄進して尊崇す。 慶長七年寺沢志摩守広高唐津築城に際し現在地に社地を設定し、社殿を改築し領内守護神として崇敬せり。且つ城下の火災鎮護として水波能女神を相殿に勧請す。その後大久保、松平、土井、水野、小笠原の各藩主も祈願所と定め、広く領内の総社として益々崇敬せり。 明治六年郷社に列し唐津神社と改称す。其の後境内拡張、社殿の総改築成り昭和十七年県社に昇格す。 戦後杜他社殿旧に変ることなく四時祭礼も怠ることなく、杜頭愈殷賑なり。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ということであります。 つまり 天平勝宝7年(755年)に唐津大明神の神号を賜る。 文治2年(1186年)に神田宗次を二の宮とする。 文安6年(1449年)に波多三河守が寄進。 そして徳川の代になり、唐津の城下が形成され、 それまでは汐の先にあった社殿を慶長7年(1602年)になって寺澤志摩守が現在の地に移したとされています。
赤獅子ができるまでの記録を年表にしてみました。
赤獅子が誕生する前までの様子はこんなところでしょうか。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||
さて、いよいよ本題の赤獅子に入っていきましょう。 先ずは唐津曳山三大資料をご覧下さい。
次のような新聞記事・神社の社報があります。
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||
赤獅子原型発見 四月十三日玉島石崎藤三郎様お宅から唐津一番山笠赤獅子の原型が発見された 之より先昭和三十三年八月既に神社より同家に趣き原型のことに付き親しくお話しを承たのであるが同家は唐津大町年寄の家柄であられるので今一度お伺いして許しくこの原型のことのみならず唐津神祭の古い事柄等を調べて次号に其の記事を発表したいものだと思っている。 唐津神社社報 第6号 昭和38年 4月27日発行 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||
さてここで問題になるのが石崎嘉兵衛さん
石崎嘉兵衛を考えてみましょう。(平成30年11月5日より以降加筆) | ||||||
末盧国(昭和56年6月20日刊) 石崎嘉兵衛と浄土寺の仁王像 近世 常安弘通 浄土寺の仁王像 赤獅子の作者と同一人 石崎嘉兵衛 石崎嘉兵衛という人物は、古文書などにも、名前が見えず、果して実在した人物であるかどうかも疑問視されていた。言い伝えによる江戸時代に菊屋の屋号を持った刀町の豪商の出であるくらいのことだった。今回仁王像の背面刻字によって実在の人物だとはっきりしたわけである。 江戸後期から伝わる国重要民俗文化財に指定されている唐津くんちの曳山で、一番山の刀町赤獅子の作者は従来漠然と刀町住の石崎嘉兵衛と言い伝えられて来た。 ところが、唐津市西寺町の浄土寺(永禄十一年〜一五六八年開基)が本年二月、倉に眠っていた仁王俊二体の補修を奈良市の仏像修理師中西盛二さんに依頼したところ、一方の像(阿形のほう)の背に「文化十三年−唐津刀町石崎嘉兵衛清堅作之−」と刻まれていた。この人こそ、刀町赤獅子の作者と同一人である。 これまで名前以外には素性が判らなかっただけに関係者は大よろこびである。 浄土寺の仁王像二体を奈良に運び、修理のため背面に打ちつけられていた杉板を取りはずしたところ「唐津刀町住石崎嘉兵衛清堅作之」と彫りつけた銘文があった。 曳山「赤獅子」は文政二年の作と赤漆で書いてあるところから文化十三年は赤獅子が唐津神社に奉納された文政二年の三年前であることもはっきりした。 |
||||||
|
||||||
|
||||||
さてここで重大な文書が登場 文政2年12月幾久屋儀七の名前の中ノ菊屋の文書であります。
中ノ菊屋、文政2年の当主は喜久屋儀七と言うことが分かります。では嘉兵衛はどこに行ったのでしょう。儀七の孫が嘉兵衛であります。菊屋の角樽をお見せしましょう。 裏に石崎嘉兵衛と書いてあります。この角樽は何を語っているのでしょうか。 中ノ菊屋の末裔の方の話では嘉兵衛は儀七の孫だとのこと。 ますます謎が深まる一方です。系図を見せて貰って考えてみようと思います。 |
||||||
|
||||||
ここで面白いサイトをご紹介。 その前に 唐津の常識 刀町の石崎嘉兵衛がお伊勢詣りの帰りに京都に立ち寄った際に、京都祗園祭の山鉾を見物、それをヒントに赤獅子を制作したといわれる。 しかし現在の京都祗園祭に刀町の赤獅子を髣髴させる山鉾・山車は見当たらない。 お伊勢詣りのの帰りという事をヒントに探してみると、面白いものに引っかかった。 仁藤の大獅子である。
白子の大獅子をモデルにした仁藤の大獅子だが、形が違う。大獅子を車に乗せ、短い母衣をつけてという形ではない。 この記述は刀町の赤獅子にそっくりではないか。 白子にはその獅子は残っていないそうだが、時代も石崎嘉兵衛が文政二年以前にいお伊勢詣りで遭遇する事が可能である。 文政二年頃の記録に「文政2年9月明神様付添申候町々の引物など所々に出来申候 先づ、此度新二出来候町々ニハ 刀町 獅子の首此首の中にて囃もの等致し申候」とあり、赤獅子が「獅子の首」と表現されている。 (唐津市ポータルサイトより) 浄土寺の仁王像を彫る程の器用な中ノ菊屋(造り酒屋)の主、石崎嘉兵衛は、信心深く、ある年お伊勢詣りの途中で見てきた白子の大獅子をヒントに獅子の首をこしらえたと言うことで私の心の中では落ち着いた。 令和元年5月5日、刀町赤獅子の弐百年記念奉曳がある。新元号を祝う意味もある。 そのお目出度い日に石崎嘉兵衛に近づけたような気がする。 |
||||||