「母校百年史」より


第二五
  思い出の座談会

  昭和五十年三月二十二日
 永江金之助氏訪問



  永江金之助翁の弟、永江雅雄先生(東高校教諭)の案内で、司会の岩下忠正は、田中志道小校長と共に永江翁の枕頭で翁と対談した。何分高齢で、体も弱っておられ、記憶も薄くなっておられるところもいくらかあったようである。
 以下その対談の概略である。

司 「学校の場所はどこでしたか」

永 「場所は福岡銀行の処一帯だったんだ、役場と小学校は続いていた。今の大越と福銀と信用金庫の間で、校舎はそこにあった。」

司 「男女は?」

永 「男女は分かれていた。尋常小学校は全部一ケ所にあって、男女は別教室であった。高等小学校は、(今の市体育館附近)川沿いに石炭倉が四つぐらいあって、二つが男子用、他の二つが女子用であった。古くて虫が食っていた。町に金が無かったのでしょう。それから辻薬店の前が蓮池で、その上に木下愛文堂があった。」

司 「石炭小屋は高等科だけですか。」

永 「そうだ。」

司 「一クラスは何人ぐらいでしたか四十人ぐらいでしたか。」

永 「そうだ。尋常小学校は、今の裁判所の前の学校に行った。」

司 「その時の校長は誰でしたか。」

永 「高等小学校は大川校長で、尋常小学校は関根義幹(錬松)だった。」

司 「印象に残ったことは。」

永 「私の頭に残っているのは田辺ギカンとか田辺さん‥‥‥ようわからんなあ…。」

司 「服装は? 袴をはいていましたか。」

永 「袴はない。普段衣(ふだんぎ)だったよ。真冬でも素足で草履(ぞうり)ばきだった。」

司 「遠足や運動会はどうでしたか。」

永 「遠足は、松原ぐらい迄は行っていた。運動会は、今より規模が小さく、運動器具等なかった。」

司 「お友達はおられますか。」

永 「青木嘉三治が居る。兵学校に入ったと、思う。女では、麻生君の妻君ぐらいだった。男女一緒に遊んだことはない。」

司 「永江さんは、尋常四年から高等科に進まれ、高等何年から中学に進まれましたか。」

永「尋常は四年までで、高等三年から中学に行った。唐津から人材が出ないのは、学校制度が悪いので(唐津に上級の学校がなかったこと)唐津も偉い人が出たろうが、佐賀とか福岡に行く人はなかったので、人材が出なかったね。」

司 「小学校で、国語、算術、その他どんなものを教えていましたか。」

永 「習字・読書・算術・地理・歴史など簡単なもので音楽は駄目でしたね。図画・手工はあったが、まねかたぐらいでしたね。」

司 「学校の教室の区切りはどうでしたか。」

永 「壁で区切られ、窓は硝子でした。」

司 「弁当はどうでしたか。」

永 「日の丸弁当が多く、ブリキ製の容器だった。」

司 「教室では、町のモンと一緒でしたか。」

永 「町の者の方が幾分いやしく、と、言うとおかしいが、謙遜しているような態度で、城内の者の方が、位がちょっと高いように思われたね。」

司 「私達の時(大正時代)でも、城内は、「城内の人」、町方は、「町のモン」と言っていましたからね。」

永 「今でも私が思うのは、唐津から偉い人が出ないのは、教育に熱心でなかった為と思う。今日でも佐賀・福岡のように偉い人が出ないのは、その為だと思うね。」

司 「その頃の卒業証書や、成績は?」

永 「成績は甲乙丙丁だった。」

司 「女の先生はいましたか。」

永 「女の先生は、西脇先生、城内東の大西、山田のお母さん、春日、大八木などが先生で、女の先生は、下駄ばきで袴をはいていました。唐津小学校は、運動にも力瘤を入れなかったので、今でもその余弊が続いて、よそに行っても何も出来ないし、学校の先生で気のきいた運動を教える人もなかったので、生徒も元気がなくグズが多い。よそへ出る者も少く、入試もー度失敗すると、あきらめて店の番頭等に入ってしまう。」

司 「奥村五百子さんを御存知ですか。」

永 「よくは知りませんが、私よりずっと年上で、豪傑でしたね。高徳寺から平戸に嫁に行って、唐津に帰って来て本町で娘さんがお茶屋をしていました。」

司 「志道小学校のところにあった監獄はどうしていましたか。」

永 「周囲は高い壁でした。今の文化会館や曳山会館は松林でした。」

司 「唐津神祭や町の祭りはどうでしたか。」

永 「曳山見物に行きましたよ。唐津の亥の子もありました。笊を担いで田舎から買物に来ていた。各町に亥の子様が祭られていて酒を振舞っていました。
 子供の組長が居て密柑とか柿とか菓子等を貰っていました。通る人に物をせびって、何もくれないと通さなかった。そして、貰ったものを子供に配る時は、組長が一番多くとっていたようでした。
 此の頃まで百人町ではあっていたようです。それに、子供の遊びにドンド焼があったね。松浦川の川原で、松をくべて 『ドンドヤー』と言ってやっていましたヨ。
 子供が集まってやっていたことは、それくらいですね。
 百年史を作られるのは非常に有意義なことですので是非記録をよくとって人物等もよく記録にとっていて下さい。
歴史を軽ずる所は衰えるし、重んずる所は盛えると思いますので、お願いしておきます。」

 (永江金之助翁は明治廿九年高二修了、九十歳で昭和五十年八月二十六日逝去された。)



  第一回 座談会 (明治時代) 於 彰敬舘

 昭和五十年三月三十一日
 出席者 青 木 憲太郎(明三二 高二修)
      高 田 重 男(明四四 高三修)
      山 口 栄次郎(明四三 高三修)
      古 館正右工門(大 二 尋六卒)
      平 田 常 治(明四〇 尋六卒)
      山 内 イ サ(明三八 高四卒)
      加 茂(浜田)エツ(明四〇 高二修)
      岸 川(戸川)道子(大四 尋六卒)
 司 会 岩 下 忠 正


第一回座談会出席者


 開会前雑談

 十人町の小学校は大草銃兵工の塾です。その塾が、大石町の福島酒屋の裏の倉で、それが後に私立幼稚園となり、大草さんが経営され、そこに奥村五百子さんの姪のきぬさんが保母さんでした。今、済生会に入院されています。大草さんの娘さんが幼稚園に居られて、今浜崎の瑞雲寺の坊守さんでサツキといって保育園の保母さんでした。

第一回座談会


青木 「私等は五百子さんから怒られたことがある。小学校時代、お寺で話があって、前の方に居て悪戯をしていたら、目から火の出るごて怒られた。」

司 「言葉は唐津弁でしたか。」

青木 「唐津弁でしたよ。五百子さんの弟さんが居られましたね。」

古館 「唐津高等小学校が、今の体育館の所にあって、初め米倉小学校と呼ばれていた。その後石炭倉になり、後、商業学校が建ち、今の体育館が出来たのです。あそこに石炭を揚げていたもんネ。」

青木 「石炭を運んだのは、満島の川舟だったネ。」

司 「今日唐津の実業家の先祖の人で石炭を川舟で運んで儲けた人がおられるそうですね。山で石炭を積んで舞鶴城の下の石炭倉庫に入れるのだが、石炭は安いし、運賃は倍ぐらいだったので倉庫も満腹となって、待つ時間が惜しく鳥島辺の海中に捨てて、また積みに行ったそうです。それで西ノ浜や、満島の浜に石炭が打ち上げられ名物の石炭拾いが盛んになったのだそうです。」

山口 「芳谷炭坑のあたりまで川舟で満島の人が積にみ行っていた。私の家の裏から積みに出ていました。」

青木 「帆前船は姉子の瀬の沖に泊め、石炭を団平船で運んで積み込んでいた。そこから大阪や神戸に運んでいた。私の家の屋号は権現丸で観音丸とか、恵比須丸とかあるが、これは皆、大阪通いの船の名でその持主の屋号になっていた。備後の靹には、船の常宿などがあった。川舟は松浦橋附近に繋ぎ団平船はその近くにつないでいた。あの頃は大きな船で、川の中は一杯で、船が繋がっていた。
 小学校の時、昼めし食いに満島まで走って帰る時、汐がひいていると、材木町裏が州になっていたので、近道するために橋まで州を走って行き、橋を渡っていた。火力発電所跡の大きな高い煉瓦煙突の裏の所から満島の方へ、石垣の舟付場があった。
 石炭のことを九大の檜垣教授が調べに来た。船宿は山崎の所で、石炭会社の重役であった。観音丸は、吉村茂三郎先生の奥さんの家です。

司会 「では只今から座談会に移ります。」

加茂 「私たちまでが、尋常四年、高等四年でした。それで高等二年終了で女学校に入学しました。」

司 「その頃の唐津小学校のことをお話し願います。」

山内 「私が入学しました学校は、今の裁判所の前で、小さいものでした。幼稚園もありましたので、幼稚園にも通いました。四年生の途中で、今の市役所に新校舎が出来たので、それに移りました。」

司 「幼稚園は外に二個所ありますが」

山内 「私は、小学校の中に幼稚園があって、そこに通いました。先生は、兼子先生と古市先生などの先生が居られました。」

司会 「その頃の服装はどうでしたか。」

山内 「着物で帯を締めて髪はお下げでした。高等科の人等には桃割などで髪を結った人がありました。」

司会 「青木先生が唐津小に通われる時はどうでしたか。」

青木 「私等の時は、袴などは満島では、はいていなかった。そして唐津小は、士族の人が多かったから、「貴様などは…」などと云われて満島の者は、差別待遇されていた。それが残念で残念でね。満島は石炭運びの川舟の船頭と漁師の町だったからね。そして公園の下に石炭運輸会社があったからネ。山崎が社長だった。私の家などは川舟で芳谷炭坑あたりから石炭を積んで来て、それを勘定して、それを大きな船に積む仕事でね。積んだ石炭は大阪方面に運び、帰りに雑貨などを積んで帰えり、川口あたりで小売店に売ったものだった。それで売れ残りの品を納めるので家は総二階です。倉庫ですからね。観音丸などもそうですね。」

山口 「満島の者は、そんな風ですから反抗心が強くてね。方言なども 「ワガ、ナンナ。」 と、云うので満島の者のあだ名になって、ひやかされていました。
 それで、体育・競技や学問でも 唐津ンもんに負くるもんかと、負けん気が強く喧嘩腰も腕力も強かったですね。通学路の関係もあって、外町とは仲がよかったが内町や城内とはどうしても対坑意識があったね。」

青木 「満島からは、神田安雄、秀雄など、一番で出た男があったね。神田は平均九十五点をとっていたね。その次が渋谷組と云うのがあったね。次が山崎元幹等の私達の組だったが劣等組と云われていたがね。山崎は、後に満鉄総裁になったから劣等組から満鉄総裁が出たわけだね。非常に豪毅な男でね。」

山口 「昼めしの時などは、材木町裏の州を走って家に帰えり、又走って学校に戻っていた。」

司会 「女の方で憶い出はありませんか。」

山内 「新しい唐津小学校は男女に別れていて校舎は、男女三棟づつ六棟ありました。終る迄の構造と同じでした。古い唐津小学校(裁判所前の)は、一棟で運動場もありませんし、学校の周囲は板塀を囲らしてあり、窓は障子でした。町の中でしたから、高等科は公園下(今の体育館附近)の倉庫の学校に行っていました。私の姉も高等科は、公園下の倉庫の学校に通っていました。(石炭倉庫になったこともあって石炭学校と呼ばれていた)私も親から「高等科になったら公園下まで行かんならんよ。」と、云われていましたが、四年の時、今の市役所の所に新しい校舎が出来て尋常科も高等科も新校舎に通うようになりました。」

司会 「弁当などはどうでしたか。」

青木 「柳ごうりのような物に入れて行ったが臭くてね。アルミニウムなどは大分後のことでね。アルミニウムの前にホーロー引きの弁当箱もあったね。芋飯等も持っていったが、美味かったですよ。」

山内 「私等は昼あがりは帰っていました。後では学校の近くでも弁当を持って行かにゃならんようになりました。」

岸川 「自分の家から必ず持って行っていました。持って来ないと罰で食べずにいました。帰ることは許されませんでした。町の人は、お昼炊きでお母さん達が昼頃持ってきて弁当棚に置いて行かれましたね。そのお母さんの姿が憶い出されますね。廊下に弁当棚が二段にありました。」

山内 「弁当が時々なくなることがありましたね。」

司会 「大川校長先生の思い出は如何ですか。」

青木 「高一・高二の二年間ですが、何となく偉大な人でしたね。自然に頭の下る人でした。」

高田 「私は、一時間補欠授業を習いましたが今でも忘れられませんね。教え方も上手でしたね。」

山口 「大川先生は、神様のような人でしたね。」

平田 「威厳のある人でした。」

古館 「在職中病気で倒れられましてね。丸山先生が黒崎小学校(今の佐志小)から再び来られました。」

平田 「担任の先生が休まれると、代りに大川先生が来ておられました。」

古館 「いつも黒の詰襟で、肖像写真のとおりでした。」

山内 「私達の時は、女学校はまだなかったので、高等科卒を入れる補習科(生徒数十三、四名位)と云うのが講堂でありまして、大川先生からそこで教わりました。」

青木 「偉大なる人格者だった。と云う印象が子供心に焼きついていますね。次が丸山金治校長先生でしたね。とても真面目で親切な人でしたね。然しスケールから云えば断然大川先生が大きかったね。」

山内 「補習科は一年間、大川校長先生から習いました。」

司会 「他の先生の憶い出はどうです。」

青木 「皆(み)んな同じだろうが、松下先生とか、佐々木先生とか偉かったネ。師範学校は出ていなかったがね。」

山口 「私達は佐々木先生から高一(今の五年)で教わりました。高等二年の時は乙組で代用教員の先生が次々と代りました。白石先生、城内の小川先生、中山松太郎先生、瀬戸勲先生と五人ぐらい代られました。然し甲組の方は二年間ずっと鶴田先生が一人で担任されたので、非常に成績もよく、中学校の入試も、甲組は、井口、栗田などは、高二年から入った。乙組は一人も入らなかった。」

青木 「私はその時入試を受けたのですが、周りの人は大きな人ばかりで、「出来た。出来た。」と、云うので、私は「とても駄目だ。」と、思って、松原の招魂碑のところに逃げていました。落第したと思ってね。ところが後で見に行ったら合格していたがね。「こやん、こまかつが入っとる。」と、云われてね。」

古館 「長崎の私立などに行った人もありますね。」

司会 「松下先生の思い出などはどうですか。」

青木 「大変面白い人だったね。丸山校長を『丸山が……』と、呼び捨てにされていた。教室でも股火鉢で、きせるで煙草を吸いながら教えて、生徒をよく殴っていたね。和服でしたね。」

古館 「私達の時は、洋服着とらしたですがね。いつでも洋服の下から三つまでの釦は、はずしておらした。 −笑 − 皆、許していたね。」

山口 「面白い変った先生で忘れられない人ですね。」

山内 「私は高等科の時に習いましたが、教室で教える時も立たしたことは一回もなく股火鉢で椅子に腰かけて教えていらっしゃったですね。」

平田 「名前が松下達太郎だったので『達ちゃん先生』と、親しみの綽名をつけて呼んでいました。」

岸川 「帰りには、よく玄関の横の松の木に立小便をされていましたね。」

青木 「石井先生は真面目一方の人でしたね。一方松下先生は、生き葬式を出したような型破りの先生でしたからね。」

山口 「女の先生で福井キヨ先生と云う人が、高等三年の時、唱歌を教えられていたが、その頃、例の『自転車節』が流行していたので、机の硯を入れる方の小さい蓋を鳴らして、「チャラチャラチャラと出てくるは福井……、」と、歌ったら、それから唱歌の時間には来られなくなった。その張本人は、呉服町の畳屋の佐伯源六君だった。非常に済まんと思っています。」

平田 「私は福井先生に二年の時教わった。」

司会 「栗田先生の憶い出は如何ですか。」

青木 「これはね、先生を忘れない為に、教え子達が「素明会」というのを作ったね。栗田素明と云う名からとった会だが、後には栗田と同級の私や稲石君や山岡君等も入会したね。長い間続いたね。入野小学校に在職中、山を崩している作業中、土砂崩れで公職に殉じた人だが、この時、生徒も一緒だったが、負傷した生徒達は、病院で先ず先生はどうされたかと尋ねたくらい生徒から親しまれていた。このくらい先生は生徒を、生徒は先生の身を案じていたように、師弟が一心同体になっていたことは、本当の教育が行われていたと思うね。
 また、体操の時など浜で生徒と相撲をとって、生徒のレベルに合わせてワイシャツも破って一生懸命に生徒と一緒に遊んでいた。然し、生徒が悪い時は、殴っていたがその時、先生の眼には涙が流れて、泣きながら生徒を打っていた。それで生徒も改心して「栗田先生が一生忘れられない。」 と云っていた。
 生徒の中に医師が居ますが、先生が土砂崩れで負傷された時、その医師の所に担ぎ込まれたが、医師は「自分は薮医者だから福岡の九大病院に行って下さい。」と、云ったそうですが、栗田君は、「いや、俺は、お前で満足だ、ここでよい。」と云って、満足してそこで亡くなった人でね。
 私は小学校の時、机を並べていたからよく人物を知っています。先生たるものは、斯の様な愛情が、生徒には斯の様な尊敬が大切で、今日はこんなものが欠乏していると思うな。
 物を教えるだけでなしに、こんな先生が望ましいね。
 第一回の港祭りの時にはね、生徒が栗田先生をリヤカーに乗せて、見物に廻っていましたよ。
 また或る時に僕が家内と歩いていると、寝棺を担いで火葬場に行く一団の人々と遭ったんですよ。僕はフト栗田じゃないかと思ってね、近ずくと、栗田に教わった生徒が、その時はもう三十か四十歳ぐらいになっていたろうが、教え子が棺を担いで火葬場に送っていました。こんなことは、とても師弟愛の発露として、美しい事だと思いますよ。」

岸川 「栗田稔さんのお父さんの話ですね。西唐津駅の南の高台です。元は坊主町でした。今の志道の栗田先生のお父さんですね。」

青木 「師範学校出の先生が少なかったね。私が二十三歳で師範学校を出て唐津小学校に奉職した時は、師範出は丸山校長、脇山教頭と坂本正美先生ぐらいだったね。後になってドッと殖えたね。岡崎千代男、坂田茂、藤川岩右エ門、森猪之太郎等が一緒だった。女では塚本さぬき、山口先生、柴田(木下)キヨ、原田ハル、鯊(はぜ)釣りの好きな石塚先生なども居られたね。」

古館 「原の石倉先生は御存知ですか。気短かな先生でした。未だ御存命ですヨ。」

山口 「私は、明治四十三年卒ですが、長命者が多くて今日も四三旧友会の名の下で各家庭に毎月寄っていますよ。梅田三郎君が今度は当番です。十人以上居ます。松下弁護士、牟田信一、古賀達郎、村瀬、大橋儀一、落合、白井ハマさんの兄さん。」

司会 「その頃の先生の綽名を教えて下さい。」

岸川 「一で石塚電信棒、二で仁戸田のらんきょ頭、三で坂田の近眼鏡、四で柴田のお白粉べったり、五で石井のはげ茶瓶。」

平田 「六年の先生の坂本正美先生は山荒し、この人は荒かったね。」

古館 「生徒を二十人ぐらい並べて左ぎっちょで殴らしたっちゃけんで、痛か、痛か。」

青木 「私は六神丸とつけられていた。」

高田 「私ほ無かった。唱歌の先生と云われていた。」

山口 「芳賀先生の家に梅ちぎりに行っていたね。学校の裏だったもんね。」

司会 「三大節の模様はどうでしたか。」

山内 「紋付着て袴をはいて行きました。君が代を歌い、教育勅語を校長先生が恭々しく開いて、一同は低頭して聞きました。『朕憶フニ我力皇祖皇宗………でした。」

青木 「校舎は.一部から六部迄、講堂を挟んで建っていたが後で七部と二階建の八部が出来たね。」

山内 「廊下の板張りは女子部でした。四部から六部迄で、一部から三部迄は土間でした。七部は土間で、八部は
板張りでした。」

司会 「先生の教えで非常に心に残ったことはありませんか。」

岸川 「仁部田先生の憶い出が一番心に残っています。」

山内 「石井先生が高等二年から高等四年迄三年間受け持ってもらいました。私は七つあがりで体も小さく成績もよくありませんでしたが、石井先生に教わって成績も非常によくなりましたので一番印象深いです。三年間受け持ってもらいました。」

青木 「私は、小山先生が一番忘れられない。私が初めて優等生になった時の先生ですから。」

山口 「私は、佐々木先生ですね。」

高田 「私も佐々木先生ですね。二ケ年習いました。話が上手でした。」

青木 「野球を教えていましたね。大体ハイカラな先生でしたネ。」

高田 「話が上手でしたね。」

岸川 「仁部田先生は熱心でしたね。校長試験などの時、算術など、これでもか、これでもか、と何べんも教えて、成績の平均点が一番よい組になるように努力されていた。全員が十点とるように徹底的に教えられた。然し試験になると、二三人、間違う人がいて、この人達は、罰当番で掃除をさせられていましたが、私達は可愛想になって便所掃除など手伝って帰ったこともありました。」
加茂「私は松下達太郎先生が一番心に残っています。高等二年の時、横山欽次郎先生は真面目で師範を優等で出た人です。鶴田三市先生は師範では優等でなかったそうですが、世の中に出たら反対になられたですね。鶴田先生は熱心な方で解らない時は生徒を残して教えられていました。」

司会 「その頃の運動会はどうでした。」

青木 「運動場が狭くて生徒で一杯だったね。」

岸川 「父兄の見物席は、両側の廊下でした。一度に三十人位走っていました。女の服装は袴をはいたまま股立ちをとって走っていました。」

司会 「学芸会はどうでした。」

青木 「批評会と云うのがあったね。先生だけで、ある先生の授業を見て、後で批評するのだけどね。」

司会 「講堂の前に全校生が並び、その時、小さい黒板に絵を画いたり、作文を読んだりしていたでしょう。あれが学芸会のかわりだったでしょうね。」

岸川 「学習発表会だったでしょうね。作文の上手な人が作文を読んだり算盤の上手な人が算盤をやってみせたりしましたね。」

平田 「展覧会が講堂で図画・書き方綴方が貼られてあった。」

山口 「中学校の運動会の時、各小学校の対抗リレーがあっていて、それに出場していたね。」

司会 「高田先生、運動会の歌を歌って下さい。」

高田 「♪勇みにいさむ我が校の………合唱」

岸川 「この歌は戸川雅香の作詞であると聞いています。この歌は長松なども歌っていました。長松だけでなく、この附近の学校は、皆歌ったのと違いますか。」

司会 「その頃の遊びはどうでしたか。」

平田 その他 「ペチャ・凧・てっつけどま・根(ねん)がら・女はお手玉・縄跳び・瓦蹴り・場所取り等でしたね。」

司会 「学校の上り口でセキパンチョなどありましたね。温っていた。」

加茂 「女は廊下でしていました。」

青木 「教室の前に足洗い場があり、廊下の所には傘置場があった。」

高田 「大隈重信が来て全生徒が講堂に集り話を聞いたことを覚えています。私が高等二年か三年の時でした。大隈さんは町田の菊池家に泊られました。」

青木 「ほら貝を持ち、下刈りの鎌をステッキ代りについた柴六郎助という人の、木を育てる話も講堂でありました。今、日本で一番大切なことですよ。山林の育成をどうするかということは大問題ですよ。これを七山の緒形村長が真似をして七つの山に植林をやったのです。それが今日の七山村の造林ですよ。緒形村長は松下弁護士の奥さんのお父さんです。」

司会 「成績表はどうでしたか。」

山内 「優・上・中・下でした。あとで甲・乙・丙・丁になりました。」

司会 「高田先生、一つ校歌をお願いします。」

高田 「校歌の作詞は錦織先生で、作曲は私です。歌詞の二番は、文部省で一部修正されました。丁度、渋谷武夫先生が国学院大学に入学されましたので、先生に許可の手続の依頼をしました。歌詞は一部修正されましたが、曲の方は無修正で許可になりました。それが唐津新聞の第一頁に大きく出て大評判になりました。その後、方々から私に作曲の依頼が殺倒して来るようになりました。」

青木 「大島小太郎さんも唐津小学校としては忘れてはならない人ですね。この人は士族の一人息子で病弱だったために、両親が東京に出ることを許されず唐津に居られたので、唐津いや佐賀県の経済界を育てたのが大島さんで、総理大臣までなった高橋是清を唐津英学校(耐恒寮)に何と月給百円で引張って来て郷土教育に尽した人です。その頃、教員の給料は、四、五円位の時ですよ。高橋さんも「俺を雇うならその位の月給は出せ」と云ったそうだが、実は酒と女の借金がその位あったそうで、その借金の返済が終ると自分から五十円に月給を値下げされたそうです。たった一ケ年半の在職でしたが偉い教育者とその後援者があったものです。」
司会 「その佐賀銀行の前身の唐津銀行が、本町の角に建った時はどうでしたか。辰野さんが指導されたが、直接設計されたのではないそうですが。」

山口 「明治四十三年頃かな…濠の所に杭を打込んでいたのを覚えています。元は、唐津銀行は大石町の久保田病院の所にあった。」

山口 「志道館の門が大乗寺に移されていますね。」

岸川 「私は、明治天皇の崩御の時は尋常四年でしたが、その時 八島の岡の海かけて御稜威(いつ)輝く天つ日の、光をかくす黒雲の袖は涙の……」、外で全校児童が並んで御大葬の歌を歌いました。それから一年間喪章をつけました。」

司会 「大正天皇の時は、二月に御大葬があり導水堤で唐津小の他、町内の学校も一緒に雪のチラチラ降る中で 「地にひれ伏して天地(あめつち)に、祈りし誠(まこと)入れられず、如月(きさらぎ)の空春浅み、寒(さむ)風いとど身にはしむ。」 の御大葬の歌を歌いました。」

司会 「次に唐津供日(ぐんち)の模様はどうでしたか。」

山内 「楽しかったですね。寒うございましたよ、雪の降ることもありました。昔は朝早くから曳山(やま)を曳いていましたね。今は宵曳山(やま)ですが。」

青木 「曳(ヤマ)山囃子が満島まで聞えると、満島の若いもんもわくわくしていました。」

司会 「山廻りはどうでしたか。」

岸川 「大分変っていますね。塩屋町を通っていました。札の辻橋から見ると塩屋町の屋根越しに金銀丹青の曳山がキラキラ見えながら来ていたのを知っていると、叔父などが話していました。」

平田 「供日は、一日目は休みで、二日目は、登校するが、朝一時間ぐらいで真ぐ帰り、山曳きに行っていましたね。子供が曳かんと曳山が動かんもんですけんね。」

司会 「学校の前の掘でけがした事などほなかったですか。」

平田 「そんなことはなかったですね。然し私達の時は、警察の前から本町には掘の上に橋が架っていたですね。木橋で二間位の巾でした。私は米屋町ですけん、学校に行こうでちゃ、今ん市役所前から唐津駅さん行く大通りなんて、ほげとらんだったけん、刀町さん出て、右に廻って大手口さん出ていました。米屋町の突き当りは馬場という床屋でした。」

岸川 「大手口の、みの屋の所は石垣があって、武家屋敷でした。今の西唐津の方に行く国道は、後から出来た道で、浄泰寺の裏から近松寺の方に小さい通がありました。」

平田 「山曳の道順も大分変っていますね。昔は、浄泰寺前から名護屋口の関所の三段の石段を土嚢を積んで曳き
おろし、坊主町を通っていた時もあったそうです。
それから松露饅頭屋は『あわじや』と云って警察の前に藁屋根の家でしたね。横に剣道場があって……。」

岸川 「その隣りが石垣の中に突当りとなって道はなく、唐津病院がありましたね。古川さんという院長さんが居られました。今の平岡石油店の所です。」

青木 「佐賀銀行の所は掘でしたからね。」

平田 「私達の頃は、名家か財産家かお寺かでなければ中学校には入学しよらんだったです。」「あすこん人は中学校に行かすちゅうばい。』と、云ったもんですばい。昔の子供は、赤切れがきれる、霜やけで腫れる、青洟(ばな)はたらしっぱなしで、袖で拭(ぬぐ)うている風でしたばい。いさぎなもんでしたばい。頭は瘡(かさ)ボコの一杯できたもんやら、口をポカンと開いている子が多かったですばい。」

青木 「やはり栄養不足からくる一種の病気だったでしょうね。ロをあけているのはアデノイドだったでしょう。食生活が原因でしょう。トラホームも多かったですね。コレラも流行しました。町内で患者が出ると縄を張ってね。通行止めにしていました。丁度イルカが二百頭ばかりとれた時でした。二三人で抱いてとってくるんですがね。イルカは涙を流して泣くんですよ。それでコレラが流行(はや)ったと聞きました。あのイルカを生で食べたんでコレラになったのでしょうね。死亡者も多かったでしょうね。」

山内 「あの時葬式などに合うと、走って家に帰っていました。」

岸川 「大正七年でしたかコレラが流行った時は、小学校は弁当を持って来ることを禁じられました。許されても梅干と胡摩塩弁当だけが許されました。」

山口 「私は日本海々戦の時、浜に出て「ドーン、ドーン」と云う音を聞いて『こりゃ大砲の音ばい』と云って聞いたことがあります。」

平田 「日本海々戦の海軍記念日は、五月二十七日で、陸軍の奉天入城の陸軍記念日は、三月十日でした。」

司会 「その陸海軍記念日は、学校でどんな行事があっていましたか。」

岸川 「陸軍記念日は、衣干山に駈け足で山登りでした。海軍妃念日には、大川先生の娘婿の坂本須賀雄海軍中佐の講演などがあっていました。両方とも学校の授業は休みでした。」
山内 「日露戦争で勝った時は、提灯行列をしたことを覚えています。」

平田 「♪日本勝った。日本勝ったロシヤ負けた。 と歌って行列しましたね。」

岸川 「日独戦争で青島(チンタオ)陥落の時も提灯行列に出たことは覚えています。」

司会 「貴重なお話を長時間お聴かせくださいまして有難うございました。」



 第二回 座談会(大正時代) 於 彰敬舘

昭和五十年四月二十一日

出席者 平松 栄一(大正四年卒 元材木町居住)
    牟田 岩雄(大正八年尋卒 本町、元大成小校長)
    神田一馬(大正十二年高二卒 船宮居住)
    坂本(富永)早苗(昭和十一年尋卒 元本町居住)
    田中(橘殿)輝子(昭和十一年尋卒 元城内居住)
    米倉 重俊(大成小学校長)
    田村  進(志道小現校長 昭和十年尋卒)
    田中 辰雄( 〃 前校長)
 会 長 白水 弘人(前志道小育友会長)
 司 会 岩下 忠正(大正十年尋卒 京町、市史編纂員)


 会長 「唐津小学校百年祭で皆様方にお世話になることと思います。本日お集り願いましたのは、百周年記念誌の作製について実のある記念誌、価値ある記念誌を作り上げたいと思いまして、皆様にお集り願いまして、皆様の在学時代の憶い出を時間の許す限りお話し願いまして、これを記念誌に掲載したいと思いますので宜敷くお願いします。」

司会 「皆様の自己紹介をお願いします。」

牟田 「私は、本町生れの本町育ちで牟田岩雄と云います。明治三十九年生れで卒業は大正八年です。」

平松 「私は、南城内に住んでいますが、元は材木町です。大正四年の卒業で辻薬店に勤めています。」

神田 「私は、船官生れの船宮育ちで、大正十年尋常六年卒、大正十二年高二卒の神田二馬です。」

田中輝 「私は、坊主町にいますが、元は城内に生れ、城内育ちで旧姓は鵜殿と申します。昭和十一年三月卒業です。」

坂本 「私は、田中さんと同級で、現在鏡の虹町に住んでいますが、本町生れの富永鏗之助の六女です。」

平松 「私の小学校の時、一番記憶に残っているのは、一年生の時に大川校長先生が辞められて、後任に丸山金治校長先生に代られたことです。その時送別の話がありました。明治四十三年六月十四日です。六十五年前ですが、今でも頭に明らかに残っていますネ。二十年ぐらい唐津校の校長をされていたのですネ、体格も立派で詰襟の洋服を着ておられました。」

田中 「私達は、奉安殿の脇にあった銅像の姿だけしか知りませんネ。」

司会 「あの銅像は、いつ頃出来たのでしょうか。」

平松 「あそこには火の見櫓があって半鐘が吊してありました。」

司会 「その頃の生徒の服装は、どうでしたか。」

平松 「皆、着物でした。写真がありますヨ。金満家の息子さんは餅の着物で、私達は縞の着物でした。」

牟田 「袴は五年生からはいていましたネ。はよう袴ばはきたかったですネ。」

坂本 田中 「私達の時には一年から洋服でしたネ。女の先生が羽織に袴をはいておられました。」

司会 「履物はどうでしたか。」

平田 「履物は下駄でしたネ。雨降りや雪降りの時は素足で走って登校していました。」

神田 「唐津小学校の子供は下駄でしたが周辺の学校の子供は草履でした。それに優越感を感じて都会に住んでいると云う誇りがありましたネ。」

司会 「城内の人に対する劣等感はありませんでしたか。」

司会 「私は、教室で先生から『城内ン人』『町ンもん』と、云われたネ。そして城内ん人は、ガギグゲゴが鼻にかかる鼻濁音だが、町の者はきしゃなか言葉を使うと云われたネ。」

牟田 「それと町ン者の「……ケ」言葉と、城内の「……ダンネ」言葉とよく云われたもんネ。城内の人は士族が多かったし、町は平民が多かったケン、優劣の感情は、今でん幾らかありゃせんじゃろうか。」

平松 「戸籍簿にも『佐賀県士族』 『佐賀県平民』と書かれていましたからネ。」

神田 「私達の時がその代り目で卒業証書などにも書かれていました。城内の人は、優越感を感じていられたかも知れないが、私達は『平民』と書いてあっても劣等感は感じなかったですネ。」

坂本 「私達の時には全然ありませんでした。」

平松 「今の福岡銀行の処に郡役所がありましたが、何時頃閉鎖されましたかな。そうして市役所になりましたからネ。」

田中辰 「郡役所は大正時代に改築しています。改築の時の古材木を満島村が買って、満島校の二階建校舎にしたと聞いています。」
平松 「最後の郡長は堺重松と云う人でした。」

司会 「着物から洋服と靴に代るのはどうでしたか。」

平松 「その頃も一人か二人転校して来た人などが洋服を着ていましたが、何時の問にか着物に代っていましたネ。明治四十四、五年ですからネ。」

田中辰 「私は満島校を昭和三年に卒業していますが、私が四年生の頃から洋服の人が出てきて、六年の写真を見ると男が二十四、五人のうちに三、四人は洋服、他は着物に袴のようですから、唐津校もそれと似たものか、洋服がも少し多いくらいではないでしょうか。大正の末か昭和のはじめに洋服が入ってきたと思われますネ。」

神田 「私は大正四年入学で十年卒業ですが、その間、男で洋服を着たのは見たことがありませんネ。女の人はこの間に洋服を着て靴をはいたのを見ています。色は薄茶色と碁盤縞でしたヨ。」

司会 「唐津で最初の洋服屋は渡辺賢助さんですネ。岸川欽一さんが渡辺さんの作られた洋服を着られた最初の子供だそうです。私も父から三年生ぐらいの時、洋服を作ってもらって遠足の時着ていって、皆から笑われて泣きながら着物に着替えに帰ったことを覚えています。」

牟田 「私は十人町にあった幼稚園の第一回生ですが、絣の着物に白エプロンを付けていました。確か石川コト幼稚園と云っておったね。卒業記念写真は、天満宮の石段の所で撮ったようです。」

司会 「小学校の時の弁当風景はどうでしたか。」

神田 「弁当箱はアルミニュームでした。私は食いしんぼうだから覚えていますがネ、麦飯でした。一番ひどい時は外米でしたね。中には、弁当箱は持ってくるが、中身はあったかどうかわからないもの。特に変ったのに「おから」を持って来た者がいました。おからにひじきをまぜていたが、本当においしそうに見えました。丁度、米騒動の頃だったと思います。梅干、たくあん、ラッキョウ、味噌が副食物でした。」

平松 「私達は、魚は鰯、カマボコなんて御の字でした。」

坂本 「私は麦ごほんでした。他の人は白ご飯が多かったようです。おかずは今の様にぜいたくではありませんでした。」

神田 「その頃は、ストーブもなく、弁当は冷えきっていましたヨ。それでぬくもるために押しくらまんじゅうでもせんと、たまりませんでした。」

司会 「教室の授業風景は如何でしたか。」

平松 「私の頃は男女別のクラスですが、一組は男女一緒でした。」

牟田 「女が二組、男が三組ぐらいでした。」

神田 「私達の時が一番多人数で二千人ぐらいではなかったでしょうか。組列は男が甲乙丙、女が丁戊己となっていました。六年生まで三十六組となり、先生も四五十人となり、佐賀県で最大の学校だったと思います。」

司会 「私は、先生の云いつけで女の組から地図などを借りて来いと云われ、恥しくて渡り廊下などをどうして行ったか、足が地についていなかったように逆上していた事を記憶しています。」

牟田 「廊下が女の方は板張りで、男の方は、タタキだったですネ。『やはり女は大事にされとるな。』と思いましたヨ。それから唐津小学校は廊下が皆南側についていましたね。何故南にあるかと聞いたことがありますがネ、唐津は海岸で北風が強いので、南側に廊下をつけられたと聞きました。又昔は女の人を大切にしたのですネ。例えば職員写真を見ても、女の先生が前と中央にならび、男の先生はその後にならんでいます。」

平松 「それから、七部と二階建の八部が建ちましたネ。私は、二階に行きたかったけど、中々行けませんでしたネ。」

坂本 「私達の時は四クラスでした。六年迄組替はなかった様でした。ただ一クラス増えて男女組が出来たようでした。」

田村 「私は昭和九年度卒で、唐津幼稚園から唐津小学校を出まして、また教員として唐津小学校に奉職しました。そして今度志道小校長として来たものです。」

平松 「私は七十才になるのですが、佐賀銀行(唐津銀行)ができる時、六十四五年程前ですが、工事中で抗打ち等があっていました。工事が進んでタイルを張る時にですネ、通学途中タイルが珍しく工事現場に入り込んで、おこられながらタイルの割れたのを拾って来て雑のうに入れ、これが鉛筆の芯とぎによかったので、生徒間で大好評だったことを覚えています。」

田村 「私達の頃は、石盤の全盛時代でした。紙盤もありました。」

田中辰 「石盤に赤チョークで二重丸でも貰うと消えんごてして持って帰えりよりました。」

司会 「温石山の温石を石版のチョーク代りに取りに行っていましたね。」

平松 「あの頃、講堂の前に二千人ぐらいの生徒が朝札に集っていましたね。バンドを山口写真館から寄贈になり、それを合奏していましたネ。私が高等二年の時級長をしていて、全校生徒に号令をかけていましたが、その時寄贈になりました。」

神田 「太鼓と明笛で歩調をとって、並んで行進していました。鼓笛隊の嚆矢でしょうネ。又、講堂の前に立派な橘の木がありましたネ、あの橘の実をちぎって食ったことがありましたが、先生からひどく叱られた記憶がありますネ。」

田中辰 「今でも市役所の玄関の向って左にありますヨ。」

神田 「運動会の時は、あの橘の前を走って、蘇鉄を回っていましたネ、そりと校門の前の掘の通路の両側にポプラの並木があったのが印象的でした。ちょっと北海道を思わせるような感じでした。」

牟田 「ポプラは、唐津地方には適しているとみえて、本町のキリスト教会の所にも立派なポプラの木があって、私達のよい遊び場でした。今の荒木病院の所になります。教会は大名小路に移っています。」

神田 「運動場も、後に監獄の跡と云っていた今の志道小学校の所に移りました。体操も、運動会も裸足(はだし)でしたナ。」

牟田 「橘について、重要な話がありますが、久留米の原田万吉さんの息子さんで、民間の植物学者と云われている人が唐津小学校に見えて、橘を見て非常に驚かれ、「こんな原種の橘は他所にはありませんヨ。恐らく三百年は経っています。立派なものです。私も今まで見たことがありません。」と、おっしゃったので、私達も驚き大事にせねばならんと、市の教育委員会にもお願いして保存することにしましたが、市庁舎が建つ時、枯れはしないかと大分心配しました。これは是非、百周年を記念して、これの保存に努められるようお願いしておきます。(牟田氏は大成小初代校長として唐津小校舎に最後迄おられました)
 あの橘の実は、一年生に入学した時は、大抵の子供が一度は食べておりますネ、一度食べると酸っばいので後は誰もたべなくなりますネ。それと、もう一つは講堂の前の大きな蘇鉄です。あれは本町の立花さんから寄贈されたもので、本町と高砂町の三叉路の酒販会館の東斜向いが立花さんの倉庫でしたが、そこにあの蘇鉄はありまして、それを綱をつけて 「エンヤ エンヤ」と、唐津小学校迄運んでいったのです。」

神田 「ア、そうですか、私達の時の運動会の時は、あの蘇鉄を廻っていましたネ。」

司会 「校長先生他、諸先生方のニックネームは如何ですか。」

牟田 「丸山先生はエズカッタ。」

神田 「頭のはげた先生で石井先生とか、ノッポの石塚先生など特徴のある先生が居られましたネ。一で石井の金力頭、二で仁戸田のランキョ頭、三で佐々木の色男。」

平松 「城内の浅原先生、錦織徳市先生、それから浦川円次郎先生など頭に残っていますネ。」

司会 「他に面白い憶い出などはありませんか。」

平松 「私達が六年生の時、湊の立神迄遠足がありまして、その時悪童連ばかり相賀の松原で抜けて、弁当食べたり遊んだりしていました。そこへ後に出発した四年生が先生に引卒されて相賀の松原にやって来たので、驚いて走って湊の立神に行って先生からひどく叱かられ、叩かれたことがあります。」

牟田 「昔はよう歩きよったもんネ。」

神田 「あの頃はスパルタ教育で、先生は鞭を持っておられたのでよく叩かれました。」

坂本 「遠足は、よく歩いたですネ。七ツ釜まで歩いて行きましたからネ。」

田村 「私は名護屋迄六年生の時歩いて行って、名護屋城の石段の前で打倒れた記憶があります。」

司会 「女の人はどうでした。」

坂本 「小学校は立神まででした。」

司会 「運動会はどうでしたか。」

牟田 「生徒の人数が二千人もいたので、講堂の前を一度に三十人ぐらい走らされて、十等ぐらい迄賞品を買っていたですネ、両側の廊下が父兄の観覧席でした。」

司会 「先生から非常に感銘を受けたことはありませんか。」

平松 「今日の出席者は、皆優等生ばかりで、褒められた者ばかりだから、余り思い出はありませんネ。」

皆  「ハッハッハッ……」

司会 「その頃の教科書はどうでしたか。」

坂本 「国定教科書の、ハナ、ハト、マメ、マス、でした。」

平松 「私達は、それより前で、ハタ、タコ、コマ、ハト、マメ、でした。」

司会 「三大節は如何でしたか。」

平松 「ヨカ着物を着て行きました。男も紋付袴で登校していました。」

神田 「君が代を歌い、校長先生の勅語奉読があり、御真影に向って最敬礼がありましたネ。」

平松 「勅語は、二つありましたネ。教育勅語と戌申詔書と、二つ読まれていました。御真影は有る学校とない学校がありました。」

田中辰 「私達の時は、「国民精神作興ニ関スル詔書」と云うのがありました。大正時代の終りで関東震災の後です。」

牟田 「肥(こや)しの小便(しようべん)の代りといって、紅白の餅を貰っていたことがありました。『尻餅(しりもち)』といっていました。」

平松 「白井さんという小便さんが長い間勤めていたですネ。講堂の裏が小便室で、お茶汲み場がありました。」

司会 「先生の教えで一番心に残っていることはありませんか。」

牟田 「今思うと、三年生の時ですが、渋谷武夫先生が代用教員から国学院大学の入試を受ける勉強をしておられた頃のことです。英語の本をスラスラ読みながら、その話をしておられたので、昼めしの時間などは弁当を食べ食べ先生のまわりに集まっていましたが、『ごはんは丁寧に残らずたべて、人の前で口をムシャムシャしてはいかん。』と云われました。それから四年迄受け持たれましたが、よく可愛がられ、先生の家に遊びに来いと云われて何べんも行ったことを覚えています。」

司会 「さすがに渋谷先生は」唐津水軍の大船頭の家ですから格式があったですね。松下さんの家も同じ船頭で、唐津小学絞の教員をしておられ、生き葬式をした変った人でした。今の宮島の本家がお船奉行の屋敷で、最後の奉行は市原さんと云って、南城内に今でも子孫の人が居られて、由緒書きをお持ちです。舟繋ぎ石など庭園に残っています。あの宮島さんの屋敷は五千坪程あるそうですが、当時一坪一円で五千円で売られたそうです。」

田中 「絵の先生だった田辺五郎先生はまだ居られますか。」

坂本 「昨年、亡くなられました。よく昔噺をしていただきました。」

牟田 「図画の時間に、無駄口などを云うと、よく棒で叩かれたネ、豪傑でしたヨ。」

司会 「田辺先生は、唱歌の補欠授業もしておられましたネ。私も一度教室の机を皆後に引きさげて、前に立って唱歌を歌っていた時、中に悪い奴が居たのでしょうね、長椅子の後の一間ぐらいの「あて棒」を、自分が小さかったので、教壇の上からボーンと投げられましたネ、誰に当ったか知りませんが、エヅかったですネ。」

神田 「私は、女の先生で忘れられない人が居ます。塚本左納橘先生と云って、浜崎から来ておられた人です。私の母は浜崎のお寺からですが、私が悪戯(いたづら)でもすると、『お前のお母さんは、お寺の人です。その子どもだから人に親切にしなければならんのに悪戯してはいけない。』 と、云って叱られたことが心に残っています。」

司会 「私も塚本先生には、非常に可愛がられた者ですが、着物に紫の袴でお化粧は全然してなかったことを覚えています。そして、両手はチョークの白色と赤色でいつも色どられて、少しザレ声でした。一度浜崎祇園祭に、先生の家に連れて行かれ、泊ったことがあります。夜中に抱かれて表で小便した事を昨日の様に覚えています。つい先年亡くなられたそうですが、女傑のような感じの先生でした。」

牟田 「森猪之太郎先生が居られましたね。唱歌の先生だったがオルガンを両手で弾きヨラシたが、私達は志披先生から習っていたが、先生は片手で弾きよらしたので、志波先生が一本手で弾かすケン偉かつバイ。と云う者、『何のか、森先生が上手かケン、唱歌ン先生になっとらすじゃろモン。』と、云って口論したこともありました。その森先生も亡くなられました。」

坂本 「音楽と云えば、講堂の前で朝礼の時、野口先生が、校歌の『常に至誠を旨として』を歌っていましたネ一 校歌斉唱 − 」
神田 「夏休みの歌も忘れられんネ。!独唱 − 衛生唱歌ですネ。」

司会 「これは、唐津にコレラが流行した時の歌です。錦織先生の作詞で、高田先生の作曲ですネ。」

平松 「これを守りよったら食う物は何もナカゴテなりますヨ。」

司会 「運動会の歌はどうですか。」

一同 「勇みに勇む我が校の、運動会のよそおいは…♪

坂本 「私たちの時も歌いました。」

田中辰 「満島小学校でもこの歌を歌っていました。」

平松 「実は錦織先生について思い出があります。十年程前に、私が辻薬店に居ますと、老人を連れた女の人が来られましてネ、見ると忘れられない錦織先生でした。声を掛けまして、お元気な事を喜びその日に友人に檄を飛ばして十四人集めました。五十年ぶりだといって歓迎会を催しました。其の時すでに九十四歳とか云われましてネ、師弟共非常に感激したことがありました。」

司会 「大正天皇の御大葬のことなどは如何ですか。」

司会 「御大典は如何ですか。」

牟田 「飾り山が出てネ、ヤツシ姿で祝いましたネ。」

田中辰 「大正天皇の御大葬の歌を覚えています。♪地にひれ伏して天地(アメツチ)に、祈りし誠入れられず、如月(キサラギ)の空春浅み、寒風(サムカゼ)いとど身にはしむ‥…。♪」

神田 「私は、夏休みが終って最初の朝礼の時、校長先生が東京大震災の話をされて、驚きというか感動というか、自然と涙が出ましたネ。『これから先、日本はどうなるかわからん、東京でとてもひどい事変が起きているから、皆も心を引締めて、一生懸命先生や親の言葉をよく聞いて、よい日本人にならなければならない。』と云われて、これは、大変な事が起ったなあと、思いました。私が高等二年の大正十二年のことです。非常に危機感を感じましたネ。」

田中辰 「その大震災の時に先生から東京の子どもに送るから、使い古しの教科書、ノート、鉛筆、古着等を出せと云われたことを覚えています。」

司会 「学芸会などは、どうしたか。」

平松 「学芸会は講堂の前でした。講堂の前の台の上で、月曜日は校長先生の話とか、何曜日は生徒の学芸発表会と、いったようにあっていました。」

牟田 「その時、長くなると日射病で、生徒がバタバタ倒れていました。」

坂本 「私達の時は、学芸会は講堂で、部や学年だけが集まる時、本を読まされたりしました。全校朝会と学年別の部会がありました。」

神田 「全校朝会の時、各部の旗と出席率の等級旗を先頭が持って行っていたナー。」

平松 「朝会は中央が男女組の一年生でその外に両方の二三四五六年と男女別に並んでいましたネ。」

田村 「校外運動場で運動会があっていましたが、その時、母が弁当を持ってきましてネ、二人で唐津神社の境内や前の松原で食事した事が忘れられませんネ。私の一年生の先生が高橋先生で、今の東唐津小の高橋校長のお母さんで、二年生が鶴田先生、今は山口先生と云いますが、三年が鈴木従三先生、四年が山口毅先生、五年が野口三治先生、六年が井上勉三先生でした。尚、私達までは唐津尋常高等小学校と云っていましたが、高等科が青年学校となって、今の一中の所に分離しましたので、唐津尋常小学校と改称し、その第一回卒業生です。それから上級生が野球をやっていて、フライが僕のところに飛んできましたので、それを思わず素手でつかんだので、上級生に賞められたことを覚えています。又、卒業式や終業式の時など、賞状と賞品として教科書や、紙挟み、本立て等を貰っていました。」

牟田 「それから皆勤賞というのがありましたネ、私の時に六年生で七ケ年皆勤賞を貰った人が居ました。もう亡くなられました。落第しても、くさらずに皆勤しましたからね。それから悪い事をすると、部の先生の溜りに呼ばれて、叱られたようですネ。もっと悪い事をすると、校長室の隣りの職員室に座らせられヨッタですね。今日、有名人と云われる人の中にも座った人が多勢居ますヨ。また罰当番として講堂の掃除をさせられヨッタですね。」

平松 「その頃、満島は高等科のなかったケン、唐津校に来よりました。私達の時四人来たですね。」

司会 「子供の遊びは如何でしたか。」

平松 「その頃、印象に残っているのはマラソンですネ。五六年生は浜崎迄往復でした。私は真中ほどを走っていましたが、往きは松原の中を行き、帰りは千人塚を通ることになっていました。先頭を走っていた一団は、間違って先の方まで行ったのですネ。私はおかしいゾと思って、浜崎の入口から千人塚を通って帰って来ましたが、おかげで三等になってネ、先頭集団の者は、皆遅れましたヨ。」
神田 「小学校の五六年頃に、浜崎迄マラソンがあっていましたネ。その頃の遊びと云えば、兵隊ゴッコと陣取りでしたネ。
石蹴り、ペチャ、ラムネン玉、モッコなどの遊びをしていましたネ。それにテッツケ独楽(こま)等でしたネ。」

平松 「私達の遠足の時は草鞋(わらじ)ばきで、着物に袴で股立ちをとって、白い筒状の木綿の袋に弁当を入れて右肩から左下に背負い、丁度武士が仇討か武者修業にでも行くようないでたちでした。」

神田 「納涼博覧会が、小学校でありましたネ、私が七部に居た時でしたが、夏休みの中に開催されて、七部の裏に人工滝が作られていました。確か萩谷町長の時だと思います。」

坂本 「女の遊びは、トンパや、場所取り、お手玉、ドッジボールなどでした。」

神田 「寒い時は、『セキバンコ』と云って、『押しくら饅頭』をしていましたネ。」

牟田 「馬乗りをしていたが、腰を悪くした子供が出て禁止になりましたヨ。」

田村 「ゴム毬(まり)を、屋根に上げて指名し、指名された者は、屋根から落ちるボールを掴(つか)むと、ゴム毬をまた屋根に上げて指名する。若しボールを地面に落すと、『拷問(ごうもん)』と云って、手のひらや尻を出させてゴム毬を投げつける遊びがありました。それから猫川、町田川の 『めだかすくい』などしていましたが、今の子供は自然の中で遊ぶ事が少くなり、可哀想ですネ。」

司会 「外町校分離の時は、どうでしたか。」

田中辰 「聞くところによると、女の方が一年早く分離して、男は一年後だったそうですね。私の中学の同期生が男の最初の卒業生だそうです。昭和三年三月です。女の子は昭和二年三月卒ということになりますね。」

司会 「大正十年に唐津商業補習学校が、唐津小学校の中に出来ていますが。」

平松 「ハイそうです。そして二年程で唐津商業学校が出来たのです。」

神田 「私が六年生の時に、補習学校は出来たと思います。盛んに募集していました。」

司会 「その後、町立唐津専修女学校が創立されていますが」

牟田 「それは、西高の北側にあった実践女学校とか、浜の文化女学校とか云ったのではないかな、商業補習学校は確か小学校の中の二部の校舎だったと思います。大正十年に商業学校になっている。」

司会 「西唐津に自転車競争のあっていた事は御存知ですか。」

牟田 「導水堤でもあっていましたネ。西唐津の時の選手が宮崎英一さんですネ。木下又蔵、田口仙香屋、谷口武一郎、宗、田中忠治さんも選手でした。」

司会 「私が小学校の二年生頃、西唐津の自転車競争を見に行って、帰りに弟二人を連れて、軌道車で双子の高架を通っている時、京町の火事を聞いて驚いたことを覚えていますネ。札の辻の近辺が、山田氷屋や、内田判屋など六七軒焼けました。」

田村 「本日はお忙しいところお出で下さいまして、数十年前の懐しい小学校時代のお話をお聞きすることが出来、本当に有難うございました。立派な百年史にしたいと思います。」




  第三回 座談会(昭和時代) 於 中部公民館
 
 昭和五十年五月二十日
 出席者 松村 正寿(昭一三年三月尋卒)
     亀井 健一(  〃  )
     石倉(吉村)喜美代(昭一四年三月尋卒)
     宮崎  健(昭一七年三月初卒)
     大塚喜八郎(昭一九年三月初卒)
     木下多美子(昭一九年三月初卒)
     仁平須美子(昭二〇年三月初卒)
     白水 弘人(百周年記念事業実行委員長)
     田村 進(志道小学校長 昭九年尋卒)
     増本 金光(志道小学校教頭)
 司 会 岩下 忠正

司会 早速ですが、唐津幼稚園の思い出から出していただきたいと思います。

大塚 園長先生は、今の吉富外科病院の院長のお母さんの吉富園長さんでした。

仁平 場所は、今の幼稚園の裏側の蓮尾先生の家の前でした。

宮崎 遊びでネ「デン」と云うのが盛んでした。貝殻の中に砂を詰めて固め、それをしっかり磨いたものを後にかくし、「デン」と、云ってお互いに出し合って、よく磨かれたものが勝ちでしたネ。確か「貝殻固め」と云っていました。

石倉 その頃は、何も玩具がなかったので、そんなもので遊んでいましたネ。

司会 服装はどうでしたか。

白水 制服などはなく、ただエプロンをしていました。

宮崎 弁当を持って行っていましたネ、それから昼寝の時間もありました。

松村 煉瓦一枚ぐらいの積木を持って、お昼になると、御検馬場に弁当を食べに行っていました。

司会 その時、校医さんは、どうでした。

松村 定期的に健康診断があっていました。

司会 昭和十四年に神谷寿太郎という人が、唐津小学校に校旗を寄贈されていますがご存じですか。

石倉 寄贈になったことなどはわかりませんが、校長室に飾ってあったようです。

宮崎 思い出しました。紫色の校旗でした。

「校旗ニ対シ、頭右(カシラーミギ)。」と云って朝礼の時、ラッパが吹奏されていました。一週間に二回ぐらい全校朝会があっていました。この頃からブラスバンドがありました。ラッパ部・小太鼓部・太鼓部があったつデスケン。」

仁平 奉安殿の方に向いて並んでいましたので、必ず最敬礼が最初にあっていました。

大塚 奉安殿の前を通る時も、必ず最敬礼をして行っていました。

宮崎 私は一度、奉安殿に上って叱られたですヨ。あの上に何のあるトだろうか、と思って……ハハ

松村 祝祭日の時は、講堂に飾って講堂で式があっていました。君が代を歌い、勅語奉読があって、校歌も歌っていました。
  ♪常に至誠を旨として……♪でしたね。

白水 歌の先生が万年筆をタクト代りにして指揮をとっていましたネ。

亀井 校旗は昭和十四年前にもあったように思いますが。

石倉 紫の地に金で三階菱の中に「唐」の字を刺繍(ししゅう)してあったのを覚えています。

亀井 私はその校旗の側に、親衛隊の一人として居ったつじゃケン、よう知っとるとです。

松村 支那事変の時、出征兵士を見送りに唐津駅へ校旗を先頭に行っていました。

司会 昭和十五年五月一日に、文部省から体育表彰を受けていますが、其時はどうでしたか。

石倉 その頃、体育は盛んでしたネ。

亀井 各小学校の体育競技があっていましたネ、常にトップは唐津小学校でしたネ。市内の中学校の運動会の時は、常に各小学校のリレーなどがあっていましたし、西唐津小学校の運動場で市内各小学校が合同して、対抗体育大会などがあっていました。私も選手で出場しましたのでよく覚えています。

石倉 西唐津小学校では、毎年全児童が参加して体育大会があっていました。その為に毎週健脚運動などがあっていました。毎日素足で校区を走っていました。特に有礼坂などは坂ですから必ず走って通っていました。今のように舗装はされていないので、小石や凹凸道を素足で走らされ足の痛かったことをよく覚えています。

司会 服装はどうでしたか。

仁平 女はブルーマーで、男はパンツでした。

司会 水泳はどうでした。

宮崎 水泳は唐津校は弱かった。西唐津が強かったですネ。

仁平 七月の夏休みから、西の浜の売店の前で練習していました。

宮崎 田村先生が部長でしたネ。私が五年の時に、遠泳は四年から参加していました。

大塚 水泳帽に一級、二級、三級と、上手になると赤線がふえ、それから黒線になっていました。赤線一本の泳げない者は、褌を持って吊されて泳いでいました。終ると売店で飴湯を飲ませてもらった。その時飲んドラン振りして、又隣の売店で飴湯を貰ったりしていました。遠泳は鳥島まで舟で行き、帰りを西の浜まで泳いでいました。

司会 遠足はどうでしたか。

仁平 大平山とか、あっちこっちに大概歩いて行っていました。

石倉 私が六年の時は、名護屋城跡まで歩いて往復しました。帰りは真暗になり、途中どこからか馳足で学校まで帰ったことがありました。やばり健脚運動などで鍛えていましたから強かったですネ。昭和十三年頃のことです。

司会 汽車旅行などはなかったですか。

大塚 私の四年の時、博多で博覧会があって白襷を日印にして、迷子にならんようにして行った事を覚えています。戦事中になって、汽車旅行は中止になりました。

仁平 二年生の時は、鏡神社で、三年の時は玉島神社でした。一年生は見借の滝や温石山でした。

司会 学芸会はどうでしたか。

石倉 詩吟とか、剣舞とか、劇とかありました。講堂で盛んにやっていましたが、大東亜戦争が烈しくなると、「アッツ島玉砕」などの劇をやっていました。

大塚 学芸会は立派でした。坂本宇三郎先生の時は綺麗にバックの絵など書いて、唐津市内全校で学芸会の大会があっていました。今のスターレーンの唐津座でありました。その時「コプとり爺さん」をやりました。その後、佐賀の陸軍病院に慰問に行った時、楽屋に泥棒が入り面や衣裳を盗まれました。坂本先生の脚色でした。

亀井 講堂で朝礼があっていましたが、最後に詩吟を歌っていました。明治天皇の御製を奉読していました。

司会 三大節はどうでしたか。

仁平 教育勅語の奉読があっていました。

宮崎 十六年から国民学校に変更になり、十二月八日が大東亜戦争の勃発でした。その時、四年生以上の上級生だけ講堂に集まり、ラジオを聞いて、先生の話がありました。提灯行列もありました。翌十七年三月に国民学校第一回卒業生として卒業しました。

司会 その頃、小学校の講堂に西部第六七九一部隊の暁部隊の本部があったことを覚えていますか、昭和十七年です。

仁平 そう言えば、講堂に毛布が一杯積んであったことを覚えています。

亀井 松原から町内にも駐屯していましたが、あの時は上陸作戦の演習に来ていました。

宮崎 西唐津では標的が作られ、射撃演習があっていました。
 
石倉 シンガポールの陥落記念だったと思いますが、ゴムボールを記念にもらったことがあります。昭和十七年で私が三年生の時でした。生れて初めてゴムボールを待ったことを覚えています。

司会 その頃警戒警報の時は、どうしていましたか。

仁平 家に帰っていました。然しまだ日本が勝っていた時で、警戒警報はなっていませんでした。

宮崎 愈々軍国主義が盛んになった時は、先生や上級生に向ってピシャッと挙手の敬礼をしなければならンだった。

石倉 私達は、毎朝各町毎に上級生の家に集って、一緒に二列に並んで通学していました。

司会 その頃防空壕などは掘られていませんでしたか。

仁平 学校には防空壕は、なかったようでした。先生達の防空壕は掘られた様でした。

司会 二ケ所防空壕があったと記録にありますが、食糧増産はどうでしたか。

白水 夏休みの終った九月に南瓜の葉とか、芋の葉などを乾燥させて、学校に持って行っていました。それを粉にして、戦地の兵隊さんに送っていました。

大塚 小学校では勤労奉仕や、食糧増産はしていませんヨ。

石倉 小学校の校庭に箆麻(ヒマ)を植えたことはありました。

白水 あれは、飛行機のエンジンの油を採るためでした。松根油の原料に 「松やに」をとっていたこともありました。これは昭和二十年頃だったと思います。

司会 慰問袋などは出しませんでしたか。

大塚 私達は寅年生れでしたから千人針を教室に持ちこまれ、丁度六年生でしたが、年の数だけ縫ってよいので、すぐ出来ていました。

仁平 学校から慰問袋と慰問文を送ったことがありましたが、戦地からお礼の手紙などが来ました。そして弁当は日の丸弁当ばかりでした。

木下 太平洋戦争が始まる前までは興亜記念日がありましたが、太平洋戦争に突入してからは、毎月八日が大詔奉戴日で、唐津神社に参拝して必勝祈願を行っていました。

宮崎 あの頃、戦争中にもかかわらず給食がありましたヨ。橋南まで車力を曳いて給食をとりに行っていました。蜜柑を二つヅツ位でしたが。

司会 肉弾三勇士などの話はどうでしたか。

仁平 学校から浜崎に居られた江下伍長の家に行ったことがあります。今も記念碑が残っているそうです。その他木口小平の話やら、広瀬中佐、橘大隊長の歌などよく歌いました。

石倉 中国の小学校の生徒の絵や習字の展覧会がありました。私達が二、三年の頃です。

宮崎 その頃になると帳面(ノート)など全くなくなって、領収証や書類の空自の所や、裏面を利用して書いて勉強していました。

大塚 十九年か二十年頃、西唐津の港がグラマンに銃爆撃されましたね。

宮崎 満人が大分来ていましたネ、牡丹江という会社に来ていましたネ。

司会 学校の校舎の天井剥がしなどはありませんでしたか。

大塚 ありました。大分剥がされました。焼夷弾が天井裏に止って火事にならない為でした。

司会 竹槍訓練やら、防火演習などはどうでしたか。

亀井 小学生でしたからありませんでしたが、男は木剣、女は薙刀(なぎなた)を持っての訓練が、体育の時間にあっていま
した。

司会 その頃、陛下の御真影を唐津小学校から竹木場小学校にお移ししているのですが知りませんか。

仁平 その頃、戦死者の英霊を祭った室が講堂にありまして、英霊の写真を飾ってありました。終戦後遺族の方へ返えされました。御真影が移されたことは知りません。

大塚 食事の時など黙祷から始まって、「天皇陛下戴きます。兵隊さん戴きます。お父さんお母さん戴きます。」と、云ってから食べていました。

仁平 それから蒋介石の顔や、米国、英国の国旗を学校の校門の前の橋に描いて、登下校の時、踏んで通っていました。そして奉安殿に最敬礼をして、通学していました。
 
田村 私は、戦地に行って留守していましたので、戦争中の小学校の思い出はありません。私が唐津小学校に勤めている時に水泳の練習がありましたが、町田川の大堰の所にターン台を設けて泳いだ事を覚えています。今の綜合庁舎の東でした。

宮崎 その時、私達の友人の前田正信君が溺死しました。丁度、西ノ浜が荒れていたので、町田川で水泳があって、今の税務署の所に整列して飛び込み、川を渡って帰ってくるのでしたが、心臓麻痺を起して、飛びこんだまま浮かび上らず満島から漁船や潜水夫まで来て探しましたが、溺死体となって引き揚げられました。

司会 終戦の玉音放送の時などはどうでした。

石倉 夏休みでしたので、家で聞きました。皆泣きましたネ。

大塚 その頃は、上級生の家に集って勉強していましたネ。

大塚 私はその時、中学二年生でしたが、三年生は、大村や和多田に学徒動員の勤労奉仕に出ていたので、二年生が一番責任があり、頼りになると自負して終戦の時の唐津駅での疎開の大混乱などの整理をやりました。その頃は、弁当泥棒が多かったですヨ。校外運動場で体操がある時は必ずやられていました。やはり食糧欠乏で、お互い飢えていましたからネ。一番食いざかりでしょう、
悲惨でしたネ。「ほしがりません勝つまでは。」という標語が出ましたけどネ。

仁平 校外運動場にも芋が植えてありました。

宮崎 高梁・脱脂大豆など、ご飯に混ぜて食べました。一度、世界館に落花生が積まれていた事があります。それを運び出す車に会ったんです。ところが袋からこぼれているので、帽子に一杯受けて、生のまま食べたら腹痛を起し下痢までして、大弱りしたことがあります。

司会 終戦の思い出はどうですか。

大塚 私は中学二年生でしたが、学校にいる最上級生は自分達だけだから、銃後の守りは自分達がやらねばならぬし、死も覚悟していました。そして壱岐まで、いや大島の沖までソ連軍や米軍が来ていると、デマを聞かされまして、「中学生集レ」と奮い立っていきました。

亀井 あの頃は、予科練や少年航空兵にあこがれて、格好のヨカ七ツ釦(ボタン)が夢でした。

司会 戦時中の物資欠乏の時の学用品はどうでしたか。

石倉 墨は指で握ぎられなくなると、竹を割って挟んで使っていました。教科書などは、上級生から順送りに譲られていました。表紙などは、別の丈夫な紙で包んでカバーをつけ、譲る時はカバーの紙をはずして譲っていました。終戦後は、歴史・地理の本などは墨で塗りつぶす所が多かったようです。教科書は成績のよい児童には、賞品として贈られ「賞」の朱印が表紙に捺(お)してあり、一寸誇らしい感じをいだいたものでした。

宮崎 消しゴムなどは全然なく、烏賊(いか)の骨・タイヤなどで代用していました。それに鉛筆が粗悪品で、芯が次から次と折れて困りました。然しナイフの使い方は上手でした。竹トンボなど作っていました。その点、今の子供とは違います。

亀井 軍国教育の為か、今のような児童生徒の万引・窃盗・暴力行為といった非行や事故は殆どなかったですネ。

宮崎 終戦後、一時週五日制になった経験があります。

司会 国民学校から、唐津小学校と改称された時は、皆さんは卒業されてからですネ。終戦時に虱(しらみ)や蚤(のみ)、白癬(しらくも)などはどうでしたか。

木下、仁平 男は虱や蚤は、頭を丸坊主にしていましたので、割合少なかった様ですが、女は虱採(しらみと)りが大変でし
た。髪をさばくと、肩や手にポロポロと落ちていました。戦後はDDTを撒かれていました。

大塚 男は虱は少なかったが、白癬(しらくも)や頑癬(たむし)が大流行でした。石鹸が欠乏していたし、タオルもなくて不潔になっていたし、食糧欠乏で栄養も悪かったのが原因でしょうネ、薬もなかなか手に入りませんでしたヨ。

司会 それから海人草の服用はどうでした。

宮崎、木下 あれは嫌だったですネ。「明日は海人草を飲む日だゾ」と云われると、ゾッとしました。虫下しですネ。茶碗一杯飲むのですが先生にかくれて捨てヨッタですヨ。飲んでしまうとタンキリを一つ貰ったこともありました。

大塚 肝油も飲まされましたが、スカンだったですネ。

松村 何年の時ですか、高等科が分離して青年学校となった時、別れの式があったことを覚えトルですネ。

田村 尋常小学校第一回卒業生は、僕達ですよ。高等科は八部に併設されていて後に青年学校へ移りまして、これが唐津第一中学枚の前身ですネ。

仁平 その他 それで私達の頃には高等科がなくて、佐志小学校にありましたので、六年生から中学校や女学校の入試に落ちますと、佐志の高等科に行って、又、翌年入試を受けていました。青年学校に通って、又入試を受けた人もありました。丁度、六三三制への移行期で混乱していました。

司会 二階の八部の校舎は、上級生が居た所でしたが、どうでしたか。

仁平 老朽校舎とは云えませんでしたが、階下の教室は暗く、家ダニが時々居ました。先生の控室が各部にあって、放課後、先生の使いで、廻転焼や焼芋買いにやらされていました。

大塚 私は二年生の時、先生は自分の担任の生徒を、よく可愛ガラスナ。と、感心したことがあります。それは、全校朝礼の席上で、或る友達が悪い事をしたのを、日時、場所、氏名を挙げて、全校生徒の前で注意されました。全校朝礼が終って、又すぐ、二年生だけの朝礼があって、前の生徒のことを他の先生がとり上げて生徒の前で注意されました。すると、その生徒の担任の先生が怒って、「全校朝礼で一回注意されたことを、なぜ、又二回も続けて言うのですか。」と、言った先生に向って激しく抗議され、殴りかからんばかりの勢いでした。この先生は後で校長まで進まれた南里先生です。今でもお元気です。正義漢だったですネ。

宮崎 私達が、或時あんまり騒いでいたので隣の教室の先生に叱られたことがありました。すると、受持の先生が来られて、「お前達が悪いのは、俺の教育の仕方が悪かったからだ。皆で悪かった俺を叩け。」と、云われたけど生徒が先生を叩かれるモンケネ。そしたら、自分で自分の手や腕や頭を竹の棒で叩かれたことがあったけど、少々キザに見えたネ。

司会 養護学級は何時頃できましたか。

仁平 昭和十六年十月九日です。

宮崎 私達の時は、よその学校との喧嘩が烈しかったですヨ。町田川の鉄橋の下あたりで魚すくいなどしていると、長松校の連中が来て取り囲み、「お前達は、唐津校だろう、ナシ鉄橋バ越してコッツアン来たッか。」と、人数をたのんですごまれたことが何遍もありました。

大塚 私はあの頃、長松校の校長の草場先生の子供と同級だったので、ドンポすくいに草場君と一緒に行って居ましたから、長松校の連中が、「アリャ校長先生ン子供バイ」と云って逃げて行ったこともありました。

田村 「唐津学校、カラ学校」 「長松学校、泣キ学校」等と互に悪口を言い合っていましたネ。

宮崎 「唐津学校、勝チ学校、何時モ勝ッテ優等生。長松学校泣キ学校。泣イタ涙ガ町田川。」なんて囃(はや)していましたネ。ハハハー。然し一人では行かンで、多勢で踏切辺で、大声で叫んでいました。新町の中山醤油屋が親分だったモンネ。

松村 あの頃は体育大会の時、学校対抗の競技等が盛んだったので、そこ迄エスカレートしたのでしょう。

宮崎 西唐津校で合同運動会の時、小さい長松校の下級生から、唐津校の大きな上級生が相撲で負けたり、剣道でたたかれたりするので、あんな風になったのでしょうね。

田村 私は二十歳で唐津小学枚に初めて奉職し、それからすぐ戦地に行って二十四歳で帰って西唐津校に勤めました。

仁平 私は一年生から四年生まで、三組が男女組でした。

石倉、松村 それから校長試験と言うのがあっていましたネ。校長先生が各学年毎に同時に同じ問題を出し、その成績で担任の先生の優劣がきまる仕組みでした。校長試験の前は非常な特訓があっていましたネ。

仁平 私達が女学校の入試を受ける時は、筆記試験はなく、内申と口頭試問と体操だけで、口頭試問は「この戦争で日本は勝つと思いますか。」の問に、「ハイ、必ず勝ちます。」と云えば、合格でした。

宮崎 講堂で教育映画もあっていましたネ。

亀井 悲しい物語の『家なき子』とか軍国物語とかで、皆、泣いて眼を赤くして出て来ていました。勿論、無声映画で坂本米蔵先生が担当だったので、映画の先生と云っていました。

石倉 忠君愛国の思想も盛んに吹き込まれていました。広瀬中佐・橘中佐・木口ラッパ手・肉弾三勇士などもあっていました。然し『バラの花には刺がある』なんていうのもあったようでした。

宮崎 前の小学校時代に、今の市役所の前から唐津駅まで道が通ったのは、いつ頃ですか、私はあの角の佐賀興業銀行の建った時を覚えていますが……。

司会 あれは昭和十九年です。大きな疎開道路が作られましたのが今の大通りで、その前は駅の方も学校の前も塞がれて大手口の方に廻って学校に登校していました。

田村 この辺で終りにしたいと思いますが。


  第四回 座談会(志道、大成分離時代)

                   於 中部公民館
 昭和五十年五月二十一日

 出席者 松尾武彦(昭和一九年度卒)
     岡部 勝(昭和二二年度卒)
     宮崎五郎(昭和三一年度卒)
     江頭義輝(昭和三二年度卒)
     戸川維継(昭和三三年度 志道小第一回卒)
     田村 進(昭和九年度卒 志道小学校長)
     増本金光(志道小教頭)
     田中辰雄(志道小前校長)
 司 会 岩下忠正

司会 では皆さん活発に御発言をお願いします。戦後のことですが、御真影奉安殿の撤去などの御記憶はありませんか。

宮崎 奉安殿はよく覚えませんが、今の東南隅の市役所の公衆便所のあるところが、警防団の詰所だったことや、後で図書館になったことは知っています。

増本 私が奉職したのが、その頃(昭和二〇年)ですが奉安殿はありませんでした。ただ奉安殿の中の材料を利用して、ある先生が道具を作られたことがありました。

司会 戦時中に剥がれた校舎の天井が、修理されたりした事も御存じないですネ。

江頭 その話は、先生から聞きました。私達が入学した時は綺麗に修理してありました。

司会 あの頃、授業日が週五日制だったことなどは知っていますか。

田村 昭和二十四年に週五日制が実施され、二十五年九月一日に六日割に戻りました。

司会 その時は、学校放送なども、始っていましたか。

宮崎 ハーありました。私は放送した記憶があります。

田中 サマータイムは御存知ですか。

宮崎 どういうことですか。

田村、松本 普通、学校や官庁などは八時始まりですが、夏は日が早いので、時計を一時間早く進め、時間は同じ八時始業でも、実際は七時始業になる制度です。二年程で廃止になりました。

司会 給食は如何ですか。

江頭 給食は昭和二十六年から始っています。私達は二十六年入学ですから、その時始っていました。低学年は昼迄でしたから、給食を受けたのは二十八年ぐらいからだったと思います。

宮崎 私達は、給食用にと野菜などを持って行っておったことを知っています。おかずの材料のために……、そして給食の味噌汁の中にバターを溶かしたり、脱脂ミルクとか‥‥。

司会 昭和二十七年、唐津小学校が健康優良校になっていますネ。知事表彰を受けたり、朝日新聞社の全国表彰を受けていますが、その時の思い出はありませんか。その頃の子供の遊戯は、どんなものでしたか。

江頭 女の子は、「トンパ」などで、男の子は、「掴み鬼」などです。

宮崎 所謂、「集団鬼ゴッコ」とでも云いますか、町内でも流行していました。

戸川 松尾 城内では「缶蹴(かんけ)り」、「馬乗り」などしていました。馬になって潰(つぶ)れたら、また馬になり、落馬したら、馬になっていた者と交番して馬になるのですが、馬も潰れず落馬もしない時は、ジャンケンで決めていました。

宮崎 屋根にボールを投げて、友達を指名し、指名された人が落ちてくるボールを掴めば、その人がボールを屋根に投げてボールを掴む人を指名する。然しボールを掴めず地面にボールを落したら、そのボールを拾って「止れ」といって、止っている者にボールを投げつける。ボールが当らない時は、罰として他の者から掌にボールを投げつけられる遊戯でした。

司会 あなた達の時は、もう志道校舎の建築は始っていましたか。

江頭 五年頃から始まっていました。それで体操は、校外運動場を二分して、建築工事場と運動場に区切られていました。

宮崎 それで運動会も、半分の広さでありました。

江頭 全校運動会が西高校であったこともあります。

宮崎 運動会で一番気合の入ったのが地区対抗リレーでした。中学生が来て指導していました。女と男が一緒に踊るフォークダンスも五年生頃から教わりました。僕達が始めだったでしょうネ。

戸川 昭和三十年頃、開校八十周年記念運動会というものもありました。

司会 今の開枚八十年記念大運動会など憶えていませんか。

宮崎 西高校であったようです。校外運動場が廃止になったのと、大運動会を催すということで、西高校の運動場を借りたのでしょう。

司会 その頃、個性尊重教育が叫ばれていた時、フォークダンスなどと、団体遊戯が盛んに行われたのは面白いですね。

田村 個性尊重とは、個人の力を伸して行く為の教育ですから、何の関係もないし、却って男女共々一緒に楽しくダンスをするわけです。

司会 算数などの級別指導はどうでしたか。

江頭 私は賛成でした。よく理解しない内に先に進んでいくよりも、一級下のクラスでも、よく理解して進む方がよかったと思いました。三年生になって掛け算が始まる時から能力別教育が実施されました。はげみになりました。

田村 今、来られたのは昭和二十三年卒の岡部さんで、新制小学校の第一回生です。

田村 今の水道部の所が八部校舎で伊沢さんとの境が新運動場で相撲場があった。新校舎というのは、今の市役所の自動車々庫あたりに建っていまして、中島太校長の時、健康教室がここに出来ました。歯みがき訓練などが行われていました。

岡部 私は戦中派で、登校の時に空襲があって道端に伏せていました。四年の時終戦でしたから…‥。八月十五日の玉音放送を戦争に勝ったと思って、それまで水泳が禁止になっていた西の浜に泳ぎに行った者もありましたヨ。ハハハ‥……。

司会 終戦後、学用品はどうでした。

岡部 殆どなかったですネ。第一食べ物が無かったですからネ。

宮崎 私達の時は大分よくなって一年生・二年生の時は配給のようでした。運動靴等は抽せんでしたヨ。

田中 担任の先生は、配給台帳と首ッ引きで大変でした。不正配給と言われないようにネ。

岡部 終戦後、虱や頑癬(たむし)等の皮膚病が大流行でした。栄養の関係でしょうか。

司会 遠足はどうしました。

岡部 勿論歩いてばかりでした。六年生の時名護屋城まで歩いて行きましたが、足にマメが出来て歩かれンゴテなって、双子の踏切までやっと来た時、昭和バスが来ました。私達の同級生に昭和バスの社長さんの息子が居ましたので、車掌に頼みましたが疑って乗せません。とうとう上村先生が、証明されたので乗ることになりましたが、我も我もと満員鈴成りになって帰ったことがありました。

宮崎 私達も七ツ釜迄、歩きました。

江頭 春の遠足と、秋の遠足とあっていましたネ、春は五年生は岩野の坂までバスで行って、岩野から名護屋まで歩いて往復し、又、岩野からバスで帰っていました。秋は六年生は、汽車で関門へ一泊旅行でした。

戸川 私達は湊までバスで行って、七ツ釜迄歩いて往復し、相賀の浜から又バスに乗って帰校しました。秋の旅行は、一年上の六年迄は一泊の関門旅行でしたが、私達の時から日帰りになり、関門・西海橋の他一ケ所の候補地をあげて、日帰りでどれがよいかアンケートをとったら、関門が一番多く、関門にきまりました。その日は朝五時頃から出発し、夜十時頃帰って来ました。「星をいただいて出で、星をいただいて帰る」といった印象が強かったです。

岡部 私達の時は、山に椎の実などを採りに行ったくらいです。丈高山などによく行って椎の実の沢山ある所は、他に知れないように、グループだけの秘密でした。これを、ゆがいたり煮たりして持っていました。

江頭 オンドンが時キャ、大平山によう行きヨッタモンネ。一年生の時は丸宗公園にも行ったネ。

司会 水泳は、どうでした。

宮崎 水泳は、学校から西ノ浜に連れて行ってあっていましたネ。

戸川 浜で水泳訓練があると、学校に帰ったら給湯室で飴湯を飲んでいました。オンドンが友達で、夏休みに遊泳禁止の日に泳いで溺死した者がいました。谷口健治君とか言ったナ。

江頭 本町の田村君も死にました。都会から従兄弟が来て、西の浜に泳ぎに行き、従兄弟が溺れかけたので、助けようとして自分が溺死しました。京町の横田屋の中村さんも心臓麻痺で溺死しました。

司会 学芸会は、どうでしたか。

江頭 東と西に分れて、今の志道と大成校区のように別々に二日間あっていました。

宮崎 あの頃は衣裳なども作って、盛大なものでした。私も作ったことを覚えています。

江頭 父兄も早く行って、席を確保したり、弁当を持って行きました。本当に楽しく派手でしたが面白かったですネ。題は「弥次喜多世界一周」「ハムレット」「ピーターパン」なども演じました。中野先生などが脚色演出をされていました。

司会 その頃、天皇誕生日や、元旦などはどうでしたか。

戸川 正月だけは学校で式があったが他の日は休みでした。

田中 昭和三十三、四年頃迄は、唐津市内の小中学校では元日の式があっていまして、紅白の餅が配られている学校もありました。

司会 その頃、服装はどうでしたか。

江頭 下駄で、洋服でした。帽子は制帽があったようですが、かぶる人は少かったようです。運動会の時は紅白の鉢巻をしていました。

司会 その頃、校旗や校歌はありましたか。

宮崎 よく覚えませんネ。校歌は確かありませんでした。

司会 先生の思い出はありませんか。

宮崎 僕達の中野先生は、よく昼休みに耳を掻いてくれたり、写真が得意でしたのでスナップなど撮ってアルバムを作り、分けてもらいました。又、毎週時間割が配られると、それに詩が書いてありました。

岡部 私は、一度校門の所で習字と写生の道具を両手に持って行っていたら、校長先生から敬礼がおくれた、と云ってひどく叱られたことがありました。昔は、上級生はこわかったですネ。私が上級生になったら終戦でした。

戸川 別にありませんが、小学校六年間の間の四年間が女の先生だったことは覚えています。

司会 先生の綽名(あだな)はありませんでしたか。

宮崎 中野先生はライオンでした。いつも吠えて髪が多かったのでネ。

戸川 それよりも私達の担任の先生が長く休まれるので、私達のクラスは分散して他の同学年のクラスに預けられて、授業を受けていたことを覚えています。

江頭 あの頃は学芸会や遠足などの外に、三月にお別れ会などがあったネ。

田村 今でも、お別れ遠足などはやっていますネ。

宮崎 書道の大浦先生は厳しかったネ。体育は牧山伊三郎先生などがおられた。

江頭 一中が七月六日に焼けてから、各小学校に分散授業がありました。教室を仕切って暗い室に入れられたり、夏休みを返上して、昼から登校して四時迄授業がありました。各部校舎に一年生から四年生まで入れられて、六年生が監督して、給食や掃除、登下校などの世話をしていました。五年生は、丁度悪童盛りで、八部に全部入れられていました。

岡部 校門の両側の濠は、埋められたがあれは惜しかったネ。

戸川 各組も一組二組でなく、松組・竹組・梅組・桜組などとなっていました。

司会 大成・志道に分離することが決ってから生徒の気持の上で何も動揺はありませんでしたか。

戸川 私達は、新校舎に行かれるので、嬉しカばっかりでした。分かれる気持ちより、又、一中に行ったら会われるナーと、案外サッパリしていました。其後、私達が志道に移ってから、大成の連中が机や椅子を持って、西の浜の大成の新校舎まで、運ぶのを見下して「アリドンモ、持ッテ行キヨルナ。」と見ていました。

司会 分かれて後「大成に負けるな」「志道に負けるな」と、云った対抗意識はありませんでしたか。

戸川 全然そんな気持ちはありませんでした。四年生迄は、二緒だったし、五年になって東組・西組に分かれ、自然に志道組、大成組となって、それで、お互いによく知っていたので特別に何と云うこともありませんでした。

司会 最初に新校舎に入った時は、先生から大分注意されたでしょう。

戸川 大分されました。私の父は厳しかったので、登校の時、「お宮の境内を横断して登校してはならない。」と、学校に申し入れていました。学校からも注意されていました。ある朝礼の時「境内を通った者は集まれ」と言りれたので、私も行きましたら「お前は神主の子供だから境内を通らねば登校されぬからよい。」と、云われたことがありました、ハハハー 学校では、「落書きしてはいけない。」 「硝子も普通の硝子でないから割らないように注意せよ。屋上は危険だから登るな。」と、次々と沢山注意を受けました。便所の掃除が水洗式なので、うるさかったですネ。

宮崎 僕達は志道小の廊下を競争のようにして、牛乳瓶で磨いて綺麗にしていました。最初荒縄で磨いて、糠袋で拭(ふ)いて、牛乳瓶でこすっていました。すると隣の廊下と境がついたように綺麗になるので、隣の教室が又真似ると云ったように流行していました。
司会 給食はどんな風でした。

宮崎 チャンボンや鯨のかす、脱脂牛乳、パイナップルの汁などです。

司会 学校放送はどうでしたか。

宮崎 あれはクラス毎に、順番に廻ってきていました。歌を唄ったり、学校の一週間の行事を流したり、ハーモニカを吹いたりしていました。

岡部 唐津くんちの時などは、曳山小屋が学校のすぐ横だったので、石垣の土手に登って見ていました。授業もすぐ終っていました。 国民学校の時は、上級生に喇叭(ラッパ)手が居て、喇叭で合図があっていました。よく八部の階上で、喇叭の練習をしていました。あれは、終戦の前年、私が三年生の時飛行服を着て唐津出身の飛行士が来校しましたが、飛行服のチャックが珍しかったですネ、講堂の前で話があり、翌日は学校の上を二三回低空旋回して飛んで行きました。唐津湾で、ジャンク船が敵の飛行機から攻撃されて、水煙が立ったのを見たことがあります。満人がジャンク船で、たくさん唐津に来ていました。ジャンク船は中国式の帆船ですから、敵も攻撃すまいと云う考えだったのでしょう。今の体育館の所に牡丹江木材会社が出来て、そこへ盛んにジャンクが来ていました。私達が夏の朝早く浜に行き、桟橋から飛込んで頭を上げると、周囲に人糞がプカプカ浮んでいることが、時々ありました。満人と云っていた人は、日本人より大きく、碁盤目(ゴパンメ)のような柄の、厚いダブダブの服を着ていました。

江頭 稲葉先生は、よく叩かれるので、膏薬ハリマの守忠則と綽名をつけていました。

岡部 ゲートルは知っトルヤ。

江頭 どんな物かとは知っていますが、巻き方は知りませんネ。

岡部 私達は、防空頭巾と云って、座布団を二つに折ったようなものを持って、登校していました。防空壕も、新校舎の裏や、今の商工会議所あたりにありました。

江頭 私達は二十七年度入学ですから、何故こんな穴が掘ってあるのかわかりませんでした。後は塵捨場になっていました。

宮崎 友達が、その穴に落ちて、鎖骨を折ったことがありました。

司会 国語の本は、どんなものでしたか。

岡部 私達の一年生は、「アカイ、アカイ、アサヒ アサヒ」 「ハイ。コマイヌサン」

江頭 私達は一年から平仮名で、「ぽちこい。ぽちこい」「たろうさん。はなこさん」それから童謡の歌詞もありました。「ゆうやけこやけ」の歌詞もありました。修身は、もうありませんでした。

岡部 それから新校舎の裏が芋畑になっていたことを覚えていますヨ。

司会 有難うございました。ではこの辺で終りにしたいと思います。