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第二〇 新学制の発足と終戦苦難の道 及び唐津市立唐津小学校 昭和二十年八月十五目正午のラジオ放送で、陛下の戦争終結の玉音を拝聴した全国民は、ただ茫然として放心状態であった。文部省は九月十五日「新日本建設の教育方針」を発表し、戦後の教育の基本方針を明らかにした。その要旨は、国体護持を基本とし、軍国的思想及び施策を排除し、平和国家、文化国家の建設を目標に掲げ、国民の教養の向上、科学的思考力の涵養、平和愛好の信念を養い、以って世界の進展に貢献すべきことを強調した。これは終戦の虚脱と混乱の中で暗中模索していた教育者に対して、新しい教育の方向を示したものとして、暗闇の中の灯台の如く大きな役割を果した。 その上戦後物資の欠乏は深刻であった。粗末な教科書と乏しい学用品とによって学ぶ児童も、その中で教鞭をとる先生も、今までの空自を埋めるため懸命な努力が続けられた。特に食糧不足は全国民にとって真剣な問題であった。昭和二十一年一月七日、文部省は「食糧事情のために教育の実施を緩和しても止むを得ない」という通達まで出している。敗戦という未曽有の試練に耐えて、立ち上がろうとする全国民の決意は固く、終戦後の歩みは筆舌につくし難い苦難の道であった。 昭和二十一年十一月三日「日本国憲法」が公布された。これにより、民主主義の原理に基く国民主権を基調とする精神と、崇高な平和主義に支えられた平和文化国家の建設を目途とする諸原則が明示されたのである。つづいて昭和二十二年三月二十八日に「教育基本法」「学校教育法」が公布施行されて、六・三・三・四制の新学制の発足を見たのである。それによって、皇国民の錬成を目的とした国民学校は廃止され、新しい教育体制の第一歩として新制小学校が誕生し、義務教育は新制中学校三年を含めて九ケ年となった。この「教育基本法」は「憲法」が規定する民主的、平和的な国家再建の理想を実現するためには、根本に於て教育にまつべきものであり、その教育は真理を尊重し、人格の完成を目標とすべきであると宣言して、教育理念への基本原則を打ち出したのであった。かくして昭和二十二年四月十日、唐津国民学校は閉鎖され、「唐津市立唐津小学校」が誕生したのである。 戦後の混乱期の中で、新学制の実施は幾多の困難を伴った。昭和二十二年五月に「学校教育法施行規則」が公布され、その第二十四条に、小学校の教科は、国語、社会、算数、理科、音楽、図画工作、家庭、体育および自由研究を基準とすると規定され、教科の内容や、学習指導の要領も大きく変った。なかでも自由研究(クラブ)の特設は児童の個性を伸ばし、自主性、積極性を高め、創意工夫を図る上からも大きな前進であった。又家庭科は、男子も女子と協力して学習することから、男女共学の精神が生かされ、お互に人格を尊重し合う気風も生まれることになった。一方修身は廃止され、地理・歴史を含めた内容の綜合教科としての社会科が誕生した。 学習指導の方法も教師中心の画一的なものから、児童の個性的能力を生かす児童中心の教授法となり、視聴覚的方法などが重視されるようになってきた。教科書も国定教科書が廃止され、直接指導にあたる教師によって、地域の実情や児童の実態に即して検討され、地方教育委員会が決定する採択制となった。この多事多難の中に過ぎた昭和二十二年度の唐津小学校の校務日誌を開いて見ると、憲法精神普及講習会が開かれた翌日には、教職員単一組織準備委員会があり、校内研究会の後に、教組代議員会が持たれるなど多忙な毎日の傍ら、児童の給食の準備のため、缶詰の配給、粉乳の運搬、南瓜の増産など食糧危機との戦いに懸命な努力が払われている。特に児童の健康管理と環境衛生に留意され、その対策と実施には涙ぐましい活動の姿が記録されている。検眼、蛔虫駆除、DDT撒布、ツベルクリン反応注射、発疹チブス、ジフテリヤ、コレラ等の予防注射と戦後の環境衛生の回復に積極的な努力が払われた。その後経済事情の緩和と、保護者会の絶大な援助によって学校給食の施設も整い、完全給食は充実し、児童の体位向上に大きな成果を挙げることが出来た。 昭和二十二年度校務日誌から 4月5日 佐賀県知事、唐津市長選挙 〃 7日 始業式(八時)、入学式(一時) 〃10日 唐津国民学校を閉鎖し、唐津市立唐津小学校と名称決定、児童数男一、〇二〇人、女九八七人 計二、〇〇七名 〃15日 唐津市長決選投票(樋口、清水両氏)学校が投票場となり休校 佐賀県知事沖森源一氏当選 〃16日 唐津市長清水荘次郎氏当選 〃22日 正田教頭竹木場校長赴任のため辞任式 〃23日 草場達蔵前校長公職追放令により休職となり、野口校長の就任式 5月3日 日本国憲法公布記念式 9月21日 西日本スケッチ大会 10月16日 大体育全盛況 11月6日 修学旅行一年佐志、二年水源地 三年番馬場 四年玉島 五年七郎茶屋 六年翌日佐賀 23年 3月2−4日 大学芸会 〃 24日 卒業式 なお、昭和二十一年十一月には第一回国民体育大会がスポーツの祭典として開催されており、二十三年三月二十一日には唐津市の文化運動に貢献すべく松浦文化連盟の発会式も挙行されている。かくて漸く、戦中、戦後の暗黒のトンネルを抜け出さんとして国民挙げて新生日本の建設に精進し、何時の日か日本が世界の国際場裡に雄飛することを念じつつ、平和国家・文化国家を目標として、虚脱と混乱の中から立ち上るべく渾身の勇気と努力を尽した時代であった。 一方敗戦により我が国は連合軍の占領下に置かれた。連合軍総司令部内に民間情報教育部が設けられ、教育の基本となる指導が行われた。そして教育管理の指令が次々と発せられ、教育の機会均等の理念により民主的教育への道の第一歩が踏み出された。昭和二十年九月から再開された授業では、戦時中の旧教科書から軍国主義的な戦時教材等は文部省からの通達により、墨を塗ったり、切り取ったりして、削除・修正して使用した。昭和二十一年四月に新教科書が作成されたが、当時の用紙事情の逼迫や造本事情の低下を反映して、粗末な分冊、折り畳みの教科書が使用された。又昭和二十一年二月二十一目に「御真影・奉安殿・英霊室等ノ神道的象徴除去ニ関スル件」の指令が出され、天皇神格思想を払拭する為に、当校の奉安殿の棟木の上の千木(チギ)、堅魚木(カツオギ)を撤去し、明治天皇・昭憲皇太后、大正天皇・皇太后、今上・皇后両陛下、の御真影及び勅語・詔書など東松浦郡地方事務所に奉還された。 かくて新生の唐津小学校は、新しい教育理念と民主的教育を旗印に積極的に活動を開始し、特に「個性尊重の学習指導」については大きな成果をあげた。又昭和三年九月二十五目発足以来、施設、設備の充実に、献身的奉仕作業にと目覚しい活動を続けて学校運営の上に大きな役割を果たして来た「唐津小学校保護者会」も発展的に解消して「唐津小学校父母と先生の会」にバトンタッチし、昭和二十三年五月九日華々しく組織され、活動を始めた。元警防団詰所跡に児童図書館を開設したり、戦時中焼夷弾攻撃の防禦の為に、教室の天井を撤去していたが、総工費三十二万円を以て天井の復旧工事を完成するなど、教育尊重と母校愛の気風は高まる一方であった。 この頃より全国的にベビープームの波が打ち寄せ、本校にても児童数の激増のために学級増加が続き、昭和二十四年四月には四十学級を数え、一年より四年まで「一の組」を養護学級として編成するまでになった。それで新校舎の増築を企画し、佐賀市松尾組と請負契約を結び、総工費二百六十七万円にて、新校舎四教室の百六一坪と便所十坪の改築が着手され、昭和二十四年九月十五日に落成した。 そして九月十七日、十八日に新校舎増築落成記念展覧会が盛大に開催された。 又五月二十八日からは軍政部の勧奨によって週五日制の授業を実施し、土、日曜日は休業となった。これにより児童生活の自治活動を助長し、学習能率の向上を図り、教師の教養の進展と社会生活の充実を期すなどの目的であったが、一面で少年非行問題が表面化し、学力の低下が叫ばれて、幾多の問題を残しながら昭和二十五年八月三十一日限り、一ケ年半足らずの歩みを閉じ、週六日制の授業に復帰した。 尚、昭和二十三年五月二日午前零時を期して実施された「サマータイム」(夏時間)は、夏季の一定期間、時間を一時間だけ繰り上げて、国民の「早寝・早起き」を促し、時間の能率を上げようという趣旨で実施されたが、「寝不足」や「夕食が二回必要になる」などの理由で、国民の悪評を買い、二十七年三月に中止された。
そして最も憂慮されていた国民学校職員たる地方教官の資格問題を決定する「進退事務についての注意事項」が昭和二十二年二月十九日に指示されて「教員適格審査」が行われた。所謂公職追放令が出されて唐津小学校長草場達蔵氏がその犠牲となり、適格審査の決定まで昭和二十二年二月一日に出校停止となられた。 かくの如く総司令部の指令をめぐって全国民は動揺しながらも日本民族の進むべき道と、民主的平和日本の再建への努力は、隠忍自重の中にひたすら精進し続けられた。唐津小学校もこの風波をまともに被りながらも教職員、父兄、児童は共に相助け、相励して着々と有終の美を飾らんと努力が続けられた。その成果として昭和二十五年七月に県より結核予防優秀校として表彰を受け、十月には本校PTA及び特志者の寄附により総工費二十一万円を以てNHK局放送と、学校放送設備を完成し、翌二十六年二月二十一日には完全給食が実施された。そして八月十五日に「スシ詰学級」解消のため二十四年新築の新校舎を建増し延長して、校庭西北隅に二階建の四教室が落成した。九月九日には「唐津小学校同窓会」が卒業生有志により新たに組織発足し、十月六日喜寿の年を迎えた本校の創立七十七周年記念式典が華々しく校庭に於て挙行された。続いて翌七日には記念祝賀体育大会が開催され、教職員、父兄、同窓生、児童一丸となって喜寿を迎えた我が校を謳歌し、歓び合い、大盛会裡に終幕したのである。 昭和二十四年七月十八日、本校は県内の新教育推進のために三ケ年間佐賀県教育委員会より実験学校に指定され、新教育の実践的研究が始められた。以来第二年目は体育、音楽、図工の三教科の学習指導法及び実技の向上の研究に重点を置き、第三年目の昭和二十七年二月一日に「本校教育の歩み」として個人差即応の教育研究発表会が開催された。県外の学校からの参観者も多く、多大の成果を上げて好評を収め、盛会裡に終った。 続いて十一月二十一日に「生活教育の再検討」研究発表会が開かれ、三百余名の来会者に深い感銘を与えた。翌二十八年十二月四日には「算数能力別指導、養護学級、体型学級経営、生年月日順による学級編成、生活教育の歩み」について研究発表会が開催され、その斬新卓抜な着眼と研究は、多数の参会者に多大な興味と啓発を与え、唐津小学校の名声を弥が上にも高揚させたものであった。これにより、人間としての調和と統一、個性、能力、特性の伸長、教育内容の精選などを基礎とした教育が進められて来た。 本校の給食事業は昭和十三年度に保護者会の事業として非常な期待の内に偏食矯正を目的として副食物だけの給食が実施されたのが最初である。献立表は女教師に依頼し、炊事婦二名を雇入れて始められたが不幸にも一時中絶した。然しこの時期に於ける給食の開始は県下では珍しい事であった。その後昭和十六年三月、保護者会長高取盛と学校長中島太の共同提唱により虚弱児童、異常児童、病弱児童の養護・救済と、健康教育の推進のため給食事業を開始すべくその設備費の募金を全保護者と有志に訴えた。そして総額壱万九千五百円の給食設備費を投じて児童一千人分を賄う施設が整備され、給食が実施されたのである。以来設備の増強、戦中、戦後の食糧事情の逼迫などで、時に消長はあったが、児童の健康保持増進のため、献身的努力が続けられてきたのである。終戦後もいち早く給食を再開して、昭和二十六年二月二十一日に完全給食を実施する迄に復旧し、四月二日には学校給食炊事婦六名が市より任命された。十一月三十日・本校保健委員会が結成され、第一回の会合が開かれ、翌二十七年三月十日には唐津小学校父母と先生の会が開催されて、昭和二十七年度から一過四日の給食実施が決定された。そして九月五日に県知事、県学校保健会、朝日新聞社より県下健康優良学校第一位として表彰され、最高の栄誉を獲得したのである。九月十三日にはPTA主催の表彰祝賀会が開催され、この研究と努力に対して感謝と賞讃の誠を現し、大きな成果を祝い合った。昭和三十一年六月十九日には学校給食に関し、佐賀市に於て文部大臣の表彰を受け、翌三十二年十月八日には秋田市に於て、全国給食研究協議会から給食優良校として文部大臣の表彰を受け、十二月七日には健康優良校として表彰されるなど、その努力と精進の輝く成果は本校沿革史上特筆されるものである。 昭和二十五年漸く戦後の動揺と混乱が治まり、民心も平静に帰らんとしつつあった六月二十五日、再び東洋の一角、朝鮮に於て戦乱が勃発した。然しこの動乱は経済的に破綻に瀕していた我国には旱天の慈雨となり、死中に活を得るものとなった。米軍と韓国の戦争物資の調達により、我国の経済界は水を得た魚の如く活気に満ちた。そして経済の成長は急角度に上昇し、技術の革新は華々しく開花した。一方戦後のベビーブームの荒波は就学児童の激増となって打寄せる時期となっていた。各学校共に学級数の増加と、教室の狭隘と、校舎の不足に悩んでいた。文部省はこの時期を捉え、文教施設の整備に乗り出し、すし詰の学級の解消や教育条件の整備を指示し、義務教育の整備・充実に力を入れた。そして昭和二十八年八月に「公立学校施設費国庫負担法」と「危険校舎改築促進臨時措置法」を公布した。偶々唐津市は同じく八月から唐津競艇場を開場し、その入場料と開催益金は順調に市の金庫を潤していた時であった。この時、野口三治校長は、唐津小学校同窓会、PTA、市内駐在員、婦人会、に呼びかけ十月十九日に校舎改築促進委員会を開催し、その編成と運動方針について協議を始めた。以後その気運は急速に進展し、二十九年四月、坂本卯三郎校長が就任されると同時に六月二十三日、校舎改築促進委員会を校舎改築実行委員会と改め、委員を増員して委員会の強化を図り、中央及び県・市に強力に働きかけた。偶々九月二十四日、四部校舎の屋根瓦が滑り落ち、幸い人畜には被害はなかったが、これが契機となって十月二十七日に内町出身の市会議員全員を交え、校舎改築実行委員会を開き、学校敷地の候補地、資金計画、建築設計の基本構想等を協議した。 ここで、唐津市の明日を担う子供達の為に、日本の未来を背負うて立つ子供達の為に、さらには来るべき二十一世紀にたくましく、力一杯生き抜いて行くであろう子供達の為に、限りない愛情と期待をこめて全校区を挙げて協力一致し、衆知を結集して将来の見通しの上に立って、理想的な教育環境の地を選び、完全な教育施設の整った学校を建設すべく、委員会にて衆議一決したのである。そして敷地を藩校志道館の旧趾であり、唐津小学校の校外運動場である現志道小学校の地を新築校舎の敷地として決定した。その後、文部省より唐津小学校の現校舎を老朽校舎として認定し、改築することを許可されたので、三ケ年計画で鉄筋コンクリート三階建の校舎の新築にかかった。昭和三十年四月十四日、第一期工事として二七〇坪の鉄筋三階建の校舎の建設を岸本組が請負契約して着工した。続いて昭和三十一年二月一日より十五教室の完成を目標に第二期工事に着手し、翌三十二年二月八日より第三期工事に着工して、着々と美しい白亜の殿堂の如き校舎が姿を整えて行った。
この間に本校は、昭和三十年に創立八十周年記念の年を迎えた。この輝かしい歴史を寿ぐ行事として「創立八十周年記念体育大会」が開催されることになったが、校外運動場は新校舎建築中で、体育大会の開催は不可能であったため、唐津高等学校西校舎の校庭に於て盛大に挙行された。 (唐津高等学校西校舎は大成小学校と道路を拒てて南側にあり、戦争中まで佐賀県立唐津高等女学校であった。後に佐賀県立唐津西高等学校として独立し、昭和五十年、市内旭ヶ丘に移転準備の整地作業中である。)そして翌昭和三十一年三月二十日、唐津小学校第九回卒業式の式後創立満八十周年記念式典を挙行し、華々しく寿ぎ祝ったのである。かくて新校舎の建設が順調に進捗しつつあった昭和三十二年四月一日に、児童数の激増と共にいよいよ全校区を東西両区に分割し、児童も自然分離すべき時期となったので、学級の編成替えが行われた。従来一年より六年まで養護学級を編成していたが、一年生のみ養護学級を残し、全校を四十二学級として東、西両校区に分離編成された。 |
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