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第十九 唐津国民学校 昭和十五年、皇紀二千六百年記念の年は、又教育勅語渙発五十周年と重なり意義深い年になった。皇国民錬成の道場として健康報国碑を建立して体育衛生に主眼を置き、心身一体の鍛練という太い線によって貫かれた戦時体制下の本校は、全てをあげて決戦体制へと礎は布石された。
昭和十六年三月一日「国民学校令」が公布され、四月一日から国民学校制度が実施された。 国民学校の目的は国民学校令第一条に「国民学校ハ皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為スヲ以テ目的トス」と要約されているように、教育全般に亘って皇国の道を修練させることを目指したのである。制度上の改革点として注目すべきものは (1) 義務教育年限を八年に延長されたこと。これは昭和十九年から実施されることになったが、戦時非常措置により延期され、終戦となった。 (2) 国民学校の課程を初等科六年、高等科二年とした。 (3) 高等科修了者に一年の特修科をおいた。 (4) 就学義務の徹底を図った。 (5) 国民学校の職員の組織、待遇を改善した。 内容上の改革として、皇国の道に則る国民の基礎的錬成をするために五つの資質内容が示された。 (1) 国民精神を体認し、国体に対する確固たる信念を有し、皇国の使命に対する自覚を有していること。 (2) 透徹せる理知的能力を有し、合理創造の精神を体得し、以て国民の進展に貢献しうること。 (3) 濶達剛健な心身と献身奉公の実践力とを有していること。 (4) 高雅な情操と芸術的、技能的な表現力を有し、国民生活を充実する力を有すること。 (5) 産業の国家的意義を明らかにし、勤労を愛好し、職業報国の実践力を有していること。
教育の方法は「錬成」で「錬磨育成」を意味し、資質を錬成するため五教科十六科目が設定された。そして「児童の陶冶性を出発点として皇国の道に則り児童の内面より力の限り全能力を正しい目標に集中せしめて錬磨し、国民的性格を育成することである。」と定義された。国民学校教育はそれ自身完成教育でありながら、同時に将来の教育の基礎であり、生涯持続されるべき自己修養の根幹であると説明された。かくして聖戦完遂の為の戦時体制となり、月月火水木金金の学校生活が送られたのである。坂を走り下る雪ダルマの如く止ることなく、ズルズルと戦乱の渦巻は脹れて行った。昭和十八年頃より戦争は苛烈を極めて来て、全国民は「聖戦完遂」の目標に向って邁進し、「欲しがりません勝つ迄は」と耐乏の生活を余儀なくされた。国民学校教育も皇国の道に則りて、尽忠報国の精神が日々育成しつつあった。昭和十八年三月、陸海少年兵が誕生し、卒業を待たず各々出発した。ここに校門即営門と続き、皇国民育成はここ迄浸透し、実現するまでとなった。 昭和十九年より米軍のB29爆撃機による本土攻撃が熾烈となり、戦局は憂慮される状態となった。この頃から学童疎開が行われ、縁故疎開や、集団疎開の方法がとられた。昭和二十年三月には政府は「決戦教育措置要項」を決定し、初等科を除き学校授業は一年間停止され、さらに五月二十二日に「戦時教育令」が公布され、学徒に対し最後の奉公を求めたのであった。わが唐津市の上空にも米軍機が飛来し、大島の沖でジャンク船が攻撃されたり、福岡市の空襲の夜は一晩中東の夜空が真赤に焦げていたのが望見された。日夜警戒警報・空襲警報のサイレンにおののきながら憂鬱な生活が続いた。白壁の擬装、防空壕の構築、疎開家屋の整理、防空頭巾の携帯など銃後の国民も第一線の兵士と同じく戦った。そして老若男女を問わず竹槍訓練をして、一人必殺の信念を養なったのである。当校でも先生が教壇より応召して次々に姿を消していった。かくして全国民挙げて本土決戦の覚悟を固めていた。このような時局であったので、戦争末期には学校は教育機能を失っていたと言っても過言ではなかった。 しかし戦局は遂に我に利あらずして、昭和二十年八月十五目正午、天皇の玉音放送を以て戦争の終結を迎えたのである。
6・2・1 唐津町は唐津村を合併す。 〃・9・18 満州事変起る。 7・1・1 唐津町は市制施行し唐津市となり、初代市長に河村嘉一郎就任す。 〃・1・28 上海事変起る。 〃・3・1 満州国承認 〃・5・15 五・一五事件起り、犬養首相暗殺さる。 8・8・25 丹那トンネル開通 8・11・3 明治節を卜し保護者会の寄附により建設された奉安殿の落成式挙行 9・ 4 唐津市内の各小学校の高等科を統合したので唐津尋常小学校と改称す。 〃・7・16 上海小学校児童初めて避暑に来り当校を宿舎とする。 10・2・18 美濃部達吉博士の天皇機関説問題となる。 〃・4・1 青年学校令公布 〃・4・9 文部省国体明徴を声明 〃・〃・15 全国向けラジオ学校放送を開始 〃・〃 本校の講堂の一部を改造 〃・〃 上海児童及び本年度卒業児童の寄贈によりラジオ機械完備す 〃・〃 映写設備完成 〃・5 唐津町青年学校の枚舎が竣工して本校より移転す。それで校長室を移動す。 〃・7・20 上海小学校児童避暑のため来校す 10・10・21 養護室完成す 〃 温室完備 11・2・26 二・二六事件起る。斉藤内大臣、高橋蔵相、渡辺教育総監暗殺され、東京市に戒厳令が布告される。 〃・5・17 校務室・給仕室改造 〃・〃・27 県国防協会主催の映写会でフィルム引火事件あり 〃・9・20 佐賀県防空演習行わる 〃・〃・23 唐津市青年団の分離並に結成式挙行 〃・9・28 女子青年団の分離並に結成式挙行 〃・10・3 梨本宮殿下奉迎 〃・11・17 国会議事堂竣工 〃・12・17 愛国子女団結成発団式挙行 12・2・11 文化勲章制定 〃・5・31 文部省「国体の本義」出版 〃・4・15 東伏見宮妃殿下奉迎 〃・7・7 日華事変起る 〃・7・21 文部省教学局を設置 〃・10・23 保護者会の協力により、健康訓練場設置。 校外運動場及び校庭に体育諸器具を設備す。 (高取両家より多額の寄附金) 12・10・12 国民精神総動員中央連盟創立 〃・11・5 佐賀県学校衛生会、佐賀県学校歯科医師会、唐津市東松浦郡学校衛生会及び唐津市の各嘱託医により本校の体育衛生研究の実際の発表会開催 〃・〃・6 日独伊防共協定調印 〃・〃・20 大本営設置 〃・12・12 南京陥落 13・4・1 国家総動員法公布 本校児童数増加の為各学年に一学級増設し、各学年共に五学級編成とし、全学級三十学級となる。 〃・4・21 梨本宮妃殿下奉迎 〃・7・15 張鼓峰事件(日・ソ両軍衝突) 〃・9・11 唐津婦人会分離並びに結成式 〃・〃・24 本校八部校舎内に郷土室及び時局室設置 〃・10・21 バイアス湾上陸軍広東占領 〃・10・7 武漢三鎮占領 〃・12・21 西唐津築港にて献納海軍飛行機命名式行われ全校生徒参列す 14・1・25 警防団令公布 〃・4・12 米穀配給統制法公布 〃・〃・14 唐津小学校新校旗制定、神谷寿太郎寄贈。 〃・〃・26 青年学校令改正され、義務教育となる。 〃・5・11 ノモンハン事件(日・ソ外蒙の両軍衝突) 〃・6・14 朝香宮殿下奉迎 〃・〃・22 天皇全国学生生徒の代表を閲兵。青少年学徒に勅語を賜う 〃・7・8 国民徴用令公布 〃・9・13 第二次世界大戦勃発 15・2・22 紀元二千六百年記念学芸大会及び展覧会開催 〃・3 義務教育費国庫負担法を公布 〃・5・8 本校は文部省より体育表彰状を受く 〃・6・1 砂糖・マッチの切符制開始 〃・〃・7 本校の裏門を新設 〃・9・11 隣組、町内常会の整備要綱を通達 〃・9・12 本校保護者会の協力により講堂前庭に「健康報国碑」建立。
〃・10・1 第五回国勢調査、総人口一億五二二万人 〃・〃・11 二千六百年記念として保護者会より歴代校長の写真を講堂に掲揚す。 〃・〃・12 大政翼賛会発会式 〃・〃・18 旧唐津藩主小笠原長生唐津訪問 〃・11・2 国民服令公布 〃・〃・10 紀元二千六百年記念式典皇居前で挙行 唐津市主催の奉祝式に全生徒参加し、旗行列を行う。 16・1・8 「戦陣訓」通達 〃・1・16 大日本青少年団結成 〃・3 本校給食場設置、設備費一万九千五百円保護者会より寄附 〃・4・1 国民学校令及び施行規則により本校は「唐津市立唐津国民学校」と改称す 東京・大阪両府で米穀配給通帳制実施 〃・6・7 本校保護者会々頭高取盛辞任す。 〃・〃・27 中島太校長青年学校へ転出 〃・7 文部省「臣民の道」を刊行各学校に配布 〃・8・22 唐津市青年団結成式 〃・9・14 各学校区青少年隊結成 〃・〃・20 第一回航空記念日 〃・10・9 本校初等科一年より四年までに養護学級を編成し、四部校舎の教室を充当する。 〃・11・3 唐津市に佐志町を合併 〃・12・8 日本海軍航空隊ハワイ空襲 午前十一時対米英宣戦の大詔喚発され、太平洋戦争勃発。 17・2・1 衣料切符制実施 〃・2・2 シンガポール陥落 〃・3 唐津国民学校保護者会頭に、鵜殿輝長就任 〃・4・18 米軍機日本本土初空襲 〃・7・1 地方事務所設置 〃・9・18 本校生徒増加し、初等科四学年に一学級増加して六学級とす。総学級数三十二学級となる 〃・10・5 本校保護者会の協力により四部校舎を改造し、養護学級四教室、炊事室一室を設け、湯沸場、煮焚場の増築をなし設備完備す 〃・〃・30 学制頒布七〇年記念式典を挙行 〃・11・15 関門海峡海底鉄道トンネル開通 〃・12・24 戦争中サイレンの使用禁止され、校内各部に一個宛ベルを設備す 18・2・1 ガダルカナル島より我軍撤兵 〃・4・18 海軍司令長官山本五十六元帥戦死 〃・7・31 元本校々長大川謙治先生の銅像が、金属回収のため赤襷を掛けられて広召することになり、胸像前にて献納撤去式挙行 〃・9・24 本校に西部第六七九一部隊本部駐屯す 〃・10・18 県指定学校経営の実際につき研究発表会 〃・12・1 第一回学徒出陣 〃・〃・24 徴兵適齢を一年繰り下ぐ 19・1・26 防空法による疎開命令発令 〃・4・1 旅行の制限=特急寝台食堂車廃止 歌舞伎座帝劇等閉鎖、雑炊食堂開く 〃・6・30 大都市の学童疎開開始 〃・8・1 砂糖の家庭用配給停止 〃・〃・23 女子挺身勤労法公布、女子挺身隊出勤 〃・10・19 神風特攻隊編成 〃・11・24 B29東京初空襲 20・3・18 決戦教育措置要項により国民学校初等科を除き学校授業を一年間停止に決定 〃・5・7 ドイツ軍無条件降伏 〃・6・10 戦局逼迫し、空襲激化の時、児童保護の為、保護者会の協力により、校内の第一部校舎前に内務省企画型待避壕二ケ所築造すべく着手した。=一ケ所築造中終戦となり中止す 〃・5・22 戦時教育令公布 〃・6・11 暁第六一六八部隊杉山隊一三〇名本校駐屯 〃・6・21 沖縄敗戦 〃・〃・26 空襲激化の為天皇の御真影並びに勅語詔書の騰本を竹木場校奉安所に奉遷す 〃・7・19 空襲激化により特に暑中休暇を賜い、児童は各自の家庭に於て分散教育となる。 〃・8・6 原子爆弾投下(6日広島、9日長崎) 〃・〃・6 宗第、一三五四七部隊九二名本校講堂に駐屯 彗第八〇六三部隊高橋隊一四〇名本校講堂に駐屯 〃・〃・8 ソ連対日宣戦通告 〃・〃・15 ポツダム宣言受諾、天皇終戦の大詔を放送。 第二次世界大戦終る。 〃・9・6 御真影・勅語詔書騰本を竹木場校より本校に奉還す 〃・〃・20 教科書取扱方に関する通達あり、戦時教材の削除の通知 〃・10・3 学校に於ける柔剣道及び教練の廃止通達 〃・〃・8 学校放送再開 〃・10・13 勅語・詔書の奉読廃止 〃・10・31 応召中の職員殆ど復員し復職す。教職員の臨時異動、五名の退職者あり 〃・12・1 全日本教職員組合結成 〃・〃・31 米軍総司令部は修身、日本歴史、地理の授業停止を命ずる。 |
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![]() 昭和21年4月まで暫定的に使用された分冊、折りたたみ教科書 |
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![]() 昭和20年9月から使用された墨塗り教科書 |
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