|
||||
第十八 昭和前期の世相と 小学校教育の変遷 唐津家政女学校と 唐津尋常小学校 第一次世界大戦後の経済界の不況と、社会主義、自由主義思想の台頭の中に迎えた昭和の世代は、国民生活を沈滞と不安の谷間に追い込んでいた。そして世界的経済恐慌の大濤は、容赦なく我国にも押し寄せ、昭和三年三月十五日には金融恐慌が起り、銀行預金の取付け騒ぎが全国に拡まり、モラトリアムが布かれた。然し経済界は益々混乱し、不況は深刻化するばかりで、その影響は特に農山漁村に著しかった。それに昭和五年一月十一目に「金輸出解禁」が採用されたので、米価は大暴落を告げ、米一俵(六〇kg)が五円位まで下落した。疲弊のどん底にあった農村の危機は益々深刻となり、各地に労働争議が続発した。このころ学童の中で弁当を持参することのできない欠食児童数が全国で二〇万を突破したと云う。そして昭和六年九月十八日、柳条溝の一発の銃声より勃発した満洲事変は、七年に上海事変に発展し、この年の五月十五日には痛ましい五・一五事件が起り、時の宰相犬養毅(木堂)は陸軍青年将校により「問答無用」の一言の下に暗殺されたのである。
かくの如く世相の不安と経済界の不況は、全国の町村の教育費にも影響が現われ、教職員の給料の遅払いや強制寄附などの事態が起り、遂に昭和六年には給料の減額が行われた。児童生徒の教育方針も次第に変り、心身の鍛錬、国民道徳の徹底を中軸とした訓育となり、修学旅行などは中止されるようになって、潤いのない教育へ進んで行った。又満州事変の勃発に伴い、社会主義思想や自由主義思想は弾圧を受け、代って軍国主義思想が登場して来て、軍刀や軍靴の音が国内を風靡し始めた。 教育界も自由主義思想は影を潜め、軍国主義教育が強化された。大正十五年四月、青年訓練所令が公布されて、「その心身を鍛錬して国民たるの資質の向上」を要求されて以来、教育の思想も方針も一大変換期を迎えた。昭和三年三月十二日、皇太子裕仁親王は今上天皇となられ、即位の御大礼祝典が挙げられた。その時「教育ニ関スル御沙汰」を発せられ、日本精神の涵養と国家意識の発揚を中心として、健全なる国民養成に主眼を置くことを諭された。続いて昭和五年十二月には「家庭教育振興に関スル件」の訓令が発せられて、教育の内容も方法も、国防や教練に重点が移り、軍国主義の色彩が一段と濃厚になった。
我唐津町にては、外町尋常小学校の建築工事が完成したので、昭和二年四月の新学期より外町区域の尋常科男子児童も唐津尋常高等小学校より分離し、外町尋常小学校へ登校することになった。 又、昭和三年二月二十二日、町議会に於て唐津専修女学校を唐津家政女学校と改称することを議決し、三月二十九日認可申請をした。 議第三一号 佐賀県訓令甲第二号ノ改正ニ依リ唐津専修女学校ヲ唐津家政女学校卜名称ヲ改ム 昭和三年二月二十二日 唐津町長臨時代理者 萩 谷 勇之介 同時に唐津家政女学校の学則も改正したが、内容的には唐津専修女学校と変らなかった。昭和六年二月一日大唐津建設を目途にしていた唐津町は唐津村を合併し、遂に翌七年一月元日を以て市制施行を公布し、「唐津市」が誕生した。そして初代市長に河村嘉一郎が就任した。 昭和九年四月、唐津市内の各小学校より高等科を分離し、唐津高等小学校に統合することが決定したので、唐津尋常高等小学校は「唐津尋常小学校」と改称し、高等科を分離した。
|
||||