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第十七 校訓の制定と 校旗・校歌・卒業式歌 及び外町小学校の創設と 唐津町青年訓練所 大正九年、丸山金治校長は、校訓として「至誠」の二字を制定して高く掲げた。教育勅語の御趣旨を奉戴し、心身の鍛錬と国民道徳のメ揚を中軸として、滅私奉公の精神に徹することこそ唐津小学校の全員の誠心は凝りて以て「至誠」の二字に尽きると訓した。そして十一月二日、訓導錦織徳市が作歌し、仝じく高田重男が作曲して、旧藩主子爵海軍中将小笠原長生の撰になる「唐津尋常高等小学校校歌」が文部省より認可されて発表された。日常「至誠」の二字を体して「義勇奉公」「尊皇愛国」の精神を養うことが、あらゆる道徳の根本であると歌われた。そして、「至誠」の精神を真紅に色どり、唐津小学校の校章を中央に金色で浮き彫りにした校旗が、新しく制定された。かくて学校数育の中心は「忠孝」の道徳を基盤にして、愛国心を養うための指導が強く進められたが、これは学校教育に限らず国民生活の上でも国民道徳の基準とされていた時期であった。 又、このころには懐しい「運動会唱歌」や「夏季衛生唱歌」なども製作され、特に「卒業式唱歌」は唐津小学校独特な歌詞が作られ、卒業式当日、講堂でこの唱歌を斉唱しながら涙を流して感激した卒業生も多かったと思う。
唐津小学校々歌 大正九年十一月二日 文部省認可済 小笠原長生閣下撰 一、常に至誠を旨として 皇国のためにつくせよと 朝な夕なの御教えや 仰げば高し 玄海の月 二、朝な夕なに此の庭の 恵の露に潤ひて 咲くや数多の撫子の 薫りは高し 鶴城の花 錦織徳市先生 作詞 高田重男先生 作曲 卒 業 式(其の一) 1 卒業生在校生相共に斉唱 恵の露に潤ひて 教への庭に咲き匂ふ 花の色香はおしなべて 時をうるこそ嬉しけれ 2 卒 業 生 一、深き海にもまさりける 教への親の志し うけて学びの沖を漕ぐ 船のしるべぞ頼もしき 二、同じ梢の百千鳥 囀る春にあいぬれば 彼方 此方に飛び交へど 花のねぐらは忘れじな 3 在 校 生 一、高き山にもまさりける 学びの兄(姉)の慈しみ 受けて教の麓行く 道のしるべの嬉しさよ 二、春に先づあふ鴬は 早くも谷を立ち出でて 花の林に移るとも 雪の古(降)る巣を顧みよ 運 動 会 宮崎 雅春 作詞 一、勇みに勇む我校の 運動会の装ひは 忠孝兼備類なき 我が日本の華ならむ 萠黄匂ひ緋緘の 昔覚ゆる戦立ち ときわの山の山松の しぐれにそまぬ雄々しさや 二、赤き心の紅葉(モミジパ)の 錦色濃き龍田山 白波越えぬ大御代も 忘れじものと武士の 戦ひ学ぶその様は 待賢門の夜戦や 倶利加羅落し一の谷 川中島や桶狭間 今、目の前に浮びしも 合図の笛に打解けて 語るは元の思うどち 隔ぬ中ぞ頼もしき 夏休衛生唱歌 丸山金治校長先生の指示により錦織徳市先生が作詞されたもので多梅雅の散歩唱歌の曲を用ふ 一、待ちに待ちたる夏は来ぬ 体鍛ふは此の時ぞ 病多きも此の時ぞ 衛生注意を数へみん 二、さても飲み物食ひ物の なかにも刺身やぬたの類 胡瓜膾や生水は わきて心を付け(清け)よかし 三、挑やすももに西瓜うり 冷やし素麺氷り水 宵の残りや間食い 殊に夜分は害多し 四、蟹や烏賊 章魚 蝦 鰯臨 揚げもの、貝類 心太 南瓜や餅や団子類 何れもこなれぬものぞかし 五、ラムネ サイダー シトロンは 下痢の基となるものぞ 渇を止むる為ならば さ湯を冷やして飲むがよい 六、蒲団や寝巻は陽に晒し 着物は度々洗濯し 胸腹冷さぬ用意して 夜は更かさず早く寝よ 七、朝は疾く疾く起き出でて 冷水摩擦や深呼吸 掃除手伝怠らず 学科のさらえ忘るなよ 八、指の爪には垢ためな 食事の前には手を洗へ 食後は昼寝せぬように 日向ははだしで歩くなよ 九、泳ぐ時には親に告げ 朝か晩かのその中で せめて五分か十分か 長く泳げば身に障る 十、買ぐいせずに貯金せよ 衛生注意をよく守り 休を鍛ひ文夫にし 秋の霜にもほこらなむ
大正九年は国内的にも記念行事の多い年であった。五月一日には第一回メーデー察が働く人の祭典として華々しく開催され、六月十日は初めて「時の記念日」が創設された。そして十月一日には第一回国勢調査が実施され、総人口七、六九九万人を数えた。大正十年十一月十二日にはメートル法の改正が公布され、同十一年十月三十日には学制頒布五十周年記念式典が挙行された。そして大正十二年二月十一日の紀元節を期して「社会奉仕デー」が制定され、奉仕の精神の育成に努めることになった。この年九月一日突如として大地震が関東地方を襲い、国内の人心は動揺の色を見せたが、大正天皇は同年十一月十日「国民精神作興に関スル詔書」を発布されて、国民の志気を鼓舞激励された。大正十三年一月一日、唐津町は満島村を併合して大唐津建設に一歩を踏み出した。この年五月二十日に唐津尋常高等小学校長丸山金治は辞任し、秋月兼一が校長に就任した。 大正十四年三月、日本放送協会が初めて東京芝浦の放送所よりラジオの電波を送った。国民は雑音の多い鉱石受信器に耳を傾け、文化の進歩に驚きつつも、暗い顔に明るさを取り戻していたが、四月に「治安維持法」が成立し、「陸軍現役将校学校配属令」が公布されて、全国中等学校に軍事教練が実施されることになった。そして大正十五年十一月に福岡・佐賀両県下に陸軍特別大演習が行われ、軍靴の響きは国民を不安と恐怖に怯えさせ、愈々軍国色一色に塗り潰ぶされて行った。 教育面に於ても大正十五年四月に「青年訓練所令」が公布され、唐津町にても七月「唐津町青年訓練所」が唐津尋常高等小学校に併設された。この青年訓練所は実業補習学校規定に基いて「職業ニ従事シ又ハ従事セントスルモノニ対シ、職業教育、公民教育ヲナスト共ニ、其ノ心身ヲ鍛錬シテ国民タルノ資質ヲ向上セシムルヲ以テ目的」とするもので男子部のみで編成された。修業年限は本科四ケ年で前期二学年・後期二学年とし、本科修了後は研究科四学年を修業することになっていた。尚、研究科四学年を終えて満二十歳に達しない者は、専攻生として在学しなければならなかった。 女子部も同年四月一日実業補習学校規定に基き、唐津専修女学校が設立され、唐津尋常高等小学校に併置された。 そして「小学校ノ教科ヲ卒へ家事ニ従事スル女子ニ対シ、家業ニ関スル知識技能ヲ授クルト共ニ国民生活ニ必須ナル教育ヲナスヲ以テ目的」として、男子の青年訓練所に相当する女子の学校であった。終業年限は普通科と専修科に分ち、普通科は前期・後期各二学年とし、専修科はニケ年と定められていた。定員は普通科は制限がなかったが専修科は百名であった。授業料は、本町内に居住して、町税を負担する者の家族は一ケ月二円で、其の他の者は二円五十銭であった。そして両校とも秋月唐津尋常高等小学校長が校長を兼任した。 この頃より唐津尋常高等小学校の分割問題が起り、唐津町立外町尋常小学校を創設することが決定して、十人町の裏山に学校敷地の整地作業が始っていた。この時水主町の青年団は、卒先して整地作業に従事し、額に汗して勤労に精励した。従来水主町の曳山「鯱」は明治九年に奉納されていたが、鯱の姿が長大に過ぎ、町内巡幸の時曳山に非常に苦労していたので改造の計画が進められていた。この改造費用の蓄積のため水主町青年団は無料奉仕をしたのである。今日の鯱の曳山は当時の青年団の汗と脂の結晶と云えよう。かくして大正十五年四月に外町小学校の第一期工事が竣工し、外町区内の尋常科女児童のみ分離して新校舎に登校するようになった。 かかる中に七月一日には行政改革で東松浦郡役所は廃止され、十二月二十五日大正天皇は崩御せられ、皇太子摂政宮裕仁親王が践祚されて、世は昭和と改元されたのである。 大正天皇御大葬の歌 芳賀矢一作詩 地にひれふして天地(アメツチ)に 祈りし誠 いれられず 如月(キサラギ)の空 春浅み 寒風(サムカゼ)いとど身にはしむ |
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