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第十六 唐津幼稚園と 校外運動場開設 及び唐津商業補習学校 この頃唐津町には明治四十四年十月三十日に認可された「私立唐津幼稚園」が市内十人町の元市開小学校跡(唐津木工(株)の隣家)に設立されていた。園主、進藤婦美と園長、奥村七百(奥村五百女史の姪)によって経営され、一時は遊戯室を増築し、運動場も拡張して園児は五十名を数えるまで隆盛になっていた。町当局も大正三年以降毎年補助金を交付して育成に努めていたのであったが、終に経営困難となり大正六年三月限り廃園することになった。それで唐津町は急遽町立幼稚園の設立を企画し、一時唐津尋常高等小学校に附設することとし、大正六年五月より小学校学級の減少で空室となった教場及び講堂の一部を使用して開園することになった。然しこのまま小学校に併設することは小学校教育上支障尠なからずとして、大正七年度には現小学校敷地外に園舎を建築することを佐賀県より示達された。 幼稚園廃園届 明治四十四年十月三十日付ヲ以テ設置許可相成侯私立唐津幼稚園ハ本年三月限り廃園可致慎ニ付別紙廃園事由及処分方法書添属此段及御届侯也 大正六年三月十四日 東松浦郡鬼塚村 園主 進 藤 婦 美 東松浦郡唐津町 同 奥 村 七 百 佐賀県知事 岡田宇之助殿 廃園事由(略) 処分方法 一、現在ノ園児ハ町立幼稚園ニ引継グモノトス 一、家屋機械器具恩物等一切町立幼稚園ニ寄附ス 発唐学第七号 唐津幼稚園設立認可申請 唐津町は県下ニ於ケル随一ノ大町ニシテ人口壱万五千余ノ各種職業者ヲ網羅シ随テ幼児保育所ノ必要相認メ候ニ付左記事項ニ依り唐津幼椎園ヲ来大正六年四月ヨリ唐津尋常高等小学校ニ附設致皮候条御認可相成度別紙理由書添属此段申請候也 大正六年三月二十日 唐津町長 斉 藤 勇 三 印 佐賀県知事 岡田宇之助殿 唐津幼稚園規則 第一条 本園ハ満四歳ヨリ尋常小学校ニ入学スル迄ノ幼児ヲ保育スルヲ以テ目的トス但年齢ノ計算ハ入園ノ年四月一日迄ニ満四年ニ達スルモノトス 第二条 本園ハ前条ニ依リ幼児ノ心身ヲシテ健全ナル発達卜善良ナル習慣ヲ得セシメ家庭教育ヲ補フヲ以テ要旨トナス 第三条 園児ノ定員ハ八拾名トス 第四条 保育ノ項目ハ遊戯、唱歌、談話、手技トシ其各項ニ対スル時間ヲ定ムルコト左ノ如シ但保育ノ時間ハ季節ニヨリ一週十八時間ニ短縮スルコトアルベシ尚各項時間配当ハ三十分トス 項 級 毎週保育時間 第一年 毎週保育時間 第二月 談 話 四 修身ニ関スル御伽話日用庶物ノ解説 四 修身ニ関スル談話日用庶物ノ解説 唱 歌 六 単音唱歌 六 単音唱歌 手 技 八 恩物ノ並方、剪紙繋キ方豆細工 八 恩物ノ並方組立方折紙剪紙、繋キ方豆細工粘土細工 遊 戯 六 団体及組分遊戯 六 団体及組分遊戯 計 二四 二四 (中 略) 第十三条 保育科ハ幼児一人一ケ月金三拾銭トシ毎月十日迄ニ之ヲ徴収ス 学級編成予定表 学 級 人員 第一年 四〇 第二年 四〇 かくて私立唐津幼稚園は発展解消して大正六年五月、町立唐津幼稚園に新生発足し、唐津尋常高等小学校長丸山金治が園長を兼任した。この時唐津町当局は幼稚園舎新築を計画し、元唐津分監附属地(昭和五十年現在唐津文化会館敷地)の払下げを司法省に願出たが、大正七年度末までは許可されないことが明らかとなった。それで大正七年三月九日に町立唐津幼稚園管理者、唐津町長代理助役太田芳太郎は、大正八年七月までには司法省の払下げを受けて新園舎を建築落成することを条件に、唐津尋常高等小学校に併設の延期を申請した。そして大正九年三月新築の園舎が落成して開園し、小学校と完全に分離独立したので丸山園長は辞任した。大正七年度末に唐津分監附属地が唐津幼稚園に払下げられたのを機に、その北側に建設されてあった唐津分監を唐津尋常高等小学校の運動場に払下げ方を司法省に願出て、許可を得た。ここは明治初年藩校志道館の所在地で、明治八年唐津尋常高等小学校の母体であり、前身である松原小学校の旧地である。後に松原女児小学校となったが明治十四年十月老朽破損甚だしく、舞鶴男子小学校と合併して、新しく唐津小学校が誕生したので移転した跡である。その頃は受刑者を収容する監獄(刑務所)は行政機関の県の管轄であった関係で、此処に佐賀県は少年囚監獄を設置したのである。明治三十六年十月、行政機関の管轄であった監獄は司法省の管轄に移り、唐津少年監獄を「特別監唐津分監」として設置した。そして長崎、福岡、佐賀、熊本の幼年囚を収容し、男八〇名と、別に徴治人男六名を収容していた。(日本近世行刑史)此処が大正七年度に廃止になったので、大正八年七月唐津町が司法省より払下げを受けて整地整備し、校外運動場として設備したのである。 これまで小学校の各校舎の前庭と講堂の前の広場のみの狭隘な運動場で、不便と混雑の中に肩磨り合せるようにして運動を楽しんでいた生徒達は、漸く自由に跳ね、飛び廻ることのできる運動場が出来て喜びは一入であった。又登校以後は学校外に出ることは堅く禁止されていたが、校外運動場までの往復の道程は、解放感が味えて楽しいものであった。特に秋季大運動会はこれまで講堂の前庭で大混雑の中に、一人の児童が一回か二回程度の出場の運動会で、見学の父兄等は両側の廊下に帯を敷き、狭い場所に寿司詰 めで吾児の濠刺たる姿を楽しんでいたが、校外運動場が開設されてからは、二千の学童を擁する小学校にふさわしい大運動会が開催されるようになったのである。 この頃唐津小学校の高等科に、明治四十五年五月以来正教科として商業科が加設されていたが、大正六年八月十五日、関根義幹(錬松)によって私立唐津商業補習学校が設立され、唐津小学校に併設されていた。これを大正七年四月一日に唐津町立唐津商業補習学校と組織替えし、大正九年度から夜間授業を廃止し、昼間授業の終業年限三年制となり、大正十年四月唐津町立唐津商業学校として、旧唐津高等小学校の敷地の、唐津町郭内一番地(昭和五十年現在唐津市体育館敷地)に唐津小学校より分離し創立された。これが佐賀県立唐津商業高等学校の誕生の姿であり、大正十二年卒業生が第一回卒業生である。 又従来唐津町が委托されていた満島と北波多両小学校の高等科は、大正九年度より委托授業が認められないことになって、満島尋常小学校は大正九年四月に高等科の併設が認可になり、北波多小学校も高等科の委托を解除し、共に唐津尋常高等小学校より高等科を引継いだので、自然唐津小学校の学級数も、児童数も減少し、小学校教育に対する支障が一挙に解消されることになった。 委托町村及び委托児童 年度 町村名 児童数 委 托 金 明治四四 満島村 男一七 女 八 一三二円四四銭○厘 四五 〃 男二〇 女一一 一六三・六八・〇 大正二 〃 男一二 女八 一〇〇・八八・〇 〃 三 〃 男一六 女一三 一八六・四一・二 〃 四 〃 三六 〃 〃 唐津村 八 二三五・〇〇・〇 〃 〃 北波多村 三 〃 五 満島村 男二〇 女一五 〃 〃 唐津村其他 男 二 女一 二〇九・〇〇・〇 〃 六 満島村 男二七 女 七 二〇〇・三六・二 〃 七 〃 男二九 女七 二三四・九八・二 〃 八 〃 男三二 女四 二八八・〇〇・〇
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