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第十五 校舎増築と大川校長の死去 明治三十三年に尋常科四年制が定められて義務制となり、その頃まで小学校で使用されていた教科書は、文部省や民間の出版社で作られたものを使っていたが、以後文部省の許可制となり、次いで明治三十六年四月教科書検定の法を定め、同三十七年四月、国定の「尋常小学読本」、「尋常小学修身書」、「高等小学修身書」「尋常算術」「尋常書き方手本」が文部省より出され、全国一律の教育内容となり、小学校に於ける教育の根本理念を、全て教育勅語に基いて行うことになった。教科の中では修身が筆頭におかれ、教科書の巻頭には必ず教育勅語が載せられ、教育は「君に忠」「父母に孝」の道徳によって律しられた。その教育理念の徹底されつつある中で、明治四十一年には尋常科の義務教育が四年から六年に延長され、尋常科の授業科は免除され、就学督励が盛んに行われた。しかも明治三十五年一月には日英同盟協約が成立し、明治三十七年には国運を賭して戦った日露戦争も開戦以来連戦連勝を遂げて、国民挙って旗行列・提灯行列など戦勝に沸いた時期であった。そして明治三十八年五月二十七日、我日本海軍は対馬海峻にパルチック艦隊を邀撃して大勝し、遂に九月五日、ポーツマスに於て日露講和条約が調印されたのである。国内に於ても唐津が生んだ女傑奥村五百子が全国の婦人を結集し、愛国婦人会を創立して恤兵事業に尽力している。又明治三十六年十二月十三日には唐津線が全通するなど内外情勢は急激な進展を遂げ、産業・経済・文化に一大変革期を迎えつつあった。教育の面にても町民の理解と関心は一段と高まり、町当局者の教育に対する識見と努力も結実して国民皆学の近代学校教育体制が実現されるようになった。特に唐津町の就学率は一〇〇%に近く、如何に町民が教育に期待し、協力したかが想像される。 それで学校在籍生徒の数も急速に増加し、明治四十一年には千七百名に達したので、講堂に仮教室を急設したり、女子部の裁縫教室は西寺町近松寺の本堂を借受け、臨時の教室としたりして焦眉の急を凌いでいたほどで、校舎の不足と教室の狭隘が小学校教育の急務として取り上げられたのである。それで明治四十一年一月十九日の唐津町会に於て増築の議案が可決され、増築認可願が提出されたのである。
議 按 唐津尋常高等小学校々舎別紙予算書之費用ヲ以テ増築セント欲 明治四十一年一月十九日 唐津町長 矢 田 進 右原按可決 唐津町会議長 矢 田 進 同 議員 河 村 藤四郎 同 佐久間 退 三 同 原 徳 実 唐津町尋常高等小学校々舎増築 一、学校敷地実測図 別紙之通 二、敷地建物平面図 同 右 三、校舎建築仕様書及設計書 同 右 四、横断面図 同 右 五、設置区域内ノ戸数及人口 高等科戸数 四九〇戸 人口 四九〇人 男 二五八人 女 二三二人 尋常科戸数 一、六六〇戸 人口 二九六八人 男 一、〇六八人 女 九〇〇人 六、設置区域内学齢児童数 高等科 四九〇人 男 二五八人 女二三二人 尋常科 一、九六八人 男 一〇六八人 女 九〇〇人 七 学級数及就学児童数 二十九学級 一、六六一人内 男 九四〇人 女 七二一人 内 尋 常 科 第一学級 第一学年 七一人 男一四人 女 五七人 第二学級 〃 七五人 女 七五人 第三学級 〃 七三人 男 七三人 第四学級 〃 七三人 男 七三人 第五学級 第二学年 五五人 女 五五人 第六学級 〃 五八人 女 五八人 第七学級 〃 五八人 女 五八人 第七学級 〃 六九人 男 六九人 第八学級 〃 六七人 男 六七人 第九学級 第三学年 六四人 女 六四人 第十学級 〃 四六人 女 四六人 第十一学級 〃 七二人 男 七二人 第十二学級 〃 七一人 男 七一人 第十三学級 第四学年 五一人 女 五一人 第十四学級 〃 三八人 女 三八人 第十五学級 〃 六八人 男 六八人 第十六学級 〃 六九人 男 六九人 第十七学級 第五学年 四三人 女 四三人 第十八学級 〃 四六人 女 四六人 第十九学級 〃 五九人 男 五九人 第二十学級 〃 五九人 男 五九人 第二十一学級 第六学年 四六人 女 四六人 第二十二学級 〃 四六人 女 四六人 第二十三学級 〃 五八人 男 五八人 第二十四学級 〃 六一人 男 六一人 高 等 科 第一学級 第一学年 五一人 女 五一人 第二学級 〃 四六人 男 四六人 第三学級 〃 四六人 男 四六人 第四学級 第二学年 四五人 女 四五人 第五学級 〃 三四人 男 三四人 八、将来増加スヘキ見込児童数 六百人 男三百人 女三百人 九、増築予算 一金 壱万弐千五百円四十四銭三厘 内 訳 金 参千円 借入金 金 九千五百円四十四銭三厘 繰入金 内 訳 金 壱万八百弐拾八円六拾六銭九厘 教場弐棟建築費 金 千弐百六十六円三十銭四厘 葺卸六尺廊下二棟建築費 金 百拾八円八拾銭四厘 教員生徒監督室一棟建築費 金 百五拾円六拾六銭六厘 渡り廊下二棟・生徒休息所出入口庇ニケ所建築費 金 百参拾六円 監督員給料其他雑費 許可ノ日ヨリ三日間内ニ着手、着手日ヨリ八十日間ニ竣工 唐津尋常高等小学校増築正面図附録 一、敷地 四千六百二拾壱坪四合七勺五才 内 参千参百参拾九坪弐合弐勺五才 運動場 千五坪二合五勺 既設校舎建坪 二百七十七坪 増築校舎建坪 内 二百十六坪 教場二棟 五十四坪 葺卸六尺廊下二棟 二坪 教員生徒監督室二棟 五坪 渡り廊下二棟及生徒休息所出入口庇二ケ所 以 上 学第四号 唐津尋常高等小学校増築ニ付認可願 唐津尋常高等小学校々舎ハ明治三十四年十二月一日ノ建築エシテ平屋建ニ有之侯処逐年就学児童ノ増加並ニ小学校令施行規則ノ改正ニ伴ヒ校舎ノ狭隘ヲ来シ就学児童ヲ収容スル能ハス依テ本年度ニ於テ校舎ノ増築致度町会ニ於テ議決候条御認可相成度別紙書類相添へ此段相願侯也 明治四十一年二月十日 唐津町長 矢 田 進 印 佐賀県知事 香川 輝殿
この増築認可申請書が提出された二日後には唐津町長矢田進は「教育資金捧借願」を提出した。 教育資金拝借願 東松浦郡唐津町 一、金参千円 一、返済方法 明治四十一年十二月二十五日 金 五百円 明治四十二年十二月二十五日 金 壱千円 明治四十三年十二月二十五日 金 千五百円 一、拝借金利子ハ御指定ノ期限ニ完納可致侯 一、校舎ノ増築ハ明治四十一年二月二十日ニ起工シ同年三月三十一日竣工ノ見込 右者唐津尋常高等小学校生徒数、年々増加シ教場ニ狭隘ヲ告ケ既ニ講堂ヲ以テ仮ニ教室ニ充テ、又裁縫場ノ如キハ寺院本堂ヲ借受ケ該教場トナシ授業シツツアルニ、又四十一年度ヨリ教育令改正ノ結果倍々不足ヲ告ケル見込ニ依リ町会ニ於テ校舎増築ノ議決ヲナシタリ、然ルニ目下町費多端ノ折柄巨額ノ工費金ヲ要シ、何分負担過大ニシテ到底之レガ支弁ノ途無之、去リトテ現在ノ校舎ニテ此儘打過ル能ハサル急施ヲ要スル工事ニ付該工費金之内ニ教育資金ヨリ金参千円拝借仕度候間特別ノ御詮議ヲ以テ御貸付被成下度別紙設計書其ノ他ノ書類ヲ属シ此段奉願候也 明治四十一年二月十二日 唐津町長 矢 田 進 印 佐賀県知事 香川 輝殿 かくて校舎二棟(七部・八部)の増築は明治四十一年三月五日に認可され、同月十八日より増築工事に着手した。又増築資金として教育資金の借入契約も三月六日に町会の議決を経て、同月十日に成立した。そして六月二十日には増築の柱及小屋組み材料が整備されたので木組検査の申請書が提出されるまで快調に進捗した。この増築計画の校舎は二棟とも平家建で、渡り廊下にて既設の校舎と両校舎とも連絡される予定であったが、平家建校舎一棟(七部)が竣工と共に建築延期と設計変更願が提出された。 唐学第一四七号 唐津尋常高等小学校々舎建築延期並設計変更願 明治四十一年二月十日付ヲ以テ唐津尋常高等小学校建築之儀出願仕同年三月五日御許可相成候ニ付一部ノ建築竣工候共町経済ノ都合ニ依り明治四十二年八月十五日付ヲ以テ延期出願致シ同九月三日許可相成候ニ付同年度末迄竣工スヘキノ処町教育費ノ予算ハ年々増加シ同四十二年二於ケル小学校教育費ノミニテモ、九千九百八拾三円四十銭ノ多キニ達シ且又当町立高等女学校モ創立日尚浅ク…‥(中略) ‥…町経済ノ状体ハヨリ以上ノ支出ハ到底出来得ヘカラサルヲ以テ……(中略)……且又校舎敷地ノ都合ニ依リ不得止二階建ニ設計ヲ変更シ本年度ニ於テ四教場ヲ建設完了致シ階下二教室ヲ教場トシ階上二室ノ内一ハ器械標本室他ノ一ハ作法裁縫室ニ充度侯条……(後略)‥… 明治四十三年五月二十一日 唐津町長 矢 田 進 印 佐賀県知事 西村陸奥大殿 この頃、唐津尋常高等小学校は愈々生徒数干八百人に達する程まで激増し、教室の狭隘と校舎の不足は焦眉の急務であった。講堂は全部教室に充当し、三十七名の教職員は廊下を事務室に急造してまで不便に耐えていた。この有様を住友県視学と柳田東松浦郡長が視察して、階上を普通教室に充てざることと、早晩学校を分離建設することを条件に同年七月一日佐学第二一八ー号を以て増築の認可を与えた。かくて二階建校舎の建築にかかり、明治四十四年五月二十四日竣工し、落成検査を終えたのである。然るに生徒数の増加は激しく、遂に唐津町会は前年の同四十三年三月二十九日にこの二階建校舎の建継増築を決議していたのである。 議 案 唐津尋常高等小学枚 壱棟 木造二階建 平積 五十三坪七合五勺 此工費 四千五百円 但附属工事共 右者年々生徒ノ増員ニ従ヒ校舎狭隘ニ付四十四年度ニ於テ別紙図面ノ通リ四十三年度建設シタルモノニ建継増築セント欲ス 明治四十三年三月二十九日提出 唐津町長 矢 田 進 原案ニ決ス 議 長 矢 田 進 議 員 河 村 藤四郎 同 原 徳 実 同 花 田 金太郎 それで明治四十四年四月十八日、矢田町長は唐学第十五号を以て校舎建継建築願を提出した。そして四室を建継増築して階下二室を教場とし、階上二室を図書室、器械標本室に充てる計画を樹てた。これに対し、柳田郡長は副申書の中で、矢継ぎ早の増築申請に対し、副申進達の理由なきは勿論、学級数は殆ど四十学級に及び、制限学級数の二倍以上に達し、運動場は狭隘、不備なる上、増築の余地さえ無い状態で、到底初等教育の目的を満足に発達させることは不可能なことである。これ以上増築するよりも分離建設すべしとして願書を却下している。当時唐津町議会と全町民は火力発電所と水力発電所の建設をめぐって大紛争中であり、町経済上からも、町議会の状況からも熟議にかける余地なしと見て、この好機こそ膨大せる学校を分離建設断行の時機と見て、明治四十四年五月十二日に県知事西村陸奥夫宛増築却下を開申している。これについて住友県視学も同意を述べて増築願書は返戻されたのである。然し矢田進町長は明治四十五年一月十日に再び願書を提出し、増築の終ると同時に又二階建増築するの如きは容易に許可あらざることも、学級数多く一学校として施設することは、教育上に於ても不得策なることも、亦別に一校を分立する計画も樹てて本年度予算に組入れ、本町会に発案致すべきことも全て了承しているが、本町の財政上、経済上その負担に堪えざる事情と町議会の政治的判断より見て、学校の分離建設の不可能なることも充分熟知しているので、止むなく今暫くの所は二階建校舎を建継し緊急に応ずるの外なき状況を開陳して再願している。尚将来満島村と合併の成否に係らず校舎の分離建設は必ず実行することも約束して、遂に明治四十五年二月二十九日収佐学第一七〇七号を以てこの増築の認可を得た。それで同年五月十六日に建築木材の検査を受け、鋭意建設に努め、同年が改元して大正元年となった八月竣工し、十月二十一日落成届出をなしたが、九月の新学期より使用を開始したのである。この二階建継増建築工事は表面は二ケ年の継続事業と見えるが、陰に於ける町当局者、学校当事者、父兄、などの苦心の結晶である。ここに明治三十二年十一月以来十有三年の歳月を経て唐津尋常高等小学校の全容は完成し、昭和三十三年三月三十一日に大成・志道に分離して、新しい教育殿堂が建設されて、自身は唐津市の行政中枢機関の所在地に更生するまで、雨にもめげず、風にもめげず幾万の唐津の市民を慈しみ育んで来た聖地であり、母港であったとも云えよう。かくのごとく紆余曲折の中に学校建設が進められつつあった時期にも学校内では、着々と教科目の充実が行われていた。明治四十一年五月十五日に高等科第一第二学年に随意科として商業科の加設が申請され同年六月一日に認可された。そして明治四十五年五月十日には随意科の商業科は正教科として加設されることが認可されたのである。
日露戦役後、国民は戦勝に浮き立ち、生活は華美に流れ初め、文化の興隆も一段と盛んになったが、一面戦後の経済の逼迫と、外交の失敗により人心は不安と焦燥に陥り、自由民権論など沛然として国内に拡がって、世情は正に騒然たるものがあった。この時明治天皇は明治四十一年十月十三曰に戌申詔書を煥発されたのである。そして教育勅語に準じ「忠孝の道」と道徳心の高揚を訓され、国民精神の涵養を示された。各地方、各学校に於ても奉読式など挙行し、その取扱方も規定された。 戊申詔書取扱方 一、詔書箱ニ納メ、教育勅語卜共ニ安置ス 一、詔書発布ノ当日及ヒ父兄会、学芸会、品評会等小学校ニ於ケル公会ノ節ハ左ノ順序ニ依り奉讃式ヲ行フ 1、一同着席 2、敬 礼 3、開式ノ辞 4、国歌合唱 5、学校長ノ詔書奉読 6、学校長若シクハ職員ハ詔書ニ基キ聖旨ノ在ル所ヲ誨告ス 7、詔書ニ基キタル列席者ノ演説 8、閉式ノ辞 9、敬 礼 この戊申詔書の御趣旨の普及を図らんために明治四十二年三月三日郡長柳田泉は各町村長、小学校長へ町村青年会の組織と成立を命じた。 東松浦郡唐津町青年自責会規約 第一条 本会ハ東松浦郡唐津町青年自彊会卜称ス 第二条 本会ハ本町ニ居住スル青年ヲ以テ組織ス其青年ハ本会ニ加入ノ義務アルモノトス(茲ニ青年卜称スルハ尋常小学校ヲ卒業シ年齢満十五歳以上ノ男子ヲ云フ) 但シ現ニ高等小学校以上ノ学科修業中ノモノハ此限リニアラズ 第三条 本会ハ教育勅語及戊申詔書ノ御趣旨ヲ貫徹セシムルヲ以テ目的トス −以下略− かかる内憂外患の重大なる時に、我唐津尋常高等小学校に於て一大痛恨事が勃発した。明治四十三年五月二十七日、この日は我日本海軍が露国の海軍を対馬海峡に迎え撃って大戦勝を挙げた日本海々戦の日で、海軍記念日として毎年祝賀の行事が行われていた。この日唐津小学校にても全校生徒を講堂の前庭に集め、大川謙治校長が壇上に上って、大きな体躯を詰襟の教員正服に包み、特徴的な大きな両眼を輝かせて、慈顔をほころばせつつ、勇壮なる日本海軍の奮戦力闘の模様を興奮の中に話していられた。その最中、突如として先生を脳卒中という病魔が襲った。崩れるように壇上に倒れられた大川校長は遂に起つことはなかった。早速病院へ運ばれたが六月十四日惜まれつつ退職されたのである。明治十七年三月二十五目唐津小学校に赴任され、四月一日初代校長として就任されて以来二十六年四ケ月間、唐津小学校が唐津高等小学校、唐津尋常高等男子小学校及び女子小学校を経て、唐津尋常高等小学校に成長するまで、校長として喜びも悲しみも小学校と共に歩まれ、風雪に耐えて慈しみ育ててこられたのである。学校は勿論唐津町当局、卒業生、全生徒共に大きな支柱を失った如く悲しみ、嘆いた。先生の偉大な遺徳を偲び、業績を讃えて、唐津尋常高等小学校の正門の東側にブロンズの胸像が建立された。然しこれも昭和十八年七月三十一日大平洋戦争で金属回収として赤襷が掛けられて応召したので、現在は陶像として志道小学校の校庭に起ち、唐津小学校の未来を静かに眺めておられる。 そして明治四十三年六月二十四日、丸山金治が黒崎小学校長より唐津尋常高等小学校の校長として赴任した。 明治四十五年七月三十日、明治大帝は崩御され、全国民等しく哀悼の意を表した。教師・生徒は一ケ年間必ず喪章を附け、娯楽を目的とする遊戯や楽器、放歌なども慎しむべく命ぜられた。九月十三日の御大葬の当日は遥拝式が行われ、大行天皇奉悼歌も奉唱された。かくて明治は逝き大正時代を迎えたのである。 明治十九年より同四十二年までの主なる学校関係の通牒を挙げれば次の通りである。 令達年月日 摘 要 明治十九年十二月二十八日 公立学校長教諭助教諭書記及小学校長訓導判任待遇ノ件 同 二十年 三月 三 日 方言俚語ヲ避ケ普通ノ言辞ヲ用フル件 同 二十二年六月 十一日 行幸ニ付小学校生徒奉迎送心得 同 二十五年一月 九 日 祝日大祭日ニ用フル歌詞楽譜ニ関スル件 同 三十五年六月二十三日 学校生徒ニ対シ暑中煮沸飲用水ヲ供給スルノ件 同 三十六年十一月十九日 催眠術ヲ生徒ニ施スコトヲ取締ルノ件 同 三十七年十二月十三日 公立学校生徒其他羅紗製被服新調停止ノ件 同 四十年 六月十二日 小学校職員ニ対し夏期冬期ニ限り汽車賃割引ノ件 同 年 六月十九日 学校ニ於ケル火災予防及生徒避難ノ方法事項 同 四十一年 三月十 日 トラホーム患者ニ小学校職員ヲシテ点眼治療セシムルノ件 同 年 六月十八日 片仮名信号法教授ノ件 同 年 十一月五 日 劣等児童取扱施設調査ノ件 同 四十二年 十月八 日 公立学校職員韓国政府聘用ニ付俸給支給ノ件 授業料規程 明治三十四年 高等科 金二十五銭 尋常科 金十銭 一家二人就学者ハ各自負担額ノ和ノ八割、三人ノ時七割トス 同 三十六年 高等科 同 前 尋常科 全 廃 同 四十年 〃 同 前 〃 金五銭(就学児多少不拘) 同 四十一年 〃 同 前 〃 四学年迄五銭五学年以上ハ高等科二準ズ 同 四十二年 〃 金三十銭 〃 五.六年 金二十五銭 一.二.三.四年 金五銭 (基本金寄附として) 大正 三年 〃 同 前 〃 全部不徴 世代は大正と改元されて世情暗澹たる中に大正三年一月、桜島の大爆発が起った。同三年七月二十八日には第一次世界大戦が始まり、我国も八月二十三日ドイツに対して宣戦を布告し、青島攻撃が開始された。そして大正四年十一月十日に大正天皇の即位の大礼が挙行され、国民挙げて祝福申し上げた。この年の八月には第一回全国中等学校優勝野球大会も開催されている。同五年九月には唐津軌道のレールも佐志の龍体まで延長され、石油発動機の軽便鉄道が唐津の町を縦断して走った。然し、政府が大正六年九月十二日「金輸出禁止」を採用したので、その頃まで米価は一舛十銭位だったのが急に騰貴し始め、他の諸物価と共に上昇の一途を辿った。そして富山県で勃発した「米騒動」は燎原の火の如く全国に拡がり、軍隊まで出動するような騒擾事件となった。然し大正七年十一月十一日ドイツ革命と共に世界大戦が終結すると、世界的な経済恐慌の嵐が吹きまくった。この状勢の中で我国は産業の発達、文化の進展、経済の拡大など著しい国力の伸長を見せた。一方社会情勢及び国民生活の上にも大きな変化がもたらされた。これに即応する教育の改革を実施するため、大正六年九月「臨時教育会議」が政府部内に設置された。小学校教育については教育内容の改善充実を図るため、大正八年三月二十九日 「小学校令」 及び 「小学校令施行規則」が改正され、各種の改革が行われた。これにより「日本歴史」と「地理」の授業時間が増加し、「理科」は一年早めて尋常小学校第四学年から教育されることになった。特に高等小学校の改革が進められ、実際生活に即応する教育方法が採用されることになって、男子には手工および実業を、女子には家事を必修科目とした。そして第一次世界大戦後の世界的な新しい教育思潮は我国の教育界にも導入され、教育の思潮、内容及び方法の面に広く普及した。一方、世界的な経済恐慌は大正九年の春ごろから我国にも浸透し始め、国内の産業・経済・金融面に不況の色が濃くなって来て、国民生活は沈滞し、国内の世相も暗雲に閉されていくようであった。この頃から社会思想の研究が盛んになり、自由思想が弥漫して、社会主義運動や自由主義活動が全国に広がり、教育の面にも自由教育や自由学園の設立などが見られるようになり、新しい社会の萠芽が見え始めて来た。
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