「母校百年史」より
第十三 唐津尋常高等男子小学校、
唐津尋常高等女子小学校と
校舎新築移転及び辰野博士



 明治二十三年公布の小学校令は、地方自治制度の整備と関連し、わが国の小学校制度の基礎を固めたので、それより小学教育は着実に発達した。更に明治三十三年八月二十日、小学校令が改正され、はじめて四年制の義務教育制度が確立し、全国民に共通な普通教育の基礎課程が成立したのである。それに義務教育の尋常小学校に二年制か四年制の高等小学校を併置することを奨励し、近い将来に六年制義務教育制度の実施を企図し、その準備を進めていた。
 その他、この小学校令改正により公立小学校の義務教育に対しては、特別の場合を除いて授業料の徴収を廃止し、義務教育費の国庫補助制度を成立させた。このような方策によって義務教育の徹底を図ったことは、わが国教育史上画期的なことであった。この義務教育四年制が確立したことにより、学校体系にも一大改革がなされた。即ち義務教育である尋常小学校四年を卒業して高等小学校に進み、その二年を修了後、中等学校に進学する制度になった。その後明治四十年三月二十一日に小学校令の一部が改正されて、明治三十三年の小学校令以後企画されていた義務教育年限の延長を実現した。これにより尋常小学校の修業年限は四年から六年に改められ、これを義務教育とし、同時に高等小学校の修業年限を二年とした。かくして小学校教育は新しい段階に達し、学校体系上の基礎が確立した。ここに於て、義務教育修了と中等学校への進学の線が一致することになり第二次世界大戦に至るまで、わが国の学校体系の基本構成は決定されたのである。
明治25年出版修身書、教育勅語に忠実に準拠している
 又全国の就学率も明治二十年には四五%と低かったが次第に上昇し、明治二十七・八年の日清戦争から、明治三十七・八年の日露戦争にかけて急激に高まった。特に明治三十三年の小学校令により義務教育に対する授業料の撤廃と、国庫補助制度の確立が大きな踏台となり、日清戦争後の近代産業の発達による国民生活の向上や、教育に対する国民の認識の高揚などの好環境の結果、義務教育への就学率は急速に上伸した。更に小学校教育の初期には、男女の就学率の差が大きかったが、明治三十年代から女子の就学が増加し、明治三十年後半には九〇%を越えて、男女の就学率の差が殆ど見られなくなってきた。これは国民の教育意識の向上として注目されることではあったが、同時に男女生徒の急増に対して各学校とも教室数の不足と教室の狭隘に悩まされ、住民や学校当局者の工夫と努力も追いつかず、近代学校施設としては全くお粗末な状態となっていた。従って近代教育の場として適当な教育環境を作ることは、住民や学校当局者の切実なる願望であった。それで小学校々舎の新築増築の大事業が各地で続々と行われるようになった。
 わが唐津小学校も例外ではなかった。明治二十七、八年の日清戦役後は、国家の隆盛と共にわが唐津町も著しい躍進を遂げた。明治二十九年十一月一日唐津港は外国貿易港に指定され、明治三十三年六月十一日には浜崎・満島問に馬車鉄道が開通した。かくの如く唐津町の産業・交通をはじめとして政治、経済、文化などあらゆる方面に非常な活況を呈した。又農村地帯も豊作が続き、住民の資力の増加が目立っていた。この好機に唐津尋常小学校及び唐津高等小学校の移転と新築が計画されて、明治三十二年十月十日唐津町から東松浦郡役所へ提出され、十一月八日付で「小学校変更之儀ニ付伺」の書類が東松浦郡長広瀬昌柔より佐賀県知事関清英宛に提出された。

  東学第一四七〇号
     小学校変更之儀ニ付伺
  本郡唐津町唐津高等及唐津尋常小学校ハ今般新築可致之処在来ノ敷地ハ不適当ニシテ完全ナル建築ヲ施ス能ハス、依テ左記ノ通り移転変更シ新築為致度尤モ移転之場所ハ本年七月文部省令第三十七号第一条ニ適合候条特ニ至急御許可相成度則チ同町ノ意見ヲ取り此段相伺候也
   明治三十二年十一月八日
          東松浦郡長 広 瀬 昌 柔   印
  佐賀県知事 関 清英殿


一、唐津尋常高等男子小学校位置
   唐津町大字唐津三四三番地
一、唐津尋常高等女子小学校位置
    同      三五九番地第一
  但、右ハ明治三十四年四月一日ヨリ変更スルヲ以テ唐津高等及唐津尋常小学校ハ同日ヨリ廃止ス
   唐津尋常高等男子小学校として指定された「唐津三四三番」は現在の唐津市役所敷地内の東松浦広域組合の事務室あたりで、後に「城内西四番」となっている。同じく唐津尋常高等女子小学校敷地の「唐津三五九番」は現在の唐津商工会議所あたりで「城内西十一ノ一」と変更されている。
  そして明治三十二年十二月二十二日県指令第三、〇〇九号を以って唐津尋常小学校々敷位置指定を許可されたので郡長より十二月二十五日正式に指定された。即ち、東松浦郡唐津町大字唐津字郭内の三四〇番より三五九番までの市街宅地、畑等一町四反八畝二十九歩(四、四七〇坪二合一勺五才=一四、七五一、七平方米、但道路敷一反三畝三歩=三九三坪二合五勺=一、二九七、七平方米を含む)が唐津町所有地となり小学校敷地として指定されたのである。そして愈々校舎の新築工事に着手すべく当町出身の辰野金吾工学博士に学校設計を依頼した。彼は同じく唐津町出身で、唐津英語学校耐恒寮で一緒に学び工部大学校まで同級生であった曽根達蔵と相談して、唐津小学校の建設設計を製作した。
唐津高等尋常小学校棟札  最初に辰野金吾博士の名がある

 辰野金吾(一八五四−一九一九)は、安政元年、唐津藩士姫松家に生れ、辰野家の養子となった。高橋是清が唐津英語学校耐恒寮の教師を勤めていた時その薫陶教化を受け、上京して工部大学校(後の東京帝国大学工学部)に入学して、日本最初の「造家学科」と言う西欧の建築学を英国人コンドルに従いて学んだ。明治十二年工部大学校の第一回卒業生で、曽根達蔵と共に唐津出身者が卒業生四人の中に二人を占める快挙をなし遂げた一人である。彼は大学の教授として、又建築設計家として輝かしい足跡を残した。宇治の平等院や法隆寺再建説で日本考古学界の大先輩である関根貞博士は辰野の教え子で、関根の大学卒業論文は「学校建築」で辰野のサインが残っている。辰野の作品歴の中に唐津小学校の建築設計は見えないが、関根の卒業論文より見て学校建築にも非常に知識と蘊蓄があったことが窺える。その代表的作品には、日本銀行本店、東京駅、北九州工業大学(旧明治専門学校)などがある。東京帝国大学教授として「日本建築」の講座を開設し、又工科大学長をも勤めた人で、唐津の我等が日本に誇る大学者、大先輩である。そして大正八年(一九一九)三月二十五日に逝去された。
 この全国に誇る日本最高の建築設計の大家である唐津出身者が、郷土の小学校建設のために設計図を書かれたことは、唐津小学校の沿革史上、輝かしい歴史の一頁として特筆大書すべきことであり、全国小学校建築の中で最も誇りとすべき学校である。今は惜しくも、無惨に消え失せたが、あの講堂、あの教室、あの廊下、あの先生の控室等々、長年の間雨の日も風の日も親しみつつ通学した卒業生の皆さんには、惜しみても余りあるものであろう。今日迄あの学校が健在で為れば国の重要文化財として、虹の松原や、唐津曳山と共に全国に誇るものであったろうが、時代の推移のためとは言え、唐津人に対しては最大の痛恨事であった。
 九州大学工学部建築学科教授の青木正夫工学博士は「小中学校の建築計画的研究」と云う論文の中に唐津小学校を図面と共に記録され、その特色と規模を要約すれば次の様に述べられている。
 @ 明治三十三、四年ごろより、都市の学校、特に地方都市の学校には、非常に規模の大きい学校が作られるようになったが、この学校も教室数二七室、建坪九八一・五坪(三、二三九平方米)という大きな規模のものである。このように規模が大きくなると幾棟も必要になり、そのブロックプランはフィンガープランになり易いが、この学校は将にその典型的なものと言える。
 A 明治三十四年の唐津小学校の就学率は、就学児童一、四〇一人で不就学児童は二名に過ぎず、一〇〇%に近く、又安定して来たので以前のように種々の大きさの教室は作らないで、学校建築規準の中で最大限の大きさである四問×五問という現在の教室と同じ面積の教室が作られている。明治二十三年の改正小学校令の中の「小学校設備準則」によれば、教室の大きさを「生徒四人ニ付凡一坪ヨリ小ナルヘカラス」と規定されたので、四間×五間の二〇坪の教室には八〇名が収容できる計算であって、この最大限の教室を作ったのは唐津小学校が全国で最初のものであった。それでも一クラス当り平均六一名という寿司詰めであった。
B 明治二十四年絶対制国家主義的教育を普及するため、文部省は正式に三大節の式典を行うように指令した。そのため学校はこの行事を厳粛に行う場所として講堂が必要になった。しかもその講堂は、陛下の御真影及び教育勅語を奉置するに格好の場所であった。それで講堂は、学校の中で最も神聖にして清浄なる場所として、表門玄関を入った正面に造られるのが理想的な位置であった。唐津小学校はこの典型的な模範である。しかも講堂の床の半ばは畳が敷かれ下級生に対する温い心使いも見られた。この講堂を中心として、両側に四教室一棟の校舎を三枝ずつ並べて舞鶴が翼を展げた形の名勝松浦潟を象どった面白いブロックプランであった。程なく西側三棟の校舎は一教室増築して五教室となったが基本的構想は変らなかった。特に男女七歳にして席を同じくせずと言う儒教思想が未だ根強く残っていた時代で、移転以前の旧唐津小学校の如く凹字型二階建の場合は中央中廊下で男子教室、女子教室に区分されていたが、新校舎になった唐津小学校は講堂を中心に男子教室棟と女子教室棟に分けられたのである。かくの如く男子校舎と女子校舎に分ける場合は、男子校舎は向って右側で、女子校舎は左側になるのが普通の常識的配置であるが、唐津小学校はこの常識に捉われず逆の配置となっていて、これも辰野博士の女子に対する配慮であろうと思われる。
 C 明治二十四年に政府は三島通良を文部省の学校衛生取調嘱託に任命して、毎年学校衛生に関する法令を出している。政府の学校衛生に対する関心は異常なまでに強く、強大なる軍隊を作るために特に体育を奨励し、「学校衛生法」や「学生生徒身体検査規程」などを公布し、明治二十六年濃尾地震の時は 「学校建築震災予防法」まで公布した。そして明治三十二年に「小学校設備準則改正」を明文化して、「廊下ハ片廊下ヲ常例トシ、其幅六尺以上ナルコトヲ要ス」とか「二棟以上ノ建物ヲ並列シテ建築スルトキハ、其相互ノ巨リハ少クトモ建物ノ高サト同尺以上ナルヲ要ス」など規定されたので、唐津小学校の新築設計も色々と制約を受け、非常に苦心されたことと思われる。特に廊下は辰野博士の構想によって南側片廊下を採用された。これは学校によっては廊下に窓を開き、建具を入れた所もあったが、その頃はガラスは輸入品で高価であったため、吹抜廊下として建具を入れないことにして、その代りに、太陽の陽当りのよい南側に廊下を付け、冬季は温く、夏季は吹抜廊下で通風、採光に留意されたものと思われる。又女子の校舎の廊下は板張りで、男子の校舎の廊下はコンクリートであったが、ここにも女子に対する温情が示されていた。其後全国で廊下の方位に対して、南側廊下説と北側廊下説の論争が激しくなり、遂に三島通良が北側廊下説を採用して断を下したのである。それより全国の学校は一律に北側廊下に統一されたが、南側廊下をつけた学校としては唐津小学校が最後の校舎となったのである。
 D 唐津小学校は非常に規模の大きい学校が設計され建築されたが、教員が一室に纏まり集る教員室は設けられていない。教員は各棟の隅で、運動場を監督し易い場所に「生徒監督室」と称して、狭い溜り場が作られ、各棟毎に教員は分散する興味あるアイデアが採用されて、全国的に見ても珍しい設計であった。その他教場は神聖なる授業の場所という観念を植え付ける為に、生徒の帽子、傘、雨具、下駄等を置く控室を校舎の翼端に設け、教室の廊下の窓下に弁当棚を付けたり、傘棚を設けたりした。
 E 学校全体のデザインを観れば御真影を奉安する講堂を京都御所の紫宸殿に準じて、左近の桜と右近の橘を植えられている。この橘は非常に珍しい品種で、今日も唐津市役所の玄関の前に健在である。この橘の実を盗み食いした人達には特に懐しいものであろう。そして千鳥破風の講堂の玄関と入母屋造りの各校舎の白壁の漆喰の配合が非常に美しく、プロポーションの優秀なことは当代の大権威者の設計と頷かれる姿である。然し、この建築設計については、辰野博士の名は棟札にあるが、大工、左官、石工の名も書かれているのである。


講堂前にあった蘇鉄
思い出深い講堂前の橘


 かくて長年の町民や学校当局の宿望は、辰野博士の指導と援助の下で結実して、新校舎建築の大事業は着手され、完成に向って鋭意努力が続けられた。然し、明治三十三年九月二十四日には早速便所位置の変更に迫られ、新たに校地を増加する必要が生じ、校地増設の伺書が提出され、同月二十八日指定認可された。即ち
    東松浦郡唐津町三四六番、三四七番、四〇二番
    合併第二宅地 伊沢政X持主
   一、百四拾二坪壱合八勺(四六九・二平方米)
   が増設された。これにより、明治三十五年一月七日には学校増築の認可願が出された。

    学第壱号
      学校増築ニ付御認可願
    東松浦郡唐津町高等尋常両小学校(現今唐津尋常高等男子小学校唐津尋常高等女子小学校)新築之儀明治三十二年十月十日付ヲ以テ出願候処同年十二月二十二日佐賀県指令第三〇〇九号ヲ以テ御認可相成候ニ付目下工事中ニ有之候処尚唐津尋常高等男子部小学校舎三棟之内毎棟毎ニ既ニ認可済之設計卜同一二一室宛別紙図面之通生徒扣所トシテ増築仕度候ニ付特ニ御認可被成下度此段奉願侯也
  明治三十五年一月七日
       唐津町長 矢 田  進   印
   東松浦郡長 巌 谷 忠 順   印
  佐賀県知事 香川 輝殿

一部・二部・三部増築設計図
第二期増築設計図

 この増築願は同年一月二十日付にて認可されたので、増築室及び廊下共七十五坪を金二千五百四十一円六十七銭五厘也の建築予算で建設したのである。その為、最初の設計図では講堂を中心に両翼に四教室の三棟の校舎のあるシンメトリカルな姿が崩れ、西側の三棟の教室が五教室となり、後世の人に奇異な感覚を与えた原因となったのである。

明治34年3月卒業生
明治35年3月卒業生(唐津尋常高等男子小学校)

 かくて最初に計画設計された校舎の建築は明治三十四年十二月一日に完成した。
 そして明治三十五年三月中旬唐津尋常高等男子小学校と唐津尋常高等女子小学校の落成、開校式が挙行された。この日まで、唐津尋常小学校と唐津高等小学校として親しまれていた両校より、生徒達は机、椅子、教材などを名残りを惜みつつ新校舎に運んで、思い新たに学業に勉める覚悟を固めた。又全町民も町当局の呼び掛けに応じ、各戸自慢の手製の重箱弁当を提げて、木の香も新しい新学校に集り、式後に各教室にて唐津が誇る教育殿堂の落成を祝った。この模様と、この歓喜を今日なお健在な四、五人の長老から、昨日のように目を輝かせながら、熱心に話をして頂いた時は、共に感激を新たにしたものである。
 以来、太平洋戦争にも耐え抜き、大成、志道に分離して二小学校を生み、自からは市政の中枢機関の唐津市役所として脱皮、消滅するまで、この地が増築・改築を経ながらも、唐津市民の教育の聖地として幾多の伝統を生み、歴史を育てて来たのである。ここに学び、ここに遊んで、「蛍の光」を歌った幾万の唐津小学校の卒業生には、この学校は父であり、母であり、忘るることのできない故里である。この画期的な新校舎の落成は、全町民や唐津町当局者に大きな感激と教育に対する抱負を与えた。そして、その後の教育行政に対して重大な意義を持つものとなった。
 明治三十二年六月、文部省は正式に視学官を置き各県、各郡に視学、郡視学の設置を命じたので、東松浦郡にても、唐津尋常小学校の校長であった関根義幹を明治三十三年五月八日付にて第一代の東松浦郡視学に任命した。それより唐津尋常小学校の校長は欠員のまま、唐津高等小学校と唐津尋常小学校は発展解消して、唐津尋常高等男子小学校と同女子小学校として新たに誕生した。
 唐津町三三八番地に敷地四、六二一坪四合七勺五才、建坪一、〇〇五坪二合五勺の新校舎に新しい両校名の看板を挙げ、両校の校長として大川謙治先生が兼任された。
 そして明治三十四年四月一日に「唐津尋常高等女子小学校」に「高等小学補習科」の加設が認可された。然し同三十五年三月三十一日に廃止された。

明治36年3月卒業生