「母校百年史」より
第十二 大 成 学 校


 明治九年ごろ唐津伝習所は県費で経営されていたが、一方共立学校は閉鎖寸前になっていた。これをよく復興させたのは後の唐津銀行創設者の大島小太郎であった。彼は時の東松浦郡長坂本経懿と、西松浦郡長永田輝明を説いて両郡共同の郡費を以って準中学校を建てる計画を進めた。たまたまその年の十月長崎県令の北島秀朝が学校巡視に来て、共立学校の生徒が自炊をしながら、互に切瑳琢磨し、学業に勉励している姿に感激し、明治十年、「唐津準中学校」として指定した。そのころは小学校教育の普及進歩のみが学校教育の中心であったので、当時長崎県下には佐賀を含めて中学校の設置はなく、唐津準中学校が最初のものであった。学科は英語科と普通科とに分れ、教官は、英語に飯田、数学に西尾政典、寄宿舎々長は永江景徳であった。又文武算学所の教授であった小田周助も教員として勤務していた。
 明治十一年三月の長崎県中学校規則によって、明治十四年五月に佐賀、鹿島と共に長崎県管下第三十六大区「長崎県立唐津中学校」となった。この時の生徒数は七十人で授業料は一人一ケ月十銭宛徴収していた。明治十二年に教育令が公布されると、教育は地方自治を中心に行うべく奨励されたので、「長崎県立」は廃止され「公立唐津中学校」として存続し、郡費と地方税の補助により運営されることになった。その年の二月十二日に河村藤四郎が「唐津中学監事兼訓導」に任命された。そして教官として丸山愿や松浦顕龍(安浄寺住職)などが迎えられている。
 明治十四年一月十日新井常保が校長に就任した。彼は旧藩主小笠原長行と共に函館の五稜郭にて徳川幕臣、榎本武揚を助け、官軍と戦った人である。明治十六年五月佐賀県は長崎県より分離独立したので、「佐賀県立唐津中学校」と改称された。その時の教員は馬場亨(多久納所の人)、丸山愿(英語担任)、西尾政典(数学担任)、山羽武八郎、河村藤四郎、松浦顕龍などであった。同十七年七月一日学制改革によって、地方税支弁尋常中学校は県内一校に限られ、その他は中学校の名称を附けることを禁じられたので、県下では佐賀中学校一校のみとなり鹿島、唐津、小城などの八中学校は廃校となった。然し明治十八年十一月には再び「郡立中学校」となった。そのため唐津中学校は「高等唐津小学校」と改めて、郡内小学校高等科二ケ年修業以上の生徒を収容して、「農商学所」を併置し実科を学ばしめて、尋常中学の課程を教授していた。明治二十一年二月一日地方有志の発起により、高等唐津小学校より分離して「唐津大成学校」が創立されることになった。明治二十一年一月二十八日付の佐賀県学務課渋谷主任の稟伺書によれば「東松浦郡町村立学校設置ノ儀ニ付……民度未タ町村ノ公立校ヲ設ケルノ時期ヲ距ル遠ク、傍ラ主務省ノ旨趣ヲ推考スルニ小学完備ノ後ニテモ其民力ヲ度リ許可相成ル可キ者ニテ………郡政上不得止事情有之趣申立候ニ付特別ノ訳ヲ以テ御聴許可然……」と書かれている事情から大成学校設立の希望が唐津の地元に如何に熱烈であったかが推察されるのである。その設立願書を見れば


       明治二十一年一月二十六日
       唐津大成学校設立儀ニ付伺
      一、設置ノ目的
        本校ハ社会ニ適切ナル数種ノ学科ヲ専修スル所ニシテ中人以上ノ業務ニ就ク者又ハ他日高尚ナル専問ノ学科ヲ修ムルノ予備トシテ之ヲ設置ス
      一、名 称
         本校ヲ唐津大成学校卜称ス
      一、位 置
        肥前国東松浦郡唐津町字郭内千二十九番地
唐津大成学校平面図

         第一章 学 則

第一条 学科ハ英学、和漢学、数学、法律、経済及補修(図画、習字、体操)ノ五科トス
第二条 修業年限ヲ五ケ年トシ、予備科一年本科四年卜定メ、之ヲ五級ニ分チ毎級一ケ年ノ修業トス
第三条 学年ハ四月一日ニ始マリ翌年三月三十一日ニ終ル
第四条 授業ノ日数ハ毎年大約四十週ニシテ授業時間ハ毎週三十一時間トス

 以下学科授業の要旨、試業(試験)卒業入学規則、教場規則、罰則、寄宿生規則、応接所則、来観規則、食堂浴場規則、禁約、校員処務章程当宿直心得、生長(全生徒の総長)選挙法及其職務、小使心得など細大厳格に規則が定められて、青少年者の教育に唐津地方の人心が如何に熱心であったかが伺われる。また学校運営に経済的裏付けを強化するため、東松浦郡、町、村の組合立としたことは、中学教育の維持発展に確固たる基礎を作ったのである。かくして「唐津大成学校」は誕生した。その後明治二十六年五月に県達により「公立大成校」と改め、二十八年四月に「県立東松浦郡実科中学校」となった。
 この頃東松浦郡実科中学校が佐賀尋常中学校(旧佐賀中学校)の分校となる計画があったので、明治二十八年九月二十五日唐津の地元では独立の中学校設立に熱意を燃し、東松浦郡一町二十ケ村の学校組合を組織して、年々二千五百円宛を地方費に寄附することを条件に唐津尋常中学校を設立する願書を、東松浦郡一町二十村学校組合管理者となった東松浦郡長袖山正志が県庁へ提出している。然し遂に認められず二十九年四月、「佐賀県尋常中学校唐津分校」と改称して、佐賀中学校の分校となった。この時一年生として入学した生徒九十九名が、唐津中学校第一回卒業生となり、現在の唐津東高校の第一回の先輩たちである。そして明治三十二年四月佐賀県立第三中学校として独立し、初代校長に成富信敬が就任し、明治三十四年六月漸く「佐賀県立唐津中学校」と改称された。そして太平洋戦争終結後「佐賀県立唐津東高等学校」となって今日に到っているのである。
 かくの如く光輝ある歴史と伝統の中に育ち、成長した「大成学校」の名を戴く「大成小学校」は、先輩の血のにじむ努力と熱意の結晶の校名であることを胆に銘じ、常に先輩諸氏の名を恥ずかしめないよう、日夜研讃し、「大成」の名をより高く、より広く、揚げられんことを願うものである。尚大成小学校に掲げられている「集大成」の額は、旧藩主で徳川幕府の老中になり、維新の大業に尽力した小笠原長行公の書で、長く唐津尋常高等小学校の講堂に掲げられていた尊い遺品である。
 又県立唐津中学校に「大成会」と云う唐津尋常高等小学校卒業生だけの会が組織されていた。毎月最上級生の五年生の指導で親睦会を兼ねた演説会が催されていた。夕食の代りに破れ饅頭(トロクスン饅頭とも云った)を頬張って若い気炎を上げ、青春を謳歌して感激に浸った思い出深いこの会の名も「大成会」であった。

大成学校「認可書」と「設立伺」