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第八 唐津小学校の開校と市開小学校の閉校 明治十二年の「教育令」は全文四十七条からなり、その中の大部分は小学校に関するものであった。当時わが国の学校の実情が、中等学校以上まで施策を実施する余裕がなく、先ず小学校を整備して、国民教育の基礎を確立しようとしたのである。この教育令により、 @ 学区制を廃止して「各地方ニ於テハ毎町村或ハ数町村連合シテ公立小学校ヲ設置スヘシ」とした。 A 「公立小学校ニ於テハ八個年ヲ以テ学期トス、土地ノ便宜ニ因リテハ此学期ヲ縮ムルコトヲ得ヘシト雖モ四個年ヨリ短カクスヘカラス此四個年ハ毎年授業スルコト必ス四個月以上タルヘシ」と学制では八個年就学することを原則としたが、教育令では四個年で十六個月に縮めた。 B 「各町村ハ学務ヲ管理セシメンカ為ニ小学校ヲ設立スル区域ニ学務委員ヲ置キ、戸長ヲ其員ニ加フヘシ」として町村内の学校事務を管理させるために町村人民の選挙による学務委員を置くことにした。
この教育令により唐津区に学務委員として矢田進が選任され、小学校の設置も緩和されたが、初等教育の成果を著しく後退させ、各地に教育の衰退や混乱を見るようになった。このため文部省では明治十三年十二月二十八日に「改正教育令」を公布し、小学校の設置義務をきびしくしたり、学務委員に戸長を加えるようにとか、学齢児童の就学を督励するため就学督責規則なども定めた。又小学校の教育課程の基準については翌十四年五月に「小学校教則綱領」が定められ、小学校は初等科(三年)中等科(三年)高等科(二年)の三段階編制とするなどの他、学校教育のあらゆる面に県令を通じて国家の統制を強化し、教育の内容を知育より徳育を重視する忠君愛国的な方向に向けようとしたのである。この頃旧城趾の中の旧藩邸を校舎として開校した舞鶴小学校の校舎も、旧志道義舎を校舎として授業を続けていた松原女児小学枚の校舎も共に老朽甚だしく、使用に耐えぬまで破損したので、唐津町郭内三百拾番地の官地内(現在唐津信用金庫所在地)の建物を改築し、舞鶴小学校と松原女児小学校を合併して移転し、唐津小学校と改称することを、明治十四年五月十六日に学務委員矢田進、唐津町戸島福田嘉織、唐津村戸長中嶋磯之助の三人が連署で長崎県令内海忠勝に開申書を提出して許可を得て改築にかかっていた。然し十月一日までに改築が完成せず、生徒は数ヶ月間休暇の状況であったので一応開校し授業を初めた。
小学校改築開申書 一、改築ノ目的 旧校大破且位置ノ不便ナルヲ以テ転所ス、費用ハ協収并(ナラビニ)寄附金ヲ以テ支辨ス 一、位 置 唐津町郭内三百拾番地内(明治二十年唐津町一、〇九九番地トナル) 一、准 訓 導 五名月俸并履歴共結約之上関申 一、授 業 生 四名 仝前 一、工費経費 追テ決算之上開申 一、名 称 唐津小学校 一、生 徒 三百余名 明治十四年十一月五日 以 上
改築された唐津小学校は、唐津町郭内参百拾番地の二で、現在(昭和五十年)の唐津信用金庫本店及び福岡銀行唐津支店の建物のある所である。総面積四百八十一坪三合七勺五分の敷地内に二階建の木造校舎が建築された。校門ほ大手口ロータリーの東南隅あたりに西向きに建っていて、旧城址の大手門土堤に接し、南側の土堤の石垣に続いて、その外側は外濠であった。北は道路を隔てて現在の唐津区裁判所になっている武家屋敷があった。東は小さな路地をはさんで唐津戸長役場に接していた。校門を入れば、正面に玄関を構え、その奥に(三間半×三間)校務室があり、裏の校庭に続き生徒の東入口になっていた。校務室を挟んで生徒入口と二階への階段が両側に設けられ、二階北側に一番教室(三間×四間)南側に三番教室(三間×四間半)の二教室があり、階下北側に二番教室(三間×四間)と応接所(三間×三間)があった。校庭を隔てて南側に四番教室(三間×四間)と五番教室(二間×三間)が並び小使部屋(二間半×三間半)と井戸・便所は校舎の外に造られていた。 かくして旧藩士の設立した舞鶴・松原の両小学校は合併して、新築成った校舎に移り、教育令に従って高等・中等・初等の諸科を置き、学務委員兼訓導首座に稲垣重道を頂き、準訓導五名、授業生四名を任命し、生徒数三百余人を収容して、明治十四年十月一日に唐津小学校が新しく誕生したのである。 面目を一新して唐津小学校が発足した頃、文部省は「小学教員心得」を発し、「教育の目的は、もっぱら尊王愛国の志気を振起せしめるにあり、教員は生徒をして、皇室に忠にして国家を愛し、父母に孝にして長上を敬し、朋友に信にして……」と教育に対する国家の監督を強化し、各教科の内容も厳しく規制した。そして明治十五年一月四日に「軍人勅諭」が発布されて、愈々軍国主義と中央集権が強化された。 この年には、小学校の教則も改められ、教育に対して「忠君愛国」を中心とした教育要項が提げられたのである。その上学区の改正によって従来の学校は皆廃止されて、学区を定めて学校を設立し、教員の資格も規正されたので、各学校共に手続上の改正がなされた。市開小学校にても同年三月三十一日付で教則を改正し、不適格の教員は一応解雇して講習を受けさせ、新たに四月十一日付で再雇されている。(一色、栗原などの履歴書)
明治十六年五月十二日に漸く、佐賀県は長崎県より分離独立し行政面でも改革が急がれている時、文部省は従来の学校の教科書は届出制であったものを、その採択使用する時は文部省の認可を必要とする旨を布達し、国定教科書の準備を始め、八月十八日には督業訓導の設置を府県に指示している。(十七年三月十四日に小学督業と改称された) この様な教育状勢のために唐津町にても市開小学校を唐津小学校に吸収統合すべく、十七年一月に教室四棟を新築し市開小学校の生徒を収容することになった。この時大川謙治先生が宮崎県小林小学校を辞任されて帰郷されたので、十七年三月二十四日学務委員稲垣重道が唐津小学校へ月俸拾二円を以て首座訓導として迎えたのである。そして四月一日唐津小学校初代校長に就任された。 唐津小学校は教室も十八室となり、生徒数は五百余人となったので、明治十七年四月二十五日に、新しい小学校教則に従い、改めて公立上等唐津小学校の設置を開申した。
町村立小学校設置ニ付開申 一、設置の目的 初等・中等・高等・各小学科ヲ授ク −、 位 置 肥前国東松浦郡唐津学区唐津町郭内三百十番第二地 一、名 称 唐津小学校 一、教員等人員 訓 導 十二人 準 訓 導 三人 授 業 生 一人 女 教 師 一人 一、教員等俸給 訓 導 一人 月俸十二円 訓 導 三人 月給一人 六円五十銭 〃 二人 〃 〃 六円 〃 一人 〃 〃 五円五十銭 〃 五人 〃 〃 五円 準 訓 導 三人 〃 〃 四円五十銭 授 業 生 一人 〃 〃 二円五十銭 女 教 師 一人 〃 〃 二円五十銭 一、教場 十八個 第 一 教 場 十二坪五合 第 二 教 場 九坪 第 三 教 場 十三坪五合 第 四 教 場 十坪五合 第 五 教 場 十二坪 第 六 教 場 九坪 第 七 教 場 十三坪五合 第 八 教 場 十坪五合 第 九 教 場 十二坪 第 十 教 場 九坪 第十一 教 場 十坪五合 第十二 教 場 十三坪五合 第十三 教 場 十二坪 第十四 教 場 九坪 第十五 教 場 十坪五合 第十六 教 場 十三坪五合 第十七 教 場 九坪 第十八 教 場 六坪 一、生徒概数 五百人 一、経 費 歳入 千三百七十七円 歳出 千三百七十七円 一、教授用器械(略) 一、教員等学力及品行履歴(略) 右之通相違無御座候也 東松浦郡唐津学区学務委員 稲 垣 重 道 明治十七年四月二十五日 佐賀県令 鎌 景 弼 殿 唐津小学校教員等配置及予算内訳表 高等科 生徒数 教場数 教場坪数 訓導等ノ数 訓導 准訓導 授業生 小計 訓導等月給 第一級 第二級 第三級 第四級 略 中等科 生徒数 教場数 教場坪数 訓導等ノ数 訓導 准訓導 授業生 小計 訓導等月給 第一級 第二級 第三級 一三 一 九坪 一人 一人 第四級 一四 一 九坪 一人 一人 第五級 二七 一 十二坪 一人 一人 第六級 二九 一 十坪五 一人 一人 略 初等科 生徒数 教場数 教場坪数 訓導等ノ数 訓導 准訓導 授業生 小計 訓導等月給 第一級 四四 一 十三坪五 一人 一人 第二級 七四 二 十坪五 十三坪五 二人 二人 第三級 八五 二 十坪五 十三坪五 一人 一人 二人 第四級 四一 一 十二坪 一人 一人 第五級 八七 三 十二坪 九坪 六坪 二人 一人 三人 第六級 九七 三 十坪五 十三坪五 九坪 一人 一人 一人 三人 略 通計 五一一 十六 百七十四坪 十二人 三人 一人 十六人 訓導準訓導拝命見込開申 東松浦郡唐津町士族 大 川 謙 治 四等訓導捧命 月給拾二円支給 同 右 小 林 又 一 七等訓導拝命 月給六円五十銭支給 同 右 太 田 鋭 七等訓導拝命 月給六円五十銭支給 同 右 西 村 孝 七等訓導拝命 月給六円五十銭支給 同 右 久 田 益 夫 七等訓導拝命 月給五円支給 同 右 高 田 敏 樹 七等訓導拝命 月給五円支給 同 右 小木曽 菊太郎 七等訓導拝命 月給五円支給 同 右 栗 原 順 七等訓導拝命 月給五円支給 同 右 長谷川 為 恕 七等訓導拝命 月給五円支給 同 右 松 澤 典 準訓導拝命 月給四円五十銭支給 同 右 稲 石 匡 奨 準訓導捧命 月給四円五十銭支給 同 右 杉 江 常三郎 準訓導拝命 月給四円五十銭支給 かくて旧藩士により設立された松原・舞鶴両小学校と同時期に創設された庶民の市開小学校は、明治十七年一月を以て士族平民合同の学校として発足した「東松浦郡第四学区公立上等唐津小学校」に合併脱皮し、ここに市開小学校は閉校消滅したのである。
唐津小学校神田分校及び満島分校 又この新しい小学校教則と学区改定により、明治八年設立された神田小学校と満島小学校も共に、唐津小学校に合併されて「公立上等唐津小学校神田分校」及び「公立上等唐津小学校満島分校」として明治十七年十月十日設置を開申された。尚唐川小学校として創立され、一ノ坂に移って一時「一ノ坂小学校」と称した「竹木場小学校」は、この神田分校設置により竹木場分教場となった。同じく満島分校の設置によって高島小学校も高鳥分教場となった。そして明治二十五年五月に学制が改正されるまで、両校共に「唐津小学校分校」であった。 公立上等唐津小学分校設置に付開申 東松浦郡 第四番学区 一、設置ノ目的 初等科及中等科ヲ授ク 一、位 置 肥前国東松浦郡第四番学区神田村又ノ七十番地 ー、名 称 神 田 分 校 ー、教員等人員 訓 導 二人 準訓導一人 当今其人ヲ得ズ因テ一時授業生ヲ以テ之ニ充テ追テ聘用スベシ 授業生 二人 一、教員等俸給 訓 導 二人一人ニ付月給五円 準訓導 一人 〃 〃 四円 授業生 一人 〃 〃 三円 〃 一人 〃 〃 二円 一、教 場 五 箇 第一教場 五坪 第二教場 七坪五合 第三教場 八坪 第四教場 六坪 第五教場 六坪 但第四、五ノ二教場ハ分教場ニシテ所在地竹木場村二十三番地 一、生徒概数 百 人 一、経 費 歳 入 二百五十八円 歳 出 二百五十八円 但明治十七年度予算額 一、教授用器械 略 一、教員学力、履歴(略) 右ノ通相違無御座候也 東松浦郡第四番学区学務委員 明治十七年十月十日 稲 垣 重 道 佐賀県令代理 大書記官 金井俊行殿 公立上等唐津小学分校設置二付開申 一、設置ノ目的 初等科及中等科ヲ授ク 一、位 置 肥前国東松浦郡第四番学区満島村又ノ二百十六番地 一、名 称 満 島 分 校 一、教員等人員 訓 導 二人 授業生 三人 一、教員等俸給 訓 導 二人一人ニ付金五円 授業生一人 〃 四円 〃 一人 〃 三円 〃 一人 〃 二円 ー、教 場 五 箇 第一教場 四坪五合 第二教場 九坪 第三教場 六坪 第四教場 六坪 第五教場 八坪 但、第五教場ハ分教場ニシテ所在地高島村七十番地、 一、生徒概数 百二十人 一、経 費 歳 入 二百七十五円 歳 出 二百七十五円 但明治十七年度予算額 一、教授用器械 以下略 満島分校教具配置及予算内訳表 生 徒 数 教場数 教場坪数 訓導ノ数 訓導授業生 予算 中等科 第一級 第二級 第三級 第四級 第五級 五人男 五一個 四坪五合 一人 第六級 七人男 五一個 九坪 一人 略 初等科 第一級 十二人男 十二 中等五級ニ合併 第二級 第三級 二十一人 男九 女十二 一個 六坪 一人 第四級 十九人 男十二 女七 中級六級ニ合併 第五級 二十六人 男十四 女十二 一個六坪 一人 第六級 二十八人 男十五 女十三 一個八坪 一人 高島分数場 通計 百十八人 男七十四 女四十四 五個 三十三坪五合 二人 三人 |