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第七 教育令の公布と小学校設立 明治維新、後未だ近代教育行政の基礎の確立しない時に、欧米の教育を模範として実施しようとしたため、当時の民情及び文化の程度より見て種々な問題が起きた。かくの如き時にわが唐津町は、明治九年四月十八日、佐賀県より三潴県となり、同年八月二十一日には長崎県に移管され、明治十一年七月二十二日に「郡区町村編成法」が制定されて、大区・小区を廃止し、郡・町・村・を復活して特に人口の密度の高い地域を区とし、郡長・区長・戸長を置く行政区画が制定されて朝野を挙げて暗中模索し、右往左往の状態であったと想像される。しかもこの年の七月には虎列刺(コレラ)が全国に流行し、民心は極度に不安の渦の中にあった。そのため文部省は当時の時勢の変化に即応し、教育行政を推進するため明治十二年九月二十八日に、明治五年制定の「学制」を廃止して「教育令」を公布した。 当時の小学校が寺小屋の延長程度の規模であったとしても、これを維持運営するに必要な経費は、生徒の授業料と学区内庶民の負担であった。授業料の額は市内三小学校共月三銭であったが、当時の物価は米一升が三銭位であって、貧困家庭では苦しい支出であった。それで授業料や学資金(授業に要する書籍、器械の費用)を免除し、生徒の就学を勧奨していた。そのため小学校の経費の主要な財源は、学区内の協収金(賦課金)と寄附金に頼る外はなかった。このような貧弱な財政的裏付しか持っていなかった状態だったので各小学校共、寺院や民家其他古い施設で近代教育の学校の第一歩を踏み出したのである。長松小学校の前身である神田小学校などは、上神田の飯田簡一氏宅を借用して開校後、西寺町浄土寺本堂など借用せんとしたほど学校建設に困り、遂に来迎寺所有地の御山下三十五坪を借受け、旧本城跡の元金蔵や、鷹匠町官庫、旧藩舟入官庫(全部却下)の無代償払い下げを総代志村政忠等が申請して学校建築に努力し、明治十一年九月見借小学校を合併して、現在地に長松小学校が建設されたほど、地方住民にとって学校建設はかなりの負担であった。 それで明治十年五月十九日付の学区取締河内明倫と、戸長中溝喜代助.区長坂本経懿の長崎県令北島秀朝宛の伺書を見れば、「訓導補月給節減ノ儀ニ付伺」として、各小学校在勤の教員の月給を学校の学資の儲蓄がないので、金五拾銭宛節減を示談して承諾を受けたと伺を出している。然し一方新政府による当時の教育が国民の実情に沿わないとして、旧藩時代の夢を捨て切れない儒者が、独自で小学校を開校せんと私塾開業願を提出している。船宮で廓然堂という私塾を開いていた山田忠蔵もその一人であり、特に大講義兼大石小学校教員中沢見作は、旧博済舎の払下を願出て中学正則の学校を開業すべく企画しているが、全部近代教育を指導していた当局より差止められている。中には大草政秀、芳賀清次郎などの様な儒者は小学校教員に任命されていたが、西洋算術、物理化学など西洋式教育に「何分方法教授行き届き難く汗顔の至り」として免職願を提出した人もいた。然し旧藩時代より切瑳琢磨した儒者であるので、後に大草政秀は鏡小学区の教育委員に迎えられている。 このような時に唐津准中学校は唐津城跡に唐津中学校となって生徒数も七拾人を数え、授業料月金拾銭を徴収し、丸山愿が校長として松浦顕龍の二教師で経営されていた。
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