「母校百年史」より
第三 学制制定期の教育と
志道義舎及び唐津共立学校


 明治四年(一八七一)七月十八日、明治政府は文部省を設置し、全国の教育行政を統括した。初代文部大輔に江藤新平が就任し、間もなく同月二十八日、文部郷として大木喬任が任ぜられた。
 明治五年八月五日、文部省は学制を制定し、その趣旨を宣言して全国に頌布した。布達十三号では、今般学制が定められたので、従来各藩で設立している学校は一旦全部廃止して、学制に従って改めて学校を設立せよと述べている。然し、学校経営の経費についてはなお未決定であるとしている。
 太政官布告の「学事奨励に関する被仰出書」によると「人々自らその身を立て、其産を治め、其業を昌(さか)んにして以て其生を遂(とぐ)るゆえんのものは他になし。身を修め、智を開き、才芸に長ずるによるなり。これ学にあらざれば能わず。又学校を設けるゆえんにして、日用常行語書算を初め、士官農商工技芸及び法律・政治・天文・医療等に到る迄凡人の営むところの事、学あらざるはなし。人能く其才のある所に応じ勉励して之に従事し……後略……と書かれている。又 ○人々一人一人が身を立て、財産を治め、商売を繁盛させることが教育の目標であること。
 ○立身、治産、昌業のために、修身、開智才芸に秀でるようあるべきこと。
 ○学問は立身のための財本である。不幸になったと言うことは不学がもとであったこと。
 ○これからは、「華士族卒農工商及び婦女子」を問わず一般の人民が教育を受け、「必ず邑に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん事を期す」こと。
 ○今までの弊害であった「学問は士以上の事とし」学問は「国家の為になす」と唱えて学問の費用を「官に依頼し」ていた「弊を改め」て学費やその他の費用は 「一同の人民、他のことは捨ておき」負担すべきこ と。と述べている。これは徳育・智育・芸育の教育主張と、全国民に教育を与えようとする考え方、そして経費の自己負担を主張して欧米の近代思想による教育観・学問観を取り入れたものである。ただ四民平等の立場から、学制は全国民を対象とする制度であることを強調していることは注目すべきである。
 又学制には「大中小学区の事」「学校の事」「教員の事」などきめられている。これによって全国を八大学区、二五六中学区、五三、七六〇小学区に分けられ、大学校八校、中学校二五六校、小学校五三、七六〇校設立される予定であった。然し、実情はこの計画どおりには行われなかった。明治六年四月に七大学区に改められ、その後これによって学制は実施された。文部省は学制実施にあたって、まず小学校の設立に力を注いだ。「学制」の規定の「小学」 の第二十一章によれば、「小学校ハ教育ノ初級ニシテ人民一般必ス学ハスンハアルヘカラサルモノトス」と理想を掲げている。第二十七草には「尋常小学ヲ分テ上下二等トス、此二等ハ男女共必ス卒業スヘキモノトス」とあり、又「下等小学ハ六歳ヨリ九歳マテ、上等小学ハ十歳ヨリ十三歳マテニ卒業セシムルヲ法則トス」と年令の制限を附加している。

 
 「小学教則」の公布
 明治五年九月八日、この学制に基づいて「小学教則」が公布され、教授内容を示した。これによると、下等小学、上等小学を各八級とし、毎級を六ケ月で進級し、次第に進んで一級となるのである。そして「生徒ハ諸学二於テ必ス其等級ヲ踏マシムルコトヲ要ス。故ニ一級毎二必ス試験アリ、一級卒業スルモノハ試験状ヲ渡シ、試験状ヲ得ルモノニ非サレハ進級スルヲ得ス」と相当厳しいものであった。学習内容は、下等小学第八級の六ケ月にても一日五時間、日曜日を除いて一過三十時間の課程で、「綴字」(カナヅカイ)「習字(テナライ)」「単語読方」(コトパノヨミカタ)「洋法算術」(サンヨウ) 「修身口授」(ギョウギノサトシ)「単語暗誦」(コトパノソラヨミ)などであった。
 教員については「小学教員ハ男女ヲ論セス年令二十歳以上ニシテ師範学校卒業免状或ハ中学免状ヲ得シモノニ非サレハ其任ニ当ルコトヲ許サス」と規定されていたが、明治維新後、日も浅く、当時では学制に定められた通りの資格を持った者は少なく、寺小屋の師匠や、私塾、藩学の教師が小学校創設期の教員を務めたという場合が多く、洋算や自然科学の教授には難渋したものと思われる。唐津に於いても有名な私塾の教師が小学校の教員に任命されながらも「浅学非才其任ニ耐エズ」として辞表を提出している例もある。
 また学制の規定によれば、学校を設立運営するに要する経費は、中学校は中学区において、小学校は小学区に於いて責任を負うことを原則とした。したがって各学区は租税、寄附金、積立金、授業料等の民費をもって、その学校の運営を図り、その不足分を国庫から補助することとした。公布当初の学制では、府県に対する国庫支出金は未定であったが、明治五年十一月に人口を基準として一人に付金九厘と定めた。勿論このような少額の国庫補助で学校創立とその運営の費用がまかなえる訳はない。従って小学でも授業料を徴収していた。学制によれば月額五〇銭から二五銭となっていたが、当時の庶民の生活からみてこのような高額(五〇銭は、当時は米一五kg位に当る)の授業料は徴収することば到底不可能であった。授業料は地方によって異っていたが、だいたい一銭から三銭程度であり、貧困家庭の児童は無料であった。そのため小学校経費の主要な財源は学区内の各戸への賦課金と学区内の寄附金及び組合を組織して経費を徴収し、組合学校として経営している。
 このように貧弱な財政的裏付だけの状態で学校教育が発足したので、校舎建築についても新築など殆どなく、寺院や民家、その他古い藩政時代の施設を利用して近代学校の第一歩をふみ出したのである。わが唐津小学校も例外ではなく、その前身の松原小学校は志道館学舎を利用し、舞鶴小学校は藩主小笠原侯の藩庁を使用し大石小学校は紙方役所の倉庫を校舎に充てている状況であった。


  
志道義舎
 明治維新後、志道館は次第に衰微し、明治五年九月三十日閉鎖廃校となり(岩附鋭履歴書)志道学舎として名残りを留め、志道館の生徒を寄宿生として九思寮に収容していた。明治六年二月二日、鈴木民助・堀木銀之助・瀬倉良右衛門等が大島興義・太田橘衛(後の副戸長)を正副委員長として、志道義舎と言う小学校を志道館跡に設立した。(西村孝、岩附鋭履歴書)教師には中澤見作・豊田穣・林誠一郎等があたり、旧志道舘の書籍や、耐恒寮の洋書などを集めて開校した。経費は旧藩時代に町中へ時刻を知らせていた太鼓櫓の時打太鼓(唐津市城内、南駐車場の北側土盛のある場所=唐津市南城内一二八番地)を打つ仕事を引き請け、町中より一戸当り三銭宛徴収して経費に充てていた。その内遂に、太鼓を叩き破ったので釣鐘に替えたと伝えられている。この志道義舎は、志道小学校 (林誠一郎履歴書)とも、唐津講究所(長谷川金次郎履歴書)とも称されていた。明治七年二月一日、征韓論に敗れ、民選議院の設立も意に任せず野に下った江藤新平が、放郷の佐賀に帰り、旧佐顔見藩士で前秋田県令の島義勇と共に旧藩の不平藩士等二千五百人を糾合して乱を起した。
 この時佐賀人にて唐津町の戸長であった安住百太郎は叛徒の要請に応じ、応援隊を組織すべく旧唐津藩士を志道義舎に集めた。立ちどころに評議は一決して三百五十人余の出兵が決定した。そして二月十七日 (陰暦正月元日)深夜、志道義舎に勢揃いした時は二百余人に減じ、同日未明愈々出発した志士は僅かに百二十余人に過ぎなかった。この時の主だった旧藩臣は小川司馬太郎、井上孝継、海老原里美、佐久間退三、山田道正、交野安(命序)、西脇勝心などがいた。朝廷は嘉彰親王を征討総督とし、陸軍中将山県有朋、海軍少将伊藤祐麿を鎮圧に派したが、その前に大久保利通により、三月一日佐賀城も陥ち入り叛乱は鎮定した。唐津勢は二十五日田手川の合戦で敗れ、牛津に退却して、翌二十六日唐津に帰り、龍源寺に入って一同謹慎して裁断を待った。
 このために志道義舎は叛乱軍唐津勢の兵站基地と事務所となって荒廃し、明治七年三月遂に廃校の憂き目に遭ったのである。


 
唐津共立学校(余課序)と長崎県唐津傳習所
 明治七年、東京に遊学中であった大島小太郎が眼病のため帰唐した。この時荒廃した志道義舎や敗頽した青少年を見て、松浦顕龍・中沢見作らと計らい、橘葉医学館跡(旧郵便局、現京町子供遊園地)に余課序又は小学余課という学校を創設して漢学・地理・算術等を教えた。経費はその頃十人町に設立されていた大石小学校へ余課序の生徒が交代で西洋算術や地理などを教えに出張して五円の月給を貰い、これが松浦・中沢両先生のお礼金となっていた。
 その後、余課序の生徒が増加し、収容しきれなくなったので、現在(昭和五十年)の唐津東高等学校敷地内にあった唐津県英語学校耐恒寮の校舎の中の旧博済舎に移り、大講義兼大石小学校教員中沢見作が教師となり(明治八年十月六日、中沢見作が博済舎払下げ頼を提出す)、校名を唐津共立学校と改称した。これが唐津中学校の基礎となった唐津準中学校や、組合立唐津大成校の前身で、長崎・佐賀にも中学校が設立されていなかった時、明治十年十月に最初に唐津に設立された中学校である。
 学制公布により各地区に続々と小学校が設立され、教師が極度に不足してきたので、明治九年三月には長崎県唐津伝習所と言う速成の教員養成所がここに設置された。(明治八年十二月十二日付県指令により、唐津旧藩庁並びに旧内家の建坪の内講習所支校用を引き分け、残り分を小学校用とし………の資料あり)そして豊田済や、妙見小学校首座長谷川毅之助等が教官として迎えられた。生徒は十七、八歳より二十歳位までの藩士の子弟が多く、一時は五十八名ほども在学していた。ここは各小学区の区撰により入学が許可されてもいたので、藩士の子弟以外に郷村の優秀なる人も入学し、研鏡勉学していた。そのためここの教育は相当に厳格であったが、三ケ月程で訓導補の教員免許証が与えられていた。尚各小学校にても授業生と称して教員の養成をなし、教員心得として授業に従事していた。卒業生としては、岩附鋭、西村孝太郎、古市小金太、林耕作、鈴木民衛、河東南海、大島小太郎、田辺新之助、牧野正直、辰野専、河野謙助、森毅三郎、東小川ツ恕、松隈★造、浅野正平、鈴木源之助、掛下金松、山口義理、海老原金之助、名古屋三之助などの名が見える。そして明治十年の佐賀支庁諸雑書によれば、明治十年四月十二日に佐賀伝習校が設立されたので、仝年五月十八日付にて唐津・鹿島の両伝習所の書籍・器械などを受取り、引き揚げることが記録されている。それで唐津伝習所も一年有余の短期間にて閉鎖されて、長谷川毅之助は佐賀へ転任になっている。然し後年の唐津地方の教育界実業界に与えた功績は非常に大きいものがある。


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