「母校百年史」より
第二 徳川幕府の教育方針と
   
唐津藩の教育史


 徳川家康が政権を握ると、殺伐な戦国の余風を和げ、天下泰平の基を築くために儒学を奨励して、徳川百年の計を打ち樹てる方便とした。儒学を普及させることによって、君臣の分や、主従の別を確立させ、質素、勤勉、耐乏、清廉潔白などの武士道精神を鼓吹し、貧窮を諦観させ、農民に対しては「殺さず生かさず」の、庶民に対しては社会の下積みの生活に甘んずる政策をとり、只管(ひたすら)「お家安泰」を願う為に儒学を奨めたのであった。特に幕府は封建社会の君臣関係を説く朱子学を官学として擁護し、実学の陽明学を圧迫した。陽明学の碩学(せきがく)であった熊沢蕃山を古河に禁錮し、山鹿素行を赤穂に追放したのもこの為であった。
 我唐津藩の教育史も一面にこの姿の縮図を見るようであった。
 元禄四年、唐津藩の藩主となった土井公の初代藩主土井利益は好学の大名として有名であった。利益は当時有名な学者・儒者を学派の別なく江戸の藩邸に招き、その講義を聞くというほど学問に熱心な人であった。中でも朱子学の山崎闇斉の門下で「崎門の三傑」と称された中の一人の三宅尚斉の高弟で唐津藩最初の儒臣とも言うべき人が三人あった。
 第一に、実学派の奥東江である。彼の学徳と識見は、藩士藩民ひとしく敬慕の情まことに止み難いものがあった。彼は唐津在住の間は幼君の教育掛を兼勤していたが、故郷の近江にあった老母の死に遭って帰郷し、その服喪中に病を得て惜しくも没した。遂に彼は再び唐津の地を踏むことばできなかったが、その徳育感化は根強く広がって、「奥流の学」と称せられ、後世まで燦として輝いた。
 第二に、土佐の儒臣中村弘毅の著作「思斉漫録」に書かれている味地茂兵衛である。彼は唐津城の濠に出没した妖怪を調伏したことで有名であるが、儒臣として唐津藩に迎えられている。
 第三に、幕府の儒学が大名や武士を対象としたものであるのに飽き足らず、郷村の子弟の教化に活路を開いて、遂に藩士を致仕した吉武法命である。彼は土井公二代の利実が朱子学派の稲葉迂斉を賓札を以て迎えたので、奥流の実学派が衰えて行くのを慨き、民間に降って塾を開いて講義し、あるいは研究討論して、批判力や実践力を培った。法命の教は、その頃の読み、書き、算盤のみを数える寺小屋教育とは程度も異なり、学問の根本を忘却したような藩校教育とも違って、生気溢れるばかりの教育であり、唐津藩の民間塾の創始者であった。
 天明から文政年間にかけての唐津藩の民間塾は 「奥流学」の黄金時代となり、富田楽山、穀斉の兄弟をはじめ、進藤確斉、片峯久山、稲葉伊蒿、菊地深斉等の碩儒が続々と現われ、藩内各地に開塾して教育の普及に努め、領民の教養の度を高めた。特に儒学は固より砲術、数学、天文、暦学の大家として有名な大草庄兵衛はその甥大草銃兵衛と共に天下に名声を挙げた人である。
 この頃から教育の場は寺小屋教育、民間塾、藩校の三つに分れていた。
 寺小屋教育は、僧侶が布教のかたわら、村里の子弟を寺に集めて教育したのがこの始りである。寺小屋の教師は「お師匠さん」と呼ばれ、入学することを「寺入り」又は「寺上り」と称して、子供は年令の制限なく「寺子」であった。課目も読み、書き、算盤ぐらいで、初等教育の場であった。
 民間塾である私塾は、自宅や、寺の本堂、塾舎などで入門した子弟に、漢文や書道、詩歌、などを学ばしめ、青年の教育指導と孝悌仁義の教化を以てその目的としたものである。この頃の私塾には相知村に希賢堂があり、徳須恵村に買誅亭あり、佐志村に時習亭あり、海士町に新々斉あり、何れも吉武法命に属する私塾であった。
 この頃は唐津藩の私塾が全盛を誇った時で、多久の儒者草場佩川をして「唐津封内民俗敦厖」と激賞せしめた程、民間塾の教育の薫化は広く庶民の間にも浸透していたのである。
 これに反して藩の教育機関であった藩校は、遠州岡崎から転封された水野侯を迎えても校師に見るべき儒臣がなかった。この時、岡崎の藩校の名をとって経誼舘と命名された藩校が設立されたが、教授の司馬箕谷さえ、法命の弟子から罵倒される程度であった。この経誼館が小笠原氏の時代に志道館となったのである。
 吉武法命義質が塾師となって開いた市内の私塾は海士町の新々斉と佐志の時習亭と海士町学舎であった。


  新 々 斉  市内海士町
 新々斉は舎長の大谷次吉が双水の庄屋になった時、海士町から双水に塾を移している。


 無量軒学校(又は海士町学舎) 市内海士町
 海士町学舎は法命が城内の自宅に子弟を集めて講義していたのが塾に発展し、私宅を城内から山田邑へ、山田邑から船宮へと移るにつれ、私宅の外に塾舎を設けたのが海士町学舎、又は無量軒学枚と云われるものと思われるのである。無量軒学校は現在海士町の国道筋の山手の金比羅宮の東に、十三仏の花崗岩の供養塔や、塁々たる古い墓石のある庵寺の趾である。この庵寺は黄蘗派の禅宗寺で無量軒といった。享保十七年(一七三二)の大飢饉の時、粥米を飢民に施す施行場をここに設けて難民救済に尽力したり、餓死した夥しい死骸を取り集めてここに葬り、草庵を建ててその菩提を弔ったり、毎年の盆会に餓死者の供養を絶さなかった寺である。然し惜しくも寛政の初め、崖崩れの為に精舎は潰滅して終った。この庵を一名「チング・チャング寺」と言っていたが、黄蘗宗の葬礼の時、鐘や銅羅を打ち鳴らす音から付けられた名であろう。ここの庵主の僧が法命の学徳を慕って無量軒学校と称して、在郷の子弟を集めて法命の教えを受けさせたのである。


 時 習 亭  市内佐志
 佐志の時習亭は、宝暦九年(一七五九)に大谷次吉が双水の庄屋より佐志の大庄屋に任ぜられてから開いた塾で、自ら塾師となって子弟の教化に努めた。
 かくの如く、東に海士町の無量軒学校、西に佐志の時習亭と二つの私塾の中にあった唐津は、その教育や産業に大いに恩恵を蒙り、次の小笠原公の時代の私塾の興隆の基を築いたのである。


  錦 習 堂  市内町田
 儒者であり、陶工である中里太郎右工門は「日羅坊」と号し、吉武法命に学び、土井、水野の両侯に仕えた人で清廉剛直で知られた人である。天明六年、六十七才で投した後、弟の荘平が嗣ぎ、文政十一年には荘平も死して、嫡子藤太郎が「一束」と改め、次の金吾は「一陶」と称し、陶工として小笠原長国に仕えていたが教育にも熱心で、中里重春は町田に私塾錦習堂を開き五十余名の塾生を育てている。


  希 賢 堂  市内町田
 大川野・神田の大庄屋を勤めた桜井覚兵衛が町田に塾舎を開き希賢堂と称した。塾師覚兵衛は諱を信安、号を静斉と云い、相知の向復斉に学んだ。門下の俊材の桜井綱治、松本退蔵は共に後年静斉の志を継いで塾師となり、子弟の教育に努めた。


  新隍精舎  市内新堀
 大谷次吉や兄の富田楽山に学んで呼子・赤木・大川野などの庄屋を勤めた富田九十郎閑斉の長子富田七助が開いた私塾である。彼は諱を信道、後に多介と改め、穀斉と号した。父の九十郎や、伯父の富田楽山に学んだが、文政八年六月新堀の庄屋を命ぜられた。その頃衆人の希望により家塾を設けて子弟の教化に努めた。弘化二年には苗字佩刀を許され、後に菖蒲村の庄屋となり文久三年(一八六三)九月に卒している。


  時 習 堂(又は自習堂) 市内十人町
 塾師大草銃兵衛は、諱を政徳、号を晩翠、愚斉、天山と称した。亨和三年(一八〇三)十一月二十一日に生れ、叔父の坂口政直(大草庄兵衛)の嗣子となった。富田楽山・稲葉伊蒿・菊地俊蔵・山口葛山の諸塾に学んで儒学を修め、文政四年(一八三三)小笠原侯に仕えた。弘化四年(一八四五)甲州に赴き、叔父大草庄兵衛の門人佐々木高陳に求玄流の砲術を学び、その奥儀をきわめて嘉永元年(一八四八)に帰郷し、再び藩公に仕えた。そして唐津十人町の邸内に時習堂(自習堂)という塾を開いて、藩士と云わず農民町民の別なく、学問に志す郡民のために教育に従事した。吉武法命以来開設された私塾は多かったが、銃兵衛の時習堂を凌ぐものはなかったほどである。時には男四百七十七人、女八人=三浦徳女(東裏町)佐々木悦女(材木町)脇坂福女(材木町)吉井登濃女(水主町)田中満知女(水主町)吉村寿賀女(十人町)浦田幾久女(新掘)内山梅女(材木町)=の多きに達した。
 銃兵衛政徳はまた、別に実用館を設けて、求玄流の砲火軍術の師範として門生を育成したが鈴木弾蔵・押兼銀右衛門・伊藤忠右衛門などはその出身者である。
 明治六年八月十六日、七十一才で歿している。
 この他宗田運平は、市内見借に愛日亭を開塾し、陽明学派の一色耕造は、町田に一色塾を開き、その門下生には菊地龍太郎がある。又幕末ごろ藩校志道館に学ぶことのできない子弟のために儒臣野辺英輔は大名小路の自邸に私塾を設け、一時は大草銃兵衛の時習堂と相並ぶ程となった。その門下生に俊英の辰野金吾、天野為之、掛下重次郎などが生れている。
 その他山下町に川泉塾や志村塾などがあった。




   藩   校


  盈 科 堂
 享保八年土井家二代の藩主利実は、学問は武術と共に武士として必修すべきものとして藩校「盈科堂」を二の門内に建て、自ら筆を執って盈科堂記を書き、講堂に掲げて教学の大綱を示した。講師としては最初に吉武法命や原雙柱が勉め、後に合田忠蔵、宇井兼山、金沢脩軒等が、藩臣に講義している。その他堀江九平次、金子新内、小野田平四郎等に読書指南が命ぜられている。
 三代土井利里の時に原尚庵を聘し教授に任じた。尚庵は京都の人で医学を学び、一世の大儒であった。その後君命により儒官となり、改名して原三右衛門と名乗り、十五年間ぐらい唐津の盈科堂にて活躍した。宝暦十二年土井利里が古河へ移封の時従って唐津を去った。この時の盈科堂の学風は原尚庵によって古学派に統一されていたが、松平定信の「異学の禁」により朱子学派となっていた。
 尚庵は明和四年(一七六七)五十才で古河に歿している。


  経 誼 舘
 宝暦十三年、水野忠任が藩主として入部したが、財政窮乏のため儒臣を採用することができず、盈科堂も土井侯と共に古河に移ると、藩校も中絶の状態となった。特にこの頃は民間七塾が隆盛を極め、峯復斉、大谷次吉、稲葉伊蒿、進藤確斉、片峯久山、富田楽山、桜井九一郎など錚々たる儒者が輩出したので、藩臣やその子弟も私塾に入門する者が多かった。
 水野第二代藩主忠鼎は二本松義廉に命じて、経誼館を建設し、館内に大成堂を造り、孔子の像を安置した。時に寛政十三年(一八〇一)正月廿九日であった。場所は現在の志道小学校のある所で、建物も藩校として恥かしからぬ宏壮なものであった。文武を分たず、儒学をもって武士の倫理綱常とする徳川幕府の刷新政策の反映とも云えるが、極度に財政逼迫の水野氏が唯一の偉大な功績は経誼館の建設であるといえる。経誼館の教育は孝経を本として君には忠誠、親には孝敬の道を尽すべく教育し、孔子祭も盛大に行われていた。講師に司馬広人、司馬広次郎、八田信右衛門などが任ぜられ、学ぶ者は主として年少な藩臣の子弟であった。然し、水野氏が唐津に経誼館を残したので次の小笠原氏は窮乏の中にも経誼館の建物を使って志道館を開校することができたのである。


 志 道 舘
 文化十四年(一八一七)小笠原長昌は棚倉から唐津に転封になった。その時長昌は棚倉の藩校の名を唐津に移し、現在の志道小学校の位置にあった経誼館の趾を受け継いだのが志道館である。「経誼館上棟文」によれば、相当広大な藩校であった様で、その藩校の門と言われる西寺町の大乗寺の山門の表鬼瓦は三階菱の小笠原家の家紋であり、裏鬼瓦は水野家の水澤瀉の家紋が附いているのを見ても、経誼館を受け継いだことが考えられる。そして文政六年に儒者村瀬文輔(村瀬轟の父)を召抱えて漸く藩校の体制が整い、天保二年には大野勘助(肯堂と号し、右仲の父)を小笠原長泰が聘して学制が確立したのである。
 この村瀬文輔と大野肯堂は学者としては不遇であったが、後世幕府の閣老の職にまで登用された小笠原長行を養育した功績は大いに賞讃されるべきである。又長行も安政五年唐津藩主となると、常に志道館に歩を運び、授業を参観し、成績優秀な者には賞を与えるなどして藩学の振興に努力した。
 又安政六年正月には橘葉医学館に臨み、学頭保利文溟の功績を賞讃して、厚くその労をねぎらったりした。このように長行が教学に力を尽したので、それまで私塾に押されて振わなかった両藩校は、にわかに活気を取り戻し、内容・組織共に充実して、藩内の教化・薫陶は大いに上った。その後山田忠蔵、矢田巻太、芳賀庸介、浅野正右衛門、豊田済、林誠一郎、長谷川毅之助等が儒官・教官に就任し、授業は早朝から午前十時頃迄で終り、その後は館内の九思寮に於いて自学自習し、寮長芳賀庸介がその指導監督の任に当っていた。



  橘葉医学舘
 天保七年三月、小笠原長会によって橘葉医学館が市内京町札の辻に建てられた。最初の守護となった保利文亮は筑前鹿家で医業を営んで名医の誉の高い人であったが、藩主小笠原長会に召されて、嘉永弐年藩医に登用され、医学館の守護となった。翌三年八月五日病改したが、養子文溟が継承した。文溟は父の死後、秋月藩医江藤養泰に学び、安政二年六月帰郷して橘葉館守護を命ぜられた。後に献上唐津焼の中興と仰がれた草場見節を医学寮世話方に任じた。
又明治四年四月廿九日に蘭法医の大中春良を教師に迎え、医学館の内容もいよいよ整った。明治五年、耐恒寮洋学館
が廃絶し、志道舘漢学部も衰微すると、独り橘葉館のみとなり、学生の集るもの多く盛況を呈したが、明治五年学制改革と共に橘葉館も衰微し遂に閉鎖されるに到った。


  耐恒寮洋学舘

 
明治三年ごろは唐津藩には漢学部の志道舘と医学部の橘葉館が設立されて機構も略(ほぼ)整備されていたが、洋学部の創設には難渋していた。それで宿老友常典膳は上京し百方奔走して、アメリカから帰朝して大学南校(東京大学の前身)の教官をしていた東太郎(高橋是清)を捜し出して、月給百円賄付きで招聘して来た。高橋是清の唐津滞在は僅か一年半位であったが、上塚司氏の「高橋是清伝」によれば、まず学生五十人が丁髷(チョンマゲ)を切ってザンギリ頭となり、刀も捨てて無腰となった。最初の洋学校は城内の武士の屋敷を使用していたが放火で焼けた。幸い藩主小笠原長行は東京に移転することとなったので、御殿を二分して南の藩邸を小学校に、北の私邸を洋学校に分断開放することとなった。かくて現在の東高校の北半分が英学校の耐恒寮になったのである。学校の維持費は維新前より藩の直営としていた製紙と捕鯨の利益金を当てることとした。彼の教授方針は教室では一切英語で教え、日本語は使わないことにしていた。高橋是清は斗酒なお辞せずの大酒豪であったが、教育には非常に熱意を燃し、英学は男女の別を問わず勉強するものだとして女子生徒も入学させている。曽根達蔵博士の妹およう、友常典膳の娘おたい、ふくの姉妹の三人を教育し、この女子生徒を教員として養成し、女子英学校を興こす企画をしていた。然し是清上京中に唐津県が伊万里県に合併され、その出張所が唐津に置かれて維持費などで紛争が起り、是清も急ぎ帰唐して漸く耐恒寮は再開したが明治五年の秋遂に辞して東京に帰った。そして唐津県英語学校耐恒寮も閉鎖されることになったが、明治五年九月廃校となって消滅した。(小島関男履歴書)

 耐恒寮の出身者で俊秀として世に出た人は第一回衆議院議員、早稲田大学々長の天野為之法学博士、日本建築界の泰斗曽根達蔵博士、大審院判事の掛下重次郎、工学士の吉原礼助、銀行家の大島小太郎、化学者の渡辺栄次郎、日本銀行・東京駅などの建築設計者の工学博士辰野金吾、などがある。