巻頭言 |
知り合いが古本屋さんから「お宅の広告の乗っとるですばい」の一声で手に入れてしまわれたこの「唐津松浦潟」という冊子を見せてもらいました。 まずは当時の広告に目を引かれ、嘗ての唐津の商工界が手に取るように窺えます。本文を開いて見ますと、これはなかなか面白い。この著者も存じ上げないまま一気に読み進みました。当時の郷土史家には私の父達が唐津中学時代歴史を習った吉村茂三郎氏が有名ですが、調べてみますとこの松代松太郎氏は吉村氏と師範学校の同級生で有ることを知り、唐津・東松浦の歴史を勉強する上で大変重要な時代の資料として、性懲りもなくネット化に踏み切りました。 著作権云々の問題があるかも知れませんが、その時には然るべき対処をしようと思います。 また、この本のもう一つの目玉はやはり無数の広告で、これはネット化するつもりはございません。広告を御覧になりたい方は古本屋さんで購入するなりしてお楽しみ下さい。 管理人:吉冨 寛 |
唐津松浦潟 松代松太郎著 昭和2年10月1日発行 発売元:木下愛文堂 発行者:木下 吉六 |
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国立海岸公園の必要
公園の必要を今更説くのも野暮である。今や既に箱庭式の公園より、大は数十里に亘(わた)る自然の勝景地を捉(とら)へたる国立公園などもありて、人為的美観より自然的神韻に接触して高等人類の審美的情操り満足、自然美憧憬の欲求を充さんとしてゐる。
されば文化の発達してゐる国程其の計画施設も行き届いてゐて、北米合衆国のエルローストーン公園の如き方廿四五里を有する大袈裟の公園さへ有してゐて、国民の高等娯楽欲求に満足を輿へてゐる。我国でも近来そんな気運が大分盛んになってきて、富士山を挙げたり、阿蘇や耶馬渓にかけたる地方や、温泉岳(うんぜんだけ)などを推して国立公園にしたいとか、或は海洋公園として瀬内海を推さんとしてゐるなどの気運も既に熟してゐるのである。けれども、まだ海岸公園を提唱するものはないやうだ。殊に海国たる我国では男女となく海洋に親ましむるは肝要のことであるのは云ふ迄もなきことである。国家も既に大々的国立公園の必要を認めては居るが、国庫の手前も考慮せねばならす、直様下手(すぐさまげしゅ)も出来兼ぬるであらうが、さりとて国費を投すること巨額に達せぬならば何時でも着手が出来ないこともなからう。
我が松浦潟に於ては、海に山に親ましむるに十分の要素を具備して、国立公園たらしむるに遺憾なき海岸公園の資格を有してゐるのである。
内務省名勝舊蹟天然記念物保保会の保存指定あるもの
天 然 物
虹 ノ 松 原
七 ツ 釜 (柱状節理の玄武岩洞)
芥屋ノ大門 (同)
廣沢寺の蘇鐵
史 蹟
名護屋城址
以 上 五 種
著者思ふに 頓て烏帽子島も柱状節理玄武岩の壮美なるものとして、保存会に指定保存せらるゝ時機が来るならんと予期してゐる程美事の自然美である。
其の他の勝景舊跡
鏡山、玉島川、浮岳、鬼子岳(きしだけ)、鵜殿ノ窟(いわや)、松浦川、松浦岩、唐津公園.鳥島の磯遊、高島大島上の眺望、神集島、田島神社、望夫石.波戸ノ岬、理想的の海水浴場等あり。考古学者達には古墳と石窟(ドルメン)など数多の資料が横はつてゐる。
以上の諸要素が個々の特色と総体的大観美を有して、其の天然の配列布置が妙を得てゐるので既に優雅の女性的と牡厳の男性的景致が織り込まれてゐるのに、神功皇后、豊太閤始め幾多の歴史的粉黛潤色(ふんたいしゅんしょく)が施されてゐるのは、殆んど完璧に近き大公園として成り立ってゐる。国家が今国立海岸公園を設くるからとて何も巨額の国費を要することもない。先づ外国人向きのホテル一宇又二字を鏡山と霓林地方に設け、また鏡山にはケーブルカー及び自動車道路、高島頂上に登*挙(とうはん)道路七ツ釜、芥屋の大門に陸上より自由に観賞が出来るやうに、鐵梯(てつはしご)教個、其の他娯楽場図書館等歓個の設備をなしたならば、他の各種施設は地方に負担せしめて可なることにして、地方としても現在の軌道車を電車に改めて、佐志終点を湊、呼子方面迄延長すれば、汽車、自動車、船舶などの交通機関も不自由でない。されど更に更に軽便なる遊覧汽艇等を用意すれば完全に近い位で唯北九州線が伊萬里と聯絡することが重荷である位であらう。されど夫れも今は唯時の問題となつてゐる。さすれば国家の意向がこゝに向ひさへすれば易々として国立海岸公園が成立するのである。
瀬戸内海の海洋公園などは誰れでも簡単に遊ぶわけにも行かす、又単調である。然るに我が松浦潟は遊ぶに便利あり、変化頗る多く水陸兼併(けんぺい)の理想的大公園であつて、交通、旅館、気候、天産物、歴史等各種り要素を具備してゐるのである。国家が山岳を包擁(ほうよう)する国立公園を必要とするならば、海洋を取り入れたる海岸公園も必要で、殊に海国たる我が国に取っては更に其の必要がある。其の海岸公園としては我が松浦潟の如く各種條件を具備するところは、我が国に於ては他に比肩するものはない。
*に大阪毎日新聞が日本八景の選定を為すに、山岳、渓谷、海岸、温泉、湖沼、河川、平原、瀑布の八種に限定して、廣く全国に候補地の選挙投票を募ったが、我が松浦潟は海岸候補地として百五十九萬三千五百九十五票の投票数に達したれど、数に於ては第四位を示した。されど吾人は投票は地方的郷土愛に燃ゆる人達の至情の結晶にして、公平冷静なる国民一般の観察に基づく投票ならざれば、大体に於て審査決定のほんの候補地を示せしものと思ひ、審査條件たる歴史、交通、環境、旅館、産物、施設等の諸要項と、自然美との総勘定が最後の決定を為すものと信じ、優に当選の桂冠を頂くものと思ひきや、八景は愚か廿五景にも入選せす、二束三文的百景に蹴落されしを意外に思った。
然るに当選せし地方につきて観察すれば、箱庭式局部的風致を採りて、局部的にも余り譲らずしかも大々的大観の優秀なるものを顧みず。且つ審査條件五六ケ條をも殆んど念とせずして決定せられたるの観あるを遺憾に思ふ。
されど我が松浦潟の如きは、彼の八景を要求せるものには余りに大且つ壮美なりしなり。故に吾人は茲に、我が松浦潟の国立公園として実現の一日も早からんことを祈るものである。
松浦潟の位置と古き歴史
松浦潟とは佐賀県の西北隅唐津を中心として北に西に廣がってゐる海岸の総称であつて、其の延長は玄梅灘や朝鮮海峡、東支那海などゝなつてゐて、一葦帯水(いちゐたいすゐ)韓半島と相対するので往昔船舶小形にして航海困難の際には、此の日韓最短距離の海峡を便としたので、彼我交通史上の重要地点として知られ、加ふるに風光明媚の勝地として往きかふ人の目を喜ばしめたること尠からざるものであつた。
松浦といふ地名の起り
昔神功皇后が新羅を征伐せんとて此の地に到りて、玉島川の辺りで御食事を召されて水晶を溶かしたるが如き清冽(せいれつ)の流水を喜ばせられ、針を勾(ま)げて釣針を為(つく)り、飯粒を餌となし、裳(もすそ)の糸を抽(ぬ)きとりて緡(つりいと)とし、淙(そう)々として輪を巻き玉を砕ける河中の巌頭に立ち釣針を投じて天に祈りて宜はく、朕西方に財宝に富んでゐる国を求めんと欲す、若し事成り凱歌を奏することを得ば河魚を獲しめ給へと、少時にして竿を挙げ給ひしに鮎がかゝつてゐた。皇后大に喜び給ひて梅豆羅志(めづらし)と宣ひしより、時人其の地を號(なつ)けて梅豆羅(めづらの)国と云ひ、後世訛りて松浦の郡といふ(肥前風士記)。古事記や国造本紀(くにのみやつこほんぎ)及び支那の古書で国書編などいふものには末羅とし、魏志には末盧とかき、武備志には馬子喇(まつら)とも書いてゐる。されば古史に溯って考ふれば松浦と書いてもマツウラと読むよりもマツラと読むが当然で、マツウラ潟と云ふよりもマツラ潟といふのがよいのである。
神功皇后の三韓征伐
神功皇后は第十四代仲哀天皇の皇后にましまし、幼にして聡明叡智容貌壮麗でゐらせられたれば、父気長宿禰(おきながすくね)王も之を異(あやし)み給ふ程であつた。皇后は天皇に従ひ筑紫にゐらせられたが、天皇の即位八年九月群臣を召して熊襲(くまそ)征伐の軍議を開かせられた。時に皇后神託を得て、熊襲の服せざるは新羅の後援あるが故なれば、先づ之を討たば熊襲は自ら服従するならんと、天皇之を聴き給はずして熊襲を撃ち勝たずして九年二月橿日(かしひ)宮で崩じ給ふた。皇后は天皇が神教に従はずして早く崩じたまひしを傷み、齋宮を小山田邑(香椎の近地山田郷)に造って、三月、武内宿禰、中臣(なかおみ)烏賊津(いかつ)をして神を祭らしめ、新に紳託を請ひて後、鴨別(かもわけ)なるものを将として熊襲を伐たしめられしが、久しからずして征定することゝなつた。次で層増岐(そそぎ)野(佐賀県境に近く福岡県の西方にあり)に至りて、羽白熊鷲(はしろくまわし)を撃ち滅さる。転じて山門(やまと)ノ県(あがた)(筑後)に到りて土蜘蛛田油津(たぶらつ)媛を誅戮(ちうりく)せられ、両筑地方の賊が平定したので、同年四月肥前ノ国松浦県(まつらあがた)に到りて渡韓地の地理を探らせれ、玉島川に釣針を垂れ給ひて征韓の挙を卜し、一旦橿日に還りて軍旅(ぐんりょ)を整へ再び松浦に入り、更に宝鏡を捧げて戦勝を祈願し給ひしところが今の鏡山である。当時は松浦山といつてゐたやうだ。風土記に録してあるが如く、今の湊村大字相賀にて鹿に逢ひ給ひたれば其の地を逢鹿(あうか)といひ今は訛りて相賀と書く。湊村は其の当時和珥(わに)ノ浦といったのだが、皇后の軍船輻輳(ふくそう)せしところなるより湊といふに至った。其の対岸の神集島は、皇后が少時駐屯し給ひしところで大八洲国(おおやしまぐに)の神集(かみつど)ひをなし戦勝祈念を込め給ひし地なれば神集島といふのである。玄武洞で名高き七ツ釜の辺を土器(かはらけ)崎といひ、神酒(みき)を捧(ささ)げて酒盃を流し給ひしより土器崎の名起る。今呼子村字友といふところがある。皇后が愈々我本土を離れて海に航し給はんとせし地にて鞆(とも)を堕(おと)し給ひしより友の地名が起つてゐる。かくて皇后は冬十月玄海の波濤荒ぶる間を加部島、加唐島、壹岐、對島と辿(たど)りて新羅の国に旗鼓(きこ)堂々として攻め入らせられたが、王波沙寐錦(はさむきん)は戦はずして我軍容に恐れて降り金銀綾羅(あやぎぬ)など八十船を貢し、天壌無窮貢献(こうけん)を怠らざることを誓ふ。即ち大矢田宿禰(おほやだすくね)を止めて此の国を監せしめ、皇后筑紫に凱旋して、放装を唐津町四郊の丘上に干し給ふ、今の衣干山(きぬぼしやま)がそこである。皇后最初懐胎し給ひければ、神に祷り石を取りて腰に挿み凱旋の日此の土に産まんと、果して験ありて事なく還啓し給ひて、石を今のラェ県糸島郡深江村子負原(こふのはら)に残し給ひ、同県粕屋郡宇美にて安らけく應神天皇を産みまゐらせられた。宇美はもと蛟田(かだ)といひしが此の時より宇美と称するに至った。
島 君(せまきし)
第十五代應神天皇の朝百済より阿直岐(あちき)、王仁(わに)の如き儒者を貢し、次で百般の文物伝来となつたが、こゝに第二十一代雄略天皇の五年夏四月百済の盖鹵(がいろ)王は王弟軍君(こにきし)を諭して、汝よろしく日本に往きて天皇に仕へまつれと、軍君は君命を奉じて将に発せんとして、願くば上君の寵嬪(ちゃうひん)を賜へと、王これを納れて、孕婦を軍君に与へて、孕婦既に産月に臨む。若し渡航の途に分娩したらんには、何処(いずこ)に到るとも一船に載せて速かに故国に還せとて確(かた)く約して袂(たもと)を分つ。六月朔日孕婦果して航途加唐島に到り男児を産む。よつて島君(せまきし)と名づけ船を艤(ぎ)して百済に送還す。これ後の百済の武寧王である。百済人はこの島を呼んで主島(にりむしま)といつた。
加唐島は名護屋村内の一小島で水産豊に住民衣食に安じ、壹岐の南方四里、名古屋城址の北方三里の海中にらりて、往昔三韓交通の要路に当れる一島で大泊は其の港であつた。大伴狭手彦と佐用姫に絡むで、鏡山や松浦岩又は加部島に美しき情話を残して居れば後に述ぶることゝする。
藤原廣嗣が太宰府に叛して、戦敗れて松浦地方を彷徨(さまよひ)て、終に松浦で斬られし事は大村神社の條に書くことゝす。
川部酒麻呂
続日本紀(しょくにほんき)といふ古書に録してあるのに、酒麻呂は奈良朝末の人で、第四十九代光仁天皇寶亀六年四月外(げ)従五位下(在官者にあらざるものに授くる位階には外の字を冠す)に叙せられた松浦郡の人である。先きに第四十六代孝謙天皇勝寶四年、遣唐使藤原清河、副使大伴古麿、留學生吉備眞備等入唐(につとう)の時、其の第四船(遣唐使の船は四ツの船といつて四隻を発す)の舵手(だしゅ)となりて渡航し、帰国の途上顧風に帆を孕(はらま)せて快走してゐたが、如何にしてか船尾に火を失し、火炎濛々として忽ち艫部(とも)を包みて容易ならざる状態なりしが、人々遑遽(あはて)てなすべき策もなかりしかど、酒麻呂少しも擾(さは)がず、火焔は威を逞(たくまし)くして彼の身辺を包囲し生不動(いきふどう)の姿となりて腕手糜爛(びらん)するに至りても、舵を把(と)りて動かず船の顛覆(てんぷく)を支へたが.漸くにして鎮火し危く難を免かるゝことが出来た。人々其の沈勇を讃嘆(さんたん)感謝せざるものはなかつた。帰朝の後其の功績を賞して松浦郡員外主張に補せられ、次で叙位の恩典を受くるに至った。
◇前肥前介源知が、第六十八代後一條天皇寛仁三年刀伊の賊が對島、壹岐、太宰府を侵し、転じて松浦郡を擾がしたる賊の軍勢を撃退したることや、或は松浦黨が地の理を利して韓半島に寇掠(こうりゃく)を行ひ又は交通貿易したること。或は元寇と松浦黨一味の奮闘などの大がゝりの史実存すると雖も今は管々しければ之を省略す。
◇太閤征韓の役と名護屋につきては、其の概要を名護屋城址のところにて述ぶることゝして、本項はこれで擱筆(かくひつ)することゝす。(以上史実は比較的詳しく東松浦郡史に書いてゐる。)
地理上より唐津を中心として
観たる松浦潟
名 所 舊 蹟
唐津を中心として、東北ラェ県茶屋大門に至る八里許りの海岸附近、西北に四里計りの道程を有する名護屋古城趾に及び、沿岸一帯、この十余里に亘る海岸と内陸の一部の風光は一大公園でなくて何であらう。唐津湾頭に数ふる島嶼(しょ)には鳥島の小嶼は緑滴(したゝ)る松樹の風致を競へるあり、大島高島は稍大に鳥島と三角形を造りて各々其の頂点に位置し、大島の北二里計りに神秘的の謎を蔵する神集島あり。高島の遙(はるか)後方に芥屋崎が突き出でゝ昔女護島(にょごのしま)といつて女奠卑彌呼が住んでゐて漢土と交通したと云へる媛島(ひめしま)とは相對的に見江、青螺(せいら)の如き烏帽子島は媛島の西北に煙渡の間に可愛く見られ、捕鯨で名高き小川島は鏡山に挙らざれば見江ざれど神集島の西北方二里余の海上に浮び、芥屋大門より唐津に逆行する沿岸では、筑紫富士は船越湾頭を壓し、神功皇后の腹帯で名高き深江村子負原(こふのはら)は、羽白然鷲御討伐で名高き雷山北麓海岸にあり。兀然として雲表に聳へて唐津湾頭鎮守の神でも棲んでゐるかの観ある浮岳は港内出入船り好目標ともなつてゐる。其の南麓を繞(めぐ)る清流こそ歴史で名高き玉島川である。虹に似かよう二里余の青松白砂の霓林(げいりん)こそ、天女羽衣の舞ふべきところの絶勝で唐津の東端に接してゐる。其の背後の山丘こそ名に負ふ鏡山一名七面山である。松浦川舞鶴城脚東方を洗つてゐるが、河口より十町有余も溯(さかのぼ)れば松浦岩とて佐用姫の事蹟で名を止めてゐるところがある。そこより一里半計りも上流に向へば松浦黨で羽振りし波多氏の居城鬼子岳城趾がある。唐津の西部に円錐形的に格恰良き丘があるのが、神功皇后が衣を干し姶ひし衣干山である。是より西へ北へと海岸を辿れば、唐津の生命大動脈とも云ふべき唐津西港がある。其の湾頭に皇后が指ざし給ひし佐志村がある。此の村の南方十数町の地に見借あり、景行天皇西征の頃陪従(おつき)の臣大屋田子をして梅松橿媛(みるかしひめ)なる女酋り凶暴を討たしめられしところがある。見借の四方丘山一里計りに、我国最初の窯業地(ようげやうち)たる大良(だいら)、小次郎、藤原(ふぢひら)なる土地がある。序に一言すれば、皇功凱旋の時韓王子を質とし、此の地に置きて陶器を焼かしめしといふ、或は孝徳天皇頃ともいふ、今に古陶の破片を見ることがあるといってゐる。佐志村より程なく北方海岸が、皇后の御征途鹿に逢ひ給しと云へる相賀である。其の直ぐ北方が皇后が軍船を集ひし和珥津(わにのつ)即ち今の湊である。一小海峡を隔てゝ神集島あり、屈指の好漁場であると、近来はドルメンの発見によりて名高き神秘的の島として聞江てゐる。一里計りの西方に玄武洞の奇勝七ツ釜がある。其の一端を土器崎(かはらけざき)といふ。又其西に一里の海岸を辿れば、皇后の鞆(とも)を堕(おと)し給ひしより地名の起りし大友、小友の部落がある。對岸半里の地点に田島神社と佐用姫の望夫石とで名高い加部島が横はってゐる。こゝより名護屋城趾は十町計りの西南の對岸にある。城趾に登れば松浦潟一円は殆んど両眼に集まり、城趾を繞(めぐ)れる大小無数の丘陵は北は奥羽の果に至るまで来り集ひし、征韓当時の諸侯陣営の其の跡にて懐古の念は油然として湧き出て来るのである。
風光的価値
斯様に自然美を蒐めし地区が松浦潟である。加ふるに血湧き肉躍るの慨ある史実より情緒纏綿(ぜうちょてんめん)として人情の極致を描ける如き情話を以て粉黛してゐるのが松浦潟である。此の十数里の地域内の村落、街区は全く大公園中の旗亭茶店別荘其のものである。天下の景致と史蹟を蔵する景勝の地少しとせざれど、かゝる豊富の絶景と史実を包擁する天地が他の何れの地に求め得ることが出来やうか。
唐 津
唐津地名の起り
何時の頃よりの名称であるか分明せざれど、外国渡航の要津たる意義あることは疑ひなきところであつて.、往昔神功皇后の三韓御征伐の船出もこの地であり、第二十一代雄略天皇の朝百済王弟軍君(こにきし)は来朝の途中、唐津港の西北方加唐島で其の妃に男子を生ましめ、第二十八代宣化天皇の御代には大伴狭手彦(おほとものさてひこ)も此の地より船を発して韓土に渡ってゐる。其の他緑記類や傳説などにもぼつぼつ此の地より韓土に往来したことが傳へられてゐるなど、上古にありては三韓交通の咽喉とも云ふぺく、丁度現今の関門地方が朝鮮交通の要地であるかのやうであつた。当時の小型船では風浪荒だつ玄海を一直線に乗りきることは大難事であるから、内地と朝鮮との最短距離で、且つ中間風涛の避難に適する加部島、加唐島、壹岐、對馬などの島々点綴(てんせつ)してゐる、對馬海峡、朝鮮海峡を乗り切るのが最安全であつたからである。さて外国をカラと称することの起原は、第十代崇神天皇の御代に韓半島にて大伽羅新羅の両国は三己紋の地を争ひしが、大伽羅国は新羅に敵すること能はず、使者蘇那曷叱智(そなかしち)を我国に遣はして其の地を献じ鎮将を請ふ。朝議忽ち決して塩乗津彦(しほのりつひこ)を遣りて鎮将となす。これ外国が我国に入朝したる始めであつて、国人が外国を呼ぶに伽羅又は唐と称するの起原となつて廣く他の外国にも当て拑めたる通称となつたのである。しかも此の地がカラに出入するの要津なりし故に唐津と称するに至ったのであるが、何時の頃よりかと云ふことは確たる証拠すべき記録もない。平安朝の中葉の作である和名抄などいへる書にも、松浦郡には庇(ひら)、大沼(おほぬ)、値賀(ちか)、生佐(いきさ)、久利などの地名は存するけれども、唐津の地名は見江てない。漸く徳川時代の著になる諸書にて唐津と云へる地名を散見するやうだ。風帆藻といへる書には、唐津は初め地切(とぎれ)といふ。水島(今の満島)とは同所の川向ひの市町を云ふ。仝所にて天正十四年三月六日平戸の領主松浦刑部太輔(ぎようぶたいふ)と波多三河守と合戦の事あり云々と。之に因つて考ふるに、今の唐津町は近代まで地切と称せられたる白砂青松の海濱であつたやうだ。九州軍記などに唐津鬼子岳(きしだけ)城主などいつてゐる唐津は、松浦潟に濱せる地方一帯の名称で相當廣き地域の総称であつたもので、今の唐津なる称呼としての唐津は、寺澤志摩守が慶長年間築城當時より称へられし名称であらう。総称的の地名として此の唐津の称呼も平安時代までは見出さぬやうであるから、さしたる古い時代からの名称でないやうに思はれる。詳しきことは東松浦郡史に書いてゐる。
唐津町の起原
唐津町を南方に三里の地に鬼子岳(きしだけ)城趾がある。松浦黨の旗頭たる波多氏の永年の居城たりしが、太閤豊吉の意に触れ波多氏没落して、其の遺領は悉く太閤の寵臣寺澤志摩守廣高に賜ふた。其の城塞(じょうさい)は懸崖削立(けんがいさくりつ)の山丘の頂上に築かれたる天然の要塞たるも、かゝる天険に拠るは築城術幼稚なる時代には必要のことなりしも、天正年間(約三五〇年前)頃より築城術に一大発達を見ると、又時勢の進歩はかゝる不便の地に劇據するを許さゞるに至った。しかのみならず波多氏滅亡の時其の家臣等が城廓に火を放ちて烏有に帰せし後なれば、志摩守廣高は先づ仮城を其の山麓今の北波多村宇田中に構へて之に居り一方唐津城を造営したのである。
抑々唐津の地は松浦潟を北にしたる唐津湾頭にありて水陸交通の要地なれば、當時スペイン、ポルトガル、和蘭(オランダ)、英吉利(イギリス)などの外舶が我が沿海に出没するもの漸く多く、苟(いやしく)も心を弛(ゆる)ぶべき時でないので、志摩守は夙(つと)に之を洞察して、一は生産交通の要地として、一は以て海港制圧の便益より、百年の居城を構ふるの地唐津に若(し)くものなきを見て、慶長七年より同十三年に至る七星霜を経て造営の結構を遂ぐるに至った。もと當城の地は満島山と称して浦島に接続せし一小丘地であつて、今の二ノ門一帯は丘脚の砂濱なりしが、其の東麓を開鑿(かいさく)して松浦川の河道を変じてこゝに疏通(そつう)せしめて、其の丘地に據りて城廓を築設したものである。それで二ノ門以東は二三十年前までは鏡神社(東方鏡村にあり)の産土地(うぶすなち)として川の東岸地帯たりし舊史を存してゐた。
城廓の結構
本 丸 高十九間 東西三十七間 南北六十五間
天主臺 石垣高六間 東西十一間四尺 南北九間五尺
二の丸 東西三十九間 南北百四十五間
三の丸 東西二百六十五間 南北二百五十間
下の曲輸 東西六十間 南北八十間
矢 倉 九 ケ 所
城門口 五ケ所 (大手、西ノ門、北ノ門、哩門、水ノ門)
慶長二年太閤より名護屋城を賜はりたれば、當城築営の際には其の用材中、二ノ丸門扉、冠木矢倉、大手門、本丸、天主臺の石材、其の他石壁の角石等は名護屋城の用材を移したるものといへど、石材に至りては不審の点なきにあらす、そは當城のものは花崗岩にして名護屋城のものは玄武岩であるので、果して移し来りしや疑問とするところである。屋瓦建築材の如きは確かに移したることは、大正四年夏唐津城址にある唐津中學校敷地内より、名護城用の瓦と全く同製の丸五十枚余を発見せしのでも分明す。
もと満島山には七社を祀りしが、築城當時左の地に奉移鎮祀(ちんし)せらるゝに至った。
天 神 社 大石丸隈に移しそれより天神山と号す
松浦不動尊 唐津東寺町聖持院持佛堂に移御した
八 幡 社 満島に移御す
津守観世音 仝
熊 野 権 現 大石山に移す
英彦山権現 全
草野不動尊 聖持院に移御す
右七社は、累代年穀米一石宛寄進せらる。
城の左右海汀(かいてい)に白砂青松が遠く孤線を描ける状は、恰度(ちょうど)九皐(きゅうこう)に翔(か)くるの観あるので、城の名を舞鶴城と名づけたわけである。松浦河口附近の海汀に濱して松籟(しょうらい)海濤と琴和し、千鳥群れゐし白砂の渚(なぎさ)は、志州公により巍然たる城廓を築かれ、井然たる市区が拓(ひら)かれて終に今日ある唐津を見るに至った。
松浦郡統治概要
国造(くにのみやつこ)本記といへる古書によれば、第十三代成務天皇の頃に矢田ノ稲吉(いなき)といへる人を末羅国造(まつらのくにのみやつこ)に任じられてゐるやうである。これ松浦地方統治が史上に見江たる始めである。かの神功皇后が玉島川で漁占の時より梅豆羅(めづら)が転訛(てんくわ)して松浦と称へしいへるものとせは第十四代仲哀天皇(喪を秘してゐるから)の時になるのであるが、或は第十三代の国造を置きし頃と考ふるが當れるかも知れざれど、確なる断言は出来兼ぬるのである。何れにせよ最初は国造が政をしてゐたのである當時の国府の位置は不明なれども、鏡村には大なる前方後円の古墳があって或は国造の古墳ではないかと呼ばれてゐるのを以て考ふれば、今の松浦川河口附近は水陸交通の関係より見ても、古墳の壮大なるものが存する点より察しても、同附近に国造府も存在せしものと認められるものである。
降って国司政治時代に入りては肥前の国府は現今佐賀市の北方一里半計りの春日村にあったので、自然統治の府もそこに遷りて肥前国司の管轄に属してゐるのである。
されど国司政治が弛緩(ゆる)びたる平安朝の中頃よりは、松浦地方は松浦黨なる豪族が割拠(かつきょ)したもので、當時の松浦郡は佐賀県内の東、西松浦郡長崎県の南北松浦郡を合したる総称であつた。後には東、西松浦郡を上松浦と云ひ、南、北松浦郡を下松浦郡と云った。この上松浦郡で松浦黨の統領は鬼子(きし)岳城に根拠を構へた波多氏である。下松浦郡を統領せしは平戸の松浦氏である。両氏の祖先につきては、波多氏は嵯峨源氏の子孫なるが如く、松浦氏は前九年の後に捕はれて後松浦に流竄(ながさ)れし阿倍宗任の後裔なるが如くも考へられ、或は全く反対ではなきかとも思はれる。松浦氏の系図には源氏の裔孫(えいそん)とす。人情上阿倍氏を称するよりも源氏を称するのが快心のことなればさもらるべきことでもあるが、余は上松浦の波多氏が源氏の後で、下松浦の松浦氏は阿倍氏ではないかと思ふ。さて果して然りとすれば、第七十六代近衛天皇久安三年(紀元一八〇七)源久が鬼子岳城り賊類討伐のため下向し、今の鬼塚村字波多島に一時居を構へしより波多氏を*し、鬼子岳城成るに及びて之に據りしものゝ如く、遂に松浦黨一方の雄を称するに至つたものであらう。黨とは小豪族の集団で即ち松浦地方小群雄の一国を松浦黨といふのである。上松浦には今一人の豪雄草野氏が居る。草野氏は鎌倉時代の始め鏡神社の大官司となり、玉島村鬼ケ城に居城を構へて松浦黨一方の領袖(かしら)となつた。かくて松浦黨は足利末まで、時に或は韓土沿岸を劫略(こうりゃく)せしことなきにあらざれど、堂々と交通貿易をなし溌溂(はつらつ)たる海国的意氣を示したるものであったが、二氏共に豊臣成り頃滅亡するに至った。
次で藩政時代となりて、先づ寺沢氏が最初の藩主として、文禄四年(紀元二二二五)より正保四年(紀元二三〇七)まで廣高堅高の二代約八十年間藩土を治せしが、廣高は賢君にして治績頗る挙りしも、それは郡史に譲りて茲には之を略す。初め十二万三千石(松浦郡の外に、今のiェ県糸島郡内に二万石、熊本県天草に四万石)の外様大名たりしも、第二代堅高の頃寛永十四年其所領天草にキリスト教徒の叛乱勃発せしため、天草領四萬石を削除せられ、後堅高自殺して寺沢氏は滅亡に至った。(廣高の墓碑は頗る壮大にして鏡神社の側にあり。堅高の墓碑は自然石にて建てられ近松寺境内にあり。)堅高の頃に黒船焼討ちとて面白き事件が突発したので、それを茲に書くことにする。
黒船焼討 正保元年六月八日早天に、唐津湾頭の高島と福岡蕃領志摩郡姫島との間に、長五十間計りなる黒船一艘来航したる旨、所々の遠見番所より追々の報告あるので、城主兵庫頭(へうごのかみ)堅高大に驚き天守臺に馳登り、望遠鏡を以て沖合を眺めたるに、小山の如き異国船一艘乗員凡四五百と覚(おぼ)しく、旗幟(はた)武具を立て列ね、数十門の大砲を備へ威風松浦潟を圧するの観がある。次で又襲来せん船やあらんとて挙藩の騒擾(そうじょう)一方でない。兵庫頭は二ノ丸に降りて早速対戦の軍令を発し、船奉行池田新介、川崎伊左衛門へ浦々水主(かこ)の用意を致すべき旨相達し、猶又軍船の用意等の下知中に、大船頭(おほふなかしら)、小船頭並に船目付衆も打ち集ひ、先陣の大将には岡田七郎右衛門、与力には並河九兵衛、配下の士には古河傳右衛門、稲田平衛門、林又十郎等を附し、何れも大筒(おほづゝ)、弓、槍、長刀を備へて乗り出し、足軽大将には並河(なみかは)太左衛門、其の組士には関善左衛門、小笠原斉(しとし)、古橋庄介、中島与左衛門、大竹嘉兵衛、呼子平右衛門、上月八助にして、何れも大筒、小筒を備へて船を出し後陣の堅めを為す。高島の警固には与力並河団右衛門、部下を督して大小の筒、弓などの武具を備ふ。大島には浅井小十郎並に部下の士河崎東馬、岡原彦兵衛等にて警戒怠りなく、神集島には岡島治郎兵衛及び部下の士善崎(よしざき)八左衛門、笹山小東太これに備へ、濱崎浦には小林甚十郎及び配下渡邊半左衛門、小野兵九郎あり。鷺首(さぎのくび)、鹿家には斉藤杢左衛門等警戒をなし、深江濱には松下半之亟、沢田玄藩及び組士之に備へ、馬渡島には酒井藤左衛門及び組士中村源八郎、古川直馬等あり。加唐島には加藤清右衛門及び配下に磯貝重太夫あり。波戸の岬には三宅藤十郎、本郷三十郎あり。仮屋崎には馬廻三騎足軽十五人、入野浦には馬廻三騎足軽十五人を置き、其の他黒川浦、湊浦にも之が警備に力を尽くした。
さて兵庫頭には、三宅某、澤木七郎兵衛、目付国枝清左衛門、御側組.足軽四組、御旗本四組都合五百八十人を率(ひき)ゐて満島の濱邊に出陣し、本丸御留守居には岡島治郎左衛門百十人にて警固に當り、二ノ門には並河作右衛門百六十人にて固め、水ノ門には蔭山源八郎百人、北ノ門には細井金十郎、大手門には熊沢三郎兵衛百五十余人、西ノ門には関右源二百人、名護屋口、札ノ辻には町奉行二組、埋門(うづめもん)には柳本徳太郎五十人、西ノ濱には小笠原登之介百人、佐志濱には加藤主殿(とのも)四十人、腰曲輪(こしのまがりわ)には渡邊東馬百人にて各々其の守備区を厳戒した。兵庫頭の乗船は美々しく飾り立て、船奉行池田、川崎を始め大小の船頭小宮官右衛門、吉田儀右衛門、船目付磯貝藤右衛門以下水主(かこ)六十人にて、鳥島と洲口(すぐち)の中間に船かゝりをなし、配備の将卒総て五千五百人を数ふ。
一方には飛脚を以て福岡藩に警を傳へたれば、黒田甲斐守は直ちに黒田外記(げき)、郡主馬(こほりしゆめ)、山内源八郎、川田齊(しとし)等をして、都合五百八十人を以て九日暮方秋月を発して芥屋崎(けやさき)に向ひ、黒田市正は吉田六郎太夫、明石権太部、牧甚之介等を始めとして、都合六十人、九日夕方直方(のうがた)を発して今津浦へ出陣し、福岡の先陣には郡正太夫、松澤源之亟、由良道可等都合七百五十人、後陣は杉山文之亟、浦野半平、原吉之亟等七百五十人の備をなし、姫島には黒田源左衛門、片田重
衛門等五百八十人、姪ノ濱には小林小十郎、金子内膳等四百五十人、箱崎には黒田監物(けんもつ)、山本紋右衛門等三百人、黒崎には井上三郎太夫等百人、相ノ島には明石右衛門等三百二十人、地ノ島には戸田孫九郎等二百人、志賀ノ島には井上美濃守守百五十人、其の他鐘ケ崎に二百人、野北に百八十人、多々羅濱に百人、残島(のこじま)に百八十人、何れの陣営も大筒、小筒、槍、長刀の兵具を取つて厳戒に怠りがない。福岡城留守には黒田美作を以て當て、本丸には黒田外記、二ノ丸には三枝(さへぐさ)勘兵衛.三ノ丸には小川傳八各々守備をなし、寄手(よせて)には焼草船をも用意し先陣の指揮を待ってゐた。
唐津方り先陣り軍船数百舷は、九日暮陰より黒船を遠巻きにして備へ、聖十日正十二時頃より、黒田豪の先陣二十五他の軍船姫島より南方へ四壁計りの閃に碇を下した。これ両港領域地方の出来事でぁれば爾蕗よりの警固を見るに至ったのでぁる。十一曰には筑前方の後陣の勢数百艘の兵船を浮べて黒船の北方を扼(やく)した。さて又平戸城主松浦壹岐は千二百人にて国境を固め防長の毛利氏は伊崎に陣を張り、豊前の小生原勢は黒崎へ軍船を浮べ、九州北海岸は勿論中国の一角まで物々しき警戒をなした。
寺澤、黒田両家の軍船迫々集り十重二十重と取り巻き、立て列ねし旗.船印は天に翻(ひるがへ)り、弓鐵砲、槍、長刀の光りは海波に映じて物凄きまで輝き、柴船草船数百艘は黒船の南北を擁して火攻の計をなし、総勢より時々閧聲を挙げ海若(かいじん)も慄(おのゝき)をなすばかりである。黒船よりは此の様を見て大に驚き、唐津勢の方を麾(さしまね)き何やらん呼び叫ぶと雖も一切聞き分け難く、只管(ひたすら)其の叫聲(けうせい)を聞くばかりである。又団扇(うちは)を以て麾きけれども、我軍にては見知りもなき石火央二三十門の筒口が黒船の舷側(げんそく)に揃って居るのを見て、近づく船とては一艘たりともない。黒船も今は詮なく遁れ出でんとするも、流石に廣き海湾も船を組みて警固しければ隙間もなくしてそれもなり難かりければ、銅羅(どら)、チヤンメラ(今の喇叭)を打ち鳴せしが、年紀二十歳ばかりの若武者は、金色り帽子に赤地の飾りある衣服を着って、朱色の日傘に金銀の短冊めきたるもの数十を其の縁邉(ふち)に吊し美しく飾り立てたるものをさし翳(かざ)し、随員五六十人を引き連れ船矢倉に登りて兵庫頭が三ツ幕の紋打ちたる旗、石無地の紋付きたる吹流(ふきながし)を立てたる乗船に向ひ、何とやらん言葉をかけ頭を下げ拜しける所を、無惨にも唐津方先陣の将岡田七郎右衛門の乗船より並河九兵衛組土佐々木兵介三十匁筒にて彼の異装の若武者を射たれば、船矢倉より眞逆様(まつさかさま)に血煙りを立てゝ墜下(おちくだ)った。後方(しりへ)に控(ひか)へたる者ども驚き騒ぎければ、又も黒田勢より二三十匁筒にて撃ちかけ誤たず三人を射落せしが、残余の輩急ぎ船内に馳せ入りしが、両家の軍勢より大筒小間を息もつかせす連射せしに、黒船にては銅羅、チャンメラを切りに吹き鳴すや否や、二十四門の石火矢より地軸も砕けんばかりの轟を以て寄手を砲撃し、白煙膜朦々として*尺(しせき)を辨ぜず、然るに敵船は小山の如き大船なれば、砲弾は我が船の帆檣(ほばしら)、旗、吹流には中(あた)ると雖も、兵員船体には何等の損害とてはない。此時寺澤、黒田の両軍より柴草船百艘に火を点じ、異国船の風上より流しかけけるに、炎々たる焔は天を焦して黒船を包み、乗り組み外人は龍吐水(りうとすゐ)、鯨吹波(けいすいは)などの消火器にて之を防ぐと雖も其の甲斐なし。之に乗じて我軍よりは益々砲聲殷々として撃ち出せしが、彼の大船は四五百人の船員と共に渦を巻いて、高島沖の海底深く葬り去られた。時に十一日正午頃であった。
次で両家より海士(あま)を海底に入れて、沈没せし外船使用の石火矢を引き上げて、寺澤家に八門黒田家に六門を得た。猶残余の砲門を黒田家にて毛髪製の綱にて引き上げんとしたるも綱断(き)れて用を為さず、寺澤氏亦其の砲を得んとせしも効なければ、海神死霊の怨恨にてかくやとて、或は近松寺にて死霊の法会(ほうえ)を行ひ、或は佐志八幡社の神主に命じて祈祷などなさしめて、目的を遂げんと企てしもその甲斐なかつた。よりて外人亡者(もうじゃ)の供養のため、高島沖にて三日三夜近松寺住僧をして施餓鬼会(せがきえ)を行はしめた。
當時唐津城にては十門の火砲ありて、余の二門は征韓役にて加藤清正が分捕(ぶんどり)せしものと傳へられ、形態前者よりも小なりしと云ふ。今は僅かにその一門が唐津公園城頭に残ってゐる。
此の焼討の事に就きては幕府よりは何等恩賞の沙汰もなかつた。さて其の今日残存せる砲門の紋章より考察する時は、和蘭船たること明かで、正保元年は島原の乱後五年目で和蘭以外の西欧船の出入は禁じてあった時代であれば、當藩並に隣藩が擾き立てたるも當然のことである。さて何故蘭船が入港せしや不明であり、また當時は何国の船なる事も分明せなかつたのである。
寺澤氏滅後一年間は後主の適當なるものを得ざるために、幕府の直轄となる。
大久保氏は慶安二年(二三〇九)より延寶六年(二三三八)まで忠職(ただもと)、忠朝の二代三十年計りの領主として播州(兵庫県)明石城より転封せられしが、此の頃より唐津は譜代藩となるに至って、當時の禄高は八萬三千石(松浦郡に七萬石。今の糸島郡に一萬三千石)であつた。(忠職の墳墓は鬼塚村宇和多田の田畑の中に孤立せる一小丘上にあり)此の時代に、我国文壇の大明星であつた戯曲作者の大斗たる巣林子近松門左衛門は、我唐津近松寺に一時仮寓したるもので、詳しきは近松寺の項に記述しやう。
松平氏は大久保氏に次で総州佐倉より転補せられ、延寶六年(二三三八)より元禄四年(二三五一)まで乗久、乗春、乗邑の三代十三年間の藩主となつた。
土井氏は志州鳥羽城主より来りて松平氏に変り、前代松平乗邑の時より食禄六萬石に縮減せらる。利益、利実、利延、利里の四代間、元禄四年(二三五一)より寶暦十二年(二四二二)まで約百七十年間の領主となる。(利延の基所は神津村大字神田の御山にある)
水野氏は寶暦十三年三州岡崎より転封せられ、忠任、忠鼎(かね)、忠光、忠邦の四代に及び、文化十四年(二四七七)まで五十余年藩鎮にありしが、第一代忠任(たゞとう)の頃には藩内挙りて百姓虹ノ松原に集合し粉乱の禍、危機一髪の観ありしも、百姓の要求容れられて大事に至らぎりしことは松原の條にて述ぶるであらう。第三代忠光の永眠の地は町の南郊雄嶽(おたけ)山にあり。當時唐津を領するものは老中の例に加へざるを以て先規とせり。然るに第四代忠邦は覇気満々として天下の■大政に千興せんことを熱望せしが故に、文政元年幕府に請ふて遠州濱松に移った。後大阪城代となり、次で京都所司代に転じ、又西丸老中に還り、天保五年本丸**となり、徳川十二代家慶将軍を補佐して、所謂天保の改革なるものを断行したるも、余りに*情け径行的たる観ありしため、成果を挙げざりしは遺憾のことであつた。
小笠原氏 文政元年(二四七八)奥州棚倉(磐城国今福島県の内)より転じて水野氏に更りて當城を領し、長昌、長泰、長曾(お)、長和(かづ)、長国の五代五十余年にして王政維新廃藩治県に及びしが、(長和の墓所は近松寺内にあり)長国の嗣子長行(みち)は幕府多端の際特に抜んでられて、當藩より老中たること不能なりし慣例を破りて、国政に参与して生麦村の英人刃傷事件より、文久三年の下関外国船砲撃事件の始末、兵庫港開港勅許のことに与る等、幕末外交界の花形役者であった。
廃藩置県の大号令により、明治四年九月伊萬里県の所管となり、唐津町に伊萬里県出張所を設けられ、五年五月佐賀県に改められ、六年十月出張所を廃止した。佐賀県は九年四月三瀦(みづま)県に合併されたが、五月松浦郡、杵島郡を割きて長崎県に属せしめ、六月には藤津郡も長崎県に併せ、八月三瀦県廃せられ、佐賀郡以下六郡も亦長崎県に合し、十三年五月松浦郡を分ちて東西南北の四部としたが、十六年五月佐賀県が復活し、同時に東西松浦も佐賀県に編入せらるゝに至つた。
唐 津 焼
遣唐使の往来やら三韓交通の頻繁なる孝徳天皇、斉明天皇頃(約一三○○年前)に彼の地より陶工を伴ひ来りて、佐志郷内大良(だいら)、小次郎、藤平(ふぢひら)(今は切木村内)の地に焼物竃を開かしめたるやうで、これ我国陶器製造の嚆矢(かうし)である。しかして此の頃より建長年間頃迄(約七〇〇年前)を一段とし、それより文明年間とて應仁文明の大乱が起って世の中物擾千萬なる頃迄(約五〇〇年前)を二段とし、其の後慶長の初年迄(約三三〇年前)を三段とし、通じて古唐津又は佐志山焼といつた丁度波多氏滅亡の頃がこの慶長の初めであつて、其の頃佐志山竃(かま)を波多氏の鬼子岳城邊の小椎(こしい)に移した。
其の一段のものは白土にて製し薄き釉薬(うはぐすり)を施す。之を米量(よねはかり)と称す。陶膚(たうふ)に光沢がない。古へ之を斗量(ます)としたと云ふ説あるも信ずべからず、そは其の形状一定せざるを以て然らざるを知る。唯米を斟(すく)ひしを以て名とするのである。其の二段のものは、白土あり赤土あり、釉薬は鉛色で、臺(いと)輪(そこ)の内縮緬の皺(しは)の如き状に土質を露(あらは)して釉を施さず、之を根抜(ねぬけ)といふ。三段のものは奥高麻(おくこま)と称し、高麗の器物に模造せしもので、陶膚稍々密にして釉色枇杷(さいしょくびは)の実の如きあり、或は又青黄のものもある。これも亦臺輪の内に皺紋(しは)あるを以て良品とす。此の外瀬戸唐津とて應仁の頃(約四六〇年前)より天正年間(約三五〇年前)までに製する所の者がある、尾張瀬戸の釉水を用ひし故にこの名ありて、白土に白色釉を濃厚に施せば亀紋(ひび)の劈痕(さけあと)が甚しく現はれてゐる。又絵唐津といふ者がある。慶長年間以降のもので、其の質赤土青黄黒を兼ねたる釉を施してゐて最も潤澤(つや)がある。絵は草画で茶碗、盃等の雑器が多い。朝鮮唐津は、天正より寛永年間(約三〇〇年前)迄に製するところのもので、朝鮮の土と釉を用ひ、土質赤黒にして青白を雑へたる釉を流してゐる。俗になまこ薬といふ。水壷、盃盆(はいせん)の種類が多く茶碗は稀である。掘出唐津と云ふは、寛永より享保年間(約二五〇年前)迄に製するもので、陶質堅く青黒を帯びたる釉色であつて、臺輪の土質を露すもりと然らざるものありて一様でない。且つ臺輪の内に皺紋あるを良品としてゐる。其の形多くは正円でない。其の堀出と名づくるは、火候(ひいり)度に過ぎ或は*(ゆが)み或は欠損するので、工人之を不用物として土中に埋めしを、後世掘出して賞翫(しょうがん)せしょり此の名がある。これより元来埋めざる完備の物も、この器と同種の物は皆掘出唐津と名づくるに至った。
曩(さき)に窯竃(かま)を小椎に移したが、寺澤氏が唐津築城と同時に、城の西方坊主町に再び之を移転し、元禄四年土井氏襲封の頃、又々之を唐人町に転じて現時に及んだものである。
文禄の役、太閤名護屋在陣の砌(みぎり)、唐津焼を献ぜしことありしよりこれが例となり、徳川将軍家にも献納を続けた。藩政の頃は主として藩主の数寄に任せたれば産額甚少なりしが、今は其の製品は次第に各地に販売せられ、中野霓林の製が最も多く、屡々高貴に献納し嘉賞せられたる光栄を有す。製品は大小様々にして頗る典雅の趣致掬(しゅちきく)すべきものがある。
後柏原天皇の時(約四〇〇年前)伊勢の人五郎太夫祥瑞(しょんずい)といふ者あり、明国に往き磁器の製作を學び、帰朝して肥前唐津の工人に其の技を傳へたので磁器の製作起れりといへる説あるも、唐津焼は陶器(土焼き)にして磁器焼にあらず、祥瑞は肥前今利(伊萬里)に歿すと云へば、彼は伊萬里の工人に技術を傳へしにあらざるか、伊萬里焼は磁器でもある。記して参考に供す。
町内の史蹟
◇安田作兵衛(天野源右衛門)
唐津新町浄泰寺に安田作兵衛が本能寺にて織田信長を刺した鑓といへるもの一筋を蔵し、また作兵衛の墓とて高さ五尺計りの花崗岩の荒削りしたる碑石なるものもあれど、真偽は固より保証するところでない。この作兵衛こそ天野源右衛門と変名して世を忍びたるもので、唐津最初の城主寺沢志摩守に食禄せしものであるが、唯寺沢氏に致仕(ちし)前筑後の柳川藩主立花宗茂に仕へたるものゝ如く思はるれど、茲に記述せんとする松浦風土記の記事が、立花朝鮮記の一部と合はぬ点があるので腑に落ち兼ぬるけれど、風土記に面白く書けるものあれば極めて其の概要のみ摘出してみやう。
爰に天正十年夏も眞盛りの六月京都本能寺に於て、明智が配下として名だたる安田作兵衛は右大臣織田信長を唯一筋の鑓にて仕止めたので、秀吉公よりの探索(たずね)人となりたれば、天野源右衛門と改名して世を忍ぶ身とはなつた。
さて唐津城主寺沢志摩守は予て武勇智略の名将勇士を愛撫(あいぶ)せしが、天正十九年秋上洛(にうきょう)して天野が洛中の隠棲(かくれが)を知り、直ちに天野が棲居(すまい)を訪はれけるが、天野大に驚き、寺澤殿は五萬石(其の頃までは五萬石)の大名なるに、我等如き蔭浪人(かげろうにん)がむくつけき棲家(すみか)へ参らるべき覚えなし。定めし人違ひならんと申しければ、公はつと内に入り人傳(づ)てにては疎(うと)々し直(ぢ)きに面談せんとて座敷に通らる。天野はさらばと請(じょう)じたれば、公は坐に着て供の面々を退け、如何に源右衛門其の方世を忍び名を改むると雖も、仔細あって某其の許(もと)を知る。御邊(ごへん)が武勇天下に並びなし我其の勇を慕ふ。
枉(ま)げて我に一臂(び)の労を執らば、知行食禄は何時にても己が所領の十分一を遣はすべし。今日の推参余の儀にあらずと。大野承りて、某如き不肖のもの御見出しに預る段自身の面目過分の次第なれば、則ち御言葉に従ひ奉らんも、只今とては参り難しと申しけるに、公は天野が諾はざる色あるを見て、彼は明智方にて壱萬石を領せしと覚ゆ、されば知行の不足に存ずるにやと思ひ、御邊の先知は壱萬石なりと予て聞き及ぶといへども、我等は知らるゝ通りの小身なれば十分一とは申しながら、我開運の時節到来せば知行は望みに任すべし枉げて参られよとありければ、天野大に怒り、志州殿には某如き浪人者を人一人と思召し、私宅までの御来臨は実に忝き仕合せなりと存ぜしに、只今の御口上にては中々十萬石を賜はるとも、寺澤殿の御家来になり罷(まか)らんずるは某が恥辱である。公は其の仔細を尋ねけるに、天野答へて謂ひけるは、某を御召し出さんとの御来駕忝くは存ずれど、只今の御言葉は不快の御一言と存ず。例令(たとへ)某が先主明智氏にて壱萬石を食(は)むとするも今は天下の御尋ねもの、さるを召し抱へられんには、五千石は愚か五百石にても某に取りては過分である。然るに明智方にて壱萬石を扶持せられし前身なれば、五千石を不足とするとの御思召、よくも某を知行に恋々たる卑劣漢とは思召つる。さあるに於ては弓矢八幡に誓って、寺澤殿には一命を奉ずることは罷りならじ。且つ又某が只今とては参り難しと申しける仔細は、公が御帰国の節某を召し連れ領国に御下りあらば、寺沢殿の御国入りと京童(きょうわらべ)も見物せん。其の時某が面(おもて)を知りたるものあらんには関白の御聞江にも達し、尊公の御身の上の障りともなるべし。これを以てかく申しけるを、委細をも聞き給はず知行の多少を仰せらるゝは武士の恥辱なりと申し開きければ、公は深く嘆賞(たんしょう)して、其の許の心中を知らで粗忽(そこつ)の申條ありたるを悔ゆ、然る上は何時なりとも勝手に入国あれよ。是は浪人の不自由ならん節もやあるべし、些少なれども与ふるものとて黄金百両を与へんとせしに、天野は手にも取らで、仰の如く浪人なれば不自由勝ちではありつれど、金銀は不用にてこそ、源右衛門が手付金取りたれば他家に身を任(まか)する事なからんと思召つるは無念である。武士と生れて言葉を食むが如き卑陋(ひろう)は致さじ、勇士の一言金銭よりも重し。幾萬石を以て某を召し抱へんとするものありとも、尊公への約束を破るが如き畜生じみたる振舞はあらじ、必ず御懸念し給ふなと堅く誓を立てければ、公は益々天野の性格を讃賞嘆美せられた。
翌文禄元年九月天野は唐津に赴かんと旅装を整へしも、恰も太閤が朝鮮征伐にて肥前名護屋に在陣し、同地方は上方勢雲霞の如く集り居れば、天野は之を憚(はばか)りて猶京都に留まりけるが、一方寺沢氏は加増によりて八萬石余を領することゝなつたので、天野は又これに躊躇(ためら)ひて歳月を過ぐす程に月日は流れて、慶長三年となり太閤薨去といふことゝなつた。ところが佐賀藩主鍋島信濃守勝茂は予て天野が人となりを知りて、家人を遣はして弐萬石を以て扶持(ふぢ)せんと申し入れけるに天野は寺澤氏との契約あるので何程の高禄たりとも應じ難しとてきつぱりと謝絶した。
程なく天野は入国の旅装を整へて大阪まで下ったが、先年本能寺の変にて森蘭丸のため鑓疵(やりきず)を受け痰毒(たんどく)に罹り十七年来の宿痾(しゅくあ)となつてゐたが、此の時劇痛に悩んだので、摂津有馬の温泉で治養することゝした。折しも志州公大阪滞留中にて天野を訪づれ、今は太閤も御他界あれば懸念することあるまじ、早々唐津に下るべしと仰せけるに、某も其の志にてありつれど、固疾(こしつ)再発のため有馬温泉にて治療致すべければ、君には先づ先づ御下りあれ、某も御跡を追いて参るべければと、公大に悦び使者をして、鍋島殿より高禄を以て招ぜられしに之に応ぜず、其の外様々の要望をなすものあるとも承引なくして、一途に先約を重んずること何よりの祝着(しうちゃく)である。九州までの路用金なりとて金貳百両を給はりたれば、天野大に喜び、御家人になりたる上は拜領するを得んとて公の厚意を感謝した。
さて天野は有馬にて湯治中に、軽口(かるくち)、物眞似(ものまね)、六芸(ろくげい)に通じたる酒袋(さかぶくろ)といへる道心ものを得て旅の徒然の相手とした。酒袋と号するのは無敵の酒豪なるより自称せし名であつた。さる程に病も癒えて任地に赴かんとて道中の対手(あいて)にもせんとて酒袋を同行した。
天野入国の披露に及ぶや、未だ登城もせざるに翌日鷹野(たかがり)の序(ついで)に公は天野の私宅を訪ひて、無事到着のほどを祝着せられた。偶々公は酒袋を見て、小野木三右衛門宗時が世を忍ぶ仮名なることを道破(だうは)せられて、そなたは去ぬる元亀元年六月廿八日近江国姉川にて、浅井長政の身内弓削(ゆげ)三郎左衛門を討ちし時、弓削がために切られし右の 眦(まなじり)の刀痕(とうこん)と、同じく右の股に鑓疵(やりきづ)あるべし。志摩が眼力寸分違はじと図星さゝれて、酒袋今は包み隠すことも江ならず言葉に窮す。此時公は、不足にはあるぺけれど此れ迄下向の事なれば、志摩が小身不肖を厭はずぱ、現米三千石にて扶持せん故に是非に此の地に足を止めよと、酒袋畏(かしこま)って御請けをなした。當時覇(は)を称せんとするもの如何に人材網羅に苦心せしかを察するに足る。
それより天野、小野木の両人は別けて懇意を通じたが、小野木は天野を不審し、如何なれば公がか程に天野を重用せらるゝにや。天野はまた最初より小野木を凡物ならずと思ひしが、さて織田右府に仕へたる美濃の住人小野木宗時なることを知りてよりは鹿略なく接した。其の後天野は益々公の信頼厚いので、小野木は天野が如何なれば斯程重用せらるゝにやと注意怠りなかつたが、不図した事より天野が安田作兵衛なることを知りて心中大にうち驚き、さては主君信長の仇敵を討たんとて、様を更へ身を変じ浅間敷き道心者とまで成り下りたるに、神ならぬ身の知らぬこととて、今は天野の余徳により三千石を食むとは無念の次第とは思へど、今當所にて果し合はゞ、一は天野への義理立たず、且つは君公への恩義にも背く恐れあり、さりとて不倶戴天(ふぐたいてん)の仇敵を一時も捨て置きては義士の道にあらずと決意し、天野を訪ひて、さても天野氏貴殿の御庇蔭(かげ)により三千石を頂く身とはなつたが、某事実は貴殿を狙(ねろ)ふこと十数年、今に至りて始めて貴殿が安田作兵衛なることを知る。此の地にて果し合ふは君公への恐れあり、且つ又貴殿に對する義理も立ち難し。一旦此処を去りて再会を期せんと、天野は驚く様もなく、さらば後日必ず会逅(くわいこう)の時を待たなん。勝負は時の運なれば小野木殿よく致されよ。尋常に名乗り合ひて御望に従ふであらう此より小野木は踪跡(あと)をまし唐津を立ち退いて、江戸参勤の海道に待ち合はせんと三河尾張の間に彷徨(さまよ)ふた。
然るに翌る慶長七年夏、公は江戸参勤にて唐津を発足せられ、天野御供を承りしが、彼は公の許可を得て一行に先つこと三日前に旅程に就いた。天野は幅一尺長三尺の木札に墨黒々と寺澤志摩守家臣天野源右衛門と書き印して、旅宿の門口に表札し、小もの一二の者を伴ふ外は一里計りも後方に隔てたる別宿に就かしめつゝ東上した。然るに一方小野水は時節を待ちつゝ海道を往来してゐたが、届州見附(みつき)邊にて寺澤殿参勤のよしを知り注意怠らざりしが、丁度旅宿の門邊に天野の標札を発見し、天にも昇る心地して歓喜(よろこ)び、附近の酒店に至りて桝酒二杯も傾け、ねた刃を合せ軽装して天野が旅宿に案内を請いければ、天野立ち出で珍しや小野木三右衛門と声をかくれば、如何に作兵衛は、如何に作兵衛、約束を違へず對面に及ぶからには弥々(いよいよ)勝負を決せんと、天野は云ふにや及ぶと立ち出でたれば、小野木はかく互に言葉を交すとも、仇討ちと云ふ事に証拠なくては叶はじ、貴邊の家来を召され猶旅宿の主人も立ち合はしめよと云ひければ、貴殿一人にて某を狙ふを知り某が家来を引き具して對(むか)ひては怯懦懦(ひきゃう)の汚名は末代に残るべし。定めて御尋ねあらんとて御覧の通り大礼を標して貴殿を待つ。されば家来は悉く一里の後方に宿滞申し付け、某一人にて勝負を決せんと覚悟す。元より手を束(つか)ねて貴殿の手に首を刎(は)ねられて、故右府公の追善に備はるが誠道ならんも、某もさのみは余りに無念なれば事も見事に勝負せん。運は天に任すべし。小野木殿心を落ち付けて某を射たれよ。某とても遠慮はせじ、如何となれば先年有馬にて貴殿道心ものの節ならば手を束ねて源右衛門が首を渡したらんも、今は主ある某がことにて我身にして我身ならずと、互に斬り結ぶこと半時ばかりなりしが、各疲れて休息するところに天野が家来八九人馳せ付けしも、天野は深く其の助力せんとするを叱咤(しつた)して又立ち上り打ち合ひしが、天野が運や強かりけん小野木は終に無惨の最後を遂げた。公は之をきゝ天野が所作(しょさ)の雄々しく用意周到なるものを嘆賞せられた。後天野は唐津に帰藩て悪性の腫物(しゅもつ)に煩(なや)みて自害すとかいふ。或は晩年踪跡(あと)を晦(くら)ましたとも云ふ。
因に、浄泰寺は太閤征伐役の頃、寺澤志摩守廣高の父越中守廣正法号巌浄院殿看誉浄泰禅定門の遺骨を納めしより、浄泰寺の寺号を称せりといふ。本尊仏を矢負(やおい)如来また泥土附本尊ともいふ、もと波多氏の代官池田帯刀(たてわき)といふ者あり。寺田と己が所有の鹿田と密に取り更へたりしに、早苗取る頃毎夜童子の足跡にて右の替へ地を踏み荒せば、侍五六輩をして夜陰に之を窺(うかゞ)はしむるに、一人の小僧出で彼の田の中に入る。警戒の侍は隙かさず一矢を放ちしに手答へありて其の人なし、足跡をしたひて寺堂に上れば、本尊仏像の裾(すそ)に泥土(どろ)が附いてゐて、又左の脇腹に彼の矢深く射貫かれてゐるので胆を(きも)を潰(つぶ)す程驚き、罪科を懺悔(ざんげ)して矢を脱ぎ取りたりと、縁記の一節に見江てゐる
近 松 寺
唐津西寺町に近松寺あり。臨済宗南禅寺派に属する小本寺として、往時上松浦郡禅宗七刹の随一であって、後二條天皇乾元元年(約六〇〇年前)の創立にかゝると云ふ。足利氏の頃明国との交通には學殖深き禅僧を煩(わづら)はせしものなるが、茲に後奈良天皇の天文八年(約四〇〇年前)春防長の領主大内氏の命を帯びて、湖心禅師は正使倭として明(みん)朝に使し皇帝中宗に謁(えつ)し、十年冬任を果して帰朝し、次で幕命によりて博多聖福寺に転ず。當時鬼子岳(きしだけ)城主波多三河守は、師の高徳を慕ひて満島山(今の舞鶴城址)の地を相(そう)して本寺を再建し、師を招じて中興の大祖師となす。然るに正親町(おほぎまち)天皇の天正二年正月三日兵火に罹り、七堂伽藍烏有に帰す。寺沢志摩守廣高唐津を領し、外国との折衝(せっしょう)のため長崎に判事たるの任を兼ねしが、外人との通訳に其人乏しきを憂ふる折柄湖心禅師の高弟耳峰禅師は道學兼備の人にて高名亦師に過ぐ。因て寺沢氏は耳峰禅師をして其任たらんことを請へるに、禅師は當寺再建の交換条件を以てせしに、公之を諾し本寺を今の地に移し菩提寺(ぼだいじ)となす。然るに寺澤氏は二代にして断絶し、當寺も共に衰微に帰せしが.、第四世遠室禅師深く其の頽廢を嘆き、江戸に到り第三代徳川家光将軍に復興の事を嘆願したるに、先師の勲功を賞して慶安二年八月十七日御朱印(寺領寄贈状)を賜はり、郡内伊岐佐村内にて百石を事典せられ仁孝天聖文政三年小笠氏封を唐津に移し、本寺を以て菩提寺となし年禄百石を寄せらる。
山門は名護屋城より移したる名門にして、書院前の庭園は曾呂利新左衛門の築きしもので、城下の風景を写せしものなりと傳ふ。境内には志摩守妻室の墓標五輪の大塔、志州公の継嗣兵庫頭堅高の自然石の墓標、小笠原佐渡守長和(ながかず)の墳墓、松平和泉守乗春の建立にかゝる華厳の釈迦仏の石像大彿等あり、文豪近松門左衛門の墓標もありて廣く世人に知られてゐる。
近松門左衛門
我国文壇の明星戯曲作者の泰斗たる、巣林子近松門左衛門は少時我唐津近松寺に遊びたるものゝやうである。唯、嬉遊笑覧といへる書には三井の近松院(ごんしょうゐん)が声曲に関せし点より疑問を存して居るが、「南水漫遊拾遺」には、近松門左衛門姓は杉森名は信盛平安実巣林子と号す。越前の人(一説に三州人ともいふ)壮年にして肥前唐津近松禅寺に遊學し義門と改め、僧侶を数多門人となせしが.所詮(しよせん)一寺の主となつたとて衆生化度(しゅじょうくわど)の利益少しと大悟を開き雲水に出でしが……。「京摂戯曲作者考」には、長州萩の産にして同藩の臣杉森其の男なり。名は信盛俗称は平馬といふ。平安堂巣林子、不移山人等の数号あり。卯花園漫録(ばうくわえんまんろく)には越前の人とす。恐らくは誤りならんか。少(わかふ)して肥前唐津近松寺寺に遊学し……「戯財録」には、近松門左衛門平安堂と号す。肥前唐津近松禅寺小僧古澗(こかん)、碩学(せきがく)に依て住僧と成り、義門と改む‥…。など多くの記録には唐津に関係あることを認めてゐる。唯生国につきては諸説一定せざるが、越前の産とするは、巣林子の弟岡本一泡子(儒者にして医師で京都に住す)の養家が福井侯の藩医なりしより起りたる臆測(おくそく)か。或は三州の人とするは、浄瑠璃姫の故郷より考察したるもりではあるまいか。長州説亦間違ひないとも云へぬが、又全然否定すべき反證もあるまい。當近松寺の記録に同寺第四世遠室禅師が、寺領の御朱印を徳川三代将軍に請願せんとて上府し、其の帰途、下ノ関の一旅舎に寄宿せる十歳ばかりなる幼き彼を見て、伴ひ帰りて寺房に置きたりと。若し此の記録を真実とすれば或は長州出生とするを可なりとせんか。唯遠室禅師帰国の年と門左衛門の年齢との関係に稍々疑念なきにあらざれど、少時當近松寺に喬居(けうきょ)せしことは事実と認めても大過はないと思はる。
さて彼は二十余歳にして唐津を去り、舎弟岡本一抱子の京郡にあるものを尋ねて入洛し、天性麗質の才筆を呵(か)し、元禄の初年近松門左衛門と改名して戯曲作者となり、同三年浪花(なにわ)に下り、竹本筑後椽(ちくごのじょう)が為に戯曲の著述数多く其の名声を轟かすに至る。元より和漢の學に通じ、しかもよく時代の思潮人情の機微を洞察して傑作を出せしが、中にも国姓爺合戦(此の作は頗る人心に投じて三年間打ちつづきて演劇上場をなす)雪女五枚羽子板、曾我会稽山等は最も傑出せる作である.享保九年十一月廿一日(約二〇〇年前)齢七十二歳を以て歿したるが、此の大文豪巣林子の墓所が、唐津近松寺、大阪谷町法妙寺、兵庫県下川邊郡久々智村廣済寺との三ケ所にある。
當時廣済寺の住職日昌上人と巣林子との親交は一方ならざるものあり。又同寺には翁の過去帳も存してゐるところより観れば、同寺の墳墓は最も確実性を有して居るかと考察せられ、法妙寺は翁の妻室実家累代の基地があり、且つ同寺には「阿耨院穆矣日一具足居士(あのくゐんぼくいにちいちぐそくこじ)」「一珠院妙中日事信女」と夫妻の戒名を二行に刻して居る。之より察すれば同寺の墳墓こそ翁永眠の地とも思はるれど、斯程の文豪の墓石が夫妻共同碑とも考へ難く、或は妻女の墓地は確かに法妙寺にして、妻女が翁に後れて十年の後即ち享保十九年二月十九日歿したる際、碑を此の地に建て同時に翁の法名をも並記したるものと考ふるを妥當とせん。次に唐津近松寺の墓碑につきての考察をなすに、同時墓碑の隠し銘中に、遺言によりて當寺に帰葬すると云ふは信じ難きことである。子や少時唐津に遊ぶと雖も元これ唐津は故郷にあらす、また子が活動の生涯五十年間は京阪の地である。安(いづくん)ぞ曾遊の地と云へるのみにて遠く西陲の地に帰葬を好まんや、また其の帰葬するが如くんば、豫て子が活動中に放ける動静につき何等かの音信其の地に関する消息手蹟が存せねばならぬ。されば當寺の墓標は大文豪巣林子が、少時の因縁を有する関係から何時の頃かに碑を建て其の分霊を祭祀せしものであらう。されど當寺墓碑下に彼の肌骨を痙(うづ)めずと雖も、其の偉霊は永久に鎮座するものなれば、其の碑の意義も後昆(のちのよ)に伝へて失はれざるものである.要するに彼は少時當寺に遊び、後戯曲を大成して雷名を竹帛(のちのよ)に垂れ、高齢を以て摂州に歿し廣済寺の墓所に永眠せるものと考ふれば誤りなからん思ふ。
唐 津 神 社 (城内)
社 格 郷 社
祭 神 底筒男命(そこづゝをのみこと)、
中筒男命、
上(うは)筒男命
創 立 天平勝寶七年九月(約一二〇〇年前)
由緒
始め神功皇后神教を奉じ新羅を征するや、西海茫(ぽう)々として一望際涯(さいがい)なく舟師向ふ所を知るに由なし。時に皇后三神に祈誓(きせい)して、神若し吾をして新羅を征せしめんと欲せば、願くば一條の舟路を示めせ、我朝固より神国なり神霊の加護なからんやと。奇なるかな海上忽然として光あり以て皇軍を導くものゝ如し。皇后依って舟路を得遂に新羅を征服することを得たり。即ち神徳の著しきを感じ、凱旋の後鏡を捧げて松浦の海濱に三神を祭る。然るに数百年の星霜を経て社殿頽滅(たいめつ)せんとせしが、孝謙天皇の御字地頭神田宗次なるもの、一夜霊夢を得て海濱に至る忽ち二つの函(はこ)波間に漂(たゞよ)ひ来たつたので、之を採りて開けば燦(さん)たる寶鏡を納む。宗次驚き且つ敬ひ其の霊異を朝廷に奏す。即ち詔を下して唐津大明神の神号を賜ふ。実に天平勝寶七年九月二十九日なり。爾来年月を重ね文治二年(約九五〇年前)に至り、地頭神田廣は社殿を再建し、且つ祖先宗次の功労を思ひて其の霊を合祀せり。慶長年中寺澤氏唐津城を築き、後十五年を経て更に條築して祈願所と定む。其の後大久保、松平、土井、水野、小笠原の各藩主の崇敬また浅からず、明治六年郷社に列し唐津神社と改む。
九月二十九日は毎歳祭礼を行ひて、創建を記念す。近年太陽暦十月二十九日に改められ、當日は神輿西ノ濱のお旅所移御あり、鬼首、兜、飛龍、鯛などを形どる漆塗りの大なる名物山笠(やまかさ)十数臺を曳(ひ)き廻してお祭り気分を煽(そゝ)り立て、遠近来り観る者山をなす。此の山笠は祭禮以外の時でも、町賓とでもいふべき人の出入か、国家の慶事といふべき際には、必ず曳き出されて景気を煽(そそ)る機関に供せられて、唐津名物の一つとなつてゐる。
海 水 浴 場
眼前に鳥島、大島.高島などが波間に浮び、右手に浮岳(うきだけ)、筑紫富士の景致を眺め、後(しり)へに白砂青松の背景を有し、此間藍碧(らんへき)の海水を湛(たゝ)へたるのが此れ我唐津海水浴場である。我国海水浴場多しと雖も我唐津海水浴場の右に出づるもの幾何かある。しかも海底は金砂銀砂の濱にして遠浅なり加ふるに、松浦川の淡水流れて塩分の硬度を調和する自然の配剤の妙を得、碧水の澄徹(ちやうてつ)は海底の砂粒を数ふるに足る。実に浴場として理想的諸條件を具備してゐる。設備完全と云ふぺからざるも年々改善を加へて、休憩所、脱水場、淡水浴場、跳躍臺(ちようやくだい)、桟橋(さんばし)、筏(いかだ)、浮標(ぷい)、貸ボート、近海遊覧船、貸漁船、売店などの設備整ひ、學生または数寄者(すきしや)のためにはテント村も出来り、夜間浴者のためには幾十基の電燈昼を欺く、ために日出前より入浴し、夜は眞夜中までも浴客絶ゆることなく、遠くは上海方面より内外人の遊ぶもの少からす。松浦河口を境として東を浮島海水浴場と云ひ、西を西ノ濱海水浴といふ。幅員廿余町に達せん。
町役場は浴客のため旅館の周旋より慰安方法など萬般の労を取れり。土地不案内の人々は町役場内海水浴係員に諮(はか)らば懇切なる斡旋(あつせん)の労を辞せない。海濱には町役場並に警察より出張所を設けて萬事浴客の便を計る。
序に松浦潟海水浴場を列挙すれば、浮島海水浴場の東方虹ノ松原浴場次で濱崎海水浴場あり。福岡県糸島に入りては北九州鐵道沿線の鹿家(しかか)、福吉、深江等の募あり。西ノ濱浴場の西方には、佐志、相賀(あうか)、湊などの浴場あり。総延長七八里に亘るの海岸にして、何れも白砂を以て敷き詰められたる歓楽境である。
娯楽機関としては三劇場二活動写真館あり。好球者には三ケ所に玉突場等がある。一二時間内外の散歩地としては舞鶴公園、温石山(おんじやくやま)公園、唐津西港沿岸線、衣干山の南方丘陵、浦元公園、宮島公園、松浦岩等ありて、到る処風致に富みたる人為と自然の大小の公園がある。或は船に賃せば鳥島、高鳥の風光に酔ふことが出来る。
旅館は、町内の大小数十軒の放館と、貸家、貸間等自炊式も自由で、虹ノ松原には点々として 旅館と貸間に応ずる処がある。殊に梅濱院旅舘は運動娯楽場等の設備もありて便利である。宿料借家等も低廉で落ち付きて消夏と保健の目的を達することが出来る。自炊生活者に取つては、夏季は遠隔地に魚類を移送せぬので、生魚か又最新鮮の魚類が手に入り、野菜は附近村落より持ち出すもので、種類豊富品質優良のものを安価で味ふことが出来るのである。
唐 津 港
唐津港の生命は郡の南方の諸炭田にありて、輸出入共に石炭を除きて他に本港の価値を左右し得べき物産はない。石炭即ち本港の生命である。地方有志の奔走の結果明治二十二年七月特別輸出港となる。これ今の東港である。されど同港は水探浅くして大船巨舶を繋ぐに不便である。偶々海軍出張所長(海軍用炭所管場長)星山大機関士が唐房湾が天然の良港たることを唱へしより、或は東港浚渫(しゆんせつ)を主張するものと、唐房湾利用を唱ふるものゝニ派を生じたが、大勢は唐房湾説に傾き、二十九年二月二十八日大島小太郎、菊池音蔵、岸田音次郎、市川才次等十名が関係町村発起人総代となり、唐房湾開港のことを唐津村長中島磯之助の名儀により、農商務大臣榎本武揚に出願した。時の佐賀県知事は田邉輝実にして書記官は山田春三であった。
偶々唐津の東方数里にして福岡県船越湾が熱烈なる開港運動を開始し、唐津港の運命予知すべからざるものあれば、山田書記官東上して極力政府當局に運動尽瘁甚だ力めた。かくて滞京長からんとするや、知事田邉輝実は山田の帰県を促せしに、彼は頑として應ぜず、此の事たるや唯.地方の小事ならんや国家貿易の消長に関すること大なり。地方事務の如きは宜しく下僚(かれう)に托して可なりと、寝食を忘れて奔走尽力した。
彼の愛国婦人会創設主唱者たる女傑奥村五百子が此の間地方人士を激励せしも常時の一挿話(そうわ)である。
政府は終に実地踏査を必要として、税関局長石川有幸をして船越湾唐房湾を視察せしめ、次で内務省土木局長古市公威官命により観察せしが、果して港湾の優良なると生産力の豊なるを認めて、具(つぶ)さに政府に報告するところありしが、三十二年七月十二日の勅令により開港場たることを認許せられた。これが今の唐津西港である。
大正二年南北アメリカを裁ち切りたるパナマ運河開通後、北米と支那間航路の最捷路(さいせうろ)の薪水供給地として至便の地位を占むるに至る。大正五年七月唐津港会社は認可せられしも、今日に至るも未だ工事に入るの機運熟せす。主産物たる石炭は多く内地各方面に移出せられ、又南支那、香港、比津賓、北米合衆国方面にも輸出せられてゐる。
唐津の風光
概して事物其のものには表裏があつたり、厚薄があつたりするものである。自然の風光の大観なども、一方また二三方面より眺めたる場合には秀麗雅致の趣きあるものでも、四方八画上下左右より観賞する時には、何れの邊にか不満欠陥’けつかん)を覚江たり発見するものである。然るに我唐津の風光に至りては、八面観十六方面観をなすとも到る処雅趣を感ぜざるものはない。先づ長崎線久保田駅より分岐したる唐津線鐵道にて唐津駅の一つ事前の鬼塚駅に達して、窓外を望めば松浦川漾々として流れ、両岸堤防上の松樹摘緑の風致霓林一部の眺望より、鏡山、浮岳等の背景の画趣など、恰も吾人は絵の国の境に一歩を踏み込んだる陶然たる氣分に囚はれるのである。また北九州鐵道により鹿家(しかゝ)崎邊に到達したる際の車外の風光は、青海波(せいかいは)の曲を奏(かな)でつゝ娥眉(がぴ)を描(えが)ける霓林(げいりん)の空には今や天人の舞踊(ぶよう)佳境に入るの観あるを覚江て恍惚(くわうこつ)自失するの趣致がある。これ唐津に入らんとするものゝ第一印象なのである。街衢(がいく)は廣からざれど地質白砂を基底としたる瀟洒清廉(しやうしやせいれい)の地にて、城内廓外に分れて薩張りしたる地上観がする。
舞鶴公園は舊城址で磴(いしだん)坂稍急なので登攀(のぼる)に苦あるも、頂上の展望の快歓は其の労苦の幾十倍を以て償はれる。高さ約廿間、唐津の風景を賞せんとするに最も便利なる地点は此の公園にして又風光明媚の中心地点であるから、来遊の客殆んど此処に登攀(とうはん)すれば唐津の景致を悟了(ごりよう)したるものと思ひて去るのである。東脚を洗へる松浦河口に碇泊せる帆船の眺めも捨つべからざるものがある。三百六十間の松浦橋の長霓を渡せる、虹の松原が弓張月の影清く青嵐(せいらん)の気迫るの趣、鏡山の落ち付きある容姿、筑紫連巒(れんらん)の霞に匂ふ夕陽に映(は)ゆる貌(かたち)、鳥島、高島、神集島等の眺望等見るところ一として佳ならざるはない。西手の砂濱が有名なる海水浴場である。
鳥島には夏季海水浴の季節には、西の濱浴湯より頻繁に往来する渡船あり。島の周邊を回りて栄螺(さゞえ)、小貝、海鼠(なまこ)など漁りて優に一日の清遊をなすに十分である、生簀(いけす)の鮮魚料理の命を待つ旗(き)亭もある。島自身の風情もよし、陸を挑むれば、妙見松原と虹の松原を両翼とせる舞鶴公園の懐に包容さんずるの場所に自分が居ることが一種の誇りであるかの感もする。
高島は一里の海上にありて東唐津より便船が出る。小高き島で南面は数十戸の部落あり、北側は断崖直懸(だんがいちよくけん)数十丈、岩頭に立つ時は夏なほ心魂寒し。崖腹に大葉風蘭(おほばふうらん)を生ず。懸け縄によりて之を採集するものもある。頂上を一周せば松浦潟の風光は殆んど両眸に容らんとす。風景の壮大優麗にして萬象を脚下に踏むの心地して自我の雄偉を偲(しの)ぶの慨あり。舞鶴城頭の眺望を女性的姿態あるものとすれば、こゝは男性的壮麗の観あり。壮厳偉大なる松浦潟の自然美を味はんと欲せばこの島の絶頂に遊べ、山海の氣自然の精遊者の心魂を魅(みい)し終らん。
温石山(おんじやくやま)公園に登らんか、全唐津町より西唐津の市街は余すところなく双眼に映じて、緑樹間に出没する廓内外の住宅の雅観、瓦鱗(ぐわりん)長蛇の観ある商家の殷展(いんてん)、市街の展望をなすには最も至便の地なり。北西を望めば唐津西港に出入碇泊の艦船あり、西唐津より海上を大島に馳する輸出汽車の往来も港湾の繁昌を表現するかのやうである。松浦河の長橋 霓林、東方の連山、東港の有様実に自然と人為の調和的趣致を観るによろし。こゝの西方の高地が衣干山とて神功皇后が衣を干し給ひし山と云ふのである。其他留人経営の宮島公園、浦元公園、郊外高地何れのところより眺むるも、各々特色ある秀麗なる絵の国唐津の景色を賞することが出来て、天上観、地平観、側面観、観るところの何れより大観するとも、遊者をして嘆賞せしめざるものはない。これが即ち唐津である。松浦潟の中核(ちうかく)である。
松 浦 川
河 道 変 遷
今の松浦川は、源を杵島郡黒髪山とて源為朝が大蛇を退治したと傳へられてゐる山に発し、北流して相知村で東川の支流を容れ、程なく伊岐佐瀧の懸ってゐる伊岐佐の小流を合せ、鬼塚村河原橋(かはらばし)にて波多州と会し河幅水量共に頓に増大し町田川を併せて海に入る。本流の長さ十里余である。
志摩守築城前は河原橋の上手で、本流は久里村城淵より東方の丘麓を沿ひて北流し、虹の松原に近づきて半田(はだ)川の細流と会し、今の唐津町二の門前を走り、埋門小路(うづめもんこうじ)下を経て海に入る。されば大島漁民の租先はこの河口の小丘上に棲(す)んでゐたが、城普請(ふしん)の頃より同島に移りしものといふ。波多川は鬼塚村養母田(やぶた)の丘麓(きゆうろく)を傳ひ鍋倉山下より唐人町を過ぎ、唐津町の南郊を西走し町田川と長松附近で合流し、衣千山麓二子より海に流れてゐた。されば水勢大ならざる二川は、河原橋以下一里半余の地を二條に流れ、其の間自然に放流して不生産地たる河原が多かつた。
志摩守の築城と相待つて、河道改修の大工事を行ひ現時の状態となし、河原橋会流点には三角洲を造り水勢の緩和調節を図り、町田川を材木町西詰めにて本流に会せしめ、殊に河口の邊りにては河幅三百間を有せしめて、河海触接(しよくせつ)地にて河水の大調節をなし、又城の東岸警固上河幅を大ならしむる要もあつたのである。もと舊城址は満島と接続して満島山と云ってゐたが、築城と共に現時の状態となつた。河道改修の結果、久里村に約五十町歩、鏡村に四十余町歩、鬼塚唐津両村に数十町歩の田面を拓(ひら)き得たのである。
風 光 史 蹟
松浦川の風光を賞するには、宮島公園、浦元公園、東唐津駅附近、千年塚、先石(さきいし)御茶屋跡(舊藩公大久保氏時代御茶屋を造る)鬼塚駅附近などは、最も眺望によろしく各所各種の風致あり。此処も又八面観ありといつてもよい。
松浦岩(まつらいは)は、先石御茶屋跡前にあり。松浦川中に孤立せる数間の花崗岩の巨石より成り、数株の古松岩の罅隙(さけめ)に拮屈(きつくつ)として雅趣(がしゆう)を添へ、鏡山と呼應の観ありて、往昔松浦佐用姫が夫君大伴狭手彦(おつとおほどものさてひこ)の三韓渡海を慕ひて、鏡山に登りて夫君の船出を惜み其の影淡くならんとするや、追慕の情に堪江ず、山上より飛揚(ひやう)して此の岩上に止れりと傳へられたる情話を残せるは此の巌である。松浦の流れ尽きせざるが細く、彼の女のローマンスも何つの世
までも傳へらるゝであらう。
この河の上流約一里の久里村の邊りの流れを、佐用姫が夫君を慕ひて渡りたる時、狭手彦に与へられたる鏡を河中に落したるより、そこを鏡の渡りともいつた。
鬼子岳城址
位 置
鬼子昏城は松浦川本流と支流波多川の会合する三角田野の後方に屹立(きつりつ)する天然の要害で、今猶懸崖の絶頂に往時の城壁が鬱然たる樹林の間に残存してゐる。
史 傳
長元四年四月(約九〇〇年前)平忠常下総ノ国にて謀叛(むほん)を企て、甲斐守源頼信に亡されし時、稲江多羅記といふものは信州福原に住せし野武士であつたが、忠常に味方し不運にして敗れて身を隠す所なく、此処に来りて農耕を業とし、夜は木立(こだち)を相手に剣道を試み、また野繋(のつな)ぎの馬を盗みて馬術を練りゐたが、其の子に鬼子岳孤角(こがく)といふものがあつた。膂力(りよりよく)飽くまで強く、所々の田園を押領(あうりやう)し押入強盗をなすなど不敵の凶賊である。配下三千人を有し横暴劫掠(こうりやく)益々募りて国守も力及ばず、都に事の由を訴へ誅伐(ちうばつ)を請ひたれば、大江山の賊類退治の例にならひ、當時の英雄渡邊源太夫判官久(みなもとたいふはうがんひさし)こそ曾祖源吾綱にも劣らぬ器量ありとて、孤角退治の命を蒙り肥前松浦郡にぞ向ひける。
判官源久は三干余騎を引き具して、松浦郡千々賀村(今は鬼塚村内)に着しければ、梟酋(きようしう)孤角は斥侯(せつこう)を放ちて防備に怠りなく、寄手(よせて)の勢も兵糧を蓄へ軍容を整へ城麓(じやうろく)に近づき敵状を窺(うかが)ふ。敵も兼て覚悟をなしをることとて、乱杭(らんぐい)、逆茂木(さかもぎ)を透(す)き間なく配設し、山腹に掻楯(かいだて)を置きて其の背ろに射手と思しきもの百人ばかりを伏せて、弓弦(ゆみづる)竝べ鼻油引いて待ち構へた。山塞(さんさい)に籠(こも)れる賊徒は皆徒(か)ち立ちにて騎乗のものは一騎も見江ず。楯を叩きて鬨(とき)の声を上ぐるとひとしく山谷も崩るゝばかりに城中よりも鬨を合せ、矢がかり近く成りたれば盛に射放つ。寄手の先陣二百騎すこしもひるます、楯を竝べわめき叫んで攻め登り、逆茂木抜き放ちて掻楯に押し寄せければ、双方打物取って斬り結ぶ。賊徒は元来強勢(ごうぜい)の暴(あ)ばれもり、寄手は弓馬の掛け引きに勝れし勇者(つはもの)、互に追ひつまくりつ火花を散らして戦ったれど、其の日は勝負も見江ず相引きとなる。翌日沸暁(よあけ)に押し寄せ城塞を窺へぱ一人の人影さへない。寄手は思へらく、敵は必定叶はじとや思ひ諦め夜中何処ともなく遁げ落ちたるならん。何くまでも追撃せんと掻楯の崩れるまで押し寄せたるに、大木茂(しげ)みて是ぞと思ふ道もなく、石壁を構へ岩を切り抜き大手には石の扉をしめて押し寄すべきやうもなかりしに、折柄合図(あいづ)の大鼓を打って、櫓塀(ろうへい)の上より大木大石を投げかけ投げかけ息をも付かせぬ勢なるに、源太夫久は士卒を励まし血路を一方に開きて遮二無二(しやじむじ)に強襲を試み、城中よりは潮(うしを)の湧(わ)くが如くに押し出し、大将孤角は大あらめの鎧を着し長刀掻(か)ひ込み躍(おど)り出で、源太夫久を見かけ樅横無尽に打ちかゝれば、久少しも怯(ひる)まず太刀振り翳(かざ)して斬り結ぶ。大将の戦に如何でか後るべきと我も我もと揉(も)み立て終に本城に攻め入りしに、賊徒進退度を失して遁げ惑(まど)ひ、名てふ瞼岨(けんそ)の鬼子岳なれば逃げ延ぶべき道もなく、数十丈の谷底に落ち重り、己が太刀にて貫かるゝもあり又岩角に骨を砕(くだ)き微塵(みぢん)になつて最後を遂ぐるものもある。孤角は次第に手許狂ひて久が打ち下す太刀を受け外づして左の肩先を切られければ、今は叶はじと風を食って逃げ出せしを、久撓(たゆ)まずまつしぐらに追ひ詰めて、松浦川の邊にて終に孤角を討ち取った。首級(くび)は都に送り、骸(かばね)はこゝに埋めた。今其の地を鬼塚と云ふは、鬼に等しき梟悪(きようあく)の徒を埋めし塚の所在から起りし地名であるのである。
かくて城中に取って返せば、うら若き女の泣き声譁(かまびす)しいので其の身上を糺(たゞ)すに、我等は一人も賦徒の妻子にあらず、彼等のために此処に奪はれ来り、夫婦妻子の中をも引きはなされ、情(つれ)なく朝暮酒宴の相手になり、憂(う)き年月を送り、あはれ神佛の加護にてこの事都へ聞江よかしと祈らぬ日とてはなく、今日まではかなき命を長らへて、斯かる時節に逢ひ奉ることの有り難さよと、十六七人の女ども手を合せて伏し拝みけるにぞ、竝(な)み居る武夫(ものゝふ)も鎧の袖を絞(しぼ)らぬものはなかりき。
かくて捕虜で目星しきもの三人と孤角の首級を都に携へ還りしに、久は其の功によりて松浦郡を領し、近衛天皇の久安三年(約八〇〇年前)領国松浦に下る。其末裔が即ち波多氏で松浦黨の一方の首領で鬼子岳城に居り、豊臣氏の頃三河守親が太閤の意に触れて没落し、寺澤志摩守の時代とはなつた。
波多家没落
波多家が没落する次第も小説じみて面白ければ、くだくだしけれども大要を書いてみよう。
太閤が肥前名護屋下向の折、九州の諸侯伯は何れも博多港で出迎へをなせしに、波多三河守遅参につき、太閤これを怪みて問ひ糺(たゞ)せしに、鍋島加賀守体(てい)よく波多三河儀は身分旗下の者なれば、小官(じぷん)にて御目見江まうす上は仔細(しさい)あらずと申し上げけるに、其の場は其儘(まゝ)に相済みたれど、其の後太閤の意中には一種のこだはりが横たはるに至つた。これ太閤が寺澤志摩守に上松浦地方を与へて朝鮮警固の任に當らしめんがため、波多が領土を没収せんとの素心(したごころ)があったものと思れる。
志摩守は伸治郎といへる幼時より御側近く召仕はれ、其の器量凡物ならざるを知られてゐたのである。斯くて三河守親(ちかし)は旗下の士二千余騎を率ゐて渡鮮し、順天山まで攻め入り松浦党の気を吐き勲功少からざるものがあつた。
さて名護屋陣中にては徒然(つれづれ)に様々の遊興も催ふされたが、こゝに曾呂利新左衛門といふもの頓智にして浮世噺(うきよばなし)、狂歌など上手なれば、夜話の御伽(とぎ)に召置かる。或時茶器の珍器を需むべき仰を蒙りて、所々探し歩きしに、久留米に出でたる時、軽口物眞似(まね)に上手なる山三郎夫妻が、難波(なには)より来れるものを見て、太閤に披露せしに名護屋御陣に召し迎へることゝなつた。一日大小名小者に至る者まで集めて山三郎の技を観ることゝなつた。兼て太閤は三河守妻女の美貌を知れば、使を立てゝ招さたれど、夫親(ちかし)出陣の留守なれば御免蒙りたき由申上げけるに、太閤これを聴かず押して参るやう使を立てられければ、今は是非なく名護屋陣中に罷り出づることゝなつた。かくて太閤の御機嫌斜ならず、山三郎夫妻の演技も数日に渡りて目出度終ったので、三河守妻女は御暇を請ひたるに、御尋ねの筋あり差し控へ居るべきやうにとの仰せ出でがあるので、詮方(せんかた)なく滞留してゐたが、再び帰城を願ひ出でたるに、太閤仰せ出でけるに、三河守隠謀の聞江あり。これを間ひ糺(たゞ)さんと思ふ。何分の申開きあるまでは帰城は叶はじと、思ひ寄らざる難題にはたと當感(とうわく)しかゝる難渋(なんじゆう)の御問ひ到底申開きをなすこともならず、さりとて又自害したらんには、死しての後夫君親に如何様(いかやう)の疑ひやかゝらんと、千々に思ひ惑へる心を取り直し、兎も角もと御側役生駒主殿介(いこまとのものすけ)を以て又々帰城を願ひ出でけるに、御座の間の御次に召し出されたるに、如何にしけん所持の懐剣を御次の敷居に落しければ、太閤見咎(とが)め、今懐中より落した品不審なり。これへ持ち参れと仰せありしかば、是非なく御前へ出しけるに、太閤御覧じて、女の懐剣をたしなむは其の席其の場に寄るべし、太閤が前をも憚らず懐剣を所持せしこと甚だ不屈なり。尋問の事は重ねて沙汰に及ぶべし。先づ居城に立ち帰り三河帰国まで慎みゐよとて御憤(いきとほ)り一方ならす。波多家滅亡の素因愈々動かすべからざるものとなつた。
文禄三年朝鮮出陣の勢続々凱旋せしが、太閤は黒田甲斐守を召し出し、三河守が罪状数々なり彼が領土を没収し、名護屋への着到を禁じ其の身上は家康に預け置くべしと、黒田承はつて海上に迎へ上意の趣を達し、徳川家康へ預けの身となつた。程なく常州筑波山麓に配流せられ、あはれ主従四人は常陸の配所に憂き年月を重ぬることゝはなりぬ。
さて鬼子嶽城では、獅子ケ城主鶴田越前守、黒川城主黒川左源太夫等の面々登城して善後策に評議を凝(こら)し、或は名護屋城を襲ひて怨を霽(はら)さん、或は御臺所(龍造寺隆信女)並に嗣子孫三郎君を佐賀城に送り奉り、一先づ城を明け渡し除ろに再興を計らんなどゝ衆議百出して決せざりしが、黒川左源太夫等曰く、再興を計るには主君なかるべからず、一族旗本の中より誰か常州へ赴きて主君を守護し来り、下松浦黨を語らひ何方へぞ忍び隠しまひらせ、面々は暫く百姓町人に身を下し、機を見て波多家再起の時を期せん。誰かある彼の地に赴くものやあるかと座中を見渡せしに遙か末座より飯田彦四郎進み出て、某この重任を果さんと申出でければ、江里長門守は飯田一人にては叶ふまじ某も共に行かんと、両人迎への役に定まりて評定それに一決す。
依つて三河守妻室と子息孫三部を佐賀城に送りたるが、太閤の激怒甚しく、旗本家臣の面々は何方(いづかた)となく離散し、鬼子岳城は寺澤志摩守へ御預けとなり、今井縫殿之介(ぬいどのゝすけ)、並河(なみかは)小十郎両人城代として城の管理をなすことゝなつた。
波多家再興の念に然ゆる家臣等は、一時も早く三河守を迎擁(むかへ)来らんとて、江里長門守、飯田彦四郎二人を出立せしむ。二人は売薬行商に化身し、立目可朴(かぼく)といふ医師の家傳薬を調剤して東上したが、播州姫路にて雨に遭ひ町家の軒下に佇(たゝず)みて霽(は)れ間を待ち合せゐたるに、一人の下僕(しもべ)を伴ひたる武士通りかゝりけるに、下僕が蹴かけたるにや手頃の小石一つ水溜にはね入り泥水を散し武士の袴にかゝりたるに、件の武士は立ち戻りて江里長門守を睨み付け、己れ何地のものなるや武士の袴に泥水を蹴かけ一言の挨拶をもせず、知らず顔にて立ち憩(いか)ふ体不屈なり。討ち捨てくれんずと袴の裾あはせを取り仕掛ければ、長門は地上につくばひ毛頭存せざる儀なるも、私にみやまちある様御目に留りたらんには、何分にも御免蒙りたきよし謝罪すれども一向聴人れず、此方より見咎(とが)められて今更赦免(しやめん)を請ひたりとて了簡(りようけん)相ならずと究(き)めつけゝれば、飯田彦四郎たまり兼ねて、此は御武家の御言葉とも覚江ず、私同行のものに過ちなきも、所詮面倒と思ひ余人の過失を一身に引き受け謝罪するも御聴入れなく、御手討ちなさるとの思召是非に及ばず、此上は同輩のよしみ不肖が相手になるべしと脇差の柄(つか)に手を懸くればいた長門は彦四郎を押し止め、先づ暫く待たれよ、御覧の通りの乱心者なれば何分御免あるべしと只管(ひたすら)謝罪しければ、彦四郎赫(か)つと怒り某を乱心者とは何事ぞ是非に相手にならんと詰め寄りたれば、長門は猶も百方言葉をつくして詫(わび)入りたるに、この武士も彦四郎の意気に僻易(へきえき)して、重ねて武士に斯様の無禮は致すまじ此の節は差し許すと云ひ捨てて去りければ、彦四郎歯噛みをなし憎き今の青侍(あをざむらひ)ぶち据(す)ゑて呉れんずものを、余りに長門殿の謙遜ゆ江側(はた)より堪まり兼ねたる次第なりしといひければ、長門聴て左も思はるゝは尤もなり、さりながら彼等如きものを相手に双方云ひ募りて退引(のつぴき)ならね羽目に落ちて失態でもあらば、大事の役目も水泡に帰することゝなり申訳けもなきこととなれば、胆(きも)も臓腑も一時に絞(しぼ)り上けらるゝばかりの無念なりしもそを押し忍びたるにて、只今の武士も貴殿の勇気にひしがれて早く逃げ出せしは何よりの幸なりと打ち笑みければ、彦四郎は浅慮短才を恥ぢ入りぬと話しけるうちに、雨も止みたれば配所へと心せかれて急ぎける程に常州には着きにける。君の所在を尋ぬるに、見る蔭もなき茅屋(かやゝ)に主従四人哀れなるわび住居に両人は胸塞(ふさ)がり、束訪の由を語る言葉も後や先き、三河守の悦び大方ならず。然るにこのまゝ配所を落ち延びつらんには太閤の追責も一方ならざるべし。如何してこの難を遁れ出づべきやと議を凝(こら)したるに、三河守病歿すと偽(いつは)りて都に届け出で、筑波山麓には墓碑を立て置き、君公を供奉して九州に下るこそ上策なるべしと、依って慶長三年四月三河守死歿したりと詐称して伏見城に届け出でたるに、仝年八月太閤薨じて何の調査(しらべ)の汰沙もなく事済みとなつたので、主従六人霜月上旬常州を落ち延び、蝋月(しはす)下旬無事故郷松浦に到着はしたるものゝ寺沢氏の.警戒油断もなければ、一時は大浦播摩守が居宅に忍びつれども露見の恐ありて下松捕の御厨(長崎県北松浦郡で伊萬里より六里ばかり)に移り、御厨四郎治郎の宅に隠棲して時機の到来を待つことゝなつた。
さて佐賀城にては内室始め孫三郎は、三河守が忍びて松浦に帰来せしことを風の便りにも知る由なく、日々案じ煩ひけるが、嗣子孫三郎は夢となく現(うつゝ)となく居城に還りて父君に目見(まみ)江んと外の見る目も哀れなりしが、終に病の床に臥して起たす黄泉(よみぢ)の旅に上りしが、母儀の歎きやるかたなく、自ら故に夫君三河殿も太閤の非道に陥(おと)され遠流(おんる)の身となる今は何をか頼みに永らへんと積る思ひを書き残し、三十二歳を一期として自害し果ぬる。其の末期ぞ不憫(ふびん)なる。法名を常室妙安大姉といひ、佐賀城下に葬り一宇を建立して妙安寺と号し、其の地を妙安寺小路といふ。
三河守は妻室及び孫三郎の死を傳へきゝて悲嘆に暮れぬれど、一族郎党の激励に力を得て、松浦杵島両郡境なる黒髪山に據りて一族挙げんと手筈を定めたるも、天は彼に組せす終に病魔の襲ふところとなりて御厨に歿し、平安朝中葉以来五百余年の歴史を有する波多家再興の企ては、かくて雲煙霧散に帰したることぞ哀れなる。
鵜 殿 の 窟(いはや)
概 観
鵜殿(うどの)の窟(いはや)は相知村和田山にありて、高さ約百尺計りの砂岩より成れる小丘の中腹にある天然の洞窟(どうくつ)にして、幅員の総延長五六間に達し、窟の奥行き深きものにて三間計りもあらん。窟壁(くつへき)に彫刻せる佛像は大小数十に達し、大なるものは丈余の高さを有するものあり。中に神韻縹渺(しんいんひょうびょう)たる佛体も存すれど、また後人の手に成れる如き粗造のものも存するやうである。蓋し稀なる作品と云ふべし。地下和田山炭坑採炭のため巌壁に亀裂を生じて、或は傾き、或は潰裂墜落(くわいれつつゐらく)するものもありて、其の舊跡を煙威(えんめつ)せんとする状あるは惜むべきことである。墜落佛体の一たる釈迦の座像高八尺計りなるものを、相知村曹洞宗妙音寺境内に移せるもの一躯存してゐる。
縁 記
延暦二十三年釈(しやく)空海遣唐使に従って入唐して大法器となり、平城(へいぜい)天皇の大同元年八月帰朝し、松浦郡の里に着岸し、鵜殿の霊窟に彿体三尊を刻するや、一日にして成る。時に異容の人現はれ、更に佛天の形像を加刻すること許多(あまた)、誠に神変不可測なりと云ふべし。天長年中僧堂暁(どうぎよう)入宋帰朝し、殿堂を窟中に建て、鵜殿山平等寺(うどさんべうどうじ)と號し、後の其法嗣空海眞作の薬師日月光二菩薩を奉安す。鬼子岳城主松浦黨の崇敬深かりき。偶々西国の乱に遇ひ尽く灰燼(かいじん)となり、唯石の伏天(じやうてん)を残すのみ。元亀年中松浦黨久我因幡守堂宇を再建し、佛工を選みて、薬師、月光二菩薩十二神将を安置し、以て先師の志を継ぐ。今の尊像即ち是なり云々。
縁記中に天長中僧堂曉人宋とするも宋は天長後八十年計りに建国してゐるから何かの誤りであらう。石刻の佛像は空梅の作とするも果して然るか。尤も唐津は三韓交通の要地なれば或は彼の国に往来せし名僧智識の作なるやとも思はる。波多氏は平安朝中頃以後此の地を領したれば或は其時代の作にてはあらざるか。
見 帰 の 瀧
久里村大字伊岐佐に見帰瀧あり。相知駅より約一里山本駅より一里強の行程にて、伊岐佐川の清流を引きて用水路とせる砂白き伊岐佐部落を過ぎりて、約十町計りの山径を渓流に沿ふて辿(たど)れば瀧に達す。直下十七丈懸崖に激して飛沫(ひまつ)霧を起し、潭淵(たきつぼ)に白馬躍るの観あり。涼冷の氣衣袂(いべい)を包みて世情を忘るゝの佳境なり。観音堂あり、また瀑淵の観に便なる崖頭に亭を設けて清遊雅客を待つ用意も備はる。見帰瀧とは、遊情を割きて帰路に就き、渓谷の間或地点よりまた望見することを得れば此の名ある故である。
佐用姫屋敷跡
鐵道唐津線に沿道に笹原(さゝばる)トンネルがある。厳木(きゆうらぎ)村に属し、厳木駅より半里の行程である。其のトンネルの南方の峠を笹原峠と云ひ、其の峠の西南方丘上数町のところに佐用姫屋敷跡といへる舊跡がある。国道開通前迄唐津佐賀方面間交通の道筋に當り、東松浦郡と小城郡との境界地としての峠である。佐用姫といへるは、第二十八代宣化(せんくわ)天皇の御代(一四〇〇年前)韓半島の南端にて今の慶尚南道の南方釜山地方の海岸一帯の小区に任那(みまな)といへる地域あり。我国の半属国であつたが、隣国新羅(今の慶尚道地方)の侵略を受けたので、天皇は大伴金村に諭して、其の子磐(いは)及び狭手彦(さてひこ)を遺はして任那を救はしめられ、磐は筑紫に留まり其の地の政を総(す)べて三韓に備へ、狭手彦は行きて任那を鎮めた。狭手彦発するの前松浦郡の発船地に入らんとする時、當時の国道たる此の峠を越さんとせしに、篠原(さゝばる)(今は笹原に作る)の長者たる豪家の女に、花も恥ぢらふ見目(みめ)よき少女ありしが、狭手彦少からず心動揺して終に其の女と婚を通ずるに至ったが、これなん松浦佐用姫とて鏡山や松浦岩、加部島の望夫石によりて詩的情話を残したる美婦人である。其の情話の主人公たる佐用姫の生ひ立ちし土地が即ち佐用姫屋敷跡で名を留めてゐる。狭手彦が渡韓せんとて長者の一門と名残を惜みて酒を酌み交はせしところを後世名残の坂と云ふ。今は国道開鑿(かいさく)の結果全く廃路に帰して樵夫(せうふ)野兎の通ふ外人影も見ざる山径の邊に、草茫々として往時を喞(かこ)つ哀情を留むるに過ぎない荒涼(こうりよう)の山地と成り果てゝゐる。
鏡 山
地理的鏡山
白山火山脈(加賀の白山)に属する死火山なるが如く、高さ二百メートル、山上処々に玄武岩の露出するもありて、南面と北面の山頂の角に奇巌の風光を添ふるものがある。山頂は五萬余坪の廣濶(こうかつ)なる高原をなし茅芝一面を掩(おほ)ふ。西北隅に小池あり。周囲約二百五十間幅員約二十五間水深二間、舊火口池なるが如し。七方より眺めて同一形状を為すを以て七面山とも云ふ。松浦山といひし時代ありしが、神功皇后御登攀(とうはん)の後鏡山と称し、又佐用姫が領巾(ひれ)を以て夫君(おつと)狭手彦を山上よ
り麾(さしまね)きしより領巾麾(ひれふる)山ともいへど、鏡山と称するのが普通である。
史傳的鏡山
神功皇后が愈々新羅征討の軍を出さんとて、筑前橿日(かしひ)より九月此の地に来り、寶鏡を捧げて戦勝を祈念し給ひしより松浦山を鏡山と称するに至り、山麓の地を鏡村と云ふに至った。
肥前風土記(ふどき)なる古き書に佐用姫のことを記せるに、狭手彦篠原(しぬはら)村(今は笹原と云ふ)にて佐用姫の容貌(ようばう)きらきらしく特に衆人に勝れたりければ婚を通ず。狭手彦は任那救援の大任を帯べば悲しき分袂(ぷんべい)の日は容赦(ようしや)もなく迫(せ)まり来たので、別るゝに當りて思ひ出での記(しるし)にもと鏡を取りて婦に與ふ婦愛惜(あいじやく)の念に堪へず涕泣(ていきゆう)して後を追ひ栗川(今の松浦川の久里村を流れてゐるところ)を渡るに、與ふるところの鏡の緒(お)絶江て川に沈む、因つてそこを鏡の渡(わたり)と名づく。佐用姫は夫君(おつと)の船出を追慕(つゐぼ)するに便りよき鏡山に登りて、松浦の海上白帆を孕(はら)まして辷(すべ)るが如くにして船の遠ざかるを見て、涙ながらも領巾(ひれ)(今時婦人の用ふるベール様のもの)を取りて船を麾(さしまね)きたれば、これより此の山を領巾振(ひれふる)山と名づくるに至る。然るに佐用姫夫君と分れて五日の後、夜毎に来る人ありて暁に帰る。容姿狭手彦に酷似(よくに)てゐる。婦怪みにた江ず竊に績麻(うみを)を其の人の禰(すそ)にかけ、麻のまにまに其の往くところを尋ねて、この山頂の沼の邊に到りたるに眠むりたる蛇(おろち)あり。身は人にして沼底に沈み、頭は蛇にて沼堤に臥せり。忽ち人と化(な)りて歌ひて曰く
志努波羅能(しぬはらの)意登比売能古表(おとひめのこを)佐比登由母為禰弓牟志太夜(さひとゆもゐねてむしたや) 伊弊爾久太佐牟(いへにくださむ)(篠原(しぬはら)の弟姫子を眞の一夜とゞめて後に家に帰らしめんと云ふ心)
何と詩的情話の濃艶(のうえん)なるものではあるまいか。佐用姫が衣を掛けし袖掛け松といふのは、西端の絶頂に数百年の樹齢を保つ老樹で「大日本老樹名木誌」にも載つてゐるが、後世の寄語なるか當時り代継(よつ)ぎ松かは探く詮索(せんさく)する必要もあるまい。姫は夫君の船影の薄くなるので堪へ兼ねて、山上より飛下りしと云ふのが松浦岩(前に出づ)である。これ等は何れも夫婦の情愛を浄化(じょうくわ)したる話題として考ふれば足りる事柄であらう。
佐用姫を詠める古歌
遠津人まつらさよ姫つま恋にひれふりしよりおへる山の名 (萬葉集) 山上の憶良(おくら)
山の名といひつげとかも狹夜姫が此山のへにひれをふりけん (仝) 後人の追加
海ばらや沖ゆく舟をかへれとかひれふらしけんまつらさよ姫 (仝)
まつらがたさよ姫のこがひれふりし山の名のみや聞つゝをらん (仝)
佐用姫の袖かと見れば松浦山裾野に靡(なび)く尾花なりけり (仝)
ひれふりし昔の人の面影もうつる鏡の山の端の月 (定 家)
蝉の羽の衣に風を松浦潟比禮振山の夕涼しも (細川幽齊)
鏡山稲荷神社は霊験著(れいけんいちじる)しくて遠近参詣するもの多く、北麓の赤水より登山路あり。北九州鐵道虹の松原駅に下車するを便とす。信者の奉納せし常夜燈たる電燈百余燈は、夜間登山者の便宜となつて山路に点ぜられ、また山上の縁邊を廻(めぐ)りて煌(くわう)として輝くは、唐津、鬼塚、濱崎、海上方面の遠望に現代趣味の雅致を呈して、神霊の輝きの反影とも見らるゝ心地がする。
佐用姫神社 姫は温良貞烈琴瑟(ていれつきんぴつ)相和するの代表的女性美の所有者であつたので、従来同所稲荷社に合祀せられてゐたが、最近山上の勝地を相して新に社殿を造営し、家庭円満の守護神として奉祀せらるゝに至った。
娯楽機関 としては目下テニスコートを北九州鐵道が経営してゐる位なれど、萬畳の芝生はゴルフ又クリッケツト場としても最好適地の一たるを失はず。
山上の眺望 東方に筑紫山脈の連巒(れんらん)は風情豊に眼前に迫り、玉島川の清流は往時を物語るの趣きあり。北方は足下に虹を欺(あざむ)く霓林(げいりん)の風致は云ふ迄もなく、松浦潟の碧波は狭手彦の船手の方を暗示し、青螺(せいら)の如き烏帽子嶼(えぼしじま)を始めとして大小の島嶼(とうしよ)は指呼(しこ)の間に媚(こび)を呈し、西方は松浦川蜿蜒(えんえん)として流れ河口に近きて漾々(ようよう)乎(こ)たるものあり。之に配するに沿岸の松樹云ふ可らざる風致を配す。
唐津町は緑彩を点じて美しく、唐津西港の眺めも眼中に入り、西方丘陵の背後は東支那海に続ける海で、西行法師行脚(あんぎや)して此の丘陵中にある入野村に来りて見渡せばこれより先きに山もなし月の入野のかぎりなるらむと詠ぜしことなども思ひ出さる。南方は眼界狭けれど山脚の村落より鬼子岳方面の景色も捨つべからざるものがある。
鏡 神 社 (鏡村県社)
鏡山の西麓に数十株の老樟樹(しようじゆ)の森がある。そこに県社鏡神社がある。
一の宮 祭神 神 功 皇 后
二の官 祭神 藤 原 廣 嗣
一の宮は、神功皇后が玉島川にて鮎を釣りて吉兆を得給ひて、三韓征伐の御決心愈々牢固(らうこ)たるものあり。次で松浦潟より渡韓発船地の状況を察して、一旦橿日(かしひ)に還御し給ひ、秋九月松浦に来りて兵馬軍船の勢揃(せいそろ)へをなし、同月九日松浦山に登り、天神地祇(ちぎ)を祀りて戦勝を祷(いの)り、寶鏡を安置し給ひたるが鏡神社の起原にして、松浦山を鏡山と云ふの始まりである。次で吾瓮(あぺ)の海士(あま)人をして西方海上の形勢を探らしめしも要を得ず、吾瓮は今の湊浦なり。又名草の海士人をやりしに西方に山あり恐らく国あらんと奏しければ、則ち出陣の日を撰び給ふ。名草は今の名護屋なりと(尤も吾瓮の海士人以下には異説もあり。)神集島にての最後の御祈念ありたる後、十月三日御発船ありて、十二月凱旋し給ひしなり。今の地に鏡宮を建て鏡大明神を祀り奉りたるは、聖武天皇の天平(てんぴよう)十年(廣嗣の叛せし二年前にて約一二〇〇年前)にして、九月九日の祭日は皇后御祈請の日を記念するものなりと云ふ。
二の宮には、藤原廣嗣の霊を祀れるものなり。廣嗣は鎌足の孫宇合の子なるが、容貌魁偉、幹ありて博く儒佛の學に通じ、武芸兵法の學に達し、天文陰陽の書より管絃歌舞(かんげんかぷ)の技能に至るまで精(くは)しければ、五異「一、髻中に一寸余の角あり。二.宇佐八幡と碁(ご)を囲む。三、善馬を持つ。四、善馬に劣らぬ馬丁を有す。五、京師九州間を朝夕に往還す」七能「一、身体端麗なれども屈伸自在。二、學問内外に通ず。三、武芸に練達す。四、歌舞に長ず。五、音楽に精通す。六、天文陰陽の學に通達す。七、妻室の美貌稀なること」の異ありと傳へらるゝ程の偉材であつたが、當時朝廷にて、吉備眞備僧玄ム等と相容れず、大宰少弐の地方官に貶せられ、上表して二人を除かんと欲せしも得ず。天平十二年九月終に太宰府に叛きしが、朝廷は大野東人(あづまんど)をして討伐せしめられ、廣嗣は小倉附近の板櫃(いたびつ)川の戦に敗れて西走し、肥前値賀島より船を発し数日にしで一孤島を見る。舟人指してこれ耽羅(たんら)島(朝鮮の済州島)なりと、然るに西風忽ち起りて船進まず、廣嗣駅鈴(えきれい)を捧げて神冥吾を加護せよと、鈴を海中に投じたるも、風波彌(いよ)々甚しく船漂蕩(たゞよ)ひて再び値賀島に着き、上陸して東行せしが長野村に至りて安倍の週麿のために浦へらる。十一月詔を下して之を斬る。詔書未だ到らざるに、東人は廣嗣綱手の兄弟を松浦に誅(ちう)す。これ今の玉島村大村神社の邊なるかのやうである。明年正月余黨並に捕虜の罪科を決して、杖(じやう)、徒(づ)、流(る)、死(し)などの刑に処せられしもの三百余人。然るに廣嗣の霊度々禍をなす。十七年勅して玄ムを筑紫に貶して、太宰府の観世音寺を造営せしめ、十八年六月工成りて玄ム慶道師(けいどうし)となり輿(こし)に乗り殿堂に入るや、忽ち彼を空中に捉提(とらへさる)ものありて影を失ふたが、後日に至り玄ムめ首、藤原氏の菩提寺である奈良の興福寺の唐院に落ちたといふ。恐らく廣嗣の残党が不意に玄ムを討ちて廣嗣の遺恨(いこん)を報じたものであらう。また眞備は、次ぎの第四十六代孝謙天皇即位二年に筑前の守に左遷(させん)せられ、次で肥前守に転ぜられたが、彼は廣嗣の霊を慰むるため天平十七年松浦に至り、鏡村に鏡の官二の宮を建立し玉島村の墓邊に知識無怨寺(ちしきむをんじ)を創立(そうりつ)した。この無怨寺が今の大村神社である。
社運隆昌 其の後桓武天皇の御宇朝廷より社殿の御造営あり。又後奈良天皇の御宇(約四〇〇年前)改めて勅額を下し給ふ。社領に松浦郡草野の庄二萬五千石を附せられ、九月九日を大祭とし市を開く。日本国中、毎年一州二疋の馬を献じたれば、社の東北に馬屋敷とて民家あり。其の献馬を繋ぎしところなりと云ふ。社域八町四方にして其の四隅に塚あり四方塚又八町塚と云ふ。
其の西南角に「いろは森」と称して四十八所に森塚あり。伽藍(がらん)又は社家社僧の宅趾なり。今は数所に其の面影を残す。社殿、七堂、大伽藍、惣廻廊(そうくわいらう)、釈迦堂、毘沙門堂、不動愛染両明王等り末社、鐘楼門、山門、二王門、一二三の華表(とりゐ)、御供殿(ごくでん)等宏壮善美を秘め、普請(ふしん)方詣役員三百廿人を定めらる。大宮司草野鎮光(しづみつ)より草野宗瓔(そうえい)まで二十八代に及びしが、豊臣氏の頃草野氏亡びて後は社運振はず、寺澤氏以下唐津歴代藩主の崇敬浅からずと雖も古の如くならず、加ふるに明和七年(約一六〇年前)の火災後益々衰頽して、寶物なども焼失して残存するもの僅かに左の如し。
一、天 国 太 刀 藤原廣嗣佩用品
一、鐙 仝
一、紺紙金泥法華経一軸 菅原道眞筆
一、一の鳥居の額面 小野道風筆
一、楊柳観世音像一軸(巾一間竪二間) 兆 殿 司 筆
一、勅 額 一 面
鏡村内の名跡
国造(くにのみやつこ)の古墳
恵日寺の北方約三町鏡山の麓に古墳がある。俗に島田塚と云ふ。前方後円の見事なる大塚で鏡神社四方塚の一つである。明治四十三年発掘せられ、二十種余の貴重品考古資料を得、翌年一月二十五日東京帝室博物館内に保管せられしが、先年内務省調査員調査の結果、松浦国造の古墳ならんかと推定せられたるが、第十三代成務天皇の御代末羅(まつら)の国造を置かれたること国造本記と云へる古書に見へて居るから、地理上より考察するも、松浦潟咽喉の主要地位を占めて居れば、鏡村は国造府の所在地らしく、しかして此の古墳も亦国造古墳なるかと思ふも誤りなからんか。
国寶恵日寺の梵鐘
鏡山西麓に曹洞宗の禅寺恵日寺がある。寺背の築山は曾呂利新左衛門の案に成りしものと傳へられ、鏡山より流れ落つる細流が懸崖に落ちて風韻少からざるところあり。本寺に蔵する梵鐘は異数の作品で、近松門左衛門が近松寺に居る際此に執着(しゆうじやく)心があつたものらしき形跡がある。さて其の鐘といふのは、大正二年国寶に指定せられたるが、鐘銘に、太平六年丙寅九月阿清部(一字不明)北寺鐘鍮壹躯入重有百二十一斤棟梁僧談白とあり。其の紋様龍頭(もんやうりゆうづ)等他に類似のものを見ず。
太平なる年號は我国にはない。支那にて、呉(太平元年は皇紀九一六年)、北燕(太平元年は皇紀一〇六九年)、南梁(太平元年は皇紀一二一六年)、隋末楚(太平元年は皇紀一二六七年)、遼(太平元年は皇紀一六八一年)に此の年號がある。或は朝鮮に最も接近してゐた遼国より、転々して三韓交通の要地たる松浦の地に傳来せしものであらうか。
寺澤志摩守廣高の墳墓
唐津藩初代の藩君志摩守は寛永十年四月十一日七十一歳を以て卒去す。公嘗て永眠の地を鏡宮境内に需めたれば、其の意に遵(したが)ひて霊域(れいいき)を営む。地区長方形にして百五十坪計りの廣さを有す。塔身一丈二尺四寸、面幅五尺、側幅四尺七寸、葱頭(そうたう)形を有する石笠(せきりふ)方九尺高六尺あり。壹礎は二重にして上者は高二尺五寸、方九尺九寸、下者は高二尺、方一丈九尺六寸である。銘に曰く「前志州太守休甫宗可居士」とす。其の左側面に寛永第十癸酉年、右側面に孟夏四月十一日とあり。唐津歴代藩主の碑石中の最大なるものである。
赤 水 観 音
佐用姫は夫と袂を分ちてより追慕(つゐぼ)の情熱は身も心も終に焼き切りて焦(こが)れ死にをなし、其の最後の切なるものありしため望夫石の説さへ残すに至った。狭手彦は其の可憐(かれん)の死を知り萬斛(ばんこく)の涙を滌(そゝ)がざるを得なかつた。即ち高麗にて佛体一躯を得て、赤水(あかみづ)の里(虹の松原駅に近し)に庵(いをり)を結び佐用姫の菩提を弔ひて携へ来りし佛像を安置す。これ赤水観音の本尊たる金銅観世音菩薩(こんどうくわんぜおんぼさつ)である。降って後亀山天皇天授(てんじゆ)元年九月(約五五〇年前)僧宗祐寂門禅師(そういうじやくもんぜんし)が、恵日寺を開いて佛像をこゝに遷(うつ)したので、今の赤水観音は其名残(なごり)を留むるに過ぎない。
往時は此の邊までは松浦潟の入江なりしと見へ、狭手彦の船繋石(ふねつなぎいし)といふものあり。高一間周囲六間余の大石がある。また此処にて船中の垢水(あかみづ)を汲み出したのでアカミヅの地名起り、今は赤水を書するに至つたとの傳説もある。
虹 の 松 原
風光上の霓林
虹の松原は東唐津駅より東方濱崎町に到るの間一里二十町の延長と幅員十八町を有し、松浦潟の碧波(へきは)に弓状形を為すので虹(にじ)の松原の称ある故で、文士墨客は霓林(げいりん)とも云ふ。其の全景を賞するに至便なる地は、舞鶴公園、鏡山、鹿家(しかゝ)崎、温石(おんじやく)山公園等である。其他市内外の大小の高地より眺めて処として可ならざるものはない。足一歩此の地に入らんか、限りなき銀砂の上に翠緑(すゐりよく)滴(したゝ)るばかりの老松雅株(かしゆ)を以て満たされ、一木の他樹を交ふるものなく、一根の雑草を見るなく、満目これ白銀の砂と探緑の松樹のみである。大正十五年十一月内務省名勝舊蹟天然記念物保存会の保存に指定せらる。其の指定価値の一として、三百年の老樹より十年の稚松(ちしよう)に至るまで風韻雅致(ふういんがち)の化身(けしん)ならざるはなく、一樹即ち絵画にして一枝即ち神韻(しんいん)を囁(さゝや)かざるものはない。我が霓林はかゝる神韻雅趣を宿する数百万株の集団にして、雅趣風韻の精華たるところに眞価が存するものである。加ふるに浄砂白銀を敷き一の雑草なく、通路外の地に青苔の点々たるものあるのみにして古色蒼然たるの風情あるあり樅貫道路より樹幹を格子(かうし)状に見越して松浦潟の碧波(へきは)に映帯(えいたい)する有様など、二里の行程誰か陶然(たうぜん)たらざるものがあらうか。道路の北側の樹間に入らんか、海波島影を見るに更に適し、其の南側の木立(こだち)に歩を運べば閑雅(かんか)幽邃(いうすゐ)の詩情湧きて自然に同化し終らざれば止ます、又雅的煩悩(ぼんのう)を超せば、尺また丈余の雅趣滴る小樹を移して以て自己の庭園盆栽の誇りとなさんと。千年塚の松浦川河畔に出づれば.對岸の船宮地方との相對的風光云ふべからざるものがある。
所謂日本三大松原として天の橋立、三保松原、虹の松原を数ふれど、我虹の松原の如く雄大にして雅趣に満されたる松原はない。眞に日本随一の松原と云ふも誇張(こちよう)の言でないことは、実際踏破(たうは)して内外観共に精査するものゝ否定し能はざる処を以て知るべし。
交通機関 中央を縦貫する県道あり。之に沿ふて濱崎に適する発動機軌道あり。(雪鐵他の企あり)南側には松浦川沿岸より松原を縫貫する北九州鐵道あり。自動車の往来は織るが如し。
設備 風致上の施設は設くるの要なし。そは有害無益にして自然美を損ずればなり。松原の中央に海濱院旅舘ありて、海水浴の諸般の施設あれば、夏季の遊覧宿泊に便にして、優に数十百の遊者を容るゝに足る。其他の道路に沿ひて、二軒茶屋、新茶屋などの旅舘兼茶亭ありて名物松原興米(おこし)を販(う)つてゐる。春光に浴して松露(しようろ)を探りつゝ松原興米(おこし)を味ふも亦一興である。
史上の霓林
太閤の睨み松
など云へるものがあるが、年数を重ぬると雖も樹幹倭小にして高幹巨樹とならす。これ太閤が睥睨(へいげい)したからといふのであるが、地質の然らしむるところである。
寺沢志摩守防風林設置
鏡村、濱崎町は北方玄海に面するので冬季北風の難がある。依りて志摩守は此の地方と福岡県鹿家諸邑沿岸に防風林として松樹を植ゑしめた。其の一つが天下の絶景たる霓林なのである。志摩守は其の植林終りて後人民が之を伐採するを恐れて、一の禁令を制せしが、其り成案には実に苦心の存するものありて、即ち其の禁が軽ければ民之を侮り、若し厳に過ぐれば民其の苛刑(かけい)に泣くの憂ひあるからである。漸く令を発して、沿海植うるところの稚松数千萬株、其の中に七松あり吾甚だ之を愛す。凡そ芻蕘(くさかり)、雉兎(りようし)の者若くば往還の徒にして、其の七松の一を傷(きづゝ)くる者あらば、人を投戮(ころ)せしものと同一罪に処すべしと。そこで人々皆其の禁令を畏れて敢て犯すものがない。
然れども志摩守は人をして其の所謂七松なるものに孰れなるかを知しめず。其の実初めより愛するところのものあるにあらず、時に処して寛厳変通自在ならしめんとするにあるので、民皆其の智にして仁なるに悦服せざるものはない。かくて屋霜を重ねて今日を致すに至ったのである。
百姓松原に集合し挙藩不穏
唐津藩主寺沢氏断絶後幕府直轄時代となり、爾後譜代藩主大久保、松平、土井氏を経て水野氏に及びしが、水野氏初代忠任(たゞたふ)の頃より従来に比して重税苛歛(かれん)となつたので、藩内百姓挙りて租税軽減の大示威運動を企てた。事の起りは明和八年(約一六○年前)正月廿八日、地方役人小川茂手木、代官松野嘉藤治は、家老職拜郷源左衛門、水野三郎右衛門に献議して、従来河川等の荒蕪(あれ)地は百姓勝手に耕作して全く其の利得となり、其他厳密に整地を為さば併せて壹萬五千俵の租額増収とならんと。然るに老職等之を拒(こば)みて、寺澤氏以来二百年間歴代の城主何れも其の沙汰なきに、當代に至りて俄に民力を誅求(ちゆうきう)せば百姓必ず変を生ぜんと。されど小川等の増税説採納せらるゝに至つたので事端を発することゝなつた。
七月廿日に至って藩内百姓陸続(りくぞく)として霓林(げいりん)目かけて集合するのである。廿二日夜まで集まるもの二萬五千余人に及んだ。斯様な大袈裟(けさ)の大示威運動を企つるまで藩吏當局の予知することの出来なかつたのは、主脳者の畫策が余程巧妙に運用せられたるものである。一方當局に於ては、先づ廿日の初日に鏡村足軽よりの飛報を手始めとして次ぎ次ぎの警報により、城内にては對策会議を開けるに席上郡奉行古市四郎右衛門の如きは少壮派の専権を痛撃するなど、當路人士中にも相當に民本主義者連も存したのである。かくて村々の庄屋はもとより藩吏等続々現場に馳せ付け鎮撫(ちんぶ)に努(つと)むると雖も容易に気勢柔がず。二萬五千の群衆は整然たる秩序によりて行動し軽挙盲動(もうどう)のことを戒め、租税軽減の所願を達せざれぱ水火も辞せざる意気を示し、夜陰に無数の高張提燈や篝火(かゞりび)などの炎々たる光景の中に時々鬨聲(ときのこゑ)を揚ぐるなど物凄(ものすご)きこと夥(おびたゞ)しく、何時解散するとも予測し雖く事態容易ならざるものがあつた。此の事既に九州諸侯統裁の重任を帯ぶる豊後の日田代官所にも聞江て警固の士派遣のことさへ傳りたるので、藩當局の痛心一方ならず、幕領庄屋等の奔走もあり、漸くにして百姓の願意採納せらるゝを條件として、廿四日午後一時流石の群衆も四散帰村することゝなつた。事解決の後事端構成の因をなせし小川茂手木、松野尾嘉藤治の二人は官を没し閉門に処せらる。
平 原 地 蔵
傳へいふこの松原大集団の挙は、當時百姓の困苦を救はんとて、平原村庄屋富田才治の計によるものとて、群集解散の後彼は虹林の一角にて斬に処せられた。百姓これを悼(いた)み義人として景仰(けいぎやう)し
私(ひそか)に之を祀(まつ)りて其の英霊を慰(なぐさ)め、虹林の西瑞満島口にある平原地蔵尊と、其の遺骸を葬(おさ)めたる玉
島村平原の才治様(しやありさま)は、それなりと云ふ。
招 魂 碑
満島より約五町の地松樹の間に、東松浦郡出身者の戦死者の忠魂の英霊を祀れる招魂碑あり。明治二十三年の建設なり。毎年四月中旬盛なる祭典を行ふ。
濱 崎 町
諏 訪 神 社
霓林の尽くるところ濱崎町あり。其の入口より一町計りにして諏訪神社がみる。初夏の候遠近農家の参詣するもの陸続(りくぞく)たるものありて、蝮蛇(まむし)除けの神砂を得て夏季畦畔(けいはん)に於ける蝮蛇の害を免かれんとするのである。今其の縁記(えんぎ)を摘録(てきろく)してみやう。
祭神 健御名方命(たけみながたみこと)
桓武天皇の延暦三年十月二十七日(約一一五〇年前)勧請したるものである
末 社 七 宇
大 神 官 祇 園 宮 八 幡 官 猿田彦大神
稲 荷 宮 鷹 社 誓 来(せうらい)社
文政元年(約一一〇年前)濱崎地方が對州領となるや、侯の崇敬殊に篤く、當社を以て藩の宗社と仰ぎ、封馬は海上交通不便の地なれば、毎年の祭禮には田代(佐賀県三養基郡田代で鳥栖駅の隣村)の代官をして代拜せしむ、田代も對馬領なればなり。
また面白き縁起があればくだくだしけれども之を記さん。
當社は人皇第十六代仁徳の御宇、百済国より王仁(わに)といふもの鷹を献じ奉りしに、其頃迄は日本に鷹といふ鳥渡らず、其のよし天皇に奏しければ、唐は霊鳥と聞きつれば、請取るにも禮儀あるべし、其の作法を知りたるものやあると宣(のたま)へども、其の故実を知りたるものなき故に、其の由天聴に達しければ、女を出して請取るべし。婦女は其の禮を知らずとても苦しかるまじとて、神功皇后征韓の時の功臣大矢田宿禰(すくね)の四代の孫大矢田連(むらじ)の女諏訪の前をして其の任に當らしむ。諏訪の前と申すは四八の相を備へて類稀(たぐひまれ)なる美女にして、和歌の道はもとより諸道に達したる官女である。王仁(わに)の子に誓来(せうらい)といふもの、鷹を持ちて渡す時倩(つら)々思ふやう、かゝる官女に渡すこと其の例なし。直ちに渡すも如何なりと、笄(こうがい)を抜き錦の帛紗(ふくさ)をかけて畳の上に立てゝ鷹を下(おろ)し、少しく後方にひかへた。諏訪の前さしよりて受け取る。鷹は「コノリ」(鷹の種類)なり。天皇御感斜めならず、誓来を三年留めさせ給ひて、鷹の飼養訓練の方法を委しく相傳す。其の中にはい鷹を仕立て、日本鷹狩り始まり諏訪の前を以て大租とす。三年にして誓来帰国のとき船を松浦より発すれば、諏訪の前都より下りて之を見送った。
此処にて鷹匠はまだらを合せけるに、麻と小豆を作りたる畑にて一つの蝮蛇(まむし)出て鷹を巻き殺す諏訪の前は朝廷への申訳けなしとて案じ煩ひしが、御年廿八歳を以て松浦の露と消江させ給ふ。この唐土(もろこし)ケ浦(今の濱崎の邊)のものどもおしみまいらせ、今の御社の所に葬り都に奏しければ、諏訪大明神の神號を給はりしとか。其の後この浦に麻、小豆、胡麻を作れば蛇多く生ずとか、これ諏訪社が蛇、麻、小豆を憎ませ給ふゆへで、この浦に絶へて蛇を生ぜず、また此の社の砂を請ふてこれを振り置けば蝮蛇の害なしと傳へらる。
按ずるに、諏訪社の祭神は建御名方命にあらずして或は諏訪の前にあらざるか。
海 水 浴 場
濱崎は玉島州河口にある青松白砂の浄地で、海は遠浅にして海水は清流を容れて塩分調節せられ、理想的浴場の一つである。街頭(まち)狭しと雖も日用品需給に不足なし、また霓林、鏡山、玉島川 玉島神社、浮岳等の史跡名勝を探ぐるに便にして、物価宿料もまた安値なり。
玉 島 川 (玉島村)
玉島川は源を七山村に発し花崗岩地帯を流れ、処々に急湍(きうたん)ありて激流岩角を噛みて雪と砕け、玉島村に入りて綬流となり、水晶を溶かしたるが如き澄透(ちようとう)の清流は銀砂の上を辷(すべ)り行きて、見るからに爽快(さわやか)なる気分漂(たゞよ)ふ。
この清流の思懐(しくわい)を一千七百年の昔に溯(さかのぼ)らしむる時は、偉大なる国民性の雄々しき気分が滾(こん)々として湧きくるのである。今其の河畔に立ちて清流*(サンズイヘンニケモノヘンニ奇・い)々たる囁(さゝや)きを凝視(みつむ)る時に於て、神々しき神功皇后の御容姿(すがた)が浮びくるのである。皇后は此の水源地より数里の奥地なる層増岐(そゝぎ)野(雷山麓にて今は福岡県内)にて賊酋(ぞくしゆう)たる羽白熊驚を計平して後、夏四月山路を辿(たど)りて此の小川の邊に至り三韓渡航の発船地帯なればとて、其の清流に臨ませられて外征の成否吉凶を卜せばやと、針を曲げて鉤(つりばり)となし、飯粒を餌となし、糸に吊して、天に祷りて吾新羅を征せんと欲す戦捷(か)つことを得ば魚を獲(え)しめ給へと、水に投じ給へば忽ち溌溂(はつらつ)たる鮎を獲て大に歓喜し給ふ。余りに稀有(けう)の瑞兆(ずゐてふ)なれば希見物(めづらしきもの)と宜(のたま)ふ。是よりこの地方を梅津国(めづらのくに)と称するに至り、後訛(なま)りて松浦(まつらの)国と称することゝなつた。一旦筑前橿日(かしひ)宅に還御し、和珥津(わにのつ)郡(今の本湊村)より船出し給はんとて、再び松浦に入らせ給ふ時、婦女の装ひにては不便とて、此の河にて又もや戦捷の吉凶を卜して、意の如くならば髪二つに分れよと、清冽(せいれつ)の流に頭を浸(した)し給へば、頭髪自然に二分す。即ち髻(みづら)となし男装をなして征途につき給ふ。(橿日浦にて分髪し給ふとの説あれど海水に浸し給ふと云ふは不自然の説なり)
奈良朝の頃歌人山上憶良は筑前の守たりしが、松浦の里に遊びて、鮎つるあまをとめ子を見るに、花容ならびなく柳眉こびなせば、誰(た)が家の子ぞと云へど、答へざりしかば、歌よみて遣はしたるに、
あさりする蜑(あま)の子どもと人いへどみるにしらへぬうま人の子を 憶 良
返し 玉島の此川上に家はあれど君をやさしみあらはさず有き 海人おとめ
まつら川かはのせひかり鮎つるとたらせるいもがもの裾(すそ)ぬれぬ 憶 良
返し 松浦河七瀬のよどにどよむとも我はよどまず君をしまたん 海人おとめ
玉 島 神 社
祭神 神 功 皇 后
北九州鐵造濱崎駅より東方十町余にして玉島村玉島川の邊りの小丘上に玉島神社があつて、神功皇后を祀ってゐる。此の地を珠島(たましま)即ち玉島といふのは、皇后三韓征伐の役に、干珠(かんじゆ)、浦珠り二頼(くわ)の寶を海人に得て、暫く此の地に置き給ひし故に珠島と云ひしと。もと此の小丘は河岸にして海口に近き島なりしことは地形上容易に察することが出来る。
縁記 本社創建の年代を明にせずと雖も第二十九代欽明天皇の頃此の社に聖母大明神の神號を賜ひしと云へば、大方其の頃の建立と考ふべきか。土地の人は聖母(しやうもん)様とも云ひしが、今の玉島神社即ちこれにて、此の縁(ゆか)りみる地に奉祀するはもとより當然のことである。玉島川は漁占のことありて希見(めづらし)と宣ひし故事(こじ)により梅豆羅(めづら)川ともいふ。當時釣竿(つりざを)に用ひ給ひし竹は此の丘上に取りしものにて、今猶其の竹種杜域内に一叢(ひとむら)となつて残ってゐる。又摂州播州の境にある韓竹(かんちく)といへるものも其種顛で、生田、須磨の地方にては釣竿竹として用ひられてゐるといふ。此の川の鮎の唇金色なるは、金の針を鉤(ま)げて鉤(つりはり)となし釣り給ひしによるとか、仲々理屈をつけたものである。
皇后の立ち給ひし石を紫臺石といふ。今は河底に没して見江ず。
文化十四年十月筑前の儒者亀井c(あきら)の撰になる垂綸(すいりん)石碑銘、明治二十八年十月亀谷虔(けん)の撰による
玉島神社の碑銘等が存してゐる。
大 村 神 社 (玉島村)
祭神 藤 原 廣 嗣
玉島神社より玉島川を隔てゝ北方一町の田園の間に大村神社がある。祭神廣嗣は鎌足の曾孫にして、父を宇合(うまかい)、祖父を不比等(ふひと)といひ、其の才幹学殖共に勝れたるは鏡神社の條にて述べたる如く、五異七能の特長を挙ぐるは其の偉材たることを示現(じげん)するの方案に過ぎないのである。不幸にして吉備眞備、僧玄ム等と相容れず叛旗を翻し、終に松浦の露と消江たのであるが、今其の縁記を左に録せん。
縁記 無怨寺宮は、天平九年九月晦日(みそか)、廣嗣公値賀(ちか)の浦よりこの茅原(ちはた)ケ浦(今の玉島)に着き給ひければ、此所の土民どもいたはりまゐらせ焚(た)き火にあて奉りけれども、御脳痛(のうつう)しきりなれば、其の浦中物音(ものおと)を止めさまざま介抱(かいほう)し奉りけり。この焚き火にあて奉りし翁を、焚き火の翁と號して末社の一つとなす。然るに有為転変生者必滅の習ひにもれず、終に十月十五日薨去遊ばされ、御遺言ありて此処に葬り奉り、千原寺と云ふ一宇を建立して御菩提(ごぼだい)を弔ひ奉りしなり。其の後神霊八寸径囲の鏡と現示し給ひ、内裡(だいり)の方へ光を放ち給ひ、如何なるいはれか帝御(みかど)悩気ましまし御不例なりしかば、博士に占はせ給ひしに、廣嗣の霊魂、帝を恨み奉りしなりと奏しければ、吉備大臣を勅使して松浦に下し給ひて(比の事鏡神社の所に出づ)鏡宮二の宮を営み松浦郡の宗廟(そうびやう)と仰がれ給ふ。其の後干原寺を改めて無怨寺大明神と称し奉る。此の御社、鏡宮と同時に勅命によりろをかて御造営あり、御寺(みてら)大明神とも称し奉る。當時の社域正面五町横十町に及び、背(うしろ)の丘(をか)を開き、大乗妙典の法華経(ほけきよう)を敷(し)き、唐金の七十五佛を納め奉りし霊場にて、鏡宮の如く七堂大伽藍の宏牡の堂宇なしと雖も、其規模また小ならず。本尊佛は天平勝寶元年行基菩薩(ぎやうきぼさつ)の彫刻し給ひたる禰勒大菩薩(みろくだいぼさつ)にて、郡より藤原俊成が寄贈したるものにて、此の御寺宮(みてらぐう)に安置されたりとか、又婆羅門僧正(ばらもんそうじやう)の寄進とも云ふ。一度この御寺(みてら)大明神に詣(もう)でし人は、無実の難を遁れ天福を受くるとかいふ。今は往時の盛観なしと雖も、郡内稀なる社殿である。
社殿の背後に古墳状の地相あるところは、或は公の墳墓にてはあらざるか。
国 寶
太刀壹口を有す。古社寺保存会委員子爵松平頼平の鑑定に係るものにて大正九年国寶に指定せらる。長二尺四寸二分、幅一寸、反(そ)り一寸五厘で、刃文(じんもん)は乱れにして、表の棒樋(ほうび)下に眞の剣巻籠裏面の棒樋下に梵字連座の彫物がある。銘は備前長船(おさぶね)家助、裏面に應永二十一年二月日と刻す。
鬼 ケ 城 (玉島村内)
平安朝末より鎌倉時代以降は、神社佛閣の大なるものは廣き所領を有し数多の兵を養ひて天下の侯伯に伍し、勢威頗る盛なるものであつた。
こゝに鬼ケ城は玉島村大字五反田にて大村神社背後の丘上、削立(さくりつ)せる急坂数町を登りつめたる絶頂にありて、足下は玉島川に臨み、遙に松浦潟を望める要害の地である。鏡神社大宮司草野永平は鎌倉時代の始め、筑後の国草野の庄より転補せられて當城を造営し、社領三万石を領して波多、松浦の諸氏と肩を比べ松浦黨の首領の一人となつた。延元々年足利尊氏が九州勢を引き具して京都に攻め上り、叡山(えいざん)口の戦に彼の有名なる名和長年を討ち取りしは、當城主草野季永(すへなが)である。
年を閲(けみ)すること四百余年、天正二年佐賀城主龍造寺隆信の襲来(しうらい)で、城主鎮(しづ)永敗れて縁籍なる筑前怡土郡(いどぐん)二重岳城主原田上総(かづさ)之助に依りしが、次で和議成立す。然るに程なく豊臣氏の意に触れて家門廃滅するに至つた。鎮永の墓は同村南山功岳寺にあり。
本丸は東西三十間南北十一間、西南方に三尺計りの土手残りたるは塀の跡らし。二の丸は東北方にあり、東西廿五間南北十間にして礎石瓦片等散乱す。又所々に空掘の跡も残存してゐる平常の居城は大村神社より二三町河上の方にあり御舘といふ。東西廿五間南北六十間の平地なり。大村神社前は大手門のありし処にて今大門と云ふ。
浮 岳
屹然(きつぜん)として唐津湾頭を圧し、標高二千七百余呎(フィート)を有したる円錐形状(唐津より見ては円錐形状なるも北方海上よりはさまでもない)の緑深き山は、肥筑連山上雲表に聳立(しようりつ)して大空に浮べるの観あれば浮岳の称あり。また福岡県福吉村字吉井の上空にあるので吉井岳とも云ふ。其の山姿(さんし)秀麗にして獨り群を抜きて脚下(きやくか)に媚(こび)を湛ふる藍碧(らんぺき)の海波と映帯(えいたい)する態(さま)は、確に松浦の風光に異彩(いさい)を添ふる一要素たるを失はず。由来唐津港出入船舶の好目標として海上生活者に親まれて、神功皇后の往時より今日に至るまで舟人視線の的(まと)となり、且つ遊者の双眸(そうぼう)を楽ましめしものである。
郡内七山村の北側、福岡県内に蟠居(はんきよ)してゐて、山上には雑木欝然たる中に躑躅(つゝじ)、楓(かへで)等の樹木交はりて、春の花秋の紅葉の賞すべきものあり。頂上に小祠あり、共の背後に花崗岩の玉巌あり、巌頭よりの玄海洋上の眺めあり、また背後を囲繞(ゐじよう)せる連山起伏の有様など面白く、山精(さんさい)の気分に
浸(した)るに足るの感十分である。唐津より約五里の行程あり。玉島村大村神社背後より登るを便とす。
一方福吉村方面よりも可なり。登山に危険なく山岳趣味を賞翫(しようがん)することが出来るので、春秋の候一日の清遊に適す。
神功皇后鎮懐石 (俗に腹帯石)
北九州鐵道にて鹿家(しかゝ)、福吉等の沿海の風景を賞しつゝ深江駅に下車し、同駅より西方六町の地に子負原(こふのはら)八幡神社がある。應神天皇、神功皇后、武内宿禰を祀る。そこに神功皇后の鎮懐石即ち腹帯石といふのがある。
筑紫風土記に、伊都県子饗原(いとのあがたこふのはら)に石あり。両顆(りようくわ)、一は長一尺二寸周一尺八寸、一は長一尺一寸周一尺八寸、色白くして磨き成せるが如し。俗傳に云ふ息長足比売命(おきながたらしひめみこと)新羅を征せんとする際懐妊漸動す。時に両石を取りて裙(もすそ)の腰に挿む、遂に新羅を征し、凱旋の曰芋渚野(うみの)に至り太子誕生す。
筑前風土記に、怡土郡兒饗野(こふの)の西に白石二顆あり。一顆は長一尺二寸、太さ一尺重さ三十一斤、一顆は長一尺一寸太さ一尺重さ三十九斤。
萬葉五に筑前国怡土郡深江村子負の原(こふのはら)は海に臨む丘上にあり、二石あり、大なる者は長一尺二寸六分周一尺八寸六分重十八斤五両、小なる者は長一尺八寸周一尺八寸重十六斤十両、二者とも楕円にして鶏卵の如し。或は云ふ比の二石は肥前彼杵(そのき)郡平敷の石を卜占によりて取り来ると。
かゝる石をば腰に挿むなどは到底不可能の事なれば、唯座右に置かせられて一種の禁厭(まじなひ)となさせ給ひしものと考ふべきであらう。古へは往来の人下馬跪拜(きはい)したといふ。皇后凱旋の日都に還御の途安堵(あんど)し給ひて石を比の土に残し、筑前宇美にて應神天皇を御誕生遊ばされしものならんか。宇美八幡は應神天皇を祀る。
芥屋の大門 (福岡県糸島郡)
北九州鐵道前原駅より西北二里にして芥屋(けや)の大門がある。糸島半島が西方に突出してゐるのに丁字形に約二町余りも北方の海中に走入せる可愛(かは)ゆき一小半島がある。西方海上より望めば数町の松町水平に連り、突端二町計りに至りて高さ二百尺内外の松林の小丘となり、其の尖端五六十間計りが柱状節理の玄武岩からなってゐる。標高二十五六問の大巌塊が海中に兀立(ごつりつ)して、頂上の邊に松樹十数珠が巌の裂罅(さけめ)に拮屈(きつくつ)として繁りて風致を添へてゐる。此の巨巌の北側は玄海に直面して一大洞門(どうもん)がある。高さ五間計り、幅員四五間にして最狭部は一用半余なり。奥行は四十間計りにして自由に小舟を通す。其の奥に小祠大門(おほと)社を祀るといふ。洞窟内は漆黒にして光澤ある石柱が殆んど正四角柱状にして一邊の幅七八寸と覚しく、側壁の石柱は幾尋とも計り難き深底より濃藍(のうらん)の碧水を破りて天井(てんじやう)に直走また斜走し、天井は総て此等柱状端が整然として簇集(ぞくしふ)してゐて、観る者をして唖然(あぜん)として驚嘆せしめ、壮麗雄渾(そうれいゆうこん)り天工は神鑿鬼斧(しんさくきふ)を待ちて始めて観るべきものにして、到底人為の企劃(きかく)を許さゞる神韻(しんいん)が漂(たゞよ)ふてゐる。此の巨巌の背後にも弟妹の観ある二つの巌塊が面白く衝(つゝ)立てゐる。
されど此処の風光は洞窟の偉観ある外は、天下に大を為す程の趣は乏しい。
大正十五年内務省は天然記念物として保存指定を為す。
陸行の遊者は芥屋で小舟に賃せざれば観賞を遂ぐることが出来ぬ。たゞ船夫の賃銭につきては県當局にて周到なる規定を励行するにあらざれば遊者の感触を害ふことなしとせず。
佐志村大字佐志
海 水 浴 場
唐津町の西一里にして佐志村大字佐志あり。唐津西港に臨みて砂地の村落にして井水清く、佐志川の小流ありて其の河口附近は海水浴に適し、毎年赤十字社佐賀支部にては二百名内外の兒童を募りて、同地黒崎小学校を宿所として海水浴を行ふことは、同支部の年中行事中の大なるものの一つである。唐津よりは軌道車、自動車の便あり。村落のことにて娯楽機関等の設備なきも、一歩を唐津に運べば事足りるのである。借家借間も唐津に比し頗る低廉なれば、家族携帯の海水浴地として経済的生活が出来る。山水の景致もよろしければ数週日の生活に無聊(ぶれう)を感することはない。
佐志八幡宮
祭神 仲哀天皇 神功皇后 應神天皇
末社 鎌倉権五郎景政を祀れる鎌倉御霊の宮。龍体神社は大錦津美神を祀る。
本社は、人皇七十三代堀河院の御宇康和三年(約八〇〇年前)源義家の家臣鎌倉権五郎景政九州に下りて、石清水(いはしみづ)八幡宮を此処に勧請したるは其の年十一月十九日であった。其の後第九十八代後亀山天皇の文中元年(約五五〇年前)足利義満の家臣源頼泰松浦郡に下り夢想のことありで、社殿の修理神田の寄進を為す。後松浦黨の信仰厚くして、社殿の修復神田寄附などあり。寺澤氏唐津を領するに及びて、御供米華表(くまいとりゐ)等の奉納あり。其の後歴代藩主の御祈願所となる。
未社龍体神社は、正保元年唐津湾にて黒船焼討の後、寺沢兵庫頭は黒田氏と協力して、沈没砲を寺沢氏にて八門、黒田家にて六門を得たれども、残余の砲と梵鐘は百方手を盡すとも引揚容易ならず、依つて各社の神職に祈念せしむ。この時佐志八幡宮の神職宮崎丹後、海濱に出で祈願することやゝ久し。終に眠に就く、夢中に女神来りて宣(のたま)ふに、残余の器物は海底に留め置かんとす之を犯す勿れと、忽ち夢醒む。丹後この旨を城主に訴ふ。城主これを疑ひて龍神の姿を見んと、丹後再び祈念す。此の時朱龍忽然として来り海濱の石上に息ひ間もなく海中に没す。城主も天王臺上より望見して奇異の思ひをなし、終に意を翻(ひるが)して止む。丹後の先導により寺沢氏の家臣岡島七郎右衛門、並河九郎兵衛は、龍の息ひし岩上を見れば龍鱗(りゆうりん)三枚を残す。依つて丹後は小祠を建てて龍体神社として尊崇す。龍体を現せしところを今に龍体と云ふ。(黒崎小學校の下方)近年八幡宮境内に移して末社となす。
皇 后 瀬
三韓征伐の途次、神功皇后が御憩(いこ)ひ給ひたるところと傳へらるゝ皇后瀬といへるところあり。
佐志より唐房に入らんとする国道と里道の分岐点地方である。
湊 村
唐津町の西北方二里強にして湊村あり。福岡県芥屋の大門と相對して松浦潟大湾入の門戸を為す。佐志村に隣りて風光明媚の海岸を傳ひて本村に入れば、神功皇后が鹿に蓮ひ給逢鹿(あふか)の地名起りし相賀(あふか)がある。相賀松原は相賀崎一円を掩(おほ)へる樹林で、老松雅樹白砂と映し数萬株の樹相(じうさう)捨て難き趣きあり。
それより湊本村は五六町の地にして、北側は玄海に直面して砂濱の盡くるところ巨巌の聳立するものがある。これなん
立 神
の奇巌にして、周囲数丈、高十数間に余れる巨巌屹然(きつぜん)として峙(そばだ)つもの二躯、玄海の怒濤時に脚下を噛(か)むも泰然として之を嘲(あざ)けるものゝ如く、其の傍側(ぼうそく)に高さ前者の半にして周囲はそれに倍加するの磐石(ばんじやく)が数個蟠(わだか)まりて、面白き對照をなす。共の邊一帯に大小の玄武岩が起伏散乱す。神集島方面より見るを最もよしとす。
八 坂 神 社 (大字湊にあり)
祭 神
素 盞 鳴 尊 (すさのをのみこと)
大 己 貴 命 (おほなむちのみこと)
少 彦 名 命 (すくなひこなのみこと)
事 代 主 命 (ことしろぬしのみこと)
稲 田 姫 命 (いなだひめのみこと)
湊浦は往古鰐(わに)の浦といひ、神功皇后三韓征伐の時軍船数を多碇繋(つなが)せられしより湊(みなと)の称をなすに至りしと傳ふ。
本社の創建年代不明なるも、神殿前の小さき石の華表(とりゐ)に延暦三と模糊(もこ)としたる文字を見れば、大方は平安朝初めの建立にかゝるものであらう。祭祀は毎年四回行ひて、陰暦正月十五日を春季祭と称し、また灰振り祭ともいふ。神輿渡御(しんよとぎよ)の前に産子(うぶこ)のものども老若男女の別なく木灰を打ち振る儀がある。これ皇后が柏木(かしはぎ)を焚(た)き、其の灰を振り神を祭らせ姶ひし古例に倣(なら)ふものなりといふ。六月十五日は砥園祭と称し、毎年山笠二本を奉納す。六月十九日は例祭と称し神輿渡御の儀あり。秋季祭は十一月十五日に行ふ。
境内に鎮西八郎為朝の五輪の塔と傳ふるものあり。高九尺計りなり。
神 集 島(かしはじま)
住 吉 神 社
祭神 底筒男命
中筒男命
表筒男命
息長足姫命(おきながたらしひめみこと)
天の兒屋根命
本社はもと弓張山に鎮座のところ、元禄七年同島宮崎に遷座せり。本殿は神功皇后三韓征伐の時数日間御滞留あらせられ、詣神を神集めし給ひ、干珠(かんじゆ)、満珠(まんじゆ)の二寶を納められし神社だと傳ふこの故を以て神集島と名づくと。明治六年村社に列す。秘蔵の干珠は直径三寸六分にして金色の光を放ち、満珠は直径三寸三分で青黒の色彩を帯ぶ。何れも球体の自然石なり。
又御三体の木像あり。精巧を窮め極彩色を施す。県内にては佐賀市楠公社奉安の木像と併称せられて、他に類例を見ざる尊像である。
神秘的の神集島
大字湊より十町計りを隔てたる曲玉状をなせる小島で戸数百戸に満たず、半農半漁の生活を為し、殊に郡内第一の好漁場なれば、里民は稼業に安んじ生計乏しきを知らず。
この(クサカンムリニ最)爾(さいじ)たる武陵桃源境(ぶりようたうげんきよう)は、気候温和に、天産豊に、松浦海口にありて交通の要地にも當り、曲玉状の湾内には舟舶波浪の難を知らずして夢を結ぶに足る。斯る土地なれば三千年の太古既に大陸文化に覆翼(はぐく)まれし人種が移住し来て、この桃源境に落ちついた者も少からざる様である。即ち近来佐藤林賀氏の発見により白鳥博士等の肯定(こうてい)による、太古の人類が残せし墳墓である大陸文化たる石窟(どるめん)が無数存することである。この石窟なるものが、韓土交通の要地たる對馬海峡の對馬、壹岐、松浦地方に多きは、古代人類の移動の跡を物語る証左であらう。有史時代に入りて韓土呉越人の出入せしことも文献によりて知ることが出来る。
神功皇后が足跡を此の島に記させ給ひしことは、軍議を凝せしところとしては評定岩(ひようじよういは)と云ふのがある。韓土に向って弓を張りで威武を示せしところを弓張岩といふ。或は應神天皇御誕生遊ばされしところを産子山(うぶこやま)といひ、其の時御使用に供せし井水の跡を子濯川(こうそがは)と称へ、神集めして戦勝を祈り給ひしより神集島(かしはじま)の名が起り、其他皇后御出征當時の陣営の御跡(あと)及び戦病歿者の小積(こづ)み石墳墓などいへるものの口碑(こうひ)傳説等が澤山残ってゐる。されば豊太閤が名護屋城にゐて、征韓軍を指揮せし如く、皇后も亦此の島にゐらせ給ひて三軍を叱咤(しつた)し給ひしにあらざるか。殊に御懐妊(くわいにん)も産月近くゐらせらるれば猶更其の疑問も起らないとも云へぬ。実際此の島は、神秘的、謎(なぞ)の国
ともいふべきところである。今や本島に関して篤學の人々の研究が行はれてゐる。余は夫等人士の究學的態度を尊敬して、攻學範囲に立ち入ることを避けたいと思ふ。
七 ッ 釜
松浦潟は白山(石川県)火山脈地帯に属してゐて、芥屋の大門、七ツ釜等皆然らざるものはない、七ツ釜は大字湊より一里の地屋形石と云へるところにあり。唐津よりは海上五浬の地点である。太古熔岩が湧出(ゆうしゆつ)して、冷却するの際美事なる柱状節理を為し、六角柱状、五角又四角柱状など一定せざれど、節理整然として乱れず、或は横に縦に斜にところによりて其の状を一にせず。柱状の径約五六寸内外にして大小不同等の不揃もない。約二町の幅と三四丈の高さを有し、玄海の群青(ぐんじよう)色の碧波に直面するので冬季北風怒濤を捲きて巌脚を噛みて節理の弱点たる罅(さけめ)隙を長年月間に亘りて侵蝕(しんしよく)して、終に七ツの大小の洞窟を造り、中央のものが最大で東端のものは石門となり自由に小舟の通貫が出来る。最大の渦中に船を入るれば天井(てんじよう)には柱状節理の末端が簇(ぞく)々として現はれ側壁の節理と相對して天工の技巧に舌を捲かざるを得ない。奥まるに従ひ次第に闇(くら)く窮極を知らざるものゝ如く、鬼気身に迫って凄愴(せいそう)と壮厳の気に撃(う)たれて言ひ知れぬ感が起る。遊者必ず其大観に驚き、局部観に酔はざる者はない。実に天下の玄武洞で其の偉観我が七ツ釜と芥屋の大門に及ぶものはない。其の数少さを以て名あるに非ずして壮厳精緻(せいち)の大観によりて勝れてゐるのである。
大正十五年内務省は天然記念物として其の保存を指定した。
海上よりの観覧は夏季が最もよろしく、唐津、湊村、呼子等より船に賃することが出来る。陸上よりの観は海上の観に及ばざるも、土器崎(かはらけざき)の突端を下りて七ツ釜の盡くる西方海汀の巌上より望見することが出来る。陸上観も亦風情がある。其の突端を廻りて西方に眼鏡岩(めがねいわ)の奇巌がある。
陸行には唐津より湊村まで自動車の便がある。特に命ずれば屋形石なる部落まで車をやることが出来る。呼子よりすれば一里の行程なからんか。
土器崎と云ふは、神功皇后が神を祭り酒を灑(そゝ)ぎ土器を流し給ひしより起りし名にして、皇后を祀れる小祀がある。
烏 帽 子 嶼(えぼししま)
嶼 の 大 観
唐津舞鶴公園の直北十三四浬の玄海灘の眞正中(まつだヾなか)に青螺(せいら)の如き眇(べう)たる嶼影(しまかげ)が見わる。これなん烏帽子嶼とて、福岡県の所管に属してゐるので大海中の一岩礁(がんせう)である。全嶼(ぜんしよ)寸土を混へず一木の影(かげ)さへなく、一鉢の盆栽(ぼんさい)さへ見ず、唯生根(しようこん)強き海岸特生の雑草が極めて僅かばかり、巌の隙(す)き間石垣の間に蘭葉やうのものと葉面に白粉を塗りたる如き色せる厚葉の二雑草があるのみである。嶼の頂きは頑丈なる燈臺官舎と燈臺とを建設されたる外は、其の周邊の磐石(ばんじやく)を削平(さくへい)せられたるため僅か計りの巌頭の平面を見るのみにして、北側と東方は直下の絶壁で、南と西は軽微の傾斜面をなしてゐる。海面より燈臺基礎までは百四十二尺あつて嶼中の最高所である。全嶼の面積千二百二十坪、周囲三町といふのである。東方面と西方面の二ヶ所より登攀(とうはん)路がある。赤色のコールタルで塗られた鐵梯(てつはしご)があるが風浪の日には到底攀(よ)ぢ登ることが出来ぬ。嶼中は一滴の水もない。燈臺は高さ五丈九尺にして、其のレンズは直径八百ミリメートルで二等光壹萬七千五百燭光を有し、船舶の大小によりて三十浬乃至四十浬のところより望見することが出来る。燈臺官吏は二人宛十日目毎に交代して佐賀県呼子村呼子の官舎を根據としてゐる。
余は此の小嶼が大海中の一小孤島たる巌礁で、燈臺があるから有名として賞揚(しようやう)するものではない。全体が柱状節理の玄武岩より成立して、其の節理の鮮麗にして東方側にては殆んど海波の浸蝕の跡なく太古そのまゝの状態を現し、節理が竪、斜、横などに審美的に配列せられ、嶼影恰も烏帽子状に見へ、壮厳と審美の化神(けしん)たる表現其の儘であるからである。恐らくかゝる自然美の壮麗なる玄武岩は国内他に類を見ざるべし。曾遊の輩にあらざれば共に其の壮美を語るに窮するものである。
七ツ釜、烏帽子嶼、芥屋大門の比較
要するに、七ツ釜、烏帽子嶼、芥屋の大門は、我国三大柱状節理の玄武岩の雄として賞すべきものであらう。其の七ツ釜の特色とするところは、岩相(がんそう)、洞窟共に併せ得て荘重雅致なる点にあり、以て第一位に置くべきか。烏帽子嶼は全体の技工趣致七ツ釜に及ぼざれど、嶼貌(しよぼう)の面白みと節理の特に秀麗にして、磨滅せざる太古の其儘を存してゐるのに特色があるので第二位に置きたい。芥屋の大門は洞窟内の状致に偉観を呈し、七ツ釜の洞窟に勝ると雖も、全体的大観に於て前二者に及ぼざれば第三位としたいのである。要するに松浦潟の男性的美の壮厳は此の三者を以て代表となすべきであらう。
夏季海水浴季中には金壹円内外を投すれば以上三者の遊覧船が唐津海水浴場より出さる。烏帽子嶼は夏季以外には波浪のため遊覧の便が乏しいのである。
田 島 神 社 (呼子村大字加部島)
社格 国 幣 中 社
祭神 田心姫命(たごゝろひめみこと)
湍浅姫命(たきつひめみこと)
市杵島姫命(いちきしまひめみこと)
相殿 大山祇命(おほやまずみのみこと)
椎武王命(わかたけわうのみこと)
當社は田心姫命を第一として中に、湍浅姫命を左に、市杵島姫命を右に祀る。
筑前大島神社は 左に田心姫命、中に湍浅姫命、右に市杵島姫命
同沖の島神社は 左に田心姫命、中に市杵島姫命、右に湍浅姫命
唐津町より西北三里にして呼子がある。こゝは帆船出入の天然の良港にして郡内水産物集散の中心地である。加工品としては名高き松浦漬、豊城漬、削(けづ)り節等を出す。港口西方の辨天嶼(じま)は景色面白く絵を見る心地がする。生魚中の生魚を賞味せんと欲する客は此地に遊ぶがよい。七ツ釜共他波戸岬等にも遊覧船を出すことが出来る。
加部島は同村の大字にして呼子より海上六七町を隔て、港口に壁屏(へきへい)を為す。されば文禄の役太閤名護屋城にありて壁島と名づけしが今は加部島と書く。島の東端宮崎に田島神社がある、延喜式神名帳に肥前国第一の大社とす。本島は古来姫神島ともいって、前記の三神を祀つてゐたが、奈良朝の中頃聖武天皇の朝吉備眞備が唐土より帰朝する際海路の難あるに當りて田島神の神助を得て無事なりしことを奏せしかば、天平十年大伴古麿を勅使として下向せしめ田島大明神の神號を給ふ。又孝謙天皇の天平勝寶八年田島大明神の神殿に一つの蜘蛛(くも)が出て国土安全の四文字を顕はしたとも云ひ。仁明天皇の承和元年、小野篁(たかむら)遣唐使節として入唐の際船を寄せて航路安全の祈願を込め、神教により渡唐を中止したなどのことをも傳へられてゐる。円融天皇の貞元二年(約九五〇年前)源頼光肥前守となり、越江て四年の後天元三年本社に石の華表(とりゐ)を寄進す。今に刻せる年號を見ることが出来る。構造現代のものとは趣を異にしてゐる。後世波多氏の頃修理せしと云ふ。太閤名護屋陣中屡々此処に遊びて社殿の扉(とびら)に落書せしことなどもありて
しのびねのなみだはいろにいでぬれどものやおもふととふひともなし
と云へるは、今猶寶庫に秘蔵せられてゐる。猶當時在陣諸侯の数多の手蹟も保存せられてゐる。
国寶の太刀一口は刀身二尺三寸九分、半反り七分、*(金ヘンニ祖)下(はばきした)より刀身中央に至る表裏鎬(しのぎ)角に細き樋あり、刃文丁子乱(じんもんちようしみだれ)、単*(金ヘンニ祖)銀無垢(たんそぎんむく)の逸物(いちもつ)にて、大正九年四月十五日国寶に指定せられしが、大正四年五月十日舊佐賀藩主鍋島直大の奉納するもので、備中国住人吉次の銘あり、目釘穴三個を有す。
末社佐用姫神社
祭神 佐用姫の望夫石を神体とす。
佐用姫は前既に佐用姫屋敷跡また鏡山、松浦岩などの條にて述べし如くなるが、猶も夫を追慕して止まず。呼子より此の姫神島に渡り島の最高所である傳登岳(てんどうだけ)(天童岳とも書き島の西南端に近き山地で、辨天嶼の上手に見ゆ)に攀(のぼ)り、夫(おつと)の乗船を麾(まね)き給へど、船はおい風に帆をあげて波の彼方(かなた)に消江失せたれば、姫は哀別離苦の悲(かなしみ)に堪江兼ねて、御袖を以て顔にあてうち伏し給ひ其の儘化して石となりぬと傳へらるゝものにて、移して田島神社境内に祀る。太閤名護屋在陣の頃百石の御朱印を附け給ふと云ふ。
本社参詣の人は、社務所につきて請はゞ、望夫石並に寶物類の拝観を為すことが出来る。
名護屋城址
位置と築城
名護屋は、丘陵性の東松浦半島の突端にありて、唐津町へ四里八町自動車の便あり、呼子に海上一浬渡船常に絶江ず、半農半漁の僻村なれど、土地のものは三百余年前太閤秀吉始め天下の侯伯が此処に麕集(あつま)りて、一時東洋の天地を振撼(しんかん)せしめし歴史を有するのを誇りとしてゐる。実際其の城址上よりの雄渾(いうこん)なる展望と共に地方民の誇りと栄誉とを恣(ほしいまゝ)にするに十分なる要素を具備してゐるのである。
もとこの地は波多氏(松浦黨の首領)の家臣名古屋越前守藤原経述の所領たりし垣副山(かきぞえやま)一名勝雄ケ岳の要害を利して、天正十九年より翌文禄元年春までに、九州の諸侯伯に課して築かしめたる城壁であつて、其の規模の雄大なること一時の仮営とは思はれざる程である。或は秀吉の心事忘を大陸に伸(のぶ)るの日、此の城を以て彼我の聯絡の要地とするの所懐を蔵せしものにあらざりしか。
城祉の四邊に大小の丘陵高地百余の地点は、悉く天下侯伯の陣営地である。其の間を縫へる幾多の低地渓間は皆これ遠近より集れる賈人の店舗を列ねし所で、今猶畦(けい)畔(はん)田園の間に一々舊時の町名地名を存してゐる。大正十五年十一月城址並に左の十ヶ所の陣営地は内務省名勝舊蹟天然記念物保存会の保存に指定せられた。
竹の丸…徳川家康
神(かん)の木…松浦刑部法印
永田の辻…相馬長門守
馬立(またて)…蒔田権之助
草邊石…寺澤志摩守
赤瀬…羽柴松江侍従
湯蓋(ゆぶた)(井樋田)…島津兵庫頭
打椿…羽柴宮内少輔、山崎左馬介
赤松…羽柴豊後侍従、結城少将秀康
中野…氏家志摩守、室町内府、氏家内膳正
陣断図以下の舊記寶物類数点は、城麓の舊家松尾家に蔵してゐる。遊者に就て観ることを得ん
城廓の結構
一、本 丸 (東西五十六間南北六十一間)西北角に天守臺あり、城高十五間
営 造 物 造 営 者
数 寄 屋 長谷川宗仁法眼
書院座敷は何れも花鳥山水
狩野右京亮画き善美を盡す
本丸より山里へ裏小門 寺西筑後守
本丸と二の丸間、北の門 河原長右衛門
同 大手門 御牧勘兵衛
営 造 物 造 営 者
同 脇 櫓 芦浦観音寺
同 取付二階矢倉 仝
同 四間梁五間矢倉 羽柴善作守
本丸西の角櫓、四間梁十間 大和中納言
同 取付矢倉、二間梁三間 仝
一、山 里 丸 (東西八十間、南北五十間)
数 寄 屋 石田木工頭 本丸より山里へ裏の露地 寺西筑後守
書 院 五間梁六間 太田和泉守
座敷残らず狩野右京亮画く
御臺所 七間梁十六間 河原長右衛門
添の間 十間梁十一間 石河 長蔵
御座の間 寺滞志摩守
西王母の絵は右京亮画く
築山遣り水等の体、千年も経たるやうに苔むす
同次の間 耕作の絵、右京亮画く
三 の 間 花鳥の絵、仝人画く
上臺所 六間梁四間
表御座の間 慈童の絵、長谷川平蔵画く
同次の間 山水の絵、仝人筆
同臺所 九間梁十七間 石川 兵蔵
右取付け料理の間
山里局 六間梁十三間 石田木工頭
右間毎に花鳥の絵、右京亮画く
同 局 五間梁十間 建部 壽得
同湯殿 仙石権兵衛
同御蔵 六間梁十間 戸田清左衛門
同御蔵 五間梁廿間 小四摂津守
同取付櫓 御牧勘兵衛
同国の木番所 仝
同国の木作門 仝
同二階間 仙石木工頭
同菜園 仝
一、二 の 丸 (東西四十五間、東北五十九間) 東北東角
二階櫓 四間梁五間 溝口伯耆守
同天守の下、冠木門 太田和泉守
同三階櫓 九間梁十二間 伊藤長門守
南の門 三間梁七間櫓 館 侍 従
同桝形 七間梁四方四間石垣 仝
大手三階鐘楼堂 五間梁四間羽柴五郎左衛門
同東の櫓 四間梁十間 長束大蔵太夫
同北の櫓 四間梁八間 大和中納言
同西の方二階櫓 四間梁十八間 浅野弾正少弼
南取付矢倉 三間梁八間 仝
大手櫓 三間梁十三間 鍋島伊平太
一、三 の 丸 (東西三十間、南北六十二間)
同西の方櫓 三間梁三間 羽柴河内守
同冠木門 三間染五間櫓 羽柴 右近
同西の門 三間梁五間 羽柴加賀宰相利家
同西北の角櫓 四間梁五間 仝
同取付 二間梁四間 仝
同大手東門 四間梁七間櫓 羽柴 右近
一、遊撃の曲輪 (東西二十六間、南北二十四間)
一、南の方弾正曲輪 (九十間に四十間−−三十間)
一、水の手曲輪 (十五間四方)
一、山里曲輪の間 数ヶ所に出でたり (此下腰輪小曲輪合十一曲輪あり)
一、城の周囲 (十五町)
一、城 門 (五ヶ所)
兵船の用意 (天正十九年正月廿日、秀吉の名により発合せらる)
一、東は常陸より南海を経て海に沿ひたる国々、北は秋田酒田より中国に至つて其国々の高十万石につき大船二艘宛用意の事
一、水手(かこ)の事、浦々家百軒に付て十人宛出させ各所属船に付し、余有の水手は大阪に集る事
一、水手一人に對する給與は二人前扶持とし、此の外妻子への扶持も遣はす事。等
出征兵員の割當(天正十九年三月十五日秀吉の名により発令)
一、四国九州は、高一萬石に付て六百人の事
一、中国紀州邊は、同じく五百人の事
一、五畿内は、同じく四百人の事
一、江州・尾・濃、勢四ヶ国は、同じく三百五十人の事
一、遠、三、駿豆邊は同じく三百人是より東は何れも同じく二百人の事
一、若州より能州に至って其間同じく三百人の事
一、越後、出羽邊は、同じく二百人の事
規定の数々
一、兵員移動一日行程を六里とす
一、旅宿屋賃は出さず薪、秣(まぷさ)代は支払ふこと
一、津々浦々警備のものは屋賃を支出すること
一、強(おしか)買ひ狼籍等の不都合あるべからざること
一、何方にても不穏のものあらば告知すべし
一、一里毎に飛脚二人宛を置て名護屋と大阪との所用速達すべき事 等
名護屋在陣の軍勢
総勢 十萬二千四百十五人にして、徳川家康は竹の丸に、前田利家は筑前町に、上杉景勝はカンヂヤクに、毛利輝元は下薄木に、浮田秀家は笠冠(かさかむり)に、以上五大老外の諸将も各々城壁を廻りて一里内外の地まで陣所を構へ、前衛、弓、鐵砲、馬廻、后備(うしろそなへ)などに分ちて警固をなす。
朝鮮渡海の軍勢
総勢 二十萬五千五百七十人にして、小西行長、加藤清正、黒田長政等先陣を承り、石田三成 大谷刑部(ぎようぶ)等後続隊となり、九鬼嘉隆(くきよしたか)、藤堂(とうどう)高虎等海軍(九千四百五十人)を統べて*(奚+隹けい)林八道に攻め寄せた。
名護屋より発船
文禄元年四月十二日(約三三五年前)小西、加藤黒田等の軍勢、石火矢を放ち鯨波(とき)を揚げ、数千艘の兵船は家々の紋章を染め出せる慢幕(まく)を打ち廻し、思ひ思ひの旗、指物(さしもの)を飾り立て海を掩ふて壮図に就いた。
陣中の遊興
文禄二年四月九日本丸にての能の歓興には、翁、高砂、田村、松風、邯鄲(かんたん)、道成寺(どうじようじ)、弓八幡(ゆみやはた)、三輪(みわ)、金札などの諸番を演ず。
道化(どうけ)遊び 同年六月廿八日には、太閤は瓜売りに、家康はアジカ売りに、前田利家は高野ひじりに、蒲生氏卿は茶売りに、其の他侯伯も種々に仮装して、廣やかなる瓜畑の仮屋も破れん計りの賑ひで陣中の徒然(つれづれ)を慰めた。
名護屋條約
明将李如松(りじよしよう)が碧蹄館(へきていかん)で立花宗茂等に大破せられてより、明は和議の心動き、徐一貫(じよいつくわん)、謝用梓(しやようしよう)を使節とし沈惟敬(ちんゐけい)を副へ、小西行長等と共に二年五月十五日名護屋城に達した。
明使接待 滞在中の日割を定めて徳川家康、前田利家以下の諸将をして接待周到を極む。
明使のため舟遊 太閤は使節一行を慰めんとて、風光絵に勝る名護屋湾内辨天島の邊にで盛なる舟遊を行ひしに、彼の使臣之を賞観して嘉陵三百里の山水には及ばざるも瀟湘(しやうしよう)十里の風景には優れたりとて
重畳青山湖山長 無邊緑樹顕新粧
遠来日本傳明詔 遙出大唐報聖光
水碧沙平迎日影 両微煙暗送斜陽
回頭千態皆湘景 不覚斯身在異郷
沓旋*(車ヘンニ召)車来日東 聖君恩重配天公
遍朝萬国播恩化 悉撫四夷助垂忠
名護風光驚旅眼 肥州絶境慰衰躬
洞庭何及此清景 空使詩人吟策窮
一奉皇恩撫八紘 忽蒙聖論九夷清
晴光湧景霊蹤聚 山勢抱江煙浪軽
虔境奇跡難闘靡 楊州風物寧堪爭
扶柔聞説有仙島 斯処定知蓬又瀛
と嘆賞す。
條約七ケ條 文禄二年六月廿八日石田、増田、大谷、小西の署名によりて訂結す。
一、明の皇女を日本后妃となすべき事
一、足利末中絶の貿易復活の事
一、日明の修交を復し誓を立つる事
一、朝鮮八道中の四道を日本に割く事
一、朝鮮王子並に大臣一両員を質とすべき事
一、去年捕虜となりし朝鮮二王子を帰還せしむる事
一、朝鮮国の權臣より誓詞を出すべき事
(太閤も大に満足し明使は即日帰国す)
かゝる有利なる講和條約も、裏面に潜む小西一派及び沈惟敬等の術策に誤られ、慶長元年伏見城にて正使楊方亨(やうはうこう)等引見の際暴露して、慶長再征役となり、交戦半にして同三年八月十八日太閤溘焉(かふえん)として逝(ゆ)き、壮圖全く雲煙霧散し終りぬ。されど彼の意気は徳川時代初期の海外雄飛の国民性活躍の発露となつた。
城 頭 の 眺 望
城願よりの展望の直観は「噫(あゝ)雄大」の一言にして盡さん。巌(いは)がどうだの、山がこうだの、河があゝだのと云ふやうな局部的雄大とか壮厳とか云ふのでなくて、南方の一部を除くの外視界教十百里海と島との配置が雄大其のものである。東北方の脚下に松樹の一叢林(いちそうりん)がある、これ徳川家康の陣地たりし竹の丸で。直ぐに海に入りて一對の小嶼がある、青松の風致面白く膨大(ぼうたい)なる二見ケ浦を見るやうな心地してもつと景色がよろしい辨天島がある。其の北側の島が望夫石で名のみる加部島で、對ひ合ひの湾入が呼子港である。この中間遙に松樹の岩嶼が浮んでゐるのが、燈台所在地の鷹島で。その向ひの地方が七ツ釜で名高き土器崎(かはらけざき)である。肥筑連峰中の浮岳やら筑紫富士も見江てゐて、殊に浮岳のみは獨り雲表に浮き立つてゐる。北方に眼を転ずれば、百済の武寧王が生れたり、三韓航路寄航で名ある大泊(おほとまり)があつたりする加唐島がある。其の西隣にて繭(まゆ)状なせる松の茂みの島が松島とて、僅かに十軒計りのキリスト信者の家がある。其の北方に長蛇の横はるが如き観ある島が長崎県下の壹岐島で、数多の石窟(どるめん)・古墳や元寇史などで名をなしてゐる。秋天
清澄(せいちよう)の日には黛(まゆずみ)の如く視線に入るのが對馬島で、壹岐と共に對馬海峡の要塞地に属してゐる。
壇ノ浦で八艘飛びを演じた源判官義経に羽翼(はね)か生へたら、加部島、加唐、壹岐、對馬、朝鮮と飛び石傳ひのやうに大陸まで飛んでも行ける観がある。松島の西方二里計りの海上に格恰(かくこう)よき島があるのが馬渡島(まだらしま)で、舊時代には其の高地が藩の牧場があったり遠見番所の警備所などがあったりしたるところである。島民は本村新村の二部落に分れて、新村は天草島原乱後難を避けて落ち延び来つた天守教徒の末裔が住んでゐる部落で、今に固き信徒で人情風俗共に異なつてゐる。其の西方に俵状をなしたる無人島があるのが二神嶼(ふたがみしま)とはいふのである。西方に軍艦状の島があるのが向島といって郡内入野村に属してゐる。二神島より南方に順序に濃淡(のうたん)様々の島影があるのが長崎県北松浦郡の大島で、平戸島の一角も雲烟模糊(うんえんもこ)の間に髣髴(はうふつ)視線に入る。向島の南方平戸島の手前の島が、元軍十余萬が底の藻屑(もくづ)と消江失せたので知らるゝ鷹島といへる島影である。それより南方に見ゆるのが佐世保と伊萬里を境する国見岳の連峰である。山水島影の遠近配置実に雄大にして、洋々の観は往年の英雄の気宇に通へるものゝ如き心地せらる。
されば文人墨客曾遊の地たるは云ふ迄もなく、曩に梨本、伏見両大将の宮殿下を始めとして朝香宮殿下の御成りとなり近くは高松、賀陽(かや)両宮殿下遊ばせ給ひて、小松の御手植ありて記念せさせ給ふも、史実と景致の偉大が致せる結果なりと云ふべきなり。
廣澤寺の蘇鐵 (名護屋城山里丸の内)
曹洞(そうとう)禅宗に属する廣澤寺といふ一小刹(さつ)が城の北面山里丸の西喘なる城址の中腹にある。もと太閤の寵姫廣澤の局(ちようきくわうたくつぼね)が居館たりし跡に、局の歿後、慶長十四年菩提(ぼだい)のために其の居間を本として建立せられ、廣澤寺と称し庭察和尚(ていさつをしよう)を開山としてゐる。
庭前の大蘇鐵は、大正十三年十二月内務省が天然記念物として指定したる名樹で、根廻り約一丈、高さまた一丈、分枝十余に及びで巨枝の一は一丈五六尺にも及びたる稀有の名樹である。
征明の役加藤清正が朝鮮より傳来して太閤に献じたるものと云ふ。
(余思ふに蘇鐵は南国産である。果して朝鮮より携へ来りか疑ひなき能はず、されど韓土の雅人が盆栽などに翫び居りしものと考ふれば、蘇鐵産地外よりの傳来も否定するわけにはゆかぬ)庫裏(くり)の背後に一叢(むら)の竹林がある。茶人千の利休が植ゑたるものと傳へられてゐる。
波 戸 の 岬 (名護屋村内)
誰も口にこそ岬といひ、地図でこそ岬を知れども、実際岬の状態を見たる人は稀であらう。我が波戸の岬は標式的岬(へうしきてきみさき)の二つであつて、風光の美も亦勝れてゐる。名護屋城址より約卅町の西北方にありて、東松浦半島の最尖端(さいせんたん)に當り、松島との距離僅かに十町、岬角の起点とも云ふべきところは四五十間幅の地峡となり、高さ五尺計りの石垣を以て境せられ、そこに一ヶ所の出入口を設け木棚様(もくさくやう)の門扉(もんぴ)を開閉するやうに造られてゐる。これ牛馬放牧場の障壁(しきり)とするのであって、水面上高度約一間位の低地となつてゐる。門壁(もんぺき)を越ゆればまもなく小高くなりて高度的三間位と覚しく、幅員三四町内外にして、稍々西方に傾きて平坦砥(し)の如く、一面に刈込まれたが如き芝生(しばふ)は青氈(せいせん)を布けるよりも快美の観を呈し、放牧の牛馬数十頭が参々伍々群を為せるのが、叉絵になつてゐる。突端までは七八町もあらん。岬神社の小祠がある。周囲を取り巻ける玄武岩の磯濱は、栄螺(さゞえ)、蜷(にな).雲丹(うに)、鮑(あはび)などの貝類豊かに、釣を垂るれぼ穴釣りにてはアラカブ、ホリなどが漁(と)れ、瀬釣にては黒魚、イツサキなどが獲(かゝ)りて、春日夏季の一日の清遊をなすには、家族侶伴に最も適し、或は魚漁の目的で一夜を瀬釣に明す連中もあり、其の他布海苔(ふのり)、鹿尾菜(ひじき)、海松(みる)、水雲(もづく)、若布(わかめ)などの海藻も豊かである。
松島・加唐、壹岐、馬渡、北松浦郡諸島は手に取るが如くに双眸(そうぼう)に入り、身は大海を航する船艦上にあるの思ひあり、風光の美と海洋的気分は身邊を包みて言ひ知れぬ感興が起る。地形的にも水産物漁獲的にも、風光上の大観よりも確かに一名勝たるを失はざるところである。
西南部地方
東光寺の國寶(有浦村大字有浦下)
唐津町より西方三里弱の地に有浦村大字有浦下なるところがある。定期自動車が通つてゐる。そこに瑞泉山東光寺といふのがある。
本寺は永享(えいきよう)年間壹岐守日高入道完任打上(むねたううちあげ)村大字赤木に戦ひ、敗れて有浦村に隠(かく)れ大庄屋を務めたる時、邸地を割きて自身の祈念佛なる薬師如来(やくしによらい)を本尊とし、小宇を建立して朝夕信仰(しんこう)怠りなかりしが、天正二十年前越州秀岳珠含大居士(えつしうしうがくしゆがんだいこじ)の信仰厚く、前住元智記室禅師を請(じよう)じて、赤木村東光寺といへる衰頽(すゐたい)せる寺あるをこゝに移して建立(こんりゆう)したのが當寺の起原である。
本尊薬師如来は三尺余りの坐像にして、菅原家の信仰佛像なりしとか云ふ。実に八百八十余年前の作に係る古佛像にして、大正二年八月二十七日國寶に指定せられて、當寺の名頓(にはか)に世に知らるゝに至る。
また寺域の観音堂に安置せる六手観世音菩薩は、平重盛が在世中父清盛の死後の冥福(めいふく)を修せんため、六臂(ろつぴ)観音像を彫(きざ)ましめて海中に投ぜしものと傳ふ。後に仮屋湾内佛崎に於て漁夫松右衛門なるものゝ網にかゝりたるを、三代の松右衛門其の霊験に感じ當寺に寄進したるものなりと云ふ、観音の御丈五尺六寸の立像にして古色蒼然たる霊像なり。
仮屋湾八景
東光寺より半里程にして仮屋湾あり。有浦、値賀、入野三村の丘陵に囲まれたる天然の良湾で湾内廣く水深く数十隻の艨艟(ぐんかん)を容るゝに足りて、如何なる荒天にも外海の波濤の余勢を受くることなければ、佐世保軍港開府前は、或はこゝに鎮守府の設立を見るならんと思はれしに、惜哉(おしいかな)背面防禦高地に遺憾あるものゝ如く傳へらる。
湾内風光佳にして、三島神社を祀れる三島、奇巌起伏の佛崎、筍(たけのこ)状の筍島、玉子島、日受島の小嶼には松青く、畳を敷けるが如き畳島、龍駒(たつのこま)、綿積(わだみつ)神社と合せて所謂仮屋湾八景の勝地がある。
切木の高原臺地及び牡丹
有浦村より切木村に越江んとするところに切木原といふ高原台地がありで、東西二十数町南北一里の廣袤(ひろさ)を有し、學生及び篤學者達の実際研究の好資料地として、遠足または終學旅行団の来を待つてゐる。松浦潟、朝鮮海峡、東支那海の遠望がある。
切木村大字切木の民家に稀なる牡丹の巨樹十数株がある。高さ八九尺内外にして枝葉繁茂し、花時数百の豊艶(つややか)なる大輪が爛漫(らんまん)として嬋娟(せんけん)たる姿態(したい)を呈するは、観客陶然として帰路を忘れしむるの観がある。
い ろ は 島
切木村と長崎県福島間の内海波静なる海湾に、四十八の小嶼青松を載せて起伏大小様々の貌(かたち)をなして海波に浮べるものがある。陸前の松島をも偲ばれて云ふべからざる佳景を擁(よう)してゐる。唐津町より直行二里半余の里程を有す。
石器.古墳時代の遺物と文化
近年我が松浦地方で古墳とか石窟(どるめん)とか仲々研究されてゐるやうであるが、比の気運を煽(あを)つたものは隠れたる実地學者たる三角(みすみ)伊之吉翁と篤學の士佐藤林賀翁等の功績が大なるもので、三住翁の造詣(ぞうけい)の探きことは世人に多く周知せられてゐないが、実際的の見識中には珠玉の値あるものがある。
さて其の分布状態は、加部島、神集島より、玉島松浦両河口邊の濱崎、玉島、鏡、久里、鬼塚等の諸町村等の山腹丘麓に存する、古墳並にドルメン等は主なるものにして、其の他名護屋、呼子村方面にも点々として発見せられてゐる。このドルメンの如き大陸文化傳来の経路を辿(たど)つて見る時は、面白き現象を見ることが出来る。即ち三韓交通の要路に當つてゐる對馬、壹岐、加部島、神集島と朝鮮對馬の海峡を飛び石傳ひに松浦の地に流入したことは、此等の諸島に其の遺跡を存してゐるので明かなることである。殊に壹岐の如きには大小無数の石窟、古墳が発見せられてゐる。猶仔細(しさい)に之を研究したならば未知のものも澤山あり、また開墾(かいこん)などのために破壊せられて世に知られざるものも鮮少(すくな)くはないと思はれる。石窟(どるめん)は石器時代文化の遺物で、古墳時代は後れたる金属器時代となつてゐるが、我が日本民族の大部は、人知蒙昧(もうまい)の原始時代民族より次第次第に気候、産物、風光の美なる花彩(くわさい)列島たる我が国土に転住し来りしもので、殊に古墳発掘により、曲玉(まがたま)、管玉(くだだま)等の大陸産寶石等によりて製(つく)られたる装身具の発見により、しかもそれ等の貴重品が南下するに従ひて其の数を減じ、壹岐よりも松浦地方、松浦地方よりも筑後豊後と次第に発掘の貴重品が減少するのは、移住民族が北方より次第次第に土着し、また移南するに従つて携帯品も其の地方に埋葬残存するからであらう。
斯様に我が松浦地方は、有史以前より大陸交通人文移入の門戸となり、日本文化は松浦より傳来し、松浦は日本文化の母体と云つてもよいかと思ふ。有史時代に入りでのことは前既に述べて居ることである。松浦潟が我が国の代表的海岸美を有すると共に、開国史の源泉地たりしとも云ふべきものではなからうか。
産 業
松浦潟沿岸地方は丘陵性の高地多くして平野乏しければ、農産地方としては言ふに足りない。しかし米穀を他府県に仰ぐ必要はない。大体に於て自ら産し自ら消費するには余裕がある。殊に蔬菜果実に至りては優秀美味なるものありて、平原蜜柑の如きは遠く満鮮地方にまで輸出し、濱崎、鏡地方の西瓜は福博地方に、厳木方面の梨蜜柑は佐賀地方へ移出し、唐津町附近村落の蔬菜は優良なる季節物を出す。されど主要産物は、石炭と水産物である。石炭は内地及び南支、シンガポール地方に輸出し、魚類は福博地方、下ノ関、坂神地方等に盛に移出せられまた支那にも輸出す。松浦地方で最も美味にして新鮮なるものはこれ等魚類である。今主要産物及び土産物(みやげもの)類を左に掲げてみやう。
石 炭 産額 大約百萬噸内外
産地 相知、岩屋、厳木(きうらぎ)、石炭会社所属炭坑、
莇原(あざみばる)等
水 産 産額 約四百萬円内外(県下全産額は約五百萬円)
種類 鯛、鰯、鯨、鰤、青魚、烏賊、其の他雑魚類
名 産 食品 松浦漬、豊城漬、玄海漬、酢の素、雲丹(うに)、
海鼠膓(このわた)、烏賊(いか)、干鰯、
目貫鰯(めぬきいわし)、海苔(のり)
蜜柑、西瓜、梨、松露饅頭、其他菓子類
松浦漬は此の種産物中の元祖であつて、其の佳美は世既に定評あるところにして,事業益々隆盛に趣くに至る。其の他缶詰製品が相次で擡頭し来り、今は松浦名物の品種多様となるに至つた。
器物雑品 唐津半紙、唐津焼、布海苔(ふのり)、竹細工
唐津半紙は楮製なれば紙質強靭くして世に賞讃せられ、唐津焼は茶器床置として雅致に富み数寄者に珍重せられてゐる。
工 業 機械類 唐津鐵工所の製品は日本有数の精良品として名高い。
唐津製鋼所の製品も次第に名あり。
交 通
陸 上 交 通
◇鐵 道
省線 唐津線は、佐賀駅を起点とし長崎線久保田駅より分岐(ぶんき)して西唐津駅に達す。一時間半にて唐津駅に着することが出来る。沿造には名産小城羊羹の産地小城(をぎ)駅を過ぐ。莇原(あざみばる)、厳木(きゆうらぎ)、岩屋、相知(あうち)、山本の各駅よりは石炭の積載を為す。莇原駅より南方一里に、日本最初の聖廟(孔子を祀る)所在地多久がある。厳木駅より二十町位のところに佐用姫屋敷跡あり。岩屋駅より半里の地には鬼子岳城主波多氏の幕下鶴田越前守が居城獅子ケ城趾ありて、佐賀城主龍造寺隆信に破られしところである。相知駅より西万十町にして鵜殿窟(うどのいはや)、北方一里にして見帰瀧がある。鬼子岳の古跡を探らんと欲せば山本駅に下車し、岸岳線に乗り更へるがよい。
北九州鐵造(私設鐵道)
本鐵道は博多駅より風光美なる北九州海岸を傳ひて東唐津駅に達してゐて、約二時間を以て通過することが出来る。東唐津、虹の松原、濱崎の三駅は霓林の起、中、終の三地点となり、霓林、鏡山、玉島州、浮岳方面を探賞したり、海水浴に出入する人に取りて都合よき駅である。鹿家(しかゝ)駅は串崎の汐干狩、磯遊(いそあそび)を為す人の乗り降りするのに便利のところである。深江駅は子負(こふ)の原八幡腹帯石を拝せんとするものと、深江海水浴場に遊ぶ人の昇降(しやうこう)駅である。前原駅は、北二里にして芥屋(けや)の大門(おほと)に至り、南二里半にして雷山の雷(いかづち)観音、神籠石(かうごせき)などを探り、羽白熊鷲(はじろくまわし)のことども偲(しの)ぶ人達の出入するに便宜な駅である。周船寺(すせんじ)駅の東十五町にして怡土県主(いとあがたぬし)の墳墓があり、吉備眞備が太宰府の海防のため築きし怡土城趾は南一里の高祖(たかす)山にある。今宿で下車すれば、弘安四年元軍大挙襲来せし時の遺跡遣物を見ることが出来る。防塁の跡は東は福岡市の東方に多々良濱より、西新町生(いき)の松原の北岸に浴ひて今津に至る二十哩の間、今猶断続的に往事の面影を存して、今津防塁の跡が最も著名である。駅の北方一里の地には元寇殲滅碑、首塚等が閑雅の松林中に設けられてゐる。又附近に勝福寺あり、大泉坊と共に當時の遺物を蔵して、國寶に指定せられたるの少からす、寺域の蟠龍の松は内務省が天然記念物として指定してゐる。生の松原は風光佳にして、九州帝国大挙農學部の演習林となり、仝醫学部附属病院の分院所在地で、姪濱(めいのはま)駅の西七町の地である。本線は景色が勝れて史蹟に富むので名高い地方を通過するので気持ちの良い鐵道である。
◇軌道
東は濱崎より、虹の松原を樅貫して、三百六十間の松浦橋と同じ長さの橋で松浦川を横ぎり、唐津町、西唐津を経て佐志に達す。此の間三里強を走つてゐるのが唐津軌道車ある。擾音(ぜふおん)をたてゝ往来するのも余り好い感じもせぬので、遠からず電車として生れ変ることゝなつてゐる。
◇自 動 車
自動車は湊、呼子、名護屋、有浦、七山、伊万里に定期運転を為してゐるが、何時にても唐津町大手口なるモダーンモーター商会や其の他随所で随意に其の需(もとめ)に応ずるものである。また北九州鐵道東唐津駅は、大手口に切符発売所を置き、仝所と東唐津駅間の連絡自動車を出してゐる。
海 上 交 通
石炭輸出のため出入り汽船は、内地及び南支那地方に航路を有するが、華客(くわかく)貸物両用船の国内航路は、坂神地方や長崎方面との連絡機関となつてゐる。
発動機船又は小形汽艇は、松浦沿岸の港湾各自並に壹岐との間に頻繁に往来してゐるから、近海航路は思ひのまゝに活動進退自由である。
旅館及び娯楽機関
遙覧客の便宜のため、唐津町及び附近の旅館、旗亭(きてい)並に娯楽場等を挙げておかう。
旅 館
◇一等旅館 (唐津町)
博多屋(紺屋町) 新岩井屋(本町) 晴芳館(京町) 長崎屋(大手ロ)
◇二 等 旅 館 (唐津町)
本家岩井屋(大手口) 元岩井屋(本町) 木村旅館(西の濱)
希望館(西の濱)房屋(西寺町)
◇三 等 旅 館 (唐津町)
橋口屋(大石町) 花屋(大石町) 鹽屋(材木町) 古元屋(木綿町)
佐賀見屋(木綿町) 恵比須屋(木綿町) 壹岐屋(京町)
千歳屋(停車場通り) 玉屋(停車場通り) 小城屋(停車場通り)
常盤屋(紺屋町) 榮屋(西寺町)
◇唐津町附近
虹の松原に…海濱院ホテル 二軒茶屋
濱崎に…潮湯旅館兼営の簡易食堂あり。
外に…西唐津、呼子方面にも相當の旅館あり。
◇旗 亭(りようりや) (唐津町)
中道屋(木綿町) 中住屋(刀町) 菊水(本町)一方(中町)
綿屋(木綿町) 水月(木綿町)
松葉(木綿町) 梅月(中町通) 自由亭西洋料理(木綿町)
千鳥館食堂(唐津駅前)
食堂まつら(東唐津駅)
◇劇 場
近松座(朝日町) 朝日座(西唐津) 唐津座(材木町)
◇活動写眞館
世界館(朝日町) 日の出館(材木町)
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末盧国に著者松代松太郎の記事が掲載してありました。常安弘通氏の投稿です。 「唐津松浦潟」を理解する上でも松代氏の人となりを知ること必要かと思いましてここに掲載させて頂きました。 また、平成18年7月25日に松代氏の孫に当たる方から連絡を頂き、「唐津松浦潟」のネット化に対してご了解を頂くばかりか、感謝しているとのお言葉を頂き、ただただ嬉しき限りです。 出来ることなら下記の「東松浦郡史」のネット化も実現したいと思っております。 |
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「末盧国」昭和48年12月20日より | ||
東松浦郡史 復刻版新装 | ||
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松代松太郎翁 郷土史研究の先駆者として唐津・松浦地区にその人ありしと回想される松代松太郎は東松浦郡名護屋村字古里で、父松代嘉太郎、母同マツの二男として明治七年二月に生れた。生家は油類の製造販売を家業とし、食用油の原料菜種子を壱州、対州方面から仕入れて自家製造したほか近隣部落に対して油の小売までもした。屋号を松代屋といっていた。名護屋尋常小学を卒えると呼子の高等小学校に進み、更に唐津中学校の前身・大成校に一時入学して勉強した。両親嘉太郎夫妻は無学であったにもかかわらず、六人の子女を渡船で呼子まで通学せしめたというから時代意識の高い人だったにちがいない。 その頃、佐賀に県立尋常師範学校が開校され、県下各地より選抜されて入学したものの中に、唐津からは丸山金治、中村要蔵。鏡村から小松謙吉。鹿島町から福岡イクがいた。いずれも明治二十九年に卒業したが、松代松太郎の卒業成績は優秀で二番だったと、よく子供たちに自慢話をしていたという。卒業と同時に佐志村の黒崎尋常高等小学校の訓導兼校長に就任したが、前記福岡イクも同校の訓導に就任、ここで両人は結婚している。明治三十二、三年頃のことである。松代松太郎は向学心を駆って上京を志し、妻イクを黒崎校に残し東京歴史伝習所に学んだ。歴史と地理を専攻のうえ文部省の中等教員検定試験に合格して帰郷した。唐津中学校に歴史地理の教諭として就任したのは明治三十九年、大正九年まで十五年間の長期間同校の教壇に立っているが「東松浦郡史」の第一回の出版は大正四年であるから、中学校の先生時代の労作といえる。当時、学問的に郷土史の調査に手をつける何人もいなかった。松代松太郎は学校勤務の余暇を専らこれに当て、資料蒐集のため郡内あちこちの部落を遍歴しては旧家を訪ね、また神社、仏閣の由緒を丹念に調査して廻った。たまたま当時代に生田徳太郎が中学校長であり、生田校長は松代松太郎の郷土史勉強を高く評価して激励し続けた。蒐集した郷土資料の整理を完了して出版の運びとなるまでには、唐津大手口の書店木下愛文堂店主木下吉六、魚屋町住の事業家岸川善太郎たちを筆頭に眤懇の先輩知人多数がいて後援の音頭をとり、東松浦郡教育会が編纂発行人となった。東松浦郡史が世に出ると他の郷土史研究家たちから辛らつな批判を浴せられはしたが、松代松太郎は性来の寡黙を堅持して意に介せず「無より有を生み出した」ほこりを独り痛感していた。 松代松太郎は唐津中学校を退任して大正十年県立長崎中学校に転任して二年間、今度は県立佐賀高等女学校に転任して昭和八年まで在勤した。ここで定年退職を迎えているが、長崎、佐賀の各高等女学校勤務は本人の意志に基づくものであったかどうかは知る由もない。その後、戦時中の教員不足のために、昭和十七年から若干期間を唐津中学校に、また唐津高等女学校でも教鞭をとり、同二十年十月三十日退職という辞令が残っている。松代松太郎は唐津中学校に勤務するようになって住居を佐志から唐津町桜馬場に移して晩年に至るまで定住した。文字通り晴耕雨読に終始したようであるが、その間にも「唐津古寺遍歴」と題する著述を公刊するほどの勉強家であった。八十歳の高齢に達すると漢詩作りに没頭し、日記を漢詩綴りで書き、辞書と首つ曳きの日常を送った。往年の頑固親爺も、晩年は幾分やわらいだようだったが、世俗の煩鎖からは殊更に逃避した。老衰のため昭和三十三年十一月二十六日、八十六歳の天寿を完うした。 妻、松代イクは鹿島の旧家福岡家の出であるが、夫松太郎とともに佐志黒崎尋常小学校に勤務のあと、明治四十年四月創立された唐津町立唐津女学校の助教諭に抜擢され、四十一年同校が町立唐津高等女学校に昇格とともに教諭に任ぜられ、更に県立唐津高等女学校に引つづいて教鞭を執った。大正十二年九月十五日退任後は家庭にあって茶道に精進し、後進の指導に当った。茶道宗偏流の准師範代として同流の興隆に寄与した。昭和三十六年四月十九日、八十八歳で永眠。 東松浦郡史の複刻版は東京の名著出版社から本年九月末刊行されたが、これは大正四年東松浦郡教育会から公刊したものでなく、大正十四年に育英財団久敬社が刊行した改訂増補版の復刻。松代松太郎の著述は郡史のほかまだある。 ▽唐津松浦潟=昭和二年唐津木下愛文堂刊 ▽賢君寺沢志摩守=昭和十一年福岡金文堂刊 ▽郷土唐津=昭和十二年唐津市教育会刊 ▽唐津古寺遍歴=昭和二十九年久敬社唐津本部刊 ▽未定稿に「これが一生」と「名護屋陣中の豊公」など |