玄海国定公園 松浦潟 史蹟名所観光案内より

著者:梅崎数馬
発行者:唐津新聞社


昭和三七年 八月二八日
 仝上
 唐津山笠
 由来@

 唐津神社は唐津線唐津駅の北方五百米余の処に在って御祭神は住吉三神と此地の地頭神田五郎宗次である。同社の創始は遠く神功皇后新羅を征し給う時、海波縹渺際涯なく舟師の向う所を知らず是れに依って海辺に住吉三神を祀り祈念して「吾をして新羅を征せしめんと欲せば一条の舟路を示されよ吾、は以て師を進めん」と念じ給えば当夜海上に忽ち一線の光輝現れて皇軍を導くものの如し。皇后舟路を見定め無事新羅征伐の功を挙げて凱旋の時に宝鏡を捧げらる夫より数百年を経て皇統四十六代孝謙天皇天平勝宝七年に此地の地頭神田宗次海浜に霊光の輝きいるを見て海岸にいたり一個の宝鏡を得たり、之正しく神功皇后の捧げられしものならんとその旨を奏聞されしところ叡感斜ならず勅令を下して号を唐津大明神と賜う、時が天平勝宝七年旧九月二十九日であった。其後神田氏をはじめ郷土人の海上安全諸業繁栄の神様として崇敬益々加はり文治二年神田広公の代に祖先宗次公を合祀されて居る。其の後毎年九月二十九日現今は十月二十九日の秋の大祭日には各町共前日に最近新たに出来た格納庫より山笠を引き出して夫々手入れをなし当日は午前二時頃より笛・太鼓鐘の調子に合せて暁の暗を破って勇壮なる三つ囃の音に唐津全市民の胸を湧き立たすのである。唐津年中行事のうちでは郷土色彩の最も濃厚なるものであろう他郷に出られし方や東京久敬社在宿の諸君の唐津神祭の山囃しをされる其の気特は筆者も在京五十年前の当時を思い起すのである。

唐津山笠一覧表
一赤獅子刀町文政二年
二青獅子中町文政七年
三浦島に亀材木町天保十五年
四義経の兜呉服町天保十五年
五鯛魚屋町弘化二年
六鳳凰大石町弘化三年
七飛竜新町弘化三年
八金獅子本町弘化四年
九信玄の兜木綿町明治二年
十謙信の兜平野町明治二年
十一頼光の兜米屋町明治二年
十二珠取獅子 京町明治八年
十三蛇王丸江川町明治九年
十四鯱水主町明治九年
以上奉納の年号


昭和37年9月4日
唐津神社秋例大祭山笠曳きの現状A

 唐津神社秋季例大祭の有名なる山笠十四台は昭和二十三年一月二十三日文部省より佐賀県重要文化財に指定されたのである。九州は勿論日本全国にも比類なきものであることは我が唐津人が松浦渇の国定公園海岸の美と共に大いに誇る唯一の存在である。其の起りとも云うべき由来は前項に記載したので本項は其の大祭礼に仕えて山笠を曳き行く当日の状況を記観し御神輿に供奉し唐津っ子の旺盛なる日頃の鋭気を発揮する現況の大略を記すことにしました。毎年十月二十九日の当日に先だって二十八日格納庫より各町に曳き出し諸手入れをなし二十九日午前二時には各町老幼負富の差別なく同じハッピ胸あて手甲パッチ麻うら豆絞りの手拭鉢巻き姿にて山笠には幕を張り高燈籠を飾り、長さ二十米余りの太綱に冬町内の老幼男子が二列に並び「エイヤ」と笛太鼓鐘の三つ囃しの内に唐津神社前に勢揃いなす時は東雲の空未だに明けやらぬ午前三時である
 直ちに厳かなる暁の祭典は開始される。山笠総取締玉串拝礼各町勢揃一同拝礼唐津市長外執行部観光商工関係者の拝礼あって、当日指揮に要する采配を各町取締他に授与して夫々の山笠に附添い午前九時諸準備完了し先頭一番山赤獅子の刀町二番中町三番材木町比の間に御神輿の列続いて呉服町魚屋町大石町新町本町此処に大石大神社神輿列を入れて木綿町平野町米屋町京町江川町水主町の順に市内を巡行途中それんぞれ三つ囃の道囃は或は援やかに又急に奏しつゝ西の浜のお旅所に各山笠が繰り込むと一段の競り囃となり急テンポの調子となるや、その意気は絶頂に達し観衆をして思わずエイヤエイヤのかけ声に巻き込むのである。正午に大祭を行い各町思い思いに海浜に幔幕を張って当日主従貪富の差別無く只管に神徳を仰ぎ商談俗事を離れてお重を開き和気あいあいの裡に一日過すのである、かねて町内不和の人も比の日に仲直りが出来た話題は多くあるとのことである。午後四時午前の順序にて大手口に出て神輿は元宮に山笠は各町に曳き行き翌三十日前日同様の順路を市中行進をなすのである三日間の唐津供日である。



昭和37年9月11日
唐津神社山笠奉納偶意に就いてB

 唐津市の年中行事のうちで最も郷土色彩の濃厚なのは秋の神祭の山曳きであろう愈々十月二十八日の宵祭になれば全市各戸の店頭には幔幕が張られ街路は掃き清められ町内の市民は只もう山笠の行列を待ちつゞけると云う風情である其処に唐津神社の二台のおみこしが神威おごそかに采配の指揮によって山笠が三つ囃の緩急に従って進み行く有様は如何なる人にも日頃の恩怨を今日一日は棚上ぢやと只一途に「エイヤエイヤ」と掛声勇ましく通り行くのである此の有様は次に陳ぶる日本の封建時代より遺された気分の表われで、日頃の感情を離れ只管に御神威に浸る全氏子の奉仕の心の表現で、往古から伝わる習慣である
 前項にも記したる一家の内でも当日のみは主人と使用人との区別をもかなぐり捨て一視同仁同じ氏子の一人となって無礼講に近き有様である其れは次の如き偶意が伝えられているが現在はその気分が大いに和らいでいる。我が日本国も長い間鎖国時代の封建政治で国民を士農工商に区別して、武士は国を護るもので農工商人は其の下風に従い、農には年が年中田畠を耕し作り上げた米を納めしめ山林より薪炭を運ばせて其の収入は六公四民などと唱えて、上納米を取立て納め金を絞り上げて商工の者共には使用の衣服、家屋調度品に到るまで特価にて代金を下げ渡す仕組となって居たのである。日本国も当時は国民教育は全然無視され、武士のみは軍学や兵学書に武道を唯一の修業として教育したものて、其他の子弟教育は寺小屋の和尚さんや不平の浪人武士の手習師匠さんによって習字をはじめ商売往来や千字文の書方位が関の山であった。故に農工商の人達は来る日も来る日も頭が上がることなく何時も不快の雲で抑え付けられて踏まれ蹴られるのはまだしも、時には男のシャツ面に睡きをかけられても抗議の申立ては許されず場句の果は長の入牢無礼者切捨御免などの行為は到る処に超き封建制度の武士最高の時代は農工商の人達は頭が上がる日はなかったのが、年に一皮の唐津明神様の山笠曳き奉納二日間の無礼講は如何に農工商の人達に壮快なる気分をつたえられたかを察することが出来るのである。此気風が唐津神社の御神威のお蔭によって其の鬱憤を晴らしたと云う偶意があつたと、唐津が生んだ山笠曳きの采配を振った元唐津日日新聞主筆故富永雲外君の「珍派哲学山曳研究」にも記載されている。