奥村五百子刀自年譜

弘化二年(一八四五)五月三日、唐津中町高徳寺に生る、父は二条左大臣治老公の三男寛齊公の実子奥村了寛。母は唐津藩士山田円太夫の長女浅子。この年七月英船長崎に来る。翌三年二月仁孝天皇崩じ、孝明天皇即位。

嘉永二年(一八四九)五歳。音楽、舞踊に趣味を持ち、三味線の稽古を始む。

仝 四年(一八五一)七歳。唐津神社司官戸川惟誠氏に入門、読書、習字を学ぶ

仝 六年(一八五三)九歳。この年六月米使ペルリ浦賀に来る。翌安政元年.米英露と和親条約締結。安政二年、十一歳。この年江戸大地震、藤田東湖圧死す。翌四年、十二歳のとき異母妹七百子生る。

安政五年(一八五八)十四歳。春より家事、裁縫の道にいそしむ。この年九月安政の大獄おこる。十一月、僧月照、西郷吉之助投海す。

安政六年(一八五九)十五歳。春、単身大阪の叔父山田勘右衛門を訪ね、滞留二ケ月にして帰唐。翌万延元年三月桜田門の変、井伊大老刺殺さる。国事日に急を告げ、鎖国連夷の論国内に沸とうす。

文久二年(一八六二)十八歳。この年七月、生麦の変。十二月、高杉晋作ら品川の英国公使館を焼く。

仝 三年(一八六三)十九歳。父の命を奉じ、男装して長州へ使す。高杉晋作と初対面。この年七月.英艦鹿児島入寇。八月.七卿長州に走る。

元治元年(一八六四)二十歳。父と兄のために東西に使し、各方面の志士と交を結ぶ。この年八月、幕府長州征伐を布告。英、米、仏、蘭四国下ノ関を砲撃す。

慶応元年(一八六五)二十一歳。秋、福岡の変おこり馳せ赴く。時すでにおそく加藤司書ら亡し。途中大西郷に逢う。太宰府に野村望東尼を訪ねるなど昨年来しきりに太宰府、福岡、博多の間を往来す。十月.小笠原壱岐守長行老中再任。

慶応二年(一八六六)二十二歳。福成寺住職大友法忍に嫁す。この年、孝明天皇崩御.正月、明治天皇即位。翌三年、父大病のため家に帰りて孝養。

明治元年(一八六七)二十四歳。二月、父了寛卒去、行年五十三歳。この年正月鳥羽伏見の戦、奥羽平定、東京行幸。十二月九日王政復古の大令発せらる。

明治二年(一八六八)二十五歳。春、夫大友法忍病死のため生家高徳寺に帰る。父と夫を失い、淋しき心に鞭つて国事に奔走す。

明治五年(一八七二)二十八歳。水戸浪士鯉淵彦五郎と再婚し.平戸に移り住む。この年、東京、横浜間に初めて鉄道成る。

明治六年(一八七三)二十九歳。長女敏子生る。この年、西郷隆盛征韓論に破れ職を辞す。十一月三日、天長節に初めて各戸国旗を掲ぐ。翌七年、佐賀乱おこる。

明治八年(一八七五)三十一歳。夫の故郷水戸に赴く。同地にて二女光子を産む。この留守中、母浅子死す。行年六十六歳。翌九年、唐津で古着商を営み、生活と闘う。

明治十一年(一八七八)三十四歳。長男勢一生る。前年兄円心は釜山に渡って布教に従う。西南の役おこり、西郷隆盛、桐野利欲ら自刃す。

明治十二年(一八七九)三十五歳。私淑せし英雄大西郷の死は五百子夫妻を極度に落胆せしめ、殊に彦五郎は、これが為に世の無常を感じ、再び国事を語らず、全くいんとん的生活に入り、爾後五百子との間日に日に疎隔す。

明治二十年(一八八七)四十三歳。互に相容れぬ主義上の争から.十七年間の夫婦生活を解消して、九月彦五郎と離別、三児を伴いて唐津に帰る。

明治二十二年(一八八九)四十五歳。政治および地方間題に熱中し、頻りに東京へ往来す。唐津で小笠原長生子爵と初めて面接爾後親交を結ぶ。この年、二月十一日憲法発布。大槻文彦の「言海」出版。福地桜痴歌舞伎座を起す。

明治二十四年(一八九一)四十七歳。四月上京、諸名士を歴訪。樺山中将の紹介で農商務大臣榎本武揚と面会し唐津海軍用地払下げの件を請い、翌年許可され、公有地となる。二十三年以来、民党を率いて選挙運動に熱中し.天野為之氏のために奔走す。

明治二十六年(一八九三)四十九歳。上京、大隈重信の知遇を享け諸名士と交遊。佐賀県下に養蚕を奨励し製糸会社を設立。また知事を説いて補助金を受け、桑苗十万本を購い各村に配布。一方二女光子を製糸業見習いのため群馬県に送る。

明治二十七年(一八九四)五十歳。松浦橋の架橋に盡力、榎本農商務大臣その他時の顕官を説いて山林払下に成功し、三百六間の長橋成る。明治二十九年二月竣工す。この年、八月、日清戦争起る。

明治二十八年(一八九五)五十一歳。唐津開港運動に努力.上京して榎本、樺山その他要路と膝詰談判の結果ついに目的を達成した。翌年.松浦橋竣工、唐津貿易港認可。五百子の功績に対し唐津の人々心より感謝す。

明治三十年(一八九七)五十三歳。六月.兄円心とともに上洛。円心は東本願寺に対し韓国布教に関する請願を成す。大谷法主の召により東上。近衛公、円心に東洋の大勢を説く。九月.東本願寺の許しを得て布教のため朝鮮光州に入る。十月、五百子も光州に赴き布教地における兄と苦労を頒つ。光州に実業学校設立の意図を抱いて下旬帰国し、各関係方面と懇談をとげ実行に決す。

明治三十二年(一八九八)五十四歳。四月.準備や調え娘光子夫婦その他一行九人光州に赴く。七月帰国.九月再び渡韓し同月.実業学校上棟式を拳ぐ。大隈重信より農具の寄附を受く。

明治三十二年(一八九九)五十五歳。光州日本村その緒につく。七月病のため恨をのんで帰国。同月下旬東上、東伏見宮妃殿下に召され、朝鮮にわける実歴談を申上ぐ。八月.再び東伏見宮に、十月閑院宮に拝謁。十一月三日 三度東伏見宮に拝謁し御染筆の色紙を賜わる。十二月.近衛公その他の後援により南清視察の途に就く。唐津に立寄り越年。

明治三十三年(一九〇〇)五十六歳。 正月、門司出帆上海に向う。上海.福州、南京方面視察。たまたま北支那に蜂起した義和団匪の乱南支那におよび旅行危険のため視察を打切り、朝鮮に廻り京城、光州を訪ねて七月帰国。東京で視察報告をなし、併せて北清の皇軍へ慰問使派遣のことを提議す。八月.京都で東本願寺当局を動かし、北清軍慰問のため連枝派遣を決せしむ。十月、先廻りして仁川に赴き一行に加わる。十二月.北清慰問を終え.帰途京城に立寄り、韓国皇帝に謁す。北清慰問の結果軍人遺族救護の必要を痛感し、仁川および釜山で講演会を開く。満堂みな感涙す

明治三十四年(一九〇一)五十七歳。一月上京、近衛公爵邸で軍人遺族救護の件を協議。東伏見宮妃殿下のお召しにより、北清慰問の報告と軍人遺族救護の急務につき言上。二月六日.貴族院議長官舎で愛国婦人会創立の相談会を開く。二月一日、すべての準備成り、九段階行社に愛国婦人会発会式を挙ぐ。席上.熱弁を揮い軍人遺族救護の要を叫び声涙ともに下る。満堂泣かざるものなし。四月、関西、中国、九州遊説の途に上り九月帰京。十二月さらに大阪、兵庫、神奈川各地を遊説。

明治三十五年(一九〇二)五十八歳。三月.京都.滋賀、岐阜、愛知、三重各地を巡歴、六月帰京。七月さらに北海道、十月長野.新潟地方。十二月再び四国地方を巡歴し年末帰京。

明治三十六年(一九〇三)五十九歳。四月より八月にかげ京都、和歌山、三重、栃木 千葉、山梨、石川各地。十月より翌年二月にかけ静岡、愛知、福井、滋賀、京都 大阪、愛媛、大分各地を巡歴。

明治三十七年(一九〇四)六十歳。二月、大分市演説会場で演説中喀血。遊説を打切り唐津に帰って療養。この年一月、近衛篤麿公卒去。二月六日、日露国交断絶.同月十日露国に対する宣戦詔勅下る。

明治三十八年(一九〇五)六十一歳。六月、病余の身を駆って在満皇軍慰問の途に上り、前後三ケ月におよび屍山血河の間を跋渉し、さらに前線将兵の労苦を犒い且つ英霊を弔って帰国。十一月.九段階行社で慰問報告演説会を聞く。この年十月十六日、日露講和に関し詔勅下る。

明治三十九年(一九〇六)六十二歳。四月一日、勲六等に叙せられ宝冠章を授かる。五月二十日、皇后陛下に内謁を賜う。七月、療養のため会を辞して唐津に帰る。

明治四十年(一九〇七)六十三歳。一月、京都に上り大学病院に入院。二月七日逝去。特旨を以て正七位に叙せらる。二月七日、京都東本願寺大学寮で愛国婦人会会葬。法名、唯信院釋尼貞道。その後、唐津の生家高徳寺に葬る。

昭和五年(一九三〇)唐津町の有志間で奥村刀自顕彰の声おこり.やがて、銅像建設のはこびとなり、三月二十三日、城内二の門広場に法衣をまとった等身大の銅像が建ったが、大東亜戦争中昭和十九年金属回収法の犠牲となって徹去された

昭和十八年(一九四三)九月二十九日、財団法人唐津奥村五百子顕彰会設立さる。
  名誉会長小笠原長生、会長岸川善太郎。

昭和三十四年(一九五九)唐津市婦人連絡会(会長加藤エイ)で奥村刀自の銅像を新たに鋳造して再建の議がまとまり、市体育館広場に新たに銅像が建設され、四月八日盛大に除幕式が挙行された。

昭和三十五年(一九六〇)奥村刀自の記念品を一括して小笠原記念館に保管を依頼したる機会に三月十一日より四月十日まで、奥村五百子刀白回顧展を催おし、刀自の芳徳業蹟を偲ぶ記念品を一般に公開。