2018.10 友人が変なものを持ってきた。見ると唐津の観光案内
久々にネットにアップする病気が出た。
出来る限り原文に忠実にしましたので、現在の表現とは合わないところが多々あります。
これを引き合いに出して文書を書いて貰っては困ります。あくまでも昭和10年当時の資料としてご覧下さい。呉々もお願いします。                        2018.10.19
 開國三千年来我が日本が東洋先進への文化吸収に対して開放し、而も亦我國威を四海に輝した唯一の門戸である我が松浦の里は、又記紀万葉の古からの詩と史の宝庫と、高滔雄偉しかも繊細で典雅比なき海勝の極美とが渾然和合してこゝに近世の大文豪近松門左衛門を育くみ江戸仁侠の華幡随院長兵衛を産し、明治の女傑奥村五百子を生んだのであります。今我が唐津がもつ獨得な面影あ一片を畫いて見ませう。

沿 革

昔、神功皇后が三韓征伐に御船出遊ばされし地、松浦佐用姫に跡慕はれし大伴狭手彦、 叉は遣唐遣随使の渡航の地、降っては豊太閤の朝鮮征伐の地等々により唐津が古来支那朝鮮即ち「カラ」に渡る「要津」であった事は唐津の字句より見ても瞭であります。
豊臣秀吉征韓の後慶長七年から慶長十三年にかけて、其の臣にしてその當時徳川家康に仕へて居った寺澤志摩守廣高が松浦川を改修し満島山を利用し舞鶴城を築き、肥後天草郡共十二再三千石を領しておりましたが、二代高堅に至り寛永十四年天草教徒の乱により除封せられ、そのため正保四年十一月江戸で自尽して遂に寺澤家は断絶し、翌慶安元年一年間は天領となっておりました。越えて同二年大久保加賀守忠職播州明石から来て 二代忠朝迄二十九年間居城し延寶六年下総佐倉に移りました。それと同時に佐倉から松平和泉守乗久が来り、乗春、乗邑となり元禄四年志州鳥羽の城主土井周防守利益と交替しました。土井家は、利實、利延、利里と四代續き、寶暦十二年九月下總古河へ轉封になり代って水野長十郎忠任が三州岡崎より来ました。水野家は忠鼎、忠光と續き忠邦となりましたが、これが文化九年です。この時迄に封は削られて六萬石となっておりました。この忠邦と云ふ人は大志があり閣老となって天下の大政に参興しようと思ひ六萬石では資格かないため幕府に乞ふて文政元年遠州濱松へ替りました。これが遂に老中になって天保の大改革を行った水野越中守です。當藩には七年居りました。最后に水野家と代って奥州柵倉から乗込まれたのが小笠原主殿頭長昌です。小笠原家は長泰・長會・長和、長國と続きました。この長國が最后の藩主です。唐津初代の城主長昌の長子か壱岐守長行と云ひ藩主にはなられませんでしたが仲々の英才で、幕末史上の一異彩でした。号を明山公と云ひ文久二年九月には老中格となられました、昨今文に綴られ劇に仕組まれて居るのはこの人です。この明山公の長子が、さきには東宮御學問所幹事であり、又前より金波楼主人として文筆に秀でておられ現、宮中顧問官海軍中将の長生子爵です。


舞鶴公園

 舊城址で明治九年官に請ふて公園としたもので面積一萬三千坪あって東南北三面海に囲まれ巍然として聳えております。
 この上段から見た眺望こそ實に遊覧都市唐津のチュピカルタイプであります。即ち山も、海も、橋も、街も、村も一眸の裡に見下され、脚下に横はる松浦の静流、三百六間の長橋松浦橋の上下をゆきゝする夢の様な白帆、その海との間が虹の松原、背後に情話の歴史を彩る領巾振山、北が高島、鳥島、大島、神集島を抱擁する畫の様な唐津湾、西は西日本随一の海水浴場たる西の濱の白砂、實に天下の絶景であります。又公園には多数の櫻樹あり、楓樹あり、藤架あり、一年を通じて観光の客が絶えません。因に舞鶴と云ふ名は、右方虹の松原が鶴の右翼に、西の松原が左翼に、濁内の鳥島が頭に、市街がその腹に、恰も大鶴か双翼を張って冲天に舞ふに髣髴たる故その名が生じたものでありす。


海水浴場

 東の濱西ノ演二夕子の各海水浴場があります。共に砂白く水清く遠浅で理想的の浴場です。殊に西の濱には鐡道省営で、湘南の避暑地逗子、鵠沼に次ぎ全国で第三位目の「海の家」が建設され、尚簡易保険局の無料休憩所も出来、他の幾多の賣店中に群を抜いております。各所に聳ゆる寄贈の塔、潮風に翻る新聞社の社旗、沖は海も空もウルトラマリンの一色、それを彩る白き鴎、帆、入道雲!濱は色鮮かなビーチパラソルと背後に並ぶテントのむれ、雲の如き人魚のむらがり、藻に揺らぐ磯の香、我が世の夏は此處に集る かと息ふばかりであります。
東の濱は満島に、二夕子は西の濱の西續で赤十字支部主催の虚弱児童の保養所が開催されます。又西の濱より各所に遊覧船が出て附近の名勝を満喫する事が出来ます、毎夏の浴客實に数十萬を数へます。


虹の松原

唐津市鏡村濱崎町に跨り弓形の地形面積實に二一六、三七ヘクタール木材積三萬六千百二十立方米です。万松一路白波の上に翠を連ねて玄海の清波に浮び、机の様な領巾振山の晴嵐に映じ壮麗の景、優艶の状得も言はれず、特に夕陽燃ゆるが如く映えて波の為めに紅なる時、海濱二里の砂白く並松萬株翠滴り紅、白、青、の色を重ね宛然たる二里の大虹をなす時、将又驟雨一過洗ひ磨かれし東西に懸る平面的な地上の虹と紺碧の空高く南北に懸る立体的の天然の肛とが下と上とで十字を江がく時、唐津の虹の松原か、虹の松原の唐津か形、量、質に於て海内無双日本一と云ふのも敢て溢美ではありません。史名蹟勝天然記念物指定地であります。


領巾振山

又の名鏡山とも云ひます。虹の松原の南に聳え、玲瓏秀麗な屋形状をなしております。
此の山は三保の羽衣、與謝の浦島と共に我國三大傳説の一なる松浦佐用姫で有名であります。宣化帝の御代(今から千四百年前)友邦任那を助けるために新羅征伐に遣された大伴狭手彦が渡韓の途此に滞留し篠原長者の娘佐用姫と戀を結んで船出したのでありますが、姫は想夫の念に堪へず此の山に登り、行く船を領巾振って呼び止めたのであります。然し船は止る由もないので、山より飛び降って其の跡を追ひ、五里の彼方加部島に来り、遂に力及ぼす悶江死んで其の身は石に化したと傳へられております。比の山上よりは壹岐封馬、又は日本海々戦で有名な沖の島も眺められその雄渾壮観は遊子をして思はず其の絶勝を叫ばしめます。今頂上迄自動車道路の開鑿中で頂上は殆ど平地で面積九万坪、中には池あり、丘あり、林あり絶好のゴルフリンクスであります。


玉 島 川

東二里にあります。昔仲哀帝九年二月崩じ給ふや夏四月、神功皇后は征韓の意を定め給ひ戦捷を占って比の川に綸を垂れ給まはれましたが一尾の香魚を釣らせられました。依って鮎と云ふ字が出来たと云ひます、今その垂綸石は年久しくしてわかりませんが、祠を建て玉島神社として聖母大明神と崇祀してあります。此の川たるや、瀬あり淵あり、岩にせかれて飛沫をあげる處将た青巒連亘の下深潭色濃さ處そこには名産の鮎が多く賓客が絶へません。


七 つ 釜

唐津より海上四里、神功皇后征韓の後戦捷を祝ふて御酒を軍中に賜ひ其の土器を此處に棄られたとか土器崎とも云ひます。日本の「フィンガル窟」とも云ふべく全岬柱を列べた様な玄武岩よりなり、相抱き、相重り、相倚り、相助け、峭立、斜立、横臥千姿万態造化の極致で壮観實に物凄く、梅に沿ふて巖脚に七個の横洞並列し竃を並べた様であるから七ツ釜と云ってをります。浪静かな日は皆小舟を入れる事が出来ます。眞に天下の奇勝で名護屋城趾と虹の松原と併せて唐津三代表と稱せられております。史蹟名勝天然記念物指定地です。


名護屋城趾

呼子西一葦帯水の地名護屋村にあります。蓋世の英雄豊太閤が余威を海外に致さんと欲し、文禄、慶長両度の朝鮮役に於ける我出征軍の根據地、即ち六十余州の大小名三百諸侯を二里の問に亘って陣営せしめ、遙かに外敵を脾睨した處であります。今その常時の状況を偲んで見ませう。
天正十九年正月二十日「東は常陸より南海を経て海に沿ひたる國々北は秋田、酒田、中國に至るまで高十五万石につき大船二隻づゝ水主浦々家百軒につき十人宛藏納高十万石につき大船三隻中船五隻宛」と號令し越えて三月十五日軍兵徴収割當をしました。
 四國九州は高一万石に付六〇〇人  中國紀州は高一万石に付五〇〇人
 五畿内は仝  四〇〇人   江濃尾勢は仝  三五〇人
 遠三駿豆仝  三〇〇人   これより東二〇○人たる可き事
 若州よリ能州仝 三〇〇人  越後より出羽迄仝 二〇〇人
右は来年極月に至って大阪へ可被参着候云々
天正十九年より文禄元年春迄に九州の諸侯に課して築城せしめました。城は保元の昔此の地頭たりし名護屋肥前守藤原入道経基の後裔名護屋越前守経述の居城垣添山を刺してこれを拡張したものであります。その城の結構の主なるものは本丸(戌亥の角に天守臺に高十五間八間四面、天守閣五層)二ノ丸、三ノ丸、山里丸、山里局、遊撃曲輪、彈正曲輪、水ノ手曲輪、等城の周圍十五町、城門五所
いよいよ文禄元年三月一日第一陣小西攝津守行長、第二陣加藤主計頭清正大阪出發、三月十六日には豊公京都發、後發隊も續々出發四月五、六日頃全部名護屋着、四月十二日小西勢二万發船續いて加藤勢黒田長政(三陣)島津義弘(四陣)福島正則(五陣)毛利輝元(六陣)と續きこの軍勢二〇五五七〇人。
水軍として九鬼大隅守義隆、藤堂佐渡守高虎、加藤左馬之助嘉明此勢九四五〇人
 参謀小早川隆景、總帥備前中納言浮田秀家、總奉行増田右衛門尉、石田治部少輔、大 谷刑部少輔
 名護屋在留軍勢一○二四五○人即ち總軍勢三〇七九八五人實に堂々たる勢揃であります。而して名護屋では城を中心として、徳川家康・前田利家、上杉宰相、大和中納言、堀久太郎秀政、伊達正宗等各々陣営に據っておりました。
文禄二年六月廿八日から始った和議は同五年(改元ありて慶長元年)九月三日迄四ヶ年もかゝり明の正使楊方亭副使沈惟敬が来たけれども國書不穏のため破れました。よって翌二年再征伐となり、正月十日總大將小早川秀秋副大將毛利秀元、先陣小西、加藤、後陣浮田秀家、島津義弘、黒田長政、淺野幸長等十三万の軍勢でしたが不幸にも三年八月十八日秀吉六十三才で伏見桃山で薨じ、遺言により軍勢は引上げました。これが慶長の役で前のが文禄の役です。名護屋に本営のあること前後七年でした。かくの如く全國の諸大名はこの地に集まって豊公の一擧一動によって左右せられておりました。その状況を想見するとき、如何に秀吉の力の偉大なりしかが忍ばれます。が、豊家絶後葵の花榮え誰顧るものもなく烏兎忽々こゝに三百有余年。颯々たる松籟、鼕々たる波濤に和し、徒に昔時の跡を奏して居るのみであります。


廣澤寺の蘇鐡

名護屋城趾半腹の地にあります。豐太閤の愛妾廣澤の局が居った處で、その居間の傍に根廻り約一丈、幹の周圍八尺、高さ一丈枝幹龍の如く蟠って数千枝に分れておる蘇鐡があります。加藤清正朝鮮より歸陣の折豐公に献じたものを公自ら植られたものです。天然記念指定物であります。後園に茶人千利休が植えた利休竹があります。


加 部 島

呼子の前面に横る島で、島の東端に國幣中社田島神社があります。こゝの華表は源頼光が大江山鬼退治の後肥前守として此處に来た時寄進したものであります。尚境内に想夫の極、悶死して石と化した佐用姫の佐用姫神社がありその石が神体即ち「望共石」であります。


近 松 寺

市内新町にあります。臨濟宗南禪寺派に属し後二條帝乾元元年可峯大和尚の開山で、往昔松浦郡七刹の随一で舊藩主小笠原氏の菩提寺であります。後庭の築山は曾呂利新左衛門の造ったものであります。かの江戸文化の華である元禄時代、絢爛たる文章を以て戯曲の著作に一世に冠たる近松門左衛門が幼時得道した寺で、尚没後分骨した墓があります。墓碑の銘に日く……‥後遊京師變姓名稱近松門左衛門以著作浄瑠璃為業享保九甲辰十一月二十二日卒於浪華以遺言歸葬於當時墓地(享保十二乙已六月二十四日)

 

唐津~祭の山笠
唐津年中行事のうちで郷土色彩の最も艶厚のものは秋の~祭の山笠であります。昔は九月廿九、卅日でしたが、今は十月廿九日、卅日となっております。廿八日宵祭になれば、全町各戸に幔幕が張られ道路には白砂が蒔かれて、人はたゞ山笠に酔ふて仕舞います。夜中より各町提燈に飾られた山笠は~社前に整列します。やがて朝となるや、揃ひの衣裳、絞りの手拭、メクの腹當、赤緒の麻裏、華美を極めた肉襦袢、侠せな若者小供により引出されます。これぞ一幅の繪巻物を展べた様です。笛、鐘、太鼓の交響楽、小頭の采配につれ勇壯なる三ツ囃の進行曲を奏しつゝ或は急に又緩に、人心の昂奮もいやが上にもそゝりつゝ極度の歡楽に醉ひながら市中を練り歩くのであります。各戸は知ると知らぬにかゝわらず無禮講で、誰れにでも酒を振舞ひます。それを、「唐津の三月倒れ」と云ひ、三ケ月間の収人をこの~祭の衣裳代、料理代等に費します。


    刀 町

 名稱 赤獅子
製作年月日文政二已卯年九月(今ヨリ百十六年前)
 製作者 刀 町  石 崎 嘉 兵 衛
 塗 帥 中 町  大 木 小 助
            大 木 儀 右 衛 門
            川 添 武 右 衛 門
            熊 川 休 平
 大工棟梁     高 崎 茂 吉
            高 崎 兵 藏
第一回塗替
 弘化西丁未年九月(八十八年前)
 塗 師 久留米 榎津町住人
          中 島 良 吉 春 近
          仝   小兵衛 春 幸
          原   利 八 家 次
第二回塗替
 明治五壬申年四月(六十三年前)
 塗 師 刀 町  石 崎 重右衛門
     八百屋町 畑  重 兵 衛
     中 町   大 木 敬 助

第三回塗替
 明治二十六癸已年九月(四十二年前)
 塗 師 iェ市西職人町
            妹 尾 武 七
            仝   藤 五 郎
     博 多  川 口 六 兵 衛
第四回
 昭和三戊辰年六月
 ′塗 師 佐賀市水ケ江町
           江 口 鶴 一
 費 用 壹千貳百圓


   中 町

 名稱 青獅子
製作年月日 文政七甲申年九月(百十一年前)
 製作者       辻   利  吉
 塗 師            儀  七
 大工棟梁 八百屋町 小  川  足  助
                太 郎 兵 衛
                喜  七

 第一回塗替
 弘化四丁未年九月(八十八年前)
   於高田宅(元淡島~社ノ處)
 塗 師 久留米領榎津町住人
           中 島 良 吉 春近
           中 島 小兵衛 春幸
           原   利 八 家次
第二回塗替
 明治二己巳年九月(六十六年前)
  於高田宅
 塗 師  中 町 大 木 敬 助
       八百屋町 畑  重 兵 衛
       刀  町  石 崎 重右衛門
第三回塗替
 明治三十丁酉年九月(三十八年前)
  於高田宅
 塗 師 福岡市西職人町
       林  茂 吉
第四回塗替
 昭和三戊辰年九月
 塗 師 佐賀市呉服町
       永 淵  與 助
       栗 林  茂 實
 費 用 八〇〇圓


   材木町

 名稱 浦島ニ亀
製作年月日 天保十二辛丑年九月(九十四年前)
 製作者 濱嶋村 喜 右 衛 門
 塗 師 城 内 須 賀 仲 三 郎
 費 用 (時価)八千圓
第一回修覆−第三修覆迄
 明治八乙亥年九月(六十年前)
 費 用 壹千五百圓
 大正三甲寅年九月(二十一年前)
 費 用 壹千六百圓
 大正十四乙丑年九月(十年前)
 費 用 四百圓 (尚目下壹百圓ニテ修覆中)


   呉服町

 名稱 九郎判官義経ノ兜
        (通稱判官兜)
製作年月日 天保十五甲辰年九月
    (弘化元年 九十一年前)
 製 造 者
 細工師 刀 町  石 崎 八右衛門
 塗 師 江川町  脇 山 卯 太 郎
             石 崎 利 七
     呼子小友  佛 師 庭 吉
     新 町    白 井 久 助
     本 町    永 田 勇 吉
 諸金具師 木綿町  房 右 衛 門
 費 用 不詳
 全部三十余戸一年間奉仕
 兜ノ内部二左ノ如ク朱記アリ
  金二朱、寄進、長崎豐中屋新助

 第一回塗替
 安政四丁已年九月
 塗 師 久留米   某
 錣ノ形容ヲ變更ス
第二回塗替 (御大典記念トシテ)
 昭和三戊辰年四月廿日−十月九日
 塗 師 米屋町   一 色 健 太 郎
      仝      寺 村 壽 夫
 大 工  鬼塚村  峰  磯 五 郎
 費 用 三千七百四十五圓


   魚屋町

 名稱 鯛
製作年月日 弘化二乙已年(九十年前)
第一回塗替
 明治二己已年夏 (六十六年前)
第二回塗替
 明治十丁丑年夏 (五十八年前)
第三回塗替
 大正十三甲子年夏 (十一年前)
 塗 師 佐賀市水ケ江町
           江  口  鶴  一
       費 用 三千圓


   大石町

 名稱 鳳凰丸
製作年月日 弘化三丙午年秋 (八十九年前)
 大工棟梁  本 町  永 田 勇 吉
 脇棟梁  八百屋町  小 川 次 郎兵衛
 下大工  材木町       平 助
        平野町       重 兵 衛
        紺屋町       多   吉
 塗 師  筑後榎津 仲兵衛 多吉、芳兵衛
 手傳人夫 区役
 費 用 壹千七百五拾両

第一回修理
 慶應三丁卯年 (六十八年前)
  余リ長々町廻ニ不自由ナルタメ四尺切除ク
  大工棟梁       森 田 平 助
  脇 棟梁   新 町     利 助
           平野町     與 平
  木  挽             源 兵 衛
                    増 造
  塗  師             伊 助
            須 賀 仲 三 郎
 費 用 四百両

第二回修理
 明治二十三庚寅年九月 (四十五年前)
 大 工        梶 原 政 次
 塗 師        須 賀 仲 三 郎
            小 宮 勝 吉
 費 用 七百五十圓

第三回修理
 塗 師 材木町    中 出 市 兵 衛
      大石町    吉  村  久  雄
 費 用 壹千圓

第四回修理
 昭和七庚申年九月
 大工棟梁  魚屋町  峰  定 治 郎
 副 棟梁  船 宮  長 谷 川 松 造
 塗 師   大石町  田  中  正  一
 費 用 五百圓


   新 町

 名稱 飛 龍
製作年月日 弘化三丙午年九月 (八十九年前)
 製作者 唐津住人  中 里 守 衛 重廣
           仝   重 造 政之
 塗 師 筑後榎津町住人
           中 島 良 吉 春近
           中 島 小兵衛 春幸
           原  利  八 家次
第一回塗替
 元治元甲子年六月 (七十一年前)
 塗 師  筑後榎津町 中鳥小平治 春世
            仝 松 蔵 春高
第二回塗替
 明治二十六癸巳年九月 (四十二年前)
 塗 師 iェ住人  林 傳 平 父子
 費 用 九百圓
第三回塗替
 昭和二丁卯年五月 (費用八五〇圓)
 塗 師  iェ縣人  牛 島 浅 治 郎
            井 上 房 吉
     西唐津   増 本 勇 造
      仝     増 本 嘉 市


   本 町

 名稱 金獅子
製作年月日 不 明

     八十年位故安政年間ナラン
 塗 師      原 口 勘 二 郎
           原 口 謙 治 那

塗 替
 大正九年庚申年十月
            丸 田 a@司
            外  二  名
           費 用 壹千圓


   紺屋町

 名稱 黒獅子
製作年月日 安政五、六年(?)

 破棄
    明治廿年前か(?)
 仔細不詳


   木綿町


 名稱 武田信玄ノ兜
製作年月日 明治二己已年 (六十六年前)

再 製 作 明治八乙亥年 (六十年前)
 製作者  米屋町   近 藤 藤 兵 衛
 塗 師   坊主町   畑 重 兵 衛

塗 替
 昭和四已已年八月
 塗 師 佐賀市水ケ江町
            江  口  鶴  一
        費 用 二千四百圓


   平野町

 名稱 上杉謙信ノ兜
製作年月日 明治二己已年八月 (仝上)
 製作者 唐津藩御繪師 富 野 式 藏
 塗 師        須 賀 伸 三 郎
 費 用 約三百両

第一回塗替
 明治廿四辛卯年九月 (四十四年前)
 塗 師       畑   某
 費 用 三百五十圓
第二回塗替
 昭和三戊辰年六月
 塗 師 米屋町 一色 健太郎
 費 用 千二百五十圓


   米屋町

 名稱 源頼光ノ兜
 製作年月日 明治二己已年九月 (六十六年前)
 製作者 米屋町  吉 村 藤右衛門
          近 藤 藤兵衛
 大 工      高 崎 作右衛門
            仝 作兵衛
            仝 九兵衛
 塗 師      須 賀 仲 三 郎
          宮 崎 利 助
第一回塗替
 明治廿六癸乙年九月(四十二年前)
第二回塗替
 昭和七庚申年十月
 大 工    峰  磯 五 郎
 塗 師    一 色 健 太 郎
 費 用 三千圓


   京町
 名稱 玉取獅子  
製作年月日 明治八乙亥年十月 (六十年前)
 製作者    本 町 富 野 淇 淵
 大工棟梁  平野町 木 村 幸 助
 塗師棟壌  中 町 大 木 卯 兵 衛
 塗 師    刀 町 石 崎 重右衛門
  仝      中 町 大 木 敬 助
第一回塗替
 大正十辛酉年十月
 塗 師 唐津町  金 丸 彌 四 郎
 費 用 四千圓


   江川町

 名稱 蛇寳丸
製作年月日 明治九丙子年一月起工
        十月竣工 (五十九年前)
 成案者  大石町  田 中  市 治
 木 工   江川町  宮 崎  和 助
 塗 師   城 内   須 賀 仲 三 郎
 費 用 二千圓余
塗 替
 昭和三戊辰年六月建工九月二十日竣工
 塗 師  佐賀市水ケ江町
           江 口 鶴 一
 費 用 二千圓


   水主町

 名稱 鯱
製作年月日 明治九丙子年十一月三日
 製作者   本 町   富 野 淇 淵
 鍛冶師   木綿町  正 田 熊 之 進
 大工棟染 平野町  木 村 與 兵 衛
 木挽棟梁 本 町   楠 田 儀 七
 塗師棟梁 久留光  川 崎 峰 治 晴房
 仝    仝今町    田 中 籠 作 兼定
 仝    仝       田 中 恒 吉 一親
 仝    仝       中 垣 圓 治 義綱

昭和四年十一月三十日迄使用現物破損ノタメ新山笠新調
 新山笠名稱 鯱
製作年月日 昭和三成辰年三月六日起工
         仝五庚午年八月三日竣成
 図案師 大石町  武 谷 雪 溪
 土形師 船 宮  中 島 嘉 七 郎
 張 師 水主町  武 谷 關 二 郎
 大工棟梁 仝   岩 村 万 吉
 仝      仝   松 尾 清 治
 仝      仝   白 井 好 治
 塗 師  石川縣輪島町
          笹 谷 宗右衛門
          仝   要太郎
          仝   孝次郎
          仝   義 造
          山 口 増 太 郎
          仝   良  吉
 箔 師 京都市東六條 五 明 治 太 郎
 費 用 六千五百圓